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雪乃「比企谷くんの誘いなのだから….あなたの好きなようにしていいわよ」1/4【俺ガイルss/アニメss】

 

 「よう…」

 

 俺を見るなり雪ノ下雪乃は深いため息をついた。

 「はぁー…… 今日は比企谷くんしか来ないことはわかっていたのに…… 期待してしまった私が馬鹿だったわ……」

 こめかみのあたりに手を当て、まるで痛恨のミスをしでかしたような仕草を見せる。

 

 「うっせー」

 いつも俺の方が由比ヶ浜より先に来てるじゃねーか。

 

 その由比ヶ浜は昼前に体が熱っぽいと言って早退した。

 由比ヶ浜から、何あのヒエログリフもどきがいっぱいの頭の悪そうなメールを受け取ったのだろう。

 

 

 「今日は私たち二人だけのことだし、もうお茶の時間にしましょう」

 

 ガラス製のティーポットに湯を注ぎこむ音が聞こえてくる。

 すっかりと奉仕部の日常となった。

 

 そう、最初はティーカップに、次はマグカップに、最後に紙コップに注がれて…

 

 ジャー  --

 

 突然、陶器のポットに煎れたての紅茶が注がれる音が聞こえてくる。

 予想外の音に驚いて顔を上げると雪ノ下と目が合った。

 

「紙コップが切れてしまったのよ」

 雪ノ下は、そう言いながらポットに保温用のカバーをかぶせた。

 

 

 -昨日のことだ。

 「ひ、比企谷君…… そ、そのゴキブリをどうにかなさい。あなた仲間でしょ……」

 

 ついに俺もゴキブリ扱いされてしまった。

 あまりにも理不尽だ。理不尽すぎる。

 

 すでに帰り支度の終わった俺はそのまま無視して帰ろうとする。

 

 「ヒ、ヒッキーひどい… ゆきのんがちゃんとお願いしているのに無視するつもり」

 雪ノ下と由比ヶ浜は、互いのブレザーの袖をつかみあいながら震えていた。

 

 どこがちゃんとしたお願いだ?

 思いっきり罵倒しているじゃねーか

 

 「ったくー…… 今退治するからおとなしくしていろよ」

 

 

 -格闘すること数分。

 箒ではたかれてすでにこと切れたゴキブリをポットの横に置いてあった紙コップで掬い取り、窓から放り棄てた。

 ああ… そういえば、あの時使ったのは最後の1個だったな。

 

 悪い、何も考えないで使ってしまったから、お前だけでも飲めよと言おうと思っていたら、思いもかけない言葉を耳にした。

 「私一人だけ飲むわけにはいかないじゃないの」

 

 いつから俺にこんな気遣いをするようになったんだ、雪ノ下は。

 それなら、普段もっと俺にかける言葉にももっと気を遣ってくれてもいいんじゃないの?

 

 雪ノ下は、顎のあたりに手を当てて考え込んだのち、こう告げた。

「比企谷君、今からティーカップを買いに行かない?」

 

 

 紅茶を煎れるのが趣味だというだけあって、雪ノ下が出してくれるのはおいしい。

 確かに紙コップで飲むのより、ティーカップで飲んだら雰囲気も違ってさらにおいしいものになることだろう。

 でも、俺は由比ヶ浜とは違って、好き好んでこの部活に入ったわけではない。

 この部屋にマイカップを置くってことは、俺が奉仕部に入れられてしまったことを肯定してしまうことになってしまう。

 

「帰りにコンビニで紙コップ買ってくるから気にするな」

 

「紙コップって持つ時熱いのよ。紅茶を煎れる私の身にもなって」

 

「熱いんだったらコップの上の方を持てばいいだろ」

 

「嫌よ。私が持ったところに比企谷君の唇がつくと思うと… 気持ち悪い。」

 

 ふと雪ノ下の指に目が行ってしまう。

 細くしなやかに伸びる指。

 雪のように白く透き通っている。

 

 でも、こいつの場合かしづかせて手の甲にキスをさせ、服従を誓わさせられそうでなんか怖いな…

 しかも、それが妙に様になっていそうで、俺の理性も吹き飛んでしまうかも…

 

「比企谷君、私の指を見てまた何か変な妄想をしていない? セクハラで訴えるわよ。気持ち悪い。」

 

 手をネコ型ロボットのようにグーにして、胸元に押し当てている。

 

 やがて、その手をグーのまま下ろして再び口を開く。

 

「ところで、その… 紙コップが切れてしまったからだけではないの… あの… あなたにはいろいろと助けてもらったわけだし… そ、その… お礼がしたいのよ…」

 

 

「別にお前に礼を言われるようなことなんて何もしてねーよ」

 

事実、俺は何もしていない。

 雪ノ下に非難されるようなことはしてきても、感謝されることなど何一つしてきてはいないのだ。

 

「でも… それでは私は… 」

 

「気にするな。俺は金欠だ。財布の中に400円しかない。ティーカップなんて高価なものどころか、マグカップだって買えやしない」 

 

 小町め、妹を愛する兄の気持ちに付け込んでおねだりしやがって。

 このシスコン殺しのおねだり上手が。

 おかげで、小遣い日まであと半月もあるのにひもじい思いをしないといけないじゃないか。

 昼飯のあとのMAXコーヒーが飲めないなんて悲しすぎるだろ?

 

 

「比企谷君、あなた馬鹿? 私が礼をしたいと言っているのよ。あなたは私からカップを受け取ればいいだけなのよ。それに、あなたに合った腐ったようなカップを見つけることは容易ではないのよ。」

 

 

なんだこいつは。

 俺はそもそも雪ノ下から礼をされる覚えはない。

 そう言っているのに何逆ギレしているんだ。

 しかも、なんで貶められないといけないの?

 

「そもそも修学旅行のときにあなたが…」

 雪ノ下は、突然語気を強めたかと思うと、手をもじもじとさせて急に黙り込んだ。

 うつむき加減に目をそらしている雪ノ下の顔は、秋の早い夕日に照らし出されたせいか赤い。

 

 修学旅行の三日目の晩に雪ノ下を怒らせてしまったことをふと思い出してしまった。

 あの時の雪ノ下の表情といったら…

 よせよせ、俺は過去を振り返ったりしないんだ。

 ちょっと惨めになるじゃねーか。

 

 

 なおも食いついてくる雪ノ下に根負けした俺は、一緒にティーカップを買いに行くことにした。

 「ちょっと待っててくれ」

 

 急いで自転車を用意して戻ってきた。

 「じゃ行くか」

 雪ノ下に追いつきざまに声をかけるが、そのまま追い抜いてしまった。

 振り返って、

 「おい、早く行かないのか」

 そう声をかけるが、雪ノ下は歩き出そうとしない。

 

 

「その……、一緒にいるのを見られると、ちよっと……」

いつかも聞いたことのあるセリフだ。

こうなったときの雪ノ下は埒が明かない。

 

「お前が誘ったんだろ。それにどこに行くのかも聞いていない。さらにお前が迷子になったらどうやって連絡とるんだよ」

 そう、俺と雪ノ下は互いに携帯の番号はもちろん、メアドの交換をしていない。

 方向音痴も甚だしい雪ノ下が迷子になってしまったら、どうするんだよ。

 

 今頃家で寝ているであろう由比ヶ浜にでも訊くつもりか。

 小町だってお前の連絡先は知らないし…… まさか、平塚先生にでも電話するつもり?

 そんなことにでもなったら、電話とメールの着信がものすごいことになっちゃうよ… それだけはやめてくれない?

 平塚先生、どんだけ俺のこと好きなんだよ… 誰か早く貰ってやってよ……

 

 

「そうね……、誠に遺憾だけど、……一緒に行きましょ」

 

そう言うと雪ノ下は、俺を追い抜いていく。

 毎朝小町にそうしているように雪ノ下を後ろに乗せても良かったが、俺は雪ノ下のあとを自転車を押しながら追っていった。

 

 駅に自転車を置いて京葉線に乗った。

 隣同士に座ったが、特に会話はない。

 互いにぼっち同士、こうしているのがベストの選択だ。

 誰が見てもたまたま隣り合って座った2人しか見えない。

 これなら雪ノ下も誰も気にすることはないだろう。

 

 

 京葉線を下車して歩くこと数分、目指していたと思われる場所に着いた。

 雪ノ下の動きからそのことがわかった。

 いつしか、小町と3人で来たことのある場所だ。

 あの時は、陽乃さんに絡まれるわ、由比ヶ浜に勘違いされるわで散々だったな。

 

 雪ノ下は、迷子の仔猫のようにきょろきょろしながら進む。

 俺は、そのあとに従う。

 あまりにも挙動不審なほどに前後左右を気にするようだったら、そのときはどこへ行きたいのか声をかけてやろうと思っていた。

 

 しかし、それは杞憂に終わり、紅茶専門店の前で雪ノ下は立ち止った。

 

 

 「ここよ」

 さすが紅茶好きの雪ノ下だ。

 よくとまではいかなくても、たまに訪れてはいろいろとチェックしているのだろう。

 さっきの迷い方で、なんとなくそんなことがわかった。

 

 店内に入ると雪ノ下は、物色し始める。

 俺は、適当にその辺のものを眺めている。

 MAXコーヒー命の俺には、見慣れない嗜好品がいろいろとある。

 さすが英国紳士や貴婦人が嗜むだけのことはある。

 

 そう感心していると、ふと雪ノ下が視界から消えていたことに気付いた。

 

 

 「雪ノ…」

 雪ノ下の姿を見つけた俺は一瞬声をかけるが、すぐにやめた。

 

 雪ノ下雪乃は、真剣なまなざしでただ一点だけを見つめていた。

 口許に手を伸ばし、なにやらブツブツと独り言を言っている。

 

 「これにしようかしら……、でもそれだと……、いいえ……、やっぱりこれに……」

 意を決して手を伸ばそうとする。

 

 しかし、急にそわそわし始めて右を向き、左を向いた。

 そして、雪ノ下の美しい横顔に見惚れていた俺と目が合うと何事もなかったようにすっと手を引っ込めた。

 前にもこんなことがあったな……

 

 

 顔をそむけた雪ノ下は、ややしばらくすると、今度はいつものようにジト目を向けてきた。

 それを無視するように近づいていく。

 

「比企谷君、何?」

 

「何かいいものでも見つかったのかと思ってな」

 

 しらっとそんなことを言いながら、さらに雪ノ下に近づいた。

 そして、ほどよい距離感のところで立ち止った。

 

 

「じゃあ俺、それにするわ」

 

「へっ……? 本当にこれでいいの…?」

 

「だってお前が選んだんだろ?」

 

「いえ、私はまだその……」

 

 雪ノ下はまだ何か引っかかることがあるのか、歯切れが悪い。

 俺がお前のために何をしてやったのかは知らないが、俺なんかのために時間を費やすのは、人生の駄使いっていうもんだろ…

 

 雪ノ下が決断できないのであれば、俺が解を示したっていいだろう。

 

「それでいい……、いや、それがいい」

 

 

「そう……、それじゃあ会計を済ませてくるわ」

 

 さっと背を向けてレジに向かっていく雪ノ下。

 彼女がどんな表情をしているかはわからない。

 

 ひょっとして、俺が選んだのって自分用に買おうと思っていた高価なものなの!?

 もしかして怒ってるの?

 

 明日になって法外な金額の請求書を手渡されたりしない?

 いや……、俺知ーらない……

 

 

 先に店を出て、店先の小物を前のめりになって眺めていると、すっと紙袋を持った腕が目の前に延びてきた。

 

「はい、お礼…… 比企谷君受け取って。明日部室に持ってくるのよ……」

 

 雪ノ下の表情を確かめたかったが、気が変わらないうちに早く受け取れと言わんばかりに腕を

さらに突き出す。

 

「ありがとよ」

と一言礼を述べて素直に好意を受け取った。

 

 

 これで用は済んだ。

 もうこれ以上、雪ノ下とここにいる理由はない。

 再び互いに無言で歩き始めようとすると、不意に雪ノ下にそっくりな声に呼び止められた。

 

「あらー雪乃ちゃんじゃないの。それに比企谷君も」

 

「あー、2人してこんな時間にこんな場所で一緒にいて、ねーデートなんでしょ……、このこの……」

 

 いつもの調子で陽乃さんは、肘で俺をつついてくる。

 

「デートじゃないわ」

 

「デートじゃねーって」

 

 

「2人ともやっぱり息ぴったりじゃない」

 

 

「姉さん、何度言ったらわかるの? なんでこんなのとデートしなければならないの?」

 

 雪ノ下の発言には、全くもって同感なのだが、どうしていつもこういう扱いを受けなきゃならないの?

 八幡そろそろ心が折れてしまいそう。

 

「もうこんな時間だし、そろそろ帰りたいのだから、用がないならさっさと行って」

 

「雪乃ちゃんのいじわる。どうして、お姉ちゃんにそんなことばかり言うの。でも、今日は用事かあるから

もう行くわね。比企谷君も雪乃ちゃんを泣かせたら、お姉ちゃん許さないわよ……」

 

 陽乃さんは本当に急いでいたようである。

 おかけで、俺が手にしている紙袋については、まったく触れられることはなかった。

 

 

 台風一過である。

 再度沈黙の時間が始まる。

 俺と雪ノ下は、陽乃さんの瞬間最大風速的な登場について特にコメントすることなく、再び歩き出そうとする。

 

「くしゅん!」

 

 その時、雪ノ下が普段のイメージとは似つかわしくないほどのかわいいくしゃみをした。

 もう冬の始まりだ。

 

 季節の変わり目は風邪をひきやすい。

由比ヶ浜は風邪を引かない」ってことわざがあるくらいの奴が早退するくらいだ。

 いくら氷の女王とはいえ、急激な温度変化には弱いのだろう。

 

 気づけば、俺も肌寒く感じていた。

 いつもはとっくにもう家に帰って小町の手料理を食べ終えている頃だ。

 

 こんな時間に出歩くことを前提にしていない俺も雪ノ下も初冬の晩にしてみれば薄着であった。

 

 

「雪ノ下、寒いのか?」

 

「いいえ、大丈夫よ」

 

「風邪を引いても困るし、なんか温かいものでも飲んでいかないか?」

 

「あなたさっき400円しか持っていないって言っていたでしょう。私にティーカップ買わせた上におごら

せようとするとは、さすがヒモになりたいって言うだけのことはあるわね」

 

「うっせー、ヒモじゃない! 専業主夫だっつーの。今ATMで金下ろしてくるから、そこで待ってろよ!

とにかくそこから動くなよ」

 

 

 全力疾走でATMまで行って金を下ろす。

 いざというときのためにお年玉の残りを貯金していたが、思わぬところで使うことになった。

 

 こりゃ、ますます小遣い日が待ち遠しいな……

 いざとなったら小町から金を借りるか……

 俺ってここまで情けない奴だったとはな…

 

 再び全力疾走で雪ノ下の元へと戻る。

 息が絶え絶えしてゼーゼーいってている。

 

「あなたって人は……」

 

 雪ノ下は呆れたように声をかけるが、その表情は息切れも収まりそうになるくらい明るいもの

であった。

 

 

「ところで、この辺に喫茶店はないか?」

 

「そんなことも知らないでお茶に誘ったわけ?」

 

 雪ノ下は、フゥーとため息をついた。

 

リア充じゃあるまいし、こんなところ一人で来るかよ。ぼっち舐めんなよ」

 

「……。それって、そんな胸を張って言うことかしら……」

 

 こめかみの辺りに手をやり、まるで痛々しいものを見つめるような視線を送ってくる。

 

 悲しくなってしまうから、そんな目で見るのはやめて…

 

「まぁいいわ……、それならここで飲んでいきましょ」

 

 

 この店には喫茶コーナーも併設されている。

 俺と雪ノ下は適当に目についた席に着いた。

 

 メニュー表を見ても俺には紅茶はさっぱりわからない。

 ただひとつわかることは、ここにはMAXコーヒーは置いていないということだけだ。

 

「お前のおすすめは何だ?」

 

「そうね、シャンパーニュロゼ辺りは好きだわ。若い女性に人気があるのよ。あなたには全く無縁でしょうけど」

 

 相変わらず俺に容赦のない言葉を浴びせる雪ノ下。

 でも、的確過ぎて何も反論できねぇ。

 

「じゃあ、それにするわ。シャンパーニュロゼを2つ…」

 

 いつも部室で飲む紅茶とは一味違った大人の上品さ。

 若い女性に人気があるというだけあって、香りも味も心なしか心地が良い。

 雪ノ下が煎れてくれる紅茶もなかなか良いが、これはこれで違う良さを感じる。

 

 

 紅茶で温まると再び京葉線に乗った。

 行きとは違い、家路に向かうスーツ姿の男女で混み合っている。

 

 隣り合った吊り革を並んでつかまっているが、もちろん俺たちの間に会話はない。

 そう、これが俺と雪ノ下雪乃の距離感の取り方だ。

 ぼっち同士互いに必要最低限以上にはかかわらない。

 由比ヶ浜のように俺のパーソナルスペースを肉体的にも精神的にも侵してこない雪ノ下と過ごすのは心地がいい。

 

 そんなことを考えているうちに、雪ノ下が降りる駅に着いた。

 普段は俺もここで降りるのだが、これから自転車を取りにもう2駅乗らなければならない。

 

 

「じゃあ」

 とだけ述べて雪ノ下は吊り革を離す。

 

「じゃあな」

と俺も一言返答する。

 

 そんな感じでいつものように別れるのだ。

 日々変わらぬ会話、変わらぬ関係―

 

 しかし、雪ノ下雪乃は予想外にも振り返ると満面の笑みでこう語りかけるのであった。

 

「比企谷君、今日はとても楽しかったわ。ありがとう」

 

 不意を突かれてしまった俺は、すっとんきょうな声で

「ああ…」

と返すのがやっとだった。

 

 

 それを見てくすっと笑う雪ノ下。

 さらに何か話そうと口を開きかけようとする。

 

 しかし、その瞬間ドアが開き、家路に急ぐ人波に押されてしまう。

 雪ノ下はドアの外で背を向けて立ち尽くしている。

 あまりにも突然のことで驚いてしまったのだろう…

 

 こんなにも動揺する雪ノ下が珍しくて、思わず俺もくすっと笑ってしまう。

 

 そんな雪ノ下の背中を見送るように電車は動き出す。

 慌てて振り返った雪ノ下はの右手は胸の近くで中途半端に上げられている。

 そして、これまた中途半端に開かれた掌をかすかに振りながら、なにやら口を動かしていた。

 

「また明日な」

 

雪ノ下には当然聞こえてはいないが、俺も声に出して応えた。

 

 

「よう」

 

「こんにちは、比企谷君」

 

席に着くと、鞄から小さな包みを取り出し包装紙をはがす。

 

 

「あら、ちゃんと持ってきたのね。比企谷君にしては良い心がけじゃない」

 

 俺だって一応学習能力はあるさ。

 伊達に総武高に入学してないぞ。

 

「また紙コップがないからって、入れたての紅茶をすぐにポットに移し替えられてしまっては、いくら俺でも心苦しいからな」

 

「そうね……、私もせっかく入れたお茶を捨てるような真似はしたくはないもの」

 

 罵倒されるのかと思っていたら、雪ノ下はくすっと笑いながらそう応えた。

 

 雪ノ下のティーカップの横に自分のカップを並べると、読書を始める。

 夏に比べるとすっかりおとなしくなった陽光が心地よい。

 

 

「やっはろー」

 

 静寂を破るように部室に入ってきたのは、総武高という単語が最も似合わない由比ヶ浜結衣だ。

 

「こんにちは、由比ヶ浜さん」

 

「おう、由比ヶ浜

 

 

「みんな揃ったことだしお茶にしましょう」

 

「やったあ、おやつの時間だぁ」

 

 

 いつものように、ガラス製のティーポットに湯を注ぎこむ音が聞こえてくる。

 そして、いつものように3つのカップに注がれて、残りは陶製のポットの中へ注ぎ込む。

 それから、いつものように保温カバーをかぶせて、紅茶が供される。

 

 幾度となく繰り返されてきたいつもの奉仕部の日常だ。

 

 しかし、今日はいつもと違うことがある。

 由比ヶ浜のマグカップが置かれた後、俺の前に真新しいティーカップが置かれる。

 

 

「小町がせっかくお兄ちゃんのために温かい料理を用意して待っていたのに、黙って寄り道するんなんて。

今のって小町的に……、えっ……。……ところで、その紙袋の中に入っている包みって何……? もしかしてお兄ちゃんにプレゼント? えっ、結衣さん? もしかして、雪乃さん? ……」

 

 昨晩帰宅した時、小町から厳しい尋問を受けて追及をかわすのにひと苦労した代物だ。

 

 

「ヒッキーもやっとカップを持ってきたんだ…」

 

 雪ノ下が煎れてくれた紅茶をすすろうと口元に運ぼうとすると…

 

「あー、そのカップ…」

 

 

 途端に檻の中で落ち着かなくなった動物園の猛獣のようにキョロキョロ首を動かし始める。

 

 そして、由比ヶ浜は雪ノ下のカップに目をやると突然静止してしまった。

 

 

 由比ヶ浜の視線を追った俺も一瞬目を疑った…

 

 

「なんで、ヒッキーとゆきのんがおそろいのカップを使ってるの!?」

 

 

 由比ヶ浜はジト目で俺をにらむ。

 

「ねー、何でヒッキー!」

 

 黙ってすすっていると、今度は雪ノ下へと体ごと向き直る。

 

「ねー、何でゆきのん!」

 

 雪ノ下は、まるで他人事のようにまっすぐ前を見つめて紅茶をすする。

 

 

「ねー、なんで、なんで」

 

 

 いよいよ落ち着かなくなって、ますます左右に体を揺さぶり始めた由比ヶ浜

 

 

 俺をにらみつける由比ヶ浜のその先に視線を向ける。

 それに気づいた雪ノ下がそっとこっちを向く。

 

 

 そして、ゆっくりと片目をつむった雪ノ下雪乃は、これまで見せたことのない満面の笑みをたたえながら小首を傾げてこっちを見つめてくる。

 

 恥ずかしさのあまり、思わず目をそむけたくなるほどの眩い視線。

 

 でも、もうここできょどる俺ではない。

 

 

 胸に湧き上がる想いをすべて目に集めて俺も負けじと見つめ返す。

 目をそらすんじゃねーぞ、雪ノ下さんよ…

 

 

「ねーねー、ヒッキー聞いてんの!?」

 

 かしましい由比ヶ浜の声は、耳から耳へと抜けていく。

 そんなことには、構っていられない。

 

 

 

 雪ノ下雪乃は一瞬困惑の表情を浮かべるが、すぐにありったけの笑みでウインクを送り返してきた。

 

 

 何それ、反則的なまでに眩しすぎるその笑顔…

 思わずきょどっちゃってしまいそう…

 

 

 俺と雪ノ下の大切な確認作業を終えると、再び互いの視線は離れた。

 

 

 

「ねーヒッキー、ちゃんと答えてよ!」

 

「なんだ、由比ヶ浜。茶ぐらい静かに飲ませろよ…」

 

 

 -こんな俺にだってラブコメの神様はちゃんといるんだな。

 

 雪ノ下にこんなことを話したら、あいつなんて顔をするんだろうか……

 

 

 

  12月。世間一般でいう師走の慌ただしさとは全く無縁の奉仕部。

 

 どこの誰が東やら西やらを向いて走り回っていようが、そんなことはぼっちには関係ない。

 そのぼっち代表である俺と雪ノ下雪乃は、いつものように文庫本を読み耽っている。

 

 それにぼっちというよりピッチがもう一人……。

 おそらく夏休みの宿題に出された読書感想文を書くとき以外に本を読んだことのないであろう由比ヶ浜結衣

 由比ヶ浜は他愛のないことを雪ノ下に話しかけ、そのたびにニコニコしたりしょぼんとしたり明滅している照明のごとくその表情が交互に変わる。

 

 そして、取り付く島がなくなると、雪ノ下に抱き付いたりしがみついたりする。

 それでも、なおもどうしようもなくなってしまうと俺に助けを求めてくる…

 

 いつもと変わらぬ奉仕部の日常だ。

 

 

「ヒッキー、ゆきのんに何か言ってやってよー」

 

「お前が言って駄目なら俺なんてなおさらだろ……、なに俺を昇天させたいの?」

 

「あら、比企谷くん、……あなた自殺願望があるの? 昇天したいだなんて……。 確かに、あなたのように無為に人生を送ってきたために『未来』という言葉が『絶望』という言葉に置き換わるような存在であれば仕方がないのだけれど……」

 

 なにそれ、お前の座右の銘ってもしかして「常在戦場」なの?

 きっとバレーでサーブが自分の方に飛んできたら、パブロフ先生もびっくりの条件反射でレシーブなしの即スパイクとか決めちゃうんでしょ?

 

「ゆ、ゆきのん……」

 

「お前の耳は腐ってんのか?」

 

「えっ、あなたは自分の目だけではなく耳までも腐ってしまったことを認めてしまったのね?」

 雪ノ下は、こめかみに手を当てて憐れむ目で俺を見つめる。

 

 なんでそうなるんだよ……。

 これ以上、雪ノ下と話していたら本当に俺の未来が真っ黒く塗りつぶされてしまいそうな気がしたので、会話を打ち切る。

 これまでの人生はほとんどが黒歴史なのに、この先未来永劫真っ暗闇が続くだなんてマジ勘弁。

 

 

 フー……

 

 ため息を吐きつつ、天敵である雪ノ下が煎れた紅茶に手を伸ばす。

 

 ……。

 

 天敵だなんて言っておきながら、一口飲んだだけで自然と笑みが漏れてしまった。

 もしかしたら俺はマゾ体質なのかと思ってしまい、自己嫌悪に陥ってしまう……

 

 でも……

 -やっばり、こいつの煎れてくれる紅茶ってどういうわけか無性にうまいんだよな……

 

 ……否、うまいと言ったらMAXコーヒーでしょ? いかんいかん、MAXコーヒー最高、超最高!

 

 そんなことを考えながら、再び元の場所へと手を伸ばす。

 

 

 カチャ……

 

 我に返って音の発生源に目をやると、ソーサーに乗ったカップが一つ。

 雪ノ下から貰ったお揃いのティーカップだ。

 

 そういえば、あんなにしつこくこのティーカップのことを気にしていた由比ヶ浜が近頃何も話題にしなくなったな…

 

 

「ゆ、ゆきのん……、そのー……、ヒッキーと付き合っているの?」

 

「……由比ヶ浜さん。……私を愚弄しているの? いくら私でも怒ることはあるのよ……」

 この時の雪ノ下の放っていた殺気の末恐ろしいこと。

 あまりにもの本気度でかなり凹んじゃったんだけど。

 

 いや……、確かに俺と雪ノ下は付き合っていないから間違ってはいないんだけど……。

 

 -でも、あの時俺だけに向けられていた目は一体全体なんだったの……?

 

 

 再び、この空間に意識が戻される。

 ドアが開く音につられて目をやると平塚先生がそこにいた。

 

 「平塚先生、ノックを……」

 

 「いや、悪い……」

 

 雪ノ下の言葉を最後まで聞かずに平塚先生はそう答えた。

 そして、さらに言葉を続けながらこっちへと向かってくる。

 

 「比企谷、ちょっと来たまえ」

 

 

 はぁー……。

 

 職員室から奉仕部の部室までの道すがら、いったい何度ため息を吐いたのだろう……。

 

 ほころびなんてものは何一つなかった。

 形式に則ってただその通りにしただけだった。

 俺は雪ノ下はもちろんのこと由比ヶ浜にも小町や両親にだってこのことは話していない。

 

 平塚先生が抱いたちょっとした違和感……。

 そこからすべてを看破され、俺の心の奥底まで覗かれてしまった。

 

 平塚先生は、こんな俺に対しても気をかけてくれる優しい先生だ。

 そんな平塚先生だからこそ、すぐにすべてを理解してしまったのだろう……。

 

 

 でも怖いよ、平塚先生怖いよ。

 俺ってどれだけ愛されちゃっているの?

 このままだったら、平塚静トゥルーエンドに向かっていっちゃいそうだよ……。

 

 ……そりゃ昔の俺にも「女教師」という単語に反応した時期はあったよ。

 美人の女教師に養ってもらって、それから夜はムフフ……なんてことを考えたりもしたけどさ……。

 

 あれっ……、平塚先生で想像しちゃったよ。

 

 ……いかん、いかん、これは遺憾だ。

 

 誰か早く先生貰ってやってよ! じゃないと俺が貰われてしまいそうだよ!

 

 

「よう……」

 

「ずいぶん長かったわね」

 

「ヒッキー、さえない顔しているよ」

 

由比ヶ浜さん、この男がさえていたことなんて一度たりともあったかしら? どうせまた、作文か

レポートにくだらないことを書いて説教されていたのでしょう」

 

 その額に手を当てるのいい加減にやめてくれない?

 

「えーと……、最近作文だとかレポートなんて書いたことないよ。……まさか、ヒッキーとうとうトイレの壁とかに落書きしちゃったの?」

 

「なんだよそれ、どこの15歳だよ……。バイクを盗んで夜の街を走り回ったり、それとか校舎に忍び込んで窓ガラスを割りまくったりしないといけないわけ?」

 

 それに僕はもう17歳ですよ。

 由比ヶ浜さんのおつむはまだまだ15歳にも満たないかもしれませんけど。

 

「なんか今ヒッキー私のこと馬鹿にしたでしょ?」

 

 えっ、由比ヶ浜さん何でわかるの?

 もしかして、あなたエスパー?

 

 

 ブーブーと怒る由比ヶ浜を尻目に席に着く。

 

 そういえば紅茶飲みかけだったな。そんなことをふと思い出す。

 気分転換に飲もうと手を伸ばす。その刹那俺のティーカップは雪ノ下に持ち去られてしまった。

 

 えっ、これって会社でよくあるいじめ?

 一人だけお茶が出されなかったり、「明日から君の席はないよ」とかいうやつ?

 会社ヤベェ、マジヤベェ……、絶対働いてなるものかと思っていると、目の前に再びティーカップが戻ってきた。

 

 全くの予想外のことに驚いてしまった。

 

 カップを離したその手の先を見上げると雪ノ下と目が合った。

 

 

「さ、サンキュー…」

 

「べ、別にあなたのために紅茶を煎れたわけではないのよ。そ、その、下校時間が近く

なってきて、早く飲み切らないといけないからそうしただけよ。せっかくの紅茶を飲み

切らないで捨ててしまったらもったいないでしょ。あなたそれくらいのことわからない

の? だから、あなたは社会不適応者と言われるのよ」

 

 俺と目をそらすと、一気にまくしたてて俺のことを罵倒した。

 よくもまぁこんなにも次から次へと罵詈雑言が出てくるものだなと呆れていると、息

切れでも起こしたのか顔が真っ赤になっていた。

 

 それともう一つ、「下校時間」じゃなくて正しくは「下校時刻」だぞ、雪ノ下さん……。

 

 

 至福のティータイムを再開しようと思っていたら、再び平塚先生がやってきた。

 

「君たち、もうそろそろ下校の時間だぞ」

 

 このあと、雪ノ下からは「一滴でも残したら死んでもらうわよ」と凄まれ、一気に

紅茶を飲み干すはめになった。

 この部室にいる限り俺の心に平和は訪れない。

 

 このあと、帰り支度の済んだ2人のプレッシャーを感じながら、ティーカップを洗い

に行った。

 大急ぎで戻ってきて素早くカップを拭く。

 さすが俺、専業主婦を目指すだけあって手際が良い。

 

 しかし、小6レベルならトップクラスの家事能力という奢りが俺の心の隙を生んだの

だろうか?

 雪ノ下のカップの隣に並べて置こうとした時、「カツーン……」と澄んだ音が部室の

中に響き渡った。

 

 なんていうか、余韻が半端ないよ?

 こんな「もののあはれ」だとか「侘び・寂び」なんかいらないんだけど。

 

 このときなぜか、背後にいるはずの雪ノ下の怨念の籠った視線や心の声、凄まじい殺気……といったものを感じてしまった。

 

 

「よう」

 

「こんにちは、比企谷くん」

 

由比ヶ浜は今日……」

 

「三浦さんとカラオケに行くってメールが来たわ」

 

 俺の言葉を遮るように雪ノ下は言った。

 

 

「おい、俺にしゃべらせない気か?」

 

 

「だって比企谷くんの声を聞くと私の目まで死んだ魚のようになってしまいそうだもの」

 

 そうやって、手で目を覆い隠すのはやめてくれない?

 比企谷菌はバリアなんて効かないんだから。

 あれっ……、なんで俺自分でそういうこと考えちゃうの? 悲しくなってきたよ……

 

 

「今日は2人だけだし、早いけどお茶の時間にするわ」

 

 そう言って、パッと手を離す雪ノ下。

 比企谷菌の脅威を本気で信じていたのか、よほど強く目を押さえていたらしい。

 目隠しがなくなったものの、左目はつぶったままだ。

 

 お前、いくらなんでも押さえ過ぎだろ……なんて思っていると、左目を開けずにそのままスマイル。

 

「お、おう……」

 

 あまりにも気恥ずかしくて思わず目をそらしてしまった。

 

 「くすっ」

 

 今なんか幻聴を聞いてしまった。

 俺は受験を意識して、最近難しすぎる問題集に手を付け始めた。

 あまりにもの難しさからストレスを感じている。

 

 きっとその疲れのせいだろう。

 

 

 いよいよもって俺は病院に行かないといけないようだ。

 

 雪ノ下が紅茶を用意する音に混じって時折鼻歌が聞こえてくる。

 しかも、とびきり楽しげな感じのする鼻歌だ。

 

 「比企谷くんどうぞ」

 

 いつもは無言で差し出す雪ノ下がにこっとしながら差し出す。

 どうやらおかしいのは俺の方ではなくこいつの方だ。

 

 もしかして、この紅茶に毒でも盛られている?

 

 「さ、サンキュー」

 

 やっぱり俺もおかしいようだ。

 いつもは無言で受け取るのにどうしちゃったの俺?

 

 何か緊張してきたよ……。

 

 なぜか上機嫌な雪ノ下の動作をついつい目で追ってしまう。

 そんなことにお構いなしの雪ノ下はトレイをポットの隣に戻して、自分の席に戻る。

 しばらくティーカップをじっと見つめると微かに笑みをたたえた。

 

 そして、俺の視線に気づいたのか急にいつものすました表情に戻ると俺とお揃いのカップを持ち上げた。

 

 

 その瞬間、

 

「ピシッ……」

 

 華やいだ空気に包まれた部室に乾いた音がにわかにこだました……。

 

 

 これが号砲だと言わんばかりに、俺はさっと前に向き直る。

 我ながら素早い反応だ。

 これだと100mで世界新を狙えるかもしれない。

 こんなバカな思考でいつまでも気を紛らわすことができるわけもなく、現実の恐怖と向き合わなければならない。

 

 や、ヤバい……。

 

 もしかして、これって昨日の……。

 落ち着け八幡、落ち着くんだ八幡……。

 

 紅茶を飲んで落ち着くんだ……。

 

 

 そう自分に言い聞かせて、震える手でティーカップを口元に運んだ。

 猫舌の俺にはちょっと熱すぎるが、上品な香りのする液体が口の中に流れ込んで……。

 

「!」

 

 この風味ってまさか……。

 

 

 しかし、悲劇は修羅場へと一気に加速する。

 

 「ピシピシッ……」

 

 どうしよう、俺のカップまでも……。

 しかも、さっきよりもはっきりと響き渡ってしまったよ。

 

 今すぐこの場から逃げ出そうと避難行動に移ろうとした瞬間、絶対零度の冷気に襲われた。

 

「ひ、比企谷くん」

 

「ふぁ、ふぁ~い」

 や、ヤベェ、こ、声がうまく出せない……

 

「い、いったいこれって……、どういうことかしら!?」

 

 冷たいオーラを放った氷の女王が迫ってきた。

 

 -俺のLPはこの瞬間ついに0になった。

 

 

 思い出すだけでおぞましい氷河期と間違えてしまいそうな罵詈雑言のブリザードがようやく去った。

 絶対零度の寒気にすっかり身も心も凍てついてしまった。

 間違いなく人生最大のトラウマになりそうだ。

 

 

 雪ノ下のスキル「瞬間冷凍」が発動され、このまま永眠までいざなわれてしまうかと思ったが、俺の機転の利かした言葉でその効果は解除された。

 

「せ、せっかく今日は……、あ、あの時の紅茶を煎れてくれたのに……」

 

 そう、今日雪ノ下が煎れてくれた紅茶は、俺のティーカップ -それも雪ノ下とお揃いのものを

買いに行った時に2人で飲んだシャンパーニュロゼだった。

 

「比企谷くん、ちゃんとこの味覚えていたのね……」

 

 にこっとした顔を見せるが、目は笑っていない……。

 

 

「……この味忘れていたら……」

 

 わ、忘れていたら……、ゴクリ。

 

 

「……比企谷くん、あなた死んでいたわよ」

 

 そ、その顔、シャレになってないから!

 

 この紅茶の持つ特別な意味を理解したうえで味をどうにか覚えていたおかげで、俺はどうにか雪ノ下に殺されずに済んだのだ。

 

 

 しかし、余熱でときどきパリッと音がする。

 

 そのたびに雪ノ下の目に射すくめられる。

 早く有効な手立てを打たなければ、雪ノ下の前に伏せられているトラップカードを発動させることになり、今度こそ確実に息の根を止められてしまいかねない。

 

 それに、いつまでも雪ノ下に黙っているわけにはいかないことがあった。

 自分でどうにかするわけにもいかないので、このことは自分の口からしっかりと伝えなければならないだろう。

 

 こうなると導き出される結論はただ一つだ。

 

 

「なぁ雪ノ下、悪いけど今からティーカップ買いに行くの、……付き合ってくれないか」

 

 あまりにもの緊張のあまり一瞬言葉に詰まってしまった。

 心臓の鼓動がドキドキなんてものではない。

 もうバクバクと動悸していたといった方が正しいだろう。

 

 特に「付き合ってくれないか」のところが……、下手したら瞬殺されちゃいそうだし。

 

 いや、自己欺瞞だ。

 雪ノ下にあのことを話すのが怖くなってきた……。

 

 

「いいわよ。断る理由何ないし」

 

 いとも簡単に笑顔でにっこり返されてしまった。

 

 極度の緊張状態から予想外な解放のされ方をしたためか、膝がカクっとして安堵のため息が出た。

 ……しまった! 雪ノ下に今のを見られてしまった。

 

 

「……比企谷くん、今のリアクションは何かしら。私のことを一体全体何だと思っているのかしら」

 

 再度雪ノ下の鋭い眼光の餌食になった俺は、LPがまた0になってしまった……。昇天。

 

 

 京葉線の各駅停車に乗って4駅先に向かう。

 隣同士に座ったが、やはりぼっちの習性上会話はない。

 

 でも、決して息苦しいわけではない。

 むしろ互いに心地よい距離感を保っているのである。

 

 そう、俺と雪ノ下雪乃はこれでいい。

 でも、これからは……。

 

 そんなことを考えていると、ブルッとポケットの中で携帯が震えた。

 平塚先生からメールだ。

 

 雪ノ下の目を気にしながらメールを開く。

 相変わらずの長文だ。

 思わずゲッ……と声が漏れてしまう。

 

 

「小町さんからメール?」

 

 いつもは俺のことなんかそこら石のように無視するのに今日はやけに食いついてくる。

 

「いや違う」

 

 そうだったらどんなにありがたかったことか。

 

 いや、小町からだなんて贅沢はこの際言わない。

 材木座からでも良かった。

 

 なんでこんな時空気読んでくれないんだ、材木座……。

 

 あまり思い出したくない奴だが、こんなときに頼りにしてしまう自分が心底情けない。

 

 ……あっ、そういえば、あいつからの鬱陶しいメールを受け取りたくないばかりにメアド変えたんだったけ……

 

 そうだ、あいつが俺にメールを送るとメーラーダエモンさんとかいう外国人が俺に変わってレスしてくれるようになっていたんだ。

 

 なんてことしてしまったんだ、俺。

 

 

「……誰?」

 

 誰とおっしゃいましても、ねぇ……。

 ところで、ちょっと目つき悪くなっていませんか?

 

「……誰?」

 

 なおも追及が続く。

 浮気の証拠を見つけたときの妻ってこんな感じなんでしょうか?

 

 そういえば小町が嫁度チェックをした時にこいつは、「追い詰める」って答えていたよな。

 そのあと、「問い詰める」とも言っていた。

 

 まさか、これ?

 

 僕怖いよ。

 

 ところで小町、嫁度ってなに?

 間違いなく、雪ノ下は鬼嫁だよ……。

 

 

 雪ノ下の視線がいつまでも絡み続けているので、とうとう観念して答えた。

 

「平塚先生だよ」

 

「そう…」

 大して関心がなかったのか、前を向き直す。

 

 ホッと胸をなでおろしたのも束の間、隣で顎に手をやり考え始める。

 そして、一体どういう結論が導き出されたのか急に険しい表情に変わる。

 

「比企谷くん、そういえばいつだったか平塚先生とメールを交わしているような口ぶりで話していたわね……」

 

 顔は笑っていても目が怒っているんだけど…

 

「……どんなやり取りをしているのか見せてもらえないかしら?」

 

 

 こ、怖ぇよ超怖ぇよ、雪ノ下さん。

 少しずつ視線をそらすと顔ごと動かして俺の目をじとっと睨んでくる。

 

 

「いや、ちょっとデリケートな問題がありまして……」

 

 言葉を続けようとしたが、ぴしゃりと打ち切られた。

 

 

「私にとってもデリケートな問題であるのだけど……」

  

 平塚先生、なんでこんなタイミングにこんなメール送ってくるんだよ。

 もしかして俺貰われてしまうの?

 

 

「比企谷くん……、あなた私に……、一体何を隠しているの!?」

 

 雪ノ下がそう言い終えたところで降車駅に着いた。

 

 

 俺と雪ノ下雪乃は2人並んで次の駅のホームにあるベンチに座っている。

 京葉線の中でも特に利用客の少ないこの駅。

 まだ夕ラッシュの時間帯を迎えていないせいか、ホーム上にはまばらにしか人がいない。

 

 なんでこんなところにいるのかって?

 

 

 前の駅に着いた時、俺が立ち上がっても雪ノ下はただうなだれているだけで反応しなかった。

 せっかく2人で新しいカップを買いに来たのだ。

 このまま置き去りにしていったら本末転倒だ。

 

 お前の知りたいことを全て話すから次の駅で一緒に降りてくれと説得してここに至ったわけだ。

 

 

 しかし、俺も雪ノ下も会話のきっかけがつかめないまま空虚な視線を足元に送って、ただ無言で座っている。

 俺が隠し事をしていると確信に至った時の雪ノ下の表情は、修学旅行で海老名さんに嘘の告白をした時に俺に向けられたものと同じだった。

 

 あの時、足早に立ち去っていった雪ノ下を追いかけることが俺にはどうしてもできなかった。

 でも、それ以上に雪ノ下の背中を見ているのはもっと辛かった。

 

 もう2度とあんな雪ノ下の表情なんか見たくないし、繰り返したくはないと思っていた。

 それなのに……。

 

 

 快速電車が勢いよく通り過ぎる。

 凄まじい風圧と一緒に感触の違うものが頬に当たってくる。

 水滴……いや、雪ノ下の涙だった。

 

 最後の一両が眼前を通り過ぎたとき、西日に照らされてきらりと滴が光った。

 そして、俺の頬に当たって弾けた。

 

 ホームの上には再び静寂が訪れた。

 

 雪ノ下と話をするのは今しかない。

 なぜかわからないが、そんな気がして口を開いた。

 

 

「雪ノ下……」

 

 長く感じられるほどの間をあけて雪ノ下は答えた。

「何?」

 

「さっき、あとで全部話すって言ったよな……」

 

「ええ……」

 

 雪ノ下に届くはずの夕陽は俺の体が遮っているので、表情はわからない。

 

 

「あれな……、決してお前を失望させるものではないから……」

 

「そう……」

 

 足元をおぼろげに見ている雪ノ下の表情はやはりわからない。

 

 

 地平に向かって赤々さを増していく冬の太陽へと顔を向けた。

 太陽の放射熱を浴びて俺の顔は紅潮した。

 

「でも……、お前に呆れられるかも知れない……」

 

 力なくだらんと垂れ下がっていた雪ノ下の掌が急にギュッと固まった。

 そして、俺の方に向かって体を斜めに向けた。

 その気配に慌てて俺も雪ノ下の方に体傾けると、夕日に照らし出された雪ノ下の顔が眩しく見えた。

 

「それって、信じていいのかしら?」

 

「もちろんだ!」

 

 雪ノ下がこのあと、くすっと微笑んだ時の赤味を帯びたあの美しい笑顔は決して忘れることはないだろう……

 

 

「そろそろいったん改札を出て乗り換えようか」

 

 そう言って立ち上がろうとすると、雪ノ下がこう言った。

 

「以前、小町さんが『信じる』って言ったことがあるわよね……」

 

「ああ……」

 

「あの時はまだ中学生なのにってただただ小町さんに感心したのだけれど、今はそんな気持ちにさせてくれる言葉を教えてくれた小町さんに心から感謝しているわ」

 

 まっすぐな目をしてこう言ったあと、今度はいたずらっぽい表情で俺の方を見ながらこう続けた。

「小町さんがあんなにもしっかりとした子に育ったのは、あまり認めたくはないのだけれども、あなたのおかげでもあるわね」

 

 小町のお兄ちゃんとしてはちょっと微妙だけど、俺の屑っぷりも賞賛されてしまったよ。

 

 でもあれだな……、雪ノ下と小町だと末永くうまくやっていってくれる気がする……っておい、俺何考えているんだよ。

 

 ひとりで妄想を膨らませてしまって、勝手に赤面してしまった。

 

 

 再び京葉線に乗って駅そばの巨大商業施設の中にある紅茶専門店を訪れた。

 目が合った店員に「あら……」という表情をされた。

 確かに、制服を着た高校生が2人で何度もやってくるような店ではない。

 

 それに何度か訪ねているうちに顔を覚えられているであろう雪ノ下もいつもは一人で来ているはずだ。

 

 店内に入ると、雪ノ下は俺から幽体離脱をした魂のごとくスッと離れていく。

 悲しいかなぼっちの習性だ。

 

 

 俺はすかさず雪ノ下の横に並び、一緒にティーカップをのぞき込む。

 

「ひ、比企谷くん……」

 顔を赤らめ、一歩後ずさりしながら弱々しい声でこう言った。

 

「せっかく2人で見に来ているだろ……」

 お前何やってんの? という感じに軽く溜息を吐いてみせる。

 

 俺に馬鹿にされることは雪ノ下にとっはて最大の屈辱のはずだ。

 

 しかし、雪ノ下はなにをそんなに焦っているのだろう。

 

「だ、だって……、……恥ずかしいでしょ」

 

 声が小さすぎて、何言ってんのか聞こえないよ。

 

 

 フッと思わず自嘲した笑いが漏れてしまう。

 

「なに笑ってんの!?」

 これ以上笑ったら殺すわよという凄みのある顔で睨んでくる。

 

 

「違うって……。さっきまでの俺がくだらなく思えただけだ」

 

 自分のくだらない手順とやらにとらわれて、雪ノ下を失おうとしていたのだ。

 その愚かさに今更ながら気づいたのだ。

 

 

 俺が雪ノ下の横に立つたびに、一緒にカップをのぞき込むたびに、わさわざ横に一歩後ずさる

雪ノ下に苦笑しながら俺たちはおそろいのティーカップを選んだ。

 

 俺が珍しく真剣になって眺めていたカップを雪ノ下が気に入ったのでこれに決定した。

 

「腐った目をしているのにこういうものを見つけ出すことができるのね」

 

 きょとんとした仕草をしながらこう言った雪ノ下。

 

 なにそのしぐさ……

 可愛すぎるだろ!

 

 俺が店員を呼びに行っている間に、店内を一人回っている雪ノ下。

 会計を済まそうとレジの前に立っていると、ひょこっとやってきた。

 

 

 店員がカウンターの奥からティーカップの箱を持ってくる。

 それを見て、雪ノ下の表情が一瞬こわばった。

 

「ああ、これか……。これはな- 」

 

 俺の説明に耳を傾けて納得した雪ノ下。

 そして、その表情が柔和さを取り戻した。

 

 

 会計を済ませ、店を出た俺たち。

 さて、いよいよ本丸だな。

 

 雪ノ下を促して俺が先に歩きだした。

 慌ててひょっこり俺の横に並んで歩く雪ノ下。

 そんなに慌てなくてもいいよ。

 

 俺がお前のこと離すわけないだろ……。

 

 

 吹き抜けになっている広場に向かって歩く。

 ここからエスカレーターに乗って上の階に行くと俺の目指す場所がある。

 

 広場には巨大なクリスマスツリーが立っていた。

 

 リア充どもが信奉する偶像だ。

 

 いつもならすぐさま視界の外に追いやってしまうのだが、心に余裕が少しできたせいだろうか、今日の俺はいつもとちょっと違った。

 

 ふと、高さはどんなもんだろうかと思って、根元から先端にある星まで視線をずらしていった。

 そんなことをしていると、自然と足もはたと止まってしまった。

 

 

「比企谷くん、あなたにとってこういう都合の悪いものは透けて見えて、存在しなかったことになるのかと思っていたわ?」

 

 俺は裸の王様かよ。

 それに透けて見えるって……、その慎ましやかな胸とか見たいとか思ったことはないからね? ゴクン……

 

「あ、あなた、いったい今どんな妄想をしていたのかしら?」

 

 胸のあたりで手をクロスして身を縮みこませながらも、見るものを瞬く間に殲滅させるような

強烈な殺気を放ちながら思いっきり睨んでいる。

 

 

「きれいだな」

 ごまかすようにツリーに目をそらしぼそっと呟いた。

 

「ええ、きれいね……」

 機嫌を直した雪ノ下が乗ってくる。

 

「ちょっとあそこで休むか」

 

 クリスマスツリーを見上げることのできるベンチに腰掛け、2人ともぼーっとツリーを眺めていた。

 時折お互いの表情が気になって目が合うと、また慌ててツリーの方を見てしまう。

 

 そんなことを何度か繰り返し、至福の無言のひとときを過ごした。

 

 

「じゃあ、そろそろ行こうか」

 

 真顔でそう話しかけると、ちょっと緊張した面持ちで

「ええ」

と答えが返ってきた。

 

 いよいよ雪ノ下に全て打ち明ける時が来た。

 

 今度こそ……。

 

 

 エスカレーターに乗って2階の書店へと向かった。

 

「ここだ」

 

 店内に入ると俺が先頭になって書架と書架の間を縫うように歩く。

 雪ノ下も俺に続く。

 

「書店と何か関係あるの?」

 

 雪ノ下はまだ何も飲み込めていないようだ。

 まるで、これって何か隠すようなことかしらという風にきょとんとしていた。

 

 真実を知ったとき、一体どんな反応をするのだろうか。

 

 

 「参考書を買うんだよ」

 

 振り向きざまにこう短く答えた。

 

 再び体を反転して先へ進もうとしたとき文庫棚の下の方に平積みになっていた本に俺のカバンが引っかかってしまった。

 

 その衝撃で棚から何冊もこぼれ落ちてしまった。

 

 「笑ってないで手伝ってくれよ」

 

 雪ノ下は一冊の本を拾い上げて表紙を見ると顔を赤面させながらキッと睨んできた。

 えっ、何? こっちはテンパっていて本の表紙を見るどころじゃないよ。

 

 

 「比企谷くん、あなたはいったいこんな本で何を参考にしようとしていたのかしら」

 

 えっ、何? その凄まじいまでの殺気は。スカウター壊れちゃうよ?

 

 プルプル震える雪ノ下の手に掴まれていたのは「喪服妻」だとか「絶頂」だとか18禁的なワードが強調フォントで躍り、淫靡な表紙絵が扇情的に描かれている官能小説だった。

 

 えーん。これは事故、事故だってー。

 

 

 「高校用参考書」と書かれた一角に来た。

 そして、とある教科のコーナーで立ち止まる。

 

 雪ノ下はその教科名を知って目を真ん丸に見開いて驚く。

 こんな驚いた顔を見るのは、由比ヶ浜んちの犬を見た時以来だよな。

 

「ま、まさか、あなた……国立文系を……」

 

「そうだよ」

 横を向いてぶっきらぼうに答える俺。

 

「だ、だから、俺はさっきのメールでお前に知られたくなかったんだよ……。ほら……」

 

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 差出人:平塚静

 題名「雪ノ下さんにはちゃんと伝えました か(笑)」

 本文「比企谷くん、昨日は君の口からあん な重大発表を聞かされるとは思っ

て いませんでした。正直なところ大変 驚いています。数学を捨てていた君

が、まさか今から勉強して国立文系 を志望するだなんて今までの君から は考

えられません。まさに恋は盲目 ですね。おっと、しつれいしました (笑)た

だ闇雲に問題集を解いてい ても君は基礎学力がついていないか ら学習の仕方

を考えなければならな いと伝えました。せっかくすぐそば に雪ノ下さんがい

るのだから、彼女 の力を借りて本当の春を掴んでみて はどうでしょうか(笑)

応援しています。

 

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 メールを見るや、かぁーーっと顔を真っ赤にした雪ノ下。

 

 テンパりながらも言葉を紡ごうとする。

 

「それって……、私と……お、同じ大学に……」

 

 一所懸命言おうとしているのだから最後まで待ってやるのが礼儀だろう。

 

「同じ大学に……入りたい……ってこと……」

 

 

 でも、俺は礼儀に反してこくりと頷いて返答に変えた。

 

 ああ、そうだよ。

 俺はお前のことが好きだ。好きで好きでたまらない。雪ノ下雪乃のことを心底愛している。

 だから片時もお前のそばを離れたくない。

 

 だけど、今更俺には国立理系は無理だ。

 努力もせずに無理だというのは、お前嫌いだったな……

 

 でも、俺に今できる精一杯の努力をしたら国立文系に……、お前と一緒の大学に通うことぐらいならできるかもしれない。

 

 女の子にあんなことを言わせておきながら自分の気持ちを言わないのは卑怯だ。

 

 しかし、今はこうするしかないんだ。

 

 

 そう心の中で言い訳しても雪ノ下は許してはくれない。

 

「あなた、すべて話すって言ったのに、私にだけあ、あ、……あんなこと言わせるつもりなの」

 

 さっきのことを思い出したのか、もうしどろもどろだ。

 こんな雪ノ下だったら毎日でも見てみたい。

 

 俺も見ていて赤面しちゃった……。

 

 

「いや、俺も言葉にできなくてなんていうかものすごくもどかしいんだけど……」

 

「たけど?」

 

 雪ノ下が早く言ってよと言わんばかりに迫ってくる。

 

 

「だけど、これの件があるだろ……」

 

 右手に提げていたティーカップの入った紙袋を持ち上げて見せつける。

 

 雪ノ下は顎に手をやりながら、

 

「そうねぇ……、比企谷くんの意気地なしな部分を差し引いてもそれについては致し方ないわね……」

 

と自分に言い聞かせるようにブツブツと言う。

 

 

 そして、俺に軽くウインクしながらこう言った。

 

「国立に入ったらいつでも聞かせてくれるはずだもんね、ひ・き・が・や・くん」

 

 俺、浪人しちゃたら本当に殺されるかもしれない……

 

 雪ノ下の笑顔に負けないくらいの笑顔を作ったのに、いつの間にか顔が引きつって来ちゃったよ……

 

 

「あら心配しなくても大丈夫よ。私が調きょ……いえ、たっぷり勉強を見てあげるわ」

 

 いやいや、そんな笑みにごまかされませんよ。今あなた調教って言っていませんでしたか。

 

 

 雪ノ下雪乃監修のもと初歩的な参考書とページ数の少ない問題集を1冊ずつ購入した。

 まるで自分のことのように真剣になって探してくれた雪ノ下の横顔に魅了されっぱなしだった。

 

 このあと、南館まで移動してサイゼに入った。

 

 雪ノ下にはいろいろと謝ったり、礼をしなければならない。 

 それから、雪ノ下に話す前になぜ平塚先生に知られてしまったかもまだ説明していない。

 

 とりあえず、今回のいきさつについて説明した。

 

 

 来週、センター対策のマーク模試がある。

 学校で申し込みの斡旋をしていたので、俺はそれに申し込んだ。

 

 元来受験しようと考えていた私立文系は英・国・社の3教科だけでよかったが、今回俺が申し込んだ国立文系は数・理も含めた5教科だ。

 

 模試の当日は個人シートに志望校を書くので、このときはさすがに平塚先生にはバレてしまう。

 だから、そうなる前に雪ノ下にはちゃんと話そうと思っていた。

 

 しかし、模試の代金は3教科と5教科で違っていた。

 

 平塚先生のことだから封筒に書かれた金額と中身があっていることだけ確認して、誰が何教科

受験するなんて気にしないだろうと思っていた。

 

 事実そうだったらしい。

 

 

 でも、ふと俺の名前を見つけたときに「比企谷ももう少し数・理に身を入れて勉強すれば国立だって行けるのになぁ」と思ったそうだ。

 

 それと俺がもしかして模試代をちょろまかしていないかと中身を改めようと思って表書きを見るとそこにはなぜか5教科の金額が書かれていた。

 これは親を騙しているなと確信して腕まくりしたそうだ。

 

 ところが、封筒の中身もちゃんと5教科分入っていた!

 

 そこ驚くところじゃないでしょ……。

 

 それで思わず面喰って俺を呼び出したっていうのが事の概要だ。

 

 もうちょっと続けると、国立文系から雪ノ下とのことを勘ぐられことになった。

 

 追及の手から必死に逃れようとしたが、ついには完落ちさせられてしまった。

 

 

「あなたがあまりにもあなたらしかったせいで、余計なことまでバレてしまったのね」

と手で額を押さえていた雪ノ下に思わずごめんと謝ってしまった。

 

「だけれども、私はそんなあなたが……」

といたずらっぽく笑った。

 

 その続きが気になるんだけど、ねー聞かせて。

 

「……嫌いではないわ」

 

 えっ……。

 なんだよそれ……。

 

 期待していた言葉が聞けず、ショックのあまりがくっと肩を落としてしまった。

 

「あら比企谷くん、この私になんて言って欲しかったの?」

 

 ものすごく意地悪な言い方で言われてしまった。

 

「なんでもねーよ」

 

 こういうのは相手にせがまれて言う言葉ではないしな。

 

「それに……、あなたもさっき言ってくれなかったしね」

 

 そう告げた雪ノ下の表情は笑っているのか怒っているのかは俺には理解しかねた。

 

 

「ところで……」

 言葉を区切って話す雪ノ下の表情が急にじとっとしたものに変わった。

 

「ところで……?」

 

 なんか嫌な予感がしてきたよ。

 

「……平塚先生と親しげにメールしているのは看過できないわね」

 

 なに、急に声まで怖くなったんだけど。これって、今日何回目? 

 

 

 だから平塚先生、もう貰ってあげたり、貰われたりできないから!

 

 誰か、誰か早く貰ってあげて! 

 

 

「よう」

 

「こんにちは、ひっきが~やくんっ」

 

 甘ったるい声であいさつをしてくる。

 

 

「バカっ! 由比ヶ浜に見られたらどうするんだよ!?」

 

由比ヶ浜さんなら今日は進路相談の日なんでしょ。由比ヶ浜さんがそう簡単に平塚先生が帰して貰えるわけないじゃない」

 

 はい、ごもっとも。

 

 由比ヶ浜には悪いが2人で声に出して笑ってしまった。

 

 雪ノ下がこうやって声に出して笑ったところなんて見たことがないな。

 いや、俺も声を出して笑うのは何年振りだろう。

 

 

「早くお茶の時間にしたいのだけれど」

 

 もじもじする雪ノ下を見ると怒っているようにも照れているようにも見えて何とも判断しかねる。

 ただ、じらしプレーや放置プレーは禁物だ! 俺の命が危うくなる!

 

「悪い……」

 

 慌ててカップの入った包みを開いて取り出す。

 

 俺のカップを手に取った雪ノ下は満足げにふふんと鼻歌を歌いながらポットまで移動した。

 

 

「さぁ、いただきましょう」

 

「いただきます」

「いただきます」

 

 2人でハモって紅茶を啜る。

 もちろん、茶葉はシャンパーニュロゼだ。

 

 慈しむかのように上機嫌でカップを撫でる雪ノ下を見ると、まるで自分が撫でられているみたいでなんだかこそばゆい。

 

 

 確かに、俺と……、比企谷八幡雪ノ下雪乃は付き合ってはいない。

 でも、……

 

「やっはろー」

 

「こんにちは、由比ヶ浜さん」

 

「お、おう……」

 

 シリアスなことを考えているときに由比ヶ浜がやって来たもんだから、思わずきょどってしまった。

 平常心を装うために紅茶を口元に運ぼうとする。

 

 そのカップを見た由比ヶ浜が疑問を口にする。

 

「あれー、ヒッキーそのカップどうしたの?」

 

「……。おととい雪ノ下のカップにぶつけてしまっただろ、それで割れてしまったんだ」

 

 紅茶を一口飲んでからそう答えた。

 

 

「……。うーん、そうなるとゆきのんも……」

 

 なんだかぶつぶつ言いながら考え込んでいる。

 そして、雪ノ下の方を向いた。

 

 

「あー、ゆきのん! ヒッキーと同じカップだー! どういうこと!?」

 

 雪ノ下は相変わらず涼しい顔で「それが何か?」と無視せんばかりに飲んでいる。

 

 

「ねー、ゆきのん!」

 

 雪ノ下はなおも由比ヶ浜を無視して、すたすたとポットの方に進んでいく。

 

 由比ヶ浜はただただオロオロするばかりで、雪ノ下の背中と俺とを何度も交互に見比べる。

 

 

「はい、由比ヶ浜さん」

 

 真新しいティーカップに煎れたての紅茶を注いだ雪ノ下が戻ってきた。

 

「……!! ゆきのん! ヒッキー! ありがとう」

 

 由比ヶ浜は騒々しいくらいに大喜びした。

 

 そう、由比ヶ浜の前に差し出されたのは俺と雪ノ下と同じティーカップだ。

 

 

 -俺がティーカップを購入した時のことだ。

 

 店員がバックルームからレジカウンターに3箱持ってきたのを見て、雪ノ下の表情が一瞬にしてこわばった。

 

 

「ああ、これか……。これはな……」

 

 こんなこと自分で言うのは恥ずかしいが、俺しか見えなくなった雪ノ下は冷静な判断ができなくなっていた。

 

 なら、大事なことに気付かせるのが俺の役目だ。

 

 

「……さすがに今回も俺たちだけ別のお揃いのティーカップってわけにはいかないだろ。だから、もう1個買うんだよ。もし、よかったらこのカップだけ折半してくれないか」

 

 俺のその言葉にハッとした雪ノ下は顔を朱に染めて、明後日の方向を向いた。

 

「そ、そんなことぐらいわかっているわよ。ひ、比企谷くん」

 

 羞恥のあまりに声が震えていた雪ノ下を笑わないようにこらえるのが大変だったことは、本人に黙っておこう。

 

 

「やったー、ゆきのんとヒッキーと同じカップだ~。同じカップで同じ紅茶だ~」

 

 そうはしゃながら飲む由比ヶ浜を挟んで俺と雪ノ下の目と目が合った。

 

 

「俺は知っているぞ」と目で合図をする。

 

「えっ、何のこと?」と小首を傾げてとぼけている。

 

 

 雪ノ下はティーポットにいつもの茶葉と一人分のお湯を入れて紅茶を作っていた。

 だから、由比ヶ浜は俺たちとは違う紅茶を飲んでいる。

 

 雪ノ下はあの紅茶を2人だけの特別な紅茶だと考えているようだ。

 もちろん、俺もそのつもりだ。

 

 

 仕切り直しに再び視線を合わせなおす。

 もう一度互いの気持ちを確かめ合うための大切な儀式だ。

 

 お互い柔和な笑みをたたえると目と目を離した。

 

 

 確かに、比企谷八幡雪ノ下雪乃は決して付き合ってはいない。

 直接的な言葉で互いの気持ちを伝えあってもいない。

 

 傍から見れば、ただ単にそれっぽい視線を交わしただけにすぎないだろう。

 たけど、そこには当事者たる2人にしかわからない意味はちゃんとある。

 

 

 それに俺たち -比企谷八幡雪ノ下雪乃はしっかりと心で結ばれている。

 

 

 だから、今は言葉なんか必要ない。

 

 ……いや、いつの日か必要となるその時のために大事にとっておこう……。

 

 

-ラブコメの神様よ、これでいいんだよね?

 

 でも、ちょっと自信がないから雪ノ下に訊いてみてくれない?

 

 

 

 フゥー……。

 

 日曜日だというのになんでこんな時間まで学校にいるわけ、俺。

 只今の時刻は、18時55分。

 

 もうすぐ冬至を迎える時分だ。

 窓の外を見ると夜の帳がすっかりと下りている。

 

 今日は学校で斡旋していたセンター対策のマーク模試で朝の8時過ぎから登校していた。

 3教科3科目の私立文系から急遽国立文系へと鞍替えした俺は5教科7科目に渡る長き戦いから、よう

やく解放された。

 

 もうだめだ、目だけでなく頭まで死んできた。

 こんな自虐ネタが思いついてしまうくらい本当に疲れた。

 このまま机に突っ伏して寝てしま…

 

「比企谷、もうそろそろ帰りたまえ」

 

 俺の睡眠を阻んだのは、担任の平塚先生だ。

 

「私はこれから君たちのマークシートをチェックして予備校に発送する仕事が残っているんだ。だから早く下校してくれ」

 

 クラスの連中は俺がぼーっとしている間にすでに下校していた。

 

 

 さて、俺も……。

 

 マークシートの数を数え直している平塚先生を教室に残し俺は廊下に出た。

 普段は喧騒に包まている廊下には俺一人しかいない。

 

 無理に人付き合いすることをあきらめてぼっちの道を究めんとする俺にとっては最高のシチュエーションだ。

 気付けば疲れも吹き飛んでしまい、むしろすがすがしい気分になった。

 

 階段を下りて玄関に向かう。

 もう既に俺以外の生徒は下校したのだろう。

 玄関ホールの電気は必要最小限にぽつぽつと点いていた。

 

 その薄明かりの中に人影が一つ、ぽつりとあった。

 もしかして見えてはならないものが見えてしまったのではないだろうか……。

 

 一瞬ひるんだが、いくら霊でも俺みたいな捻くれたぼっちには用はないはずだ。

 どうせならリア充にでも取り憑いてくれと思っていると、その人影が見覚えのある人物であることに気が付いた。

 それは雪ノ下雪乃 - 人嫌いの俺がそのすべてを受け入れることができるただ一人の人物だ。

 

おっと……、妹の小町を忘れていた。

 

 

「あら比企谷くん、こんな遅くに奇遇じゃない」

 

 何があら奇遇だよ。

 こんな時間に薄暗い玄関にたたずんでいるお前の方がよほど奇特だよ。

 そう思いながら声をかける。

 

「雪ノ下、お前こそこんなところで突っ立ってなにしているんだ」

 

「あ、あなたの結果が気になって、……待っていたのよ」

 

 俺が近づくと顔をそらしてだんだんと消え入りそうな声でそう答えた。

 

 てっきり悪態をつかれるものだと思っていた俺はいきなりのときめきシチュエーションに戸惑って一瞬返す言葉を失ってしまったが、

 

「結果か……、帰ってからもうひと勉強だな……」

 

となんとか言葉を繋いだ。

 

 

 玄関を出ると、暗闇が広がっていた。

 いつもならここで分かれて自転車乗り場に向かって別れていく。

 

 でも、今日はそういうわけにはいかないだろう。

 

 急に国立文系を目指すことになった俺の受験科目は国語、社会、英語の3教科3科目から国語、社会

2科目、数学2科目、理科、英語の5教科7科目に増えた。

 

 そんな俺のこと心配して雪ノ下は待ってくれていたのだ。

 それに雪ノ下と一緒の時間だって過ごしたい。

 

 

「なぁ雪ノ下、一緒に自己採点しないか」

 

 

 今日は日曜日だ。それにちょうど夕飯の時間帯だ。

 きっとファミレスは家族連れでごった返しているだろう。

 

 そこで喫茶店に入ることにした。

 

 

 ここはどうやら老舗の喫茶店のようだった。

 

 年老いたマスターはレコードをターンテーブルの上にゆったりとした動きで載せた。

 そして、ゆっくりと回りゆく様子を確かめると静かにレコードに針を落とした。

 ジジジ…… と音を立てたのちジャズが流れ始めた。

 

 

「雰囲気のいいところね」

 

「ああ、そうだな」

 

 ジャズの音色がうるさ過ぎず、静か過ぎずちょど良い音量で届いてくる。

 心地よいBGMに身を委ねてゆっくりと時を過ごしたくなる。

 

 

「ところで比企谷くん、こういうお店に詳しいようだけど……」

 

 へっ?

 ここに来たのは今日が初めてなんだけど……。

 

 雪ノ下の表情が急に険しいものになってくる。

 

「まさか……、ほかの女性と……、来たことなんて……ないわよね」

 

 えっ……、なにそれ?

 

 俺を何だと思っているの?

 

 

 今まで過去の痛い体験を身を抉られる思いで話してきたのに、一体俺にどういう人物像を抱いているの?

 

 だいいち、普段の俺のぼっちぶりをよく見ているだろ……。

 平塚先生のメールにあった「まさに恋は盲目ですね」の言葉をそのままお前にくれてやるよ。

 

 

「どこをどういう風に考えたら、そんな思考にたどり着くのか俺に教えてくれ」

 

 

 呆れた視線を送りながら答えると、

 

「……そうよね。比企谷くんだもんね。……安心したわ」

 

とホッと安堵の表情を浮かべたあと極上の笑みを見せた。

 

 

 なんだ……、その……、俺も雪ノ下の過去には興味がある。

 

 俺と同じく今まで男女交際っていうのはなかっただろうから、これについては気にならない。

 ただ……、俺のように過去のことをあまり詳らかに明かしたりしない雪ノ下。

 

 家庭のことはなおのこと語らない……。

 

 

 今までは気にしないようにしていたが、何でもいいから雪ノ下のことを知りたくなってしまった。

 

 でも、こいつとはこれからも長い時間をかけて付き合うことになるのだろうから、少しずつ何か聞かせてくれるだろう……。

 

 

 そんなことを考えていると不意に不安がよぎった。

 

 ……もしかして、そんな時が来る前にさよならってことはないよね……。

 

 

 店内の雰囲気にすっかりあてられてしまった。

 

 こんなところで自己採点なんて野暮なことはできない。

 

 

 カップを傾けながら窓の外を眺めて道行く人々の姿をぼーっと眺めたり、時折どちらともなく視線

が合って慌ててぱっと離したり…… と2人だけの時を過ごした。

 

 

 時計を見た。

 

 いつまでもこの雰囲気に浸っていたいが、こんなことをするために誘ったわけではないしな……。

 

 

 すっかりと重くなってしまった腰を上げることにした。

 

 

 いつだか雪ノ下と由比ヶ浜と3人で勉強会なるものをやったファミレスへ場所を移した。

 

 ピークの時間帯を過ぎたようで、待たされることなく座席へと案内された。

 

 食事を注文した後、ドリンクバーで飲み物を確保した。

 ちょっと心配になって雪ノ下の様子を観察していたが、ドリンクバーの勝手もわかったようだ。

 

 

 さて、自己採点を始めるか。

 

 数学のことを考えるとちょっと気が重いけど。

 

 

 まずは今までの俺の受験教科であった私立文系3教科から一緒に採点することにした。

 

 雪ノ下は勝負事となるとたとえじゃんけんであっても熱くなる。

 

「比企谷くんには負けないわよ…、フフフ……」

 

 既に何かに覚醒したようだ。

 

 これが海老名さんだったら「腐腐腐」なんだろうけど。

 

 

 とにかく怖ぇよ半端なく怖ぇよ……。

 

 

 最初に国語の採点から始めた。

 188点だった。

 

 これはかなり自信があったが、雪ノ下に4点差で負けた。

 

 

「……危なかったわ。比企谷くんに負けたら一生の不覚だったわ」

 

 ホッと胸をなでおろした雪ノ下は、俺の顔を見るなりフフンと鼻を鳴らした。

 

 なんかムカつくぞ、こいつ。

 

 

 次に社会。

 

 俺は2科目で雪ノ下は1科目だ。

 どちらも90点台を取ったものの点数が良かった方の日本史は雪ノ下の世界史と同点だった。

 

 

「比企谷くんにしてはなかなかやるわね」

 

と悔しさを滲み出しながらも感心された。

 

 

 いや、あなた理系でしょ……、悔しいのは文系の俺の方だわ。

 

 雪ノ下をこれ以上勝ち誇らせたくなかったのでこの言葉は封印した。

 

 

 私立文系3教科の最後は英語だ。

 

 帰国子女の雪ノ下は200満点だった。

 

 

 俺は160点台。

 これでも御の字だったが、雪ノ下から

 

「あと20点は欲しいわね」

 

とさらりと言われてしまう。

 

 

「ところでリスニングは? ……私は50点満点だけど」

 

とさも当たり前のことのように言う雪ノ下。

 

 

「俺は35点だ。」

 

「うちの学校は英語に力を入れているのだけれども」

 

と呆れ顔で見つめられた。

 

 

 あなたバカ? とでも罵られそうな雰囲気だ。

 

 

「……まぁこんなもんだろうな。前にも言ったけどオーラルコミュニケーションになると隣の女子が携帯をいじり始めるし……」

 

と自嘲気味に言うと、今度は雪ノ下はうんうん頷き始める。

 

 

 そう簡単に納得するなよ。

 

 

「比企谷くんに……、変な虫がついても困るだけだし。まぁいいわ、受験の際にリスニングは考慮されないから」

 

 

 なにやらブツブツ独り言を言っていたので前半は全く聞こえなかったが、「まぁいいわ」ってにっこりするのやめてもらえない。

 

 

 俺ってやっぱりあきらめれているの?

 勉強の話題になったときの由比ヶ浜の気持ちが少しだけわかってしまった。

 

 でも、リスニングは考慮されないってわかって少し気が楽になったな。

 

 これからもオーラルコミュニケーションのときは、ぼっちを続けてもいいんだよね?

 

 

 ちょうど前半の採点が終わったところで、注文したカットステーキが届いた。

 

 

「この値段でこの味はなかなかのものだわね」

 

と雪ノ下は感心している。

 

 

 お嬢様育ちの雪ノ下。

 

 母親と何があったかは知らないが一人暮らしを始めた。

 

 ドリンクバーといいこのカットステーキといい、こうして見聞を広めて世間を知っていくことは雪ノ下にとってプラスになったはずだ。

 

 

 ……いや、俺が立ち入ることではないな。

 

 

 すぐにその考えを打ち消した。

 

 

 食事を終えると、自己採点の続きを始めた。

 

 今回から受験科目に加えた数学と理科だ。

 急に現実から目を背けたくなったが、今更結果はどうにも変わらない。

 

 理科から採点を再開した。

 俺は1科目、雪ノ下は2科目だ。

 

 コンスタントに両方とも90点台を取った雪ノ下は余裕の表情だ。

 

 

 俺は70点台。

 にわか仕込みながらよくやったと思う。

 

 しかし、そんな自己満足もいとも簡単に打ち砕かれた。

 

 

「こちらもあと20点ね」

 

 

とあっさり、バッサリと斬られる。

 

 これってなんの事業仕分けだよ。

 ……そういえばこんなのあったよね。

 

 少しくらい建前を…… なんてことを雪ノ下に期待する方が無駄だろう。

 

 ここは現実を直視して死に物狂いで勉強するしかないだろう。

 考えたくもないが、もし浪人してしまったら……、来年から理科がもう一科目追加になるらしい。

 

 理科2科目の5教科8科目って、文系受験者に一体どういう仕打ちをするわけ。

 

 何この大学?

 

 

 最後は数学だ。

 

 

 ……。

 

 急に現実と向き合うのが怖くなってきた。

 

 惨めな思いをするのが怖くなってきた。

 

 こんなことにはとうの昔に慣れてしまったはずなのに。

 

 いや、それが一番の理由ではない……。

 

 

「さぁ、採点するわよ」

 

という雪ノ下の声に反応できない自分がいた。

 伏目がちになっていくのが、自分でもわかった。

 

 

「比企谷くん……」

 

 それはとても冷淡な口調だった。

 今まで聞いたことのないくらい冷淡な口調であった。

 

 もうどうしようないくらい、いたたまれない気持ちになってしまった。

 

 そして、俺はとうとう生気を失ったようにただ力なく頭を垂れてしまった。

 

 

 雪ノ下は何かを言いかけていたのをやめてフーっとため息をついた。

 

 

 すっかり沈鬱な気分に支配されてしまい思考が停止しかけてようとしていた。

 

 その時、俯いている俺の視界の端っこにぼんやりと映っていた問題用紙の冊子が外へ外へと引きずられるように動きはじめた。

 

 気が付けば視界から消えゆく冊子の行方を目で追っていた。

 

 すると前に進んでいた冊子は、いったんその動きを止めた。

 

 

 そして、冊子が再び動き出したと思うと今度は宙に浮かび上がり始めた。

 

 俺の目もそれに呼応したが、もはや目だけではその動きは追えなくなっていた。

 

 自然と顔もその動きにつれ上へ上へと浮かび始めた。

 

 それは、まるで引力によって引き寄せられているがごとく……。

 

 

 顔がすっかりと浮かび上がったところで冊子は宙に浮いたまま静止した。

 

 一瞬止まるのが遅れた俺の眼前には数学ⅠAとゴシックででかでかと大書きされた文字があった。

 

 ただぼんやりとその4文字を見つめていると、不意にそれが視界の外へと消えてしまった。

 

 あまりにも突然のできごとで焦点が狂ってしまいピンボケの世界が広がった。

 

 ハッとして必死に焦点を合わせると、問題用紙の冊子の代わりに穏やかな笑みをたたえていた雪ノ下の顔が大写しに映っていた。

 

 

「比企ヶ谷くん、お帰りなさい。今までどこに行っていたのかしら?」

 

 

 その温かな声に全身がつつまれ、雪ノ下と一緒にいる時の心地よい感覚がよみがえってくるのがわかった。

 

 

-「雪ノ下は優しくて往々にして正しい

 平塚先生から聞かされた雪ノ下評がふと頭をよぎった。

 

 

 俺に向けられた雪ノ下の優しさなんてこれまでこれっぽっちも感じたことのない俺だったが、この時初めてその優しさに気付くことができた気がした。

 

 一度俺のことを突き放そうとしながらも、ぐっとこらえて俺を正気に戻してくれた雪ノ下の優しさに感謝の気持ちでいっぱいだった。

 

 

 俺はますます雪ノ下雪乃のことが好きで好きでたまらなくなった。

 

 

「……仕方ないわね、私が採点してあげるわ」

 

 そう言って雪ノ下は微笑むと肩より垂れてくるぬばたまの長い髪を手で掻き上げて、俺の問題用紙と解答とを見比べ始めた。

 

 

 そんな雪ノ下の姿を見つめていると無意識のうちに何かを掴んでいた。

 雪ノ下の問題用紙だった。

 

 一枚めくってみると、まるで雪ノ下の美しさをそのまま表したような文字で計算式が整然と書かれていた。

 思わず息をのんでその文字に見惚れてしまった。

 

 いつの間にか俺は夢中になって雪ノ下の計算式を目で追っていた。

 なんだか物語を読んでいるうちにその世界観に引きずり込まれてしまうのと同じ感覚だった。

 

 

 同じ計算式が左右に対になって書かれていることにふと気付いた。

 見直しのあとだ。

 

 ぼっちであるがゆえに口数の少ない雪ノ下。

 そんな雪ノ下の頭の中をなんだかトレースしている気分になってきた。

 

 雪ノ下のことをもっと知りたいという欲求が頭をもたげ、自然と解答に手が伸びていった。

 

 

 俺も雪ノ下の採点を始めた。

 

 雪ノ下の計算式にはところどころ、ぐしゃぐしゃと力が入って濃い目になった乱雑な線で消されている箇所があった。

 そのすぐ真下からは再び整然と計算式が並んでいく。

 

 また別のページには左右で違う解が導き出されている箇所があった。

 そこには途中まで計算しては式を立て直し、計算しては式を立て直しした跡があった。

 

 

 雪ノ下雪乃といえども、完璧ではないのだ。

 

 

 雪ノ下雪乃といえども、地道な努力を積み重ねているのだ。

 

 

 雪ノ下雪乃といえども、迷ったり悩んだり不安に感じたりすることがあるのだ。

 

 

 俺はこんなところで自分の弱さに負けてはいられない。

 

 

 互いの採点が終わった。

 

 雪ノ下は200点満点中193点、俺は数学Ⅰが20点と数学Ⅱが34点の計54点だった。

 

 

「比企谷くん、あと130点足りないわね」

 

と不甲斐ない点数に当然のダメ出しをされた。

 

 しかし、不思議なことに絶望感や不安感といった類のものを感じることはなかった。

 

 

 こうして、自己採点は幕を閉じた。

 

 

 翌朝は不思議なくらい寝覚めがよかった。

 

 寝覚めがよかったせいか、頭が冴えていていつもより授業の内容をよく呑み込めた気がした。

 

 そのためか、休み時間と英語のオーラルコミュニケーションのとき以外はぼーっとすることはなかった。

 

 

 だから、いつもより足取りが軽く部室に向かうことができた。

 

 

「よう」

 

「こんにちは、比企谷くん……」

 

 いつものようにすぐさま椅子に座らず立ったままの俺を雪ノ下は怪訝そうに見つめている。

 

 

 昨日は礼を言うタイミングを逸してしまったが、そのままにしておくわけにはいかない。

 

 

「雪ノ下、昨日はありがとな」

 

 自分でこんなことを言うのも恥ずかしいが、珍しくきょどったりど照れ隠しに悪態をつかないで素直に自分の気持ちを伝えることができた。

 

 

「えっ何が? 私はあなたの模試の結果が気になっていただけだから、そんな礼を言われるようなことは何もしていないわ」

 

 目をそらしながら雪ノ下はこう答えた。

 

 

「フッ……」

 

 素直じゃないなぁ、こいつは。

 

 そういえば、似たような捻くれ者がいたな。

 そいつ誰だっけ?

 

 

「何?」

 

 ギロリと雪ノ下が睨みつける。

 

 

「数学の答え合わせの時、お前の手を煩わせただろ。あの時俺に愛想つかしそうになったよな。

でも、そんな俺にお前は優しく手を差し伸べてくれた。そのおかげで俺は自分の心の闇から救われたんだよ。本当にありがとう……」

 

 

 最後は雪ノ下に深々と礼をした。

 

 こんな気持ちを込めた感謝なんてぼっちになってから一度もしたことなかったな。

 

 

「べ、別にそんなつもりではないわ。……ひ、比企谷くんの思い違いよ」

 

 顔を真っ赤にしながら全力で否定する雪ノ下がいとおしくてたまらない。

 

 

 もし、あの時、雪ノ下がぐっと気持ちを抑えて機転を利かしていなかったらどんなことになっていたのだろうか。

 

 

-「比企谷くん……」

 

「あなた馬鹿じゃないの? あなたが数学が苦手なことなんて百も承知よ」

 

「それを急に取り繕うとするなんてあなたらしくないわ。そんなことくらいで、私があなたのことが嫌いになるとでも思っているのかしら?」

 

「そんなことくらいで、私があなたから遠ざかっていくとでも思っているのかしら? 私のことを見くびらないでほしいわ」

 

「あなたのやっていることは自分の弱さからのただの逃げよ。もし、そんなくだらないことを考えてうじうじしているようであれば……、私は今の比企谷くんが嫌いよ」

 

 

 おおよそ、こんなことを言われていたのだろう。

 

 

 そこから雪ノ下に鼓舞されて正気に戻ったか、そのまま雪ノ下とは終わってしまったのかは

わからない。

 

 

 でも、そんなことはもう、どうでもいい。

 

 こうして今があるのだから。

 

 

「……比企谷くん、席に座ったら?」

 

 

「……お、おうっ」

 

 今の姿雪ノ下にすっかり見られていたな。

 気恥ずかしさのあまり焦ってしまい着席するときに尻餅をついてしまった。

 

 

「比企谷くん、一体何を妄想していたのかはしりたくもないのだけど、今の顔はいつもよりも倍

くらい気持ち悪かったわ」

 

 相変わらずの毒舌ぶりだが、屈託のない笑顔が差し向けられていた。

 

 

 これをどう解釈していいのかわからず、ボリボリと頭を掻いてしまった。

 

 

「比企ヶ谷くん、私は……、あなたの自分の弱さを肯定する部分嫌いではないわ」

 

 

「あぁ、前にそう言っていたな」

 

 

「でも、自分の弱さに負けてしまいそうになったあなたは嫌い……」

 

 

「昨日は一度は負けてしまったしな……」

 

 ぼっちの道を歩もうと決心した時、絶対に自分の弱さには負けたりしないと心に誓った。

 

 むしろ、弱さだと思わなくなってしまっていた。

 

 

 でも、修学旅行の時、自分の弱さに気付いてしまった。

 

 そして、昨日はじめて自分の弱さに負けてしまった。

 

 まさかこんな日が来るとは思ってもいなかった。

 

 ましてや、他人に見られるとも思ってはいなかった。

 

 

 ただ救いなのは見られた相手が雪ノ下だったこと、だからこうして今があるのだ。

 

 それを俺は危うく大切なものを失いかけてしまった。

 

 

 そう、失ってはならない。一度失ったものは元には戻らないのだから。

 

 

「……でも、自分の弱さと向き合ってそれに打ちかった比企谷くんは……」

 

 比企谷くんは? 比企谷くんは? ……。

 

 その続きが聞きたくて、体ごと雪ノ下に向けた。

 

 

 そんな俺に気付いた雪ノ下は、顔をかーっと真っ赤にして俯いた。

 

 そして、一言、

 

 

「……は、恥ずかしくて言えないわ……」

 

 

 独り言をつぶやいた。

 

 

 もっと雪ノ下のこんな姿を見ていたかったのだが、これからもいっぱい見られるはずだ。

 

 

 それに俺が一番見たい雪ノ下雪乃はこんな表情ではない。

 

 雪ノ下から視線を外して正面へ向き直った。

 

 

「そろそろ部活始めっか」

 

 

「ええ、そうね」

 

 雪ノ下は声を弾ませ、特上の笑みを見せた。

 

 

 そう、時折俺にだけこの眩しい笑顔を見せてくれる……、これが俺が一番見たい雪ノ下雪乃だ。

 

 

 そんな雪ノ下雪乃を見るのが好きだ。

 

 一点の曇りもなく眩しすぎるその笑顔。

 

 俺の心の底まで明るく照らし出してくれる、そんな雪ノ下雪乃を愛してやまない。

 

 

 そんな俺の心を見透かしたように、再びフフッと微笑む。

 

 思わず俺も笑みが漏れだしてしまった。

 

 

 そんな互いのことを見つめ合った。

 

 

 一瞬、時が止まった気がした。

 

 それは雪ノ下も同じだったようだ。

 

 2人同時にはっとすると、互いに視線をさっとそらした。

 

 

 そして、互いの本のページをめくる音だけが静かに続いた。

 

 

「やっはろー」

 

 

 静寂が打ち破られ、いつものように奉仕部の活動はここで仕切り直しとなった。

 

 

「よう、由比ヶ浜

 

「こんにちは、由比ヶ浜さん」

 

 

「ねーねー、ゆきのん、ヒッキー、昨日の模試の答え合わせしよう!」

 

「えっ?!」

「えっ?!」

 

 思わず雪ノ下と顔を見合わせてしまう。

 

 

「なにか私変なことでも言った?」

 

由比ヶ浜さん、模試というものは模擬試験といって本番さながらの緊張感で……」

 

 にわかに騒々しくなり始めた。

 

 

 こうしてまた今日も奉仕部でのひとときを過ごすのであった。

 

 

- ラブコメの神様に一つお願いがあるんだけど、今度学問の神様を紹介してくれない?

 

  雪ノ下にあんな姿を見せてしまった以上、何としても合格しないといけないんだけど……

 

 

 

 12月も第3週に入った。

 あと数日で冬休みだ。

 

 来年のセンター試験まであと1か月と数日なった。

 3年生はいよいよ追い込みの時期だ。

 

 しかし、大学受験を目前に控えている者の中で、追い込みをかけているという余裕を感じている者はごく少数だろう。

 

 ほとんどの者がまだ先の見えない栄冠というものに不安を感じ、むしろ追い込まれているのではないだろうか。

 

 

 普段は他人のことなんか全く意に介さないぼっちの俺にもその緊張感が伝わってきた。

 

 先週のマーク模試で数学200点満点のところ、たったの54点という結果に終わった。

 

 あと1年の猶予がある俺はまだ悲観はしていない。

 

 

 だが、あと130点は取るように言われている。

 

 184点か……。

 

 この先待ち受けているであろう苦難を考えると思わず遠い目になってしまう。

 

 

 しかし、184点取れるようになったところで不安は決して尽きないだろう。

 

 

 苦手な教科には受験で命取りとなるくらい特に不得手な領域がある。

 

 それゆえに、その領域が出題されてしまうとたちまちボトルネックとなって点数を大きく下げてしまう。

 

 その変動幅を考えると模試で確実に190点台に到達しなければ、本当に力がついたとは言えず、本番で大失敗することもあるだろう。

 

 

 かつて、専業主夫を目指していた頃はこれをかなえるためにどんな努力も惜しまない覚悟であった。

 

 その努力を勉強へと振り向けたわけではあるが、覚悟の方は全くできていない。

 

 

 正直なところ、自信がない。

 

 一年後の自分をイメージしてもろくなイメージしかわかないのだ。

 

 

 「比企谷くん、あなたと一緒に大学に行けると思っていたのに……。私の気持ちをもてあそんだのね」

 

 

って合格発表の掲示板の前で刺されるとかいうバッドエンドが浮かんでくる。

 

 

 ああ怖い、あな恐ろしや……。

 

 そんなことを考えているうちに部室に着いた。

 

 

「よう」

 

「こんにちは、比企谷くん」

 

由比ヶ浜は今日……」

 

「三浦さんとカラオケに行くってメールが来たわ」

 

 俺の声を遮ってこう話すのは雪ノ下雪乃だ。

 

 

「……って、おい、また俺にしゃべらせない気かよ」

 

「あら、ごめんなさい。比企谷くん何か喋っていたのね」

 

「ぼっちはただでさえ口数が少ないんだから、その限られた機会を奪うのはやめてくんない?」

 

「あら、奇遇ね。私も口数が少ないのだけれど」

 

 

 なにこの弱肉強食の世界。

 

 弱きものは強気ものに挫かれる、まさに社会の縮図がこんな場末の部室でも繰り広げられている。

 

 

由比ヶ浜さんといえば、……その、模試のとき大丈夫だったかしら?……」

 

 

 こないだのマーク模試で俺は雪ノ下と同じ国立大学を目指すべく受験科目の変更を行った。

 

 

 俺は由比ヶ浜と同じ3教科3科目だったのが、雪ノ下と同じ5教科7科目となった。

 

 学校申込みのため、いつもの教室での受験だった。

 

 

 

 受験科目で登校時刻が違うので、そこから勘づかれていないのか雪ノ下は気にしているのだ。

 

 

「ああ、大丈夫だったと思うぜ。あいつの受験科目の最初の英語が始まる前と最後の社会が終わったときは速攻でトイレに行って時間いっぱい籠ってたからな」

 

 

「そう……」

 

 歯切れの悪い返事が返ってきた。

 

 俺もそれ以上深入りしたくなかったので、一旦会話は途切れた。

 

 

 そういえば、模試が終わったときに葉山に声をかけられたな。

 

 

「ヒキタニ君も国立志望だったんだ。意外だなぁ……」

 

 

なんてな。

 

 

 まぁ、修学旅行のときのことがあるからあいつらのグループ内で俺の話題はNGだ。

 

 だから、葉山から由比ヶ浜に筒抜けとなることもないだろう。

 

 

 そんなどうでもいいことを考えていると、雪ノ下が嫌な話題に触れてきた。

 

 

「比企谷くん、あなた算数の勉強ははかどっているかしら?」

 

 

 小首を傾げながら算数とか俺のことを軽くバカにしてくるのやめてくれない。

 

 その仕草がかわいすぎて、反撃できないじゃないか。

 

 

「算数か……。そういえば、高学年の頃から嫌いになったな」

 

 

「あら、あなたの算数嫌いはもともとではなかったの?」

 

 意外だったわねという表情を浮かべている。

 

 

 もともとはそんなに苦手ではなかった。

 

 九九だってすぐに覚えた。

 

 

「俺の通っていた小学校は問題解決学習だかってのを研究していたんだよ。教科書閉じさせて、黒板に問題張り出して解き方考えろとかってやるんだよ……」

 

 

「私もそのように習ったことがあるわ……」

 

 雪ノ下の表情も曇り始めた。

 

 

 この学習法にあまりいい思い出がないのだろう。

 

 

「一例をあげるとだな、体積の単元の一番最初の授業でルービックキューブのような立体図形がでてきて、『この立方体のかさを求めなさい』ってやるんだよ。『かさ』の単位っていったらそれまで習っているのはL、dL、mLだから、その単位を使って出そうとするんだけど、1Lの体積の立方体の1辺の長さなんて習っていないだろう。そんなもん当然解が出せるわけがない……」

 

 ところで、リットルはなんで唐突に小文字から大文字に変わったの?

 

 しかも書体まで。

 

 教科書なんかなんの理由の説明もなく「えっ、いままでそうだったっけ? テヘヘ☆」って感じですっとぼけて書いていやがる。

 

 

 どこの小町だよ?

 

 うちの小町でしたね。

 

 小町悪く言ってごめんね。

 

 今のは八幡ポイント的にどうなんだろう…… と脇道にそれた思考を巡らせていると雪ノ下が一言。

 

 

 

「そうねえ、それはかなり横暴だわ」

 

 雪ノ下もムスッと怒っている。

 

 

 おっと、話に戻らなければ。

 

 

「それに担任が『面積を出すときはどうやったっけ?』なんて、面積の公式を確認したりするわけだろ。

だから、LだとかdLを使おうとしている身にすりゃカオスそのものだよ。それに面積の公式をやたらに強調するもんだから、『かさ』の概念が見事に破壊されて一生懸命立方体の表面積を出そうとしたりするんだよ」

 

 

 雪ノ下の表情がどんどん険しくなる。

 

 

「さんざん混乱させた挙句、担任が1辺1cmのサイコロを黒板に書きだしてこれが1立方センチメートルだなんてやりだす。そんな簡単な事だったら最初から教えとけよって。それまでの努力がすべて否定され、あの努力は何だったのか…… と著しくやる気を低下させてくれる。それに、赤ペン先生だとか塾だとかで情報の恩恵を受けている奴だけあっさりと解いてしまう。小学生の時から情報戦だぜ。

そのおかげで俺は『働いたら負け』だということを学んだ」

 

 

 全国の小学校教員よ、さっさとこの問題解決学習をやめろ。

 

 文科省もこの指導法を推奨するのをいい加減やめろ。

 

 こうしているうちに算数嫌いがどんどん量産されるぞ。

 

 

「あなたの言っていることにはおおむね賛同するわ。だけど、その歪んだ性格を形成したのはあなた自身のせいだけではなく、文科省にも責任の一端があるというのは早計だわ。どうしてそこまでの極論に至ってしまうのかしら。これ以上あなたの話を聞いていると眩暈を起こしそうだわ」

 

 そう言って額に手を当てている。

 

 

「さらにこの学習法には問題がある……」

 

 

「まだ続くのかしら……」

 

 雪ノ下はやれやれと再び額に手をやった。

 

 

「まぁ、そう言うな。これはお前にだって覚えがあることだ……」

 

 

「……。私にも……?」

 

ときょとんとしている。

 

 

「この学習法の最もいやらしい部分は練り合いだとか称してグループで解き方を話し合わせるんだよ。

俺のようなぼっちにとっては苦痛そのものの時間だ。もっとも俺は、だんだんと算数の勉強が嫌いになってグループの奴の説明を聞いていても何言ってんのかわからなくなってさらに混乱してたから何も話さなかったたけどな。担任の説明ですらわからないことがあるのに、同級生の要領を得ない説明を聞いて理解しろってことに無理がある……」

 

 俺の話にめずらしく同意する雪ノ下は、うんうんと頷きながら掌をりしめる力が増しめ、いつの間にか拳と化していた。

 

 

 そして、雪ノ下も自らの体験談を語り始めた。

 

 

「それと、黒板の前に立たされて説明されられるのだけど、間違えようものなら鬼の首を取ったかのようにやいのやいの騒いだと思えば、正解したらしたでチッとか舌打ちされたり嫌味を言われたり……。

あれを根絶やしにするのに一体どれだけの時間と労力を費やしたことかしら。あの低脳ども!」

 

 

 怒りの籠った目と全身から憎悪の念を放ちながら語る雪ノ下に俺はただただ恐怖するばかりであった。

 

 そっと視線を外した俺の前に回り込んだ雪ノ下は、冷気を帯びた口調でこう言った。

 

 

「ところで比企谷くん、すっかりはぐらかされてしまったけれど数学の勉強はどうなっているのかしら?」

 

 満面の笑みをたたえているものの目は全く笑っていなかった。

 

 

雪乃「比企谷くんの誘いなのだから….あなたの好きなようにしていいわよ」2/4【俺ガイルss/アニメss】 - アニメssリーディングパーク

 

 

 

 

元スレ

雪ノ下「比企谷君、今からティーカップを買いに行かない?」

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