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雪乃「比企谷くん….ありがとう」【俺ガイルss/アニメss】

 

目を開いているのに暗闇としか認識できない、そんな空間に立っていた。

 

はて、と見回した時に、箱を2つ見つけた。

ひとつは煌々と輝きを放つ白塗りの箱。

もうひとつは、禍々しい。周囲と同化するほどの黒塗りの箱。

 

白に手を伸ばす。簡単に開いた。瞬間何かが胸を満たす。

ああ、これは記憶か。

黒に手を伸ばした。が、開かない。鍵が掛けられているようだ。

ああ、これも記憶か。中が見えもしないのに何故だか理解が出来た。

 

しかし、開けたくないというのに意思とは反して腕が伸びる。これではまるで中毒者だ。

おどろおどろしい箱に、恐る恐る手を掛けた瞬間。

これは夢だと自覚した。

 

「…………」

 

ビクリと体を震わせて、ぼやけた世界と対面する。

目を開ければ見えたのは天井。LED照明が寝ぼけ眼に刺すように入り込み、眩しさから目を横に背けた。

 

背けた先に見える壁掛け時計にかすれた視界を向けると、思考力の低下した頭に午前2時という時刻を知らせてくれる。

やべえ午前2時じゃん。踏み切りに望遠鏡を担いで天体観測しに行かなきゃならん……。

さっきから何言ってんだ俺?寝ぼけまくってるな。無意識に頭をがしがしと掻く。

 

どうやら風呂に入った後に、リビングのソファで横になっていたら寝落ちしてしまったようだ。

 

 

徐々に思い出してきた。

見てもいないテレビから流れる声や音楽に自然と眠気を誘われてうつらうつら → 寝落ち、という黄金パターンだな。

あの睡魔には抗うことは人類には不可能だ。

ボーっとした頭でもぞもぞ体を動かすと、毛布を掛けられている事に気が付く。小町だろうか?あるいは両親のどちらかか。ありがてえありがてえ。

だが、まあここで寝続けるのもアレだし、ちゃんとベッドで寝ますかね。

 

ふぅと鼻息を吐き出して、起きぬけの怠い体をぐっと力を込めて起こし、自室に向かう。

ソファの縁の部分を枕にしていたからか、首筋に寝違えたような違和感があった。

あ、歯磨いてないや。まぁ一日くらいいっしょ→とか考えつつ、自室のベッドに体を投げ出し、布団をしっかり首元まで被る。

 

一度寝落ちから覚醒してしまったからか、すぐに睡魔は訪れてこない。

薄闇の中で目を閉じ、考えを巡らす。数十分ほどはそうしていた。

 

先ほどは何か夢を見ていた気がするが、あまりよく覚えていない。

何かを悩んでいた気がする。夢の中でも悩んじゃうのかよ俺。このままストレス社会に放り出されて生きていけるのかしら?

将来が心配で夜も眠れません(嘘)

まぁ、覚えていないのならそれでもいいか。

 

忘却は人間の救いである、と本で読んだ。あれは中学生の頃だっただろうか。

忘れること全てが悪いことではない。そこに救われることもある。

本当に、人間の脳は良く出来ていると思う。

意識が徐々に暗闇に吸い取られていく。

カーテンの隙間から注ぐ月光と街灯が、まるで木漏れ日のようにゆらゆらと暗闇の中で揺らいでいた。

 

 

「おっきろーーーー!」

 

その声が耳に入り脳に理解された瞬間、体を覆っていた温い布団が剥ぎ取られる。

冬の外気に一気に晒され、ゾクリと体全体に冷気が纏わりつくようだった。

な、何事だ?と、事態の把握に努めていると、カーテンが開け放たれて部屋中が明るい朝日に満たされた。

その眩しさたるや、LED照明の比ではない。目がぁ、目がぁぁぁぁぁぁ!

目を押さえてごろごろしていると、呆れたような声が掛かった。

 

「お兄ちゃん何やってんの? 早く起きないとヤバい時間だよ」

 

「……うぃ」

 

せっかく大佐になりきってたのに、水を差された気分だぜ。

ん、よろしいと呟くと小町は部屋をさっさと出ていく。

ぬぼーっとした目で見ていると、制服もしっかり着て、身支度も整っているようだった。これは本格的に急がねばならんな。

 

いそいそと制服に袖を通し、顔を洗いに洗面所へ向かう。

鏡に映った顔を見ると思わず感想が口をついて出た。

 

「うわ、ひでぇ顔」

 

普段はそれなりに整っていると(目以外は)自負しているマイフェイスだが、今日の起きぬけの顔はひどい。

具体的に言うと目が腐っている。え、いつもだって?

うるせーよぶっ[ピー]ぞ、この野郎。

エア会話を脳内で繰り出している調子の良い俺だが、今日の目はいつにも増してどんよりと濁っていた。

目、というよりは顔全体の印象が暗い。

それが目の下にうっすらと出来た隈のせいだと気が付くのに、長くは掛からなかった。

昨日は結局快眠とはならず、2時間に1回くらいは目が覚めてしまった。

きっとそのせいだろう。

 

季節柄、普段は少し温めのお湯でのんびりばしゃばしゃと顔を洗うが、今日は冷水で一気に眠気を覚ましにいく。

蛇口から出された冷水をすくって顔に掛ければ、一気に意識が覚醒した。

予め用意しておいたタオルでがしがしと顔を拭き、軽く頭髪を整える。

さてと……。

 

 

そのままの足でリビングに向かった。

小町は既に出発の準備が整っているようで、ソファに座り朝の情報番組を眺めつつマグカップでコーヒーを啜っている。

 

「お、やっと起きてきたねお兄ちゃん。おはよう」

 

「おう。おはよう」

 

持っていたカバンを床に投げ出し、自身の定位置となっている食卓の椅子を引いて腰掛けた。既に用意されているトーストにバターを塗ってかじりつく。

うむ、口の中がもしゃもしゃするな。めっちゃもしゃもしゃ。何か飲み物が欲しいところだ。

朝の口内ってねちゃつくよね?あ、しかも昨日歯磨いてないや。超不潔じゃないですかーやだー。

 

「お兄ちゃんコーヒーは?」

 

「おう飲む。アレもくれ」

 

「あいよー」

 

テレパシーか。まるで熟年夫婦のような会話を繰り広げる兄と妹がいた。ていうか俺と小町だった。

間も無く小町がマグカップに並々と注がれた熱々のコーヒーと、牛のマークが描かれた練乳チューブを食卓に運んでくれる。

本当に気が利くやつだ。褒めてつかわすぞ、ほっほっほ。

 

「はい、これで良かった?」

 

「おう。サンキュ小町」

 

礼を述べるために視線を向けると、ソファに雑然と掛けられたままの分厚い毛布が目に入った。

小町はふるふると首を横に振り、わざとらしく大きく溜めを作って言った。

 

「いいんだよお兄ちゃん。ダメダメなお兄ちゃんにずっと尽くすのが小町の努めなんだから!あ、今の小町的にポイント高ーい」

 

「ダメダメってところはまぁアレだが八幡的にもポイント高いぞ。そういや、昨日毛布掛けてくれたの小町か?」

 

昨晩の礼もついでだから言っておこうと問い掛けるが、当の本人は頭に「?」を浮かべている。

その顔を見るだけで何となく答えは予想できてしまうが、黙って回答を待つ。

うーんと考えつつ小町は口を開いた。

 

 

「小町ではないよ。うーん、多分お母さんじゃないかな? 昨日帰り遅かったっぽいし。

帰ってきてお兄ちゃん起こすのも面倒だから、あれ掛けてそのまま寝ちゃったんじゃない?」

 

「ほーん、なるほどね……」

 

俺を起こすよりも自身の睡眠を優先したと。そうでもないとやってられないんだろう。

毛布掛けてくれるだけ親の愛を感じた。

事実共働きの両親は、朝のラッシュを回避する目的で既に家を出て会社に向かっている。

俺よりはるかに遅く帰って来て、早くに家を出る。本当に頭が上がらない。

親にウダウダ文句言ってる奴は養ってもらっているという自覚が足りん。

頭を上げないから一生養って下さい!

 

もごもごとトーストをコーヒーで流し込み、サラダと目玉焼きをささっと食べ終える。

 

食器を流しに持っていき流水に浸していると、既に小町がコートを着て鞄を背負っていた。

 

「もう行くのか?」

 

「今日日直なんだ。少し早めに先生のところに行かなきゃなんだよね」

 

日直。なんだか懐かしい響きだ。

主に隣の女子とコミュニケーションを取れないせいで、毎時間板書を消すのが俺だったり、学級日誌も結局ひとりで書いてたなー。

ひとりで書いたせいで先生の許可が下りず、次の日も罰で日直やらされたなー。なにこれ無限ループじゃん?どうやってループから抜け出したんだっけ?

しかも俺が号令とか掛けるたびにクスクス笑われたなー。常に笑いを取れるとか芸人になれちゃうレベル。うっしぼっち系芸人目指すか。

あぁなんて懐かしいんだろう。思わずホロリとしちゃう。

 

 

そんな感傷に浸りつつ、リビングの扉に手を掛けて出ていく小町を見送る。

 

「まあそういうワケだから先行くねー」

 

「おう行ってこい」

 

我が子にかけるような挨拶をして、小町を送り出す。

 

玄関がバタンと閉められた後に残るのは静寂。広い家に残るのはもう俺だけとなった。

などと思っていたら、カマクラがとっとっとと廊下を我が者顔で闊歩し、リビングに入っていった。

そのままソファを占拠し、収まりの良いを見つけたのかごろりと丸くなる。

いいなぁ……。出来るのであれば私は猫になりたい。なれない。

 

さて、そろそろ俺も行きますかね。時間も押し気味だ。少し急がないとな。

 

風が侵入しないようにきつめにマフラーを巻き、制服のブレザーの上からコートに両手を通した。もごもごして非常に動きにくいが防寒のためだ。

ローファーをつっかけるように履き、玄関を出て施錠する。

鍵を失くさぬよう鞄にしっかりとしまいこんだ事をひとり確認し、自転車に跨りゆっくりと漕ぎだす。

 

いつも通りの日常風景。それをとても愛しく思う。

願わくばこんな普通の日が、いつまでも続けば良い。

波風の立たない穏やかな日常が、いつまでも続けば良いと。

朝の陽光に包まれる中で、そう感じた。

今日は暖かくなりそうだ。

 

 

朝ならではの「おはよう」という挨拶やおしゃべりでざわめきに包まれる昇降口、下駄箱、階段をスーッと音もなく移動し、静かに椅子を引いて自身の机に腰掛ける。

あとは朝のHRが始まるまで待つだけだ。

 

2月14日のバレンタインデーを経て、暦は2月の21日。

つまり、あの日から既に1週間が経過していた。

クラスの様子は相変らずがやがやと騒々しいものはあるものの、これは俺のよく知るいつも通りの朝の光景だ。

1週間前の落ち着きのない、あの浮ついた雰囲気はすっかりなりを潜めている。

 

どうでもいいけど2月ってなんかお得感あるよな。

だって28日間で休みは他の月と同じで8日間だぞ?相対的にちょっとだけ休みが多いじゃん?2月がもっと増えれば良いなー。

 

今日は21日。そう、来週でもう2月は終わりを迎える。

そしてカレンダーは3月。英語だとMarch。日本的表現だとやよいちゃん。うっうー!

つまりは卒業式の足音も近付いてくる。そんな時期が差し迫っていた。

 

 

卒業。卒業かー。

一般的に巣立ちの時などと言われるが、中学、高校の卒業で”巣立つ”なんてのは大げさだ。

実際、親元を離れて社会に出て独立する奴なんてほんの一握りだろう。

中学卒業後は、大抵高校に進学するし、高校卒業後は大学へ。その先の大学院に進むやつだっているかもしれない。

大学院まで進む奴は本当に勉学を極めようという意思を感じるが、ほとんどの人間はただ何となく、周りに合わせて進学ってパターンが多いんじゃなかろうか。

 

何が言いたいかというと、結局は親の庇護の元を離れなければ、巣立ちなんて大層な言葉は使えないと思う。

高校くらい、カリキュラムに従えば余程の馬鹿じゃなければ卒業は出来る。由比ヶ浜は知らん。

それはいいとして、要は真っすぐな道に沿って進んで行くだけだ。その結果、辿りつく先にあるのが卒業。

そこで皆大げさに笑い、時に涙し、友との別れを惜しむ。馬鹿馬鹿しい、反吐が出る、見えないところでやってくれ。そう思っていた。

 

中学卒業の時は少なくともそう考えていたはずだ。

卒業までの道すがら、時間をただ無為に消化するだけの日常。

路傍に咲く花には目もくれずに一心不乱に目的地を目指していただけだった。

 

今は、果たしてどうだろうか?

少なくとも当時と同じような感情は湧いてこない。

湧き上がるのは一抹の寂しさ。今この時を惜しむ気持ち。これは明確な変化だ。

単純に歳を重ねたからかも知れない。重ねたって言ったってまだ2年とか3年だけれど。

ただそれ以上に、知ってしまったから。関わってしまったから。いろんな感情に触れてしまったから。

それが遠因になっているとも思う。

 

まあ、寄り道も悪くはないよな。結局同じ目的地に着くわけだし。

 

そんな思考を脳内で繰り広げていると、チャイムが鳴り担任が教室に入って来る。

よっし、今日もぼちぼち頑張りますかねー。

 

―――――――――――

―――――――

―――――

―――

――

 

「うす」

 

「あら、こんにちは比企谷くん」

 

特別棟の部室の扉をがらりと開けて、部屋の主と短い挨拶を交わす。

主とか言っちゃう時点でなんだか主従関係を感じてしまう。もちろん俺が従う方だ。奴隷根性万歳である。

何たって部長と平部員ですし。

でもまあ、たかが高校の部活にそこまで難しく考えなくてもいいじゃないの?漫画やアニメでもないんだから。

 

しかしなんでああいう二次元世界の部長とか生徒会長とかって異常なまでの権限を与えられてるんだろうか。教師とかも手玉に取ってるもんな。

ん、でもこいつも教師手玉に取ってそうな気がする。やっぱりゆきのん怖い。触らぬ神に祟りなしだ。うん、間違いないな。

 

1人で納得しつつ、彼女の対角線上の定位置に腰かけた。

鞄に手を突っ込んで中身をごそごそと探り、文庫本を取り出し栞を挟んだ部分を片手ではらりと広げる。取り出した栞は背表紙の部分に挟んだ。

 

雪ノ下はすっと姿勢良く立ち上がると窓際に向かい、いそいそとお茶の準備を始めたようだ。

茶葉に既に沸かして用意されていたお湯が注がれると、ふわっと紅茶の良い香りが部室に立ちこめる。

美しい所作でカップと湯呑に紅茶が注がれていくのをただ見ていると、朝から誰かに何かしてもらってばかりだなと、ふと思った。

 

 

ことり、と小さな音を立てて自身の前に湯気の立つ湯呑が置かれる。

文庫本から目線を外して、座ったまま見上げれば雪ノ下と目が合った。

 

「ああ。サンキュ」

 

「どういたしまして、あら?」

 

「どうした?」

 

疑問に満ちた声が発せられたと思ったら、こちらをじーっと見つめてくる。

何なのメドゥーサなの?石にされちゃうの?確かにまったく体が動かないわ。

こいつがメドゥーサなら姉はそのままステンノーだな。強い女とかぴったりじゃん?

訝しむような視線を向けられ続けているのは、しかしまあ堪える。

視線をすっと外すと、雪ノ下はかぶりを振って答えた。

 

「いえ、今日はなんだかいつもより目がぬぼーっとしている気がしたから」

 

目ざといな。小町にすらバレなかった事を平然と指摘してくるッ!

そこにシビれる!あこがれるゥ!

 

「ちょっと寝不足なんだよ。あんま良く眠れなくてな」

 

「あらそうなの。一体どんなイヤらしいことを夢想していたのかしら?不潔だわ」

 

「おいコラ、なんでイヤらしいのが前提になっちゃってんの?」

 

無実の俺にジトッとした目線を投げかけてくる。

レッテル貼りはイケない事なんだぞ!

そりゃ高2男子の性欲は時に食欲や睡眠欲をも凌ぐと言うが、俺はそんなにお猿さんじゃない。

たまらず抗議の視線を向けるが、そんなもの雪ノ下は意にも介さないでキョトンとした顔になった。

 

「違うの? あなたくらいの年齢の男子は、それこそ猿のようだと聞いたのだけれど」

 

「誰に聞いたんだよ……」

 

うん陽乃さんだな。こいつ友達いないし。あっ、由比ヶ浜がいるけどアイツはそんな事言うタイプじゃないでしょ。

げんなりしている俺にくすくすと微笑みを向けられると、もっとげんなりさせられてしまう。

ホント楽しそうですね……。

 

その時、ゆきのんレーダーが何かにピクリと反応し、顔が部室の扉へ向けられた。

一体何が始まるんです?と、俺もそちらを見やると、勢いよく扉が開かれた。

 

 

ことり、と小さな音を立てて自身の前に湯気の立つ湯呑が置かれる。

文庫本から目線を外して、座ったまま見上げれば雪ノ下と目が合った。

 

「ああ。サンキュ」

 

「どういたしまして、あら?」

 

「どうした?」

 

疑問に満ちた声が発せられたと思ったら、こちらをじーっと見つめてくる。

何なのメドゥーサなの?石にされちゃうの?確かにまったく体が動かないわ。

こいつがメドゥーサなら姉はそのままステンノーだな。強い女とかぴったりじゃん?

訝しむような視線を向けられ続けているのは、しかしまあ堪える。

視線をすっと外すと、雪ノ下はかぶりを振って答えた。

 

「いえ、今日はなんだかいつもより目がぬぼーっとしている気がしたから」

 

目ざといな。小町にすらバレなかった事を平然と指摘してくるッ!

そこにシビれる!あこがれるゥ!

 

「ちょっと寝不足なんだよ。あんま良く眠れなくてな」

 

「あらそうなの。一体どんなイヤらしいことを夢想していたのかしら?不潔だわ」

 

「おいコラ、なんでイヤらしいのが前提になっちゃってんの?」

 

無実の俺にジトッとした目線を投げかけてくる。

レッテル貼りはイケない事なんだぞ!

そりゃ高2男子の性欲は時に食欲や睡眠欲をも凌ぐと言うが、俺はそんなにお猿さんじゃない。

たまらず抗議の視線を向けるが、そんなもの雪ノ下は意にも介さないでキョトンとした顔になった。

 

「違うの? あなたくらいの年齢の男子は、それこそ猿のようだと聞いたのだけれど」

 

「誰に聞いたんだよ……」

 

うん陽乃さんだな。こいつ友達いないし。あっ、由比ヶ浜がいるけどアイツはそんな事言うタイプじゃないでしょ。

げんなりしている俺にくすくすと微笑みを向けられると、もっとげんなりさせられてしまう。

ホント楽しそうですね……。

 

その時、ゆきのんレーダーが何かにピクリと反応し、顔が部室の扉へ向けられた。

一体何が始まるんです?と、俺もそちらを見やると、勢いよく扉が開かれた。

 

 

「やっはろー! ゆきのん&ヒッキー!」

 

「こんにちは、由比ヶ浜さん」

 

「おう」

 

ゆきのんレーダーの由比ヶ浜補足率は驚異の100%だ。狙った由比ヶ浜は逃さない。なにそれ怖いな。

寒さに負けない元気な声に対して、定番の挨拶を交わす。

 

別に俺に挨拶しなくてもよくない?教室で会ってるわけだし。

ていうかゆきのん&ヒッキーってなんか芸人っぽい。テツ&トモ的な?

じゃんがじゃんが?それはアンガールズか。ちょっとやーまーねー。

芸人たちが脳内で持ちネタを繰り広げている俺を尻目に、由比ヶ浜のところにも温かな紅茶が注がれる。

 

「どうぞ」

 

「いつもありがとね、ゆきのん!」

 

礼には及ばないわ、と小さく微笑みつつ彼女指定の席につく。

 

今日も変わらず、特に依頼もなく穏やかな時間が過ぎていくのだろう。

そう考え、手元の文庫本の文字列に意識を向け始めた時に再びがらりと扉が開かれた。

落ち着く間もなく来訪者が続き、今日は何だか騒がしく感じてしまう。

 

平素の座っている体の向きのまま、顔だけ上げて来訪者を確認する。

 

亜麻色のセミロングの髪を揺らし、手元は長めのカーディガンを余らせきゅっと握り込んでいる。

所謂女子袖というやつか。

短く折られたスカート。甘いルックスに、甘い声。そんなのは俺の知り合いの中でこいつしか知らない。

 

「皆さんこんにちはー」

 

はいこんにちはー。お天気お姉さんかよ。でも見た目的には将来女子アナとか目指してそうだな。大学のミスコンとか出てそうだし。

将来何人の男がこいつに手玉にされるのであろうかと、目の前の後輩、一色いろはにそんな感想を覚えた。

 

 

「こんにちは一色さん」

 

「いろはちゃん、やっはろー!」

 

「何の用だよ。最近来なかっただろうが」

 

三者三様の物言い。

その中の俺の物言いにむっと不機嫌そうな顔になり、それを隠すこと無くこちらに向ける。

ん?と考え込んだ次の瞬間、その表情は一転して意地悪な表情に変化した。

むふふ、という変な笑い声が口から洩れるのを右手で抑えている。

 

「先輩ちゃんと挨拶返して下さいよー。てか何ですかその言い方? あっもしかしてーわたしに会えなくて寂しかったんですか?」

 

「…………」

 

「ちょっと! 無視は良くないと思います」

 

そう言って俺の背後に回ると、肩をゆさゆさと揺さぶってくる。

ええいうっとおしい、恥ずかしい、手柔らかい、良い匂い……。

この程度のボディタッチで勘違いなどしない鍛えに鍛え抜かれたエリートぼっちの俺でも、ぐわんぐわん視界が揺れるのには勘弁願いたい。

そんな光景に苦笑いと、どこか呆れたような声が向けられる。

 

「ヒッキーといろはちゃんってやっぱ仲良いよね……」

 

「一色さん、とりあえず座ったら?」

 

「はーい」

 

 

ようやくゆっさゆっさするのを止めて、彼女の定位置に腰を落ち着けた。

部員でもないのに定位置があるってのは何かおかしい気がする。

しかし最近は奉仕部から足が遠のいていたようだが、何かあるのだろうか?

そう勘繰って顔を見つめていると、その視線に気が付いたのか目が合う。

にっこり微笑んでも何も出ないぞいろはすー。

さて、先に用件を聞いておこうか。

 

「で、今日はどうしたんだ?」

 

「あ、わかっちゃいますか? えーとですね、実は依頼が2つあるんですよ」

 

依頼?と声が重なった。

うへーいろはすの依頼来ちゃったかー。しかも2つかよ。

大抵面倒なんだよなこいつの場合。しかし、とりあえず話を聞かなければその判断も出来ないか。

雪ノ下は立ち上がり、備品の紙コップに紅茶を注ぐ。

一色の前に差し出すと、彼女の依頼内容を促した。

 

「それで、依頼とはどういったものかしら?」

 

「ありがとうございます。えっとですね、実は傷心中の私を慰めて欲しいんですよー」

 

「は?」

 

意味不明かつ理解不能な依頼に対して、何言っちゃってんのこいつ?という声と視線を一色に向ける。

その視線にはすぐさま一色から抗議が入った。

 

「ちょっと先輩なんですかその顔は。めっちゃムカつきます!」

 

「はいはい。で、詳しく説明してみ」

 

お前も普段俺に対してよくこんな顔してるだろうが。自分がやられて嫌なことは他人にしちゃダメなんだぞ。

とにかく先ほどの依頼内容だけじゃうまく理解が及ばない。

圧倒的に言葉が足りないのだ。一色に補足を求めた。

 

「わかってもらえませんか?」

 

「……?」

 

肩を落とし、寂しそうに、悲しそうに俯く。

その表情はかつてクリスマスに葉山に振られた際の、あの顔を想起させた。

1週間前の今日、一色が何を想い行動を起こしたかを俺は知っている。

あの日以降、今日まで奉仕部に彼女が顔を見せることは無かった。

そして、傷心中という言葉。

 

パズルのピースがかちりと嵌まるように、1つの答えを脳が導き出した。

それはあまりにも残酷で、しかしわかりきっていた事実でもあった。

 

「……振られたのか?」

 

「……振られちゃいました」

 

 

一色はこくりと頷き、ほうと溜息をひとつ吐いた。

やはり、か。

一色は葉山隼人に、2度目の告白をした。そして結果は見ての通りだ。

雪ノ下も由比ヶ浜もすぐに反応できない。言葉を探すように沈黙を続けている。

 

こういう時どう言葉を掛ければ良いかなんて、誰にもわからない。俺だって未知の領域だ。

テストの答えのように、決まった答えなんて用意はされていないのだ。

だから、正解に辿りつくまでは試し続けるしかない。

 

「まああれだ、あいつは誰に告白されても断るだろ。前にも言った気がするが、お前は悪くないんじゃないの?」

 

「……それ慰めてるんですか?ほんと不器用ですねー」

 

はぁやれやれといった具合に肩をすくめてみせる。

これでも精一杯の慰めの言葉だったんだけどダメなのね……女の子の扱いってホント難しいわ。

女子と会話する際の3種の神器、「なるほど」「すごいな」「悪いのはきみじゃない」のうちのひとつを駆使したのにこのザマだよ。

役に立たないじゃねーか!

俺たちのやり取りを見つつ、少し考え込んでいた雪ノ下が静かに問いかける。

 

「葉山くんへの告白は、バレンタインの時にしたのかしら?」

 

「はい、そうなんですよー。チョコを渡す時に一緒に、ですね」

 

雪ノ下や由比ヶ浜はバレンタインに一色が葉山にチョコを渡した、という事実を知らないし聞いていない。そうであれば、告白のタイミングを疑問に思うのは当然か。

由比ヶ浜もおずおずとした様子で声を掛ける。

 

「えっと、いろはちゃんもう大丈夫な感じ、なの?」

 

「もう1週間前のことですし、だいぶ気分は落ち着きました。心配して下さってありがとうございます」

 

薄く微笑みながらぺこりと頭を下げる一色を見ていると、本当にもう気にしていないようにも見える。

だが、内心は見えない。心情の可視化など不可能だ。

だから言葉を信じるしか方法はないけれど、それが俺には難しいことで。

一色に行動を起こすきっかけを与えたのは、俺だ。

あの時の事が去来すると、胸がちくりと痛んだ。

それが罪悪感という事は言うまでもない。

 

「それと、2つ目の依頼の事なんですけど……言っちゃっていいですか?ぶっちゃけこっちの方が本命の依頼です」

 

「どうぞ。話を聞くわ」

 

傷心中の彼女を慰める、という1つ目の依頼内容よりも重要なものらしい。

本命の依頼、という言葉を聞くと少し身に力が入る気がした。

椅子に深く掛け直し、話を聞く体勢を整える。

室内の空気も自然と張り詰めたように感じる。

こほんと咳をひとつして、一色はふたつ目の依頼内容を読み上げた。

 

「実はですね、葉山先輩の好きな人を知りたいんです」

 

 

葉山隼人の好きな人物。俺はそれを少しだけ知っている。

少しだけ知っている、というのも何だか変な言い回しだが、本当にそんな感じなのだ。

去年の夏休みの千葉村。暗闇の中でしつこく食い下がる戸部に対して、諦めたように彼の口から呟かれたその人物のイニシャル。

もしもこの依頼が受理されるのなら、俺の持つ情報はかなり有益なものになり得る。

 

「へー隼人くんって好きな人いるんだ?なんか意外だね~」

 

「それがいるらしいんですよー。振られた理由をしつこく尋ねたら教えてくれました」

 

しつこくねぇ……。振られた直後にそれだけガッツがあるのはもはや尊敬してしまうレベル。やはりこいつは侮れないな。

さて、この依頼を雪ノ下はどうするのだろうかと気になり、彼女の方に目線を送る。

 

静かに、何かを考えるように両手にすっぽりと収まったカップの中身を見つめている。

彼女の僅かな身じろぎに合わせて、石を湖面に落したかのように表面がさざめく。

その波紋が彼女の心の揺さぶりをそのまま表しているように思えた。

何も発さずそうしている姿に、三者の注目が自然集まる。

 

「雪ノ下、どうする?」

 

「…………」

 

「ゆきのん?」

 

目を薄く開いたままで、俺たちの問い掛けにもすぐに反応を示さない。そして音が消えた。

誰も何も発しない部室内は、水を打ったように静まり返っている。

あまりにも音がないので、普段はあまり気に掛けないような運動部の掛け声や、遠くから漏れ聞こえるくぐもった吹奏楽部が発する音が嫌に耳についた。

 

「あの、雪ノ下先輩?」

 

一色がこれ以上の沈黙に堪えかねたかのように、不安げに名前を呼び、問い掛ける。

ちらと睨めつけるように一色を眺めると、ついに意を決したようにゆっくりと言葉が紡がれた。

 

 

「彼の好きな人を知りたいのは、どうしてかしら?」

 

雪ノ下の話した内容は、長考していた割に至って普通のことだ。

依頼を受けるに足る理由を聞きたいのだろうと、その意図は理解できる。

だが、この声の冷たさはなんだろうか。

その顔を見ても、何もない。何も感じられない。普段から表情豊かとは言えない彼女だが、そこから更に感情が削ぎ落とされているようだ。

その異常さに気が付いてか一色もややたじろぎ、声も上ずっている。

 

「え、えっと、まあ単純に興味といいますか……」

 

「そう、興味ね……」

 

尻すぼみな声に対しての、冷淡な呟き。

普段だったら聞き逃してしまうような声量で漏れたそれは、今話を聞いている全員に届けられている。

その言葉の圧には、聞いているだけで背筋を強引に伸ばされるようだった。おいそれと口を挟める雰囲気じゃない。そう直感した。

言葉のやりとりの内容だけを見れば、極々普通でよりタチが悪い。

だからこそ、今は事態を見守ることしかできなかった。

雪ノ下は持っていたカップをソーサーに静かに置き、一色を強い意志を持った瞳で見つめる。

 

「……あなたのその単純な好奇心を満たすために、人の事情に土足で踏み入れるような依頼は受けることはできないわ」

 

 

思わず眉根を寄せた。

人の事情に安易に踏み入れるなと断ずる、その言い分には少々違和感を覚えた。

それでは直近で受けた三浦からの依頼はどうなるのだろうか?

「葉山の文理選択の調査」というのもそれに該当するはずで、断るための理由としては体を成していない。

 

人は何かを誤魔化す時や話を逸らしたいときに、さも正論に見せかけたような言葉を大仰なポーズを伴って振るう。

その雄弁さに騙されてはならない。

その実、内容をよく注視してみればまったく的外れである事が大半だったりする。

 

そう、これは詭弁だ。

言葉使いが冷静で気が付きにくいが、雪ノ下は何かを誤魔化そうとしている。

いや、誤魔化すというよりは触れられたくないから戸口を立て、ここから遠ざけているようにも思えた。

 

「単純な好奇心って、別にわたしはそんなつもりじゃ……」

 

「ではどういうつもりなのか説明して貰えるかしら?出来ないのなら話はここまでよ」

 

そう言って気圧され気味の一色の話をぴしゃりと打ち切る。

言葉で踏み込ませないようラインを引いているようだ。ここから先にはこれ以上踏み込ませないという強い意思を感じた。

 

「わ、わたしは、その……」

 

「え、えーっと……」

 

肩を強張らせ、目の端にはジワリと涙が浮かぶ。

由比ヶ浜はおろおろと両者を見渡すだけで、場を繕うためのうまい言葉が纏まらない。

潮時だ。このまま事態を見守っているだけでは不味い雰囲気になってきた。

 

 

ガタとわざとらしく大仰に音を立てて体の向きを変え、注目がこちらに集まるようにする。

 

「雪ノ下その辺にしとけ。一色は来たばっかのところ悪いが今日は帰った方がいい。こんな状態で話なんて出来そうにないだろ?」

 

雪ノ下は俯いて何も発さない。何かが体温を奪ってしまったかのように、冷え冷えとした態度を崩さない。

そんな彼女をふわりと暖かい、気遣うような声が包みこんだ。

 

「ゆきのん、一度落ち着いて、ね? いろはちゃんもごめんね? こんな空気になっちゃって」

 

「……結衣先輩は悪くありませんよ、すみませんわたしの方こそ。今日は先輩の言うとおり帰ります」

 

一色は静かに立ち上がる。これ以上は何も波風を立てたくないという配慮だろう。

去り際ちらっと雪ノ下の方を見て、何も反応がない事を確認すると痛ましげな表情になった。そのまま軽く一礼をすると、部室から退出した。

一色のいなくなった部室を支配するのは、再びの静けさ。沈黙が耳元で騒ぐという矛盾した表現を、今初めて理解できた気がする。

 

「ゆきのん、どうしてあんな風に断ったの?……いろはちゃん泣いてたよ?」

 

「確かにな。あの断り方は正直ちょっと厳しすぎると思うぞ」

 

静寂を破って疑問を投げかける由比ヶ浜に続き、重複する自身の意見も付け加える。

問題は断り方だけではない。こちらにまったく意思を問わない独断での行動。

俺たちに相談もなく依頼者を切り捨てるのは異例だ。

2対1で責めるような構図に堪えかねたかの様に、雪ノ下は溜息を吐いた。

 

「……そうね。それに関しては悪かったと思っているわ。彼女に謝らないといけないわね」

 

ただ、と付け加えた。

言葉を区切ったまま、一色が一口も付けないまま残していった紅茶からゆらゆらと立ち上る湯気を見ている。

その顔は、ここにはない何かを、今ではないいつかに想いを馳せているかのようであった。。

 

 

「もう嫌なの、この話は。思い出すのも、嫌」

 

悲しみに満ちた静かな叫びははっきりと耳朶に響いた。その声は、普段彼女が発するそれよりもだいぶ幼い響きを残している。

今この瞬間だけ、まるで過去にタイムスリップしたような錯覚に陥るようだった。

 

彼女をここまで変えさせるほどのものを、俺はまだ知らない。

今踏み込むべきか、踏み込まぬべきか。その判断に大いに迷う。

その時ある情景がふいに蘇った。そしてひとつ閃く。

これは、テストだ。

 

「葉山の好きなやつのこと、何か知ってるのか?」

 

「……今日は早いけれど、もうここまでにしましょう。食器、片付けるわね」

 

「あ、手伝うよ!」

 

僅かな逡巡の後、話を逸らされた。

立ち上がると食器とティーポットをトレイに乗せ、由比ヶ浜を伴って部室の外の流し台へ向かうようだ。

 

三度目の静寂が訪れ、独りになった部室内で考えを巡らす。

俺はあの反応に見覚えがある。テストの結果は概ね予想通りだった。

彼の過去に一歩踏み込もうとした時と、言葉は違うがまったく同じだ。

極端に何かを話すことを拒んでいる。そして、こうなるともう手は出せない。

だが確信もあった。

葉山隼人の好きな人物と、雪ノ下雪乃の過去はどこかに繋がりがある。

それを隠そうとするのは、触れられたくないから。

 

触れられたくない過去とは、未だ癒えぬ傷跡だ。だから人は等しく傷を抱えて生きているとも言える。

無遠慮に掻き乱す権利など、そんなものは誰にも与えられていない。

過去をひた隠しにするのは、負傷した部位を庇うように手を添える行為に少し似ている。

そんな痛ましい姿をしている彼女に掛ける言葉がないという事が、ただ歯がゆかった。

 

 

部室の扉ががらりと開けられ、由比ヶ浜が沈痛な面持ちで戻って来た。

彼女の後ろを覗き込むように確認したが、雪ノ下の姿はまだない。

 

「雪ノ下は?」

 

「まだ食器拭いてると思う。手伝うって言ったんだけど、もう大丈夫だからって」

 

たはは、と困ったように笑う彼女の顔には、どこか疲れの色が滲み出ている。

由比ヶ浜ですらこうなってしまう。さて一体どうしたものだろうか。

無駄だとは思うが、一応確認しておくことがある。

 

「あいつは何か言ってたか?」

 

「全然。何も話してくれなかったよ。あたしが何言っても反応薄くてさ……。

ゆきのんどうしちゃったんだろ?」

 

やはり由比ヶ浜にも何も話さないか。

あの反応を見る限りではそうなるのも仕方ないことだ。

 

そうであれば、現状考えなくてはいけない事がふたつある。

 

ひとつは雪ノ下のこと。

今後も変わらずああいう態度になるのであれば、なんらかの手段を講じなければならないだろう。

これは経過を見なければ分からない。だから、すぐにどうこう対策を立てることは難しい。

幸いなのは、彼女をあのようにした原因が詳細は不明瞭ではあるが分かっていることだ。

それに触れさえしなければ再び問題にはならない。

 

もうひとつは一色のことだ。

本人はもう大丈夫だと、気にしていないと言っても本心はどうだろうか。

振られたショックに加えて、畳みかけるような今日の出来事だ。

こちらには何らかのケアが必要になると考えられる。

 

よし。行動の指針は決まった。あとは分担だ。

 

 

「とりあえず、だ。由比ヶ浜はそれとなく雪ノ下から情報を拾えないか試してみてくれ。俺は一色の方を当たってみる」

 

「うーん、わかった。でも結構難しそうな感じだよ……あたしで大丈夫かな?」

 

ちらっと自信がなさそうに、上目遣いでこちらを見てくる。

難しいことは分かる。それでも、由比ヶ浜にしかできないと思った。

だからここは任せるしかない。彼女の唯一の友人である、彼女に。

 

「難しいだろうが、あいつに一番近いのはお前だ。もしかして話してくれるかもしれないぞ?」

 

駄目だったらまた考える、それの繰り返しだ。

俺の言葉を受けて、由比ヶ浜は暫し黙考する。

うんと軽く頷くと、その瞳には少しだけ強さが戻ってきたように見える。

今は賭けるしかない。

 

「そうだよね……。うん、何とかしてみる!」

 

「頼んだ」

 

顔を見合わせて互いに頷き合い、意思を確認し合った。

 

その時口には出さなかったが、心の中で長い溜息をひとつ。

どうしてこうなるんだ?変わらず、穏やかに過ごせればそれで良かったのに。

何よりも、雪ノ下を腫れ物のように扱うのは気が引けた。

変化を受け入れたつもりだった。

結局こういう事には慣れるしかないのだろうか。

慣れて、馴れ合った先に何が見えるのか。その先にあるものを今は肯定も否定も出来ない。

気を回すという行為。人との関係性を常に考慮に入れつつ生活するということは、自身が想像していたよりも存外難しいものなのだと深く思い知らされた。

 

ふいに、件の彼の姿が脳裏に浮かぶ。

奇しくも、似たような考えを自分もしているという事が、ひどく滑稽だった。

 

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日を跨いで翌日。

冬らしいカラッとした晴れの前日とは打って変わって、本日は重い雲が垂れこめる曇り空だ。

花見川沿いのサイクリングロードには、木陰で日が当らない部分に転々と水溜まりが残されている。

昨晩の夜から朝方に掛けて、久しぶりに雨が降ったらしい。

 

水位計を右目で見れば、普段よりも高い位置を指し示しているのがわかった。

降り注いだ雨は下流に流れ、やがて総武高のある美浜区東京湾に注がれるのだろう。

 

ふいにこの時期特有の乾いた風が前方から吹き付けると、それに呼応するように、カゴの中のビニール袋がかさかさと音を立てた。

夏場は青々と生い茂り草いきれを感じさせる堤防沿いの道も、冬場はしっかりと刈り込まれてしまっていて、ここを走っていると朝からどこか悲しげな気持ちにさせられる。

 

まあ単純に年度末に掛けて予算が余るから、使い切りたいがためによくわからん堤防補修工事みたいなのがこの時期は頻発するわけだ。

無駄に迂回とかさせられるからちょっとだけイラッとする。

そこ直す必要あるの?って工事やるくらいならもっと市民に還元してくれてもいいじゃん?むしろ俺にくれ。

 

 

そんなお金があったら何出来るかなー、何年働かなくて済むかなーとか馬鹿な事を考えているが、頭に浮かぶポワポワした考えとは反して脚は重い。

ついでに気も重い。気も重いとキモーイって似てると思いました。ハハッ。

 

とにかく気が重いが、学校は爆発しないし、火事にもならないし、テロリストに占拠もされなければインフルエンザが蔓延してるとかで急に休みになったりもしないので、どんなに気が重くてもそこに向かうしかないのである。

学校は逃げない、逃げるのはいつも自分だ。キリッ。

 

ふぅ、とにかくどうにかしないと。そんな漠然とした想いを胸に自転車を漕ぐ。

ほんと、やれやれだぜ。

 

いつも通りの時間に通用門を潜り、駐輪場に自転車を停めて教室へ向かう。

向かうまでの道すがら、本日の行動予定を脳内で確認する。

まずは前日決めた通り、一色と接触する必要がある。

本日は金曜日。今日が駄目なら月曜まで話すことは実質不可能だ。この機を逃してはならない。

 

 

昨日のことはもちろんだが、個人的にそれ以外にも話すことがある。

行動するのは、ある程度時間が取れる昼休みにすることにした。

以前選挙の時に一色の教室に言った時と同じパターンなら、あいつは昼休みは教室にいるはずだ。

4限終了後すぐに向かえば多分大丈夫だろう。

 

しかし気が進まんなぁ……。こう考えることが多いと重要な案件をいくつも抱えてるサラリーマンみたいな気分だ。

何日までにあれしてこれして、それと並行して通常業務にも気を回して上司のご機嫌取りをしつつ部下に指示を飛ばすと。

何その中間管理職。想像するだけで気が休まる暇がなさそう。

そんな経験今までないのに、こんなこと言うのも社畜の皆さんに失礼かしら。サーセンっしたー。

 

社会の恐ろしさ(妄想)に震えていると、目の前に教室の扉が迫って来た。

まあ別に命が取られるわけでもないわけだし、適当に頑張ろう。適当とはテキトーではなく適当だ。日本語って面白いと思う。

 

ざわめく廊下から、これまたざわめく教室内へ静かに入り、また一日が始まる。

明日をどんな気分で迎えられるかは、今日の俺次第だ。

休みは良い気分で迎えたいよな、とそう思った。

 

 

1限の休み時間を寝て過ごし、2限の休み時間も寝て過ごし、3限目の休み時間はちょっと落ち着かない気分になりつつも寝て過ごした。

 

やだ私の睡眠時間長すぎ……。もはやコアラである。

ナマケモノよりコアラの方が平均睡眠時間が長いのはあまりにも有名な話だ。

そして、毎日毎日をコアラばりにボーッと過している俺ももはやコアラなのだ。(錯乱)

だからもう少しだけ、コアラに向ける愛おしげな視線の100分の1でもいいから俺に向けて欲しい。別に悲しくなんてないんだからな。

 

何となく板書をノートに書き写すだけの生産性のない4限が終了し、午前の授業を全て消化したことを告げるチャイムが鳴った。

適当なところで授業を切り上げた教師が教室を出ていくと、ほどなくして室内に昼休みならではの騒がしさが広がっていく。

さあ行動開始だ。

 

時間短縮のため朝の登校時にコンビニで仕入れておいた惣菜パンが入ったビニールを引っつかみ、そそくさと教室を出た。

普段であれば昼は特別棟1階のテニスコートが見える場所で、戸塚を愛でながらの癒しタイムに突入するが今日の目的地は違う。

 

 

両手をポケットに突っ込み、すたすたと目線を一か所に固定しながら歩く。

ただでさえ学年が違う俺がここにいるだけで妙な目線を向けられているのに、それでいてキョドっていたら完全不審者である。

学内で通報されることだけは避けたい。されないよね?

 

1-Cの教室が見えてきた。扉が開け放してあるのはラッキーだ。こそこそと開ける手間が省ける。

堂々と入っていく勇気はないので、顔だけ覗きこんで中の様子を確認する。

いた。以前来た時と同様に教室後方で数人で固まり弁当を広げようとしている。

 

誰かに呼んで貰いたかったが、声を掛けやすそうな生徒が入口付近に丁度いない。

どうしよう?なんか居心地悪くなってきた。1年の教室の入り口で挙動不審な2年が覗きこんでる図って客観的に見ると超キモいな。

 

きょろきょろとしていると、横をウェイウェイと量産型戸部みたいな数人のおチャラけた男子が通過して教室内に入って行った。

騒がしい男子数人に自然と目線が集まるのか、一色も教室前方へ一瞬顔を向ける。

その時に、入口付近にいた俺とバチコーン☆と目が合った。おお今日はツイてるな。

 

こちらに気が付くと席を立ち、柔らかい笑みを浮かべながらてとてと歩いて向かってくる。

きゅと上履きを鳴らして廊下にいた俺の前に立った。

 

 

「どうしたんですか先輩、わざわざ昼休みに。 わたしに会いたくなっちゃいましたか?」

 

いつも通りな感じだが、何となく覇気が感じられない。普段の俺みたいだ。うん違うな流石に失礼だ。

 

「ちょっと話したいことがあってな。今少し出てこれるか?」

 

「いいですけど、もしかして先輩もご飯まだですかー?」

 

「ああ」

 

一色は俺が手に持っているビニール袋に目線を遣る。

そこで思いついたように軽くぽんと手を合わせた。

 

「じゃあ話しついでに一緒にご飯食べません?わたしもまだなので。ちょっと待ってください」

 

そう言うとこちらの返事は特に聞かず、一旦席に戻り広げた弁当を纏める。

まあ好都合なので、こちらから特に言う事もない。

 

 

友達と短いやり取りをしたのちに、鞄から何かを取り出しこちらに戻って来る。

じゃあ行きましょっかと、目的地が決まっているかの様にすたすたと歩いて行く彼女の背中に疑問を投げかけた。

 

「どこ行くんだ?」

 

「せっかくなので生徒会室を使いましょう。鍵は持っているので大丈夫ですよ」

 

ごそごそとブレザーを探り、鍵をポケットから取り出し見せつけてくる。

おお流石です会長!これが生徒会長の権限てやつか。2次元世界の生徒会長とは違ってまあ可愛いものである。

 

くるりとターンして再び生徒会室に足を向けた一色に追い付くようにして並び、にわかに活気づき始めた廊下を歩く。

昼休みの廊下は、友達同士で雑談に興じる生徒が多く見受けられた。

その光景にふと思う事があり、隣を歩く一色をひょいと覗き込む。

 

 

「そういえば、お前友達いたんだな」

 

「んなっ!? それは失礼すぎませんか先輩? わたしだって友達の1人や2人くらいいますよ。 せ・ん・ぱ・いと違って」

 

「ぐっ」

 

一色の普段のあれを見ていると、まあ女子に嫌われそうだなーとかねてより考えていたので友達がちゃんといることが少し意外であった。

隣をちらと見やると、心外です!とプンプン頬を膨らませ怒っている。それだよそれ。そういうのだよ。

しかし俺に友達がいないとは見立てが甘すぎるな。これには反論せねばなるまい。

 

「お前こそ失礼だ。俺にだって友達くらいいるぞ? 戸塚とか彩加とか。ほら見ろこれで2人だ」

 

「それ同一人物ですよね? こちらが悲しくなってくるのでやめてくださいごめんなさい。ほら、もう着きましたよ」

 

「すいません……」

 

どや顔をバッサリ切り捨てられ思わず丁寧語になってしまった。あれー自信満々だったのになーおっかしいなー。

くすと小さな笑みを浮かべると、ブレザーのポケットから鍵を取り出してガチャリと施錠を解いた。

扉を潜り、一色に続くように中に入る。

カーテンが閉め切られて、僅かな光しか差し込んでいない室内は暗く、少し埃っぽく感じた。

カチと音がし、全体に蛍光灯の明かりが灯る。そうしてようやく全景を見渡すことが出来た。

相変らず一色の私物が多い室内。以前覗いた時よりものが増えている気がして、それが緩やかな時間の経過を感じさせた。

 

 

「さあどうぞ座って下さい。ヒーターつけますね」

 

「頼む」

 

机の傍に設置されているハロゲンヒーターに近づき電源を入れると、独特なジジジという音を発しながら少しづつ熱が籠っていく。

暖かくなるまではまだ少し時間が掛かりそうだ。

促されるままに、普段は役員が使っているであろう机に昼食を置き、椅子を引いた。

慣れない場所なのできょろきょろと色々な場所に顔を向けてしまい、どことなく落ち着かない感じがする。

 

一色は対面の席に腰を落ち着け、持参した弁当を机に置いた。

樹脂性の弁当箱がことりと音を立て、そのまま鎮座している。それを見つめていても開く様子はまだない。

ふうと息を吐くと両手の指を組んで、それを口の前に持っていきどこか遠い目をしている。

 

何そのポーズ?ゲンドウさんなの?と突っ込みを入れたかったが、その前に一色から話を切り出された。

 

「では、さっそくですがお話を聞きましょうか。ご飯はその後ということで」

 

「わかった。まずは色々と謝らせてほしい。すまなかった」

 

事前に考えてきたはずなのに、まず真っ先に口をついて出たのが謝罪。

様々な気持ちが綯い交ぜになっているせいか、一体何に対しての謝罪なのか自分でもよく分からない言い方になってしまう。

それを受けた彼女も、しっかりと理解が及んでいないような顔つきになっている。一色は軽く片手を振って答えた。

 

「そんな気にしないで下さいよー。昨日の事は先輩が悪いんじゃないんですから」

 

「それもあるんだが、まあ葉山の事とかさ。俺がけしかけたって言ってもおかしくないわけだし。とにかく悪かったと思ってる」

 

伏し目がちに呟かれた俺の言葉に最初こそきょとんとした顔だったが、徐々に意味を理解したように得心顔になった。

謝って済む問題でもないし、自己満足だと揶揄されても構わない。

それでもこれだけは言っておきたかった。

 

 

「やだなー先輩、それこそ気にしないで下さいよ。別にわたし、もう一回告白したことに後悔なんてありませんよ?」

 

振られちゃったのは残念ですけど、と続ける。そして綻ぶような笑顔を浮かべた。

その顔には、確かに憂いは微塵も感じれらない。昔の楽しかった出来事を懐かしむような、清々しい笑顔だった。

一瞬許されたような心地がするが、内罰的な自分がすぐに顔を出す。

許して欲しいのに、許されたくない。

そんなちぐはぐな感情が心を揺らしているようで、うまく言葉が続かないまま中途半端に口から漏れた。

 

「いや、でもなぁ……」

 

「ああもう! いいったらいいんです! それに……」

 

「?」

 

うじうじした態度に嫌気が差したのか、耐えられんとばかりに上げられた声は部屋によく響いた。

一旦切られた言葉にはまだ続きがありそうだったので、疑問には思うがそのまま待つ。

 

「わたしはむしろ感謝してます。 勇気をくれてありがとう、って。ていうかシンプルに考えろって言ったのは先輩じゃないですか。だから素直に受け取って下さい!」

 

そう告げた言葉には僅かに照れが含まれているのか、一色は誤魔化すように前髪を梳いた。

呆けたような顔になっていると自覚がある。

勇気を与えたと、そう言われた。そしてそれに感謝していると。

 

謂れのない感謝だが、そう言われてしまうと何だかむず痒いような感覚に襲われる。

いまいち腑に落ちない気もするが、逆にどうすれば腑に落ちるのか考えてみてもまったく思い浮かばない。

 

 

結局のところ許す、許さないなんてものは自己の中でうまく折り合いをつけてやらないとどうにもならない。

要はどこか妥協するポイント、心の分岐点を見つける必要がある。

そして、これ以上のやりとりは一色の好意を無碍してしまう。そうなると堂々巡りだ。

だから、これはこれで良いんじゃないだろうか。

 

言葉を素直に受け取るというのも、きっと悪いもんじゃない。

 

「……わかった。まあ仕方ないな。今回は受け取ってやるよ」

 

「なんで超上から目線なんですか?わたしを怒らせたいんですか?」

 

もう!とぷくーと頬を膨らませている一色を見ていると何だか小難しく考えるのが馬鹿馬鹿しくなってくる。

これくらいの肩肘張らないくらいの距離感が、俺たちには丁度良いのかもしれないな。

何だかしみじみとしてしまったが、まだ話すことがあったことを思い出す。

むしろこっちのが本題だ。ピッと、人差し指を立てる。

 

「それでこの話は一旦終わりにしてだ。今度は昨日の件についてだな」

 

「昨日のあれですか……」

 

見るからにしょぼんとして目も泳いでいて、昨日の出来事を思い出したくないんだろうなというのが一目瞭然だ。まあ無理もない。

うまく立ち回れる人間ほど急な叱責には弱いものだ。

一色はその辺が上手い。だからこそ叱られ慣れていないからショックも大きい。

 

 

それに、俺だってあんな雪ノ下は見た事がない。

あるにはあるのだが、それは敵愾心を燃やす相手がいたからだ。三浦とか三浦とか。

思い返せばあーしさんとは事あるごとにぶつかってる気がします。

 

それはともかく、比較的近しい人間に対してはああいう態度を取る事はなかったはずだ。

 

「雪ノ下がああなったのはきっかけがある。それはわかるか?」

 

「葉山先輩の好きな人の話題になってから、ですよね?」

 

「そうだな。あそこから急に態度が変わった」

 

はっきりとした自信がない様子で頭に疑問符を浮かべてはいるが、だいたいその認識で合っている。

あの話題を広げたくがないためのぴしゃりと打ち切るような態度。

どんなに丁寧に言ったところで、雪ノ下の口を割る事は出来なかったとは思うが一色の頼み方にも少々問題があった。

 

「んー、昔なんかあったとか?」

 

「それは間違いないんだが、お前の言い方もちょっと問題だと思うぞ」

 

「ふぇ?」

 

ふぇ?とか言っちゃうやつ本当にいるんだ……と思ったがこいつ最初の方結構言ってたな。あざといろはすー。

軽く引いていると、ついっと小首を傾げる。それだよそれ。そういうのだよ。

まぁいつもの事かと、若干呆れ顔になりつつ口を開く。

 

 

「ほら、依頼の理由聞かれた時に言ってただろ。単純に興味があるからって」

 

「あー確かにそう言いましたけど……」

 

一色はあの時のやり取りを思い起こしているのか、頬に手を添えて虚空を眺めている。

曲がった事が大嫌いなゆきのんさんの事だから、その軽そうな物言いにちょっとカチンとしてしまったのかもしれない。

 

「でもでもー、単純に興味があるってそんなに悪いことですかね?」

 

「まあ悪くはないと思うけど」

 

「ですよね。だって好きな人の好きな人を知りたいのって、恋する乙女としては当たり前じゃないですかー?それで心の整理がつくこともありますし」

 

「はーなるほど、そういうもんか」

 

何気ないその言葉に、ハッと何かを気付かされた気がした。

恋する乙女がどうかは知らんが、恋愛の価値観なんて人ぞれぞれだ。

雪ノ下と一色にはその価値観において違いがあるのだろう。それも今回すれ違ってしまった理由のひとつなのかもしれない。

そしてその溝を埋めるための方法は、やはりシンプルなものだ。

暇を持て余しているのか、毛先のチェックを始めた一色にひとつ提案をすることにした。

 

「一色。今日の放課後部室集合な」

 

「うえっ!いや、今日はちょっと行きにくいなーなんて思ってるんですけど……」

 

一色は俺の言わんとするところがなんとなく分かったのか、曖昧模糊とした言葉使いで必死に誤魔化そうとしている。

じっと射すくめようとしても、目を逸らすどころか右往左往でまったく捉えきれない。そうかそんなに怖いか。

よし、そんなお前にこの名言を送ってやろう。

 

 

「今日逃げたら、明日はもっと大きな勇気が必要になるぞ」

 

「うぐっ!」

 

決まった。完璧に決まった。俺的言ってみたい漫画のセリフベスト10のうちのひとつをふさわしい状況で使うことができたぞ!

一色は驚愕に打ち震え、尊崇の念をこちらに向けている…はずだ。

ゆっくりとその艶やかな口が開かれる。

 

「せ、先輩が……」

 

「おう」

 

「まともなこと言ってる?」

 

「失礼だなおい」

 

本当に失礼なやつだ。俺がまともじゃないみたいな言い方するなよ。

俺ってば超常識人だから。具体的に言うと、電車内で老人じゃなくて疲れてそうなサラリーマンに席を譲っちゃうくらい常識人だから。

そもそも先輩なのに全然先輩扱いじゃないし、もうやだこの子。

ごほんと咳払いをひとつして、喉の調子を整える。

 

 

「まあとにかくだ。こういうことは早いほうが良い。憂欝な気分で土日を迎えたくないだろ?」

 

「むーそれは一理ありますね」

 

「一理どころか百理くらいある。それくらい金曜日の身の振り方は大事だ。金曜の動き方で土日の全てが決まるといっても過言じゃない」

 

「そ、そこまでですか」

 

実際過言じゃない。我ながら至言だと思う。

金曜にあった嫌なことを土日に引き伸ばして持ち越すことは愚策だ。

もやもやとした気分で過ごす2日間は最高に休んだ気がしないのでおすすめしない。

 

一色は俺の熱弁にやや引いたように体を起こして距離を取っていたが、今は難しい顔をしてうんうん悩んでいる。

しばらくそうしていたが、やがて決意したように頷いた。

 

「まぁ仕方ないですね、そこまで言われたら。……先輩に乗せられてあげます」

 

「……そうか」

 

何かを含ませたように放たれたその言葉。

そこに込められた意味を理解することは容易かった。

今向けられている気持ちは、当時とは違うものかもしれないけれど。

 

今向けられている笑顔は変わらず魅力的で、可愛いらしいと、そう感じた。

 

 

一色との昼休みの会合を終え、午後の授業も全て消化し放課後となった。

とりあえずの経過報告を由比ヶ浜にするべく、廊下のいつもの場所で壁に背を預けて待つ。

経過報告以外にも今日の作戦会議という意味合いも兼ねてはいるが。

 

換気のためなのか、廊下の窓は一部開けられたままの状態にされており、時々潮風を含んだ冷たい風が吹き抜けるとぞくりとした感覚が背筋を奔った。

ふぃー寒い寒いホント嫌になっちゃうわと、立春を過ぎても一向に春らしい様子を見せない天候に内心ぶつぶつ文句を言っていると由比ヶ浜がやって来るのが見えた。

ぱたぱたした足取りで廊下を歩いて来て、こちらに気が付いたのかはたと足を止める。

 

「あれヒッキー待っててくれたんだ? てっきり先行っちゃったと思ってたよ」

 

「ちょっと今日のことについてな。歩きながら話す」

 

もたれかかっていた壁から背を離し、行こうと促す。由比ヶ浜もそれに応えるように頷くと、特別棟に向けて共に歩き出した。

放課後の解放感、ともすれば開放感とも言えるような雰囲気の廊下を彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩みを重ねていると、こちらを覗き込むように由比ヶ浜が一歩先行する。

 

「それで今日の事っていうのは? もしかしなくても昨日のアレ、だよね?」

 

「まあその事についてだな」

 

困ったように眉尻を下げた表情を見ていると、早く何とかしなくてはという思いが湧いてくる。

だが、湧いてきたところで、俺にも由比ヶ浜にも出来る事は限られている。

全てを人任せにするつもりはないが、事態が事態なので張本人のあいつに任せるしかないというジレンマもある。

 

つまり現状俺に出来ることは、傍観し、静観し、黙視し、事態の行く末を高みの見物するだけである。

ヤダ俺ってば見てるだけじゃない?見守りすぎて神様になっちゃうレベル。新世界の神に俺はなる!ドン。

それは置いておくとして、だ。実際適宜フォローを入れるくらいしか出来ないかもしれない。

まずは様子見だ。

 

 

「一色とは話をして、今日来てもらうことになってる。昨日の今日でどうなるかはわからんけど、こればかりは黙ってても解決しないだろ」

 

「そっか……、そうだよね。早くなんとかしたいし、いろはちゃん困ってたら助けてあげないとね」

 

「だな」

 

首肯してその言葉に短く応える。

作戦会議とはいえないようなやり取りをした後は、ぽつりぽつりと会話がなされては途切れ、それを埋めるように言葉を発することを繰り返した。

部室が近づくにつれて緊張の色は隠せなくなってくる。それは由比ヶ浜を見ていても同様だ。

それでも歩みは止まらなかった。歩みを止めることは、止まっているだけなのに、そこから逃げているような錯覚を覚えてしまうから。

間も無くして部室の扉が見えてきた。そして、その前に佇む人物も当然目に入る。

 

「あー先輩遅いですよー。待ちくたびれちゃいました」

 

「悪いな。先に中入ってれば良かったんじゃないの?」

 

ぶーたれる後輩に冗談交じりの答えを返すと、もっと不機嫌な顔になった。

 

「出来るわけないじゃないですか! もう、これだから女心をわからない人は……」

 

お、おう、ごめんよいろはす。おこなの?激おこなの?

しかし、そんなマジで怒ると思わなかったわ。八幡ジョークにマジギレしちゃうとは、それだけ一色も余裕がないのだろう。

関係ないけど、なんでも「ジョークだよ。ジョーク」とか言ってくる奴は嫌いだ。

冗談だって言えば何でも許してもらえると思ってるあたり片腹痛い。

 

 

「まあヒッキーがアレなのはいつものことだからさ、いろはちゃん頑張って。あたしたちもフォローするからさ」

 

由比ヶ浜は優しく慈しむように一色に微笑むと、こちらにも同意を求めるようにくるりと顔を向けた。ていうかアレってなんだよアレって。

言われ慣れてるけどいまいち釈然としない。あの八幡ジョークは場を和ませようとした俺なりの気遣いのかたまりなんだぞ?

まあ今はそんなこと言っても仕方ない。

 

「ま、横で見ててやるから。頑張れよ」

 

一色は俺たちの応援(主に由比ヶ浜の)に心を打たれたように瞳を潤ませ、軽く一礼をした。

 

「結衣先輩、ありがとうございます。あと……ついでに先輩も」

 

「お前ホント可愛くないな」

 

ホント可愛くない。可愛いのに、可愛くない。(哲学)

肯定と否定を並べて書くと哲学っぽくなる風潮、あると思います。

しかしこれでもし可愛かったら昔の俺なら即落ちでハートをズキューンされてるな。

可愛いって言い過ぎて自分でももう何だかわからなくなってきた。

 

つーか雪ノ下とか由比ヶ浜にはある程度殊勝な態度の時もあるのに、俺は一体何なんだってばよ。

あまりの先輩後輩感のない会話に、感覚がマヒしてくるまである。

 

「わたしは可愛いですよ? 先輩以外には」

 

「こいつ……」

 

「まぁまぁ落ち着いて、ね?」

 

売り言葉に買い言葉でガルルルと唸っていると、由比ヶ浜が仲裁に入る。

一色は腕を組みそっぽを向いていて表情は窺えないが、様子を見る限りだいぶ緊張はほぐれたようだ。さて、そろそろだな。

ふぅと息をひとつ吐いて気を落ち着けた。

 

 

「よし、じゃあ入るか」

 

「うん。行こっか」

 

「えー……、はーい」

 

どこかから未練がましい声が聞こえたが気のせいだろう。

2人を後ろに引き連れて、扉の前まで進む。そのまま覚悟を決めて手を掛け、ぐっと力を込める。

 

抵抗なくガラリと開かれた扉の先には、膝にブランケットを掛け両手を揃えて雪ノ下が定位置に座っていた。

その手元に目線を落としても平素のように文庫本はない。まるで何かを待っているかのような姿勢だった。

扉を開ける音に反応してか、こちらに顔を向けるとばっちり目が合う。

 

「うす」

 

「やっはろーゆきのん!」

 

「こんにちは。今日は少し遅かったのね」

 

そう言ってはにかむ様な笑顔を浮かべた。

ちらと教室前方の壁掛け時計を見やると、確かに普段来る時刻よりも5分ほど遅い。

寂しかったのか。先ほどの笑顔といい、杞憂だったのだろうか?

俺たちに遅れること数秒。少し及び腰だった一色がようやっと室内に足を踏み入れた。

 

「こ、こんにちはー」

 

「……こんにちは一色さん」

 

笑顔だが、引きつったような笑顔だ。

努めて明るく振舞おうとする一色に対して、雪ノ下はやや胡乱げな目線を向ける。

それに一瞬肩を強張らせるが、すすっといつもの席まで進んだ。

席まで進んだところで動きが止まり、立ちすくむ。どうやら着席の許可を待っているようで、妙に畏まった格好をしている。

 

いかんいかん俺まで緊張しまくりになってくるじゃねーか。促されるまで座っちゃいけないとか就活中の学生かよ。

雪ノ下はそちらをじっと見つめると、諦めたように溜息をついた。

 

 

「はぁ……、とりあえず座りなさい。 今お茶を入れるわ」

 

その反応にほっと胸を撫で下ろす。雪ノ下がお茶を入れるために背中を見せたのを見計らって左に座る由比ヶ浜とコンタクトを取ると、向こうも同様に安堵の表情を浮かべていた。

とりあえず拒絶はされなかったから、第一段階はクリアだ。

一色はといえば、普段の明るさはどこへいったのやら、借りてきた猫のように静かに待っている。

時おりそわそわと落ち着きのない様子で、緊張の色は隠せない。

 

ティーカップ、マグカップ、湯呑、紙コップと順に暖かな湯気を立てる紅茶が注がれ、雪ノ下にめいめい礼を言って受け取る。

紅茶に息を吹きかけ冷ましてから一口。湯呑をことりと置くとその音は部室によく響いた。

静かだ……。超静か。本当に静か。僅かな衣擦れの音や、本のページをめくる音までも聞こえてくる。

 

一色の方を見ると、どう声を掛けたらいいのか迷っているようだ。

文庫本を開いて読み始めた雪ノ下の方をちらちら見て、口を薄く開けては浅く噛む様に引き結ぶ。

その様子をぼーっと見ていると、横顔に視線を向けられているのがわかった。

 

 

そちらに首を巡らすと由比ヶ浜が何かを訴えかけるような目でこちらを見ている。

えー俺が助け舟出すの?お前もなんかフォロー入れてよマジで。

しかし頼られたら断れないのがお兄ちゃんの性。俺の愛する妹は小町のみだが、まぁ仕方ない。力になってやるか。

 

「あ、あーそういえば、一色がなんか話あるって言ってたような気がするな」

 

「……」

 

おいガハマさんその目は止めろ。いや止めて下さい。うわーこいつフォロー下手すぎ!みたいな意思がバンバン伝わってくるから!

その様子を雪ノ下はじとっと細めた目で見つめる。

やれやれといった様子でこめかみに手を当てると、ゆっくりと口を開いた。

 

「やっぱりあなた達が一枚噛んでいたのね。そうじゃないと……一色さんが部室に来るはず、ないもの」

 

その声には、どこか後悔が滲み出ている気がした。

雪ノ下は昨日の自身の言動に、恐らく悔いている。それに関しては謝らなくてはならないとも言った。

ならば話す余地は十分にある。

 

「ゆきのん、いろはちゃんの話聞いてあげて? あと、あたし今何も噛んでないよ?」

 

「…………」

 

由比ヶ浜はちょっと黙ってようか。今は大事な話してるからな」

 

「なんかめっちゃ馬鹿にされてる!?」

 

うー噛んでないのに、とぶつぶつ呟く由比ヶ浜は置いといて。

頭痛をこらえるように目をつぶっている雪ノ下を尻目に、一色とアイコンタクトを取る。

場の空気が緩んでいる今が切り出すチャンスだ。

 

じっと見つめると、うわーみたいな顔された。違うそうじゃない。そうじゃないんだ。

テヘペロ☆なんかしても可愛くなんて……ないんだからな。

それでも意図は伝わったのか、居住まいを正すと小さく声を上げた。

 

 

「あ、あの、雪ノ下先輩」

 

「何かしら?」

 

遠慮がちに掛けられた声に、雪ノ下は平坦な声で応えた。そこに昨日のような威嚇じみたものは感じない。

微動だにせず、一色の言葉の続きを待っている。

 

「えっと、昨日はその、色々とごめんなさい!」

 

「一体何に対して謝っているの?あなたの口から聞かせて?」

 

「うぅ……」

 

一色の口から出てきたのは、まず謝罪の言葉。

昼に一色と話した時の情景が重なる。だからこそ痛いほど気持ちがわかった。

話したいことがある。伝えたいことがある。想いがいっぱいに詰まっているから、口からうまく出すことが出来ずにそんなシンプルな言葉しか漏れ出てこない。

 

反論されてしまい唸る一色に対して、雪ノ下の声は涼しげではあるが、凍てついてはいない。

表情だけ見れば、母親が娘に向けるような、厳しさの中に優しさが同居しているような、そんな表情にも見えた。

 

「その、単純な興味があるからってだけで、葉山先輩の好きな人を知りたいって依頼をしたことについて、です」

 

 

切れ切れに、呟くように発せられた言葉には自信が感じられない。ひどく曖昧で、風が吹けば消え入りそうなほどだ。

その様子を雪ノ下はじっと見つめる。まるで何かを推し量るように、しげしげと一色に視線を注ぎ続ける。

 

さて、どうフォローしたものかと首筋を抑えていると、俯いていた一色が何かを決めた様にすっと顔を上げた。そしてゆっくりと立ち上がる。

そこには先ほどまでは欠けていた、決意と自信に満ちた瞳があった。

 

「ただ、昨日言ったこと何ですけど。わたしは間違ったことは言ってないと思ってます。好きな人の好きな人を知りたいって気持ちはそんなに悪いものでしょうか? 自分が選ばれない理由を知りたいって当たり前じゃないですか? だって……そうじゃないと……」

 

一色が発した言葉の意味を頭の中で反芻していると、声が途切れたので何事かとそちらに顔を向ける。

 

そこにあったのは、涙だった。

一色は目の端にじわりと涙を浮かべて、口をうまく動かせないで立ち竦んでいた。

昨日も同じような泣き顔を見た。だが、昨日のそれとはまた意味が違うものだ。

叱責による恐怖で浮かべた涙ではない。

上手く言葉に出来ないことに対する焦燥。自分の口なのにうまく動かせない、それは大きすぎる感情が纏まっていないからだ。

そこに浮かべられた涙にも、きっと感情が詰まっている。

心のダムが決壊して溢れたものが、今目に浮かべられている涙なんだろう。

そして、その位置で、言葉に出来ず立ち竦んでいる図には見覚えがある。

――ああ、こんな風に見えてたんだな。

 

一色いろはは、今もがき苦しんでいる。感情の渦に飲み込まれて、必死にあがいている。

だから手を差し伸べるなら、今しかない。

 

 

「一色」

「いろはちゃん」

 

気遣わしげな声が静かな部室に重なった。

名前だけの呼び掛けに、彼女は視線を彷徨わせながら顔を上げる。

声の発生源の由比ヶ浜を見やると、どうぞ、というジェスチャーをされたので小さく頷き返す。

 

「お前の言葉でいい。時間がかかっても構わない」

 

ぶっきらぼうに投げ掛けられた言葉に僅かに目を見開くと、薄く微笑んだ。

ぐしぐしと余らせたカーディガンの袖で涙を拭うと、雪ノ下の方に向き直る。

そこには、もう焦燥も悲壮も無い。

 

「そうじゃないと、救われないじゃないですか。自分はこの人に負けたんだって、それを知ったら、諦められるかもしれないじゃないですか。わたしは、先に進みたいと思いました。立ち止まったままでいるのはダメな気がしたから。だから……」

 

すうと息を吸い、吐く。

 

「わたしが先に進むための、理由が欲しかったんです。きっとそれが依頼をした、本当の理由です」

 

 

一色は雪ノ下と向き合って、自己の内面と向き合って、そしてこの結論を導き出した。

これが彼女なりに考え抜いた結果で、感情を昇華させた行く末なのだ。それをまざまざと見せつけられた。

すごいな、と素直に思う。

想いを言葉に変換するのも、それを曝け出すのも並大抵の勇気では足りない。

だから、今日の彼女は強かった。それこそ尊敬してしまうほどに。

 

雪ノ下は動けない。整理がついていないのであろうか、口を薄く開いて一色を見つめたまま身じろぎひとつしない。きっと、こんなことになるとは思ってもいなかった。

自分が揺り起した一色の感情に当てられたように言葉を失っていた。

そこには躊躇や、一種の迷いのようなものを感じる。

掛ける言葉がないとは、正にこういう事なんだろう。

 

一色は気が抜けたようにストンと椅子に体を落とすと、顔を俯かせた。

両手で顔を隠すように覆うと、息を吸うたびに静かな嗚咽が漏れ、その音がこちらにも届けられる。

由比ヶ浜が席から立ち上がり、横からよしよしと背中を優しく撫でると嗚咽はさらに大きくなっていった。

 

俺はそれをただ、横で見ている。

そうしていると、段々と冷えていく頭の中で、あるひとつの気持ちが生まれているのを自覚させられるのだ。

“これからどうなってしまうのだろうか”という思いだけが、静かに体中を駆け巡っていた。

 

―――――――――――

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―――

――

 

 

「もう落ち着いたかな?」

 

「はい……ありがとうございます結衣先輩」

 

泣き出すこと数分。目元は腫れ、充血も見られるが一色はようやく落ち着きを取り戻した。

一色をなだめていた由比ヶ浜は気にしないで、というように軽く手を振ると、元の自分の席に腰かける。

状況はリセットされつつある。しかしながら、ここからどうなるかは未知数なままだ。だから未だ気は抜けないし、注視し続けなければならない。

 

「一色さん」

 

事態を静観していた雪ノ下から、ついに声が掛けられた。視線が自然と彼女の方へ吸い寄せられる。

 

「まずは私も謝ります。昨日は辛く当たってしまって、ごめんなさい。あなたがそんな風に考えていたなんて知らなくて、その、怖い思いをさせてしまったでしょう?」

 

雪ノ下は美しい所作で体を深く深く曲げ、謝辞を述べた。

一目で品の良さを窺える、そんな一連の動作だった。頭が下げられるのに合わせて、長い黒髪がさらりと流れたのを目で追うと、その先にある表情がちらと目に入る。

浮かべられるのは、迷いか、困惑の類か。

この場で一番落ち着き払っているようで、その実はそうではない。

どうしたら良いのか彼女は迷い続けている。

如何様な迷いなのか、それは今から確かめるしかない。

 

雪ノ下の言葉を受けても、一色は首を横に振るだけで声は出せなかった。

話せばまた決壊してしまいそうで、それを必死に堪えているように見えた。

 

 

「それで、結局依頼はどうする?」

 

黙っていては進まない。だから、問いかけを始めなくてはならない。

これ以上の前進のためには、誰かが問題提起をしなくてはいけないのだ。

一色の想いも依頼も本物である以上、うやむやにして終わらせることは憚られる。

ここが最大の争点なのだ。別に誰が悪いとか、そういうことを決める話ではない。

一色の依頼を受けるか、否かだ。

ここにこそ今回の事態は集約されている。

 

「私は……」

 

そこで声は止まってしまった。

言わないといけない。それでも、どう言えば良いのかわからない。

その様に言い淀むと、由比ヶ浜と俺の方へ何かを窺うように視線を向けた。

 

雪ノ下は今、狭間で迷っている。それが伝わってきた。

自身の感情を優先させて断るのか、もしくは一色の願いを聞き入れるのか。

ぴしゃりと打ち切った昨日とは、少々様子が違うのはわかる。

それだけ一色の言葉に揺らされるものがあったんだろう。

だからこそ、誰かに答えを委ねてはならない。

 

「雪ノ下、お前はどうしたいんだ?」

 

ぴくりと肩が跳ねる。その視線は逃げるように落とされ、床に縫いつけられている。

 

「ゆきのん。あたしは受けてもいいと思ってるよ? いろはちゃんの気持ちわかるし、本気なのもすっごく伝わってきたから。でも、昨日はほら、嫌そうだったし……、だからゆきのんが決めていいんだよ?」

 

由比ヶ浜の気遣いにも、雪ノ下の反応は鈍かった。

ゆっくりと首をもたげると、憂うような瞳で窓の外に広がる重苦しい雲に目を向ける。

一体そこに何を見ているのかはわからない。ただただ、彼女の言葉を待つ他に選択肢はなかった。

 

 

「わたしは、私は……」

 

ぽつり、ぽつりと呟くその声には悲壮感すら感じる。その響きは虚しく、発せられた途端に立ち消えてしまいそうだった。

そして気付かされる。今俺たちは何をしている? 雪ノ下に何かを強要してしまっていないだろうか。

 

「あなたが自由に考えて決めなさい」というのは相手を気遣って、意思を尊重しているようにも思える。その反面、冷酷で、全てを言われた人間に押し付ける酷薄さすら感じてしまう。そんな二面性を秘めた言葉で苦しめてはいないか?

自由に見えて、自由じゃない。決定権という手綱を握らせることで、「答えを出せ」とそこに縛り付けられるようなものだ。

人の想いがそこにある以上、雪ノ下は無碍にすることなんて出来ないのに。近しい人間のものなら尚更だ。

 

話したくないことなんて山ほどある。人間、生きていれば嫌なことなんていくらでもある。仄暗い過去が無い人間の方が稀だ。

話したくないと、触れられたくないと、明らかに態度で示している人間の想いを白日の下に曝け出すことは、少なくとも正しいことではないと感じた。

 

このままではいけない。そう思い立ちとにかく声を上げようとしたが、それはまた別の声に遮られてしまった。

 

「いいんですよ、無理しなくても」

 

その声の響きは明るく、そして優しい。

発信源である一色いろはは、言葉を続ける。

 

 

「昔何か嫌な事があったんですよね? 多分。 だったらそんな無理強いは出来ませんから、依頼は取り下げます。何よりも……雪ノ下先輩のそんな辛そうな顔見たくありませんし」

 

そして、まるで何事もなかったかのように微笑んだ。

張本人にそう言われてしまうと、そんなつもりはなくても責めるような態度を取ってしまったこちらとしては少々バツが悪い。思わずその光景から目を逸らすと、指で頬を掻いた。

 

「一色さん……それは」

 

「その変わりなんですけどー」

 

「?」

 

申し訳なさそうに呟かれた雪ノ下の声を覆ってしまうかの如く、一色は言葉を重ねる。

その瞳には、もう既に小悪魔めいた怪しい輝きが戻ってきている。

立ち直りが早いというか、何と言うか。

ほんと敵わないな、とそう思わされてしまった。

 

「また、ここに来てもいいですか? わたし、ここが好きなんです」

 

「……もちろん、いつでも歓迎するわ」

 

そう言い合って視線を交わすと、ふっと柔らかな笑みが零れた。

一色と雪ノ下はその価値観の溝を見事に埋め、今に至る。

価値観のずれが騒動の一因になっているのなら、それをお互いが主張して、理解し合う他ない。シンプルだが一番有効な方法だ。

想定通りではあったが、こんなにうまくいくとは思ってもみなかった。これで、取りあえずは元通りにはなる。

雪ノ下はすっと居住まいを正し、俺たちに向き直ると何かを期したように口を開いた。

 

「いつか、いつか話すから。それまで、待ってて貰えるかしら?」

 

 

ゆっくりと、どこか言い聞かすようなこの言葉こそが、不器用な彼女なりの精一杯の歩み寄りで、誠意を表わした言葉なんだろう。

その光景に、由比ヶ浜もようやく緊張の糸が解けたように肩をすとんと落とすと、ふわっとした満面の笑みを浮かべた。

 

優しい空間。暖かい場所。失いたくない時間。俺が守りたいと乞い願ったもの。

 

柔らかな笑みが溢れる部室内で、何故だろうか。俺だけが素直に笑えなかった。

それどころか今俺は、薄ら寒さすら感じている。

目の前の光景に、ではない。内面から湧き上げる自身の感情に対してだ。

易々と触れてはならぬと、彼女が口を開くまで待とうと、そう思っていたはずなのに。

矛盾した感情が心を締め付けて離さないのだ。

 

それは特定の誰に掛けられるでもなく、全員の耳に届けられた言葉。

黒い感情渦巻く内面に差し込んだ光明のようにも思える。

だが、それだけでは満たされなかった。

いつかって、いつだ? 欲深い自分が顔を出し、しつこく食い下がる。

そんなこと、誰に問うたところで答えなんて返って来るわけがないのに。

 

理性で感情を押し潰せ。これは俺の得意分野だ。だから、しっかりと身構えろ。

彼女の遠い過去の出来事を知りたいと身の内が叫ぶのを、ただ必死に堪えていた。

 

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――

 

冬の曇天の夜空の下、自転車に跨り通用門を出た。

夜にかけてぐっと気温は冷え込み、体が剥き出しになってしまっている箇所に寒風が突き刺さるようで、もはや痛みすら感じてしまう。

 

暗い夜道をただ無心で脚を上下させていると、いつもの分岐点がすぐ目の前に迫って来ていた。

ブレーキをくっと握り込むと、僅かに軋むような音をキャリパーが発して自転車が停止し、一旦地面に脚をつく。

 

右に曲がって国道を海浜幕張方面へ進めば、真っすぐ家に帰りつくことが出来る。

だが、本当になんとなくだが左に曲がった。

こんな気分の時は八重歯が魅力的な迷い牛に会えそう。会えない。千葉にいるのかすら謎だ。

 

川を下流方面へ進んでいくと、潮の香りが強くなり、やがて大きな橋のシルエットが見えてくる。

東京湾河口に掛かる美浜大橋だ。

信号を渡ってから右折し、緩やかな勾配がついた道を一歩一歩踏みしめるようにふらふら登っていると、規則的に立ち並ぶ街灯が目に入り、目的地まではもう少しだと教えてくれる。

 

 

ぜえはあと息を切らせてようやっと橋の中心部まで辿り着くと、そこで大きく息を吐いた。

白く濁った息は黒々とした夜の海にくっきりとよく映え、そしてたちまちに消えていく。

自転車を停めて橋の欄干に手をつけ、その消えゆく先をただ見つめた。

そうして、今日の出来事に思いを巡らす。

思考を整理しなくてはならないと感じたから、色々なことがあったここに自然と脚が向いたのかもしれない

 

穏やかに時間は過ぎ、つつがなく今日という日を終了させることは出来た。あの形を取り戻すために、短い時間ではあるが考えて動いたのだ。

行動的になったなと、そう感じさせられる。

そして、行動的になった理由はもう既に自覚しているものだ。

――大切なものだから、傷つけたくない。

丁度今立っているこの場所だったか。平塚先生に言われた言葉が脳裏に蘇る。

 

求めているものには未だに手が届かなくて、それどころか知らない感情ばかりが積み重なっていく。

 

それしか欲しくなくて、それ以外はいらなくて。

 

そう思って探していても中々実体は見えてこなくて、胸にちりとした燻りを覚える。

いや、実体なんか、きっとない。目に見えないから難しいのだ。

はっきりとした形なんてなくて、もっと朧気で、目の前の立ち消える白い息のようなものだ。

触れたらすぐに失われてしまうような、そんな儚いものを追い求め続けている。

 

 

はっきりとしない、という括りで言えば、今日ふいに芽生えた感情は正にそこに入れられる。一体あれはなんだろうか。

 

知りたいという気持ち。知的欲求は、好奇心とも言い表わされるものだ。

わからない、理解できないものに対して、「知りたい」と考えることは人間として自然な、根源的欲求のひとつではあると思う。

わからないことは調べるし、追い求める。調べてもわからないとすっきりしない。そういう性癖があること自体は否定できない。

俺が抱いたこれは、きっと調べてもわからない。そういうものだ。

 

だからこれも問うて、そして考えなければならない。俺なりの答えを。

 

ぐっと両腕を上げて体を伸ばすと、肩甲骨付近から軽い音が鳴った。

ふぅと、もう一回だけ大きく息を吐き出して、自転車のスタンドを跳ね上げ、海浜大通りから幕張の方へ漕ぎ出す。

橋を駆け下りているその瞬間は、まるで背中を押されているようにペダルが軽かった。

 

×   ×   ×

 

いつもより遠回りして時間は食ってしまったが、無事我が家まで帰って来ることが出来た。

色々なことが一日を通してあったからか非常に疲れたし、たった半日ぶりだというのに家の玄関に懐かしさすら感じてしまう。

 

玄関を開けて体を中に滑り込ませると、2階からばたばたと元気な足取りで小町が駆け下りてきた。

うむ、言葉の響きがなんか犬っぽいな。忠犬KOMACHI。コマァチィってすごく言いにくいよ。ちなみに我が家の本物の愛猫は姿を見せない。

これはいつもの事だから、特に何とも思わないが。

小町は興奮した様子で、何かを早く伝えたいように矢継ぎ早に言葉を発する。

 

「お兄ちゃんおかえり! もう遅いよー待ってたんだからね。ヤバいんだよー」

 

「おお、ただいま。何がヤバいんだよ」

 

ヤバいヤバいって何がヤバいのか全然わからないくらいヤバい。それヤバいな。

ヤバいとマジとそれな、だけで会話出来ちゃうとかリア充どもの意思疎通能力は限界突破していると認めざるを得ない。

さすがに偏見に満ち溢れすぎてる気がしてきちゃう。

 

小町はふふふと含み笑いを浮かべつつ、口角をすっと上げて晴れやかな笑顔を浮かべた。

 

「小町、受かったよ」

 

「受かった?…………は、えっマジで?」

 

「マジだよマジ。超マジだよお兄ちゃん」

 

そう言ってぴらっと見せつけてきた一枚の紙をしげしげと見やると、”合格証明書”と書かれているのがはっきりわかった。

受かったと言われて一瞬理解が及ばなかったが、今日で総武高校の入学選抜試験から約1週間。合否を知らせる書類の郵送日だったことを思い出した。

 

「うおーマジか……」

 

「ふっ。小町にかかれば当然だよ」

 

どやぁ…とでも聞こえてくるような表情で、その薄い胸を張る。

お前あんなに弱気だったじゃねえか。手の平返しすぎで苦笑いしか出てこないわ。

そのドヤ顔にちょっとだけイラッ☆としたので、ついつい意地悪なことを言ってしまう。

 

「まさかマジで受かると思わなかったわ……」

 

「そっち!? ちょっとひどくない!?」

 

あれだけ受験ブルーに陥ってシクシクと泣いていたのに、終わってしまえばあっけないものである。

うえーんと嘘泣きしつつ肩をポカポカと叩いてくるが、その様子は楽しそうだ。

そうかー受かったかー。やるじゃない?小町ちゃん。

 

これで長かった小町の受験もようやく終わり。最高の終わり方になってくれてお兄ちゃん感激だよ。

あとは学校から送られてくる課題を消化しつつ入学に備えるのみと。本当に、お疲れ様です。

そうだ、こういう時こそ労いの言葉を忘れてはいかんな。

咳払いをひとつして、俺はキメ顔でこう言った。キメ顔だからな。キメー顔じゃないからな。

 

「小町良く頑張ったな。愛してるぞ」

 

「ありがと。小町はそうでもないけど」

 

「小町ちゃん? 冷たくない? お兄ちゃん泣いちゃうよ?」

 

良い笑顔でそんなこと言われると涙が出ちゃう……だって男の子だもん。

しくしくしていると、そんな俺に小町は優しく微笑んだ。

 

「愛してはないけど……少しは頼りにしてるよ、お兄ちゃん。これからも色々とよろしくね!」

 

「……おう」

 

そんな事をにぱっと笑って面と向かって言っちゃうのは反則だ。なんかもう、シスコンでいいじゃないかって気がしてきちゃうだろ。

しかし妹と同じ高校かー、あれ、ということは毎日2人乗りで行くのか?いやーさすがに毎日は厳しいぞ体力的にも精神的にも。見られたら恥ずかしいじゃん?

小町に合格祝いとかもしてやりたいな。何なら喜ぶかな。明日にでも買いに行くか。

奉仕部にも入るとか言いそうだけど部員の勧誘とかやってるのかしら。もしアレなら平塚先生に言えばいいのか?まぁその辺は追々考えよう。

 

次々と浮いてくる未来の形を想像して、胸を躍らせる。

冷え切った体は、もうすっかり温まっていた。

 

×   ×   ×

 

合格祝いだろうか。ささやかながら普段より豪華な夕飯を食べ終え、ソファに身を投げ出した。

 

合格祝いと言っても結局作ってくれたのは小町だから、出来た妹である。まったくもって頭が上がらない。

ついでに言うと養ってくれる両親にも頭が上がらないし、カマクラにも給餌係くらいにしか思われていない。つまり、家庭内カーストでもまさに最低ランク!猫以下の存在になってしまうとは、俺のユートピアは一体どこにあるというんだ。

 

そんな事を考えていると、アカン、眠くなってきた。これじゃこの前の二の舞だ。

この時間に寝落ちすると高確率で深夜に起き出し、その後は眠れない。

わかっているのに、それでも睡魔には逆らえないんだよな。マジでなんなんこれ?睡魔さんパないわー。

ちなみに睡魔さんて睡眠に関係する神とか悪魔とからしい。ソースはwiki

神とか悪魔になら負けても仕方ない気がしてきちゃう。でも戸塚という名の天使にはもっと勝てる気がしないんだよなぁ……。

 

徐々に瞼が重くなってきたタイミングで、リビングのドアがぎぃと開けられると風呂上がりであろう小町が入って来た。

 

「風呂上がったよー。ほいほい詰めて詰めて」

 

「むぅ」

 

軽く身じろぎして、もぞもぞと脚を上げてスペースを作ってやると、そこに小町はソファを軋ませつつ腰を下ろした。

脚先に風呂上がりの熱を感じる。それがどうにもこそばゆくて、寝ていた体勢を止めてソファに座り直し、寝ぼけ眼でがりがりと頭を掻いた。

一旦座る体勢になると、少しばかり眠気が飛んだ気がする。まったくもって小町様様である。

小町は携帯をぽちぽちしていたが、やがて思い出したようにこちらに顔を向けた。

 

 

「ね? お兄ちゃん」

 

「ん?」

 

「結衣さんとか雪乃さんに報告した方がいいかなぁ?」

 

確かに報告は大事だな。でも事前の相談はもっと大事だ。予め相談して了承を得ておくことで、責任を上司になすり付けられる。そういう話じゃないな。

小町の受験を心配していたのは、もちろん家族だけじゃない。

あいつらだって、あいつらなりに小町の事を色々気にかけてくれていたのは俺にもわかる。いつか礼を言わねばなるまい。

だから、そういう相手にしっかりと結果を報告することは当然の義務であると思う。それを齢15にして理解してしまうとは。小町……おそろしい子ッ!

 

「どっちかと言えば、しといた方がいいんじゃないの? あいつらも思うところはあるだろうし」

 

「だよねー。よっしまずは結衣さんから……」

 

そういって気合を入れるように腕をまくると、携帯電話を操作して連絡先一覧を開いた。

間もなくして登録されている由比ヶ浜の番号を見つけると、えいっと押して耳に当てる。

数回のコール音がした後、スピーカーから漏れた元気な声が僅かながらこちらにも聞こえてきた。

 

「あっどうも~結衣さん、夜分にすみません。実はですね……」

 

そうして話相手がいなくなってしまうと再びまどろみがやって来て、くぁと出た欠伸を噛み殺す。

ま、ここにいても何だし、眠気覚ましにコーヒーでも飲みますかね。

 

そう思い立ち、ソファから腰を上げてキッチンに向かうことにした。いざ進めやキッチン~♪

立ち上がる時にちらと小町を見やる。内容までは聞こえないが時折笑顔を浮かべつつ談笑していて、楽しそうでなによりといった感じだ。そんな光景に思わず微笑みが零れた。

 

キッチンで2人分のマグカップに入れられたインスタントコーヒーにお湯を注いでいると、

由比ヶ浜との電話が終わったようだ。おお意外に早かったな。女子ってもっと長電話かと思ってたぜ。

マグカップを持ってそっと近づき、今度は雪ノ下に電話を掛け始めた小町の前に、なるべく静かに音を立てずにコーヒーを置いた。

 

「飲むか?」

 

「お~ありがと、お兄ちゃん」

 

そう目線を合わせて呟くと、雪ノ下が電話に出たようで朗らかに話し出す。

どういたしまして、と言葉を返すと、不意にポケットから長い振動を感じた。

 

×   ×   ×

 

何だ?とポケットから取り出した電話の表示画面を見れば、☆★ゆい★☆の文字。

ちっスパムか。やれやれとポケットにしまうと、振動はしばらくして止んだ。

たかだか1分でコールを切るとは根性無しの業者だ。仕事ならもっと気合入れろよ。

俺に言われちゃお終いだぞ?

 

ソファに座り、淹れたての熱々コーヒーを啜っていると再びの長い振動。

これは逃げられそうにない。逃げたらもっと面倒なことになりそうだ。

 

座ったばかりのソファから重い腰を上げ、リビングを出て自室へ向かう。移動中も振動しっぱなしだ。自室の扉を開け、後ろ手で閉める。

はぁと溜息をつくと、仕方なしに応答をタップした。

 

「もしもし」

 

『あ、ヒッキーやっと出たし。さっきも鳴らしたんだけど気が付かなかった?』

 

「ああ悪い悪い、まったく気が付かなかったわー」

 

『なにその変な言い方? まぁいいけどさ』

 

やや訝しむような声だがバレてないよな?由比ヶ浜は変に勘がするどいところがあるから油断は出来ない。

自室内で立ったまま電話しているのもアレなので、そのままベッドに仰向けに寝転がった。

誤魔化すためにと、通話をとっとと終わらせたかったのもあり、こちらから伺いを立てることにする。

 

「んで、用件はなんだ?」

 

『そうそう。それなんだけど、小町ちゃん受かったんだって? だからお祝い会的なというか、3学期お疲れ様会的なやつやらないかなーって思ってさ』

 

「あーはいはいなるほどね」

 

『うんうん。で、知り合い呼んで、こうパーっと打ち上げみたいな感じ?せっかくだしさ』

 

 

行動早いなー。さっき小町と電話したばっかりなのにもう思いついちゃったの?

何がせっかくなのかはわからんが、まあ内容は概ね理解出来る。

 

俺だってそういうものを頭の片隅くらいには考えていたが、それはあくまで家族内のささやかなお祝いの席レベルの話だ。

しかしこいつは、イベントの打ち上げとかパーティとか本当好きだな。何でもかんでもやり過ぎると有難みがなくなっちゃうぞ。一体彼ら彼女らは毎回何を打ち上げちゃってるのん?

 

「うーんしかしなぁ……」

 

『何かあるの?』

 

「いや、アレだよアレ、ちょっとアレで忙しいからさ」

 

『ヒッキー? もはや誤魔化す気ないでしょ。そんなに、嫌?』

 

そう呟くように電話口から聞こえてくる声には覇気がなくなってしまった。電話の向こうでどんな顔をしているかは何となく想像がつく。

いつもの様に反射的に自分がしてしまった返事に、少しばかり後悔の念を覚えた。

僅かに生まれた沈黙を繕うように、由比ヶ浜に問いかける。

 

「嫌ってわけでもないけど……やるとしたらいつだ?」

 

『んー、あんまりまだ考えてないんだけど、集まりやすい方がいいから次の日曜とか?』

 

 

日曜。なるほどSUNDAYじゃねーの。今日が金曜だから明後日か。

しかし日曜か。サザエさんを見てるあたりから徐々に学校に行きたくない欲求が湧き出てくるあの日か。

つまり月曜の前日であり、長い1週間を生き抜く英気を養う日でもある。

そんな日に外出することは俺としては憚られるが、小町を祝ってくれるってことであまり無碍にもできないしなぁ……。はてどうしたものか。

そうして暫く考え込んでいたら、心配そうな声が耳元に届けられた。

 

『ヒッキー?』

 

「ああいや、何でもない。あとはそうだ、場所とかだな」

 

『あーそれもあるね。人数次第だけどカラオケとかファミレスとか、あとはヒッキーのお家、とか?』

 

「それでもいいけど、日曜ってどこでも混んでるんじゃねーの? あと、うちは両親いるから無理だろうし」

 

そう由比ヶ浜案に反論すると、うっと言葉に詰まったような声が聞こえた。

これは避けては通れない問題だろう。

日曜なんてどこに行っても混んでるものだ。店まで行ったはいいが入れなかったじゃ虚しすぎる。

予約してもいいがまだ人数が確定出来ていないし、知り合いに声を掛けるといってもどこまでの範囲なのかが謎だ。

家でやる、という案事態は(出掛けなくて済むから)素晴らしいのだが、両親は大抵日曜は家にいるのでちょっと厳しい。

社畜の安寧である日曜にがやがやと騒がしくするのも、少し親に申し訳ない気がした。

 

 

『むー、考えてみると確かにそうかぁ。うちもパパとママいるし、……どうしよっか?』

 

「いや、どうしよっかと言われてもな」

 

どうにもならない。むしろ、あまり乗り気じゃないから積極的に提案する気にはなれなかった。

 

ちなみに俺は「ちょっと男子ー意見出しなさいよー」的雰囲気にも負けた事がない。まあ存在感無さ過ぎて意見を求められないだけなんですけどね!

すると、むーとか、うーとか唸っていた不意にあっ、と声を上げた。疑問に思っていると、今閃いたであろう事を話し出す。

 

『そうだ! ゆきのんがいるじゃん!』

 

「雪ノ下?」

 

『そうそう。ゆきのんのマンションなら一人暮らしだし、人数も入るし、小町ちゃんのお祝いって事ならきっと大丈夫だよ』

 

言われてみれば確かに。何故すぐ思い至らなかったのか。

ひとつ可能性が胸に去来するが、まあ無意識下のことだ。たまたま忘れていただけ。そういうことにしておこう。

由比ヶ浜の言う通り、一人暮らしなら両親が休日で家にいるという点は心配しなくて済むし、かなり広かったと記憶しているからそれなりの人数でも平気と。

比企谷家からも自転車で余裕で行ける距離だから、体力的にもあまりダメージはない。

なるほど条件は満たしている。

が、前提条件が足りない。まずは本人の許可が下りるのかどうか。それが~一番大事~。

 

「それは雪ノ下次第だろ。勝手に盛り上がってダメでしたってのもアホらしいし、ちゃんと聞いてみないと」

 

『あーそうだね。じゃあそれはあたしから聞いておくよ。結果わかったらメールするね』

 

「ん。わかった」

 

 

そう短く応答して電話を切ろうとしたが、声はなかなか返って来ない。

あれ、もしかして切られちゃった?そう思って耳から電話を離し、画面を見ても通話中の3文字が浮かべられていた。

はて?と疑問符を浮かべていると、声が聞こえたので慌てて耳に当てる。

 

『ヒッキー、もう寝ちゃう?』

 

「んー正直かなり眠い。さっきまで寝落ちしそうだったし」

 

『あ、そうなんだ。じゃあ大丈夫だよ』

 

何か先ほどの話で気になる事があるなら、早めに解決しておきたい。

そう思ったのと、心なしかシュンとしてしまった声も気に掛かる。だからこちらから改めて問い直した。

 

「どうした?まださっきの続きがあるなら聞くけど」

 

『そういうわけじゃないんだけど……まだちょっとヒッキーとお話したいなって思って。ダメ、かな?』

 

そう自信無さそうに、ぽつぽつとこちらを窺うような調子の声が耳元に届けられると、寝ていた体になにかぞわぞわしたものが奔った。思わずベッドの上で身をくねらせる。うわ、なんかキモいな。

何でこういう事を平気で言ってくるんだ、女の子って。怖いし、何よりズルイと思います!

だから、どうにも照れ臭くて素直な言葉は出て来てはくれない。

 

 

「ダメじゃないけど、ほら、通話料とかもあるじゃん? お前に悪いなーと」

 

『心配するポイントがヒッキーらしいなぁ……まぁそれも……』

 

由比ヶ浜?」

 

『ううん』

 

それも、の後の小さな、本当に小さな呟きが聞き取れなかった。

聞き返してみても、気にしないでと言われてしまえばそれまでで、何もすることは出来ないままだ。

 

そんな歯痒さを残したまま電話を終わらせるのもすっきりしない。だから、少しだけ。

半歩でもいいから。俺なりの言葉で。

 

「学校でもすぐ会えるし、こうして電話でいつでも話も出来る。日曜にもし集まるなら、そこでも会えるしな。だから、その、あとあれだ。小町のこと気に掛けてくれて、ありがとう……」

 

息を呑む声が聞こえた。そうしてクスッと微笑む声も。それは否応なしにこちらまで届けられる。

 

『ありがと。うん。小町ちゃんにも改めてよろしく。長々とごめんね?』

 

「気にすんな。たまには電話も悪くない」

 

『なにそれ? まぁいいや。おやすみ、ヒッキー』

 

「ああ、おやすみ」

 

互いに別れの挨拶をして、通話終了ボタンを押す。

電話を枕元にほいっと投げ、天井を仰ぎながらふすーと息を吐く。自室内の静寂に包まれていると、ようやく落ち着いた気分になってきた。

 

電話って偉大だ。グラハム・ベルさんに感謝感激雨あられである。

顔が見えない状態で会話するのは難しいが、沢山の利点があると気が付いた。

 

恥ずかしいことでも、ちょっと勇気を出せば言えちゃうこと。

それと。

 

赤くなった顔を見られないってのは、電話の最大のメリットだな。

 

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カーテンから零れた光と身震いするような肌寒さを感じ、目が覚めた。

 

中途半端に体に掛けられた布団と、妙な体制、付けっ放しの室内灯、手からこぼれ落ちたように布団の上に佇む文庫本から類推するに、どうやらまた寝落ちしてしまったらしい。

何というか、よくこんな状態で朝まで起きなかったと感心してしまう。

 

身体の倦怠感に襲われる中、ボーッとした頭で時計を確認すると8時30分。

俺にしてはかなり早起きだ。やることもあるし丁度いいのかもしれない。

早起きは三文の徳とも言うしな。

 

今でこそ早起きを奨励するような意味合いで使われるが、元々は「早起きしても3文しか徳がありませんよ」的なニュアンスで使われてたとか。

そもそも3文て100円とかだし。

100円のために早起きする気になるだろうか。いや、ありえないな。迷わず寝る方を選択しちゃうわ。

 

この現代まで受け継がれることわざを生み出したやつは、きっと俺に似て朝の惰眠を愛する徳の高い人間だったに違いない。

つまり俺=徳の高い人間であり、俺の数々の迷言も後世に引き継がれてもおかしくない。

自分で思っててもガバガバな理論だわ。なんか目が覚めたし起きよう。

 

着替えや洗顔など身支度を済ませ、リビングでテレビを眺めつつ自分で淹れたコーヒーを啜る。

両親は休みの日は昼まで寝ているが、小町はどうしたんだろうか。

受験も終わったわけだし、気も抜けちゃうか。そっとしておこう。ずっと家事に勉強に頑張ってきたんだから、今日くらいゆっくりしても罰は当たるまい。

それに、今日の予定を小町には知られない方が都合がいい。

 

 

さて行動開始するかと思い、何の気なしにリビングの机の上に置いておいた携帯電話を手に取って見ると通知があることに気が付いた。

ん?と思うが、同時にストンと腑に落ちる感覚。あぁ、あいつか。やっぱ行動早いな。

 

メーラーを起動すると、新着が1件。差出人は由比ヶ浜

どれどれと内容を確認しようとしていると、まず受信時刻が目についた。23時頃か。

まったく気が付かなかったし、その時には寝落ちしていたと。

はっ!こ、これがまさか「寝てて気づかなかったよ」パターンなのか。まさか自分がする側に回るとは夢にも思わなかったぜ……。

ちなみにされた経験は豊富だ。

 

夕方17時くらいに送ったメールに対しての返信が、翌日の朝届いた「ごめーん寝てた」だけだった時もあったなー。やばい、思い出したら虚無感が湧きまくってきた。

女子って早寝なんだな、とか思ってたあの頃の純粋な俺を殴ってやりたい。

 

さてさて内容をざっと纏めると、雪ノ下の了解は得た。それを小町にも伝えておいて欲しいと。

その旨がよくわからん顔文字と一緒に打ち込まれているのが確認できた。

はぁ。逃げられなかったか。だが決まったものは仕方ない、行くしかないか。

というか、むしろお礼を言わないといけない立場であって、それを肝に銘じなければならない。

 

小町を祝いたいのは、もちろん俺だって同じ気持ちだ。

機会を設けてくれた由比ヶ浜にも、場所を提供してくれる雪ノ下にも。

祝福したい、という気持ちを持ってくれることに感謝しないと。

 

よし、今のうちに返信しておくか。メールをシカトされると精神的にくるものがある。ソースは俺。自分がされて嫌なことは人にしちゃ駄目だ。

返信をタップし、文字を打ち込んでいく。文字打ちという作業に慣れていないので少々まごつくが、まずは「了解」と。

それだけで返信してもいいのだが、その下の空白がひどく目に付く。2文字だけの返信って送る側も受け取る側も、何となく寂しい気持ちになる。

よし、ならば。

一文字ずつ丁寧に打ち込んでいく。そして出来上がった文章を見て満足すると、送信を押した。

 

 

宛先:☆★ゆい★☆

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cc/bcc:

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件名:

―――――――――――――――――――――――

 

了解。

いいか。戸塚だ。戸塚を呼べ。絶対に何があっても

だぞ。絶対だからな。

 

―――――――――――――――――――――――

 

いや、やっぱりさ。戸塚は外せないよね?

 

×      ×      ×

 

家から自転車で走ること数分。

目的の建物の外観は、まるでそびえ立つ城のようであり、中に入れば人々を惑わし、脚を棒のようにさせる迷路のようでもある。

そんなイオンモール幕張新都心に来ていた。

 

千葉で、幕張で買い物といったらイオンモール。出来たのは最近ではあるが、ここに来れば基本何でも揃う、という触れ込みは間違いじゃない。

ついでに脚が棒のようになるのも割とマジだと思う。全部見て回ろうなんて決意を持ったところで1日じゃきっと回りきれない。それくらい広い。千葉マジ広い。

しかも正式名称なんてイオンモール幕張新都心だよ?新都心新都心。大事なことだから何回でも言う。

これは千葉が日本の首都になる日も近い、ということを暗に示しているのだ。

 

ここに来た理由は他でもない。小町の合格祝いに何かあげたいと考えていたからだ。

漠然と何か、という想いだけできてしまったが、曇りなき眼で見定め、決める。(アシタカ)

 

自転車を指定の駐輪場に停めてモール内に入ると、開店して間も無いというのに主に家族連れや友達同士と思われるグループ、カップルで賑わいを見せていた。

混むのが嫌だから少し早めに出てきたというのに、少し見立てが甘かったか。やはり天下のイオンの集客力を舐めてはいけなかった。

 

ぶらぶらと歩きつつ、右に左に首を交互に動かして雑貨屋やアクセサリーショップを外から見て良さそうなものがないか探すが、如何せんわからん。

小町が何が気に入るかわからんし、お一人様だとすっごく入りにくい。

入ったら入ったで店員にロックオンとかされると面倒だし。まあ今日は休日で、他の客も多いから俺に構う暇もないか?

 

 

そもそもプレゼント=アクセサリー、みたいなステレオタイプな考え方から脱しなければいけないかもしれん。

身に付ける系のプレゼントは、付ける人間の好みを外すとゴミにしかならない場合もあるから難しい。

 

常に身に付ける系ではなくて、かつ新生活で使えるもの。

文房具とかそっち系にするか。それなりの値段の良さそうなシャーペンとかなら大きく好みを外す事もないだろうし、持て余すこともないだろう。

あとは何か甘い物でも買っていけば文句は出まい。

我ながら完璧だ。完璧に無難。ケチもつけられない代わりに面白みも何もないチョイス。

 

まあ嫌がられる事はないでしょ。できれば喜ぶ顔が見たいけど。

もし喜んでくれたら、それだけで満足だ。

 

×      ×      ×

 

適当に歩いていて見つけたスイーツショップで「当モール限定!」なるロールケーキを見つけたので、コレでいいかとやや投げやりながらも購入。

次いで1階の書店に併設されている文具コーナーでコレでいいかと、やや投げやりながらも目的の物を買い終えた。

うわーテキトー。男1人の買い物なんてこんなものである。

こんな選び方で大丈夫かしら?

 

いや、選び方が重要なんじゃない。結果だ。結果こそ大事なんだ。

超気合入れて選んだあげく、うわーみたいな反応されたら堪ったもんじゃない。

逆に言えば、テキトーにチョイスした品が好評だったら嬉しい。

つまりこれは余計なダメージを負わないための自衛策だ。どこまでいっても、人間やっぱり自分が一番可愛いのである。

 

さて本日の目標は達成した。あとは帰るだけだ。

時刻はまだ11時過ぎで、客足は増えるばかり。ここにいても疲れちゃうしな。

 

少しだけ本屋に寄っていこうと思い、文具コーナーを出て真横の本屋に入った。

入ってすぐにある新書コーナーを横目に流しつつ歩いていると、対向して歩いてきた人とぶつかりそうになり、僅かに肩を引いて避ける。

すれ違う人の顔をちらと見やると、見知った顔がそこにあった。

 

「比企谷くん?」

 

「…どうも」

 

 

名前まで呼ばれてしまっては無視など出来ないので、軽く会釈するように首を曲げて挨拶をした。

象徴的な見透かした様な面差しとは違い、本当に予想外といった様子で目を丸くしている。こんな表情を見れる事は珍しい。

 

まるで面白いものを見つけた子供のような無邪気さで、雪ノ下陽乃は微笑む。

年相応かそれ以上に大人びた彼女が見せるそれは、ひどく魅力的で目が離せないものだった。

 

「こんな所で会うなんて偶然だね。買い物?」

 

「ええ、まあそんなところです」

 

手に持った袋から推測したのだろうか。そう問いかけてきた陽乃さんを顔を上げて見る。

しげしげと俺の右手にぶら下げた袋を、顎に手を当てつつ眺めていた。

 

特にこちらから会話するような用事も無い。しかし、黙って本屋内を眺めているのもと気まずいものだ。

ビミョーに知り合いのやつと、たまたま外で会っちゃったりするとこうなるよな。授業の関係で仕方なく1回だけ話したことのあるやつとかさ。

「お、おう」みたいに挨拶はするものの、その後会話は生まれず別れるタイミングを窺うアレだ。

 

陽乃さんは別に知らない仲ではない。雪ノ下の姉で、葉山とも幼馴染。何回か会話する機会もあった。

けれど、彼女自身の事は知らない。

知らない仲ではない、とは思う。けれど、結局極々限られた一部分しか知らないのだ。

そんな関係性は一体何なのだろうか?わからないのだから名前を付けようもない。

 

 

「じゃあ、俺はもう帰るところだったんで」

 

居心地の悪さに場を支配される前に帰ろうと、そう声を上げた。

陽乃さんは俺の言葉を受けると、腕に巻かれた時計をちらりと見て、次いでこちらを見る。

 

「ね、良かったらそこでお茶しない? 時間つぶし、付き合ってよ」

 

「え、いや、これ生ものなんで早いとこ帰りたいんですけど」

 

先ほど買ったロールケーキが入った袋を掲げて見せる。ていうか俺の話聞けよ。帰るって言ってんでしょ。

冬とはいえ、室内はかなり暖かい。出来れば痛む前に帰りたかった。

もちろんそれもあるが、8割方早くこの場から去りたいという一心で咄嗟に出た言葉でもあった。

 

「大丈夫大丈夫、ほんの20分くらいだからさ。それくらいなら平気でしょ?」

 

「はぁ。まあ、それだけなら」

 

そう言われて逃げ道を潰されてしまえば、もうこちらからウダウダ言い訳することもできない。だから渋々ながら了承をするしかなかった。

意図的に答えを誘導されたような心地がして、どうにもすっきりとしない。

 

俺の言葉に満足そうに頷くと、手近な店に入っていく。俺もそれに続いた。

陽乃さんとはやけに喫茶店に行っている気がする。それも望まぬ形や、偶然の出会いがほとんどだ。何か縁でもあるのだろうかと思った。

 

そして彼女との邂逅にはあまり良い思い出が無いという事実が、ふと頭をよぎった。

 

×      ×      ×

 

休日の店内は賑わいを見せていた。

たまたま入った店はブックカフェというものなのだろうか。隣の書店とコラボしているらしく、その宣伝POPと立て看板が店外にあったことをそういえばと思い出した。

 

大きく壁一面がガラス張りになっている店内は陽の光に満ちていて、内装や調度品にもこだわりがあるのが見ていて伝わってくる。

端的に言えばオシャレ空間だ。台無しだな。

そんなオシャレ空間において場違い感がハンパない俺は、店内の奥まった2人席で所在なく奢ってもらったブレンドをちびちび啜っている。

1回は奢ってもらうことを拒否したものの、あまりにも断り過ぎるのも失礼なので諦めた。

 

対面に座る陽乃さんは、俺とは違ってばっちりとこの場に馴染んで見えた。

楚々とカップを口に近付ける仕草すら艶めかしく映る。そんな風に見ていたら目が合ってしまい、慌てて逸らす。

陽乃さんは薄く微笑んで、静かにカップをソーサーに戻した。その所作は、やはりどこか雪ノ下に似ている。同じ家庭で育っているのだと、そう思わせるものだった。

 

「それで、最近雪乃ちゃんとは順調? 少しは進展あった?」

 

「進展て。何もありませんよ、変わらずです」

 

この人はいつもこうだ。妹のこと気に掛け過ぎでしょ常識的に考えて。

やーいシスコン!と特大ブーメランを脳内で投げていると、陽乃さんは視線を落として自分のカップの中身の黒々とした液体を見つめる。

 

「なーんだ、……つまんないなぁ」

 

その声は本当に退屈そうで、心情と言動が寸分違わずマッチしているようだった。

そう言われても、こちらとしては期待に応える義務もない。別にあなたを楽しませるために生きているわけでもない。

 

「俺と雪ノ下はそういうのじゃないってわかってるでしょ?」

 

「えー、ホントにそう?」

 

「何すかそれ?」

 

 

鬱陶しいなと。挑発的な笑顔を浮かべる陽乃さんに対して、そんな感情がちらりと出た気がした。

しかし、靄が掛かった様なその想いは、本当の意味で目の前の彼女に向けられているものだろうか。

その矛先が向かうのは、果たしてどこか。それがわからないからイラつきに似た感情を抱えているのかもしれない。

ただ、これだけははっきり言える。今は雪ノ下のことに触れられたくなかった。

 

「本当に、何もなかったのかな?」

 

その言葉に思わず喉がごくりとなった。この人はどこまで知っているのか?

しかし、あの部室での出来事を雪ノ下本人が陽乃さんに言うはずもない。だから知る由はないはずだ。

 

「何もありませんって」

 

「ふーん、そ。まあ、君ならそうとしか言わないか」

 

これ以上聞いても何もないと俺の態度から悟ったのか、それ以上は聞いてこない。

瞑目して一口コーヒーを啜り、再びソーサーに戻すと今度は軽い接触音が鳴った。そのカチリという音は、人で賑わい、音が溢れる店内でもやけに耳に残る。心臓の鼓動すら聞こえてくるようだ。

それくらい、緊張感を伴って目の前の状況と向き合っている。

 

陽乃さんはカップから手を離し、指を組む様にしてテーブルの上に置いた。そして話を切り替えるように、わざとらしい笑みをその顔に浮かべる。

 

「じゃあ代わりになんか面白い話ないの?」

 

「そういうフリが一番男を困らせるって知ってて言ってます?」

 

「もちろん!」

 

うわー外道の微笑みですわ。

別に彼女を楽しませようとしているわけではないが、こちらの反応を楽しむようにクスクス笑われているだけ、まだ救いがある。

一番怖いのは無反応だからな。

そこでひとつ思い至る。面白い話かどうかはわからないが、気になっていることはある。

俺と陽乃さんの共通の知人でもある、あいつのことだ。

 

 

「あの、ちょっと聞きたいんですけど」

 

「ん?なになにー?」

 

「何と言うか……葉山のす、好きな人のことって、何か知ってませんか?」

 

「隼人の?」

 

何とか誤魔化して聞きたかったが、どうにも上手く言葉が見つからずかなりストレートな言い方になってしまった。

気恥かしさを拭うようにカップに口を付ける。

幼い時から葉山と親交があったはずだから、もしかして何か聞けるかもしれない。そんな算段だった。

陽乃さんは一瞬怪訝そうな表情を見せたが、変わらずわざとらしい笑みでこちらを見据えてくる。

 

「やだ、比企谷くんってばそんなことが気になるの? もしかしてそっち系?」

 

「それだけはないんで勘弁して下さい」

 

いやホント勘弁して欲しい。腐のオーラを持つ者に見つかってたら流血騒動だっただろうな。腐のオーラを持つ者って何かカッコいい。毒とか使いこなしそう。

ふーんと僅かに考えてから、陽乃さんは口を開いた。

 

「じゃあさ、何でそんな事が気になったの?」

 

「それは……」

 

言っていいのだろうか。言葉に詰まる。

行動には理由が伴うものだ。だから、葉山の好きな人物を俺が聞く、その理由を尋ねられるのは少し考えればわかるはずだ。

軽々しく自らが口にした事を若干後悔した。

そして今話しているのは、誤魔化しが通じる相手ではない。

仕方ない。結局踏み込まないといけないのか、と内心溜息を吐いた。

 

 

「それは、そういう依頼が来たんです。だからその助けになればと思って」

 

嘘は言ってない。依頼が受理された体で話を進めれば、より詳細の部分を聞きやすくなる。そういう意図があった。

しかし、それが見逃されることはなかった。

 

「へぇ。それで、 雪乃ちゃんはどうしたの。断った?」

 

「……確かに断りましたけど」

 

「まあそうだろうね」

 

結果的に依頼自体が取り下げになったが、一度は断ったのも事実だ。それよりも気になるのは、なぜ「依頼を断った」前提で話すのか、という点についてだ。

どこまでも見透かしたように、彼女は首をもたげて虚空を眺める。その瞳に映るのは何か。

きっと、喫茶店の整えられた内装などではない。

 

「あの子は変わらない。体は大人になっていくのに、心はあの時のまま」

 

あいつだって、少しは良い方向に変化してますよ」

 

「ああ、ごめんね。そういう話じゃないの。もっと根っこの部分での変化がないなって」

 

その言葉に眉をしかめる。俺は雪ノ下は変わったと、そう思っていた。

出会って1年にも満たないけれど、彼女は変わったと確かに感じていたのに、それはにべもなく否定される。

移ろう日々の中でのささやかな変化程度では、変化と呼べないと雪ノ下陽乃は言う。

俺の中ではささやかとは呼べない雪ノ下雪乃の変化を、取るに足らないものだと切り捨てるのだ。

それは共に過ごした時間が長い、姉妹だからこその言葉か。

 

根っこと、陽乃さんは言った。人の根。つまりは人格を形成するもの。現在に至った経緯を示すものだ。

雪ノ下の過去。それは理由はわからないが、俺が知りたいと欲したものでもある。

 

 

「あいつ、昔に何かあったんですか?」

 

そう自然と口に出ていた。自信の願望を滲ませぬよう、出来るだけ隠すように平静を装う。

それを受けて、陽乃さんは口の端を上げて蠱惑的な笑みを浮かべる。

心臓の音がはっきり聞こえた。その表情からは目が離せない。

 

「言ってもいいんだけどね」

 

「何ですか?」

 

「君の言い方を借りると、フェアじゃないかなぁと思って」

 

「あぁ、そうっすか……」

 

そう言って今度はいたずらっぽく笑った。

確かにフェアではない。それに、よくよく考えると第三者から聞いても、それは意味がないものだ。

主観視した出来事と客観視した出来事では、意味合いが違うこともある。

だから、これ以上聞くのは野暮だ。どうせ話すつもりもないだろうし。

そう一度思ってしまうと、急速に肩の力が抜けた。

 

「でもちょっと意外だなー。比企谷くんが他人に興味を持つなんて」

 

「別にそんなんじゃないですよ。ただ、なんとなくあいつ、昔何かあったのかなーって思っただけで」

 

「あ、やっぱり雪乃ちゃんに興味深々じゃない? 私は“他人に”って言っただけで、雪乃ちゃんとは一言も言ってないよ」

 

「……」

 

この人の前で気を抜いたのが間違いだった。ニヤニヤすんなよコラ。

カマ掛けに見事に引っ掛かり言葉を失くしていると、陽乃さんは左手の指でカップの淵を撫ぜた。

親指と人差し指をすっと動かして、淵についた口紅を拭う。

 

 

「雪乃ちゃんの事、知りたいって思ったんでしょ。どうして?」

 

「あいつの事っていうか、過去の事ですよ。俺が知りたいのは」

 

「同じ事なんじゃない? 逆に聞くけど、どうでもいい人間の過去を知りたいなんて思う?」

 

「……思わ、ないですね」

 

そう言う事だよと、彼女は薄く微笑んだ。

俺はまたしても何も言えない。ただ言葉の奔流に堪えるだけになってしまった。

陽乃さんは俺の様子を見て、そのまま小首を傾げて問うように言葉を続けた。

 

「ね、比企谷くん。知りたいって気持ちはなんだと思う?」

 

「まあ、わからないとか理解が出来ないから、それをどうにかしたくて知りたいって思うんじゃないですかね」

 

用意していた言葉が、するりと口から出たような感覚がした。これは間違いなく、俺が思っていたことだ。そして同時に何かから目を逸らしているような、気持ちの悪い感覚も残る。それをコーヒーで流し込んだ。

 

「それもあるけど、それだけじゃないんだよね。よく考えないとダメだよ。あとその気持ちは忘れないように。皆が皆持てるものじゃないからね」

 

「はぁ」

 

抽象的な物言いに、なかなか理解が及ばない。そのせいか眉根を寄せるような表情になっている自覚があった。

 

「あ、よくわかってないでしょ? じゃあヒント」

 

「?」

 

 

そう言うと、陽乃さんは僅かに残されたコーヒーを、カップを傾けて飲みきった。

拭ったばかりのカップに再び口紅が付いてしまったが、そんなのは今この状況においては些末な事柄だ。

 

「知りたいって感情には2種類あるんだよ。わからないから知りたいって側面と、わかりたいから知りたいって側面だね」

 

「それこそ、同じじゃないんですか?」

 

「似てるけど違うものだよ。知らないところから知ろうとするのと、既に知っているところからより理解を深めるの違い、かな」

 

わかる?と首を傾げた。

言わんとしている意味は理解できる。が、これが自身の持つ感情を紐解くヒントと言われても、いまいちピンとこない。

頭に文字の羅列が浮かぶだけで、整理までは及べなかった。今は考える時間が欲しい。

考えが纏まらず口を開けないでいる俺を見て、時計をちらと見ると陽乃さんは席を立った。

 

荷物受けに使っているカゴから鞄を引っ張り出すと、それを肩に掛ける。

そして微笑みを浮かべながら、座ったままのこちらに身を屈めるように顔を寄せてきた。

 

「じゃ、そろそろ行くね。時間つぶし、付き合ってくれてありがと」

 

「……うす」

 

不意に近づいた距離がこそばゆくて、体を引いて距離を取る。

そんな俺に向けてまたカラカラと笑った。

 

「うん、期待通りのリアクションだ。さっきのは宿題にしとくから、今度会った時に聞かせてもらうね」

 

じゃあねと、そう言って今度こそ背中を見せて立ち去って行った。

その背中を意味もなくずっと追い続けるが、彼女は振り向くことなく歩いていき、そのままショッピングモールの奥に消えた。

 

カップに残された、すっかり温くなってしまったコーヒーを一気に飲み干す。

それはとても苦々しく、時間が経ってしまったせいか酸味すら感じる。

 

ほら見ろ。やっぱり良い気分になんてならないじゃねーか。

 

―――――――――――

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―――

――

 

 

家に帰り着き気が抜けたのか、コートを脱ぎ捨ててうつ伏せにベッドに倒れ込んだ。

 

出掛けていた時間はそうでもないのに、ほとほと疲れた。疲れ果てた。もはやどうやって帰ってきたのかもわからない。いつの間にかここにいた感じさえする。

今日感じているこの疲労感。それは肉体的にではなく、内面的な部分への負荷が大きいからだろう。それくらい、あの人との会話は疲れる。

抽象的な物言いで、話しているその時には理解が及ばないものだったが、何故かはっきりと記憶には残っていた。

宿題、か。

 

ごろりと仰向けになり、天井を見つめる。

向き合わないといけない。そろそろこの薄靄が掛かった様な感情をどうにかしてしまわないと、頭がパンクしてしまいそうだ。

 

 

まずは、葉山の好きな人物と、それに伴う雪ノ下のこと。

 

陽乃さんに尋ねても、有益な情報は引き出せなかった。というか上手くかわされて、まったく聞けず終いというところか。

あの話の誘導は狙ってやったのか、それとも。

あの人に限って考えなしというのも、それはそれで違和感がある。

だからきっと、上手くはぐらかされた。そして今まで気がつかなかった自らの間抜けさにはほとほと反吐が出る。

 

葉山の好きな人物。イニシャルは、Y。名字なのか、名前なのか、それすらわからないアルファベット一文字。

ヒントはヒントだが、これだけでは正解たり得ない

決めの一手としては有効かもしれないが、思考の出発点としてはあまりにも薄弱なヒントだ。

日本全国のみならず、総武高にだってどれだけYがいるか。同じ高校にいるという確証だってまったくない。

 

雪ノ下のあの反応から見て何かがあったことは間違いないし、断片的に拾った過去の情報を統合すれば、ある程度予測を立てることは可能だ。

しかし、推測だろうが予測だろうが、それらを重ね続けたところで真実になるわけじゃない。

ピントが合っていないまま見続けていても限りなく無意味で、それでは実像はいつまで経っても見えてこない。

だからこそ“経験者”の声を聞きたいのだが、彼と、そして彼女らは口を開いてはくれない。

 

特に。葉山本人の口を割らせることはほぼ不可能に近い。

3年の文理選択すら人に話さない奴が、それよりももっとデリケートな話題に言及して良い顔をするとは思えない。

イニシャルを得ていることはヒントではあるが、「これ以上は話さない」という線引きをされたとも言い換えられる。だから、難しい。

こう考えると一色の依頼を遂行するのは、きっと無理だった。それほど、あいつが自らこの話をするという事は想像出来なかった。

 

葉山は恐らく駄目で、陽乃さんにも上手くはぐらかされた。残るは、雪ノ下ひとり。

 

そもそもの話。別に葉山の好きな人物それだけを知ることを熱望しているわけではない。

あくまで知りたいのは葉山の話から派生している、雪ノ下雪乃の過去だ。考えるポイントをずらしてはいけない。

 

 

何故これほどまでに知りたい?

 

口を開いてくれるまでは待ち続けて、それでいつか話してくれれば、それでいい。少し前まではこう考えていたはずなのに。

感情を自覚すればするほどその存在は大きくなり、抑え込もうとする力をはね除けようとする。

僅かな期間でこれほどまでに矛盾した感情を抱え込むことになるとは、何がここまで俺を変えたのだろう。

 

変わる事は逃げだと、最近はもう思えなくなった。

だって、こんなにも勇気がいるなんて思わなかったから。

変わる自分を受け入れるのに、こんなにも勇気が必要だなんて知らなかったから。

変化を受け入れられるのは、強い人間だ。そんな強い人間は、多分逃げない。

俺はまだそれに成れないし、慣れる気もしない。でも、いつか、そうなりたい。そうありたいんだ。

 

だから、問いかけを始めよう。

 

知りたいという感情には、種類があると教えられた。

一方は“わからないから知りたい”。もう一方は“わかりたいから知りたい”。

自身の感情と向き合え。

正直に、真正面から、徹底的に。

嘯いて、はぐらかして、見えているのに目を逸らして。そんなのはもう止めだ。

 

俺は、わかりたいと思った。わからないからじゃなくて、わかりたい。その感情自体はずっと胸の内にあったんだ。

 

“わかりたい”なんて馬鹿正直で、愚かで醜い願望の押し付けにしかならないはずなのに。

そんな願望染みた言葉はひどく曖昧なはずなのに。

そう想うだけで心が熱くなる。

自分の感情に、もう嘘はつけなかったし、つきたくない。向き合わないといけない時は、きっと今なんだ。

 

何故、知りたい?

何故、彼女の事をわかりたい?矛盾した感情を孕んでもなお、そう考える理由は?

いつもここで目を逸らしていた。知ってしまうことが怖くて。知ればどうなるかわからないから。

だけど。それでも。手を伸ばせ。

 

その鍵の掛けられた箱に。意図的に閉ざした記憶と感情へ。

今、一歩を踏み出す。

 

長い、長い時間だった。具体的な時間がわからなくなるくらい、そうして考えていた。

気が付けば高かった陽は沈み、夜の帳が降りる気配を閉め切られたカーテンの外から感じる。

 

思考の末に得た俺なりの答えは、どこか既視感を覚えるものだった。けれど、淡くて芽生えたばかりだというのに、確定的にあの頃とは違う。

 

それだけは、理解出来たんだ。

 

―――――――――――

―――――――

―――――

―――

――

 

「え~それでは小町ちゃんの合格を祝して……」

 

かんぱーい!という明るい響きに満ちた声が広い室内に響く。その声は殺風景なタワーマンションの一室に彩りを添えるようだった。

立ち上がって音頭を取った由比ヶ浜が席に座り直すと、本日の主賓であるところの小町へにこやかに向き直る。

 

「ではでは小町ちゃん。何か一言!」

 

「はい!」

 

おずおずと立ち上がり本日の参加者たちを見渡すその姿は、少しだけ緊張が見て取れた。

あーわかるわ。改まってなんか発言しないといけない時の緊張感。授業とかで順番で当てられるのわかってて身構えるのに似てる。

よっし言うぞーと意気込んでて噛んじゃった時のあの空気は忘れらんないわ。

 

「えー本日は小町のために本当にありがとうございます。お蔭さまで無事に総武高校に合格することが出来ました。これから皆さんと同じ学校に通えると思うと嬉しさで胸がいっぱいです! ご迷惑をお掛けすることも多々あるとは思いますが、これからも愚兄ともどもよろしくお願いします」

 

そうしてぺこりと頭を垂れ、挨拶を締めくくった。

良く言えました小町ちゃん。お兄ちゃんは立派な挨拶が聞けて嬉しいよ。でも一言余計じゃなかったかな?

 

「うっわ先輩って妹にも馬鹿にされてるんですか? シスコンっぽいから仲良いのかと思ってました」

 

「違う。あれは馬鹿にされてるんじゃなくて愛情表現だ。あと俺はシスコンじゃない。ただ妹への愛情が深すぎるだけだ」

 

「それをシスコンと言わずして何と言うんですか?」

 

俺はシスコンじゃない。普通だよ普通。あれ、普通ってなんだっけ?

自論をシラッとした目つきの一色に展開していると、より一層距離が開いた気がする。

物理的にはそれ以上下がれないぞーいろはす心理的な距離はもう彼方まで開いているまである。

 

 

「お兄ちゃん恥ずかしいから止めて。外でそのノリはキモいだけだから。いろはさんもすみません。うちのコレがいつもご迷惑を」

 

「いいのいいの小町ちゃん。こういう人だってよく分かってるから」

 

キモいって、キモいんだって。しかもコレ扱い。お兄ちゃんは物じゃありません!まだかろうじて人です!

ぶわっと涙が溢れちゃいそうになるのを必死に堪えている俺を傍目にきゃいきゃいと楽しそうだ。可愛い小町と、可愛くない小町の夢の共演が見れる日が来るとは。

ていうか会ったばかりなのにもう名前呼びかよ。女子のコミュ力恐るべし。

いやでも分からんぞ。あいつらは仲良くもないのに取りあえず名前で呼んでおけって風潮あるからな。

 

「つーか今まで何も言わなかったけどさ。お前何でいんの?」

 

「えーだって結衣先輩からお誘いありましたし。それにほら、わたしって生徒会長じゃないですかー。だから新入生をチェック! する的な?」

 

「別にいいんだけどさ」

 

「反応薄くてなんかつまんないですよー」

 

だって小町と知り合いじゃなかったじゃん?繋がりナッシングのやつのお祝い事とかよく行く気になるな。俺だったら絶対行かない。あっ、まず誘われることがなかったわサーセン

まあ由比ヶ浜に誘われたってなら何も言うまい。それよりも、だ。

 

「戸塚。今日はわざわざ来てくれてありがとな」

 

「ううん、小町ちゃんが受かったって聞いた時はすごく嬉しかったから。祝いたいのはぼくも同じだよ?」

 

「ふはははは感謝するが良い八幡! 我が直々に妹御の合格を祝いに来てやったことをな!」

 

左隣に腰掛ける戸塚に感謝を述べると、はにかんだような笑顔を浮かべた。こうして色々な人に祝福されて、小町は本当に幸せものだ。

 

「それでも感謝はしないとな。今日も部活だったのか? 日曜まで大変だな」

 

戸塚の出で立ちは以前街中で遭遇した時と同じウインドブレーカーで、今は上着だけ脱いで総武高のジャージ姿だ。持参した重そうなテニスバッグが壁にもたれかかって鎮座しているし、部活帰りだということは容易に想像がついた。

 

「練習しないと強くなれないからさ。継続は力なり、ってこと。それに、テニス好きだからさ」

 

「はちまーん!」

 

「す、好きだから? 戸塚、もう一回言ってみてくれ」

 

思わずごくりと喉が鳴る。きょとんと困惑した顔をくりっと傾げて、戸塚は言った。

 

「?好き、だから」

 

「いい……すごくいい」

 

「八幡?ねぇ八幡?」

 

「あれ材木座か。お前いつからいたの?」

 

「ひどいよあんまりだよ! そんなの絶対おかしいよ!」

 

うぜぇ……。うわーんと巨体を折り曲げて俯き、声を上げて泣き出した材木座にはそんな感想しか出てこない。

いや最初から居たのには気が付いてたよ?でも戸塚との世界に入ってるとそれ以外が中々見えなくてスマンな。

材木座のお蔭?で現世に帰還すると、そこかしこから胡乱げな瞳を向けられている事に気が付いた。

 

 

「ヒッキーまたキモいこと言ってるし。どんだけ彩ちゃん好きなの?」

 

「いつも変なことしか口にしないのだから、ある意味予定調和とも言えるけどね」

 

対面に固まって座る女子グループから冷ややかなお言葉を頂戴してしまった。

俺が戸塚を好きなのは自明の理だからいいとして、変なことって何だし。

ん?同性の友人に“好き、だから(戸塚ボイス)”ってリピートさせる男?キモッ!

うわーという顔の由比ヶ浜と、冷笑を浮かべる雪ノ下に対してこれは言い訳しようもない。

 

「まあそれは置いといてだ。……誰だよこいつ呼んだの?」

 

そうやって泣き崩れる材木座に目線を向ける。確かに小町と面識はあるけどよ。

 

「えっあたしじゃないよ? 連絡先知らないし。知ってても忘れてて呼ばなかったかも。ヒッキーが呼んだんじゃないの?」

 

「俺が呼ぶと思うか?」

 

「あなたたち、大概ひどいわね……」

 

俺と由比ヶ浜のやり取りに雪ノ下は頭痛でもするのか、やれやれと首を振って額に手をかざした。

誰だよーこいつ呼んだのー空気まずくなるだろーと、脳内でかつて自らに掛けられた言葉を反芻していると、戸塚がおずおずと手を挙げる。

 

「あの、ぼくが声掛けたんだけど、ダメだったかな?由比ヶ浜さんも誰か誘っていいって言ってたから」

 

「なに?戸塚が呼んだのか。じゃあ問題ない。歓迎するぞ材木座

 

「変わり身早すぎ!?」

 

「はぁ……ここはあなたの家ではないのだけれど」

 

雪ノ下が吐いた溜息を皮きりにして、項垂れていた材木座の肩がピクリと動く。

くの字に曲がった体をゆっくりと起こして、んん!と喉の調子を整えた。

 

 

「けぷこんけぷこん。我だって忙しい執筆活動の合間を縫って来ているのだ。感謝しろ八幡!」

 

「あ、ごめんね忙しいのに。迷惑だった?」

 

「あ、いえいえ全然暇です。ハイ」

 

うざいテンションで言い放つ材木座にすら気を使えるなんて、やっぱ戸塚って天使だわ。

素直すぎるとも言い換えられるけどな。

しかし人のこと言えない気がするが、こいつも変わり身早過ぎでしょ?やっぱ戸塚って天使だわ。何が言いたいかって、やっぱ戸塚って天使だわ。

 

戸塚ワールドに浸っていると、材木座がソファを立ちこそこそと近寄って来た。

そうして俺の傍まで来ると、声を潜めて話し出す。なんかこいつが近くに寄っただけ少し暑くなった気がする。嫌な体温上昇だな。一家に一台材木座があればとってもエコな気がします。

 

「ところで八幡よ。我、実はプレゼントを持参しているのだが、あとで渡してもらっていい?」

 

「お前が? 意外だな」

 

「ぬっふっふ見立てが甘い、甘すぎるぞ!我はこう見えて気遣いの達人だぞ。女子生徒とすれ違う時は率先して道を譲るし、用事があるという男子生徒の掃除を肩代わりすることなんて日常茶飯事だ!」

 

お前それ、女子が怖いだけじゃ……。あとその男子生徒はきっと用事なんてないんだろうな。ちょっとだけ同情しちゃう。

しかし、こいつがこういう風に気を回せるとは意外だった。これは少し評価を改めないといけないか。しかし渡してくれって。こういうのは自分で手渡しするもんじゃないのか?

 

「気持ちはありがたいけど、自分で渡さないの?」

 

「え、だ、だって……恥ずかしいし」

 

「お、おう」

 

セリフだけ見れば問題なし。

それを発する野太い声と、中年サラリーマンを思わせる容姿が絶望的なまでにマッチしていない。頬染めんな頬。お前がやっちゃダメなやつだそれは。

材木座は自分のバッグを引き寄せてごそごそやると、紙束を取り出し俺にすっと差し出してきた。

 

 「何これ?」

 

「我の新作。書き下ろし小説だ! 丁度良いタイミングで書き終えたからな」

 

ほーん。こいつも懲りないねぇ。あれだけ酷評されたら心折れるもんだけど、ちゃんと形にしてるだけ凄いと思う。

しかし今渡さなくても良くない?こんなところでこき下ろされたくないでしょ普通。ズタボロにされるの前提なのは内緒だ。

 

「で、なんでこのタイミングで渡してくんの? 部活の時にでも持って来いよ」

 

「え、これプレゼントなんだけど」

 

「は?」

 

「べ、別にお主へのプレゼントじゃないんだからな! 勘違いするなよ!」

 

いやそこに関しては勘違いなんかしてないから。

つーか、え?まさか、これを小町に読ませんの?いやいや御冗談がうまい。まったく冗談じゃなくマジだと思うけど。

こいつはあれか。衆目に自分の文を晒すのには抵抗あるけど、内輪にならOKなタイプだったか。

その内輪に遂に俺の妹が入れられてしまったと。うわー嫌な輪だなー。

まあしかしだ。一応こいつなりに考えてくれたわけだし。突っぱねるのもまた泣き出しちゃいそうだし。

 

「そうだな。ま、一応受け取っとくわ」

 

「あの、できればちゃんと読んでもらいたいなー?って思うんだけど」

 

「安心しろ。俺が校閲して赤ペン入れまくったやつならちゃんと渡しとくから」

 

「八幡? もうちょっとこう手心というかだな……」

 

「はいはい」

 

あーだこーだ言う声を突っぱねて、ようやく差し出された紙束を受け取った。

それなりの分厚さの紙束を、鞄にしまい込むために半分に折る。その時に片面空白の用紙が目に入った。

資源は大切にしないとな。将来比企谷家のメモ帳になってても恨むなよ材木座

 

×      ×      ×

 

ぴんぽーん、と来客を告げる軽やかな音が鳴った。

家主であるところの雪ノ下が席を立ち、確認に向かう。まだ誰か呼んでたのだろうか?それとも宅配か何かか。

 

「もしかして来たかな?」

 

「何が」

 

「ん?沙希」

 

SAKI?由比ヶ浜が発した言葉には聞き覚えがあるような無いような。あれ、どこで聞いたんだっけ?SAKI、SAKI。さきさき。サキサキ?

んー何だっけ?ここまで出て来てるんだけどなーと悩みまくっていると、来客をインターホン越しに確認した雪ノ下が、ゆるりと元の由比ヶ浜の隣の席へと戻る。

 

「川崎さんだったわ。もうすぐで来るはずよ」

 

「やっぱりそうだった?来れるか微妙って言ってたけど良かった~」

 

Kawasaki?あのバイクとか?川……崎……?川崎、沙希?

あぁ、川なんとかさんか。心の中で柏手を打つ。なるほどなるほど。超すっきりしまくりんぐだわ。ていうか今日誰が来るとか全然聞いてないな。

 

「川崎以外にも誰か呼んだのか?」

 

「いや、もうこれで全員だよ。他にも声は掛けたんだけどねー。優美子とか姫菜とか戸部っちとか……あと隼人くんとか。みんな用事あるんだって」

 

言って、不意に何かに気が付いてしまったのか小さく声を漏らすと、由比ヶ浜は困ったように笑った。そうして、まったく違う話を隣に座る雪ノ下と始める。

 

 

今名前が挙がった人間は一応小町と面識があり、かつ由比ヶ浜の属するグループの人間でもある。

元々今日の催し自体、由比ヶ浜は小町の合格祝いと3学期のお疲れ様会とも言っていた。だから、声を掛けること自体は間違いじゃないし、自然とも言える。

だけど少しだけ、居心地が悪くなってしまった。

由比ヶ浜にだって悪気はなかった。けど、今は雪ノ下の方を直視できない。

 

その微妙な空気を破るように再びチャイムが鳴らされた。

雪ノ下は来客を迎え入れるために再び静かに立ち上がると、玄関へ歩を進める。その長い黒髪が流れる後ろ姿を目で追っていると、由比ヶ浜と目が合った。

言葉こそ発さなかったが唇が僅かな変形で形作ったそれは、ごめんと、そう言っているようにも見えた。俺はと言えば、気にするな、とかぶりを振ることしか出来ない。そもそもだれも悪くはないのだから。

 

気にし過ぎているだけ。それでも、胸に残る違和感は拭えない。確かなしこりのようなものが未だにある。

結局のところ、部室での雪ノ下と一色の和解をもって、また元通りになったつもりになっていただけだったのかもしれない。

禁句を作って、言葉の接ぎ穂を探して。これで元通りとは、こんなものが正しいとは到底思えなかった。

 

でも、正しさって何だ。人それぞれ、皆が皆それを持っていて。俺の正しさは、きっと誰かの中では正しくないんだろう。正しさの主張はエゴの押し付けにしかならないものだ。

だからといって、口を噤んでしまうのは違う気がした。

言って、間違えて、やり直して。そんな正解、不正解のアンバランスさの上に、俺たちの関係は成り立っているんだと思う。だから……

 

そこまで考えたところで、最後の客人が到着した。青みがかった黒髪をいつものように束ねた川崎沙希が、雪ノ下に連れられてリビングに姿を現す。

黙って座っていた俺たちを見渡して、開口一番眉をひそめて言い放った。

 

「何この空気? あんま歓迎されてない感じ?」

 

「そ、そんなことないよ! 来てくれてありがとね!」

 

由比ヶ浜はがばっと勢いよく立ち上がると、いつも雪ノ下にやるように川崎の腕にじゃれつく。そういったスキンシップに慣れていないのか、川崎は若干頬を赤らめる。あーいいっすわー。女子同士が仲良くしているのは心が温まるね。

 

 

「……それならいいんだけど。コートくらい脱がせて」

 

「えへへ、ごめんね」

 

ぱっと川崎から離れると無邪気に笑う。それにふっと微笑みを返すと、川崎はしずしずと濃紺のピーコートを脱ぎ、ニット姿になった。下はスキニーで、すらっとした脚の長さと形の良さが一目でわかる。

なんていうか、女の子のニット姿って強調される部分があるよね?由比ヶ浜と並んでいると、こうグッと来るものがある。主に何がとは言わない。言ったら死ぬわ社会的に。肉体的にもどうなるかわからん。

 

「川崎さん、受け取るわ」

 

「あ、ありがと」

 

ハンガーを手に雪ノ下は川崎に声をかけ、コートを受け取ると丁寧にそれを掛ける。

来客者のコートでいっぱいいっぱいになりつつあった、部屋奥のシングルハンガーにそれを並べた。そしてその足で忙しなくキッチンに向かう。

恐らく、川崎用のカップとお茶菓子を取りに行ったのだろう。

あいつ働きものだなーと感心していると、右耳にふーっと生温かい息が掛けられて反射的に肩が跳ねた。そちらを見ればクスクスと口元に手を当てて、いつの間にやら移動してきていた一色が楽しげに座っている。

 

「もう、そのキョドり方はキモいですって」

 

「いやいや、普通誰だって驚くでしょ? 何の用だよ」

 

「んー、ちょっと待って下さいね」

 

もじもじと身を捩り、こちらに乗り出すように距離を詰めるとふわりと控えめではあるが香水の匂いが鼻孔に届けられた。耳打ちするように上げられた腕が肩に触れ、彼女の熱を感じてしまう。それに身を縮めていると、ぽそぽそと小さな声で一色は呟く。

 

「やっぱり、まだぎこちない感じですね。わたしが言えたことじゃないんですけど」

 

「……お前もわかるか?」

 

「わかりますよー。女の子はその辺の空気に敏感なんですから」

 

 

あれからまだ幾ばくも経っていないのだから、仕方ない一面もある。

今の状態は、傷口にかさぶたが張っているのに少し似ているのかもしれない。

治ったと油断していても、その実内部はそうでもない。未だ赤々とした血が止まらずに流れていて、ただ一時的に蓋をしただけの状態だ。

 

「時間が経てば解消されるだろ。お前は気にすんな」

 

本当に時間が解決してくれるのか?言った瞬間にそんな疑問が鎌首をもたげる。

一色を納得させるための安易な言葉だが、この問題はそういった類のものではない気がする。無理にでも飲み下したくても、それは中々出来そうになかった。

一色もそれは同様のようで、いまいち納得がいっていない、不承不承といった感じに頷く。

 

「それならいいんですけど。やっぱりもやもやしますねー」

 

「まぁ……今考えても何も出来ないしな。それはそうと、あれだ。お前の依頼もまだ一応あるし」

 

「わたしのですか? もう取り下げたはずですけど」

 

話を変えたくて、という思いからの強引な方向転換だった。これも懸念していたことではあるから機会的には丁度良い。

 

「葉山の好きな人ってのは取り下げられたし、個人的に調べるのも、まぁ多分無理だと思う」

 

「はぁ難しいとは思いますが……。それでどうするんですか?」

 

「それは確かに難しいが、ほら言ってただろ?“傷心中のわたしを慰めて欲しい”って」

 

「へっ?」

 

「もし、なんだ、何か俺に出来るなら、そっちは手伝ってやらんこともない」

 

一色の依頼はふたつあったはずだ。それらは結局両方ともお流れになってしまったけれども。

だけど、もし。俺に何か出来るのであれば、ひとつくらいは叶えてあげたいと思った。

 

何も言わない一色をちらと見やると上目遣いの彼女と目が合った。ふいっと目を逸らすと、遅れたように紅が差す。

えー何その反応?八幡超困る。かわいいって思っちゃってマジで超困る。顎を引き、唇を浅く噛む様にして何かを堪えているようにも見えた。

 

 

「先輩って……わたしにあざといあざといって言う割にほんっとあざといですよね。口説いてるんですか?」

 

「ちげーし。別にそんなつもりはなかったんだけど」

 

「はぁ天然ですか。それはそれで恐ろしいですけどー」

 

そう言い残してぷいっと顔を逸らし、薄暗くなってきた窓の外の冬景色を見つめる。俺もつられてそちらを見た。

うーん女の子の扱いってこういう時どうしたらいいの?頭ぽんぽん?それはイケメンにしか許されていない絶技だ。しかも、イケメン相手でも嫌だと思う女性がいるってテレビで言ってた。つまり何も出来ない。また肝心な時に……俺は無力だ……!!

 

そのまま少しだけ視線をずらして、一色の横顔を見つめると、瞬間ぎょっとさせられる。

 

「一色、お前、それ……」

 

「えっ?」

 

そんな途切れ途切れな言葉しか出てこない。最近になってもはや見慣れてしまった、一色の涙がつつと頬を一筋伝う。俺に言われてやっと気が付いたのか、一色はそれ以上溢れないようあわてて袖を使って抑えた。

 

「やだ、なんでだろ、おかしいよこんなの」

 

コントロール出来ずに零れ落ちそうになる涙に困惑の色を隠せないようで、ぐしぐしと瞳を抑えて俯く。

息をひとつ吐いて、上着のポケットをごそごそやる。中から四角く折りたたまれたハンカチを取り出して、それを一色に差し出した。

 

 

「……これ使うか? 綺麗だから安心しろ。母ちゃんの洗い立てだ」

 

「……別に気にしませんってそんなこと。でも、ありがとうございます」

 

そうして一色にハンカチを手渡すと、彼女はそれを目元にぽんぽんと軽く当てる。

呼吸を整えるようにすーはーと何回も息を吸ったり吐いたりを繰り返すと、それに合わせて浅く胸が上下するのが見えてしまい、ついっと目を逸らした。

 

「お前さ、最近泣き過ぎじゃない? 涙腺緩々過ぎでしょ」

 

気恥かしさから思わず憎まれ口を叩いてしまった俺を、むっと不貞腐れたように一色は睨み据える。

 

「先輩が、先輩が悪いんじゃないですか。わたしをいじめるから」

 

「失敬な。俺は別にいじめっ子じゃないぞ?」

 

むしろ俺は生粋のいじめられっ子だ。いじめというか虐げられているまである。主に社会から。そんな思考を他所に、一色はふるふると首を横に振る。

 

「いじめっ子ですよ。だって、わたしの弱いところばっかり突いてくるじゃないですか?女の子を泣かせた罪は重いんですよ?」

 

「……そうなのか?」

 

「もちろんです。だから――」

 

ずいっと急に顔を覗きこまれると反応に困った。そのまま俺にだけ聞こえるような声量でぽそっと呟く。

 

「責任、いつかとってくださいね」

 

微笑みと同時に目が細められ、そこからまた一筋、綺麗な涙が零れた。

 

告白したことに後悔はない。もう気にしてない。そんな強がりをきっと誰もが言う。

それは目の前の後輩も一緒だった。

強がって、意地っ張りで、気にしてないと言い放つ。それは誰しもの為の優しさか。

繕うような優しい嘘に、今までまんまと騙されていた。

 

何だよ。全然吹っ切れてなんてなかったじゃねーか。

 

くしゃっとした笑顔で涙を流す一色に、そんな感想を覚えた。

 

×      ×      ×

 

「はい、じゃあこれ。あたしからの合格祝いね。おめでとう小町ちゃん!」

 

宴もたけなわ、といった頃合いになって小町と話し込んでいた由比ヶ浜がそう切り出した。

この辺の気遣いがしっかり出来るあたりが流石の由比ヶ浜である。

これが本物の気遣いの達人だぞ材木座。お前のとは決定的に何かが違うからな。

 

「きゃーありがとうございます結衣さん! 開けてみても?」

 

「うんうん。もちろんいいよ」

 

「では失礼して」

 

プレゼント用に綺麗に包装された袋を丁寧に開けていくと、中から小さめの、アルファベットが側面に刻まれた箱が姿を現した。俺はそれだけでは何か分からなかったが、小町はというと、おぉーと感心している様子でそれを眺めている。

 

「クロエね。香水かしら?」

 

さらっと雪ノ下が言った言葉に、由比ヶ浜が喜色を浮かべて頷き返す。一色もへぇーと感嘆の声を漏らした。

 

「それ結構いいお値段のやつですよね?結衣先輩太っ腹~」

 

ひゅーひゅーと口笛を吹いて、ないな。口で言ってるだけだわ。

由比ヶ浜はえへんと自慢げにその立派な胸を張る。ええ、目のやり場に困るので至急止めて下さい。

しかしこいつヨイショするの上手いな……。どんな場所でも生きていけそう。その能力は生きていくためにはとっても大事だからな。

あれの値段はわからんが、それなりに高価なものらしい。あんな小箱がねぇ。何に価値を見出すかは人それぞれということだ。

でもサイズが小さいから安いってわけでもないし、大きいから高いってわけでもないか。ロシアパンがいい例だ。あれ大してうまくないけど、腹が膨れればいいんだよ。

 

「そんなお高いものなんですか? へー、これが……」

 

小町は片手で持った小さな箱をしげしげと見て眉根を寄せる。その顔だけで何を考えているかなんとなくわかってしまうのは、血の繋がった家族だからだろうか。

 

 

「おい小町。帰って商品名で検索して値段とか調べるなよ?」

 

「そ、そそそそんな事しないし! バカ!」

 

おうふバカ呼ばわりされてしまったが我々の業界では何とやら。

別に妹に罵倒されてもなんも嬉しくないのが本音である。妹じゃなくても罵倒されて喜ぶ人はきっとちょっとあれな人なんだろう。

 

「ちょっとヒッキー! 小町ちゃんがそんなことするわけないじゃん。ねっ?」

 

「もちろんですよ結衣さん! まったくホント困っちゃいますよ!」

 

お、女を殴りたいと本気で思ったのは生まれて初めてだ。いやいや、ウソウソウソだって。小町を殴るわけないじゃん?YESシスターNOタッチ!

しかし由比ヶ浜の陰で「計画通り!」と、にやりと笑ったその顔を俺は忘れないからな小町よ。

 

「あなた、普段からそんなことしているの? 呆れてものも言えないわね」

 

「うわーそれは引きますよ先輩。マナー違反ですよー」

 

「バカじゃないの?」

 

何なの?この一方的に俺が悪い的な流れ、ウェイウェイウェイ!いかんいかん戸部になるところだった。

てか俺がそういうことやってるなんて一言も言ってないのにこの仕打ちはどうなのよ?

いやちょっと、ダイレクトアタックが多すぎてライフポイントがすごい勢いで減少しまくっててヤバい。このままではマズイ。

救いが、救いが欲しい。そう思ってメシアへ顔を向けた。

俺のメシアの顔は、軽く引き攣っていた。

 

「八幡? 人から貰ったものにそういうことしちゃ駄目だよ?」

 

「ぐはあ!」

 

ギガブレイクをくらって全身から血が噴き出すビジュアルがよぎった。違う、違うんだよ戸塚。そんなことしたくても出来ないんだよ。だって、そういうプレゼントとか貰う機会なんてそもそもないんだもん……。

項垂れる俺の肩にぽんと手が掛けられた。顔をゆっくりと上げると、そこには暑苦しく片目をつぶって微笑み、親指を立てる材木座がいた。

 

「八幡よ。生きていればこういう日もある。男は無理解に晒されて、理不尽に叩きのめされて、そして大きな人になっていくものよ」

 

材木座……それはなんの作品のパクリなんだ?」

 

「聞いて驚き慄け! これは我のオリジナルだっ!!」

 

「ざ、材木座!」

 

がしっと握手を交わす。交わしてすぐそれを後悔した。うわこいつ手汗すげぇ。ちょうぬるぬるするんだけど。

そんな男臭いノリの俺たちはもうほっとかれているようで、プレゼントタイムはとっとこハム太郎。間違えた。とっとと先に進められていた。

 

 

「じゃあ私からはこれを」

 

「ありがとうございます~雪乃さん」

 

ほくほく顔で今度は雪ノ下からプレゼントを受け取る。ひとつはセロハンの袋に包まれたお手製の焼き菓子であることはわかるが、もうひとつは本?だろうか。

 

「この本は……英語?」

 

「ええ、ランド・マッキントッシュ著。パンダのパンさんの原書ね。小町さんがパンさん好きって聞いたものだから」

 

「へっ?ええまあ嫌いではないですが。んー?」

 

アカン。この話はアカンで。

思わず似非関西弁になっちゃうくらいアカン。じっとりと嫌な汗が出て、背中にシャツが張り付いているのを感じる。クリスマスの時に職員室で小町がパンさん好きってのをでっち上げて、そのまんま放置していたことを今更思い出した。

このままじゃウソがばれる→死亡。

死亡ルートしかないじゃねーか!ルート分岐用意しとけよ!

とにかく強引にでも間に入って話をぶった切るしかない。未来は自分で切り開くしかないのだ。

 

「あー、それ貰っていいものなのか?大事なものなんだろ?」

 

雪ノ下は急に話に割って入った俺に、やや訝しむような目線を向ける。それとなく話題に入ってからの、徐々にフェードアウトさせる作戦でいこう。

やべぇ怖い。ばれちゃった時の反応がホント怖い。雪ノ下は射るような視線を一旦収めると、小町に向き直り柔和な笑みを浮かべた。

 

「大事なものには違いないけれど、小町さんが喜ぶならと思って。それに……」

 

「それに?」

 

「さ、3冊持ってるから」

 

ごにょごにょと呟くとそれきり恥ずかしそうに俯いてしまった。

あぁ、あれか。俗に言う観賞用、保存用、布教用ってやつか。雪ノ下がその概念を知ってか知らずか、今回布教用にプレゼントしたということか。

ふむふむなるほど。

ぽんぽんと小町の肩を叩くともったいぶって言った。

 

「まあそういうことだからな小町。大事にしろよ?」

 

「わかってるけど、何でお兄ちゃんが偉そうに言うの?」

 

「日本は基本的に年功序列社会だからな。つまりは早く生まれたやつの方が基本的に偉いんだよ。そういう社会構造なの」

 

「なんか納得いかないなぁ……」

 

 

よし、これで大分誤魔化せたか?我ながら完璧な方向転換だ。

しかしぶつぶつ文句を垂れる小町の他に、静かな闘志を燃やしているやつがすぐ近くにいた。うわ、めんどくせぇ。

 

「その理論でいくと、私はあなたより格下になるのだけれど。納得いかないわ」

 

ええ納得いかないでしょうね。曲がったことが嫌いで負けることはもっと嫌いな雪ノ下さん?はっと何かに気が付いたように、横にいた由比ヶ浜がしゅばっと手を上げた。

 

「はーいはーい! あたしの方がヒッキーより早生まれだよ!」

 

「あー、うん。そうだな」

 

「扱い雑すぎない!?」

 

まあ、うん、いいんじゃない?(適当)

誤魔化すためだけに始めた話だし、特に強い思い入れがあるわけでもなし。そもそも同学年なんだから、細かい事は気にするなと言ってやりたい。

唸る由比ヶ浜をしっしっと追いやると、プンスカ怒りながら手近にいた川崎のニットの肘部分をみょーんと伸ばし始めた。

肘をくいくい引く度に、だぼついたように変形を繰り返す。そんなに引っ張ったら服が伸びちゃうだろうが。

我関せずといった具合に欠伸を噛み殺していた川崎も、それには溜息をついてやや辟易とした表情を浮かべた。

 

「ねぇねぇ沙希はいつ生まれ?」

 

「あたし?10月、だけど」

 

「そうなんだ? じゃあ今度はお祝いしなきゃだね!」

 

肘を弄ばれながら顔を覗き込むように聞かれると、恥ずかしげに顔を逸らす。

川崎といい雪ノ下といいボディタッチに慣れてないやつを、対人間用攻城兵器・由比ヶ浜はあっさり陥落させまくる。俺がそんなことをされた日には無血開城まであり得るけどな!ハナから勝負にならんということだよ。それくらい世のモテナイ系男子は遠慮のないスキンシップに弱い。

 

 

「そりゃありがたいんだけどさ。その頃は受験勉強で忙しいと思うけど、あんた大丈夫なの?」

 

「だ、大丈夫だよ多分、ゆきのんもいるし。……大丈夫だよね?」

 

「私に聞かれても困るわ」

 

心配そうな顔で雪ノ下に振るが、困ったように笑うだけだった。

この先のことなんてわからないが、実際のところ他人の受験事情に首を突っ込む余裕なんてないんだろう。それは雪ノ下だって同じだ。

今ですらもうセンター試験からは1年を切って、進学を検討している人間は勉強に打ち込み始める時期なのだ。

 

きっとこの先、色々なものを失くす。

 

余計なことを考える時間も、こうして集まれる機会も、他人を慮る余裕も。

 

3年になれば正にそうで、周りの色に染まり受験のことしか考えられなくなっていくのだろう。

だから、今は猶予を与えられているとも感じる。

2年から3年に進級するまでの残り僅かな期間。

モラトリアムとも言える怠惰な時間を、もっと大切に考えなくてはいけないのかもしれない。

個々人が色々と考えることがあったのだろう。受験勉強というキーワードが出てから、僅かな時間ではあるが場を支配したのは沈黙だった。

 

 

「なんか、あたしのせいでごめん」

 

「別にお前のせいでもない。受験するなら誰もが考えないといけないわけだし」

 

川崎はこの空気を作り出してしまったことに対して謝辞を述べる。気にする事はない。だって逃げられないことだから。

 

いつかは立ち向かわないといけないことだから。

 

誰もが頭の片隅には持っていて、それが急に揺り起されたせいで反応できないだけだ。

それに、ここで茶化すやつが出ない以上、それだけ皆真剣に考えているってことなんだろう。そんな俺たちの様子を眺めているだけだった一色が、ぽけーっと感想を漏らした。

 

「はぁー皆さん大変なんですねー」

 

「一色。他人事みたいに言ってるけどお前も再来年受験だからな」

 

「わかってますけどー。うーむ」

 

本当に大丈夫かこの子は?

でもまあしかし、この中でお気楽に構えていられるのはもしかして一人だけなのかもしれない。そう思って、その一人を見やる。

 

「うーんうーん……。受験が終わったばかりなのにまた受験。このループから開放されたいよー」

 

全然お気楽そうじゃなかった。

ふっ小町よ。大学受験が終われば受験と名の付くものは、この先ほぼ出てこない。

しかし今度は就職活動が待ち構えているし、社会に出れば社内での出世競争という名の蹴落とし合い、取引先とのコンペ、プレゼン大会。

言いだせば競争というものはキリがない。ソースは社内の愚痴をこぼすマイダディ。ずっと誰かと比べられる続けるんだろうな。いかん想像したら胃がキリキリしてきた。

 

俺?俺は唯一無二の存在になるから。ナンバーワンよりオンリーワン!あなただけの専業主夫に俺はなります。だから、その為にもいい大学に行って、将来稼ぎの良い女性を見つける!

受験が終わったばかりなのに、俺たちの受験話に当てられて悩み始めてしまった小町を見て、川崎はあわあわと落ち着きがなくなっていく。

 

「ご、ごめんね?ほんとに」

 

「さ、沙希さんは気にしないでいいですよー。小町が勝手に悩んでるだけですから」

 

「あーもう! この話は終わり! さあさあプレゼントタイムの続き続き!」

 

 

見かねた由比ヶ浜が、この話は止めよう。はい!! やめやめ、とばかりに話を打ち切った。

辛気臭い話は確かにこの場には似合わないから、由比ヶ浜の判断は多分正しい。

 

両の手の平を打った乾いた音を合図に、再び室内に和気藹々とした空気が戻って来る。

そうしてプレゼントタイムが再開された。

昨日のうちに渡してしまった俺としては手持無沙汰なので、戸塚や川崎が小町へプレゼントを渡していく様子をただボーっと見つめている。

話に加わらずに黙っていると、真っ先に浮かぶのは先ほどの受験話。加えて、それとはまた違う自分自身のこと。

 

いつかは立ち向かわないといけない。その覚悟を持っているか?

 

いつか。

 

その言葉の響きは遠く離れた将来を思わせる。

不確定な未来の、ある一点を指し示す空漠たるものだ。

 

だから、ずっと先かもしれないし、もうそこに迫っているのかもわからない。

いつかっていつだ?という問いには、はっきりとした答えなんてない。

 

それは心の持ち様でしかないのだから。

 

×      ×      ×

 

各人思い思いに過ごし、笑い、お茶を嗜み、そしてまた笑う。やがて高層マンションの窓の外に映る空は、薄暗色から漆黒に変わりつつあった。

 

夜が近づいて来る。この催しも、もう終わりが近い。そんなことを考えていると、ふと寂寥感が湧いた。

終わらないもの、変わらないものなんてない。だから今を大切にする。どこかで聞いたような使い古された言葉だ。

知らなければ良かったと思っても、知ってしまったのなら仕方ない。今更投げ捨てることなんて出来ない。それに、知ってしまったから得られたものもあった。

 

寂しさ、今を惜しむ気持ち。これは裏返せば、失いたくないと考えている証拠に他ならない。

失いたくないと、そう考えているのに。芽生えた感情はそれらを無に帰す可能性をも孕んでいて。

だからそこで足踏みして、思考は止まってしまった。

今は考えても仕方がない。けれど、結局それも踏み出せない自分を許すための言い訳でしかない。これがどうあがいても絶望ってやつか。本当に救いがない。

うんと伸びをひとつして、脚をベランダの方へ向けた。

 

「ヒッキーもトランプしない?」

 

「パスで。ちょっと暑いから頭冷やしてくるわ」

 

えー、という声が背中に届けられる。今はなんとなく、そんな気分になれなかった。すまんな由比ヶ浜

 

広いベランダと室内を隔てる大きな窓枠の前に立ち、鍵を解除してぐっと力を込めた。

大きな窓ガラスは重く、開けるのに力を要する。何とか片手でひとり分のスペースを確保すると体を滑り込ませ、再び窓を閉めた。

ひやりとした冷気が体を包むのをお構いなしに、独り暗がりに包まれたベランダに躍り出る。

 

 

もう3月が目前というのに、夜の冷え込みは変わらない。ただ、暖房で火照った体にはこの冷気が心地良かった。

一歩、二歩、三歩。踏み締める様に進んで、幕張の夜景を望む。何の気無しに、手すりに手を掛けた。

 

「冷たっ」

 

反射的に声が出た。触れたそれは、火傷しそうな程に冷え切っていてすぐに手を離してしまった。

こうなると、どことなく極まりが悪い。手持無沙汰にぶら下げることになってしまった手をポケットに突っ込み、大きく息を吐いた。上手くいかない時はとことん上手くいかないものだ。ただ、それをどう受け止めるか。それ次第でしかない。

 

ゆらゆらとした白い息は暗い夜空を立ち上り、やがて霧散していく。その消え行く先をただ目で追い続ける。そこに、意味なんて無かった。

ただ、繰り返してもまったく同じように白く濁る息を見ていると、何故だかひどく安心感を覚える。

そんな無意味な事を繰り返していると、高層マンションから見える吸いこまれそうな夜空をただ見上げているだけになった。

 

どれくらい経っただろうか。不意にがらりと、背後から窓が開けられる音が聞こえたので、首だけ巡らせて来訪者を確認した。

 

「そんなところにいて、寒くないの?」

 

「今は丁度良いから問題ない。そのうち戻る」

 

「そう。何か飲む?」

 

「貰えると助かる」

 

こくりと頷いて、雪ノ下は一旦室内へ戻る。程無くしてマグカップを両手にこちらに歩を進める姿が見えたので、窓を外から開けて彼女を導いた。

 

「あなたにしては気が利くじゃない?」

 

「ほっとけよ」

 

雪ノ下も寒空のベランダへカップを両手に繰り出してきた。飲み物だけ渡して室内に戻るという気配も感じない。もうもうと立ち上る湯気が、その手に持つ飲み物の温かさを視覚的に伝えてくれる。

 

「お前も外にいんの? トランプ、やらなくていいのか?」

 

「ええ。少し疲れたし、それに暑かったから。少しだけここにいるわ」

 

「そっか」

 

そう短く応答して、礼を述べつつ雪ノ下から湯気の立ち上るマグカップを受け取った。

冬空の下で、肩を並べて彼女の淹れた紅茶を啜る。こんな日が来るなんて、まったく想像が出来なかったのに、現実として雪ノ下は今俺の隣にいる。

 

「さっきは何を見ていたの?」

 

「んー、日本の行く末?」

 

「そういうのはいいから真面目に答えなさい」

 

ひでぇ……。俺が日本のことを憂いちゃいけないんですかね?

まあ実際のところそんなものを見ていたわけでもないし、行為自体に特に意味もなかった。だから正直に答える。

 

「別になんでもねーよ。ただ空を見てただけだ」

 

「感傷にでも浸っていたの? それに、あなたは地面しか見つめないと思っていたけれど」

 

「俺にだって見上げる時くらいある。それこそ、涙が零れないようにする時とかな」

 

「ふふっ、何それ……」

 

 

雪ノ下はくすと楽しそうに笑い、数歩進んでベランダの手すりに手を掛けた。

瞬間、びっくりしたように目を見開くと、ぱっとすぐ手を離してしまう。それが先ほどの自分の行動と重なり、思わず苦笑が漏れた。

俺の笑い声が癪に障ったのか、雪ノ下はむっと眉尻を下げた不機嫌な表情でこちらに向き直る。

 

「何か?」

 

「いんや何でも。それ冷たいよな。俺もそうなったからさ」

 

「あなたも?……そう」

 

小さく呟いた声は、反響物のない屋外ではすぐに響きを失う。そして俯いて、紅茶を両手で包む様に持つと、ゆっくり一口啜った。

俺も数歩進んで、再び彼女と並び立つ。そうして意味もなく、また夜空を見上げた。

雪ノ下もそれにつられてか、俯いていた顔を起こして空を見る。

 

千葉ではあまり星が見えない。場所によるのかもしれないが、少なくとも浦安、市川あたりから千葉駅まで長く長く伸びる東京湾に面する湾岸エリアは人口も多く、交通量も多い。

故に空を見ていても煌々と光る星空、とは中々いかないのだが、それでも冬ならではの星座が夜空にはっきりと浮かべられていた。

 

「……オリオン座ね」

 

「横は冬の大三角形ってやつだな」

 

「どうでもいいけれど、あなたって子供の時に、『将来天文学者になるんだ!!』とか両親に言ってそうよね」

 

「何その勝手すぎる純真な子ども時代のイメージ? 俺ってそんな風に見えてるの?」

 

「何となくそう思っただけだから、あまり気にしないで」

 

こいつってこんなこと言うイメージないんだけどな。冗談自体あまり言わないか。そこに意味を見出すのは無粋だ。俺が空を見上げるのと同様、ただ何となく。

頭に浮かんだ考えを、マグカップに口を付けて暖かい紅茶と共に飲み下す。先ほどまでは熱々で飲めなかった紅茶も少し冷めて、ようやく丁度良い温度になってきた。

 

「オリオンってさ、『俺に倒せないやつはいない!』って豪語してたらしいぞ」

 

「あら、急にどうしたの比企谷博士?」

 

「その話まだ引っ張るのかよ……」

 

星が嫌いなわけじゃないし、雑学も知っている。でも、それだけで博士号まで取るやつなんていないでしょ?いないよね?

 

「軽い冗談よ。そうして慢心していたオリオンは、サソリの毒に倒れた。空にサソリとともに上げられて星座になって今に至ると。そういうわけね?」

 

「お前も知ってるじゃねーか。ユキぺディアさん?」

 

「それは止めなさいと言っているでしょ? 通報するわよ」

 

「はいすみませんでした」

 

じとっとした眼光から逃れるように、顔を背ける。

これは意味を持たない会話だ。頭に浮かぶ事を、ただ口に出す作業でしかない。

以前はそれを不要なものだと考えていたし、面倒臭さすら感じていた。会話は目的があるからするもので、意味も無くするものではない。

だが今は、口が軽い。俺にしては饒舌だとも言える。このやり取りが、疲れた脳には一種の清涼剤の様に機能するようだった。

ああ、そういえば、とひとつ思い出す。

一番大事な事を、彼女に伝え忘れていた。

 

 

「雪ノ下」

 

「何かしら?急に改まって」

 

名前を呼び、彼女と向き直る。礼を言う時は、相手の顔を見ながらがマナーだと思う。だから最低限のマナーを尽くそう。

冷たい空気を肺に取り入れてから、口を開く。

 

「今日は、色々と助かった。場所の提供もそうだし、お前の気遣いも、あと小町へのプレゼントも。感謝してる」

 

俺の模糊とした言葉を受けると、長いまつ毛がほんの僅かに持ち上げられた。もじと身を捩り視線を彷徨わせると、ふるふると首を振った。

 

「いいの。小町さんが受かったって電話貰った時は本当に嬉しくて、何かしてあげたいって思っていたから。だから、由比ヶ浜さんからの打診も良い機会を貰ったって、そう思ったわ」

 

「……そう言って貰えると、小町も喜ぶ。それと、菓子の代金とか材料費とか請求してくれれば俺が纏めて払うから言ってくれ」

 

場所も提供してもらっているし、お茶菓子だって買ってくるにしろ作るにしろコストは掛かる。客人をもてなす気遣いだって随所に感じた。

それくらい負担しないと本当におんぶに抱っこ状態で、それは雪ノ下に申し訳ない気がした。

 

「心配しないで。余っていた材料がほとんどで、あまり食材は買い足してないの。費用的な面で気にする事はないわ」

 

あれが余っていた材料で作ったものか?俄かには信じられなかったが、雪ノ下の料理の腕なら可能かもしれない。そう思わせるくらいには、彼女の事を知っている。

 

「費用的にはそうかもしれないけど、手間賃とかなぁ」

 

「お祝いなのだから少しくらい目を瞑りなさい。それに、見返りは充分貰ったわ」

 

「何を」

 

聞くと、雪ノ下は一瞬ちらりと中の様子を見やる。暖かい室内では、賑々しく身を寄せ合い、トランプに興じている姿が見て取れた。笑い、時たま眉根を寄せては、また手を叩いて笑う。何をしているのかは詳しくは分からない。けれども、その光景は外から見ていて、ただただ微笑ましい。

あれは、純粋に今を楽しんでいる姿だ。窓ガラス一枚挟んでもそう目に映った。

 

「見返りは、これで充分」

 

「……そうか」

 

雪ノ下は優しく、優しく微笑んだ。まるで愛おしいものを見るように。

人こそ人の鏡、という言葉がある。

だから、そんな笑みを浮かべるのを目の当たりにすると、思わず頬が緩む。そして、笑みが零れた。

 

 

「それに、比企谷くんのそんな顔も見ることが出来たし」

 

「え?」

 

反射的にぱっと口を押さえて隠す。それを見た雪ノ下は苦笑するようにふっと息を漏らした。俺の目をじっと見据え、先ほどと同じように優しい微笑みを浮かべる。

 

「あなたも、そういう風に笑えるのね」

 

「……どういう風だよ。わかんねーっての」

 

不意打ちは卑怯だ。誰に言うでもなく、心の中で独りごちた。

そっぽを向き、紅茶を一口。顔に立ち上る湯気が当たり、ほんのり熱を帯びたように感じる。そうやって熱くなった顔を悟られないように誤魔化した。

 

「ねぇ、比企谷くん」

 

「……なんだ」

 

今話し掛けられると困ってしまう。顔の熱は冬空の下であっても中々引いてくれない。視線を暗闇の中に浮かび上がるネオンに固定したまま、言葉だけ何とか返した。

 

「さっき、一色さんとあなたが隣り合って座ってた時があったと思うのだけれど」

 

「……あったが。それがどうした?」

 

「……泣いていたでしょう?」

 

「まあ、普通ばれるよな」

 

目に付きにくい位置に座っていたにせよ、遮蔽物もなく周囲に人がいたあの状況であれば目撃者がいない方がおかしい。

一色の涙の理由。それは聞いたわけでもないし、一色自身もよくわかっていない様子だった。

 

 

「彼女は、まだ葉山くんを?」

 

「さあな。でも思うところはあるんじゃねーの?」

 

「やはり……そう、でしょうね」

 

雪ノ下の顔は張り詰めている。また何かを抱え込んでしまっているような、憂いを帯びた表情を浮かべていた。

一色の涙。あれは未だに、何かしら思うところがあるからこその涙だと類推される。

何もなしに人間涙は流れるように出来てはいない。物事には理由が必ず存在する。

その理由がはっきりしないから、何かしらとしか言い表すことは出来ないのだが。

ただ、きっかけは俺の言葉だ。それは雪ノ下が気にする事ではない。

 

「お前のせいじゃないぞ。今回泣いたのは」

 

「今回はそうかもしれない。でも、泣かせてしまった遠因は私にあるわ。ただ、それ以上に、すごいと思ったの」

 

「すごい?」

 

何が?と首を傾げる。普段の言動から理詰めの彼女にしては、えらく漠然としている。その意を問うために顔を向けた。

寒風が吹きすさび、まるで映画のワンシーンのように、長い黒々とした彼女の髪をなぶる。

広がった髪を抑えるように手櫛で整えると、すっと髪を耳に掛ける。その手は空中をたゆたうように彷徨ったのち、だらりと力無く落とされた。

 

「私にはわからなかったから。涙を流すほど誰かを想う気持ちが、私にはわからない」

 

「……そういうことか」

 

 

誰かを好きになるということ。それ自体はきっと普遍的で、ありふれていて、多くの人が通る道なのかもしれない。事実、俺だって通った。

それは間違っていたけれど、結果だけ見れば通った道だ。

一色いろはは、その先にさらに進む。そして想った。涙を流すほどに、強く強く想った。

そこまで莫大な感情を抱えることが、涙が零れ落ちるほど人を想うことが、雪ノ下はわからないという。

 

「あなたは、そこまで人を想ったことがある?」

 

一瞬、呼吸を忘れた。雪ノ下の問い掛け。これは、何気無い問いなんだろう。会話から派生した疑問。それをただ口にしただけなのに、意図など無いはずなのに。

まるで俺を試すかのようなその言葉は、ずしりと臓腑に響く。

 

「俺は、多分無い」

 

「あら。絶対、とは言い切らないのね?」

 

「それはそれで失礼じゃない?」

 

俺が感情無いみたいな口ぶりは止めて下さる?俺の言葉を受けると、雪ノ下は楽しげに笑った。その笑顔を見ていると、何だかどうでもよくなって来てしまうのが不思議だ。

ひとしきり笑って満足したようで、再び眼前に広がる新都心の夜景を見つめる。

俺も彼女に倣い、時たま点けたり消えたりを繰り返す生活の灯をただ眺め続けた。

 

「聞いてもいい?」

 

「ん? どうした」

 

首だけ右に巡らして、前を見つめたままの雪ノ下を見やる。もじと身を捩って、寒さから身を守るように片手で肩を抱くと口を開いた。

 

「多分無いということは、その、憎からず思っている人はいる、ということ?」

 

ごにょごにょと呟かれる言葉はいまいち的を射ない。

一瞬意味がわからなかったが、冷静に言葉の意味を反芻すると何の事はない。

これは先ほどの話の続きで、そして同時に申し訳なく思う。

その質問には、うまく答えられそうにない。

 

 

「……わからん」

 

「はっきりしない答えね。イエスかノーの二択でしかないのに」

 

「すまん。今は、うまく答えられそうにない」

 

「……そう」

 

雪ノ下は俯く。垂れた髪で表情は伺えない。だけど、きっと良い顔はしていない。

気が付けば彼女から見えない方の掌を、痛いほどに握り込んでいた。

 

わからない。知らない。答えられない。こんな子供の言い訳のような言葉しか出てこない。それがもどかしくて、気持ちが悪くて、もう吐き出したいのにそれも出来ない。

もう本当は、答えが出ている問題だ。何度も、何度も問い直した。再三問い直したところで、空欄には決まっていつも同じ答えが書き込まれる。

だからもう、答えは出ているはずなのだ。

問いかけをした。答えは出した。だが次は?一体それをどうすればいい?

 

吐き出して、ぶちまけて、それで終わればどんなに楽か。

しかし、自己満足で終わらせるわけにもいかなかった。

言いたい事を好き放題に全て言えて、それでも壊れない。この世界はそんな単純には出来ていない。俺の生きる世界、という切り取られた一部分であってもそのルールは変わらず適用される。

自分とは向き合った。向き合ったつもりかもしれないが、それでも答えはもう持っている。

だから今度は、目の前の彼女と向き合わなければ。俺なりの誠意を見せなければ。

そんな使命感にも似た感情を、俯く彼女を見て、静かに抱いていた。

 

「今は、うまく答えられないけどな」

 

「……え?」

 

面を上げたばかりの、その瞳を見つめる。そこにあるのは、戸惑いの色。

俺の言葉が、その戸惑いを消せることを切に願う。

 

 

「いつか話す。その時まで、待ってて貰えるか?」

 

これだって、結局は問題の先延ばしだ。成長していないと取られても仕方ない。

それでも、これが最大限の歩み寄りのつもり。俺なりの誠意を言葉にしたもの。

雪ノ下は瞬きひとつしない。じっと、ただ見つめ合う時間が過ぎていく。そうして間もなく、どちらともなくふいっと目を逸らし合った。

 

「比企谷くん」

 

「……おお」

 

雪ノ下はこちらを見ない。首を僅かにもたげて暗い夜空を見つめる。

室内から漏れる明かりしかない薄暗いベランダでも、雪ノ下の顔がほんのりと紅いのがわかった。自分だって、人のことを言えないんだけど。

 

「私は、待っているから。ずっと」

 

「……すまない」

 

「謝らないで。お互い様、そうでしょう?」

 

言って、首を横に振って苦笑する。そこには自らを嘲るような意図が多分に含まれている気がした。

勇気が足りない。今の俺たちを括る共通項はきっとこれだ。

向き合う勇気。現状を変える勇気。そして、真実を告げる勇気。

そのどれもが万遍なく足りていない。だから、お互い様か。そこで少し気に掛かったことがある。

勇気がないとは、言い換えれば臆病だということ。

だとすれば、雪ノ下は何を恐れているのか?話さない理由らしい理由を聞いていなかった。

 

「俺からも聞いていいか?」

 

「何かしら?」

 

「お前は、何で昔の事を話さないんだ?」

 

「……言ったでしょう? 思い出すのも嫌なの」

 

昔の事。より正確に言えば、葉山絡みの昔の事。俺の知らない、知りたいと欲した、幼い日々の出来事。雪ノ下も俺の意を汲み取ったのか、それがわかったようだった。

思い出は人それぞれだ。輝かしい記憶を持つ人もいれば、背を背けたくなる苦い経験を持つ人間だっている。俺と雪ノ下は、きっと後者に振り分けられるはずだ。

 

似ているようで、やっぱり似ていない。

 

かつてそう下した俺たちの関係性の評価を改めるとすれば、少し似ているところもある、そういう言葉になるのだろう。

少しでも似ているからこそ、聞かれたくない気持ちがわかる。だが。

 

 

「それは理由じゃなくて感想だろ。何でそう思うんだ?」

 

それだけでは本質的な理由たり得ない。その感情を抱くに至った経緯こそ重要だ。

俺は何故?という言葉のナイフを突き付ける。そのまま突き詰めれば、彼女を深く傷つけることはわかっていた。それでも止められない。

やめたいのに、やめられない。これではまるで中毒者だ。

問い詰めて、追い詰める。そうすると、やがて逃れられない壁にぶつかる。

そのぶつかった壁こそが、彼女の答え。俺が欲するものの正体。

 

「食い下がるのね。話したくないことくらい、あなたにだってあるでしょう? それを掘り起こして楽しい?」

 

ああ、まただ。熱のない、冷え切った瞳。正の感情が抜け落ちたような表情。そこには、悲しみも同居している。

その痛ましいまでの瞳が、今回ははっきりと自分に向けられている。

辛い。息苦しさすら覚える。心臓をゆっくりと、万力で徐々に力を込めて締め付けていくような、拷問のような苦しみだ。

思考を止めるな。ここで足踏みしていたら、本当に全てが終わってしまうのだから。何とか喉に力を込めて、言葉を絞り出す。

 

「楽しくなんて、ない。お前に悪いことをしてる自覚もある」

 

「じゃあ、何故? 何故そうなってしまうの? あなたなら、私は……」

 

歯噛みするような表情で、俯いてしまった。

俺は多分、雪ノ下に期待された。俺なら踏み込んでこないし、自分が口を開くまで待ってくれると。

俺は多分、その期待を裏切った。そうじゃないと、目の前の泣き出しそうな表情には説明がつかない。

 

 

期待する事は醜いことだと、賤しいことだと、それが俺たちの共通理念だった。それは今でも変わらないことなのに。

俺は心のどこかで期待していたのだ。

 

”俺になら話してくれるんじゃないか”と雪ノ下雪乃に期待していたのだ。

 

それが上手く叶わなかったことに失望はない。ただ、自覚と同時に強烈な吐き気がした。自己の内面から込み上げるそれを必死に堪える。

何ておこがましいんだ。何をわかったような気になっている。

俺は、雪ノ下の何だというんだ。

 

同級生。同じ部活の部長と部員。ただの、知り合い。

現在の俺たちの関係を定義する言葉はいくつかある。

 

俺は新しい関係を望んだ。

だから、期待したんだ。

 

俺は。

 

近しい人に、なりたかったんだ。

 

 

「雪ノ下」

 

名前を呼んだ。反応は薄い。

 

「雪ノ下」

 

二回目の少し強めの呼び掛けにびくりとして、彼女はようやく顔を上げた。

薄暗闇で見つめ合う。その目に力はない。でも、今回は逸らされなかった。

 

「俺は」

 

傷つける自覚があったのに、ごめん。

ただの身勝手な願望のために、そんな顔にしてしまってごめん。

心の中でしか謝れないほど不器用で、本当に、ごめん。

 

「俺、は」

 

心の中では饒舌なのに、口は言葉を発する為に開けられているのに、滑らかに想いは出て来てはくれない。

 

「比企谷、くん?」

 

案じるような声だった。そして、その優しさに、ついには目を逸らしてしまった。

本当に大事な時に、なんて弱さだ。どこまでいっても、俺が臆病なのは変わらない。

強く息を吐いた。何かを振り払うように。そうして、自らを奮い立たせる。

 

「俺は、お前、のことを」

 

言葉を紡ぐ唇が戦慄く。心臓の鼓動が痛いほどに早鐘を打つ。声が、うまく出ない。

どうする?俺はどうすればいい?苦し紛れに、暗い夜空に浮かぶ星々を見上げた。

俺が言おうとしているのは、ただの願望だ。流れ星に祈って叶えばどんなに嬉しいか。

わかりたいと、そう思ったのだ。壊れる可能性があっても、それでも言いたい。

傲慢だ。独善的だ。俺がいくら願っても、それを受け入れられるかどうかは、彼女の心の持ち様でしかない。

 

だけど、それでも。

 

息を呑む声が聞こえた気がした。

 

「俺は、お前のことを、知りたい」

 

勇気を振り絞って、彼女を再度見つめ直す。

これが、俺が醜いと自覚していても手放さなかった願望。

じわりと、雪ノ下の顔が滲んで見えた。

 

×      ×      ×

 

「あなたが、私のことを?」

 

俺が言葉を発した後。ふたりの間にあった沈黙を破り、雪ノ下が声を上げた。

こらえられなかった。言っていいものか葛藤はあったのに、俺は結局伝えてしまった。

言葉少なに、頷きで意思を伝える。

 

「……ああ」

 

「きっかけを、聞いてもいいかしら?」

 

きっかけ。それを問われれば、起因するのはあの時のことしかない。

 

「あの時、一色との部室でのやり取りを見てから。それからだと思う」

 

「そう……やはりそうなのね」

 

雪ノ下は薄く目を開いたまま、顎に手をやり考え込む体勢を作った。そして、しばし瞑目し考えに耽る。

邪魔することなど許されていない。ただ、その横顔を見つめた。

再び目を開き、視界を慣らすように2,3度瞬かせると短く溜息を吐いた。

小さな、ともすれば冬風にかき消されてしまうような声。

それでも、それを聞き逃すことはなかった。

 

 

「何から、話したものかしら」

 

「話して、くれるのか?」

 

言い表わすのであれば、信じられない、愕然とした表情だったのだろう。そんな俺の顔がおかしかったのか、雪ノ下は微苦笑を漏らした。そして俺を諭すような口調で、あの日聞いた言葉を紡ぐ。

 

「知りたいんでしょう? ならその願いに応えるわ。それに、言ったじゃない?『いつか話す』って。それが今来ただけ。所詮それだけのことよ」

 

「だって、こんなの俺の我儘なのに」

 

所詮強引にお願いを聞いて貰っただけに過ぎない。こんなもの、欲しいものを与えられないで駄々を捏ねる子供と一緒なのに。彼女のいつか話すから、という歩み寄りを踏みにじるようなものなのに。

自分から踏み込んでおいて、そのくせにすぐこんなことを考えてしまう。

ひどく自罰的で、それが嫌というほど自らの瞳に滑稽に映った。

 

「わがままでも何でも、それがあなたの願いなら聞き届ける義務がある」

 

「……何の義務だよ、それ」

 

「そうね。奉仕部の部長として、かしら?」

 

疑問形で言葉を締めくくった彼女を、苦笑を浮かべつつ見やる。そうして目が合うと、どちらともなく笑みが零れた。

ああこれはあれだ。きっと彼女なりの照れ隠しなんだろう。

何をするでも、何を言うでも、それをすべき理由を探している。

やはり、俺と雪ノ下は少しだけ似ていると思った。

 

「じゃあ、聞いてもいいか?」

 

「ええ、どうぞ」

 

 

許可は貰った。何から聞けばいいのだろう。知りたいことは、沢山ある。

だが屋外で話し続けるのも、少し寒さが身に染みてきた。なるべく手短に済ませたい。

まず第一に。今回の事態の出発点となっているあの事に関して。

 

「単刀直入に聞く。葉山の好きなやつって、雪ノ下、お前なのか?」

 

雪ノ下が一色の依頼を断った理由。それはここにあると、俺は考えた。

もしこれが事実であれば、頑なに断るあの姿勢にも納得がいく。加えてイニシャルはY。

この推測には自信があった。そしてそれは、思い描いた過去のストーリーの起点ともなる。

まずはその辺をはっきりとさせ、足場を固める必要があった。

じっと視線を注いでいると、雪ノ下は小馬鹿にするように笑った。

 

「外れ」

 

「マジで?」

 

「外れは外れよ。あなたのことだから、私が一色さんの依頼を断った理由をそう推察したのでしょう。残念ながら思考が短絡的すぎるわ」

 

ぐぬぬ……」

 

完全に図星だった。手の平の上でタップダンスを踊りまくっていたという事か。えーマジか結構自信あったんだけどなー。

ということは、断った理由は別のところにあると。皆目見当がつかなかった。

 

「じゃあYって誰なんだ?」

 

頭を掻いて、ぼそりと独り呟く。その誰に向けたでもない独白に、雪ノ下は機敏な反応を示した。まるで予想外といった表情を、その顔に浮かべる。

 

「あなた、どこでそれを?」

 

「いや、去年の夏に本人から聞いたんだが」

 

まあ俺が聞いたというより、正確には聞こえてきたって感じではあるが。そんなのは些細な違いだ。

 

「彼がそう言ったの? ……変わらないのね」

 

「……?」

 

葉山は変わらない。そう雪ノ下は言う。

生き方か、抱える想いなのか。あるいは両方合わせてか。

何を指しているのか、その言葉だけでははっきりとわからなかった。だからあの時、部室で問うた言葉をそのまま投げ掛けた。

 

 

「葉山の好きなやつのこと、何か知ってるのか?」

 

「いいえ、はっきりと聞いたわけではないの。ただ、それは私ではないと思う」

 

「……そう思う理由があるのか?」

 

こくりと頷く。雪ノ下は言葉を続けた。

 

「幼少期に彼と、姉さんとよく行動を共にしていたことは話したわね?」

 

「そんなこと言ってたな」

 

すっとぼけた振りをしてそんな風に言ったが、それはずっと気に掛かっていて聞けなかったことだ。

聞いてはいけない話なんじゃないかと、そう勝手に判断して目を逸らしていたことだ。

今更強がったところで意味なんてないのに、変に格好つけてる気がして何だか馬鹿らしい気がした。そんな俺の口ぶりを、雪ノ下は特に意に介すこともない。

 

「一緒にいると、わかってしまうものなの。彼の視線がどこを向いているのか。そして、少なくともそれは私には向けられていなかった」

 

「それって……」

 

「彼の視線の先には、常に私以外の誰かがいたの。だから私ではないと思った。彼が好きなのは……別のY」

 

意図を含ませたような物言いだった。雪ノ下だって直接聞いたわけではない。だからこんな言い方しかできないのだろう。

これに関しては、俺も彼女も推測することしか出来ない。だからこれ以上思考を重ねても無駄だ。張本人が口を開かない限り、真相は一生闇の中のまま。白日の下に晒されることはない。

俺はかぶりを振って、別のことを聞くことにした。

 

「葉山の好きな人のことはわかった。もうひとつ聞きたい」

 

「何かしら?」

 

「小学生の時に、あいつと何かあったのか?」

 

 

次に気になったのは、単純な昔話。それでも、俺が一番欲したものだ。

聞いてはいけないと口を噤んでいた雪ノ下と葉山の過去。

何かあったのかなんて回りくどい。かなりお茶を濁した言い方だ。だって、何かあったことは間違いないのだから。

雪ノ下は虚空を見つめる。その瞳に映るのはきっと、今も忘れられない過去のことだろう。

 

「色々なことがあったわ。辛いことが大半だけれど」

 

「……いじめか?」

 

「ええ。あなたは現在進行形で受けてるでしょう?」

 

「違う。俺は望んで友達を作らないだけだ。別に無視されてるとか、キモがられてるとか、そ、そんなんじゃねーし」

 

俺は来るものは拒まずスタイルだし。だから戸塚とも一応友達?だと思ってる。

それを素直に口に出来ないくらいには捻くれているということだ。

がしがし頭を掻いていると、くすと笑う声が届けられた。

笑みを堪えるために口元に当てられていた手をすっと下ろすと、雪ノ下は再び居住まいを正した。

 

「話の腰を折ってごめんなさい。具体的に何を話せばいいのかしら?」

 

「そうだな……」

 

具体的にと言われると、返答に困った。

雪ノ下は、当時いじめを受けていたと、出会った当初に彼女の口から聞いた。

そして主な原因は、男子から好意を寄せられることに起因した女子からの嫉妬。

俺はてっきり、その大勢の男子達の中に、葉山もいたんじゃないかと。そう勘繰っていた。

だが、それは違うと、彼女の口から告げられて間違いだったと気付かされた。

 

であれば、他に気になるのはいじめを受けていた当時のクラスの様子。

 

あの葉山が、自分のクラスで行われているいじめを黙って見ているはずがないのだ。

ヒーロー像の押し付けかもしれないが、俺の知っている葉山は、方法はともかくとして何かしらの行動は起こす。いじめの対象者が自身の幼馴染なら尚更だ。

それでも、過去の口ぶりから察したに過ぎないが、あいつは何もしなかった。

いじめを受ける雪ノ下に、手を差し伸べなかった。そこが俺の知っている葉山の人物像からは大きく外れる部分だ。

 

 

「いじめられているお前を見て、葉山は何もしなかったのか?」

 

「結果的に見ればそうなるけれど、それは正確じゃないわ」

 

「どういうことだ?」

 

やはり何かある。怪訝な声で疑問を呈した。

雪ノ下はちらっとこちらを見ると、すっかり温くなってしまった紅茶に口を付ける。

ふうと一息つき、やや間を開けてから悲しげな顔で口を開いた。

 

「彼は何もしなかったんじゃない。何も出来なかっただけなのよ」

 

何も出来なかった。あいつが手を拱くほどの事態だったという事か?それだけではいまいちピンとこない。問いを重ね、話を掘り下げていく中で見極める必要がある。

 

「水面下でのいじめがあったとか、そういう話か?」

 

気が付かないところであったいじめであれば、葉山でも何も出来ない、ということで取りあえず納得は出来る。そう思っていると、雪ノ下は横に首を振り、否定の意を示した。

 

「そういうことでも無いのよ。これはもっと、人間の汚い部分を象徴するような話」

 

えらく抽象的な表現だ。そのせいか、俺の知っているあの人と会話しているような気分にさせられてしまった。俺の理解が及んでいないことは重々承知なようで、言葉をそのまま続ける。

 

「先ほどの、彼の好きな人の話にまた戻るけれど、構わない?」

 

「ん? ああ」

 

「ありがとう」

 

わざわざ礼を言われることではない。それを手で制して、続きを促す。雪ノ下は頷くと、再び過去に想いを馳せるような調子で語り始めた。

 

「葉山君は、当時のクラスメイトからしつこく纏わりつかれて聞かれていたの」

 

「何をだ?」

 

「彼の、好きな人のこと」

 

 

ああ。その様子は容易に想像がつく。

クラス1の人気者。そこには慕うように多くの人間が集う。

遊び、スポーツ、勉強の話題。であれば色恋沙汰だって当然話題に上ったはずだ。

クラスの人気者の好きな人。それはスキャンダラスな話題で、いつの時代も有象無象に好まれるものだ。ついこの前までも、葉山のこの手の話題が校内を駆け巡っていた。

どんな些細な出来事でも興味を持つ子供のことだ。それはもう格好の餌食だったことだろう。

 

「しつこく聞かれても、彼は決して口を割らなかった。その様子にきっと誰かが腹を立てたか、面白がったのでしょうね。ある日にひとつの噂が立った」

 

「それは……なるほどな」

 

「御多分に漏れず、彼の好きな人は私、ということになっていたの。正に下種の勘繰りというやつね」

 

雪ノ下は当時を振り返って、疲れたように長い息を吐いた。

雪ノ下と葉山は、行動を共にすることも多かったと聞く。主に陽乃さんに連れまわされて、とも言っていたが、同じクラスであればふたりで話すことも多かったはずだ。

クラスでそれを認識されているのであれば、自然とそういうことになってしまうのかもしれない。

特に小学生であれば、男子と女子が話しているだけで囃し立てて面白がる連中がどこにでもいる。加えて幼馴染という立場、二人共に優れた容姿と成績。それだけ揃っていれば、もう充分だ。

 

子供は、怖い。心も体も未発達で、理性より感情が優先される。それが可愛いと目に映ることもあれば、まるで人間ではない何かのように映ってしまうこともある。

感情優先で面白がって噂をして、その果てには無自覚ないじめがあったとしても、そこに対する罪の意識は薄い。その上、無意識に自分たちが庇護される存在だとわかっているからタチが悪い。子供はどこまでいっても子供。それを逸脱することは決して無い。

 

 

「それで。あいつは、その時どうしたんだ?」

 

「もちろん彼は必至に否定したわ。そして、その必死さが仇になった」

 

「……否定しすぎるのが逆に怪しい、ってことか」

 

「その通りよ」

 

俺は想像する。

少年は違う、違うと否定を続けた。その言葉を聞いた他の子どもたちはこう考えた。

「そんなに否定するなんて、本当は好きなんじゃないの?」と。

好きな人を尋ねられ、勘繰られ、それを必死に否定する。それを見て周りはさらに騒ぎたてる。個人の声は集団の大声に埋没する典型的な例だ。

聞くに葉山は、存外に子供らしい一面を持っていたということだ。先を見通せない浅慮さも、それもまた子供らしい。

そして葉山はミスを犯した。自分の振るまいが、自分以外のところにも火の粉を飛ばしてしまうことを想像出来なかった。

 

「それをきっかけにして、お前は?」

 

「あなたの想像通り、女子の嫉妬に晒されたわ。見かねた彼が仲裁に入ることもあったけれど」

 

やはりか。雪ノ下の受けたいじめは、葉山が彼女に好意を持っていると勘違いした女子の嫉妬が原因で間違いなかった。俺の予想したストーリーとその部分は違わない。

当然、クラスで横行するそれを黙って見ているあいつではない。けど。

 

「けど、あいつのやり方じゃ駄目だった。それこそ、千葉村のあの時みたいにお前を女子の輪に戻そうとしたんじゃないの?」

 

「ご明察。けれど結果的に私は、それを拒否した」

 

「……そうなるか」

 

「その後私は留学して、帰国子女として編入。そして、今に至る」

 

これが、真相か。

 

 

あいつはあいつなりに、雪ノ下を救おうと足掻いて、手を差し伸べたのだ。

それは俺の知る、葉山隼人そのものだ。あいつは、変わっていない。それは良い意味でもあるし、悪い意味でもある。

だが子供心にもやがて、事態の重さに気が付いたはずだ。

 

肯定しても、否定しても、沈黙しても、何をしても。

 

周りの世界を変えることが、もう出来ないのだと。

 

自身の起こす行動が、より彼女を傷つけるのだと。

 

自分では、彼女を救えないのだと。

 

あいつは屈したのだ。子供たちの無自覚な、悪意無き悪意に。

そうして葉山は、差し出していた手を、静かに引いた。

 

何もしなかったんじゃなかった。あいつは、何もすることが出来なかったんだ。

「ああいうのはほっとくしかなくてね」と経験則の様に語られたその言葉が、急に実体を伴って目の前に現れたようだった。何気ない日常にもヒントは転がっていたのだ。ついに辿りついた事実に暫し言葉を失っていると、雪ノ下は軽い調子で俺に語りかける。

 

「どう? 感想があれば聞くわ」

 

「あ、ああちょっと待って。整理させてくれ」

 

雪ノ下の口から語られた、過去のこと。

事実を事実として語り、その語調には淀みがない。

あくまで事実しか語られてないから、多分そこに雪ノ下の感情は挟まれていない。ただただ淡々と語られた印象を受けた。非常に感情の起伏を捉えにくく、それでは掬いあげようがない。

だから、雪ノ下が依頼を拒んでまで語りたがらなかった理由が、今の話からはあまり見えてこなかった。

 

 

「結局、お前が話したくなかった理由って何なんだ?」

 

「そうね。当ててみたらどうかしら?」

 

俺の問いに、ふふんと挑発的に微笑んだ。こいつ楽しんでやがるな……。

はぁ、と吐き出した息は瞬く間に白く変わり、風に押し流されていく。外に出てかなりの時間が経ったか。そろそろ暖かい室内が恋しくなってきた。

さて、そう言われてしまえば考えるしかないか。

 

まず思い付いたのは、噂の再燃を恐れた、ということ。

過去の焼き直しになることを雪ノ下は恐れた。

やっと葉山と雪ノ下が付き合っているという噂が沈静化したところで、一色のあの依頼だ。

依頼を受理して葉山本人や周辺に探りを入れていく中で、事実が露見する事を、再び噂が再燃することを恐れたのかもしれない。

 

だが、2人が付き合っているという無責任な噂は迷惑だったのは間違いないが、面白がられているだけで、直接的に被害が及んでいたという事は本人からは聞いていない。

それにだ。一色や由比ヶ浜、俺も含めてだが、仮に何があったかを知ったところでそれを周りに吹聴するほど馬鹿じゃない。俺は吹聴する相手がいない。げふんげふん。

俺が考えられることだ。雪ノ下にだって想像出来たはずだ。

 

そもそも今の雪ノ下は、噂が再燃して発生するいじめなんて意に介さず叩き伏せそうに思える。

だから多分これは違う。周りがどうしたとか、こうしたとか、そういうものじゃない。あくまで、理由は彼女自身に根ざしている。

もっと根本だ。パーソナリティの部分にこそ理由はあるはずだ。

思考に耽り、そうして辿りついたひとつの可能性。それを俺の答えとして、雪ノ下に告げた。

 

「弱い自分を思い出すのが嫌だった、とか?」

 

長いまつ毛が瞬きに合わせて揺れるのを目で追った。やがていたずらっぽく、彼女は微笑んだ。

 

 「半分正解」

 

「外れではないと」

 

ほっと胸を撫で下ろす。まあ外したところで何があるとも言われてないわけだが、外したら外したで悔しいじゃん?

 

「で、残りの半分は?」

 

「……言わないと駄目かしら?」

 

「駄目ってことないけど、普通そこまで言ったら気になるだろ」

 

そんなに言いにくいのかしら?半分合ってるなら、だいぶ言いやすくなってると思うけど。先ほどまでの挑発的な態度はどこへやら。雪ノ下は黙ったままそわそわと落ち着きがない。

ただそれでも、胸に当てられた手は動かないままきゅっと握り締められている。

やがて、意を決したようにその口は開かれた。

 

「弱い自分がいたことは認める。それを思い出したくないことも」

 

「そうか」

 

いじめを受けるくらいには、当時の雪ノ下は弱かった。その事実と、正に今彼女は向き合っている。弱さを認めることは、強い証左に他ならない。

それは勇気ある行い。認めることは、過去を乗り越える通過儀礼のようなものだ。

そのまま彼女の訥々とした告白に、ただ相槌を打ち、耳を傾ける。

 

「それ以上に、許せなかった。何にも向き合いもしないで、逃げ出した自分が」

 

「差し伸べられた手に感謝することもなかった子供っぽい自分が」

 

「それがたまらなく惨めで、弱くて、目を、つい逸らしたくなるの」

 

「……それを思い出したくないのが、お前の?」

 

「ええ。これが、私が話したくなかった理由」

 

 

他人にも、もちろん自分にも厳しい、いかにも雪ノ下らしい理由だと思った。

思い出したくない過去の汚点。触れられたくない思い出。

それは誰しもがひとつくらいは持っているもの。俺は、ただの我儘でそれを暴き出した。

感謝が少し、それ以上に申し訳なさが心の大半を占める。けれど、俺の抱えた疑問はまだ底を突いていなかった。

 

「葉山はお前を助けようとした。それを拒否したこと、後悔してるのか?」

 

「……後悔、ね」

 

後悔する、ということは選ぶ余地があったから。どの選択肢を選べば正しかったのかと夢想するから、失敗した時に後悔は生まれる。

雪ノ下にも、選択肢はあった。ならば、一体何が正しくて、何が間違いだったのだろう。

考えたって、一生答えは出ない。過去の事実は変えられない。どんなに悔やんだところで、こうして振りかえることしか出来ないのだから。

 

「後悔は、少しだけしてる、と思う」

 

「はっきりとは言わないのな」

 

「まだ自信がないのよ。仮に迎合してクラスに馴染めたとしたら、どうだったでしょうね?」

 

雪ノ下がもうひとつ持っていた、選ばれなかった選択肢。それはクラスの和に、自分を殺してでも馴染むこと。

だが、脳内でいくらその言葉を反芻させても、それが後悔のない選択肢になるとは到底思えなかった。自己を捩じ曲げて、それで得た関係のどこに正しさがある?そんなものははっきりと間違っている。

 

「それは違うだろ。自分の気持ち全部押し潰して、表面だけ仲良くって。そんなの、ただの欺瞞だろ」

 

「あなたならそう言うでしょうね。私だってそれを良しとしなかったから、孤立する道を選んだ。でも……」

 

「でも、何だ?」

 

「でも、それでも、もっとうまいやり方はあったんじゃないかとも思う。それを模索しなかったことは、少しだけ後悔してるの」

 

 

似たようなことを、確かマラソン大会の打ち上げの時にも言っていたはずだ。

あの時の葉山と雪ノ下の会話を思い出す。

 

「あの時、マラソン大会の打ち上げの時に葉山と話して、和解出来たのか?」

 

「和解、というほど仲違いしていたわけではないと思うけれど。少し気まずいというか。ただ、けじめにはなった」

 

「けじめ、ね」

 

「そう、けじめ」

 

俺の言葉に言い添えるように、雪ノ下は言葉を繰り返す。

やがて、その表情は安堵を湛えたものに変わっていった。

 

「これで、これでようやく、彼と真正面から話せる気がする」

 

「……負い目を感じてたのか?」

 

「それも少しね。彼には、結構辛く当たったこともあったから」

 

ああ、結構辛辣でしたもんね。それこそ千葉村の時とかにキツイこと言ってた気がする。

あの時は留美のこともあって、少し気が立ってたのかもしれないな。そうやって、過去の事実と彼女の言葉をリンクさせていく作業は、ぼやけていた全体像を俯瞰して徐々に見えるようにしていくのに良く似た感覚だった。

 

「今思えば、私は子供のままだった。まるで成長していない気さえするの」

 

雪ノ下は、葉山と向き合った。そして今日、過去の自分に向き合った。

それは成長の兆しだと思うし、誇るべき事だとさえ思う。

多くの人間は、過去のことを忘れる。いや、思い出すこと自体はあるのだ。それを心に留め置くことがないだけ。だから、いつしか思い出すことすら忘れていく。

雪ノ下は忘れなかった。忘却という甘言に耳を傾けることなく、ずっと胸のどこかに抱えて生きてきた。それは強さだ。

変われることは強いことだと、俺は思うようになった。同時に、変わらぬ想いを持ち続けることも、また強さだ。

 

 

「まるで成長していないって思える時点で、それは成長の証じゃねーの? 客観的に自分のこと見れてるってことなんだから」

 

今の君は、もう十分あの頃を超えているよ。by安西先生

これは言わないでおこう。雪ノ下に言ってもぽかんとされそうだ。

そう思って雪ノ下の顔を見ると、ぽかんとした表情を浮かべていた。あれ?俺何も言ってないよね?

 

「雪ノ下? どうした」

 

「いえ、あなたにしては正論で、言葉に困っただけよ」

 

「俺が正論言うと困るとか、今後お前もう何も口に出来ないレベルじゃない?」

 

「それは本気で言っているの? いいわ。真正面から論破してあげる」

 

おお怖いゆきのん怖い。皮肉+毒舌+論破=オーバーキル。もうこれ口開けないやつじゃん。部室が安息の地で無くなると、本気で自室しか俺のユートピアが無くなってしまう。本物のヒッキーにはなりたくないものだ。

 

「比企谷くん」

 

「?」

 

声を掛けられたはいいが、先ほどの自信満々な声から打って変わって消え入りそうな声量だ。疑問には思ったが、聞き漏らさぬよう注意してそのまま待った。

しかし、待てど暮らせど続きは発せられない。なんやねんと思いつつ、視線を外して空を眺めた。

 

「ありがとう」

 

呟きは、はっきりと耳朶に届く。空がやけに広く見えた。

感謝される謂れなんてないのに。むしろこっちがしたいくらいだ。

 

「どういたしまして」

 

本日は、快晴。冬の澄んだ空気も相まって、薄墨を垂れ流したような夜空には変わらず冬の大三角形が煌めく。

あの星の光がこちらに届くまでの何光年という時間と、比較にならないほどに短い時間。

俺と彼女は昔話をした。心を通わせた。そうしてまた、俺たちの関係は少しづつ変わっていく。

変わる自分に戸惑いながら、誰しもが皆、子供から大人になっていくのだろう。

 

星に願いを、ではないが、心の中で祈り事をひとつ。

 

近しい人に、なれたらいいな。

 

知りたいことを知れた充足感から、そんな馬鹿な事を考えていた。

 

×      ×      ×

 

紅茶から立ち上る湯気が消えてどれくらい経ったのだろうか。

手に持ったままの陶器製のカップはすっかり淹れたての頃の熱を失い、それが時間の経過を知らせてくれている。

先ほどから、風になびく髪がやたらと気になる。今日も夜に掛けて、沿岸部は風が強くなってきた。潮の匂いを僅かに含んだ寒風が首筋を撫ぜると、思わずぶるりと体が震えた。

 

「そろそろ戻ろうぜ。流石に冷えてきた」

 

「そうしましょうか」

 

粗方重要な話は終えた。ぽつぽつとした誰に聞かれても問題のない雑談であれば、暖かい室内でした方がいい。戻るタイミングを窺っていたところで雪ノ下も寒そうに身を引き締めたので、この辺が頃合いだろう。

踵を返すように体の向きを変え、室内へ戻ろうと足を向けた。

だがそれを、柔らかな声音が制す。

 

「ねぇ比企谷くん?」

 

「何だ。まだ何かあったか?」

 

呼び止められて、動き出したばかりの足を止め、彼女を見た。

雪ノ下は中身の入っていないカップを手にぶら下げたまま、軽く腕を組み手すりの付いたベランダの壁に背を預けて立っている。

室内から漏れる明かりが彼女の顔を照らし、先ほどよりも表情がよく見て取れた。

 

「まだ、あなたの理由を聞いていないわ」

 

心臓が、跳ねる音が聞こえた。

 

 

「俺の理由? 何のことだ?」

 

「とぼけないことね。あなたが、私のことを知りたいと思った理由に決まっているじゃない?」

 

「……黙秘権は?」

 

「黙秘したくなるような理由であれば、猶のこと気になるわね」

 

雪ノ下はその顔に笑みを浮かべてはいるが、その目は真剣だ。

逃げるなと、そう言われている気がした。

俺は逃げはしない。逃げないだけで、今、そこに突っ立ったまま動けなくなっている。

そしてまた、この場を切り抜ける言い訳を考えている。

俺は怖いのだ。手に入れたものを失ってしまうことが。それがたまらなく、怖い。

 

俺の抱いた感情。知りたいと、わかりたいと思った理由。

それをありのまま伝える行為は、何かを手に入れる代わりに、それ以外の何かを失う可能性があった。否、可能性どころではない。

 

ハッピーエンドなんてない。

確実に、選ばれなかった方の選択肢は消える。

 

その上、何も掴みとれない可能性の方が遥かに高い。

そして、真の意味でそれに触れる機会はもう与えられる事はない。

こんな分の悪い賭けはなかった。

 

「知りたいって、ただ思ったから。これじゃ駄目か?」

 

「それは理由ではなくて感想にしかならないでしょう。あなたの言葉、そっくりそのまま返すことになるけれど」

 

それを言われると痛かった。

理由、理由、何でもかんでも、理由。物事のワケというものは何をするにしても、何を言うにしても付き纏い続ける。

いちいち理由がないと動けないのか、と揶揄する声が聞こえてくることもあるが、それは違う。

 

 

人は理由なしに動かないし、動けないのだ。

理由があるから納得出来るし、納得出来るだけの理由は強大な起爆剤としても機能する。

 

理由もなく動ける人間は、意思を捨てた人間だ。

考える事を放棄して、ただ隷属することを選んだ人間だ。

俺は意思ある人間だ。だから、理由を求めた。

 

そして今、理由を求められている。

 

俺がその感情を持つに至った理由を問われている。

 

だが、その質問にもうまく答えられそうになかった。

答える気がない、ということではない。

理由が、きっかけが、そこら中に散りばめられていて拾い上げることが難しいから。正確に汲み取ることが出来ないから口を噤んでうまく話せないのだ。ただ、こうとも言える。

 

その散りばめられた全てが、俺の理由に成り得るのだと。きっと、全てなんだと。

それは、俺と彼女の日常生活の何気ないやり取りの中にこそあった。

 

挨拶で見せるはにかんだ笑顔も、

綺麗な姿勢で本を読む姿も、凛とした面差しも。

不器用に抱え込むところも、わかりにくい気遣いも、強そうで弱いところも。

もちろん、今現在考え込む俺を見つめる、きょとんとしたその顔も。

考えても、枚挙に暇がない。

紅茶を淹れる彼女の背中。振り向いて目に入るのは穏やかな笑みと、ふわりと広がる、紅茶の香り。

そんな慣れ親しんだ光景すらも。

 

全てが、愛おしい。

 

 

「雪ノ下」

 

「なにかしら?」

 

雪ノ下は小首を傾げて、穏やかに微笑む。俺が一番好きな、その表情を浮かべる。

 

「俺が、お前を知りたいと思ったのは……」

 

俺はまた願望を押しつける。告げるかどうかはわからない。だから、待っていて欲しい。

”いつか”話すその時まで。

 

「単純な、興味だよ」

 

あと1週間で、暦の上では3月を迎える。

季節は、ようやく冬から春へとゆっくりと移ろいを見せ始める時期だ。

雪の下に芽生えたばかりのそれは、春の陽差しを一身に浴びてどう成長を見せるだろうか。

 

そうそう。単純な興味って語感だけで浅はかだと捉えるのは良くないぞ、雪ノ下。

 

だって。

 

好きな人の事を知りたい、ってそんなに悪いもんじゃないだろ?

 

雪解けは、もう間近に迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

元スレ

雪ノ下「遠い過去の出来事」

http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1435069347/