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雪乃「私の胸が小さいということかしら?」【俺ガイルss/アニメss】

 

「うっす……って誰もいないのか。珍しいな」

 

 短い挨拶とともに開いたドアの向こうには、いつもなら居るはずの彼女の姿はなかった。

 

 まあこんなこともあるだろうと深く考えず、定位置に腰を下ろす。

 

 薄っぺらい鞄の中身を漁り、読み止しの文庫本を取り出そうとして……心臓の鼓動が一拍すっ飛んだ。

 

「……制服」

 

 制服である。

 

 総武高校女子生徒用制服。

 

 贔屓目に見ても秀逸なデザインの、女子高生のみが纏うことを許されるそれが、机の上に放置されていた。

 

「……誰のだ?」

 

 若干雑な畳まれ方から察するに、誰かがここで着替えて部活にでも行ったという可能性もないではない。

 

 だが、そもそもこの教室は奉仕部以外が使用することはまずありえない。

 

 何故なら、平塚先生から鍵を受け取らなければ、中に入ることすらままならないからだ。

 

 そして、たかが着替えるためだけにわざわざ教師から鍵を借りるような、面倒な手間を踏みたがる人間がいるとは思えない。

 

 つまり、この制服は九分九厘奉仕部か、奉仕部に縁のある誰かのものだと考えていい。

 

「…………」

 

 ごく当然の帰結とはいえ、それを自覚した途端に心拍が早鐘のごとくテンポを早めていく。

 

「……雪ノ下のじゃないよな」

 

 雪ノ下なら、例え授業に遅刻しかねないとしても、きっちり折り目正しく形を整えて畳むだろう。間違ってもこんな乱雑な畳み方はしない。

 

 だがこれが由比ヶ浜のものかと聞かれれば、それはそれで合点がいかないものがある。

 

 今、俺の目の前にあるのは、スカート、シャツ、そしてリボンにソックスというごく一般的な組み合わせだ。

 

 仮にこれが由比ヶ浜のものだとした場合、ネックレスやチャームといった、細々したアクセ類も同時に置いていなければ辻褄が合わない。

 

 貴重品として鞄の中に入れた、と言われれば(誰にだ)反論はできないが、鞄は持っていったのに制服は置きっぱなしというのはまたおかしな感じがする。

 

 そもそも、奉仕部に入っている由比ヶ浜が、放課後に学校で着替える理由というのがとんと見当たらない。それは雪ノ下の場合でも言えることだが。

 

 つまり、これは罠だ。ミミックだ。完全秩序(コスモス)の沼だ。

 

 昨日部室の鍵を閉めたのは俺。当然、その時点でこんなものはなかった。

 

 また、昨日から今日俺がここに来るまでの間、この部室が利用されたことはなかったと断言できる。

 

 そして、鍵を取りに行っていないのに部室の鍵が開いていて、しかもそこに雪ノ下も由比ヶ浜もおらず、在るはずのない魅惑のアイテムが出現している。

  

 大方、雪ノ下が由比ヶ浜と共謀し、健全な男子高校生である俺が思い惑う様を見て楽しもうというタチの悪い試みでも仕掛けてきたのだろう。もちろん逆のパターンも考えられる。

 

 雪ノ下も由比ヶ浜もそこまで暇な奴ではないはずだが、それ以外の可能性は思いつかないのでとりあえずそういうことにしておく。

 

 ……浅はかだ。こんな見え透いたトラップ、引っかかると思った奴の顔を見てみたいもんだ。

 

 選んだら間違いなくバッドエンドに直行するだろう選択肢を、興味本位でついつい選んでしまう俺だがあいにくここは現実だ。クイックセーブもクイックロードも存在しない、やり直しの利かないクソゲーなのである。

 

 だから、答えは無視。女子高生の制服などに気を取られてしまうような純情クンではないことを、姿なき仕掛人に知らしめてやらねばならない。

 

 うむ、完璧な回答だ。俺の頭脳をもってすれば、少なくとも凶狸狐のところまでなら辿り着けるまである。

 

 と、多機能目覚まし時計こと俺の携帯電話が、メールの受信をお知らせしてくれた。

 

「……『今日はゆきのんと買い物に行ってくるから部活はありません。部室は開けておいたから、自由に使ってください。鍵は先生に返しておいてね(要約)』は、見え透いた嘘だな。そうやって俺が油断して凶行に及んだところをお縄にしようって算段なんだろ? そうはいか……な……」

 

 せせら笑いはやがて、息を呑む驚愕に変わった。

 

 添付されていた写メ(由比ヶ浜の自撮り)には、パルコ前で雪ノ下に抱き着く由比ヶ浜と、若干迷惑げながら、まんざらでもなさそうな雪ノ下の制服姿が。

 

 そしてご丁寧に、画像の片隅には、今日の日付と時刻を示す電光掲示板の表示が写りこんでいた。

 

 それによれば、この写メが撮られたのは夕方の4時頃だ。

 

 現在の時刻は4時10分。

 

 つまり、移動時間を鑑みて、少なくとも今この瞬間彼女たちが部室にやって来ることはありえない。

 

「……面白い」

 

 なるほど。

 

 そうまでして、俺の理性が崩壊したところを見たいと。貴様らはそう言うわけか。

 

 だが、甘い。

 

(共謀者がいる)

 

 雪ノ下は言わずもがな、由比ヶ浜だって、わざわざ俺への悪戯のためだけに学校をサボるような真似をするはずがない。

 

 ならば、授業が終わった瞬間自転車に飛び乗るくらいのことをしなければ、この時間にパルコ前に到着することは不可能。

 

 となれば、目の前にあるそれを設置したのは、雪ノ下でも由比ヶ浜でもない誰かであると判断するのは必定と言える。

 

(……第一候補は平塚先生だ)

 

 なんといっても、奉仕部関係者の中で部室の鍵を自由にできる唯一の人物なのだ。その気になれば、授業が終わる前に部室を訪れ、ブツを置いていくくらいは造作もないだろう。

 

 先生自身が仕掛人であるという可能性は限りなく低いだろう。さすがにこんなことのために、仮にも教師が生徒に制服を貸してくれと頭を下げるとは考えにくい。

 

 奉仕部の部室を使用可能にするという関門を容易く突破でき、なおかつ首謀者ではない線が有望とあらば、彼女は第一候補に誰よりふさわしい。

 

 第二候補は一色だ。

 

 俺が陥れたいという動機は、一色が抱くものとしてはさほど違和感のあるものではない。 

 

 部室の鍵の問題も、生徒会長という立場を利用し、予め複製を作っておくことでクリアーできる。それが可能かどうかはとりあえず置いておくとして。

 

 前者ならば、俺が女子生徒の制服を前にhshsしてるのを見られたところで、せいぜい殴る蹴るの暴行を受けた後、然るべき指導を受ける程度で済む。

 

 だが後者の場合は大いに問題アリだ。あの性悪な後輩に人生を左右されるレベルの弱みを掴まれたまま学生生活を送るなんて、とてもじゃないが生きた心地がしない。

 

(……落ち着いて、まずは最悪のケースを想定してみよう)

 

 想像し得る限りの最悪。

 

 それは、雪ノ下たちに協力を依頼された一色が、孫請けとして先生の力を借りていること。

 

 つまり、両方とも共謀者であったというケースだ。

 

 俺の推理の穴を、動機面は一色が、論理面は先生が補ってしまうという完璧な構築。バシャサンダーナットに一貫性を持てるまである。

 

 ここで俺がコトに及んだ場合、ほぼ即座に一色が部室に駆けつけ、証拠を何らかの記録媒体に収めるだろう。

 

 それをあの2人に流した後、奴が手元のデータをどう使うかなど、『魔』を前にした七夜が何をするかよりも想像は容易だ。

 

(部室を出ろ)

 

 制服などに興味を持つな。

 

 アレはただの布だ。繊維だ。有機物だ。

 

 ただ男のリビドーを掻き立てる程度の機能しか持たないモノなどに、比企谷が理性を棄てることなど許されない。

 

 だが――――俺の視線は、ソレを捉えて離さない。否、囚えられていたのは、真実俺の方だった。

 

 例えるなら、人の生き血を前にした吸血鬼のように。

 

 制服を前にした俺は、これを思うがままに弄びたいという欲求を、抑えることができなかった。

 

(触るだけだ)

 

 恐る恐る、頂点に鎮座したリボンを取り除き、脇にどけた。

 

 ボタンすらちぐはぐなシャツをつまんで、リボンの上に重ねる。形さえ崩さなければ、いざとなれば元の状態に戻すことができる。

 

(軽くいじって、すぐに帰ろう)

 

 その下にあった目標物……スカートを両手で捧げ持ち、日に透かすようにして眺め上げる。

 

(……いや、生地薄すぎだろ。思いっきり透けてんじゃねえか)

 

 思っていたよりも硬かったスカートの手触りとは裏腹、その防御性には些か以上の疑念を禁じ得ない。

 

(裏地入ってないし……太陽の下じゃ、普通に太ももの輪郭くらいなら分かりそうだな)

 

 外れていたホックを留め直すと、またも新たな発見に気づく。

 

(やっぱ、女子ってウエスト細いんだな……)

 

 バスケットボールが通るか通らないかくらいの、余りにも小さすぎる円周。

 

 太っている方ではないと自認する俺でも、これを衣服として身に付けるのはまず無理だろう。

 

(待て待て待て待て、どうして当然のように自分が着ることを想定してるんだ……!)

 

 誰もが一度はテレビや漫画の中のヒーローに憧れたことはあるだろう。

 

 しかし、華やかな部分から目を離せば、そこには辛く苦しいヒーロー故の困難が待ち受けている。

 

 そこで皆、『ああ、俺には無理だ』と自然に諦め、真っ当な一般人としての道を歩き始めるのだ。

 

 可愛い服を着た女の子を見たのなら、『あの子と付き合いたい』と思うのが自然な反応で、『あんな風に可愛くなりたい』とか『あんな可愛い服着てみたい』と思い出したら多分末期だ。

 

 そして、今俺が立たされている岐路には、『可愛いあの子が着ていた服を着てみたい』と『こんな可愛い服を使ってイケナイことをしたい』という、どちらに転んでも犯罪係数が有頂天に跳ね上がりそうな道しかない。

 

 

 ごくり、と粘っこい唾液を嚥下する。

 

 狂ったように脈打つ鼓動がやかましい。

 

 乾いた唇から、蒸気のような熱い吐息が断続的に漏れていく。

 

 パンパンに張り詰めた俺の愚息が、痛いほどにズボンの布地を下から突き上げている。

 

 理性のタガなどとうに外れている。

 

 変態の階(きざはし)を登るか登らないかは、ただ俺の意思のみに委ねられていた。

 

(ズボンの上から、足を通すだけだ)

 

 ホックも留めず、ファスナーも上げない。誰かの足音が聞こえたら、瞬時に下にずり下げて素知らぬ顔をできるだけの余裕を作っておく。

 

 そんな暇があるかどうかさえ考えず、身体は勝手に動いていた。

 

 そのままでは確実に大腿付近で引っかかるだろうスカートを、ちゃんと腰まで通せる状態にしてから、するりと足を差し入れる。

 

(……すっかすかだな)

 

 スウェットの上からスラックスを穿いたときの安心感が示すように、ズボン・オン・ズボンという布陣は余りにも鉄壁だ。

 

 下半身をくまなく包み込まれた万能感は、冬の寒さの前に一分の隙すら与えない。

 

 対して、スカートはどうか。

 

 構造上、脚の外側にしか布が当たることはないのだから、必然的にその内側は『穿いてない』のと変わらない。

 

 事実、こうしてスラックスの上から新たに着衣を纏おうとしているというのに、『重ね穿きをしている』という意識は生じなかった。

 

(直に穿いたらヤバいだろうな……)

 

 言ってしまえば、スカートなど暖簾と変わりない。ワンタッチで下着を下ろせばそのまま挿入できる手軽さがあるってハスミンも言ってた。

 

 ふとした拍子。

 

 鞄の持ち方を変えたとき、椅子に座ろうとしたとき、いたずらな風が茶目っ気を起こしたとき。

 

 そんな些細なきっかけで露出が増大し、ともすれば下着が露見してしまうような不安定な世界の中で、彼女たちはいかにして正気を保っているのだろうか。

 

 案外難なく腰を通過したスカートに手をかけ、スラックスと同じ感覚でホックを留める真似ごとをしようとしたとき、衝撃が走った。

 

(……これ、女でも留めれねーだろ)

 

 優に拳が入るほどの大きすぎる空隙。血管が浮くほど気張ったところで、その隙間は一センチすらも縮まらない。

 

 口惜しいと思うと同時に、どこかほっとしている自分に気づいた。

 

 これで、一線を超えずに済むと。

 

(いや、よかったよかった。やっぱりスカートは女にしか穿けないものなんだ。うんうん、穿けないならしょうがない)

 

 理性は冷却し、踏み出しかけた一歩は未遂のままに留まった。

 

 さて、いつまでもこんな格好でいるわけにはいかない。さっさと着替えて元の格好に――――

 

「スカートは腰じゃなくて、ウェストで穿くものなんですよ、比企谷先輩っ」

 

 思考が真っ白になった。

 

 興奮ではなく緊張のために、頭がかっと熱を持つ。

 

 顔は火が出そうなほど熱いのに、首から下は冷水をぶっかけられたみたいに固まって動かない。

 

 練乳を煮詰めたみたいに甘ったるく、しかし底意地の悪そうな声。

 

 言葉もなく、錆びたロボットみたいなぎこちなさで振り向いたその先には、

 

「へえ~……先輩って、そういう趣味あったんですね~。わたし、ちょっとびっくりしちゃいました~」

 

 これ以上ないほどに嗜虐的な笑みを湛えた、一色いろはの姿があった。

 

「ていうか、スラックスの上からスカートなんて穿いたら裾が乱れちゃって可愛くないです。ちゃんと下は脱いでからじゃないとダメですよ?」

 

「いや……一色、これはその、誤解だ」

 

 この状況で一体どんな誤解があるのかと言いたいところだが、そんなことには構っていられない。

 

 とにかく一分一秒でも稼いで、一色の気を逸らす策を考えなくては。

 

「誤解? もしかして、先輩が女装趣味のヘンタイさんだっていうことがですかー?」

 

「ああ、違う。これには深い理由があるんだ」

 

「なら、よければ聞かせてもらえます?」

 

「それは……」

 

「それは?」

 

「…………何でだと思う?」

 

「知りませんよ」

 

 ……思いつくわけねーだろ! どんな世界線にも総武高校奉仕部所属の比企谷八幡が部室で女子生徒の制服を着てハァハァしてる事実に客観的正当性を伴わせる理屈なんか存在しねーよバカ!

 

 口ごもる俺の姿に自身の勝利を見たのか、わざとらしく足音を響かせながら一色が近づいてくる。

 

「先輩なら分かってると思いますけど、これ雪ノ下先輩と由比ヶ浜先輩の発案なんです。先輩がいつも性的な目で見てるのは自分たちの体なのか、それとも制服そのものなのかを知りたいとかなんとか」

 

「ちょっと待て。いつ俺があの2人をいやらしい目で見た」

 

「言ったじゃないですか、いつもですよ」

 

 いつもっていつですかー、何時何分何秒地球が何回回ったときなんですかー。

 

 ……なんて小学生みたいなダダをこねられたらどれだけ楽だろうか。

 

 打ちひしがれる俺を見下ろすように、直近の机に一色が腰を下ろした。

 

「まあ結果は歴然というか、火を見るより明らかというか、先輩は女の子よりも女の子の服の方に興味があるヘンタイさんだったみたいで、わたしも嬉しいです」

 

「は? 何で嬉しいんだよ」

 

「いじめ甲斐があるじゃないですか」

 

「即答かよ……」

 

 力なくスカートから足を抜き、手近な椅子に座り込む俺。

 

 終わった。完全に全てが終わった。俺の高校生活が終わった……そもそも始まってすらいないか。危なかった。また勝利してしまったようだ。

 

「で・も、今までいろいろお世話になってますし、このことはわたしの胸の中に仕舞っておいてもいいです」

 

「本当か!?」

 

「ただし、条件があります」

 

 思わず身を乗り出した俺の鼻先に、一色の細い指が突きつけられる。

 

「何だ、どんな条件なんだ一色。靴を舐めるくらいならオプションでやってやるぞ」

 

「いえ、汚いですしそういうアブノーマルなのは結構です」

 

 うん、そうだよね、汚いしアブないよね。仮にも少年誌でヒロインにガチで靴舐めさせようとしてたネウロってやっぱ神だわ。

 

 ネウロと葛西がコンビを組むともっぱらの噂で胸熱なネウロ2の内容を妄想していると、目の前のさくらんぼのような唇が、にまーっと三日月形に吊り上がっていった。

 

「黙っていてほしかったら、今後一切わたしの言うことに異論を挟んだり、反論したりしないって約束してください」

 

「……それは実質の奴隷宣言じゃないのか」

 

「いえいえ、パシらせたり奢らせたりなんかしませんから安心してください。ただ、わたしが先輩とのことについて何を言っても否定しないでくださいねーっていう、それだけのことですよー」

 

「なお信用ならないんですがそれは」

 

「先輩、もしかして自分に他の選択肢があるんじゃないかって思ってます?」

 

 喜悦に細められた目が、俺の目の前に迫ってくる。

 

 動けない獲物を前にした猛獣のような、今にも舌なめずりせんばかりの愉悦っぷりだ。

 

「いいんですよ、この場で雪ノ下先輩と由比ヶ浜先輩に全てを打ち明けて、写メ撮って学校中にバラ撒いても」

 

「……困る。それは大いに困る」

 

「なら契約は成立ってことでオッケーですね?」

 

「……分かったよ、好きにしろ。その代わり、雪ノ下たちには適当なこと言っといてくれよ。この適当っていい加減って意味じゃないぞ、適切なって意味だぞ」

 

「了解しました! じゃあ先輩、また明日学校でお会いしましょうね~」

 

 そこここに散らばっていた制服類を回収すると、一色は意外にもあっさりと俺に背を向けた。……べ、別に残念なんかじゃないんだからねっ。

 

 内心胸を撫で下ろしたのも束の間、一色はくるっと振り返って、

 

「ちなみに、今日わたしが置いといたのは、普段わたしが着てる制服なんです。だから先輩は、わたしの制服に興奮しちゃってたってことなんです」

 

「……だから何だよ」

 

「あ、わからなくても大丈夫ですよー。先輩たちには、ちゃんと納得いってもらえるように説明しておきますからっ」

 

 最後に特大の笑顔を作って、颯爽と引き上げていった。

 

 まあ何とか社会的に死なずには済んだと言えるだろう。一色が約束を守っている限りではあるが。

 

 しかし、一難去ってまた一難というか、

 

「……いっそ、女装野郎だって思われた方がマシだったんじゃないだろうか」

 

 胸の中に生じた一抹の不安は、無視しきれないほどにまで膨れ上がっていた。

 

 

 翌日。

 

 あれからひたすらツイッターフェイスブックなどのSNSの類を巡回し、理性の化け物(笑)こと俺の画像が拡散希望されていないかを逐一調べて回ったが、どうやら一色は約束を守ったらしい。

 

比企谷八幡』だけでなく、『ヒッキー』『ヒキタニ』『ヒキオ』など、様々な単語で検索を掛けてみたが、ただの一つも該当はなかった。いや、それはそれでなんか悲しいものがあるが。

 

 しかし、単に『こいつキモすぎwwwww』みたいな普遍的なタグをつけられていたらお手上げだ。そこはあいつの誠意に縋るしかない。

 

 女装写真の流出に怯える男子高校生なんて吉井明久くんだけだと思っていたが、まさかそれが自分に降りかかってくるとは、まさに人間万事塞翁が馬である。

 

 おっかなびっくり登校し、いつも通り空気のように無視されることに安心し、戸塚との安らぎの時間を楽しんでいるうちに授業は終了していた。

 

 さて、ここからが問題だ。

 

 部室に行けば、仕掛人その一・雪ノ下がいることは間違いない。

 

 本来なら俺に対して引け目を感じるべきは雪ノ下なのだが、ものの見事に策略にドハマりしてしまったせいで、逆に俺が顔を合わせにくい。

 

 敢えて部活に行かないという選択をしたいところだが、雪ノ下の狡知に掛かれば、俺の行動などテンプレ厨パにあぐらを掻いた厨房の選出よりも容易く読まれてしまうだろう。

 

「あ、ヒッキー! 偶然だね、一緒に部活行かない?」

 

 とまあこんな具合に。 

 

 HRが終わるやいなや教室を飛び出したというのに、階段の踊り場でばったり由比ヶ浜とエンカウントしてしまった。

 

 この季節にしては温暖な一日だったが、きっちりセーターとジャージを装備した防寒体勢。何故かスカートは穿いていない。

 

 ていうか偶然も何も、お前6時間目終盤から既にいなかったじゃん。

 

 完全に俺を逃がすまいとして待ち構えてたやつじゃん。

 

「……いや、これからお腹が痛くなるから」

 

「大変! じゃあ部室でゆきのんにお薬挿れてもらわないと!」

 

「何故そうなる!」

 

 とっさに出た自分の言い訳の意味不明さにも驚いたが、それに対する由比ヶ浜の返しはそのさらに上をいっていた。せめて飲ませろよ。

 

 戦慄する俺を見て、由比ヶ浜は心底おかしそうな笑い声を上げた。

 

「冗談だよヒッキー。ゆきのんがそんなことするわけないじゃん」

 

「そ、そうだよな。あーびっくりした。でもヒッキー“が”をやけに強調してたのがすごく気になっちゃうな……」

 

「まあまあ、とにかく行こうよヒッキー。ゆきのんもちゃんと用意して待ってるんだからさ」

 

「紅茶だよな? 雪ノ下は紅茶を用意して俺を待ってるんだよな?」

 

 俺の切実な問い掛けに、由比ヶ浜はただあっけらかんとした笑顔を見せるだけだった。

 

「ようこそ比企谷くん。あなたを待っていたのよ、さあここに掛けなさい」

 

「……お前、本当に雪ノ下か」

 

「失礼ね。私は紛れもなく比企谷八幡の知っている雪ノ下雪乃よ」

 

 ノックもせずにドアを開けたのに怒らなかったとか、俺の来訪をパンさんクッションでお出迎えしてくれたとか、そんな些細なことが全て吹っ飛んだ。

 

 震える手を何度かグーパーして鎮め、恐る恐る雪ノ下の脚を指差した。

 

「お前、下に、ジャージを……」

 

「寒いときは温かい格好をしないと、皮下脂肪がついて太ってしまうから。これくらいは女子高生として当然の嗜みよ」

 

 

 例え相模が俺の彼女になったとしても、材木座が空気を読めるようになったとしても、平塚先生にフィアンセが見つかったとしても、それでも起こり得ないことが世の中にはあるはずだ。

 

 そんな、聖杯に願っても叶わないほどのありえない奇跡が今、俺の目の前に降り立っていた。

 

 雪ノ下が。

 

 校則を破って。

 

 スカートではなく、学校指定のジャージを穿いている。

 

 ご丁寧にジャージの下には濃い目のタイツを着用し、手元は俗に萌え袖と呼ばれる余ったセーターの袖に隠れて見えない。

 

 つまり、俺に顔以外一切地肌を晒していないのだ。

 

 そしてそれは、由比ヶ浜も同様。

 

 確かに冬とは寒いもの。

 

 だが、例年でも一番の暖かさとお天気お姉さんが太鼓判を押していた今日この日、ここまで完全防備をする必要が一体どこにあるというのか。

 

「比企谷くん。いつまで私の脚をべろべろと見ているのかしら。正直に言って不快だわ」

 

「舐めるように見ているとでも言いたいんだろうがその形容はおかしい。大体、そんな強化外骨格みたいに服着込んでるんだから、見られたところでどうってことないだろ」

 

「そうかしら。比企谷くんと同じ空間に安心しているためには、これでもまだ足りないくらいだと思っているのだけれど」

 

「そうだよー! いっつもいっつもゆきのんとか、あたしとかを変な目で見てくるじゃん! このくらいしないと、ゆきのんもあたしも安心できないんだよ!」

 

「本当なら学校も休みたかったところだけれど、あなたに話があったからこうして来たの」

 

 あんな女としての尊厳を投げ捨てた悪戯を仕掛けてきておいて、今更何を純情ぶっているのだと小一時間説教してやりたいところだったが、渋々席に着く。おお、柔らかい。さすがパンさん。

 

「で、話ってのは何だよ」

 

「昨日私たちがあなたに課した試験については、一色さんから説明を受けたと思うけれど」

 

「物は言いようだな、おい」

 

「その結果は甚だ私たちにとっては不満足なものだったと言えるわ」

 

「理由を聞かせろ」

 

 すると、今まで居丈高に俺を睥睨していた雪ノ下は、何故か頬を赤らめてぷいっとそっぽを向いてしまった。

 

「あなたは私たちの体にも制服そのものにも興味はなく……わ、私たちが着ていた制服でないと興奮できない異常者だということが分かったからよ」

 

「も、もう! ヒッキーって本当にヒッキーだよ! いろはちゃんから聞いたとき、あたしもゆきのんもすっごく困ったんだからねっ」

 

「なるほど……」

 

 結局、一色は俺が女装趣味の変態でも、女体に飢えた変態でもなく、雪ノ下と由比ヶ浜のもの限定の制服フェチだと伝えたというわけか。

 

 制服なら何でもってわけじゃない。

 

 俺はお前たちのものだから好きなんだ、みたいな。

 

 ……ま、女装野郎よりかは幾分マシか。一色、グッジョブ。

 

「全く、見下げ果てた男ね。少しは見所があると思っていたのに……あ、あなたは私のスカートしか見ていなかっただなんて」

 

「そ、そうそう。ヒッキーは皆のことを気にかける振りして、実はあたしのワイシャツの胸元にしか興味がなかったんだもんね。がっかりだよ」

 

 やれやれだぜと言わんばかりにため息をつく雪ノ下と由比ヶ浜

 

 なるほど、制服を着ていなかったのはそれが原因か。地肌を見せないためでなく、制服を着ていなくても違和感がないくらい着込んでおくことが目的だったと。 

 

「でも、比企谷くんが右に出るものがいないほどのスカート好きだったおかげで、あなたの腐った視線が由比ヶ浜さんに注がれることはなかったみたいだから、それだけは幸いだったと言えるわね」

 

「うんうん。ヒッキーが自分でも抵抗なく着られるワイシャツが好きだったおかげで危ない道に進まずに済んだんだから、喜ばないといけないよね。ゆきのんのだと、ちょっとサイズ的に入らなそうだもんね。いろいろと」

 

「……そうね。でも比企谷くんはより倒錯的な快感を求める変態だから、ただワイシャツを着た程度では満足できないはずよ」

 

「そんなことないよ! ヒッキーはまだ帰ってこれるんだよ! 勝手に取り返しのつかない変態さんみたいな扱いしないでよ!」

 

「どっちでも……よくはないけど、とりあえず俺の変態度の高低を真面目に議論するのはやめろ。結局、結論は何なんだ」

 

「だから、比企谷くんをさらなる高みへと導くために……」

 

「違うよー! ヒッキーがちゃんと生身の女の子を好きになれるように、これからいろいろと……」

 

「おい、何で語尾を濁して赤くなるんだよ。いっそ言えよ最後まで」

 

「「つまり……」」

 

「先輩が行くところまで行ってから、お二人がそこに追いつけばいいんじゃないですかー?」

 

「「それだ(わ)っ!!」」

 

「違う! あと一色! いろいろ言いたいことは「ありませんよね?」はいありません。でもその荷物は何だ」

 

「やだなー先輩。見れば分かるじゃないですか。ウィッグとメイクボックスと暗幕ですよ。会長特権で演劇部さんから借りてきました」

 

 工具箱みたいにデカいそれをドスンと机の上に置き、手早く暗幕――ただの黒い布――を窓にガムテで貼り付ける一色。

 

 ちょっと、何で部室を外界から隔絶してるの? 空間製作者なの?

 

 あれ、てっきり固有結界みたいな能力かと思ってたんだけど、超頑張って物理的に人払いしてるだけなんだよね。

 

 最後にドアの鍵を内側から厳重に掛け、一色はにっこりとこちらを向き直った。

 

「じゃあ先輩、始めましょっか」

 

 やべえ、アンチいーちゃんこと、ノイズくんがいーちゃんと対決したらどうなってたのかを考えてるうちに逃げ場がなくなってた。 

 

 とっさに立ち上がろうとした俺の額を、雪ノ下がそっと片手で押さえつけた。

 

「立つことができないでしょう、比企谷くん」

 

「く、くそ……友達に披露すると驚かれる人体の不思議その一を実践的に使う奴がいるとは思わなかった……!」

 

「披露する友達なんていないでしょう」

 

「まあそうだけど……」

 

「先輩のためを思って言いますけど、ここで逃げたらもっと大変なことになっちゃいますよー?」

 

「大丈夫、あたしどんなに汚れちゃったヒッキーでも受け止めてあげるから」

 

「お前らがこれから汚すんだろ……」

 

「比企谷くんにこれ以上汚くなる余地などないから、その点は心配無用よ」

 

 好き勝手なことを言いながら、和気あいあいと道具を俺の周りに広げていく雪ノ下たち。

 

 新聞紙、安全剃刀、お湯入りの洗面器、タオル、ワセリン、眉ペン、毛抜き、パフ、白粉、ブラシ、ウィッグ……その他用途の想像がつかない諸々が、続々と積み上がっていく。

 

「では始めるわ、比企谷くん。くすぐったいかもしれないけど、極力動かないで、大丈夫だから」

 

 何で俺の脚にワセリンを塗るんだ雪ノ下。別に俺乾燥肌とかでもなんでもないんだけど。むしろうるおいボディなんだけど。

 

「じゃ、あたしは顔かなー。大丈夫、そんなに眉細くしないから……うわ、ヒッキーまつ毛長っ! ちょっとキモいかも」

 

 え、眉? ははは、校則でいじっちゃダメだってあったからちゃんとナチュラルのまま……あいたー!? 数本一気に持ってかれたぞ今!

 

「うーん……これしかなかったとはいえ、やっぱ黒髪の方が似合いそうですよねー……先輩しょうゆ顔ですし……雪ノ下先輩、由比ヶ浜先輩、今度ショップ行ってみません? あ、でも大丈夫ですよ先輩。ちゃんと可愛くしてあげますから」

 

 お前ら、喋るごとに『大丈夫』って言うのやめろ。小学校の林間学校のレクで同じ班の地図係がしきりにそれ連呼してたの思い出して不穏な気分になるから。

 

 ……まあ、今更泣こうが喚こうが現実は何も変わらない。

 

 今日俺が、比企谷八幡が、ここで男として死ぬという事実は、何一つ変わることなどないのだから。

 

「……さよなら、八幡」

 

 俺は窓の外を見つめながら、ただじっと時が過ぎ去るのを待っていた。

 

 無我の境地に至ること一時間。

 

 眉を抜かれ、何か塗られ、脛を剃られ、脱がされ着せられとあれやこれや弄り回されたが、俺はもう比企谷八幡であって比企谷八幡ではない。よって、どんな扱いを受けようと、最早一切動じることなどありえないのである。

 

 ……と思っていたのだが、

 

「これが、俺なのか……?」

 

「うわー先輩ヤバいですヤバい! マジありえないっていうか、自分でやっといてなんですけど信じられないですっ!」

 

 きゃいきゃいと一人で大はしゃぎしている一色を尻目に、俺は姿見に写った人影をまじまじと見つめる。

 

 そこには、黒地に白抜きのプリントが入ったロンTに、シンプルな七分丈のパンツを身につけ、ぽかんと口を開けた目付きの悪いヤンキー風のお姉さんが写っていた。

 

 ……これ、テレビじゃないよね? 鏡だよね? うわ、何で箱の中に人がいるんだ!? なんて過去からタイムスリップしてきた江戸時代の人みたいなこと言わないよ俺?

 

 

「先輩ひげ薄いですしまつ毛長いですし、目元と唇ちょちょっといじっただけでこんなんなっちゃったんですよ~……あーもうなんかムカつくっていうか、わたしたちが普段どれだけ苦労してメイクしてると思ってるんですか」

 

「俺に言われてもな……」

 

 よくよく見れば、自転車通学の賜物なのか、ふくらはぎが妙にゴツかったり、手は誤魔化しきれなかったのかいかにも男もの(ネイル済み)だが、それ以外はぶっちゃけ小町でも分からないまであるレベルで女になりきっている。いや、それはないな。小町がお兄ちゃんのこと分からないわけないし。

 

 それはさておき、鏡を見ているだけで、比企谷八幡の根底にあるものが揺さぶられているような、ひどく不安定な気分になる。

 

 俺みたいに喋り、俺みたいに動き、俺と同じところを見ている、俺ではない誰か。

 

 一週間ばかし海外旅行に行ったくらいで人生観が変わったなどとのたまう輩には常々軽蔑の念を抱いていた俺が、たった一度の女装でアイデンティティが曖昧になっているのだから笑ってしまう。

 

 そうか、俺にはこういう生き方もありなのか、と思ってしまうほど。

 

 ……いや、本気じゃないけどね? あくまでもしもの話だよ、もしもの話。『if』の話とか超好きだから俺。例え詭弁みたいでも何だか救いがあるような気がするから。

 

「先輩身長はそこそこありますけど、肩幅とか首とか二の腕とか、とにかく全体的にひょろいんで、レディースの服でもそのまま着れちゃうんですよ」

 

「……やっぱこれ女物なのか」

 

「シャツもパンツも結構お高いそうなので、あんまり伸ばしたりしないでくださいね」

 

「パンツなんかそうそう伸びねえし、第一これ着て飛んだり跳ねたりするわけじゃねーだろ。つーか、元からなんか伸びてるぞ、これ。ほら、胸元のあたりが妙にスカスカしてるし」

 

「…………ご、ごめん」

 

 ……あれ、何で由比ヶ浜が謝るの? 俺今一色と喋ってたんだけど。

 

 俺の怪訝な視線に気づいたのか、由比ヶ浜がもじもじしながら口を開いた。

 

「……それ、前優美子がうちに泊まりに来たときに忘れてったので、返そうとしたらあげるって言われたから、部屋着にしてたんだけど……」

 

「……お、おう」

 

 なるほど。

 

 胸のサイズが合わないから、着てるだけで勝手に伸びちゃったと。

 

 つまり、これは普段由比ヶ浜が着てる服……ヤバい、胸がめっちゃドキドキしてきた。

 

 言われてみれば、なんとなく由比ヶ浜っぽい匂いがしないでもないような――――

 

「ちょ、ヒッキー! 匂いとか嗅ぐのやめてよ、恥ずかしいじゃん!」

 

「制服どころか、私服でさえ見境なしなんて、さすがは比企谷くんね」

 

 はっ、無意識のうちに袖の匂いを嗅いでいたようだ。

 

 しかし、わざわざ嗅ごうとしなくても、女子特有の甘い匂いが勝手に鼻腔に滑りこんでくるのだからどうしようもない。鼻で息をするなとでも言いたいのだろうか。

 

 とにかく、ちょっと目覚めかけたがいつまでもこんな格好をしているわけにはいかない。

 

 いや、むしろ目覚めないためにさっさと元の服装に戻りたい。パンツルックだったのがせめてもの救いだったといったところだ。

 

「何か不機嫌そうな顔ですけど、やっぱりスカートの方がよかったですか~? なら、こっちにデニムのミニがありますけど、穿きます?」

 

「余計なお世話だ。それに、この顔は生まれつきだよ」

 

 

「ねえゆきのん、どうして男の人ってスカート穿きたがるのかな? パンツだって可愛いのたくさんあるのにね」

 

 

「そんなことを言っているうちはまだまだ駆け出しよ。彼らは女になりたいんじゃなく、ただスカートを穿きたいだけ。さらに言うなら、スカートを穿くことで自然と動作が女性的になること自体を楽しんでいるだけよ。パンツルックでは意識しないと女性らしく振る舞うことのできないから、その欲求を満たすことはできない。だから彼らは女装といえばスカートを穿くことしか頭にないの」

 

 

「へえ~、なんだかもったいない気がするね。レディースの服を、レディースだって分からないように普段のファッションに取り入れるのも楽しいと思うのに」

 

 

「初見でレディースと分かるような服を着るのなら、身だしなみの段階から女性的でないと違和感を覚えてしまう。けれど、かと言ってメンズなのかレディースなのか際どい服を着ても、それで欲求を解消できるとは思えないわ」

 

 

「いっそどこからどう見ても女性だって言えるくらい完璧に女装して外出した方がいい気がしますけど、そうなる前で踏みとどまっていた方が、少なくとも社会的には真っ当な人なんですよね~」

 

 

「男性であると見破られることがないのならその選択もありだとは思うけれど、衣装やメイク道具を充実させて、ある程度自分の嗜好と向き合えるような年齢になった頃には、既に外科的な処置を施しても女性であると思われるには厳しくなる程度には老いているはずよ」

 

 

「確かに、たまに駅とかでバレバレの女装してるおじさんとか見るけど、気持ち悪いとか以前にすっごいいたたまれない気分になるもんね……」

 

「世間の目が気になっても、こんなことは一般的には間違っていると分かっていても、それでも抑えることのできない衝動に駆られることが誰しも一度もあるはずよ。きっとそれが、人間が人間として生まれたが故に背負わされた業なのではないかしら」

 

「そっかー……難しい問題なんだね……」

 

「……何の話してんの、お前ら」

 

 女装に理解ありすぎだろ、こいつら。経験者かよ。

 

 しかし、女装とはこれすなわち女を装うこと。つまり、自分で自分の物真似ができないのと同じように、女装をするには前提として性別が男でなければならない。

 

 この世界に真に男しかできないことがあるとするならば、それは力仕事でも大統領でもなく、女装なのである。

 

 と、男として生まれた意味について考えていると、雪ノ下がこほんと咳払いをして言った。

 

「さて、依頼も来そうにないし、今日のところはこのくらいで終わりにしましょう」

 

「う~ん……まあ時間も時間ですし、続きはまた明日ということにしましょうか」

 

「続くのかよ」

 

「ヒ、ヒッキー。その服あげるから、着て帰ってもいいよ?」

 

「まずいらん。自分で持って帰ってくれ」

 

由比ヶ浜さんに感謝するのね比企谷くん。あなたの制服は何故か行方不明になってしまったけど、由比ヶ浜さんの服があるから全裸で帰らなくてもよくなったわ」

 

「せめて肌シャツくらい着させろ」

 

「それよりトランクスだと思うんですけど……」

 

 小粋なトークを交わしながら帰り支度を始める俺たち。この短時間で、前髪を搔き上げる仕草が身についてしまったのが怖い。つーかこのキューティクル抜群のウィッグ本当に演劇部のかよ。こんな高級品高校の部活なんぞに転がってないぞ、普通。……おい、取れねーぞこれ。何でくっつけてんだ。

 

 皆してメイク道具を片したり、暗幕を外したりと忙しくしていると、雪ノ下の思いつめたような声が聞こえた。

 

「……由比ヶ浜さん、一色さん。鍵を失くしてしまったみたいだから、2人とも先に帰っていてちょうだい」

 

「ええ!? 大変じゃん、すぐ探さないと!」

 

「心配には及ばないわ。私とハチ子……もとい、比企谷くんがいれば、すぐに見つかると思うから」

 

「誰がハチ子だ。勝手に源氏名をつけるな」 

 

「え、でも」

 

由比ヶ浜さん」

 

 雪ノ下はつかつかと彼女の元へ歩み寄ると、ごにょごにょと内緒話をし始めた。

 

「…………明日……時間……たっぷり……」

 

「でも……ヒッキー…………初めて…………」

 

「今度……皆で………そのまま………パルコに……」

 

「ちらちらこっちを見ながらこそこそ話をするのはやめろ。不安になるだろうが」

 

 俺の言葉はまるっとスルーされ、協議を重ねる雪ノ下と由比ヶ浜

 

 やがて双方合意に至ったのか、満足げに微笑みながら2人は離れた。

 

「ではまた、明日の部活動のときに会いましょう」

 

「うん、それまでにあたしも準備しとくから。いろはちゃん、帰ろっか」

 

「はーい♪」

 

 仲睦まじく、並んで部室から出て行く由比ヶ浜と一色。

 

 何故かその背中が、俺にはひどく遠く感じられた。

 

「…………」

 

「…………」

 

 楽しげな2人の会話が遠ざかるにつれ、部室には纏わりつくような静寂が満ちていく。

 

 しかしそれは決して気まずいものではない。

 

 沈黙が苦痛なのは、喋ることがないのに喋らなければいけない状況にあるときだけだ。

 

 彼女が、雪ノ下が話し出すのを待つだけのこの時間は、俺にとってはむしろ心地いい。

 

 ふう、と何か決心したように雪ノ下は一息つくと、

 

「……ユニフォーム交換というものを知っているかしら、比企谷くん」

 

 何の脈絡もなく、そんなことを言い出した。

 

「まあ、知ってるけど」

 

「激戦を戦い抜いた者同士が、お互いの健闘を讃え合うために行われる、一種の儀式ね。あまりスポーツには興味はないけれど、とても美しい行為だと私は思うわ」

 

「……はあ」

 

 雪ノ下の言葉の真意が掴めず、生返事を返す俺。

 

 立ったまま淡々と言葉を紡ぐ雪ノ下の様子は至って平常で、そこに普段と違うものを見出すことはできない。

 

「時に比企谷くん。制服を英語に訳すと、何という単語になるのか分かるかしら」

 

「あー……大丈夫、この間調べたばっかだから。覚えてる、覚えてる、だから言わなくていい……えーと、コ、コス……」

 

「頭文字から既に間違っているわ。勉強が足りていないわね比企谷くん。答えはUniformよ」

 

「あー! そう、それだそれそれ。ちょうど今喉元まで出かかってたんだわ、うんうん」

 

「わざわざヒントまで出してあげたのにその体たらくでは、この先が思いやられるわね」

 

「ぐ…………」

 

 ふ、不覚だ……玉縄が使いそうな長ったらしい横文字じゃなく、思いっきり一般的な単語がトぶとは……。

 

 なまじユニフォームが試合着という意味の日常語として定着してるせい……いや、これは日頃の勉強不足が招いたことだ。言い訳はするまい。

 

「で、そのユニフォーム交換が俺に何の関係があるんだよ」

 

「頭の回転が鈍いのね。今からそれをしようというから、こうして話題に挙げたのよ」

 

「……何で俺がお前と制服を交換しなくちゃいけないんだよ。それに、もう学校閉まるぞ」

 

「今日の見回りは平塚先生だから、そのへんはある程度融通が利くわ」

 

「もう一つの方に答えろ。つーか制服返せ。早く帰りたいんだよ、俺は」

 

「……私の制服を着てみたいとは思わないの?」

 

「一色さんの制服は着たくせに」

 

 どくん、と。

 

 心臓が倍に膨れ上がったかのような衝撃が俺の胸を衝いた。

 

「なっ……!? おま、どうして、それを……!」

 

「普通、制服に興味があるからと言って、そうそうそれを自分で着てみようという発想に至る人間は多くないわ。なのに、一色さんは今日あなたを『行くところまで行かせる』と言って女装させようとしたの」

 

 

「おかしいと思わない? 昨日の一色さんの話では、あなたは私たち2人の制服にしか興味がないはずなのに、どうして一色さんの制服を使った実験で、あなたに女装願望があることが分かったのかしら」

 

 

「恐らく、比企谷くんは女装衝動に負けて一色さんの制服に手を出してしまったのではないかしら。そして、彼女はそんなあなたの姿を見て湧き上がった悪戯心を満たすため、それを私たちに秘密にする代わりに何らかの約束を交わした。大方、彼女の言うことに逆らうなとか、そんなところでしょうけど」

 

 

「……いくらあなたとはいえ、いきなり制服を着せるのはハードルが高いから、少しづつステップを踏むべきだとか、いろいろ言っていたけれど、全てあなたが女装をさせられて困っているところを見たいがための行動だったようね」

 

 流れるように推理を述べた雪ノ下は、少し自慢気な顔で問いを投げてきた。

 

「何か、間違っていたところはあったかしら」

 

「……ありません。全て事実です」

 

「なら、あなたがこれからするべきことは分かっているわね」

 

 そう言って手提げバッグをごそごそやって取り出したのは、きっちりと折り目正しく畳まれた、女子用の制服だった。

 

 どうやら、最初から制服は着ていなかったらしい。

 

由比ヶ浜さんの服を脱ぐことを許可するわ。代わりに、私の制服に着替えなさい」

 

「……何が目的だ、雪ノ下」

 

「空腹のときに食事をとりたいと思う気持ちに、何か理由があるのかしら。原始的な欲求に動機を求めるのは無粋よ、比企谷くん。いつも何食わぬ顔で私と一緒にいるあなたが、私の匂いが染みついた、私の制服を着たときに、どんな反応を示すのか。それが知りたいの」

 

「なら、俺の制服をお前が着る必要はないだろ」

 

「そんなことを、皆まで言わせないでもらえるかしら」

 

「……せめて、電気を消させてくれ」

 

「構わないわ」

 

 部室の入り口まで足を運び、照明を落とす。

 

 ぱちっと音がして、部室は一気に薄暗くなった。

 

 星が瞬き始めた夜空の底で、沈みかけの夕日が最後の輝きを放っている。

 

 あの分なら、きっと一分も経たないうちにその姿は地平線に消えるだろう。

 

(…………?)

 

 日没を経て、夜に至った。そして朝を迎えて、また日が落ちようとしている。

 

 なのに、まだ昨日一色と別れてから、一時間と経っていないような気さえする。

 

 そもそも、俺は今日何時に起きた? どうやって学校まで来た? 授業中何をしていた?

 

 虫が食ったように断片的であやふやな記憶。

 

 熱に浮かされたように、おかしなことばかり口走る彼女たち。

 

 ああ、これはきっと夢だ。朝が来れば帳消しになり、何の記録にも残らない虚ろな時間。  

 

 だが、それが一体何だというのか。

 

 覚めない夢などないし、明けない夜など来ない。

 

 それは現実においても変わらないことだ。楽しい日々も苦い過去も、全て等しく思い出として風化していくのだから。

 

「では始めましょう、比企谷くん」 

 

 日が完全に落ちると同時に、雪ノ下は髪飾りのリボンを取り払い、一度頭を大きく振った。

 

 まるで緞帳のように暗い、長い黒髪。

 

 それに隠された雪ノ下の表情は、俺からは窺い知ることはできない。 

 

 そして、総武高校に夜が訪れる。

 

 俺と雪ノ下の2人だけの、短い夜が。

 

 

 眼下の街明かりと、ぽつりぽつりと瞬きだした星空だけが照明代わりだった。

 

 暗闇に沈む校舎に、無言で佇む俺と雪ノ下。

 

 自分の掌も朧げな闇の中では、三メートルほど距離を空けた彼女の表情など、推し量るよりほかに知る術はない。

 

 ほう、と。ため息をつくように雪ノ下が吐息を漏らすのが聞こえた。続いて、髪を手櫛で梳いている、さらさらという音。

 

 俺たち以外に動くものがない今の部室では、息遣いや衣擦れの音さえも、話し声のように鮮明に耳朶を打つ。

 

 何の気なしに身じろぎし、脚をもぞもぞと動かしてみる。

 

 すると、スカートの裾がわずかに揺れ、太もものあたりからこそばゆい感覚が這い上がってきた。

 

(……本当にスースーするな)

 

 脚を動かしただけで、内股同士が擦れ合うのがひどく落ち着かない。

 

 ぴったりと膝上から爪先に張り付いたニーハイソックスの窮屈さと、そのすべすべした手触りが妙に癖になる。

 

 実質的に露出しているのは、高さ5センチほどもない、いわゆる絶対領域と呼ばれる箇所のみだ。

 

 肌を晒しているいないの話をするのなら、はっきり言ってスラックスを穿くのと大差はない。

 

 だというのに、ただ座っているだけでひどくもどかしい気分になってくる。

 

 ユニフォーム交換

 

 ユニフォームとは、日本語で言うところの制服である。

 

 ならば、完全に和訳したユニフォーム交換とは、すなわち制服を取り替えっこすることなのだ、というのが、開会宣言を担った雪ノ下選手の言だった。

 

「お楽しみのところ邪魔して悪いけど、感想はどうかしら比企谷くん」

 

「……別に楽しんでねーよ。女物の服着る機会なんてなかったから、新鮮に感じてるだけだ」

 

「そう。わたしは今、十全に楽しんでいるところよ」

 

「…………お、おう」

 

 目が暗闇に順応しだし、少しづつ真っ暗だった部室の中が見えるようになってくる。

 

 その正面には、椅子に腰掛け、居丈高に脚を組んでいる雪ノ下の姿があった。

 

「スカートだと、人前ではあまり大っぴらにこんなことはできないから、なんだか気分が良いわ」

 

「……人前じゃなかったらやるのか?」

 

「ええ。家ではお風呂上がりにパジャマも着ずにストレッチをしたりするし、休日は伸びきったTシャツに安物のハーフパンツを穿いて、カーペットに寝そべったままお菓子を食べているわ。2連休で外出の予定もなかったら、徹夜でネットの動画を見漁ることも珍しくないわね」

 

 

 くすり、と小さく雪ノ下は笑った。

 

「これが本当だとしたら、あなたはどうする?」

 

「別にどうもしねーよ。意外だなって思うだけだ」

 

「そう。仮にわたしが男の子だとして、自分の彼女がプライベートではそんな風に振舞っていると知ったら、どんな手を使ってでも止めさせるけど」

 

「……誰も見てないとこで何してようが、そんなの勝手だろ」

 

「そうね。比企谷くんが普段誰のことを考えながらどういう自慰をしているかなんて、そんなのは比企谷くんの勝手だものね」

 

「………………」

 

 ……部室が暗くて本当によかった。

 

 雪ノ下の口から『自慰』という言葉が出た瞬間、思わず馬鹿みたいに目を見開いてしまった。

 

 こうしていると、修学旅行の消灯後のあの時間を思い出す。

 

 昼間に面と向かってはできないような、やれどの子が好きだの、どんなとこが好きだのという他愛もない恋愛トーク

 

 録音されていたら死亡不可避のこっ恥ずかしいことこの上ないやり取りだが、している分には楽しいものである。知らんけど。

 

 とにかく、お互いの顔が見たくても見えないという状況は、アレな方向に人を解放的にするのである。

 

 

「……そういう感じの話、由比ヶ浜ともするのか?」

 

「そういう感じとはどういう感じかしら。比企谷くんも文系の端くれなら、もっと分かりやすく表現してもらえないかしら」

 

「だからその……恋話っつーかシモ系の話だよ。よくお泊まりとかしてるんだろ? そのときに、女子ってそういう話とかしないのか?」

 

「まあ、初恋の思い出くらいは共有し合っているわ」

 

「ってことはお前にも、昔好きな人がいたってことか」

 

 口にした途端、ずきんと胸の奥が刺されたように傷んだ。

 

 人間、真っ当に学校生活を営んでいれば、片思いの一つや二つは当然のようにするものだ。

 

 それが、後から思えばただの偽物だったとしても。

 

 この俺にさえそんな経験らしきものがあるのだから、控えめに言っても美少女の部類に入る雪ノ下ならば、そのくらいはあったところで何らおかしなところなどない。

 

 だが、許せなかった。

 

 雪ノ下が、俺の知らない男と睦まじくしているその光景を、想像するだけで心がざわつき、行き場のない苛立ちが湧いてくる。

 

 傲慢だ。身勝手だ。自意識の塊だ。

 

 どうして雪ノ下は自分にだけ気を許していると思ったのか。

 

 雪ノ下が誰に対して何を思おうと、それこそ雪ノ下の勝手ではないのか。

 

 たった半年同じ部活だったというだけで、雪ノ下にとっての唯一の存在になれたとでも思ったのか。

 

 ぎり、と奥歯を強く噛み締める。

 

 折本のときと同じだ。

 

 勝手に思い込んで、勝手に舞い上がって、勝手に浮き足立って、勝手に先走って打ち砕かれた。

 

 どうやら俺は、あのころから何一つとして成長などしていなかったようだ。

 

「いえ、いないけれど」

 

「っていないのかよ!」

 

「ちなみに、由比ヶ浜さんにもいなかったわ」

 

「何の思い出を共有したんだよお前らは」

 

 その件を話していたときの2人の空気がありありと思い浮かぶ。

 

『ねえ、ゆきのんって昔好きだった人とかいないの?』『いえ、特には』『またまたー。本当はいたんでしょ?』『いいえ、いないわ。そういう由比ヶ浜さんは?』『ふぇっ!? あ、あたしにもいないよー!』『……なら、どうして私にこの話題を振ったのかしら』『えー、だって気になるじゃん』

 

 ……おかしいな、どっちも気の利いた返しをしていないのに、何故か雪ノ下と由比ヶ浜が喋っているとそれだけで楽しそうな雰囲気が伝わってくる。

 

「さて、あなたの質問に答えてあげたのだから、今度はあなたが私の質問に答える番ね」

 

「そんな取り決めを交わした覚えはないんだが」

 

「さっきはうやむやにされてしまったけれど、もう一度聞かせてもらうわ。私の制服を着た感想はどうかしら」

 

「どうって言われてもな……」

 

 この格好で街中を歩いたり、木登りでもしてみればまた趣も変わってくるのだろうが、あいにくただ制服を着ているだけで興奮できるほど、俺は変態ではなかったらしい。昨日? あれはうちのシマじゃノーカンだから。

 

 当初はスカートの独特な穿き心地にちょっとドキドキもしたのだが、しばらくするとその感覚にも慣れてしまったのである。変な話。

 

 それでも、聞かれたからには何かしら答えなければならないだろう。

 

 まず、全体的にサイズが小さい。

 

 身長も体重も肩幅も、何もかもが俺より小さい雪ノ下の服なんだから当然だが、あちこちがとにかく窮屈で仕方がない。

 

 一色いわく、スカートとはウェスト穿きするものなのだが、それは肋骨の形状の関係でくびれがある女子の場合であって、男にそんなものはない。

 

 したがって、へその少し上らへん。腹を全力で引っ込めることで、ウェストが最低値になる位置で、無理矢理衣服として纏っている状態だ。

 

 さらに、

 

「ワイシャツの胸のあたりがキツいな。全然余裕がなくて、腕を回しただけでボタンが千切れそうだ」

 

「………………」

 

「……あ、いや。俺の方がお前より多少なりとも胸筋があるからとか、」

 

「……つまり、特別鍛えてもいない比企谷くんの胸筋よりも私の胸は小さいと。そういうことを言いたいのかしら」

 

 小さな子供は思ったことをすぐ素直に口に出してしまう。

 

 髪の毛が薄いおじさんを見て『この人ハゲてるー!』とか、ちょっと若作りしてる感が出てるお姉さんに『おばさん』とか、俺を見て『この人目つき悪くね?』とか。

 

 あれは悪意があって言っているのではなく、ただ『これを言ったら相手が傷つくだろう』とか、そういう配慮ができないからつい言ってしまうだけなのだ。

 

 子供は子供らしく、純粋に純真に振る舞うことが正しい姿だ。

 

 その正直さがまた、的確に人の心をえぐってくるわけなのだが。

 

 何が言いたいかと言うと、悪意なく発した言葉が、時に人を攻撃してしまうこともあるのだということである。

 

 とうとうとそう雪ノ下に言い聞かせると、

 

「……私の胸が小さいということ自体は否定しないのね」

 

「……いや、雪ノ下。お前は人類史上稀に見る巨乳だ。俺が保証する」

 

「むしろ、それが私をバカにしようとかそういう思惑は一切なしに普段からそう思っていたということを裏付けただけだから、言い訳どころか追い打ちを掛けただけのように思えるのだけれど」 

 

「本当にすいませんでした」

 

 極東の秘奥義DOGEZAを行使しようとしたところで、呆れたような雪ノ下のため息が聞こえた。

 

「まあ、胸の大きさだけで人間性を測るような人間はこちらから願い下げだし、別に気にしてはいないのだけれど」

 

「そうか。ならいいんだが」

 

 客観的、相対的に人間性を測る方法など果たして存在するのだろうかという疑問はさておき。

 

 終わった話題を蒸し返すのも何なので、とりあえず無難に返事をしておいた。

 

 

 すると、雪ノ下が小さくおかしそうに笑ったのが聞こえた。

 

「……こういう特殊な状況になったら、普段と違う私になれるのかもしれないなんて思っていたのだけれど、あなた相手だと部活中と大差ないわね」

 

「いや、だいぶ違ったような気がしていたんだが」

 

 

 少なくとも、俺の知っている雪ノ下雪乃は、平然と自慰なんて言葉は口にしない。……いや、下半身事情とか普通に言うしなあ。案外俺の知らないとこで言いまくってんのかも。

 

 ……淫語全開で猥談する雪ノ下と由比ヶ浜か。エロいとかじゃなくて普通に引くわ。

 

 そもそも、この2人が猥談をしている図などさっぱり思い浮かばないが。

 

「じゃ、そろそろお開きにしましょうか。比企谷くんも十分に満喫できたみたいだし」

 

「していないし、これからする予定もない。女装なんて面白いもんじゃねーよ。俺には趣味が合わん。時間と金ばっか掛かるし、知り合いに見つかったら人生終了とか、コスパ悪すぎだろ」

 

「何を言っているのかしら。あなたは既に、私と由比ヶ浜さんと一色さんの3人に女装姿を見られているのよ。もう怖いものなど何もないでしょう」

 

「確かにお前ら以上にヤバい趣味がバレたくない相手っていうのはそういないがな」

 

 自分で言うか、そういうこと。

 

 とはいえ、俺と雪ノ下の異常な夜は終わりを告げた。

 

 

 こんな奇妙なイベントが起こることは今後ないだろうし、もちろん自分から起こすつもりはない。

 

 同じ場所で、同じ人間と同じ経験を共有できるのは、人生でただの一度きりしかないのだ。

 

 そしてそれは、ただの一度きりだからこそ、鮮烈に思い出として記憶に刻まれる。

 

 だから、こんなことはこれっきりでいい。

 

 月の光が差し込む教室で、雪ノ下と二人きりで語らうなんてことが、一生に二度も三度もあっては罰が当たってしまいそうだ。

 

 朝になれば全てはなかったことになる。

 

 否、これはただの夢だ。最初から存在などしていない。

 

 ありもしないものの喪失を嘆くなんて馬鹿げている。

 

 封も切っていないゲームのセーブデータが消えたと大騒ぎするようなものだ。

 

 俺の前に立つ雪ノ下が霞んでいく。

 

 どこかから、マイスイートシスター小町の、俺を呼ぶ声が聞こえてくる。

 

 夢はどうやら、ここまでのようだ。

 

「比企谷くん」

 

 夢の中の雪ノ下は、最後にこんなことを言っていた。

 

「また、部活で会いましょう」

 

 

 

「うっす」

 

 いつも通りの短い挨拶とともに訪れた部室には、いつも通り静かに本を読む雪ノ下がいた。

 

 俺が来たことに気づいたのか、本に釘付けになっていた視線が、ちらりとこちらに向けられる。

 

「こんにちは比企谷くん。ちょうど紅茶を淹れたところだから、飲みたかったら勝手に飲んでいいわよ」

 

「ああ」

 

 あいにく今日は紅茶の気分ではなかったのだが、一応返事だけはしておく。

 

 椅子に腰を下ろし、読み止しの文庫本を鞄から取り出し、栞を挟んでおいたページから読み始めた。

 

 きっと、あと数分もすれば由比ヶ浜が騒々しく部室にやってきて、雪ノ下に絡みだすのだろう。

 

 何気なく、何事もなく、平易に進行する日常。

 

 昨晩のようなけったいな非現実などとは一線を画した、真っ当な俺の高校生活である。

 

 時折ページをめくる音がする以外は、至って静かな部室に。

 

 唐突に、少し上ずったような雪ノ下の声が響いた。

 

 

「比企谷くん。昨晩、おかしな夢を見たのだけれど、少し聞いてもらえないかしら」

 

 

 

 

 

 

 

 

元スレ

いろは「どうして女の子の制服着てるんですか」八幡「……何でだと思う?」

http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1432471305/