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雪乃「さあ、三日月さん。あなたのその腐った性根を叩き直してあげるわ」 夜空「……はっ、やってみろ」4/4【俺ガイルss/はがないss】

 

日の下で生活する、あまねく生物は塩分の摂取が必須である。

 

一部の例外を除き、体内の塩分が不足すると時間の差こそあれ確実に死に至ってしまう。

 

無論、生物としては貧弱な部類に価する人類も当然そこに含まれる。

 

古代から近世に至るまで、山岳や内陸よりも海の傍に大都市が出来やすいのは塩の安定した供給が見込めるという面が大きいからだろう。

 

また、塩はその重要性から財産としての価値も非常に高い。

 

様々な製造法が確立された現代においては余り実感がないが、化学技術が発展していない地域や産業革命以前は特に、塩は貴重品であり高級品であった。

 

そのため多くの支配者は財源を確保するために塩の販売を取り締まり、独占した。

 

「比企谷くん」

 

彼らの大部分は基本的に貧困層の事などこれっぽっちも考えていないため、塩の専売はしばしば一揆や反乱にまで発展した例も少なくない。当然、密造や密売も横行した。

 

また、経済的価値が高い事は戦略的価値が高い事と同義である。

 

かの有名な『敵に塩を送る』という言葉は、駿河の塩留めに遭った甲斐とそれまでと変わらず塩の交易を続けた越後、という故事から成っている。

 

故事成語になる程に塩留めの効果は高く、もし越後の上杉家が今川・北条両家に賛同していたら武田家は戦わずして敗北していただろう。

 

軍の運用に際しても、古来よりあらゆる遠征軍は兵士それ自体ではなく、兵糧ひいては塩の輸送にこそ気を遣い、頭を悩ませたと言う。

 

「聞いてる?」

 

専売、密売が横行し、故事成語が存在するという面からも、如何に塩という物が重要視されてきたのかが伺えよう。

 

つまり、人類の繁栄は塩と共に築かれてきたと言っても過言ではない。

 

以上の事をふまえると、昨今の愚かな減塩指向など栄えある人類の歴史への冒涜であり侮辱であり涜職以外の何物でもない。

 

世界に対し、真っ向からそう主張するものがある。

 

しかし世界はそれを忌み、恐れ、恥じ、排除しようとするだろう。

 

だがそれでm

 

「比企谷くん」

 

冷たさと鋭さを内包した、聞き慣れた声が耳朶に響く。

 

その声は強めの口調で俺を現実、もとい地獄に引き戻す。

 

「現実逃避はやめなさい」

 

無理矢理現実へと引き戻された俺は、改めて周りを見渡す。これが最期に見る光景になるかもしれない。

 

広い調理室内、前方のテーブルの前には審査員である料理部。

 

彼らが審査の為に試食を始めてからしばらく時間が経過しているが、料理部は微動だにしていない。

 

ある者はテーブルに伏し、ある者は祈るように天を仰ぎ、また、ある者は俯いたままじっと瞼を伏せている。

 

この惨状を作り出したのは、たった一つのモノ。

 

それは、奉仕部が誇る戦術兵器。

 

一見なんの変哲もない、普段あまり料理をしない人が作ったであろう少し不格好なカルボナーラ

 

もしこれが明らかに消し炭だったりやたら粘度が高かったり高い仄明るく光る何かに浸っていたりしたら食べる前にある程度予想も覚悟も出来るだろう。

 

なまじ見た目が普通であるため、食べた時に予想外の角度からの攻撃に襲われることになる。

 

その攻撃はヒトタイプにこうかはばつぐんのようで、料理部は一人残らず行動不能に陥っている。

 

かく言う俺も、まだほんの少ししか食べていないのに先程から手の震えと冷や汗が止まらない。たった一巻きでもう胸一杯お腹一杯である。にこまきならいくらでもウェルカムなのに。

 

眼前に鎮座するは名前を言ってはいけない例のあの料理。

 

おかしい。どうしてこうなった。

 

 

時を遡ること十数分。

 

 

各々の作品を運び終えた代表者たちがそれぞれ別のグループに試食させるために寄りわけていると、料理部はいつのまにか試食を開始していた。

 

退出ゲームの際の演劇部と違い特に決められた司会進行はいないようだ。

 

……別に料理部に小粋な演出とかは求めちゃいないがもう少し何とかならないのか。

 

まぁそろそろこの学園にいられる時間も少なくなってきたし、早く進むのであればそれはそれでいいか。

 

グダグダな空気に若干呆れつつも事の成り行きを見守っていると、唐突にゴトリと重たい物がテーブルにぶつかる音がした。

 

音のした方を見れば料理部の一人がうつぶせに倒れている。

 

周囲の怪訝な視線が集まる中、彼女の手からフォークが滑り落ちカラカラと音を立てる。

 

その隣に座っていた料理部員もにわかに震え始め、やがて動かなくなった。

 

……これは、やはりそういうことだろうか。

 

思わず雪ノ下の方を見ると、雪ノ下も俺の方を見ていて何やら目配せしてくる。

 

雪ノ下は哀しげに目を伏せ、ゆっくりと首を左右に振る。

 

……そうか……やっぱり駄目だったんだな。意外と普通の見た目だったから大丈夫かと思ったんだけどな……。

 

ある程度予測されていた結果とはいえ、料理部を巻き込む事は本意では無い。出来れば回避してほしかった。

 

しかし由比ヶ浜の奇想天外な料理スキルを知っている俺と雪ノ下ですらその危険性を看破出来なかったのだ。初見の料理部が気付かないのも無理はない。

 

料理スキルというか暗殺スキルが向上してんじゃねえかよ……。由比ヶ浜ならきっと100億円も夢じゃない。

 

なにはともあれ、元々その能力に疑問は合ったが、料理部の全滅により仕切る人が完全にいなくなってしまった。

 

調理室にはどんよりと重たく停滞した空気が蠢いている。

 

どうすんのこれ?

 

おそらく次は全員での試食会に移るのだろうが、いかんせん明確なプログラムを知らないために動きづらい。

 

俺を含めた前に出てる人たちは座らされた椅子から動けず周囲を伺い、手持ち無沙汰でいたたまれない状況である。

 

ここでおどおどしていてもどうしようもないので、とりあえずこれもう戻っていいのかな? と、試しに立ち上がってみると、ほぼ同時にもう一人立ち上がっていた。

 

そちらを見ると、立ち上がっていたのは生徒会長だった。

 

相手もこちらに気付き、目を向ける。自然、目が合ってしまい何故かニカッと爽やかに笑いかけられる。

 

その笑顔は可愛いと言うよりも魅力的と言った方がより正確な表現で、その手のマニアが生まれるのも無理はないなと納得してしまうような代物だ。

 

っていうか目が合っただけで笑いかけるとかここ欧米かよ。そしてハグからの頬キスに続くんですね。わかります。

 

まぁそんな笑顔をいきなり向けられても困ってしまう訳で、キョドリつつ顔をそむけるぐらいしかできないんですけどね。

 

どこからともなく、キモ、という呟きが聞こえたがその程度で傷つく俺ではない。由比ヶ浜後で泣かす。

 

生徒会長は自らの行動で一人のいたいけな男子生徒が傷ついたとはつゆ知らず、機能しなくなった料理部を見限り、場を仕切り始める。

 

人望があるのかないのか、いやそりゃ生徒会長やっているくらいなんだからもちろんあるのだろうが、周囲の人間がそれを自然に受け入れた事に驚いた。

 

彼女は茶目っ気混じりに不甲斐ない料理部を揶揄しつつ冷え切った空気をどうにかしようとしている。

 

色々と言いたい放題言うが、人が人なら嫌味や皮肉と捉えられてしまうような発言でも、彼女が言うと不思議とそういった負の方向には向かない。

 

スパロボにおけるロム兄さんのような存在なのだろうか、この人なら仕方ないと思わせる何かがある。人、それをキャラクター性と言う。

 

彼女の尽力により、完全にお通夜状態だった調理室内の空気は一新され、控えめながらも和気藹々としたそれになっていく。

 

朗らかに溌剌と場を取り仕切る彼女は、人心を捉えてやまないことだろう。

 

人々の中心に立ち周囲をあまねく照らす様は、それはもう太陽さながらである。

 

わぁ眩しい。

 

益体もないことをつらつらと考えながら事態の趨勢を眺めていると、やがて代表者を除いた全員で試食会を始めようという流れになった。

 

「勝敗は各グループの代表者が判定をするということでどうだろう」

 

「公平な評価が出来るのであれば、それでいいと思います」

 

生徒会長の発言に対して真っ先に雪ノ下が答える。

 

他の面々も特に反対意見はないようで事は順調に進んでいた。

 

かのように思えた。

 

思えば、ここが分水嶺だったのだろう。

 

試食会が終わり、各代表者が前に集められる。

 

既に雪ノ下に視線だけで命令されていて、奉仕部の代表者は俺という事になっている。無駄な抵抗はしない。

 

他の代表者はといえば、隣人部からは羽瀬川、生徒会は会長、よくわからないモ部からはモブ。彼は村人っぽいから便宜的にノリアキと呼ぼう。勲章ものだね。

 

審査ルールの大筋は当初と変わらず、自分のグループ以外の作品を全て食べて判定をするというものだ。

 

会長の提案により、それぞれ同時に同じものを食べるという項目と、モ部、隣人部、生徒会、奉仕部の作品の順で食べるという項目が追加されている。

 

前者の意図は読めないが、恐らく後者は可能な限り正常な状態で判定を出来るようにという配慮の結果だろう。

 

料理部の惨状を目の当たりにしてしまったため、先の試食会では当然ながら誰もアノリョウリに手を付けなかった。

 

強制的に食べさせられる羽瀬川以外の隣人部の毒殺は失敗に終わりそうだが、一人殺れるだけでも、思いつきで穴だらけの作戦にしては戦果は上々だろう。

 

由比ヶ浜に手順を教えていた事を鑑みるに、雪ノ下は初めから毒殺の意思はなさそうだったし。まあ、ちょっと教えたところでどうにかなるものではなかったようだが。

 

まずはモ部の作品から。

 

ノリアキがいるしアリーメン的なものを期待したが特に上手くもなく不味くもない。料理が得意だから参加したというわけでもないようだ。

 

文化祭の浮かれた空気が彼ら彼女らを浮つかせたのだろう。その代償は大きい。

 

続いて隣人部。

 

まず目に付くのは、焼いた肉の上に適当に色々なものが乗せられた大皿だ。料理名はわからない。あるのかもしれないしないのかもしれない。だぶんないだろう。

 

他にあるのは小鉢に乗せられた、やたら小奇麗な仕上がりの作品郡でオシャレな店で出ててもおかしくないレベルのオシャレ料理。これは副菜として一品と言うことか。

 

そして最後に、包丁すら使った形跡のないサラダ。サラダと言うよりむしろ草。例えるなら、小学生の頃学校で飼育していたうさぎにあげていた乾燥していない方の餌が一番近い。

 

誰が作ったのかは知らないが、このサラダからは若干シンパシーを感じる。省エネ万歳、素晴らしきは省エネ精神かな! ただの怠惰とも言う。

 

さて、実食に移ろう。最初はサラダらしい。

 

これはわざわざ食べるまでもない気がする。ヒッキー知ってるよ、これは草だって。

 

まぁ食べずに決めつけるのは食材にも作った人にも悪い気がするのでちゃんと食べますけどね。

 

生野菜が盛られた皿にフォークを入れると瑞々しい音がする。

 

もちろんドレッシングなんて洒落たものはかかっていない。

 

……うん、草だね。

 

もっしゃもっしゃと草を食んでいると、まるでうさぎになったかのような気分に……あれ、俺うさぎなの?

 

戸塚が好きな動物って確かうさぎだよね?

 

ということは、ということはだよ。

 

つまり戸塚は俺が好きって事でいいってことだよね!? ね!? 違うか。

 

戸塚への慕情は後で語るとして、次はお楽しみの副菜である。

 

食欲をそそる匂いに期待が高まる。昼食としてイタリアンを食べたには食べたが、なんだか相当前のような気がしていたところだ。

 

否が応にも高まった期待は実際に食べても裏切られず、箸が進む進む。

 

走り回ったり頭を使ったりで小腹が空いていた事もあり、割り当てられた量はすぐになくなってしまった。

 

さっきの試食会のときに隣人部のところに人が群がっていたのはこれが理由か。

 

この料理であればいくらでも食べたいくらいだ。ノリアキもむしゃむしゃ食べているし、会長も驚きに目を見開いている。

 

「これは相当美味いな。作ったのは誰かな?」

 

「あ、俺です」

 

羽瀬川が控えめに手を挙げて答える。

 

いるよね、言葉の最初に『あ』ってつけるやつ。俺です。

 

あれ勝手に出てくるしほんとになんなんだろうね。五十音の最初だし会話の開始としては相応しいのかもしれないけど。

 

サンスクリット語の阿も不滅とか無限とかの意味があるらしいしいやこれは意味わからないな。

 

今の羽瀬川の言葉に当てはめれば「無限、俺です」になるし。どういうことだよ。

 

「ふむ、これは君が作ったのか! 名は何と言う?」

 

「こだ……は、羽瀬川小鷹です」

 

……自重したか。流石に衆人環視であの自己紹介をやるほど剛胆ではなかったらしい。

 

俺は次にチャンスが来たら絶対やるけどね!

 

「なるほど、小鷹か! よし! 小鷹、生徒会に入らないか?」

 

「い、いきなり呼び捨てですか!?」

 

「おや、気にくわなかったか。そう言うのであれば控えよう」

 

「別に嫌ってわけじゃないですけど……」

 

「なら問題ないな! そうか生徒会に入ってくれるか! これで生徒会の食糧問題は解決だな!」

 

「いや入るなんて言ってませんけど!?」

 

「そうか? 入らないとも言っていなかったからな。てっきりもう入ったものかと」

 

「展開と勘違い早すぎですね!」

 

会長のパワーに圧倒されている羽瀬川。たじたじ、と表現してもいいかもしれない。美人に迫られているヤンキーの画がそこにあった。おいおいどこのギャルゲーだよ。

 

にしても、あの会長の近くにいたらツッコミスキルかスルースキルがカンストしそうだなぁ。

 

うちの学校にはいなくてよかった。いてもどうせ関わる機会はゼロに等しいだろうが。そもそも生徒会長が誰だか知らない。

 

「はぁ……。ヒナ、そこまでにしておけ。羽瀬川くんが困っているだろう」

 

溜息をつきながら副会長が会長へと近づき止めに入る。呆れ顔をしていることから、普段からこの調子だと言う事が伺える。気苦労が絶えなそうだ。

 

かくいう俺も横暴な部長と乱暴な顧問に悩まされているのだが。

 

きっとあの副会長とは美味いMAXコーヒーが飲める。今度会ったら一箱プレゼントしようと思う。確実に二度と会わないけど。

 

「すまなかったな、羽瀬川くん。ヒナもあれで悪気がある訳じゃ無いんだ。許してやってくれ」

 

「いえ……あれくらい別に構わないですけど……」

 

副会長の謝罪に気圧されている羽瀬川。たじたじ、と表現してもいいかもしれない。美人に迫られているヤンキーの画がそこにあった。おいおいどこのギャルゲーだよ。これ二回目。

 

まぁ羽瀬川はギャルゲー主人公に必須な2大スキルの片方を所持しているからな。きっと奴ならこなせるだろう。けっ。

 

「ははは、いきなりですまなかったな。だが小鷹、生徒会の門はいつでも開かれているからな!」 

 

あまり悪びれた様子もない会長がぽんと羽瀬川の肩に手を置く。

 

「はぁ……そうですか」

 

羽瀬川はいきなり触られて驚いた様子だったが、噛まずに答えられたのは素直に凄いと思う。

 

ぼっちはただでさえ他人との接触が少ないのに、いきなり美人に触られたりしたらそれはもう盛大にキョドる事だろう。

 

ソースは俺ではない。

 

何せ俺の周りにいる美人は言論暴力部長と暴力教師だからな。まず触られもしないし、触られてもそれは殴られるのとイコールなのだからキョドる暇もない。

 

とにかく、会長の暴走が静まった。この隙にさっさと次に進もうとこの会場にいる誰しもが思ったようだ。なんだろうこの無駄な一体感。

 

隣人部の最後の作品は肉料理。

 

この謎の肉料理は小皿に寄り分けるのが難しいようで、大皿の周りに集まって食べると言う形式になっている。端から見たら樹液に集まる虫のようだろう。

 

味は……別に不味くはない、といったところか。火もちゃんと通ってるし。とりあえず全部焼いてみました感が出ているのさえ気にしなければ問題なく食えるだろう。

 

会長も似たような事を言いながら羽瀬川に話しかけている。どうやら羽瀬川の生徒会への勧誘はまだ諦めていないようだ。

 

何かと話しかけては、羽瀬川を困らせ、副会長に諫められている。端から見ていると、十年来の既知の間柄のようなパターンが既に出来上がっているように思えた。

 

 

「……死ねばいいのに」

 

 

不意に、ぼそりと呟きが聞こえた。

 

大勢の人間がいる空間でも、ふと静かになる瞬間がある。

 

その瞬間を狙って示された明確な敵意。あるいは悪意。

 

発生源は、黒髪鬱美人。

 

その昏い双眸は何を見ているのか。

 

 

強い光はより強く陰を落とすものだ。

 

虐げられた者、負い目引け目のある者は、その陰へと追いやられ――あるいは自ら進んで――深みへと嵌っていく。

 

世間はそれを日陰者と後ろ指さし、なんなら前からも指す。

 

確かに危険人物も多いからある一面では理解できなくもない。

 

いつだったか、クラスの最低カーストに属する奴が火炎瓶の作り方とか調べてたし。

 

指さし確認は大切だよね。KY活動KY活動。くうきよめない、じゃないよ?

 

ともあれ、中には好きこのんでそこへ行く者もいるのだから一緒くたにするのは控えて欲しい。

 

むしろ俺レベルとなると暗くてじめじめしたところにいた方が能力を発揮できるまである。フ……やはり闇は心地好い……。

 

いやほら、あれだから。もやしも日光に当てると逆に細胞が貧弱になるのと一緒だから。中二病じゃないから。シャキシャキしないもやしに価値なんてないだろ?

 

まぁ俺の話はいい。

 

俺はもう日陰者とかヒカレガヤとか何と呼ばれようが構わないし、気にもしない。そういう事を冗談ではなく本気で言うような奴は、こちらが反応しなければすぐに飽きるからな。

 

だが、気にしてしまう者は。自ら陰へと沈んでいく者は。

 

日陰者だと自覚したことに傷つき、そんなことで傷ついた自分にさらに傷つく。

 

負の連鎖が続くうちにやがてその陰は凝り、敵意や悪意へと変貌し、最終的には害意となる。

 

その害意の対象がどこへ向くかは誰にもわからない。恐らく、本人でさえも。

 

 

一気に氷点下まで冷え込んだ空気を変えるように、副会長が次を促す。

 

そのおかげで、一応は進行は再開されたが、気まずい空気はそう簡単には払拭できない。

 

居心地が悪過ぎる。

 

さっさと食べてしまって早く終わらせたい。俺は生徒会のが終われば後は見てるだけだし。

 

もうおざなりにいこう。

 

一品目、抹茶。完全に粉をお湯で溶いただけ。作った(?)のは赤髪ロリ。まあ普通に美味い。ほぼ既製品だし。

 

二品目、どうして調理室で作ろうと思ったのか想像できないフライドポテト。作者は副会長。美人。

 

三品目、会長が作った、ネギやセリ、ミョウガにシソなどの薬味満載のお粥。誰か風邪引いたの?

 

以上、生徒会の皆さんでしたー。

 

 

ようやく奉仕部の番である。

 

俺はこの後必ず食べなければならないものは無いので、箸やフォークを脇に寄せておく。食器はもう片付けておこう。

 

最初に消費された俺のヘルシーナチュラルオーガニックサラダのことはいい。誰に対しても何に対しても何の影響もない。

 

雪ノ下のゆりゆりみそ汁は、やはりと言うか当然というか好評である。

 

美味い美味いと口々に褒められている雪ノ下は泰然としつつもどこか得意げで微笑ましい。

 

百合根に興味を持った会長が雪ノ下に調理のコツ等を2、3質問した後など、溢れんばかりのドヤ顔を俺に向けてきたぐらいだ。

 

たぶん雪ノ下の中では何かしらの勝負が繰り広げられていたのだろう。

 

だがそれですら単なる前座でしかない。

 

全ての流れは、加速度的に収斂して行く。

 

 

 

見えてる地雷を前に、流石の元気溌剌エネドリ会長でさえ顔が引きつっている。

 

ノリアキは露骨に嫌そうな顔をしていて、羽瀬川に至っては無表情だ。

 

誰しもが動くに動けず、膠着状態が続く。

 

その隙に、と言うわけでもないだろうがいつの間にか由比ヶ浜がすぐ傍に来ていた。

 

由比ヶ浜は後ろから俺の肘あたりを引っ張る。

 

俺はびっくりして驚いた。振り返った。

 

「ヒッキー、ちょといい?」

 

小声で話しかけてくる由比ヶ浜の顔が思いの外近くて更に驚く。なんでこいつはこうも距離が近いのか。

 

髪が触れそうな距離に図らずもドキドキしてしまう。動揺してるの? 緊張してるの?

 

「どうした?」

 

「このままじゃさ、なんか進まないっぽいからあたしのはもう食べなくていいんじゃない?」

 

どこか諦観にも似た表情を滲ませながら言葉を続ける由比ヶ浜

 

「料理部のあの状態を見たら、今回もダメだったのはわかるし……」

 

「まぁ、それはそうだろうな」

 

恐らく、いや、確実に全員がわかっていることだ。

 

もはや暗殺、毒殺の体をなしていない。ここでやめることも選択肢としてはアリか。

 

ちらりと雪ノ下を窺うと、何事か察したのかはたまた聞き耳を立てていたのかは知らないが、こくりと頷く。

 

そもそも事の発端は完全に悪ノリであったのだ。これ以上由比ヶ浜にこんな表情をさせるのは筋違いというものだ。

 

「確かにこのままじゃ埒が明かないしな。奉仕部は棄権ってことにするか」

 

横の三人にも聞こえるように言う。

 

羽瀬川とノリアキはあからさまにほっとするが、会長だけは難しい顔をしている。

 

「待て、それでは『公平な評価』を下せないだろう」

 

……なんとまあ、律儀というか生真面目な人だな。

 

周囲の視線が自身に集まると同時に、会長は言う。

 

「私から食べよう。皆はその上で判断するといい」

 

……かっけぇ。やばい、この人、格好いいぞ。

 

「か、会長……」

 

羽瀬川もノリアキも憧れの眼差しを会長に向ける。

 

会長は頷くと、フォークを持ちアノリョウリへと手を伸ばした。

 

刹那、またしても冷めた声がする。

 

「偽善者め」

 

ピシリ、と空気が凍る音が確かに聞こえた。

 

「そんなゴミ、どうせ不味いんだから捨てればいいだろうに」

 

……あー、なんつーか、今更俺が言うのもなんだけどさ、ちょーっとそれは失礼なんじゃないですかね。

 

由比ヶ浜は薄い笑みを顔に貼り付け困ったような顔をしている。それを見て瞬時に、ほとんど反射的に決意が固まった。

 

「……おい、せめてそういう事は食ってから言えよ」

「三日月さん、よく知りもしないものを批判するなんておかしいと思わないの?」

 

俺の台詞とほぼ同時に雪ノ下が言葉を発する。

 

「ゆきのんっ!」

 

雪ノ下の助け船に歓喜し飛びつく由比ヶ浜。あれ? 俺も似たような事言ったよね? なんで俺には飛びつかないの? いや飛びつかれても困るんだけどさ。

 

うるさそうに身をよじる雪ノ下だが本気で嫌がっているようには見えない。……だからちょっと頬を染めてんなよ。

 

まぁ仲睦まじいのは結構なことだが、でもこれってあれだよね。あのパターンだよね。

 

「ちゃんと食べて、知ってから酷評するのが道理ではないかしら」

 

「酷評するのは確定なんだ!?」

 

いやいやお前驚いてるけど上げて落とすのは雪ノ下の常套手段だろ。俺の場合は上げられもせずに落とされっぱなしだけどな。

 

っていうか完全に俺の発言はなかったことにされてるな。

 

「そのつもりよ。あなたも言ったように、料理部の反応を見れば想像に難くないわ。……私は審査員ではないから私の評価になんの意味もないけれど」

 

言いながら一瞬だけ俺の方に視線を送る。

 

……なかったことにされてはいなかったらしい。

 

お前に言われなくても、そうするつもりだっつーの。

 

雪ノ下は由比ヶ浜を引き剥がすと、黒髪鬱美人を真正面に見据える。

 

「それでもちゃんと食べて、ちゃんと評価するわ」

 

「ふん、そうまで言うなら今食べてみろ」

 

黒髪鬱美人は若干たじろぎながらも対決の意志を見せる。

 

「ええ、もちろんよ」

 

雪ノ下はつかつかと俺の目の前まで来ると、机の端に置いておいたフォークを掴み、皿に手を伸ばす。

 

「ちょっ、雪ノ下、待て

 

俺の静止も聞かず、パクリと一口食べてしまった。

 

「それ……俺のフォーク……」

 

俺の呟きは誰にも聞こえず、ただただ空気に染みこむだけであった。

 

由比ヶ浜さん……いくらなんでもこれは酷いわ……。今までで、一番酷い。最低、いえ、最悪ね」

 

近くの椅子に倒れ込むように座りながら、息も絶え絶えにそう評す。

 

「ご、ごめん、ゆきのん」

 

予想以上の酷評だったのか、ほとんど泣きそうになりながらも謝る由比ヶ浜

 

「……だから、次は一緒に改善策を探しましょう」

 

「……うん!」

 

由比ヶ浜はまたしても泣きそうになりながら頷く。

 

そんな二人の姿を、黒髪鬱美人はただひたすら昏い目で見ていた。

 

事態は流れ続ける。

 

雪ノ下は幾度も由比ヶ浜の料理を食べていた経験からか、そこまで深刻なダメージを受けている様子はない。

 

対して俺は、体が思うように動かない。

 

覚悟は決めたものの、木炭クッキーのあの衝撃的な刺激を体が覚えていたらしい。

 

体が脳からの指令を拒絶している。

 

「ヒッキー……」

 

……ああもう、そんな子犬のような目で見るなよ。

 

「嫌だったら食べなくても……いいよ……」

 

「既に一杯食わされてるんですが……」

 

いたいけな視線といじらしい台詞に耐えきれず、軽口がついてでた。

 

「へ? まだ食べてないじゃん」

 

本気で訝しがる由比ヶ浜の横で、雪ノ下が一瞬クスリとしたが慌てて口元を引き締める。

 

努めて無表情を装ってはいるがまだ僅かに口の端が緩んでいるので内心ニヤついてるのはバレバレである。

 

「そうよ比企谷くん、何を言っているの? まだ食べていないでしょう?」

 

「お前はわかって言ってんだろ。この状況作ったのはお前なのに何食わぬ顔してんじゃねえよ」

 

ふい、と顔を逸らし目を瞑ってぷるぷると肩を震わせる雪ノ下。

 

ああ、そうなんですね。雪ノ下さんこういうの好みなんですね。ちぃ覚えた。

 

「……私は食べたわよ。そんな顔はしていないわ」

 

「それもわかって言ってるな。ホント、食えない奴だな」

 

「そ、それでうまいこと言ったつもりかしら」

 

「いや、どう考えてもまずいだろ」

 

アノリョウリを指差しながら言うと、雪ノ下はとうとう堪え切れずにぷっと吹き出す。

 

ツボに嵌ってしまったのか喉の奥でくつくつと笑い続けている。

 

よし、勝った! ……雪ノ下に謎の勝負に勝ったところでどうにもなりはしないんだけどね。そもそも勝負なのかもわからないし。

 

ひとしきり笑ってようやく落ち着いた雪ノ下は、取り繕いながらもきっちり命令してくる。

 

「んんっ……比企谷くん、訳の分からない事を言っていないでやるべき事をやりなさい」

 

君は、死ねと命じられたら死ねるか?

 

死にたくありませぇん!

 

俺が調査兵団に入団していると、すぐ傍から消え入りそうな声が聞こえる。

 

「まずいとか……わかってるけど……ヒッキーひどいし……」

 

……もちろん死にたくはない。

 

でも、死ななきゃいけないときもあるのかもしれない。

 

まぁ、元よりそのつもりだ。

 

それに昔から孤独な学校生活を送ってきていろいろな罵倒や顰蹙、軽蔑に嘲笑を受けても折れずに生き残ってきたのだ。

 

蠱毒的なノリで毒に耐性が出来ていてもおかしくはない。

 

なんだかんだ言っても一度由比ヶ浜の木炭クッキーを食べた事があるのだ。あの時と同じと考えればどうにかなるだろうそう考える事にしようよし覚悟完了

 

「はい、比企谷くん」

 

ずっと持ったままだったフォークを差し出してくる雪ノ下。逃げるなってことですね。

 

てかそのフォーク……いや、今更言えない。気付かせたらたぶん俺が酷い目に遭う。

 

「へいへい。食べますよ、食べりゃいいんでしょ」

 

雪ノ下は超嫌そうに受け取る俺を見て柔らかく微笑む。何? 俺が苦しむところを見るのがそんなに嬉しいの? 性格悪過ぎだろ。

 

「初めから食べるつもりだったくせに」

 

少しだけ顔を寄せて、悪戯っぽく小声でそう言う雪ノ下。

 

「……俺をドMかなんかと勘違いしていないか? それはただの勘違いだ」

 

「あら、ではなぜお皿は片付けたのにフォークは残しておいたのかしら。しかも随分と取りやすい位置にあったけれど」

 

「……お前は日本文化を勉強し直せ」

 

「言わぬが花、と言いたいのかしら? 万事が万事そうとは限らないわよ。そうよね? 由比ヶ浜さん?」

 

「う、うん。……ヒッキー、ありがと。やっぱり優しいんだね……」

 

ぽしょりと呟いたその言葉は聞こえるか聞こえないかの微かなものだった。

 

だから、俺はこう答える。

 

「優しくは、ないな」

 

意を決して一口。

 

俺は塩の歴史へと想いを馳せ、そして雪ノ下に引き戻される事になる。

 

「おかしい、どうしてこうなった」

 

言うなれば、それは柔らかい岩塩。もちろん岩塩をそのまま食った事などないが、恐らくきっとたぶんもしかしたら確実にこんな感じ。

 

決意や覚悟だけではどうにもならないのが再確認された。再確認したところでそれを決意や覚悟でどうにかしなければならないのが現状でありしかしやはり決意や覚悟ではどうにもならない事は既に再確認されているがそれをどうにかするのが……

 

アカン、こんらんしてきた。

 

しかも何故か涙か出そうになる。汗も止まらない。体が塩分の排出を求めているのだろう。

 

こんなに泣きそうになったのはあれだ、金剛ちゃんが轟沈したとき以来だ。

 

というかあのときは本当にちょっと泣いた。2-4のボス強過ぎだろ。

 

でも大丈夫。俺ももうすぐそっちに、ヴァルハラにいくから。もう寂しい想いはさせないよ……。あと残り3口で逝くからね……。

 

逝きます! ファイヤー!

 

「な、泣くほどなのか……」

 

完食し、金剛ちゃんにまだ早いとヴァルハラから追い返された俺の横で、羽瀬川が呟く。

 

「……そうだな、泣くほどだ。……泣くほど上手いぞ」

 

食べた上での俺の評価。そもそもが主観である以上、事の真偽はどうでもいい。

 

重要なのは雪ノ下や会長の言葉を借りれば、『公正な評価』が出来るのは現状俺だけであるということだ。

 

つまりこれを覆すためには、必ず食べる必要があるということだ。

 

そして、食べたところで耐え切れるかは微妙であり、仮に耐え切れたとしても戦力低下が見込める。

 

どちらにせよ、奉仕部に有利な状況だ。

 

転んでもただでは起きない、むしろ一緒に転ばせる。下衆な作戦をとらせたら俺の右に出る者はいない。

 

たぶん今の俺は普段より20割は目が腐っている。え? 20割って言わない? 知ってたしってた。

 

雪ノ下が食べてしまったのは予定外であり想定外ではあったが、耐性があったため奉仕部としての損害はそう酷くない。俺は元から戦力外なので問題無し。

 

ここで羽瀬川を脱落させれば御の字、勝ちを得るだけでも雪ノ下の体力は消耗していないため結果的にプラスとなるのだ。

 

しばらく三人は無言での牽制をし合い、泥試合の様相を呈していた。

 

その横で俺は先程から水を大量に飲んでいる。お水おいしい!

 

「無理して全部食べなくてもよかったのに……」

 

「……別に無理はしてねえよ。本当に食えないような物だったら食わねえし。だいたいあれだ、出された料理を残すなんて将来誰かに養われたときに愛想尽かされちゃうだろ」

 

「ついに家事もしなくなったのね……。それもう完全にヒモじゃない……」

 

「あ、あはは……。でも、ヒッキー、ありがとね」

 

「やめろ。今回は本当に礼を言われる筋合いはない。むしろ悪かったのは俺だ」

 

「そうね……私たちが悪ノリしたせいであなたを晒すようなことになってしまって……。ごめんなさい」

 

「それでも、あたしは嬉しかったよ。だから、ありがとう」

 

由比ヶ浜さん……」

 

またぞろ百合世界に突入する流れだなこれ……。お水おいしい!

 

「……ところで由比ヶ浜。一応聞いておくが、なんでこんなに塩を入れようと思ったんだ?」

 

「あ、それはね、たまごの泡立ちが良くなると思って。ふんわりしてたらおいしそうじゃん?」

 

得意げに言うなよ。その自信はどっからくるんだよ……。

 

「確かにメレンゲを作る際には入れることもあるけれど……どうしてこの子はピンポイントで必要性のない無駄な小技を知っているのかしら……」

 

「違うだろ雪ノ下。そこじゃないだろ。そもそもなんで泡立たせようとしたのかが問題だろ」

 

「いえ、そこを突いてしまったら深みに嵌るから。スルーが正解よ」

 

「そうですか……」

 

誰か雪ノ下に由比ヶ浜検定一級をあげて下さい。

 

事態は唐突に流れる。

 

最初に動くのはやはり、会長。

 

食べるといった手前引けなかったのだろう、ついにアノリョウリを口に運んだ。

 

口に入れた瞬間、一瞬肩が跳ねたがその後は目を瞑り静かに咀嚼を続けている。

 

彼女の細い喉がこくりと僅かに動き、嚥下運動が確認されたと同時に、得も言われぬ感動が胸の裡を走る。お水おいしい!

 

すげえ……流石だぜ会長……乗り越えやがった……。

 

だが、再び目を開けた会長にはさっきまでの闊達とした雰囲気は既にどこにもない。

 

無機質な声で「外の空気を吸いたい」と言い残し窓から出て行ってしまった。

 

え、窓から!?

 

副会長たちが慌てて追いかけると、その手のマニアたちもその後を追う。

 

とにかく、ここが一階で本当に良かった……。

 

生徒会がいなくなり、観客すらいなくなった。

 

再び流れが止まると思われたが、会長の様子を見て何か悟ったような顔をしたノリアキが後に続く。

 

彼は聖泉に呑まれ、星になった。

 

部員という名のイスラに運ばれて、世界の果て(保健室)を目指すのだろう。お水おいしい!

 

由比ヶ浜の毒殺スキルの百発百中で一撃必殺の壊れっぷりに驚きを隠せない。ここまできたらむしろ誇っていいかもしれない。

 

もちろん、当の由比ヶ浜は誇らしげな表情などはしていない。

 

……これで、残るは本来の標的である羽瀬川のみである。

 

「羽瀬川、お前で最後だぞ」

 

無性に早く終わらせたくなっていた俺は羽瀬川を促す。

 

「あ、ああ……わかってる」

 

羽瀬川も、もはや逃げ道はないと悟ったのか恐るおそる由比ヶ浜が作ったカルボナーラをフォークに巻き付けていく。

 

油の切れた機械のようにギクシャクとした動きを見て、由比ヶ浜が声をかける。

 

「羽瀬川くん、無理に食べなくてもいいんだよ? 食べなかったらあたしたちの勝ちになっちゃうけど……」

 

「い、いや、大丈夫だ。ちゃんと食べる」

 

そう答えたものの、なかなか動けずにいる。

 

無理もない。目の前で大量の人間が大なり小なりおかしくなっているのだ。致死率で言えば8割を超えているからな。

 

目を瞑って何度か頷いたあと、かっと目を見開き、ついに食べようとした。

 

食べようとした、その瞬間。

 

ぱしっ、とその手がはたかれる。

 

はたかれた手からフォークが飛び出し、はたいた手が慌ててそれを追うが、床に落ちる金属音がした。

 

次いで聞こえたのは、ぐちゃ、という何かが潰れるような音。

 

あまりの出来事に、誰もが固まった。

 

それを引き起こした、黒髪鬱美人自身ですら。

 

 

 

「夜空……あんた、何やってんのよ……」

 

金髪ビッチが呆れとも同情ともつかない声を出す。

 

「……三日月さん、それは、どういうつもりかしら」

 

次いで、雪ノ下の声がした。

 

怒りに震え、今にも飛び出して掴み掛かりそうな声音だ。

 

冷静な振りして意外と感情的な雪ノ下だが、あそこまで怒っているのは初めて見る。

 

かく言う俺も、今現在は冷静だとは言い切れないが。

 

「悪い! 俺の手が滑ったんだ!」

 

一触即発の雰囲気に慌てて取りなす羽瀬川の声。

 

それならいい。例えわざとだとしても、それだけならまだ許せた。

 

しかし、それだけではなかった。

 

「そう。ではなぜ、由比ヶ浜さんの料理が床で潰れているのかしら」

 

「ち、違う……私は、踏むつもりなんて……」

 

猛烈な怒気を孕んだ追及に戦きながら答える黒髪鬱美人。

 

その様子から察するに、はたくだけのつもりだったのだろう。踏んでしまったのは偶発的なことだったのだろう。

 

それでもやったことには変わりない。起きてしまった事は変えられない。

 

決して、変えられはしないのだ。

 

「謝りなさい」

 

「……」

 

「聞こえているでしょう? 謝りなさい」

 

「……」

 

「……謝る事も出来ないのね。あなたみたいに劣等感が人の形を成したような人間には幾度も出会ってきたけれど、ここまで下劣なクズは初めてだわ。

どうしてそんなふうに生きていけるのか理解に苦しむわね。したくもないけれど。ほんの僅かな知能と自尊心があれば絶対にあなたみたいには生きていけないのだけれど」

 

いつも以上に、そして過剰に口汚く罵る雪ノ下。

 

「雪ノ下、やめろ」

 

お前がそんな口を汚す必要は無い。何より、そんなお前を由比ヶ浜に見せたくない。

 

俺が止めに入ると、僅かに哀しそうな顔をして雪ノ下は矛先をこちらに向ける。

 

「比企谷くん……何故止めるの? あんなことを見て何も思わないの? ……クズだクズだとは思っていたけれど、ここまでとはね。ほんの少しでもあなたを信頼していた私が馬鹿だったわ」

 

「ゆ、ゆきのん! あたしは大丈夫だから! 気にしてないからそんなに怒らないで!」

 

「いいえ、怒るわ。大切な友人がここまで虚仮にされて怒るなと言うのは無理な話よ」

 

大切な友人。

 

そうだ。

 

あいつは、雪ノ下は由比ヶ浜の事をそう思っているからこそ、いつになく激高しているのだ。

 

なら、黒髪鬱美人は。

 

「なあ、なんでお前はそんなことをしたんだ?」

 

何を思って、何を感じて行動を起こしたのだろうか。そう考えたときには既に言葉を発していた。

 

流れを断ち切って放たれた質問に全員の視線が集まる。

 

その無言の圧力に、押し黙っていた黒髪鬱美人が躊躇いがちに口を開く。

 

「あの糞生徒会長やそこのビッチが小鷹にベタベタと馴れ馴れしくするから、妬ましくて……」

 

後半になるにつれどんどん小さくなっていく声。それでも、確実に聞き取れる程度の大きさだ。少なくとも、俺には聞こえた。

 

それなのに羽瀬川は。

 

「……え? なんだって?」

 

「小鷹……お前は……。……なんでもない……もういい」

 

羽瀬川の反応に、黒髪鬱美人の表情は抜け落ち、再び黙りこくる。

 

あんなことまでしでかしてしまった嫉妬心。純粋に羽瀬川を助けたいという気持ち。

 

それらは確実にそこにあったのだ。

 

それを、こいつは。

 

黒髪鬱美人に感じたものとは別の種類の怒りがこみ上げる。

 

「おい、羽瀬川。聞こえなかったんなら俺が言ってやる。三日月は、会長や由比ヶ浜がお前と仲良さそうに

 

「やめろ!」

 

俺の台詞を途中で遮るように叫ぶ。

 

やはりこいつは、わかってやっている。

 

中途半端な関係でいたいだけなのだ。

 

先に進もうとする黒髪鬱美人。

 

それをなかったことにする羽瀬川。

 

あらゆる変化を恐れ、認めず、選択もしない。

 

変わってしまったら、もう戻れない。得てしまったら、いつか失ってしまう。

 

起きてしまったことは変えられない。事実は動かせないし、発言も撤回できない。

 

その恐怖も痛みも理解できる。俺だってそれは怖い。

 

だが、それが嫌なら、怖いのなら遠ざければいい。遠ざけるのが無理なら、自分が遠ざかればいい。

 

逃げるのだって立派な選択のひとつだ。

 

俺は、逃げるのが不誠実な事だとは思わない。それが、相手からの行動を受けて、それに対する回答なのだとしたら。

 

こいつがやっているのはそうではない。

 

関係を動かす事実の抹消、先送り、引き延ばし。

 

相手が起こした行動そのものを無かった事にしているのだ。それは無視ですらない。

 

相手の感情も、自分の感情すらもなかったことにする、残酷で、不誠実で、不愉快極まりない最悪の行動。

 

……この感じ、なんだろうな。

 

きっと、こいつのやり方を認めてしまえば楽なのだろう。

 

それでも、こいつ様子を見ていると、なんかこう、もやもやするんだよ。

 

だってそれは俺が憎んだ詐欺で欺瞞な日常そのものじゃねえか。

 

表面上やってることは俺も大差ないのかもしれない。

 

俺もこいつら同じなのか?

 

違う。

 

違わなければいけない。

 

自分がそう思ってしまうのも、誰かにそう思われるのも、俺はごめんだ。

 

「……で、どうするんだ? 食うのか?」

 

羽瀬川に問いかける。

 

もし、由比ヶ浜の料理を食べれば黒髪鬱美人、いや、三日月の行為を、好意を無碍にする事になる。

 

逆に食べなければ、それを少しでも汲む事になる。

 

「選べるのか、お前に」

 

図らずも言葉が出てしまう。全く冷静ではない自分を自覚しながらも止められない。

 

「…………俺は、たべ

 

「食べなくていいわ」

 

答えかけた羽瀬川の言葉にかぶせて柏崎が言う。

 

「一勝くらいくれてやってもいいわ。ただ、今までは雪乃ちゃんに遠慮してたけど、今後は全力でいかせてもらうから」

 

「あら、手加減していたと言うのかしら。舐められたものね」

 

「だって、雪乃ちゃん負けず嫌いでしょ? 全力でやったらたぶんあたしが勝っちゃうし」

 

「……言ってくれるわね。いいわ、次の種目のルールはあなたたちだけで決めなさい。それでも私たちは負けないから。二人とも、それでいいかしら?」

 

柏崎の発言は気遣いなのか挑発なのかは定かではないが、もちろん雪ノ下は後者として受け止めたようだ。

 

「あたしは、ゆきのんがそれでいいなら。あたしだって、負けるつもりはないけど」

 

「最初の約束、忘れてないでしょうね。あたしが勝ったらあんたは雪乃ちゃんの前から消えなさい」

 

由比ヶ浜さんは『あんた』ではないわ。気をつけなさい」

 

「ゆきのん大丈夫だよ。あたしは気にしてないから。それよりもちょっと落ち着こう?」

 

ますます激高する雪ノ下をどうにか落ち着けさせようと試みる由比ヶ浜

 

それを見て、柏崎の目が嘲りの色を見せる。

 

「あんた名前ですら呼んでもらえてないのね。本当に仲が良いのかしら、由比ヶ浜さん?」

 

その言葉に、一瞬だけ僅かに顔を歪める由比ヶ浜

 

……隣人部は、揃いもそろって、どこまでいっても俺の敵のようだ。

 

「呼び方だけが仲の良さの指針じゃねぇだろ。ギャルゲーと一緒じゃねぇんだよ」

 

「はぁ? うっさいわね。モブがあたしに意見するなんて何様のつもり?」

 

「モブ様に決まってんだろ」

 

まぜっかえして答えると、柏崎は苛立ちを見せる。

 

「で、あんたは雪乃ちゃんの案に賛成なの?」

 

苛つきながらも雪ノ下の意志にだけは沿うらしい。

 

「……俺もなんでもいい。お前が勝ったとしても恥ずかしくないルールならな」

 

俺の答えを聞くと、話は終わりだとばかりに鼻を鳴らして、雪ノ下に粘着質な視線を向けている三日月の方を向く。

 

「決まりね。移動するわよ」

 

調理室の片付けを終え、今は移動中である。

 

「ゆきのん、そんなに怒らないで。少し落ち着こうよ」

 

未だ怒り冷めやらぬ様子の雪ノ下に恐るおそる声をかける由比ヶ浜

 

そんな由比ヶ浜を見て、雪ノ下は大きく深呼吸する。

 

「気を遣わせてしまったみたいね。ごめんなさい。もう大丈夫よ」

 

いくらか穏やかな声を聞いてほっと胸をなで下ろす由比ヶ浜

 

「良かった。一応勝てたんだし、ホントにあたしは気にしてないからね」

 

料理大会は4グループの内、3グループが脱落・棄権したため、残った奉仕部の勝利となった。

 

現在の戦績は4対2。俺たち奉仕部が勝利に王手をかけている状態だ。

 

しかし戦況は有利に進んでいるとは言え、雪ノ下の残りの体力を考えると次で決めなければならない。

 

彼女の体力が尽きてしまえばジリ貧となり、恐らく、負ける。

 

つまりは、次が最終決戦となるのだ。

 

目的地は、体育館。

 

体育館となると、場所を取るもの、安直に考えればスポーツ系だろうか。

 

ぱっと思いつくのはバレー、バスケ、あるいはバドミントンあたりか。

 

バドミントンはともかく、前二つはちょっと自信ないな……。集団競技だし。

 

特にバスケは駄目だ。なんかリア充っぽいし、諦めの早い俺はすぐに試合終了しちゃう。

 

あとあれ、travelingもするな、絶対。

 

なんてくだらない事を考えていないと、先程の事を思い出して俺まで怒りに支配されてしまいそうだ。

 

怒るのは雪ノ下に任せて、俺は冷静で正確な状況判断に努めるべきだ。

 

無論、勝つために。

 

到着。

 

この学園の体育館は通常の学校に比べてかなり大きい造りになっている。

 

重たい鉄扉を開けると、思わず怒りも忘れて唖然としてしまった。

 

「これは一体、どういう状況かしら……」

 

「すごい光景だね……」

 

俺たちが見たものは、色とりどりに彩られた人、人、人。

 

中には人でないものまでいる。

 

夏と冬の某大型イベントもかくやという程のコスプレした人々。

 

それらが、飛んだり跳ねたり走ったりしている。応援している人ももちろんコスプレしている。

 

「ディスティニーランドだってここまでじゃねえだろ……」

 

「比企谷くん、一応言っておくけれど、パンさんたちはコスプレではないわよ? もちろんゲストの事を言っているのよね?」

 

「は、はい! もちろんです!」

 

多少落ち着いたとは言え、普段より遙かに不機嫌度が高い。そんな雪ノ下がにっこりと笑いかけながら言う様は有り体に言って、超怖かった。

 

パンフレットによると、ここは本日の目玉『コスプレ運動会』なるもののメイン会場だそうだ。

 

参加者は元より、観戦者までもがコスプレを強いられるという徹底ぶりに軽く引く。

 

校内の異様なレイヤーの数はこれが原因らしい。

 

広大な体育館内で行われているのは、予想していたバレー、バスケはもちろん、卓球やフットサルなどメジャーなものから、ペタンクやスカッシュ、超短距離障害物競走に半径5メ

 

ートルリレーなどマイナーであったり外でやれよというものまである。他にも意味不明なものが数多くあるが、ぬるぬる借り物競争や妄想騎馬戦などは無視していいだろう。むしろ

 

そうするべきだ。

 

これだけ多種多様な競技があるのだ。当然、人気のあるものとそうでないものが生まれる。

 

なかでも、隅に追いやられ、一際人気のないものがある。

 

10メートル程度の間隔で線が引かれ、その中央にポール付きの輪が立てられている。ポールの傍には篭に入れられた硬球とグローブがあった。

 

競技名は『キャッチボール』。

 

……まんまだな。これだけ適当過ぎんだろ。もうちょっとヒネってやれよ。俺の文化祭クラスTシャツかよ。

 

確かにこれじゃ他の競技に人が流れるのも納得だ。

 

だが、柏崎はこれに目を付け、隅へと歩いて行く。

 

「これにするわ」

 

全員首肯する。特に異論はないらしい。

 

「ここなら、注目されてないから雪乃ちゃんが恥をかかなくて済むし」

 

柏崎の台詞にひくりと雪ノ下の頬が引きつる。奴は奴なりに雪ノ下の事を気遣っているのだろうが、結果としては完全に挑発でしかない。

 

「……お気遣いどうも。けれど、あなたの保身のダシに使わないでもらいたいわね」

 

おーおー、キレてるキレてる。……いやマジでこれ以上挑発しないで下さい。本当に怖いんだよ……。

 

「……まぁいいわ。それで、ルールは?」

 

「えーっと、とりあえず必ず輪を通す以外は線から普通に投げ合って、3回取りこぼしたら勝ち抜き形式で交代って感じでいいんじゃないかしら」

 

「輪に当たって落ちた場合は?」

 

「その場合は無効ね。相手の投球からやり直しで」

 

「了解したわ」

 

ルールが決まり、全員にボールとグローブが行き渡る。

 

「では、こちらからは私が出るわ」

 

柏崎の挑発にまんまと乗せられている雪ノ下が確認もせず前に出る。

 

こうなることは俺も由比ヶ浜も予測していたので特に驚きはない。

 

「三日月さん、さっきから気になっていたのだけれど、何か私に不満でもあるのかしら。言いたい事があるなら聞いてあげるわよ」

 

「……聞いてあげる、だと? 傲慢な女狐め……」

 

「傲慢? あなたのその卑屈なフィルターを通せばなんでもそう映るでしょうね」

 

「貴様……」

 

「せっかくなのだし、この競技でケリをつけましょう」

 

「ふん、そんなことして私になんのメリットがあるというのだ。貴様一人で勝手に盛り上がっていろ」

 

「……やる気が無いというのなら、こういうのはどうかしら。勝った方が相手に何でも命令出来るというのは?」

 

「何でも、だと?」

 

「ええ、何でもよ」

 

雪ノ下の言葉に、ニヤリと邪悪に口の端を歪める三日月。

 

「そうか。そうまで言うなら勝負してやろう。ルールは先程肉が言っていたものでいいな?」

 

「交渉成立ね」

 

対する雪ノ下も、凄惨なまでに美しく微笑んだ。

 

「なんでも命令出来るって……ゆきのん、大丈夫?」

 

「何も問題は無いわ。ゆい……がはまさんは、私を信じてくれてればいいのよ」

 

「ゆきのん……。うん! もちろん信じてるよ!」

 

誰かに言われた何かを気にしていたのか何かを言いかけた雪ノ下。

 

由比ヶ浜ももちろん察しただろうが、あえてそこには触れないようだ。

 

……本当に、素直になれない奴だな。

 

「比企谷くん、気持ち悪いからニヤニヤしないでもらえるかしら。気持ち悪い」

 

「ちゃんと自覚してるから二回も言うな」

 

「自覚していたのなら改めなさい、この変態」

 

照れ隠しだからって変態はちょっと酷いだろ……。

 

「まぁともかく、気をつけろよ」

 

少し真面目な表情をしてから雪ノ下にそう告げる。

 

「三日月はかなり俺と近い匂いを感じる。ルールがザルな以上、確実に姑息な手を使ってくるはずだ」

 

対三日月戦で最も懸念される事だ。これまでの言動を鑑みるに奴はどんな誹謗中傷をも全く厭わずにやってくるはずだ。

 

それも最も効果的なタイミングに、最も悪辣な手段で。

 

正攻法では間違いなく雪ノ下に軍配が上がるだろうが、だからこそこいつは全く想像もしない事には比較的弱い。注意を促しておくべきだろう。

 

不安要素は他にもあるが、それらはわざわざ俺が言うまでもなくわかっているはずだ。

 

「ふむ、あなたがそれを言うと、とても説得力があるわね」

 

「含みのある言い方だな」

 

「ふふっ、そうかしら」

 

……楽しそうですね。

 

「ご忠告ありがたく受け取っておくわ。では二人とも。……行ってきます」

 

「うん! 行ってらっしゃい!」

 

「……ああ、行ってこい」

 

俺たちを残し、雪ノ下が位置へと向かう。

 

「ゆきのんったら『行ってきます』だって。しかもゆいって……へへ……」

 

「……だらしのない顔だな」

 

「ちょっ、それ失礼だし! そんな顔してないし! ……それにヒッキーだって……へへ」

 

「…………だらしのない顔だな」

 

「また言った! もう! ヒッキーまじキモイ!」

 

なんか懐かしいな、それ。普段から罵倒され過ぎてその程度じゃなんとも感じなくなってるな。

 

「ああ、それはもういいから。キモくていいから。始まるみたいだし静かにしてろよ」

 

「……なんか慣れちゃってるし。……複雑」

 

二人が位置に付き、相対する。

 

コイントスの結果、先攻は雪ノ下。

 

「始めに言っておくけれど、私は輪の中央にしか投げないわ」

 

「……どこまでも傲慢な奴め。……調子にのっていられるのも今の内だけだということを覚えておけ」

 

「肝に銘じておくわ」

 

不適な笑みを浮かべながらそう言い切ると、羽織っていたケープと脱ぎ捨て、次いで靴と脚絆も脱ぎ捨てると、やおら着物の裾をはだけさせる。

 

この世で最も美しい流麗な曲線だけを集めて構成したかのような、彼女の名のとおり雪のように真っ白に輝くその脚が、その太腿が、着物の隙間に見え隠れする。

 

柏崎の気遣い虚しく、いつの間にやら遠巻きに出来ていたギャラリー共がおおっとどよめく。

 

……野郎共が。美少女と見れば誰彼構わず集りやがって……。

 

誰かっ! 誰かここにレーザーポインタを持てぃっ!

 

まぁ、俺も凝視してるんですけどね。

 

雪ノ下は野郎共の歓声と不躾な視線にびくっと怯えたように身を震わせるが、それでも服を整えようとはしない。

 

ちらりと俺の方を確認しては目が合うと慌てて顔ごと逸らした。

 

「……みないで」

 

……そんな言い方されてもな。むしろ逆効果。

 

と思ったのも束の間、ぐりっと首を捻られる。

 

「ヒッキー、ゆきのんが、見ないでって」

 

「いやお前、下手したら今俺死んでたからね? ぐりっていいのは双子の野ねずみの青い方だけだ」

 

「何言ってるかわかんないし」

 

「とにかく手を離せ。雪ノ下のあの行動は不安要素の解消には欠かせないんだよ」

 

「……どういうこと?」

 

「見りゃわかんだろ。お前の裾の短い浴衣みたいなのと違って、雪ノ下の服装は着物ベースで運動に適していない。対する三日月はメイド服だ。あっちも本来のものからは改造されているだろうし装飾性を多分に付け加えられてはいるが、元々はメイド用、つまり軽作業をすることを前提に作られている。カルメルさんだって合理的な服装だって言っていたしな」

 

「カルメルさんっていうのが誰だか知んないけど……その差を少しでも埋めるためにああしたってこと?」

 

「そういう事だ。恐らくはその差こそがコスプレ運動会とやの醍醐味なんだろ」

 

「ふうん。でも、それとヒッキーが見なきゃいけない事になんの関係があるの?」

 

まぁ、関係無いんですけどね。

 

「それは、あれだ。……ほら、事態の趨勢を見極めなきゃいけないだろ。万が一って事もあるし。恐らく三日月は相当えげつないことを命令するぞ。お前は雪ノ下がそんな目に遭っ

 

てもいいと言うのか?」

 

「それはだめだけど……うゎひゃっ!?」

 

突然、乾いた音が鳴り響き手を離した由比ヶ浜が驚きの声を上げる。

 

見れば、苦悶の表情に顔を顰めた三日月のグローブからボールがこぼれ落ちるところだった。

 

「ふぅっ、まずは1ポイント先取ね」

 

「くっ……」

 

大きく息をつき余裕の笑みを浮かべる雪ノ下と、悔しげに呻く三日月。

 

完全に見逃していたが、初回の投球からポイントを奪ったのだろう。

 

「ふ、ふん、少し驚いてしまっただけだ。次からはこうはいかない」

 

「だといいわね」

 

負け惜しみに挑発を返す雪ノ下。その言葉を受けて三日月は可愛く言っても般若のような顔をする。

 

おいおい、曲がりなりにもお前も美少女なんだからそんな顔すんなよ……。怖ぇよ……。

 

「次は私の番だな」

 

捕りこぼしたボールを拾い、投球の構えに入る三日月。

 

その投げ方はオーソドックスなスリークォーター。

 

指先から放たれたボールは真っ直ぐ伸び、俺たちの方から見て輪の左側ギリギリを通過する。

 

コースを予測していた雪ノ下は危なげなくそれを回収。パシッ、と先程ではないまでも鋭い音が鳴る。

 

「コントロールには自信があるようね」

 

「……ふん」

 

その発言は暗に、それだけだ、と言っていた。

 

今日の雪ノ下は一味違う。

 

全ての言葉に刺と毒を仕込んで……まぁ普段からそうか。

 

「私の番ね。また中央に投げるわよ」

 

「いちいち言わなくていい。さっさと投げろ」

 

「そう……。では、お言葉に甘えて」

 

そう言った雪ノ下が二度目の投球に入る。

 

刹那、雷に打たれたような衝撃が走る。

 

それは、一度でも見逃した事を激しく後悔するようなものだった。

 

完璧なフォーム、完璧な体重移動、完璧な投球タイミング。完璧に、完全に、完成されたオーバースロー

 

世界は止まり雪ノ下以外は真っ白な背景へと変わる。その止まった世界は彼女の為だけに存在し、彼女だけが眩いばかりの色彩を放つ。

 

その服装も相まってか、まるで崇高な儀式舞踊を目の当たりにしているかのような錯覚さえ覚える。

 

俺はそこまで野球に詳しいわけではない。ごく稀に独り野球をやるか、千葉ロッテの試合を暇つぶしに見るぐらいだ。

 

その程度の野球知識しかない俺でもわかる程に、彼女の姿は美しく、そして洗練されていた。

 

投げる、というより、射出すると表現した方がより正確だろう。

 

宣言通りボールは輪の中心を切り裂く様に通過し、腰だめに待ち構えていた三日月の左手に突き刺さる。

 

「ぐっ……」

 

呻き声をあげた三日月は、またしても捕りこぼすかと思われたがなんとか堪えきったようだ。

 

「すごい……きれい……」

 

由比ヶ浜が夢うつつな声を出す。

 

「あたし、野球とかよくわかんないけど……ゆきのんがすごいのだけはわかった……」

 

「そうだな……。ありゃ圧倒的過ぎるだろ」

 

これなら、長続きもしなそうだ。弱点である体力もこの調子ならそこまで心配する必要はなさそうだ。

 

三日月の後には雪ノ下と同等、もしかしたらそれ以上のスペックを持つ柏崎がいるのだ。

 

早めに終わらせるにこしたことはない。

 

……残った羽瀬川は問題にもならない。あいつは役立たずだ。

 

三日月が投げ返す。端を狙った相変わらず精密な投球だが、明らかに球速が落ちている。

 

捕球時のダメージが残っているのだろう。

 

捕球こそ失敗しないものの、さらに2往復したときに至ってはその精密さも失われ、輪に当たり跳ね返ってしまい、ぽとりとポールの傍に落ちた。

 

「くそっ!」

 

苛つき、悪態をつく三日月。

 

「輪に当たったときは無効、だったわね」

 

「……わかっている。ボールは拾ってやるから位置についていろ」

 

「それはどうも」

 

少し頬が上気しているが、未だ疲れた様子のない雪ノ下。

 

対して、ボールを拾った三日月は既に疲労困憊であり、左手などは上げる事すら出来ないようだ。

 

「受け取れ」

 

「どうも」

 

三日月からボールを投げ、それを受け取る雪ノ下。

 

ふと、何か違和感を感じた。

 

だが、その原因を特定できぬ間に流れは進む。

 

雪ノ下が幾度目かの投球モーションに入り、変わらぬ威力で射出する。

 

今回も狙いを違わず中央を通過し、三日月まで到達する。だが、その後が違った。

 

三日月はグローブをした左手を上げかけたが、咄嗟に身を引いてそれを避けた。

 

「……どういうつもりかしら」

 

「……反応が遅れたのだ。あれでは間に合わない」

 

「……そう。今ので2ポイント。リーチね」

 

「うるさい! そんなことはわかっている!」

 

よほど悔しいのか声を張り上げる三日月。後ろに流れたボールを取りに行く。

 

「いい気になるなよ! 勝負はこれからだ!」

 

「……そうね、これから終わるのよ」

 

訝しがりながらもきっちり皮肉を返す事は忘れない雪ノ下。流石です。

 

……にしても、やはり何かがおかしい。何かを見落としているような感じがする。それも、致命的な何かを。

 

脳内に警鐘が鳴り響く。まずい、このままではまずい。

 

「ヒッキーどうしたの?」

 

焦りが顔に出たのだろうか、由比ヶ浜が覗き込んでくる。

 

……そうだ。これはチーム戦だ。独りで考え込む必要はないのだ。

 

誰かを頼るなんて全く慣れないことだが、そんなことを言っている場合ではない。

 

由比ヶ浜、何か違和感を感じないか?」

 

雪ノ下たちの方を見ながら尋ねる。

 

「何かって……何?」

 

「なんでもいい。気付いた事があったら言ってくれ」

 

「うーん……」

 

由比ヶ浜も俺と同じ方を見ながら首を捻り捻り考える。

 

「あ、そういえば、三日月さんさっきから全然左手使ってないよね。キャッチもしなかったし」

 

「あんだけ雪ノ下の球を受けてりゃそうなるのも無理は、ない……か?」

 

いや、そうだと確定したわけではない。いくら威力があったとしてもたった数回で上がらなくなる程なのか?

 

答えは、否。現に投球の際には上げていた。

 

「……それに、なんかすっごい感情的になってるよね。あんま知らないのにこうゆうこと言うのもなんだけど、なんか、キャラじゃ無いって言うか……。そりゃあんな何させられる

 

かわからない罰ゲームはあたしだって嫌だけどさ……」

 

「そうだな。それは俺も思ってた」

 

ちょうどボールを回収した三日月が再び位置に付く。負けを目前に、その顔はほとんど泣きそうになっている。

 

「じゃあ、それが原因?」

 

「かも、しれない……」

 

本当に? そうなのか?

 

「……違う、違うよヒッキー!」

 

悩み続ける俺を見ていた由比ヶ浜が急に大声を出す。

 

「ど、どうしたいきなり?」

 

「さっきのなし! きっと、もっと大事なこと見落としてる!」

 

「……なんでそう思う?」

 

「だって、ヒッキーがその顔してるとき、いつも大事な場面だったもん! るみるみの時だって、さっきの迷路の時だってそうゆう顔してた!」

 

「そ、そうなのか?」

 

「そうだよ! あたしいっつも見てるから、そーゆーのわかるの!」

 

「いつも見てたのかよ……」

 

「う、うん。見てた。……見てるだけだった。だから、今は、今度こそ一緒に考える」

 

「……わかった。じゃあ順を追って考える。恐らく時間がもうないだろうから俺がわからないところ以外は省略するぞ」

 

「うん。それでいいよ」

 

俺は雪ノ下のように一足飛びに思考を飛躍させる事は出来ない。

 

一つひとつ考えられる可能性を検証していく事しか出来ない。

 

当然時間がかかる。

 

だが、無い時間は思考を加速させる事で補えばいい。

 

大丈夫、いつもやっている事だ。

 

教室からの脱出、委員会業務からの逃亡、レクリエーショングループへの埋伏。それらはいつだって即応力が求められてきた。

 

時間が無くとも、警鐘がうるさくともまずは冷静になれ。

 

……よし。

 

始めにルールからだ。それ自体は単純であり、普通のキャッチボールに毛が生えた程度のものだ。

 

追加項目はコース制限に、投球場所と無効球の設定。それ以外は無し。

 

雪ノ下にも言ったように、このルールははっきり言ってザルだ。

 

ルールを言い換えれば、引かれた線から投げて輪を通せばいいだけ。それさえ満たしていれば何をしてもいい。

 

これを念頭にして考え、三日月が取った行動を振り返る。

 

まずは初球。雪ノ下は宣言通りに中央に投げたにもかかわらず、その投球を捕りこぼす。

 

これに何か意味はあるか。

 

現時点では、否。

 

コースがわかっていても、あの球速、球威では初見で捕れる方がどうかしている。

 

次、三日月の投球。

 

そのコースは輪の端ギリギリ。二回目の投球も左右が反転しているがほぼ同様のコース。

 

これらのことから、三日月は非常に高い制球力を持っている事が伺える。

 

その制球力をして何を狙うか。

 

由比ヶ浜が仮に雪ノ下とあの競技で闘ったとして、お前ならどう攻略する?」

 

「……どうにかしてゆきのんを疲れさせるかなぁ。勝負事でゆきのんの弱点って言ったら体力ぐらいだし。それでも絶対に勝てないだろうけど」

 

「俺も全くの同意見だ。普通に闘ったらまず勝てない」

 

「うん。そうだね」

 

だが、それは雪ノ下の無茶苦茶なスペックを知っている俺たちだからこその意見だ。

 

その片鱗は見せているとは言え、敵は常識的な範囲内でその能力を想定していると考えるべきだ。

 

雪ノ下の体力の無さは致命的な弱点だ。敵にもそれは既に露呈している。

 

だからこそ雪ノ下は比較的消耗が大きくとも高出力のオーバースローで短期決戦を狙っているのだ。

 

それは三日月もわかっているだろう。球を左右に振ったのは少しでも体力を削るためと結論付けていいだろう。

 

雪ノ下が直球ど真ん中しか投げないのは周知の事実。三日月はそれに耐えればいいだけだ。

 

捕球では耐え、投球では削る。持久戦にさえ持ち込めば勝機はある。

 

それなのに。

 

……そうだ、違和感の正体はこれだ。

 

「球が輪に当たって落ちたとき、何故、三日月はわざわざそれを取りに行った? 無効球だとしても次に投げるのは雪ノ下だ。体力を削る意味でも雪ノ下に取りに行かせればいい」

 

「それは、単純に自分の方に落ちたからじゃん? ……ってこんなこと言うのもアレだけど、三日月さんはそーゆータイプじゃないよね……」

 

「そうだな。奴は俺とほぼ同族だ。そんな面倒な事はしない」

 

であれば、何か別の意図があったのは明白だ。

 

……何が目的だ。

 

考えている間にも試合は進んでいく。

 

冷静さを欠いた様子の三日月の制球は乱れ、再び輪に当たって落ちた。

 

ボールは雪ノ下側に落ちたので今度は雪ノ下が取りに行く。

 

今回は自分が取りに行くとは言わないようだ。

 

……まだ考えなければならない事はある。

 

つい先程の雪ノ下の攻撃は、球を捕ろうともしなかった。その理由は先の由比ヶ浜と交わした会話のものが最も思い浮かびやすい。

 

しかし投球の際には左手はあがっている。いましがた無効球になった三日月の攻撃のときも同様だ。

 

つまり上げる事は可能だったが、捕る事は不可能だった。

 

何故か。

 

疑問点はこの二点に集約された。何らかの意図があってボールを取りに行き、何らかの理由があって捕球を見逃した。

 

そして、今は雪ノ下にボールを取りに行かせている。

 

雪ノ下は今まさにそのボールを手にしたところだ。近くには、ポール、用具入れ。

 

っ!!

 

そういうことか!

 

「雪ノ下、しゃがめ!」

 

俺はようやく三日月が目論んでいたその真意に気付いた。

 

だが、一瞬遅かった。

 

既に三日月は投球モーションに入っている。それは、体をコンパクトに動かす、クイックモーション。

 

俺の必死な叫び声に驚きつつも、即座に落ちるように身を屈める雪ノ下。

 

速度はかなり遅いが、その体の数センチ上を同時に2つの硬球が通り過ぎる。

 

そして、次のモーションで投げられた3つめの球が通り過ぎようとする。

 

これを逃せば負ける。いくら雪ノ下でも、後ろから飛んできた球を捕る事は不可能だろう。

 

しかし、雪ノ下は超人的な動きでその球を追いかけるように飛び込み、かろうじて捕らえた。

 

が、飛び出した勢いのまま落下し、体育館の床と肌がこすれ摩擦で焼き付くあの独特の音がする。

 

「ゆきのん!!」

 

倒れ伏した雪ノ下の元へ由比ヶ浜が駆け出す。

 

「ふっ、よく取ったな。ここは素直に褒めてやろう」

 

雪ノ下を睥睨しつつねっとりと嗤い、のうのうとのたまう三日月の顔は、まさに悪魔そのものだった。

 

 

 

「ゆきのんだいじょぶ!?」

 

由比ヶ浜が雪ノ下を助け起こす。

 

「……ええ。少し足をこすっただけだから、問題ないわ」

 

どこか異常は無いか各部をチェックしながら言う。

 

「そっか……なら、よかった……。けど」

 

言葉を切り、キッと三日月を睨み付ける由比ヶ浜

 

その視線の先の女はなおも酷薄に嗤い続けている。

 

「三日月さん、自分が何したかわかってる?」

 

「もちろんだとも」

 

「……じゃあ、ゆきのんを狙って投げたって事? ヒッキーが気付かなかったら確実に当たってたけど」

 

静かな、けれど確かな怒気を放つ由比ヶ浜にも全く怯むことなく、それどころかさらに挑発的な態度を見せる。

 

「ふっ、人聞きの悪い事を言うな。投げたときにその女がたまたまそこにいただけだ。私はただルールに則ってボールを投げただけなのだからな。何も違反などしていない」

 

「ルール違反だよ! ボール取りに行かせて、後ろ向いたとこ狙って何個も投げるなんて!」

 

三日月の言葉に、普段は周囲を取りなすことを由とし穏和な由比ヶ浜も、とうとうブチ切れた。

 

「当たってたらケガしてたかもしんないんだよ!? 誰かにケガさせてまでして勝ちたいの!?」

 

由比ヶ浜さん、落ち着きなさい。ルール違反ではないのよ」

 

「そんな、ゆきのん!」

 

思わぬ反駁に悲しげな声を上げる由比ヶ浜

 

だが、残念ながら雪ノ下が言う通り、正しいのは三日月の方なのだ。

 

その行動の是非は倫理的な問題であり、ルール単体でみれば奴のしたことはなんの規則にも抵触しない。

 

奴はちゃんと決められていた通り、足下に引かれた線から投げ、輪を通した。

 

例えボールを拾いに行った際に用具入れからボールを多く取ろうとも、それを左手のグローブの中に隠していても、さらに相手が後ろを向いている時に何個投げたところで、それはルール違反などではないのだ。

 

与えられた枠と自らの能力を完全に把握し、それに基づいた戦術。追い詰められ取り乱した演技までしてみせてその下地を盤石なものとしていた。

 

三日月は裏を付くことに慣れている。

 

そして何より、それを思い付いた通りに実行する、実行できてしまう壊れた決断力を持っている。

 

一体何が彼女をそこまで歪めたのかは知りようもない。

 

わかるのは、彼女は間違いなく強敵だということだけだ。

 

「そういえば、罰ゲームをまだ言っていなかったな。私が勝ったら、貴様には全裸で校庭を一周してもらおう」

 

「そ、そんなことできるわけっ……!」

 

あまりの内容に由比ヶ浜が抗議の声を上げる。

 

「外野は黙っていろ。それともやっぱりなかったことにするのか? 貴様が今ここで土下座するのならば考えてやらん事もないが」

 

グローブを外し、使えなくなった振りをしていた左手をぴらぴらさせながら不遜に言う三日月。

 

「本当に下衆ね。虫酸が走るわ。比企谷くんだってそんなことは言わないわよ」

 

「……おい雪ノ下。俺を引き合いに出すな。それはちょっと傷つくぞ」

 

いやまぁなんでも命令出来る状況でエロ方面の気持ちが全くないと言えばそれはごにょごにょ。

 

「まぁ、いいでしょう。あなたが勝ったらその通りにしましょう」

 

「ふん、言ったな。その言葉、忘れるなよ」

 

「ゆきのん!?」

 

「……どうしたの? 由比ヶ浜さんは、私の事を信じてくれないの?」

 

「そういうわけじゃないけど……でも、もし

 

「大丈夫よ」

 

焦る由比ヶ浜を優しく遮り、穏やかな笑みさえ浮かべて見せる。

 

まるで戦場に駆り出される主人公と、それを見送るヒロインのようだ。

 

さもありなん。これ程主役が似合う人選もない。

 

映画化でもしたら内容がB級だとしてもキャストだけで爆売れ間違い無しだろう。

 

まぁB級映画のありがちな展開だと主人公である雪ノ下はこの後死ぬ事になるんだが。

 

そして穏やかな心を持ちつつも怒りによって目覚めた由比ヶ浜が殲滅エンド。なんか色々混じったな。

 

要するに、俺にはそれほどこいつらが眩しく見えたと言う事だ。

 

「大丈夫。私は勝つわ。勝って、私を信じてくれた由比ヶ浜さんの正しさを証明してみせる」

 

「ゆきのん……わかった。信じてるよ」

 

雪ノ下はこくりと頷き、言葉を噛みしめるように目を閉じる。

 

再びその目を開けたときには、先程よりも遙かに強い意志を内包していた。

 

「三日月さん、続けましょう」

 

「ふん、せいぜい注意しておけ。下劣と言われようが卑劣と言われようが、私は何だってやってみせよう」

 

「そう、なら私はあくまで中央を貫くわ」

 

……やはり雪ノ下は愚直と言える程、真っ直ぐなのだ。

 

その真っ直ぐさを他人に向ければ、それは容易く突き刺さる。

 

「あなたには決して出来ないやり方、正攻法でね」

 

「……黙れ!」

 

言葉が、あるいはその姿勢が逆鱗に触れたのか、未だかつて無い程の怒りを見せる三日月。

 

「何でもかんでも正攻法が通じると思うな! それだけで勝てるのは、それだけで生きていけるのは、貴様ら天才だけだ!」

 

「……全て天才の2文字で片づけてしまうようなあなたは、この先永久に成長も成功もしないわ。どうしてその裏にある努力を想像できないの?」

 

「……私だって努力くらいした! 持てる力を全て出し知恵をこらして全力でやってきた! それでも最後には貴様たち天才が全部持っていくんだ! 私の努力も想いも踏みにじって

 

、全部、丸ごと、何もかも!」

 

言いながら三日月は、雪ノ下を、そして柏崎を睨み付ける。

 

「貴様らがちやほやされて、大勢に囲まれて持ち上げられている頃、私はたった独りでやってきた! 疎まれても蔑まれても、誰にも頼ることも、縋ることすらできずに、たった一人で!」

 

「夜空……」

 

三日月の慟哭を受けて、柏崎の顔が曇る。その理由は、悲哀か、憐憫か、それとも他の何かか。

 

「そうとも! 私は卑劣な事しかできない! だけどそれが、それだけが貴様らに抵抗できる手段なのだ! 敵には毒を、正しさには猛毒を! これがこの腐った世の中での、唯一私

 

だけの真実だ!」

 

ほどんど泣き叫ぶように言う三日月。

 

それでも、雪ノ下は容赦なく言葉を浴びせかけ続ける。

 

「可哀想な人ね。被害者ぶるのもいい加減にしなさい。その敵はあなた自身が勝手に作り出しているものでしょう?」

 

「なっ……!」

 

「断言してあげる。生まれや才能、適性のみで結果が変わると思っている限り、あなたはずっと負け犬よ」

 

「黙れ……黙れ……」

 

三日月は力なく同じ言葉を繰り返す。

 

確かに、ある一面においては三日月の言う通りだ。

 

人は正攻法だけでは生きていけない。努力ではどうしようもない部分も確かに存在する。

 

言わずとも、誰もがわかっている事だ。

 

特に、人間関係においては。

 

これは想像でしかないが、あれだけ捻くれた性格で、あれだけ拗くれた人間関係に身を置いているくらいだ。今まで紆余曲折あったのだろう。

 

人と同じ道を行こうとして、失敗して。

 

我が道を行こうにも、その道は過ちと挫折と後悔だらけで。

 

それでも今更歩みを止める訳にもいかなくて。

 

それは奉仕部とて同様だろう。

 

中学生の頃は爆発した自意識による全能感に悩んだりもしたが、今はそれなりに現実を知っているつもりだ。

 

やって出来る事と、やっても出来ない事がある。

 

世の中は正しくなんて無く、どうしようもなく間違っている。

 

三日月の言葉は理解はできる。共感もできる。

 

自分を含めいつまでも間違い続ける世界に怨嗟の一つでも投げつけたくもなるだろう。

 

俺は逃避し、雪ノ下は貫き、由比ヶ浜は阿り、羽瀬川は抹消し、三日月は呪い、柏崎は隷属させてきたのだろう。

 

そこに善悪はない。

 

誰もが正しくて、誰もが間違っている。それ自体に糾弾される謂われはないのだ。

 

それでも、それでもあえて間違っていると言うのが雪ノ下雪乃という人間だ。

 

雪ノ下雪乃は、己を貫き、他人をも貫く。

 

それこそ間違いだという者もいるだろう。そんなのはただの押し付けに過ぎないという者もいるだろう。

 

……だが、俺は、雪ノ下雪乃の貫く正しさを信じよう。

 

もはや誤魔化しようもない気持ちがあった。否定しようもない想いがあった。

 

由比ヶ浜が阿ることをやめたように、俺も、逃避なんかせず、真正面から向き合おう。

 

「雪ノ下、勝てよ」

 

三日月を見詰め続ける雪ノ下の目が僅かに見開かれるが、すぐに不適な笑みを浮かべる。

 

ともすれば傲慢と取られかねない笑み。しかし、それは確かな自信と覚悟が含まれそれに裏打ちされた笑みだ。

 

……そして、願わくば、信頼も。

 

「あなたは誰にものを言っているのかしら?」

 

こちらを見もせずに答える雪ノ下の台詞に、思わず笑いがこみ上げる。

 

言わなければならない事はある。言われなければならない事もある。

 

三日月の性質に気付き、警告していたにもかかわらず助言が遅れてしまった事。

 

警告を受けていたにもかかわらず油断してしまっていた事。

 

それら全てをすっ飛ばした、短い会話。

 

それだけで、充分なのだ。

 

「そうだったな」

 

「ええ、そうよ」

 

その声音が、その眼差しが、何よりの答えだった。

 

 

「さあ、三日月さん。あなたのその腐った性根を叩き直してあげるわ」

 

「……はっ、やってみろ」

 

あくまでも大上段から振り下ろされる雪ノ下の台詞に、自棄を起こしたかのようにぞんざいに答える三日月。

 

自棄を起こした人間は怖い。強くはないが、怖い。

 

自らの事も相手の事もなんら考慮することなく、攻撃にその能力を全振りできるからだ。

 

爆弾を抱えて突っ込むようなその戦い方は多くの者を警戒させ、動きを封じるだろう。

 

相手が、雪ノ下雪乃でさえなければ。

 

仕切り直しの一球目を投げる雪ノ下。

 

未だボールを隠し持っていた三日月が、テニスで言えばドロップにあたる球を雪ノ下と同時に投げる。

 

それを予期していた雪ノ下は自身が投げ終わると即座に回収に走り、危なげなく捕る。いかにもつまらなそうに鼻を鳴らす事も忘れない。

 

対する三日月はと言えばボールを捕りこぼしそうになっていた。捕球時の音が先程までと明らかに違う。

 

……どうやら雪ノ下は、あれでもある程度セーブしていたらしい。

 

獅子のくせに全力で兎を殺す雪ノ下だ。手加減する事はありえない。恐らくはこの後に続く柏崎戦のために多少体力を温存しておいたのだろう。

 

本気になった雪ノ下は、まさに無敵だった。

 

同時投げ、複数投げ、由比ヶ浜狙いの危険球。三日月が繰り成すありとあらゆる姑息な手段を予見し、その全てを叩き伏せる。

 

幾多のやり取りを経て、三日月のその奇策、奸計は全て看破された。

 

「そんな……私は……負けるのか……?」

 

雪ノ下や俺たちを騙した演技とは違い、明らかに動きが鈍くなっている。

 

直前の捕球などほとんどまぐれだった。グローブからこぼれたボールをたまたま右手が取れたに過ぎない。

 

「あんなことまでして……無様に負けるのか……」

 

万策尽き、己の敗北を悟った三日月の球は弱々しく、その制球力も喪われている。それでも勝負をやめないのは、意地か、矜恃か。

 

それがなんだったにせよ、結果は変わらない。精神論だけで何とかなるのなら誰も苦労はしないのだ。三日月も重々承知していることだろう。

 

幕切れは、あっけなく、そして順当に訪れる。

 

三日月の投げたボールはポールにコツリと当たり、無効球となった。

 

先程の事があるため、念のために落ちたボールは俺が取りに行くことにしている。ボールを拾い上げ雪ノ下に投げ渡す。

 

そこで微かに、そして虚ろに呟く声が聞こえた。

 

「私だって、本当は……ヒーローになりたかったんだ……」

 

呟きは、誰にも届かない。

 

「それなのに、どうしてこんなことに……」

 

嘆きも、誰にも届かない。

 

次の瞬間、三日月は雪ノ下の攻撃を受けきれず、敗北した。

 

「では、罰ゲームを言い渡すわ」

 

両膝を付き項垂れている三日月に無慈悲な声がかかる。

 

雪ノ下が下すのは、正しくて、残酷な裁可。

 

「この敗北を噛みしめなさい」

 

それだけ言うと、柏崎と羽瀬川に次は誰かと目で問う。

 

「どこまでも虚仮にしやがって……」

 

絞り出すようにそう呟いた三日月は、ぼろぼろと泣き出してしまった。

 

僅かに残されたプライドが、泣き声を押し殺している。

 

見かねた羽瀬川がとりあえず立たせようとしたのか、手を貸そうとする。

 

突如その手を掴む三日月。顔はあげないままの姿勢で、羽瀬川に問う。

 

「お前は、なんでこんな私に手を貸そうとする。なんでこんなクズに優しくしようとするのだ?」

 

「それは……」

 

……。

 

……待てども待てども、その続きの言葉は何もなかった。

 

三日月は顔を上げると、ふっ、と感情を根こそぎ漂白されたような微笑みを浮かべ、掴んでいた手をぞんざいに振り捨てる。

 

独りで立ち上がり、そのまま何も言わずにとぼとぼとどこかへと歩いて行く。

 

声をかける者などいない。ましてや、追いかける者などいるはずもない。

 

周囲を囲んでいたギャラリーが自然と割れ、彼女の道を作る。

 

寄る辺のない、彼女だけの、独りぶんの道を。

 

だが、どこまでも孤独な背中が群衆の向こうに消えるその刹那、たった一人、叫ぶ者がいた。

 

「夜空!」

 

その声に、三日月の足が止まる。

 

「あんたの仇は、あたしが討ってあげる」

 

その声は、届いたのだろうか。

 

三日月は振り向くことなく、今度こそ本当にその姿を消した。

 

「ま、順当な結果よね。で、次はあたしが行くけど、いい?」

 

柏崎は、何事もなかったかのように勝負を続行させようとする。彼女の問いに羽瀬川が首肯する。

 

「こちらも問題ないわ。ルールに変更はあるかしら」

 

「んー、勝った方が何でも命令ってのはもうなしでいいんじゃない?」

 

「了解よ」

 

「あと、真ん中に投げなくてもいいよ。それじゃあたしには勝てないから」

 

「……ご忠告、痛み入るわね」

 

完全にイラッとしているのがわかる声音。

 

ただ、言われて止める雪ノ下ではないが今回ばかりは事情が事情だ。

 

雪ノ下とて柏崎のスペックの高さを目の当たりにしている。

 

己のプライドよりも由比ヶ浜との約束を優先するだろう。

 

「あたしの雪乃ちゃんに惨めな思いをさせるのは本意じゃないけど、なんか雪乃ちゃん、思ってたのと違うのよね。黒髪ロングの清楚系美少女はもっとこう、お淑やかであたしに尽くしてくれるはずだし。ツンデレキャラでもありだけど、そういうのでもないし」

 

「……比企谷くん、彼女は一体何を言っているのかしら?」

 

突然の二次オタ的かつギャルゲーマー的な発言に雪ノ下が困惑する。

 

「あー、アニメとかゲームとかではお前みたいな長くて綺麗な黒髪ってのは一つの記号になってんだよ。小説でも割と頻繁に登場するだろ?」

 

「そ、そうね……」

 

「まぁさっきのを意訳すると『お前が黒髪ロングを名乗るな、死ね』ってところだな」

 

「……そう」

 

「納得してないようだな。実際、あの界隈でのそのへんの事情は根深いからな。記号のイメージや記号同士の戦いってのは大抵血みどろで泥沼化するんだよ。黒桐戦争とかもう惨劇以外の何物でもなかったぞ」

 

「でも、それはあくまでゲームやアニメの話でしょう? 現実に持ち込まないで欲しいのだけれど」

 

「まぁその通りだ。結局二次元は二次元なんだよな。漫画や小説のキャラは所詮紙だし、ゲームに至っては実体のない単なる電子データでしk

 

パァン!

 

「危ねえ!」

 

いきなりボール投げてきやがったあのビッチ!

 

「それは我々が十年前に通過した議論だッ!」

 

物凄い音がしたので後ろの壁を見てみれば、顔があった位置のすぐ横に跡が付いている。

 

どんだけブチ切れてんだよ……。ていうかこの流れどっかで見たな。

 

美少女がしてはいけない形相で睨んでくる柏崎にビクビクしていると、隣から悲鳴のような、怒号のような声がした。

 

「い、今の目に当っていたら失明してたよ!?」

 

「はぁ? 当てるわけないじゃない。脅しに決まってんでしょ」

 

由比ヶ浜は柏崎の発言を無視してこちらに向き直る。

 

「ヒッキーだいじょぶ!?」

 

「あ、ああ、大丈夫だ。いざとなったら避けるし」

 

この勝負自体が自分自身せいで始まったと思い込んでる由比ヶ浜に重荷を背負わせるのは筋違いだ。ここは強がりを言っておこう。

 

また投げられたら確実に避けらんないけどな!

 

「ふふん、怖気づいちゃった? 今なら許してあげてもいいわよ? 雪乃ちゃんの次はあんたたちの番よ?」

 

「怖気づいてもいないし、許してもらわなくっても結構よ。あなたのその過信が取り返しのない事をしでかす前に、私が叩き潰してあげるわ」

 

挑発されてまたしても露骨にボルテージが上がる雪ノ下。

 

「それと、私をあなたの気持ちの悪い妄想に組み込まないでくれるかしら」

 

「……やっぱり、惨次元はダメね。昴ちゃんや由美子ちゃんならそんなこと言っても、裏ではその実あたしへの愛でいっぱいなのに!」

 

だから雪ノ下はそれをやめろって言って……まぁ、いいか。

 

「ま、さっさと始めましょ。もうなんかめんどくさくなってきたわ」

 

「ええ、こちらとしても早く終わらせたいのは同じよ」

 

「んじゃ、そっちからってことで」

 

急にぞんざいになった柏崎が雪ノ下にボールを渡す。

 

……柏崎は三日月と違って演技がそれほど上手くないようだ。

 

口ではあんなことを言いつつも、雪ノ下を舐め回すように見るその視線は変わっていない。

 

変わったのは優先順位だろう。

 

柏崎はもしかしたら、隣人部ではまだましな部類のなのかもしれない。

 

二次元と三次元をごっちゃにしている時点で人としては終わっているが。

 

雪ノ下対柏崎戦が始まる。

 

まずは雪ノ下の先攻。先程の三日月戦での消耗はそれほど深刻ではないにせよ、今回の相手は相当な強敵であることが予測される。

 

狙うのは無論、短期決戦。

 

雪ノ下は今度こそ最初から全力で潰しにかかる。

 

芸術的なオーバースローから放たれたボールは輪の上端近くを通る。恐らく、ボールと輪の隙間は僅か数ミリ。

 

針の穴を通すように正確無比であり、その威力は球速だけでポールを切り裂かんばかりだ。。

 

だが今回は相手もただ者ではない。

 

乳袋系メイド服の一部を大きく揺らしながら前方に駆け出し、弾かれたように跳躍すると、あっさりと雪ノ下の全力の球を捕る。

 

服のサイズがあっていないのか、やたらキッツキツな一部をぶるんとはずませて着地する様に、三日月の凄絶で卑劣な攻め方にどん引きしていた観客が大いに沸く。

 

胸がはずめば気持ちもはずむ。本当に、男という者はかくも愚かでどうしようもない生き物なのだ。

 

「ヒッキー、今何を見てたのかな?」

 

「な、なんでもないろ!」

 

女子は男の視線に敏感だと聞くが、それは自分に向けられたもの以外でも適用されるのか……。

 

まぁそれは外野だからこそ気付くだけであって、真剣勝負の真っ最中の柏崎は気にした様子もない。

 

もちろん雪ノ下も、そんな素振りなど一切見せずにこっちを睨んで……あ、超気が付いてますね。

 

全く、勝負に集中したまえ。

 

とまぁ、おふざけはここまでだ。

 

三日月の言葉を借りれば、これは天才同士の戦いだ。

 

今後どうなるかなど凡人の俺には想像も出来ないが、万が一に備えておくのは決して無駄ではない。

 

柏崎が線まで戻ると、投球に移る。投法は雪ノ下と同じオーバースロー

 

彼女が放ったのは、全体重を乗せた豪快な一撃。コントロールなどまるで無視したかのような、ひたすらに威力だけを高めたいっそ潔い球だった。

 

直撃を受けた輪が軽くひしゃげる。めり込むようにして落ちた球がころころと転がっていく。

 

マジかよ……あれってどう見ても金属製だよね?

 

「そこのモブ」

 

柏崎は俺を見やると、拾えと顎で指図する。

 

……まぁ、こいつが三日月のような人間でないという保証はどこにもない。元々そのつもりだ。

 

あまつさえこいつは金属製の物まで破壊するような球を投げるのだ。警戒してもし足りないくらいだろう。

 

あの球が無防備な状態の雪ノ下に直撃することなど考えたくもない。

 

球を拾い、雪ノ下に手渡す。

 

「言うまでもないことだろうが、気をつけろよ。長引けば危ないぞ」

 

「……本当に、言われるまでもないわ」

 

なんだよ……なんか妙に不機嫌だな。そりゃ隣人部の連中を相手にしていて愉快な事など何もありはしないが。

 

俺の訝しげな視線に気が付いたのか、雪ノ下は顔を背けながら言い捨てる。

 

「球くらい自分で拾えるわ。唯々諾々と狗のように拾いにいかなくてもいいのに」

 

なんだ、そんなことか。

 

「言われたからってわけじゃねえよ。俺はただお前を万全な状態で闘わせたいだけだ」

 

「……どうして?」

 

今度は逆に雪ノ下が訝しんでくる。

 

「そりゃ、まぁ……」

 

「……はっきり言いなさい」

 

「わかってるっつの。まぁ、あれだ。その、……由比ヶ浜と、約束したからな」

 

「……そう。それなら、よかったわ」

 

あからさまに安堵の息を漏らす雪ノ下。

 

「私の為だなんて言われたら悪寒と吐き気で勝負どころではなくなるところだったわ」

 

「ひでぇなおい。吐き気は堪えろよ」

 

「催すこと自体は否定しないのね……。流石だわ……」

 

……どうやら、いつも通りの雪ノ下のようだ。

 

三日月のことをまだ引きずって冷静になれていない可能性もあったが、それは杞憂だったようだ。

 

「でも、そういうことなら尚更負ける訳にはいかないわね。私も比企谷くんも、由比ヶ浜さんと約束してしまったのだから」

 

「そうだな」

 

「そう、負けられない。私たちは負けられない」

 

……ああ、その通りだ。

 

俺と雪ノ下は闘う理由も違ければ、その目的も違う。共通するのはただ一つの事だけだ。

 

雪ノ下は、本来なら全く関わる事の無かった人物だ。仮に何らかの理由で一所に置かれたとしても、それは単に一人と一人であるだけだった。

 

どんなにぼっちを集めたところで、それは大量のぼっちがいるだけに過ぎない。

 

そんな俺と雪ノ下が、こんなよくわからない他校の文化祭で、一つだけ共通点を持った。

 

それだけで共闘するに足りる、たった一つの共通点を。

 

それ故に、俺は負けられない。

 

俺たちは、負けられないのだ。

 

それは、死闘だ。

 

互いが全力を尽くし、どちらかが地に伏せるまで闘い続ける、まさに死闘。

 

雪ノ下は上下左右、あらゆるコースを投げ分けてはミスを誘う。

 

柏崎は兎にも角にも全力投球。一度を除き、コース外に外れる事こそないものの無効球が多い。だがそれを補って余りある威力を持っている。

 

そこに小細工など一切入り込む余地もない。やっていることはただのノーガードでの殴り合いのようなものだ。

 

それでも、いっそ神々しさすら感じる頂上決戦に魅せられ、初めこそ揺れる物体Xに大はしゃぎしていたギャラリーも真剣な面持ちで食い入るように観ている。

 

艶やかな黒髪が舞い、煌びやかな金髪が踊る。

 

折々に鳴り響く捕球音がその静けさを際立たせる。

 

二人の闘志が周囲を支配し、観客の熱気を取り込んでは拡大していく。

 

客が客を呼び、体育館の隅であるはずの会場はいつの間にか中心とも言える程の規模の観客に埋め尽くされていた。

 

間髪入れずに投げ合うその様は一見拮抗しているように見える。だがしかし、現時点でも僅かに柏崎が勝っているように見受けられる。

 

その理由は、恐らく単純な能力差だろう。

 

球の冴えとキレを武器とし刺すように鋭い球を投げる雪ノ下に対して、柏崎は鋭くも砕くように重い球を投げている。

 

金属製のフレームですらねじ曲げるしまう球を捕球する度に鈍い音が響き、雪ノ下は苦悶の表情を浮かべる。

 

アホみたいな高スペックを誇る雪ノ下でさえ、柏崎の無茶苦茶なその能力には一歩及ばないようだ。

 

加えて、致命的なのがその体力差だ。

 

今でこそどうにか保っているが、球は何十往復したかわからない。

 

雪ノ下は投げる度に荒い呼吸を繰り返し、その横顔や首筋には汗でべっとりと髪が貼り付いている。

 

既に普段からは考えられない程の粘りを見せていて、一度もポイントを与えていないのが不思議なくらいだ。

 

それもいずれは終わる。

 

このままでは、押し負ける。

 

雪ノ下がこのまま破れれば、奉仕部にもはや勝ち目はない。

 

多少の抵抗は出来るかもしれないが、イタチの最後っ屁にもならないだろう。確実に圧倒されて、飲み込まれる。

 

ただしそれは、真正面から闘った場合の話だ。

 

策なら、あるにはあるのだ。確実性に乏しく、正当性にも欠ける、奇策とも下策ともつかないものが。

 

正面突破の全力攻撃が大好きな雪ノ下にしてみれば、搦め手から攻めるような戦い方は好むところではないだろう。

 

あいつの意にそぐわない形で勝ってもそれは何の意味も成さない。俺だけが勝利しても仕方なく、迷路のときのように勝手な行動はできない。

 

だが、雪ノ下は言った。『私たち』は負けられないと。

 

そう、これは雪ノ下雪乃の闘いでもなく、比企谷八幡の闘いでもない。これは紛れもなく『俺たち』の闘いなのだ。

 

俺が雪ノ下の愚直なやり方を否定することがないように、今回ばかりは、雪ノ下も俺の小賢しいやり方でも拒絶はしないだろう。

 

わざわざ口に出したのはそういう意図なのだろう。

 

それがどういう意味を持っているのかはわかっている。

 

胸の裡で蠢動するこの感情を認めてしまえば、恐らく、もう引き返せない。

 

いつか俺が欲してやまなかった何かを手に入れ、あるいは手に入れる事すら出来ずに、それを喪ってしまうのだろう。

 

変わってしまったこと、進んでしまったこと、喪ってしまったことを後悔し、嘆き、呪いもするだろう。

 

それでも、事ここに至り既に覚悟は決まっている。

 

己の心にケリをつけたのなら、あとはこの勝負にカタをつけるのみだ。

 

「柏崎、お前は何のために闘っている」

 

ちょうど捕球し終わったタイミングに俺に問いかけられ、柏崎は不愉快そうに目をよこす。

 

「お前は、何のために闘っている」

 

再度同じ質問を投げかける。これは俺が聞きたいだけでなく、雪ノ下の体力を僅かでも回復させる時間稼ぎにもなるだろう。

 

まぁ聞かれたからと言って馬鹿正直に答える必要はない。今日会ったばかりの他人からの質問ならなおさらだ。

 

だが、人間の基本性質として質問には答えようとする心理がある。

 

「そ、そんなの……二次元キャラのために決まってるでしょ! 雪乃ちゃんをあたしのイメージ通りのキャラにして、二次元をバカにしたあんたをとっちめるのが目的よ!」

 

「……そうか」

 

思いの外、柏崎はちゃんと答えてくれたようだ。しかし、やはりこいつも、奴と同類なのか。

 

……いや、気を遣っているのだろうか。

 

例えそうだとしても、そんな気遣いすら無碍にする奴の罪科が増えるだけではあるが。

 

雪ノ下も柏崎もお互い譲れないもののために闘っているのはわかる。

 

雪ノ下は言うまでもなく由比ヶ浜のため。

 

柏崎は二次元キャラのためと言っているが、黒髪鬱美人のためであるのは想像に難くない。

 

俺というフィルターを通しているから隣人部の行動に悪印象を持ってしまうが、雪ノ下と柏崎が闘う理由としてはほとんど差がないだろう。

 

それでも、隣人部は偽者だ。紛い物だ。

 

仲間と楽しく遊んでいるくせに友達がいないなどと言う。

 

認めたくないことや都合の悪いことから目を逸らし、聞こえないふりをし、無論許容することもない。

 

いつまでもぬるい中途半端な関係に浸かり、関係を動かす事実を明確に認識しているくせに、それでも無視する。

 

もちろん、中途半端な関係自体が悪い事だとは言い切れない。有効な面も確実に存在する。それはそれでひとつの形なのだろう。

 

例えばクラスにおいても、葉山と戸部やその他、あるいは第二カースト等の関係は、俺が嫌いなだけであってその全てが悪ではないのだろう。

 

しかし奴らは自分の理想像、あるいは妄想する相手像を押し付け、それを強要し、自らも役割を演じる。

 

それを拒絶すれば空気が読めない奴扱いされて集団から排除され、迎合すればその瞬間から役割に縛られる。

 

そういった通過儀礼を果たしてようやくオトモダチとなるのだ。

 

クラスに存在するいくつかのグループも同様だ。

 

小学生時代、中学生時代と色々行動してきた結果、結局端から見ることになった俺にとってはお馴染みの流れ。

 

それは誰かが脚本でも書いているんじゃないかと思うほど喜劇じみていて、あまりの白々しさに薄ら寒ささえ覚える。

 

だが、あいつらは、雪ノ下と由比ヶ浜は違う。

 

ぶつかり合い、押し付け合い、誤解し合い、拒絶し合い、許容し合う。

 

相手の中の虚像と自分の中の実像とを擦り合わせていく。

 

互いを知る、とはそういうことを言うのだろう。

 

本物の友達、とはこのような関係を指すのだろう。

 

一緒に何々をしたから友達。仲の良い誰々の知り合いだから友達。そんなのはただの世迷い事だ。

 

友達とはなるものではなく、なっていくもの。

 

あいつらを見ていると心からそう思う。

 

この世の何よりも尊い、『本物』が、そこには確かにあるのだ。

 

「雪ノ下」

 

俺が声をかけると、雪ノ下は大きくふらつき肩で息をしながらもこちらに視線を向ける。

 

雪ノ下と視線がぶつかると今まで経験したことが無いほどの激情が体を熱くするのがわかる。

 

言うまでもなく疲労困憊だ。だが、絶対に勝つという意志が、覚悟がその視線から伝わってきた。

 

隣人部は選ばなかった。認めなかった。

 

そしてそれは欺瞞である。

 

故に、俺は選ぶ。認める。

 

選ばれずとも、認められずとも貫き続け、ついに由比ヶ浜結衣という理解者を得てそれを守ろうとする、雪ノ下雪乃の覚悟を。

 

その覚悟に信頼をもって応え、支えようとする由比ヶ浜結衣の想いを。

 

その覚悟が、想いが、周囲を欺き自分自身をも欺く、欺瞞に満ちた奴らなんかに負けるわけがない。

 

決して、負けさせはしない。

 

「雪ノ下、上を狙え」

 

声を出す程の余裕はどこにもないのか、返事はない。

 

こちらを向き、ただ荒い呼吸を繰り返しているだけである。

 

それでも。

 

言わんとしていることは、伝わってくる。

 

「ああ、負けはしない」

 

いなくなった三日月が言ったように、俺のような端役、凡人では天才に勝てない。

 

正攻法ではもちろんのこと、半端な奸計も通用しないのも先程雪ノ下が示した通りだ。

 

雪ノ下はこう言われるのを嫌がるだろうが、天才同士の闘いですら柏崎とはその能力に差がある。

 

その差を埋めるには、最小の動きで最大の効果を生む必要がある。

 

これから雪ノ下が、ひいては俺たちが行うのは、愚直に小賢しく、斜め下からの正面突破。

 

雪ノ下は、いつも独りで乗り越えてきた。

 

俺は、いつも独りで掻い潜ってきた。

 

そんな俺たちが手を組めば、何だって出来るのだ。

 

彼女は何も言わずこくりと一度だけ首肯すると、眼前に立ちはだかる強大な敵へ再び立ち向かう。

 

雪ノ下は胸に手を当てて大きく深呼吸をし、肩を解すようにぐるりと腕を回す。

 

「……」

 

あくまでも無言ではあるが、決意にその瞳を煌めかせると素早く行動を開始した。

 

全身を鞭のようにしならせ、抉り込むように放つアンダースロー

 

先程までと比べて威力は落ちてしまうだろうが、消耗が少なく、かつ角度を取れるアンダースローは現状として最適の投法だ。

 

流石に出来るとは思いもしなかったが、出来るのであれば好都合だ。より策が成りやすくなる。

 

投げられた球は輪の上端ギリギリを通り、最大角で上へ上へと昇っていく。

 

今までとは全く違う投球のタイミングに、常人では反応程度はできこそすれ確実に取りこぼすであろう角度と速度。

 

だが今回は相手が相手だ。

 

案の定、柏崎は素早く反応し高く跳躍。危なげなどまるでなく揚々とそれを捕る。

 

そして服の乱れを直しつつ位置に戻ると、嘲笑を浮かべて俺の方を見る。

 

「こんなんであたしを出し抜くつもり? さっきのが球速も球圧もあったけど? しょせんモブの浅知恵ね」

 

「そりゃどうも。けどな、モブが主役に成り代わることもある。注意しとけよ」

 

例えば某海賊漫画とかな。あれはもう海賊とか海軍とかよりも解説のモブの方が目立つレベル。

 

「あっそ。まあ確かに、この後あんたがあたしにやられるときくらいは目立てるかもね」

 

柏崎は鼻で笑い雪ノ下に向き直る。

 

「ま、あんたの時間稼ぎに付き合ってあげるのもこれで終わり。雪乃ちゃんも苦しそうだし、早めに終わらせてあげるわ」

 

それだけ言い捨てると、全力での攻撃を再開する。多少の疲労は見えるものの、未だにその底は見えない。雪ノ下はその攻撃をなんとか受けきった。

 

再び雪ノ下の攻撃。投法は、もちろんアンダースロー。本人は息も絶えだえだがその鋭さだけは失われていない。

 

そして柏崎が投げ返す。雪ノ下は今回もどうにかこうにかといった呈で耐えきる。

 

縦横無尽に暴れ回る柏崎の球を、あるときは腰だめに、あるときは飛びつき、またあるときは全身を使って押さえ込むようにして捕る雪ノ下。

 

繰り返される光景は誰がどう見ても完全に一方的なものだ。

 

それでも食い下がる雪ノ下は、ひたすら上へと投げ続けていた。

 

雪ノ下が投法を変えてから、既に五分が経とうとしている。

 

着物は乱れに乱れ、ボロボロでドロドロな見るも無惨な姿だが、本人は一切それを気にする素振りは見せない。

 

いや、気にする余裕がないのだ。外から見ただけでもわかるくらい、立っていることが不思議なほど消耗し切っている。

 

それでも捕球に失敗したのは一度だけだ。驚く程の執念を見せ、例え腕がはじかれようとも、例え脚が縺れようとも決してその動きを止めようとはしない。

 

あまりに痛ましく、あまりにいじらしいその姿に観客たちが盛大に声援を送る。

 

由比ヶ浜もほとんど泣きそうになりながらも叫ぶように応援している。

 

本当は今すぐにでも止めたいだろうに、それでも由比ヶ浜はここにいる。

 

ここから、応援しているのだ。

 

その声だけを支えにして雪ノ下は闘い続けているのだろう。

 

寄る辺の無かった彼女が得た、たった一つの安寧の地。その存在が限界を超える力を与えているのだろう。

 

今の瞬間の捕球も、それがなかったら不可能だっただろう。

 

……やっぱり、お前たちはすげぇよ。

 

心は得も言われぬ感情に埋め尽くされている。

 

だが、不思議と頭は冷たく思考はクリアだ。

 

今俺に出来る事は観察することだ。非情なようだが、雪ノ下は確実に負ける。

 

後の闘いに備え、柏崎の一挙手一投足を逃さず、周到に、狡猾に策を練る必要がある。

 

たとえ雪ノ下が負けようとも、俺が負けなければ、それは雪ノ下もまた負けていないと言う事なのだから。

 

延々とジャンプさせ続けられた柏崎も流石に疲労を隠せず、雪ノ下同様に激しく乱れた服を直している。

 

体力を削ることには成功したようだ。しかし、雪ノ下はもう持たない。雪ノ下が今見せているのは、最期の輝きだ。

 

元々光っていた恒星がその生涯の終わりに見せる、爆発する寸前の一際大きな閃光だ。

 

そしてその爆発は、今まさに訪れた。

 

雪ノ下は投げた瞬間大きく顔を歪め、声にならない呻きを上げると左手のグローブで右手を抱え込むように押さえ、ぺたんとへたり込んだ。

 

激しく咳き込む彼女の腕に、つつっと血が滴る。

 

「ゆきのんだいじょぶ!?」

 

思わずといった様子で由比ヶ浜が慌てて駆け寄る。

 

「だ、だい、じょうぶ……よ」

 

喘ぎ喘ぎ強がりを言うが、余程痛いのかその目にはうっすらと涙が滲んでいる。

 

答える間にもぽたり、ぽたりと血が流れ落ち続けていた。

 

「まだ……やれるわ」

 

言い終わるか終わらないかのうちに再び咳き込み始める雪ノ下。

 

非常事態に観客はおろか、柏崎でさえも心配そうに雪ノ下を見詰めている。

 

俺はゆっくりと雪ノ下に近づくと、そっとグローブを取り上げる。

 

一瞬抵抗する素振りを見せたものの、もはやそれすら叶わないのかグローブはいとも容易くその手から抜けた。

 

「……由比ヶ浜。保健室に連れてけ」

 

覗き込んだ由比ヶ浜が息を呑む。

 

中から現れたのは、血にまみれた右手と、無残に割れた爪。

 

「う、うん! ゆきのん、行くよ!」

 

由比ヶ浜は雪ノ下を無理矢理助け起こす。

 

「ま、待って。由比ヶ浜さん……待って……」

 

駄々をこねる子供のように嫌嫌と身をよじる雪ノ下。しかし由比ヶ浜は有無を言わさずに連れ出そうとする。

 

力なく抵抗するその姿は多くの観客の胸を打っただろう。俺だってそうだ。

 

「お願い、少しだけ、待って……」

 

抱えるように支えられている雪ノ下の弱々しい懇願に由比ヶ浜の足が止まった。

 

静まり返った会場の誰もが注目する中、背中を向けたままの雪ノ下が声を発する。

 

「……比企谷くん」

 

何かを求めるようでもなく、何かを命令するようでもない声音で、ただ俺の名前を呼んだ。

 

それが何を意味するかは、由比ヶ浜を除いては俺にしかわからないだろう。

 

俺は、少しだけ離れたところにいる、雪ノ下と由比ヶ浜を真っ直ぐに見詰めて答える。

 

「雪ノ下」

 

大丈夫だ。

 

お前はよくやってくれた。

 

由比ヶ浜

 

心配するな。

 

雪ノ下も俺も、お前との約束をちゃんと覚えている。

 

だから、後のことは。

 

「俺に任せろ」

 

返事はなく、振り向くこともない。返ってきたのは、すんっという音と、くすりという音だけだった。

 

二人が保健室に向かい、奉仕部は俺一人を残すのみとなった。

 

「選手交代だ」

 

雪ノ下から取り上げたグローブを左手にはめ、いつだったかのテニスのときの雪ノ下のようにそれを柏崎に突き付ける。

 

「よく見ていろ。この闘いは俺が決める」

 

ざわり、と観客がどよめき、一気に俺に注目が集まる。

 

そうだ。それでいい。射的のときのように観客に帰られては困るのだ。あのときとは違い、自らこの闘いに注目を集める必要がある。

 

その為なら群衆が好きそうなリップサービスだろうが何だろうが言ってやる。

 

「あっそ。じゃ、始めるわよ」

 

柏崎はさして興味を示すこともなく、俺が位置に付いたのを確かめると攻撃を開始した。

 

「……っ!」

 

ドスリ、と骨まで響くような衝撃が受け止めた左手に伝わる。

 

一瞬遅れて雷撃のような痛みが走る。

 

多少の疲労は見て取れるが、投げる球は相も変わらず殺人的な剛速球。

 

雪ノ下との闘いを見ていた為、多少は目が慣れている。

 

にも関わらず、反応はやや遅れる形となっていた。

 

改めて雪ノ下の凄さを痛感する。あいつはこんな球を何十球も受けていたのか……。

 

まぁ、多少予想以上ではあったが、俺のやる事は変わらない。

 

既に策の効果は確認済みであり、悩む必要などどこにもないのだ。

 

後は実行を続けるのみ。

 

意図は明確、狙いは一つ、だ。

 

確かに柏崎は俺よりも、というかこの場にいるほとんど全ての人間よりも遙かに優れた能力を持っている。

 

そして優れているが故に、その負荷は高い。

 

雪ノ下が人よりも体力が無いのは、基礎体力にも問題があるにしてもその高い能力からくる消耗の激しさにも起因しているだろう。

 

いくら本人自体が優秀でも、構造は変わらない。

 

跳躍の瞬間、着地の瞬間、投球の瞬間。ダメージは確実に蓄積される。

 

部活で恒常的に行っているのであれば対策はされているだろうが、隣人部はそうではないだろうことが推測される。

 

加えて、脊椎動物はそもそも二足歩行するような構造ではないように、元々がそれ用ではないのだ。

 

高すぎる身体能力に追従する下地が出来ていないはずだ。

 

俺が画策し、雪ノ下が与え、そして再び俺が引き継いだのはほんの小さなきっかけにすぎない。

 

だが、蟻の穴から堤も崩れるのだ。

 

俺はただ耐え続ければいい。

 

やがてそれが臨界点に達した時、柏崎は自壊するだろう。

 

「今度はこっちの番だな」

 

ややわざとらしくはあるが、不適な笑みを浮かべながら反撃に移る。

 

俺は雪ノ下のようにアンダースローなど当然出来るはずもなく、普通にスリークォーターっぽく投げることしか出来ない。

 

それでもやる事は一つ。ひたすらに、愚直に上に投げ続けるのみだ。

 

元々それほど高い威力を持っていないが、力を抑えてコントロールのみに意識を集中する。

 

球は狙いを違わず上端ギリギリを通る。柏崎は軽く飛び、パスッと音を立てて易々とそのグローブに収める。

 

雪ノ下と比べて明らかに弱々しいその球に観客から落胆したような声が上がる。

 

柏崎も嘆息すると、つまらなそうな態度を隠さずに話しかけてくる。

 

「……はぁ。雪乃ちゃんと一緒に遊ぶのも終わっちゃったし、あんたに興味はないし、さっさと終わらせたいからルールを追加するわ」

 

「……なんだ?」

 

「お互いキャッチしてから5秒以内に投げること。投げられなかったらその場で負け。さっきみたいに時間稼ぎはなし」

 

その言葉を聞いて思わずほくそ笑んでしまう。条件はクリアされた、とでも言ってやろうか。

 

「ああ、いいぞ」

 

時間制限は俺の策にとって必須事項だ。

 

可能性はあるとは思っていたし、実際にそう誘導してはいたが、本当に向こうから言いだしてくれるとは。

 

こちらから切り出さずに済んでよかった。どうしたって不自然になってしまう。

 

柏崎は脳みそ空っぽそうな糞ビッチのような見た目に反して、意外と頭がまわるようなので警戒されないで済んだのは僥倖と言えよう。

 

しかし続いて設定されたルールは俺にとってはなかなか厳しいものだった。

 

「あと、一球勝負ね」

 

「……わかった」

 

……まぁ、これくらいは飲まなければならないだろう。

 

これでも最悪のパターンではない。不利はそもそも承知済みだ。

 

さぁ、全ての下準備は終えた。

 

後は雪ノ下に倣い、ひたすら正面から殴り合うのみ。

 

視界が霞む。

 

両手は痺れ、脚が縺れる。

 

耳は見えない綿を詰められたように聞こえにくい。

 

口の中はカラカラに渇き、ともすれば咳き込んでしまいそうだ。

 

何より息が苦しい。吸っても吸っても全身が求める呼吸量にまるで追い付かない。

 

それでもなんとか、まだ体は言うことを聞いてくれる。

 

柏崎の投球モーションを視界の片隅で認めると、ほとんど反射反応と言って良いほどに自動的に脚が前に出る。

 

気が付いた次の瞬間には左手にボールが握られている。

 

観客が快哉を上げた気がするが、定かではない。

 

僅かに残った意識がボールを投げ返させる。

 

どのくらいの時間闘っているのかもわからない。

 

新たに設定された5秒ルールにより、ほぼ常に投げ合うようなかたちになっている。

 

霞む目を凝らしてみれば、膝に手を付き肩で息をする柏崎も相当疲弊しているように見える。

 

だが、それだけだ。疲れさせるだけでは奴は倒せない。

 

雪ノ下との闘いも合わせれば、柏崎の投球数は軽く100は超えているだろう。プロの先発投手だってとうに交代している。

 

それほど数多くの球を投げているにも関わらず、骨を抉るような重さは健在。

 

対してこちらはちょいちょい意識が飛び始める有様だ。

 

あと少し。

 

左手に球が突き刺さる。

 

勢いを殺しきれずにボールは横へとはじかれた。

 

倒れるようにしてそれを追いかけ、地面すれすれで捕球し、起きざまに投げ返す。

 

あと少し。

 

左足を大きく踏み込ませ、腕を目一杯伸ばして即座に投げ返された球を捕る。

 

衝撃を利用して回転し、こちらも間髪入れずに投げる。

 

あと少しのはずだ。

 

もうそれの限界は見えている。

 

それまで、どうにか、耐えるんだ。

 

幾度となく倒れ、それでもゾンビのように立ち上がる俺に業を煮やしたのか柏崎が苛立たしげな声を上げる。

 

「……っ、いい加減っ! しつこいわね!」

 

一際凶暴な表情をすると思い切りといった様子でボールを投げ付ける。

 

その大きな動作に、ブチッっと何かが切れるような音が、確かに聞こえた。

 

ここだ。

 

ついに、勝機が見えた。

 

そう思った瞬間にはボールは既に目の前に来ていた。

 

疲労により徐々に落ちていた球速が、急に初期のそれを取り戻していた。

 

「なっ!?」

 

――グローブでは間に合わない。

 

瞬時にそう判断し、即座に体を捻り左腕をはじくように当てる。

 

ゴッという鈍い音が響き、次いで慣性に従って交通事故にでも遭ったかのように体ごと左腕を後方へ持って行かれる。

 

それでも軌道を変えることには成功した。ボールは高く高く上へ昇っていく。

 

 

まだ、やれる。

 

 

幸いにも痛覚はほとんど麻痺している。痛みで動きを阻害される事はないだろう。

 

なんら難しいことはない。幾度となく捕ってきたただのキャッチャーフライだ。屋内故に風もない。

 

あれを捕って、投げ返せば、勝負は決まる。

 

雪ノ下は自身のことを顧みずに怪我をするまで闘い、由比ヶ浜はその雪ノ下が痛めつけられている様を耐えながら見守った。

 

その覚悟を、想いを、勝利という結果をもって肯定するのだ。

 

……だから、動けよ。

 

なんで俺はこんなところで寝てるんだよ。

 

まだ間に合う。

 

予測は正確に出来ている。

 

たかが2メートルも離れて無いだろ。

 

動けよ。

 

今すぐ立ち上がって、落下地点へ回り込むんだ。

 

僅かに残った気力を総動員して四つん這いになり、立ち上がろうとする。

 

立ち上がろうとしてはいるのだ。

 

それなのに、どうしてこの脚は言うことを聞かないんだ。

 

ボールは見えないが、もうすぐ落ちるだろう。

 

……ふざけるな。

 

ふざけるなよ比企谷八幡

 

雪ノ下を怪我させるほど酷使して、由比ヶ浜に極度の心労を与えてまでして、あの強敵を、後一歩のところまで追い詰めたのだ。

 

その結末が、これか。

 

無様に這いつくばって、無意味な敗北を晒すのか。

 

お前はそれでもいいだろう。お前みたいな端役がどうなろうと誰も気にしやしない。

 

だが、あいつらはどうなる。

 

雪ノ下に約束を破らせ、由比ヶ浜の顔に泥を塗ることになるのだ。

 

雪ノ下を口だけの無能に成り下がらせ、由比ヶ浜を威を借る蒙昧な女にならせてしまうのだ。

 

ふざけるな。

 

この闘いの、俺の中の主人公は、あいつらなんだ。

 

俺のせいで負けて良いはずがない。

 

こんな馬鹿な話が、あってたまるかよ!

 

「うああああぁぁぁぁっ!」

 

奇声を上げて己を奮い立たせ、動かない脚を、腕を動かす。

 

顔を上げている余裕はない。ボールは今まさに落ちようとしているだろう。

 

這いつくばった姿勢のまま両足を蹴り込み、左前方へと飛んだ。

 

ポスッという間隔をグローブに感じ、それを強く握りしめる。

 

直後、肘と膝、それに左頬が床と接触しキュッと音を立てて焼き付く間隔を覚えた。

 

一瞬の間を持って、静まりかえっていた観客から爆発したような歓声が巻き起こる。

 

今はそれを認識する間も惜しい。

 

体中の筋繊維が千切れるのを錯覚しつつ無理矢理立ち上がり、投球の構えを取る。

 

今こそ、雪ノ下が打ち込んだ楔を引き抜く時だ。

 

投法は、アンダースロー

 

舞う妖精さながらの美しさを纏っていた雪ノ下とは違い、見よう見まねの不格好なアンダースロー

 

今なら、出来るはずだ。

 

雪ノ下の姿はこの目に、隣で応援する由比ヶ浜の声は脳裏に焼き付いている。

 

速度はなくて良い。優先するは、角度のみ。

 

球はノロノロと輪を通り、しかし寸分違わず柏崎の頭上めがけて飛んでいく。

 

……これで充分だ。

 

俺は投げ終わると同時に、再び倒れ込む。

 

投げ返された事に驚いていた柏崎だったが、すぐに意識を切り替えて高く跳躍する。

 

高く、跳躍した、その瞬間。

 

ブチブチィッと不吉な音がし、ついにそれは崩壊した。

 

そして着地の瞬間、重みに耐えきれなくなったそれは役目を放棄し、中身を露わにする。

 

観客の誰もが目を疑ったはずだ。そして半分くらいは凝視しているはずだ。

 

『元々がそれ用ではない』ために、それは弱いところ、過負荷なところから壊れていく。

 

常に受け続けていた内部圧迫に加え、繰り返し与えられた跳躍という外的要因にその耐久度は加速度的に失われていた。

 

ボールは余裕で捕られている。しかし柏崎には投げ返す事は不可能だ。そんなものは見なくてもわかる。

 

と言うかあんまり見ないようにしないとこの後が危ない。下手したら死ぬ。

 

そう、『元々が運動用ではないメイド服』は、高負荷だった胸部から破け、それどころか手でも引っかけたのか、へそが見える程はだけている。

 

「なっ、なによこれ!?」

 

必死に両腕でちらつく黄色い下着を隠している柏崎。

 

事態を理解した観客の、いや、野郎共の野太い歓声が大気を振るわせる。先程に倍する声量のそれは、ガラスを割らんばかりでもう狂気を感じるレベル。

 

変な宗教が出来る程に人気が高い柏崎だ。当然注目度は抜群だった。

 

「ちょっ、こっ、小鷹! こっち見ないでよ!」

 

「み、見てねぇよ!」

 

そして周りにいるのは、羽瀬川を含む年中発情期の男子高校生。

 

どれだけ高スペックだろうが、この状況では動けまい。

 

そして5秒は経過し、俺は勝利した。

 

会場はまさにカオス。

 

狂声を上げる野郎共とそれを白眼視する女子生徒たち。

 

泣きながら俺への呪詛を撒き散らしてどこかへ走り去る柏崎。

 

俺はと言えば、独り横たわって目を瞑り、この後確実に訪れる審判の時に備え必死で頭を巡らせ、言い訳を考えている。

 

で、でも、勝ったんだし、あれは柏崎が勝手に自滅しただけだし、きっと許してくれ……ないよなぁ。

 

まぁ、それは後で考えるか。

 

少し横になっていたおかげで、体はなんとか動かせる。

 

のそのそと立ち上がり、各部の動きを確かめるためにストレッチをする。

 

グローブの中の左手は確かめるまでもなく動かない。

 

それ以外は概ね動かせるようだ。球をはじいた左腕はなんかヤバイ色をしているが。

 

三日月が消え、雪ノ下は由比ヶ浜に付き添われて保健室に行き、柏崎が走り去った。

 

観客たちも男女間の温度差は絶望的であるものの、それぞれがもと居た場所へと戻って行った。

 

残されたのは、俺と、羽瀬川のみ。

 

誰も見ておらず、ましてや誰にも求められていない、一人と独りの、最後の闘いが始まろうとしていた。

 

 

 

主役とは何か。

 

その物語において主要な役割を担うもののことであり、対象人物の歴史、足跡をなぞり思考を追うことでそれが形成される。

 

推理ものであれば主役は事件や謎に出くわしそれが収束するまでの経緯に焦点が絞られ、恋愛ものであれば主役の心の内を追うことになり、冒険譚であればその結果自体が主役となり得る。

 

主役たる彼、あるいは彼女は、その中で困難、災難に見舞われたり、ときには幸福を手にしたりもするだろう。

 

無論、主役の以外の脇役たちにも様々な経験をしてきただろうし、生きている限りはその後も経験していくはずだ。本人にとっては人生を変えてしまうような大きな出来事もあったことだろう。

 

しかし、それは主役とされた人物にとって直接関わりがない、または大して重要ではないがために脇役となるのだ。

 

つまるところ、観測者側が誰のどこにスポットを当てるかによって主役、脇役が決定されるということになる。

 

人は皆それぞれがそれぞれの物語の主役だという考え方もある上に、瞬間を切り取れば誰もが主役たり得ることもあるだろう。

 

それでも、今日この場において俺は一介の脇役である。

 

そして、そうであることを、誇りに思う。

 

観客も、奉仕部も隣人部も、互いに自分以外は誰もいなくなった。

 

いるのは、眼前の敵のみである。

 

羽瀬川は一度だけ柏崎が走り去った方を見ただけで、その後はずっと俺を睨むように見据えている。

 

柏崎をあんな形で敗走させたことに怒りを覚えているのか、その視線からは怒気を感じる。

 

無論、こちらはそれを覚悟でやった事だ。しかしそれを甘んじて受け入れる訳ではない。

 

羽瀬川は、何も認めないくせにさも当然かのような顔をして怒っているのだから。

 

俺だってあいつらに同じ事をされたら黙っているつもりなどない。

 

それはもう、あらゆる手を尽くして報復に出るだろう。もちろん秘密裏に、ではあるが。

 

この感情をなんと呼ぶかは理解している。認めることだって厭わない。

 

それが招くのは喜劇か、悲劇かはまだわからないが、どんな結果になるにせよ、俺はそれを受け入れよう。

 

それは、俺が求めてやまなかった『本物』の一部に触れることができた結果なのだから。

 

羽瀬川は未来の俺である。

 

雪ノ下と理想を押し付けたまま中途半端に互いを知ることになってしまった未来。

 

対処策を見いだせないまま由比ヶ浜に距離を詰められ追い込まれてしまった未来。

 

俺は、きっとああなる。

 

どんなに歯切れが悪く、気持ちの悪い関係でも、大切なものになってしまっただろう。

 

そして、また失敗する。

 

何よりも尊い『本物』を破壊して、滅茶苦茶にして、終わる。

 

まざまざとそれを見せつけられて何も感じないのは、いくら俺でも無理だ。

 

たぶんこれはきっと、変わった、ということではないのだろう。

 

人はそう簡単には変わらないし、変われない。常々思っていることだ。

 

恐らくこの感情は元から持っていたのだ。

 

猜疑心と自衛心、逃避と諦観とに埋め尽くされた心の、奥底の薄暗い片隅に、それは燻っていたのだ。

 

それが羽瀬川、ひいては隣人部という触媒を得て呼び起こされた。

 

俺は、次こそは失敗したくないのだ。

 

だからこそ、俺は俺の持てる力総てをもって羽瀬川の在り方を否定する。

 

「比企谷、お前は、何のために闘っている」

 

先程俺が柏崎にした質問を、そのまま俺にしてくる羽瀬川。

 

「……俺が思っている事を言ったところで、お前に理解なんてできやしねえよ」

 

「……そうか」

 

「だが、これだけは言っておく。俺はお前みたいな欺瞞に満ちた奴は、反吐が出る程嫌いだ」

 

「……欺瞞、か。そう言う奴がいるとは思ってた」

 

一度目を瞑って、言葉を切る羽瀬川。

 

「俺だってぬるま湯に浸かっていることくらい自覚してる。でも、誰かに気を遣うことが、人間関係を丸く収める行為がそんなに悪いことなのか? 俺はそう思わない。確かにお前が言うように、俺は誰かの気持ちを踏みにじってるのかもしれない。それでも、それがわかっていたとしても、みんなが前に進みたい訳じゃ無い。みんなが前に進める訳でも無い。今のこの関係が崩れたら、確実に壊れてしまう奴だっているんだ。今の関係が続くように努力している奴だっているんだ。ベクトルは違うかもしれないけど、隣人部に限らず、それはどこにでもあるはずだ」

 

再度話し始めた羽瀬川の口調は静かだが、内包されている感情は計り知れない。

 

だが、どんなに感情を込めて話そうが、それが相手に響くかはまた別の問題だ。

 

「価値があるとかないとかなんてのはどうでもいい。居場所があるだけでも、人は救われる。その居場所を作るのが下手な奴らが集まって、どうにかこうにかやっと手に入れた。例え自分本位の行動であっても、その結果救われる奴がいる。それを免罪符にするつもりはないし自分を正当化するわけでもない。けど、そんな努力をしている人の優しさまで『欺瞞』だなんて言葉で否定させはしない」

 

ギロリ、と一層苛烈に睨む羽瀬川。

 

「俺は、お前のように自前の理屈で他人に正しさを求めるよりも、ただ優しくありたいんだ」

 

「……はっ」

 

よりにもよって、優しさと来たか。

 

羽瀬川の言葉に、思わず乾いた嗤い声が出てしまう。相容れないのは既にわかっていたことだが、ここまでとは流石に予想していなかった。

 

俺が言う『欺瞞』を、まさか『優しさ』ととる奴がいるとは。

 

互いの顔色を伺い合って、黒くて汚い腹を探り合っているくせに上辺だけは関係を維持している奴らが優しいだと?

 

あまりにも思想が違いすぎてこれはもう嗤うしかない。

 

……ふざけんなよ。

 

そんなもんを優しさだなんて言わせてたまるか。

 

雪ノ下や由比ヶ浜の本物の関係こそ、それぞれが持つ『優しさ』の結果なのだ。

 

お前がそれを口に出すなどおこがましいにも程がある。

 

「羽瀬川の言う優しさってのは、随分と自分だけに優しいんだな」

 

ひとしきり嗤った後、皮肉をたっぷり詰め込んだ台詞に、羽瀬川の頬が引きつる。

 

「……お前とは、どうあってもわかり合えないな」

 

「よく言う。お互い初めからそんなつもりもないだろ」

 

「違いない」

 

羽瀬川は眼光はそのまま、口元だけで凶悪に苦笑すると左手にグローブをはめる。

 

議論は終了と言う事だろう。

 

俺ももう言いたいことは言った。これ以上はお互い不愉快な思いをするだけであり無駄なだけだ。

 

もはや言葉で主張をぶつけ合う段階は過ぎた。

 

ここまできても平行線のままであるのなら、残されているのはただ一つの道のみである。

 

さぁ、最っ高に素敵なパーティーしましょ!

 

 

ソロモンの悪夢、見せてあげる!

 

但し、悪夢を見ているのは俺である。

 

ルールは初期と同じ、所定の足下の線から投げ3ポイント先取で勝利となっているが、柏崎戦での消耗、負傷が思ったよりも深刻でなんだかもうヘロヘロした動きしかできない。

 

投げる腕には力が入らず、なんなら捕る腕にも力が入らないまである。

 

さっきはアドレナリンだばぁで痛みを感じなかっただけで、今はどこか1つ動かせば5箇所は痛むといった有様だ。

 

輪を通すのがやっと、掬うようにとるのがやっと、といった体で柏崎戦でも現れたゾンビの再来である。

 

それでも勝算はある。この闘いは完全勝利をもってこそ意味を持つのだ。

 

そのために、羽瀬川にはもうしばらくゾンビプレイに付き合ってもらおう。

 

 

アンデッド特有の粘りをみせ、尻は叩いていないが自分でも驚きの動きで無失点の膠着状態に陥っている。

 

まともな球を投げられない為、結果的にドロップばかりになったのが功を奏したのか、羽瀬川を消耗させることにも成功している。

 

観客もおらず時間制限もないため、倒しても倒しても蘇ってくるゾンビを相手にする羽瀬川の徒労感は相当なものだろう。

 

何度目かの幽体離脱をしかけたころ、やがてそれが訪れる。

 

ぱたぱたと駆ける、聞き慣れた足音が。俺にとっての、あらゆる意味での福音が。

 

小刻みに痙攣する左手からグローブをはずし右手へと持ち替える。

 

羽瀬川からはもう既にその姿が見えているだろう。

 

奴の目には、彼女はどう映っているのだろうか。

 

今日一日、折々で目の当たりにしたであろう彼女の行動は、どう移っていたのだろうか。

 

恐らく、俺が想像している事と大きく違わないだろう。

 

だからこそ、この作戦が成り立つのだ。

 

予測していた通り、彼女は駆けつけた。

 

信じていた通り、由比ヶ浜結衣は、文字通り駆けつけてくれたのだ。

 

羽瀬川の目を覚まさせてやろうなんて事は毛程も思ってなどいない。

 

誰かを頼ること、誰かと協力することが必ずしも正しい事だとも思っていない。

 

ただ単に、見せつけてやりたいだけなのだ。

 

羽瀬川がとろうとしなかったために、三日月や柏崎がとれなかったであろう行動を。

 

彼ら彼女らが得られる事が出来るかもしれなかった、その行動の結果がどういうものなのかを。

 

傷つきたくないのはわかる。

 

俺だって嫌だ。

 

でも、だからといって、自分が傷つきたくないかといって、それは他人を傷つけていい理由になどなりはしない。

 

他人を傷つけた代償は払わなければならない。そう遠くないうちに俺にもその時がくるだろう。

 

だが羽瀬川。

 

お前にとっては、今がその時だ。

 

断罪するのは由比ヶ浜結衣

 

否、彼女の、その在り方自体が奴を裁く。

 

振り向き、息を弾ませている由比ヶ浜にそっとグローブを差し出す。

 

由比ヶ浜

 

どうやら腐っているらしい俺の目を、しっかりと見据えて、由比ヶ浜は強く微笑む。

 

俺も、今回ばかりは視線を逸らさずに、その瞳を見つめ返す。

 

「うん。わかってる」

 

彼女はグローブを受け取ると、そっと俺の肩に触れてから揚々と決戦の地へと向かう。

 

「……由比ヶ浜さんは、なんの為に闘うんだ?」

 

位置についた由比ヶ浜に、例の質問を同じようにする羽瀬川。

 

「……あたしは、一人じゃなんにも出来ないけど、いつもみんなと上手くやってきた。今だって、なんでも出来るヒッキーと、ゆきのんと、奉仕部のみんなで闘ってる。奉仕部のみんなの為に闘ってる。だから……絶対、あたしは負けない!」

 

雪ノ下から俺、俺から由比ヶ浜へと引き継がれたグローブを抱え意気込む由比ヶ浜

 

その姿を見て、膝に手を突いて息を整えていた羽瀬川が眩しいものを見るような眼をして、どこか諦めたように呟く。

 

「……そうか」

 

もはや勝敗は決しているようなものだが、その呟きをもって由比ヶ浜対羽瀬川戦が開始された。

 

グローブごと役目を託した俺は、奮闘する由比ヶ浜を尻目に、げほげほと咳き込みつつ倒れ込みながらそのまま這いずって少し離れた位置まで離脱する。

 

ようやくの思いで観戦していた位置まで戻ると、随分前にも似たような事を聞いたことがあるような台詞が上から飛んできた。

 

「そうやって這いずっていると、斬新な土下座に見えなくもないわね」

 

見えねーよと、こちらに返事をする余裕などもちろん無く、もっと言えばするつもりもなかったので無視していると、ガッと腕を掴まれる。

 

怒らせてしまったのかとビクッとしたが、普通に助け起こされただけだった。

 

ビクついていたのを察したのか呆れたように溜息をつく雪ノ下。

 

「はぁ……あなたは人を何だと思っているのよ。別にその程度で怒ったりはしないわ」

 

今日散々キレまくっていた人が何を言っているんですかねぇ。

 

……まぁ、人の事は言えないか。

 

息が落ち着くまで助け起こされた状態のままだったが、雪ノ下の指は酷い怪我をしていた事を思い出す。

 

「指、大丈夫なのか」

 

「ええ。しばらく料理は出来ないけれど、その他の日常生活に支障はないわ」

 

「そうか……わr

 

「あなたに謝られる筋合いはないわ」

 

口をついて出そうになった謝罪に言葉をかぶせてくる雪ノ下。

 

「私は自分がしたいようにしただけよ。それとも、あなたが隠しているその左腕の怪我のことを謝れとでも言うのかしら」

 

「んなわけねぇだろ」

 

てかバレてたのかよ。本当に目端が利くというかなんというか……。もちろん、俺が失言するまで気付いてても指摘しないでいてくれた事も含めて、悪い気なんてしないけどな。

 

「でしょう? そういう事よ」

 

言いながら、ペットボトルのお茶を差し出しつつふっと優しく微笑む雪ノ下。

 

ありがたく受け取った瞬間、その表情に相応しく優しい声で次の言葉を紡ぐ。

 

「で、ここに戻ってくるまでに不思議な噂を聞いたのだけれど」

 

ギクリ、と今度こそ体が硬直する。死後硬直の予行演習かもしれない。

 

「噂によると『衣服が破けた状態の柏崎さんが泣きながら走っていた』ということらしいけれど、どういうことなのかしらね」

 

その表情と声音やめろよ怖ぇよだれかたすけて。

 

しかし怖がっていてもどうしようもない。生きて明日を迎えるために考えるんだ! 考えるんだはちまーん!

 

 

何も出ませんでした。

 

どんな言い訳をしたところで俺がしでかした事実に変わりはないので、もう素直に説明することにした。

 

そしてその説明が終わったにも関わらず、俺の生命活動はまだ終わっていない。

 

それどころか雪ノ下の方が由比ヶ浜の勝負を見守ることすら忘れて両手で顔を覆って懊悩している。

 

「碌でもない作戦だろうとは思っていたけれど、そんなことに手を貸していただなんて……」

 

しばらくそのままで時折唸ってもいたが、自分のなかでなにか決着がついたのかひとつ大きな深呼吸をすると、ようやく平常心を取り戻す。

 

「……元はと言えば、私の力量不足が招いた結果だものね。ごめんなさい、あなたを糾弾する資格は私にはなかったわ。私が負けさえしなけr

 

「違う」

 

俺自身が感じた程、思いの外強い口調に今度は雪ノ下が身を硬くする番だった。

 

「それは違うぞ、雪ノ下」

 

俺は由比ヶ浜と約束した。お前が困っていたら、手を差し伸べると。

 

そして俺自身も思った。お前を負けさせたくないと。

 

だからこそ、俺はお前と共闘することを選んだのだ。

 

「俺とお前は共闘し、柏崎に勝った」

 

固まったままこちらを見ている雪ノ下と目が合い、そこまで言ってなんだか急に恥ずかしくなる。

 

「だ、だから、お前も負けなかったんだよ、ゆきのsっごほっげほっ!」

 

照れ隠しに受け取ったお茶を飲みながら言ったため、気管に入ってしまった。若干キメ顔で言ってたのに……。

 

盛大にむせ始めた俺に驚いたのか、雪ノ下が目を見開いてフリーズしている。

 

しばらくして、俺が落ち着くのを待っていたように雪ノ下が口を開く。

 

「……そうね。あなたの最低な作戦のおかげで負けはしなかったわ」

 

もちろん自覚はある。我ながらなかなかのクズっぷりだと思う。やった事と言えば女子生徒を公衆の面前で下着姿に剥いただけである。

 

羽瀬川戦に至っては最終的に策とも呼べない人任せの丸投だ。罵倒も軽蔑もされるだろう。

 

だから、雪ノ下の次の行動は予測できなかった。

 

「でも、感謝しているわ。そ、その……ありがとう……は、八幡くん」

 

…………………………………………。

 

「は?」

 

「え?」

 

予想外の出来事に驚き、雪ノ下は驚いた俺を見て驚いている。

 

……あー、こいつあれか。さっきの勘違いしたのか。

 

察しの良い雪ノ下も間違いに気付き、はっとした表情をしたままみるみる顔を朱く染めていく。

 

痛々しく包帯が巻かれた手がわなわなと震え、顔の朱さが耳まで達し、あまりの羞恥からか若干涙目にまでなっている。

 

……まあ、わざわざ言う事でもない気もするが、今後のためにもここは一応言っておいた方が良いだろうな。

 

「いや違うから。お前勘違いし

 

「何が違うのかしら? 八幡くん」

 

「だから勘ちが

 

「何が? 八幡くん?」

 

勘違いを正そうとした俺に雪ノ下が言葉をかぶせてくる。

 

真っ赤な顔のままニコニコとし始めた雪ノ下はスッと目を細める。

 

その目から発せられている眼光は軽く人を殺せるレベル。イメージ的にはサイクロプスケロロではなく、キスショットとか整合騎士とかの方。

 

正直、超怖いです……。

 

「い、いえなんでもないでひゅ……」

 

あまりの恐怖になんか変な声が出た。

 

「そう、おかしな人ね」

 

そう言って可愛らしくクスクス笑うが、相変わらず破壊光線を照射しているのでただただ恐ろしいだけだった。

 

あー、はやくゆいがはまかえってきてくれないかなー。

 

願いが通じたのかどうか、タイミング良くその時が訪れた。

 

由比ヶ浜と闘い始めてから明らかに精彩を欠く動きをしていた羽瀬川は、一度は投げたボールが輪を通らず、そしてたった今二度目の取りこぼしをしたところだ。

 

結果、由比ヶ浜の3ポイント先取。由比ヶ浜、ひいては奉仕部は隣人部とのキャッチボール勝ち抜き戦に勝利した。

 

長かった隣人部との勝負もこれで終わり。三日月も柏崎も去った今、もはやこれを続ける意志も力も無いだろう。

 

全身で喜びを表現しつつ雪ノ下に飛びつく由比ヶ浜を横目に、羽瀬川の方を見る。

 

彼は由比ヶ浜と闘う直前に見せたように、やはり眩しそうに由比ヶ浜の事を見ていた。

 

そして俺と目が合う。

 

互いに何も言おうとせず、ほとんど睨み合うように見ているだけ。

 

数秒後、羽瀬川は背を向けるとどこかに去っていった。

 

「ヒッキー、何かあったの?」

 

喜びながらも異様な空気は察知していたのか、由比ヶ浜が問う。

 

「いや、なんでもない」

 

こちらから掛ける言葉など何もない。

 

無論、向こうからも何もないだろう。

 

しかし、間違いなく錯覚だろうが、『お前次第だ』という事を言い合った気がしていた。

 

奉仕部を、この二人を大切だと認めた俺は羽瀬川と同じ状況に陥ってしまうか、それとも別の解を出せるかは俺次第。

 

隣人部を、羽瀬川が望むような関係にできるか、それとも今のまま停滞して澱んでいくかは羽瀬川次第。

 

……錯覚だとしても。

 

この言葉は、胸に刻んでおこう。

 

体育館を出た俺たちは、まずシスターを捜し、乾かしてもらっていた服を受け取りにいくことにした。

 

聞くところによると、今の衣装を借りたところにいる高山ケイトに預けてきているらしい。

 

「なんか……今日は遊びに来ただけなのに、すごいことになっちゃってたね」

 

「……そうね。その原因を作った側が誰一人残らずにいなくなるのはどうなのかしらね」

 

「ま、まぁまぁゆきのん、勝てたんだからいいじゃん」

 

「それは、そうだけれど……」

 

先程から雪ノ下はやや機嫌が悪い。

 

どうやら羽瀬川含む隣人部の全員が去ってしまったため、戦後処理も特に何もなく締まりを悪くしているのがお気に召さないらしい。

 

俺としてはもう勝負の話はしないでもらいたい。

 

じゃないと、こうなる。

 

「あ、勝てたと言えば、ヒッキーはどうやって柏崎さんに勝ったの? なんか保健室から体育館に行く途中でなんか変な噂も聞いたけど」

 

「……あー、それな。噂の信憑性の無さはお前が一番知ってるだろ。気合いで勝ったんだよ、気合いで」

 

どうにかしどろもどろにならずにあらかじめ用意していた返答をする。

 

「ふーん」

 

明らかに納得していない様子だが、これはもう納得してもらうしかない。

 

もちろんここで余計な事を言うのが雪ノ下だが、今回に限っては何も言わない。

 

今ここで茶々を入れようものなら先程の勘違いを暴露する準備があるからだ。核の撃ち合いは雪ノ下も望むところではないだろう。

 

「ま、ゆきのんが何も言わないならそれでいいや。ヒッキーが頑張ったのは本当だもんね」

 

「……そうね。確かに今回の勝利は比企谷くんに依るところが大きいわね」

 

比企谷くん、のところをやや強調して発音したのは気のせいだということにしておこう。

 

「とにかく、今日はもう帰りましょう。流石に疲れてしまったわ」

 

「ふふっ、そうだね」

 

まるでいつもは疲れていないような雪ノ下の言い様に俺も由比ヶ浜も笑みを隠せない。

 

雪ノ下も流石に少し恥ずかしかったのか表情は変えないまでも歩みが早くなる。

 

「待ってよー、ゆきのん」

 

そんな雪ノ下の背にいつものように飛びつく由比ヶ浜

 

うっとうしそうにしつつも決して振りほどこうとはしない雪ノ下。

 

そして、それを少し離れたところから見ている俺。

 

これなんだろうな、きっと。

 

隣人部に、汚させたくなかったのは。

 

ほどなくして、目的地に着いた。

 

ドアを開けてみると、受付の席に高山ケイトが座っていた。

 

「おー、八幡くんたち。待ってたよ」

 

俺たちの姿を認めるとそう言いつつ振り返り、後ろに置いてあった篭をガサゴソと漁り始める。

 

「どれだったかな……。お、あったあった。ほい、乾かしといたよ」

 

「色々と悪いな。助かった」

 

口々にお礼を言いながらキレイに畳まれた服を受け取る。

 

「お礼はちゃんともらってるから気にしなくていいって。それよりも早く着替えた方がいいさね。そろそろ混み始めるだろうからね」

 

「わかった。……ってあれ? これ俺のじゃないぞ?」

 

「おっと、そうだったかい? なら悪いけどそっちの篭に戻しといてくれないかな」

 

わかった、と言いつつ服を持ち上げたところで体が固まる。

 

見慣れない服の下から出てきたのは、とても大きなサイズのピンクのアレ。

 

「えっ!? ちょっ!? ヒッキー!?」

 

驚いた声を上げたのは隣にいた由比ヶ浜

 

もうおわかりいただけただろうか。

 

そういう事です。

 

電光石火、由比ヶ浜は目にも止まらぬ早さでそれを引ったくる。

 

「マジあり得ないし! ヒッキーのばか! へんたい! えっち!!」

 

真っ赤な顔で睨み付けながらひとしきり叫んだ後、更衣室に駆け込んでいく。

 

残された者は、唖然とするばかりである。

 

「……あなたも不運ね」

 

再起動した雪ノ下が言う。

 

「……そう言ってくれるか」

 

「この場合比企谷くんに非はないし、取りなしておいてあげるわ」

 

「ああ、助かる」

 

「だからと言って、鼻の下をのば

 

唐突に言葉を切り、ある一点を凝視する雪ノ下。

 

つられて視線を追うと自分の手元に辿り着き、またしても見覚えのない服があった。

 

そして、その下からはみ出た、スカイブルーの肩紐。

 

視認した瞬間に持っていた服全てを雪ノ下に押し付けて即座に後ろを向いた俺の判断力を褒めて欲しい。

 

絶望的に長い数秒の後、カチコチに凍った声音が聞こえた。

 

「あなたも不運ね」

 

一瞬にして死を覚悟したが、カラコロと下駄の鳴る音が遠ざかるのを確認して、ようやく振り返ることができた。

 

俺の服は何事もなかったかのように手近な机の上に乗っていた。

 

それを回収したところで、高山ケイトが言う。

 

「先に言っておくけど、わたしは何もしてないからね」

 

続けて、にまにましながら言う。

 

「いやあ、あれだね、ラブひなだね」

 

「例えが古い……。お前本当に中身おっさんだろ……」

 

俺にはそう答えるのが精一杯だった。

 

普段仕事しないくせに急に働くからこんなことになるんだぜ、ラブコメの神様よ。

 

 

着替え終わり、高山ケイトに別れの挨拶をしてから校舎を出るまでに、先程の事はなかったことにするという暗黙の了解が出来ていた。

 

外に出てみれば雨が上がった直後のようで、足下に気をつければもう濡れることはなさそうだ。

 

校門に向かいつつ道中の屋台系の出店を周っていると徐々に陽が傾いていき、やがて夕方と呼べるような空模様になってきた。

 

帰りはもちろんバスで駅まで行くので、校門から出てすぐのバス停で次の便を待つ。帰り時だというのに、意外にも俺たちの他には誰も待っていない。

 

暇つぶし、というわけでもないが、今日の事を振り返る。

 

朝の小町との会話、雪ノ下と道に迷ったこと、由比ヶ浜を捜し回ったこと、射的、早食い、お化け屋敷、迷路、退出ゲーム、料理、そして最後の決戦。

 

まだ終わったわけではないが、思えば相当濃度の濃い一日だった。

 

由比ヶ浜は言うまでもなく、雪ノ下も少し名残惜しいのか、会話もなくしんみりした雰囲気が漂っている。

 

俺もその空気に中てられ、なんとはなしに空を見上げた。

 

ふと、刻一刻と色を変えていくその中で変わらずに七色に輝く帯を見つける。

 

「「「あ」」」

 

全員の呟きがかぶった直後、由比ヶ浜が空を指差して大声を上げる。

 

「みてみて! 虹だよ!」

 

「そうね、虹ね」

 

「ああ、虹だな」

 

雪ノ下も気付いていたのだろう、即座に応える。

 

「……え、二人とも反応薄いよ!? 虹だよ!? 珍しいよ!? キレイだよ!?」

 

「……ときどき、あなたの純真さについて行けないと思うこともあるけれど、そうね。綺麗なものは綺麗なのよね」

 

「雪ノ下の発言は思いっきり由比ヶ浜を馬鹿にしているような気もするが、そうだな。確かに珍しいしキレイだな」

 

「もう、なんでこんなにヒネてるかなーこの二人は」

 

「一緒にしないで頂戴」

「一緒にするな」

 

本日何度目かの台詞かぶりに、もう雪ノ下もうへぇ顔すらしない。ただ無視するだけになっている。

 

「ふふっ、仲良いよね、ほんと」

 

由比ヶ浜のその言葉には律儀に嫌な顔をしてみせるあたり、なかなか完成されてきているなこの女。

 

「あっ、そうだ! せっかくだし、記念写真撮ろうよ! 携帯しかないけど」

 

「……そうね。いいんじゃないかしら」

 

「あ、じゃあヒッキー真ん中ね。ってどうしよう、セルフタイマー機能ないし、誰も周りにいないよね? 早く誰か来てくれないと虹消えちゃうかも!」

 

今更な事で慌て始める由比ヶ浜

 

「落ち着きなさい。無い物ねだりをしても仕方ないわ。順番に撮れば全員で写れるでしょう?」

 

「……うーん、それしかないかぁ」

 

「いやいい、俺が撮るわ」

 

由比ヶ浜から携帯を引ったくって離れる。

 

「えぇっ!? ヒッキーも写ろうよ!?」

 

「ほら、早く並べ。虹が消えるぞ」

 

「でも! ってほんとだ! 少し薄くなってる!?」

 

慌てて髪を整えながら雪ノ下の横に並ぶ由比ヶ浜

 

この瞬間にも、どんどん虹は空に溶けていっている。恐らく、シャッターチャンスは一度きりだろう。

 

「ヒッキー、ほんとにいいの?」

 

「いいんだよ、別に。お前たちのは撮れるだろ」

 

この期に及んで俺を気遣ってくる由比ヶ浜。そんな彼女に、俺は精一杯優しく諭すように言う。

 

「それだけでも、撮ることが出来るんだ」

 

「……わかったわ。比企谷くん、お願い」

 

「……うん、わかった。ヒッキーが、撮ってくれるんだね」

 

「……任せろ」

 

物語が主役だけでは成り立たないように、お前たち二人じゃこの写真は撮れなかった。

 

俺という脇役がいたからこそ、この写真は撮ることができるのだ。

 

二人にそれが伝わったことが、二人がそれに理解を示してくれたことが、俺にとってはなによりの事だ。

 

由比ヶ浜曰く、薄い反応を返していた俺だが、実際はかなり驚いていた。

 

こんなことがあるのか、と。

 

苦戦の末に総力を結して勝利し、ぽんこつなラブコメの神様が思い出したかのように仕事をする。

 

そして、夕暮れに染まっていく空に架かる虹。

 

これはまるで、青春ラブコメのラストシーンのようじゃないか。

 

実際はここで終わりなどではなく、この後も人生は続いていく。

 

家に帰ればきっと、由比ヶ浜が見るなと言っていたメールの為に懊悩することになるのだろう。

 

内容と返答によっては奉仕部という関係が大きく動くことにもなるのかもしれない。

 

だからといって、今更この気持ちを無くすことなど、無理な話だ。

 

 

どんなに大切なものでも、いつか必ず喪う。

 

時の流れに逆らうことあたわず、いつか必ず風化する。

 

いつか傷つき、流れていった日々を振り返り、懐かしんで、羨んで、そんな自分にまた傷つく。

 

それでも、今は。

 

今はただ、カメラと、この目に焼き付けておけばいい。

 

蒼く染まっていく空と、色の欠けた虹と、それを背にして眩しそうに笑っている二人を。

 

俺と彼女らの関係は、いずれ喪われてしまうものだとしても。

 

今日ここで交わしたこのやり取りだけは、きっと、いつまでも、風化したりなどしない。

 

渇き始めた空にカシャリという音だけが響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

元スレ

八幡「青春ラブコメの主人公」

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