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二乃「私、自分で思ってたより性欲強かったみたいで」 風太郎「そんな自己申告はいらん……」【五等分の花嫁ss/アニメss】

 

 唐突だが二択だ。一つの選択肢は『遠回り』、もう一つは『見て見ぬふり』。

登校時間を考慮したときに前者は遅刻覚悟になるためちと厳しく、されど後者は著しく成功率が低そうだと考えるだけで分かる。 

 

 俺が何から逃れようとしているのかという問いに関しては、『面倒ごと』の一言で全て片付く。

最近しょっちゅう襲ってくる悪い予感というやつが、今日も朝からエンジン全開だ。

たまには俺を休ませてくれないものかと毒づいてみても、現実問題として設置型の爆弾が視界に収まっている以上対処しないわけにはいかない。

 

肺を空にする勢いで長く息を吐いて神経を尖らせ、ポケットから取り出した単語帳に意識を預ける。

 

幸いにも向こうはスマホをいじるのに必死なようだから、気づかれないうちに強引に突破するしかないだろう。 

 

 少しでも不自然な動きを見せればこちらを注視されてしまうだろうから、ここは駆け出したい心を必死に殺して普段と変わらぬペースで優雅に歩く。あくまで視線は前に向け、横にあるものにはまるで意識が向いていないとでもいうような涼しい表情を浮かべながら。

 

 対象との距離が縮まるごとに表情筋が引き攣りだすのが分かったが、それでも限度いっぱいまで平静を貫く。

せめて朝くらいは平穏無事な生活を送らせて欲しいのだ。 

 

 そんな俺の願いが神様にでも通じてか、彼女の様子に変化はない。

俺が血相を変えて声でもあげるだろうと高を括っていたのではないか。

その油断が命取りだぜと心の中でほくそ笑み、目の前を悠々と通り過ぎる。これで俺の勝ちは揺らがないものに変わった。 

 

 だから今急に鳴り出した俺のケータイの着信音は、きっとらいはからのものに違いない。それ以外、誰が該当するというのだ。馬鹿馬鹿しい。 

 

 その場で立ち止まって、ディスプレイに表示された名前を確認する。まあ、なんだ。念のためというか、一応というか。いたずら電話の可能性だってあるのだし、迂闊に行動して良いこともないからな。 

 

 そんな俺の懸念はやっぱり杞憂だったようで、コール音の主はきちんと電話帳に登録された人物だった。これでいたずらの線は消えたなとうっすら笑いながら、通話ボタンに手をかける。 

 

 

「…………もしもし」 

「なんで逃げ切れると思ったの?」 

 

 自分の声があまりに苦しげ過ぎて驚いた。

どうやら想像以上に肉体が絶望しているらしい。

いや、確かに、最初から成功率の低い賭けだとは承知していたけれども。 

 

 俺は律義にケータイを通して声を発したが、相手に関してはしょっぱなからそんなのお構いなしで肉声を用いてきた。

漢気に溢れすぎていて、俺は今にも泣いてしまいそうだ。 

 

「よ、よぉ。今気づいた」 

「ふざけてるのかしら」 

  

 左手を胸の下に回し、そこを土台のようにして右ひじを乗せる二乃。指先のスマホはもうお役御免なのか、つままれてぶんぶんと左右に揺らされるだけ。 

 

 

「しゅ、集中しててな」 

 

 手に持った単語帳を強調する。俺はすっかり勉強に没入してしまっていたから、周りのことになんかなんら意識が移らなかったのだと。 

 

「あんたさ」 

「なんだ……?」 

「困った時に前髪触る癖があるわよね、そんな感じで」 

「…………」 

 

 言われて気づいたが、俺の右手は無意識のうちに親指と人差し指で前髪をいじくっていたらしい。

意識下で制御できるものではないから癖と呼ばれるのだろうが、それにしたってそんな事細かなことを二乃に把握されているとは思っていなかった。

 

故に狼狽し、単語帳を手から取りこぼす。客観的に見て、今の俺は相当に挙動不審だ。 

 

 俺と二乃とのちょうど中間点に落ちたそれを、彼女が先んじて手にした。構図としては、奪い取られるように見えなくもなかったけれど。 

 

「はい」 

「お、おう。サンキュ」 

 

 なんてことなく目の前に差し出され、特に思うこともないまま受け取ろうと手を伸ばす。

ありきたりな善意に感謝こそすれ、この場において警戒を払うに足る要素が存在するとは思えなかった。……が、まあ、それが結局のところは俺の大いなる過失で。 

 

 完全に気を抜いていた折にぎゅっと力強く袖を引かれ、つんのめるようにして彼女との距離が意図せずして詰まる。

最近よく嗅ぐ匂いがして、状況的な類似点から、これは中野家で使用しているシャンプーの香りなのだなと理解した。

 

身長差がそこそこあるせいで、基本的に俺の鼻の位置はこいつらの頭に寄る。 

そのままの勢いで体が触れあってしまいそうなのを脚力と指先の力とでどうにか踏みとどまり、結果的に二乃が最至近で俺の首元を眺めるような体勢になる。

 

そしてそこには、隠しようもない痕が消えず残ったままでいて。

 

「昨日すれ違った時にもちらっと見えてたんだけど、これ」 

「虫刺されだ」 

「そう、最近多いもんね」 

「ああ、ほんと多すぎて困ってる」 

「で、どんな虫だったの?」 

「……蚊とか」 

「数字で言うと?」 

「…………」 

 

 まあそりゃそうだわなと嘆息を挟んだ。

こんな分かりやすい弁明にうんうん頷いてくれる奴なんているわけがない。……いや、昨日約一名と遭遇したけども。 

 

「教えてよ。あんたと私の仲じゃない」 

「なんだその仲……すまん俺が悪かったからやめてくれ無言で腹をさすらないでくれ」 

「で、誰?」 

「…………言えない」 

「三玖?」 

「…………」 

「一」 

「…………」 

 

 唐突に口に出された核心を突く数字に全身が硬直する。

だがここでボロを出すわけにはいかないとどうにか関係ないように装った。 

 

「三」 

「…………」 

「四」 

「…………」 

「五」 

「…………」 

「もっと露骨に反応するかと思ったけど全然ね。で、誰?」 

「頼むから勘弁してくれ。これ以上拗らせると高校卒業どころじゃなくなるだろ……」 

 

 ローラー戦法で助かった。これといった決まり手はなかったらしい。 

 

 本音で泣き落としにかかるとそれがちょっとだけ響いたようで、二乃の眉が数度ぴくぴくと動いた。

俺の本分と彼女の本願とを秤にかけたうえで検討してもらおうという寸法だ。

朝から全力で脳みそを回転させているせいで、既にちょっとだけお腹が空いてきた。 

 

「……はぁ、仕方ないから今回だけは見なかったことにしてあげる」 

「すま……助かる」 

  

 謝るのは何かが違う気がして、感謝の方に舵を切った。

まだそこまで暑い季節ではないはずなのに、俺の冷汗はまるで引く気配を見せない。 

 

「でもあんた、それはどうするのよ? 私以外にも気づく子がいると思うけど」 

「……む」 

 

 首筋を指さされる。確かにこれが残りっぱなしな以上、誰かに見咎められる可能性は必ずどこかに残り続ける。 

 

「それは……困るが」 

 

 だからといって、首の肉をこそぎ落としでもしない限り消えることはない痕だ。そしてそんなことをした暁には出血過多で即ゲームオーバーである。頸動脈のパワーを侮ってはいけない。 

 

「消し方、教えたげよっか?」 

「あるのか、そんなの?」 

「女子高生はそういうの詳しいわよ。雑誌とかに特集組まれてるし」 

 

 ティーン誌の掲載内容が年を追うごとに過激になっているという話は確かに聞き覚えがある。

そんなものを世間の女子高生が知っていると考えると世も末感が目まぐるしく加速していくが、こと今に関しては渡りに船だった。

見つかるとやばそうな相手に思い当たる節があり過ぎるためだ。 

 

「かなりの力技になるからいったん人目のつかない場所に行きましょ。準備もあるし」 

「ああ、頼む」 

 

 彼女に連れられ、入り組んだ路地の方に進む。いやあそれにしても、持つべきものは物知りな友人だな! 

 

「……あの、二乃?」 

「何よ?」 

「リップクリーム塗り直すのはいいから、さっさとその方法ってのを教えてくれよ」 

「これもそれに必要な作業なのよ。だからちょっと待ってて」 

「あ、そう……?」 

 

 鏡と睨めっこしながら入念にメイクを整え直している二乃にやきもきして催促するも、それすら手順の一部だと言われてしまえばそれ以上強く言うことは出来なかった。

悪魔的な儀式が始まるわけでもないのだろうが、正直現段階では何が起きるか想像も出来ない。 

 

「よし、じゃあ始めるわね」 

「お、頼むぞ」 

「やりやすいようちょっと上向いてちょうだい」 

「こうか?」 

「そうそう」 

 

 従うと、直後に首をこそばゆい感覚が襲った。ちらと覗き見ればメイク用のパフを使ってファンデーションを塗りこんでいるらしい。

なるほど、こうすれば色味をぼやかせるわけだ。

男には到底思いつかないし、思いついたところで道具も力量も足りないやり方なので、素直に感服する。 

 

 だが、今俺に対して行われている施術と彼女のメイク直しに何の因果関係があるのかが分からなかった。

俺をいじるだけなら、彼女の顔に手を加える必要はないのだから。 

 

「はい、鏡」 

「おお……大分目立たなくなってる」 

「まあざっとこんなところね」 

 

 化粧が俺の人生の役に立つ時がくるとは思わなかった。

ここは素直に礼を言って学校に―― 

 

「はい」 

「…………なに?」 

「だから、はい」 

 

 目を瞑って背伸びをしてついでに唇まですぼめて、二乃は俺に何かを乞うてくる。

ここは狭い路地で、だから滅多に人が来ることはない。

そんなところで、こいつは俺に何を要求しているのか。 

 

「感謝は口で伝えるって習わなかった?」 

「……マジで助かった。ありがとう」 

「感謝は行動で示せとも言うわよね」 

「……それに関しては追い追い」 

「その二つを組み合わせたときに何をするか、頭いいあんたなら分かるでしょ?」 

 

 些か短絡的な結論だと思うんだ、それ。別個の事象として成立すべき事柄だから、強引に一つにまとめたら本来あるべき役割を失ってしまう気がするし。

第一、そんな屁理屈をこねて強引に突っ込んだりしたら、場合によっては犯罪沙汰に……。 

 

「別にいいじゃない。二度目なんて大したことないでしょ?」 

「そういう話はしてないんだよ……」 

「……私とあんたがそろって遅刻したりしたら、他の子はどう思うかしらね」 

「うっ……」 

「ここはさっさと片付けちゃうのがスマートな対応だと思うなぁ」 

「…………分かった。分かったからちょっと黙れ」 

「あ……」 

 

 地獄が連鎖しないように、ここできちんと堰を設けるのだ。

そう自分に言い聞かせ、彼女の顎を持ち上げた。

すると、みるみるうちに紅潮する二乃の頬。

 

……この状況になっていきなり赤面するとか本当に……その、どうかと思うぞ。うん。

今更うぶっぽさを出されたところで、俺はこいつの本性を知っているわけなのだから。

……だからわざとらしく震えてみたりちょっと俺の袖に縋ったりする演技程度で、騙されるなんて思わないことだ。マジで。本当に。 

 

「んっ……」 

「…………ん、む」 

 

 俺に密着しようとする二乃をどうにかこうにか払いのけて、十秒足らずでお互いの距離を離した。

頭に血が上りかけたが、頬を張って正気を取り戻した。今の間に、何もやましいことなんてなかった。 

 

 だけどどうやら、二乃は俺の対応に少なからずの不満があるようで。 

 

「…………足りなくない?」 

「何がだよ?」 

「感謝の気持ち、みたいなの」 

「足りてるよ。今も俺の胸の中はお前への感謝でいっぱいだよ」 

「でも、それが私には伝わってないわけじゃない。それってどうなの?」 

「お前の感受性の問題に俺を巻き込まないでくれ」 

「いや、だからね。あんたの感謝で私の中をいっぱいにするとか、そういう方法もあるじゃない」 

「ないよ。どういう意味だよ」 

「セッ――」 

「あーーーーーー」 

 

 昨日も似たような方法を用いた気がする。忘れたけど。

それにしたって、そんな限界ギリギリの下ネタを言うようなキャラでもないだろうに。

この数日の間に、何が彼女を変えてしまったんだ。 

 

「いいじゃない。ちょっとくらい」 

「良くねえよ。ちょっとってなんだちょっとって」 

 

 その行為はちょっととか少しとかで片付けられるものではない。

付いてくる副詞はおそらく、がっつりだとか思いっきりだとか、そんなのばかりだ。 

 

「高校生なんてみんなお猿さんなんでしょ?」 

「全国の高校生に謝れ」 

「少なくとも私とあんたはお猿さんだったじゃない」 

「蒸し返すな。早く忘れろ」 

「あんなにすごいの覚えさせて後は放置するの?」 

「お前から襲ってきたんだろうが」 

 

 なんともいたちごっこで堂々巡りな感が拭えない。

今も着々と始業のベルまでの時間は近づいてきていて、このままで行くと結局そろって遅刻することになってしまいそうだ。 

 

 それは正直困る。疑われる。もっと拗れる。 

 

 そうなってしまえばさらに関係性の修復が困難になるのは明白で、だから俺はこの場で出せる最善策を考えなきゃいけないのだが……。 

 

 二乃は短丈のスカートをぱたぱた振って、十代半ばの瑞々しい太ももを惜しげもなくこちらに晒してくる。まあ、今更太もも程度でなんだよって話だけど。しかしながら、それでもなお視線が引き付けられてしまうのは一体なんなんだろうな……。 

 

「この下、気になる?」 

「たくし上げるな。さっさと下ろせ」 

 

 視線がバレたようで、俺を煽るように二乃がスカートの裾を大きく持ち上げた。咄嗟に目を逸らすも何か白系の布のようなものが見えてしまった気がする。しかしまあ、気のせいだということにしよう。 

 彼女は俺の要求に思いのほか従順で、そのままスカートを元に戻した。 

 ……そこまでなら、良かったのだが。 

 

「待て。下ろすな」 

「? あんたが言ったんじゃない」 

「スカートは下ろせと言った。だがその下の布に関しては何も触れてない」 

「布の下にはこの前触ったじゃない」 

「そういう話はしていない」 

 

 揚げてもいない足を取られた。ここまでくると完全に屁理屈のレベルで、だから俺はもうどうやって対応して良いのかも分からない。 

 

「私、自分で思ってたより性欲強かったみたいでね」 

「そんな自己申告は要らないんだよ……」 

「あんたとした時のことを思い出そうとして…..」 

「顔を赤らめるな。その羞恥はもっと早い段階で発動させろ」 

 

 もじもじと体をくねらせる二乃に、割とガチなトーンで説教をしそうになる。これが今どきスタンダードな女子高生なのだとしたら、きっとこの国に未来といったものは用意されていないのだろう。というか、用意されていない方がいい。ここらへんで滅んでおく方が長い視点で見たときに有益だとすら言える。 

 

「自分でなんとかしてくれ。他人に頼むようなことじゃないだろ」 

「……いいの?」 

「私、勉強なんか手につかなくなるわ」 

「マジでお前人として……」 

「それを、あんたがちょこっと力添えしてくれるだけで満足するって言ってるの。こんなのもうメリットしかないでしょ」 

「ガバガバ理論……」 

 

 俺のメリットはどこだそれ。……ああ、一応卒業までの障害をはらえるから完全無意味ってわけでもないのか。だけど、論調が無茶苦茶過ぎてどこから突っ込めばいいか分からないというのが正直な感想。

 

「分かったら早く…」 

「止めろ。俺はまだ何も理解してない!」 

 

「……いいでしょ、一回だけなら」 

 

 なんて、耳元で一言。 

 

 

 しかし、俺は知っているのだ。『ちょっと』とか、『一回』とか、『これだけ』とか、そういう何かを制限する言葉が最近まともに機能しなくなってしまっていることを。情動に任せて全てをかなぐり捨てるのが当たり前になってしまって、その場において後先を考えられなくなる。そして全部終わって悔いる。馴染みの流れだ。 

 だから、俺はもうその類の言葉をすんなり受け入れない。信じない。自分の流されやすさを過小評価しない。二乃の言う通り俺はお猿さんで、だからすぐ誘いに乗ってしまう馬鹿だ。それをきちんと理解した上で、頭をしっかり回してから、胸をちょっぴり張って、俺はこう言い放ってやった。 

 

「…………一限には遅れないようにだぞ」 

 

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ーーーーー

ーーーーーー

 

 昼休み、俺は屋上で一人膝を抱えて、購買で買ってきたパンをかじっていた。思い返すのは今朝のやらかし。

ぼろぼろになってしまった自制と、もう止まらない理性。 

 

 案の定遅刻ギリギリになった俺は体力不足の体をどうにかこうにか学校まで走らせて、気だるい午前の授業を乗り越えたのだった。

授業が気だるく感じられたのは、内容がどうこうの話ではないのだが。 

 

 もう、二乃の言葉を一切否定できない。潔く認めよう、俺はお猿さんだって。

どうしてしまったのだ俺は。 

 

 確かに思ったのに。

家庭教師業務の明日が見えてきたかもしれないって、ほんの少しだけ。

 

それなのに昨日の今日でこの有様では、もう目も当てられない。

お願いだから誰か俺を止めてくれ。

 

 

「やっちまったなぁ……」 

 

 両手で顔を覆って呟く。ここは無人だから悔いたい放題だ。後悔バイキング。後悔と航海がかかっているから語感もいい。

 

……本格的に脳みそがダメになってきた。よりにもよってダジャレに逃げるなんて。 

 

 だけど、そうやって逃避しないことにはどうしようもない。

どうしようもなく二乃の体温や息遣いを思い出してしまう。思考リソースを別の場所に割かないと、いよいよもって自分が自分でなくなってしまう。 

 

 

「何をやっちゃったの?」 

 

 喉の奥が引き攣った。独り言を聞かれてしまったというのもそうだが、それ以上にその声に聞き覚えがあったから。 

 

「隣、座るね?」 

 

 ぽすっと真隣に腰を下ろす女生徒。首に吊るしたヘッドフォンのおかげで、そこまで注視しなくてもこいつの名前は言い当てられる。 

 

「なんだよ三玖」 

「フータローが屋上行くのが見えたから、なんとなくついて行こうかなって」 

「そうかい」 

 

 横で三玖が弁当の包みを開けて、端の卵焼きをつついた。

今日もまた、二乃の手作りだろうか。 

 

「……欲しいの?」 

「いや、いい。ちょっと気になっただけだ」 

「ふーん」 

 

 ぱくぱくと弁当を食い進める三玖。

特にこれといった会話はないが、この前のことがあるのでやっぱりどうしても気まずさは残る。

何を話してもどこかで何かに引っかかってしまいそうだ。 

 

 高所だからか、風がある。

今は俺の座っている方が風下になっていて、そのせいで弁当のおかずの匂いが香ってきた。それはまだ食欲をそそられるだけだから良かったんだけど、問題は彼女の甘い髪の匂いまで風が運んでくることで……。 

 

 今朝嗅いだばかりのシャンプーの匂いに、一瞬目の前がくらついた。

感覚は結び付くもののようで、どうしてもその匂いを嗅いだ時に見ていたものや聞いていたことを容赦なく呼び覚ましてくるらしい。

だから俺の脳内には、今朝の二乃との秘め事が再展開されてしまって。 

 

 顔が赤くなるのが分かる。

それを三玖に気取られないように下を向くと、どうやらそれが逆に作用して心配されてしまった。 

 

「どうしたの?」 

「なんでもない……」 

「本当に?」 

「ああ、なんにもない……」 

  

 俺と同じ角度に顔を傾け、こちらを覗き見てくる三玖。良い匂いがするから、もう少し遠ざかって欲しい。 

 

「ねえ、フータロー」 

「ん?」 

「フータローって女装趣味とかある?」 

「ないけど。どうしたいきなり?」 

「いや、それなら大丈夫」 

「…………?」 

 

 突飛な質問に、頭上にクエスチョンマークを大量展開しながら対応する。どの角度から切り込めば、そんな話題を突っ込むことになるのだろうか。第一、俺の懐事情的に、そんなことをしていられるほどの余裕はないのに。 

 

「私、全然メイクとかしないから、コスメにはあんまり詳しくないんだけどね」 

「こすめ……?」 

「化粧品のこと。でもほら、フータローも知っての通り五姉妹だから、たまに実験台になったりもするの」 

「お、おお」 

「でね」 

 

 つつーっと伸びてきた三玖の右手人差し指が俺の上唇を撫でる。何事かとお尻一個分体を後ろに退かせると、慄く俺に対して、三玖が優しい声音で諭すように話しかけてきた。 

 

「二乃が使ってるリップには、ラメが入ってるの」 

「ラメって、あのキラキラ光る……?」 

「そう、こういうのね」 

「…………」 

 

 こんなところに分かりやすい例がありましたとでも言わんばかりに、三玖は俺の唇を拭った指の腹を見せてきた。……あら不思議、そこには太陽光を受けて綺麗に光る物質が。 

 

「フータロー、二乃にリップ貸してもらったんだね」 

「あ、ああ。今にも唇が裂けそうで」 

「うん」 

 

 三玖はにこやかな微笑みを崩さないままで、俺のほっぺたをつねってきた。 

 

「そんなことあるわけないよね?」 

「…………」 

「二乃、今日は一人だけ朝早く出ていったの。やることがあるからって」 

「…………」 

「……ナニをしてたんだろうね?」 

「…………」 

「ね?」 

「……………………」 

 

 目敏すぎる。誰がこんなのに気付くんだ。当の俺ですらまるで分からなかったってのに。 

 

 それにしたって絶体絶命。この場をどう誤魔化すかで今後の命運が別れてしまいそうだ。 

 

「……これはその、事故で」 

「どんな事故?」 

「あ、あいつが倒れ掛かってきて」 

「それでたまたま?」 

「ああ」 

「……ふーん」 

 

 俺の苦しい弁明を訝しむように、疑わし気な視線をこちらに向けて来る三玖。

騙せるなんて思っていないが、もし上手いこと勘違いしてくれるなら御の字だ。 

 

「ふーん……」 

「おい、三玖……?」 

 

 いつの間にか、三玖の見ている場所は唇よりも低い位置に。

そしてそこには……。 

 

「たまたまで首を吸っちゃうんだ。すごいね」 

「…………」 

 

 巧妙に隠してもらったものの、未だに接近されるときつい。

三玖はそこにある違和感も看破したようで、また人差し指ですくって、手についた粉末をぼんやりと見ていた。 

 

隠蔽工作」 

「……いや、その、それは違くて」 

「酷いなぁ、こんなこと。私の告白聞いた答えがこれなの?」 

「そ、そういうわけでもなくてだな……」 

 

 ややこしいことに、この痕をつけた相手も二乃だと勘違いされている。……いや、一花のことを話すくらいだったらそっちの方がまだ好都合だけど、今現在の立ち回りには大いに影響するというか……。 

 

「お詫び、ないの?」 

「お、お詫びとは……?」 

「悪いと思ってるのなら、なんとかして償うものだよね」 

「お、おう」 

「そういうのさ、ないの?」 

 

 こうやって詰め寄るのは、中野家五姉妹に共通する特徴なのだろうか。

なにも、そんなところまで似なくていいのに。

 

それにしたって詫びを入れる方法なんぞまるで思い当たる節がなく、だから俺は彼女に指示を仰がざるを得ないのだけど……。 

 

「どうすればいいんだよ……」 

「ここ」 

 

 三玖が指で示すのは己の首筋。普段はヘッドフォンで隠れているその部分。……そこをどうしろと? 

 

「ほら、早く」 

「……なにをしろと?」 

「言わなきゃ分からないの?」 

エスパーじゃないんだ」 

「同じ痕、私にもつけてよ」 

「…………えぇ」 

 

 まーた滅茶苦茶なことを仰る。それがどういった意味で謝罪の形を成すかがまったくもって意味不明だし、なぜか既に俺がそれを確実に遂行する流れになっているのもなかなか不服だ。

違った解決策の一つくらい用意しておいて欲しい。 

 

「昼休みもそんなに長くないんだし、早くしてよ」 

「……それ以外にないのか?」 

「うん」 

「やらなかったら……?」 

「不満で勉強手につかなくなるかも」 

「…………」 

 

 本当にそんなのばかりだ。

俺のウィークポイントを確かに押さえていらっしゃる。

その機転を他で生かしてくれればどれだけいいかと思いながらも、成績を下げられたら困ってしまうのは誰あらぬ俺自身で。 

 

「……逆に、してくれたら午後の授業も頑張って受けられると思うな」 

「…………」 

 

 そういう方面でも脅しをかけられるのか、こいつら。

 

確かに、こっちの方が幾分かポジティブな意味合いを含んでいるから、悪くなく聞こえるけれど。それにしたって報酬が俺の行動一つというのがなんとも……。 

 

「……これっきりで忘れろよ?」 

 

 過去の教訓はどこへやらで、目の前にぶら下がった人参にかぶりつく。

今はこの方法以外の上手い切り抜け方を見つけられない。

 

というか、見つけたところでそれは三玖のさじ加減でどうにでもなってしまうのだから、これが実質の唯一解なのだ。

だとしたら、腹を括らざるを得ないだろう。 

 

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ーーーーーー

 

 三玖はスマホのインカメを鏡代わりにその場所を確かめると、納得するように二度三度と頷く。……ついでに写真を撮った理由を聞くとドツボなので、それに関しては無視することに。 

 

「よし」 

「そりゃどうも……」 

「あとさ、フータロー。その痕をもうちょっとだけ目立たなくさせる方法、教えたげる」 

「今以上に?」 

「今以上に」 

 

 こういうのはやっぱり女子の領分なので、まだどうにかできる余地があるのかもしれない。上手いこと消せるなら、それは願ってもないことだ。 

 

「どうやるんだ?」 

「一番上のボタン外してもう少し首見せて」 

「こうか?」 

 

 素直に従う。もうこれ以上誰かに見つかりたくないので、俺も必死だ。二乃と三玖とでは専門領域が異なるので、違った見地から別の答えを出してくれるのだろう。そう信じている。 

 

「そのままもうちょっとこっちに寄って」 

「おう」 

「動いちゃダメね」 

「……おう?」 

 

 垂れ下がった髪を耳の後ろにかき上げてこちらに迫ってくる三玖。……なぜだろう、すごく嫌な予感がしてならない。

 

 

「……あの」 

「らに?」 

「……何をしているのでしょう?」 

「らから、いっられひょ?」 

 

 日本語でお願いしたい。一部の子音を使えない縛りでもしているのか。……確かに、唇が何かと接した状態での発音なら仕方ないかもしれないけれど。 

 

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「…………ふぅ、これでよし」 

「なにが良いんだか俺にはさっぱり分かんねえよ……」 

「言ったじゃん、『その痕を目立たなくさせる』って」 

「だからって新しい痕に視線寄せてたら意味がないんだって」 

「でも、言った通りだよ?」 

「明らかに騙す気満々じゃねえか……」 

  

 むふーっと笑ってご満悦の三玖。確かにこれで間違いなく前の痕は目立たなくなったけれど、もちろん俺が求めていたのはそういうミスディレクション的な裏技ではなく、正道の隠蔽であって。

 

だからこんなことをされると次なる隠し方を模索する必要性に駆られる。 

 

「どうすんだこれ……」 

「しばらくすれば消えるよ」 

「今日じゃないだろどう考えても。そもそもなんだってこんな……」 

「独り占めだよ、独り占め」 

「…………」 

 

 独占欲なら、もっと目に見えないところで発揮して欲しい。

いや、実際はそれも困るんだけど。だって俺こいつの所有物じゃないし。 

 

 しかし本当にどうしたものか。絆創膏なんて貼ろうものなら露骨が過ぎるし、かといってまた二乃に頼むわけにもいかない。

礼だの詫びだの難癖をつけられて、あらゆるものを搾り取られてしまう。 

 

 参った。完全にどん詰まりだ。上手いこと角度をつけながら人と接していくだとか、そういった形で苦し紛れに解決しないと。 

 

「じゃあ、そろそろいい?」 

「……?」 

「昼休みもそんなに長くないし、ぱぱっと終わらせちゃわないと」 

「自己完結しながら服を脱ぐな。何するつもりだお前」 

「…………私に言わせる気?」 

「恥じらうな。お前はもうそれが許される次元にいないんだから」 

「じゃあセッ――」 

「あーーーーーー」 

 

 数日の間に何度同じやり取りをすればいいのか。

いい加減に俺も精神疲労が溜まってきた。

当たり前のことを当たり前だと気づいてもらうまでに、これからどれだけの労力を費やせばいいのだろうか。 

 

「いいか三玖、ここは学校だ」 

「うん」 

「学校は勉学のために設置されているってのは理解できるか?」 

「うん」 

「理解している奴は答えながらブラウスを脱がない……ッ!」 

 

 これ以上の狼藉を許すまいと、彼女の肩に手を置いた。いささか勢いがつき過ぎたようで、三玖が「きゃっ」と小さな悲鳴を漏らす。 

 

「あーわり……じゃない! どさくさに紛れてタイツを脱ぐな!」 

「……脱がしたい?」 

「ちげえよ!」 

 

 酷い冤罪には断固として立ち向かわないといけない。

だって、俺にそんなフェチはないのだから。

たとえあったとしてもここではきちんと抗っていたはず。きっと。おそらく。 

 

「……やっぱり着たままが好きなんだ」 

「それも違う! 勘違いだ!」 

 

 俺に対する三玖の認識は大いにねじ曲がってしまっている。これはゆゆしき事態だ。 

 

「いいよ。私はどんなフータローでも全部受け止められるから」 

「もう訂正する気も起きねえよ」 

 

 慈愛の笑みを浮かべながら言うセリフではない。

名誉棄損もここまでくると一周まわって爽やかだ。俺に関わりのない属性を外野が勝手に付け足さないでくれ。

 

「……フータローのためだったら、なんでもやってあげるよ?」 

「…………不要」 

  

 流石にちょっとだけぐらついたが、要らないものは要らない。

そんなものを手にしたらとうとうおかしくなってしまう。

 

いくら俺がお猿さんであっても、超えてはいけないラインの選別が出来ないほど愚かではないのだ。

 

だから今、三玖の女の子な部分にばかり視線が向いている気がするのは完全なる思い違い。

 

「フータロー、どこ見てるの?」 

「……え、冤罪」 

「ほんとかなぁ?」 

「冤罪ったら冤罪なんだよ」 

 

 見ている場所を悟られないよう、手で廂を作るようにして彼女からの追撃を逃れる。

 

 取りあえず、この場から離れた方が良い。

衆人環視下ならバカなことは起こらないんだ。

だから、確実に人がいる教室なり学食なりに行って、昼の時間はやり過ごそう。

 

二乃や一花に出会ってしまう可能性も大いにあるが、この際それは捨て置く。

俺はもう自分を信用していないのだ。 

 

 ……なのに。 

  

「おい……」 

 

 肩に程よい重みが加わる。

見るまでもなく三玖の頭がそこにあるのが分かって、立ち上がろうとしていた気勢を盛大に削がれた。

 

本当はさっさと立ち去りたいはずなのに、俺の中の何者かがそれを阻んでいる。

 

最近この感覚に襲われることばかりで、ついに自分の意思決定権が失われてしまったのかと茫然とする。 

 

「フータロー、意外にがっしりしてるよね」 

「……肩だけで分かるもんでもないだろ」 

「肩以外にも色々知ってるし」 

「…………」 

 

 盛大に墓穴を掘った。

雄弁は銀だと諦めて、もう一生黙っていた方が良いんじゃなかろうか。

俺の場合、災いの元になっているのは口ではないけど。 

 

「まあ、暗かったから、そこまではっきり見えたわけじゃないけど」 

「…………」 

 

 絶対に反応しない。ツッコミは禁ずる。今口を開けば絶対におかしなことを言ってしまうという確信がある。 

  

 

「……ぉい」 

「~~♪」 

 

「触んな」 

「……フータローも私に触る?」 

「触らん。そういう問題じゃない」 

「……私は、フータローになら、どこでも触って欲しいけど」 

 

 やけに呼吸を置きながら協調に協調を重ねながら言うので、話半分に聞き逃そうにも上手く行かない。テンポの乱高下でこちらの意識に干渉するのはやめてもらいたい。

 

「……ダメ、かな?」 

「…………」 

 

 俺が答えないまま俯いていると、いっそう強く体同士が密着した。厚い胸の脂肪を貫通して彼女の鼓動音が届き、たじろぐ。一説によると生物の拍動回数には生まれた時点で限度があるらしい。種や属、あるいは個体によっても異なるという話だったか。……ではなぜ俺がそんなよしなしごとに思考を持っていかれているかといえば、このペースで三玖が心臓に負荷をかけ続けたら、五分もしないで死んでしまうのではないかと思ったからで。 

 

「恥ずかしいから聞かないで……」 

「羞恥のポイントがずれてんだよ……」 

  

 もっと恥じるべきタイミングがあった。俺視点から見ればいくらでも。なのに、なぜ早まる鼓動を聞かれたくらいで顔を紅潮させるのか。

そして、それならなぜ俺の腕を掴んだまま離さないのか。

 

「……だって」 

「だって?」 

「恥ずかしいけど、フータローには私のこと、ちゃんと全部知って欲しいから……」 

「……血液を送るペースなんて知らされても困るだけだ」 

 

 もう、そうとしか答えようがない。

情報の取扱いに難があり過ぎて、とっくに処理落ちしているのだ。

 

もし仮に、『隣にいるのが俺だから』ここまで胸が高鳴っているのだとして、どう返すのが正解なんだ。

 

慕情や恋情にはひたすらに疎い人生を送ってきて、唯一それに近いものを感じていたように思う相手からは直々にもう会えない旨を伝えられた。

その出来事すら完全に消化できていないくせに、どうして先のことに目が向けられようか。 

 

「……あと、困ってるフータロー見るの、ちょっとだけ好き」 

「人様の思考で遊ぶな」 

  

 再び小突いてやろうとして、無意識に絡めとられている肘を張ってしまった。柔らかい感触がより伝わってきて、そのまま咳き込みかける。 

 

「別に、遠慮なんてしなくていいのに」 

「そういうことじゃねえよ」 

「フータローの好きにしていいんだよ?」 

「……お前、そういうの本当にやめといた方が良いと思うぞ」 

 

 捨身が過ぎる。女性がみな貞淑であるべきだというのは前時代的な押し付けで好きではないが、それにしたってこいつはまずい。

献身と言えば聞こえは良いが、このレベルまで来ると次に目指すは人身御供あたりになる。

一人の異性に大ハマりして身を捧げるとか、人生設計としてはおおよそ最悪の部類だ。 

 

 たとえば、その相手が中東の石油王あたりなら悪いかじ取りではないように思えるかもしれない。

権力や名誉になびくのも一つの生き方ではある。

 

だけど、それならそれで、相手方の選定には極限まで慎重を期す必要があるわけだ。

自分の人生を賭けるに足るだけの見返りを、どこかに求めるのが普通なのだ。 

 

 それを考えた時に、俺の市場価値は限りなく低い。

自分で言っていて悲しいが、財やら名声やらとは程遠い場所にいるし、人間的な魅力もない。

学力に将来性を見込んだところで、バックグラウンドが俺より優れた人間の方が基本的には多いのだ。 

 

 だからこそ、こいつが俺に求めるものは自然と限られてきてしまう。

物質的な充足をもたらせる人間でないと分かり切っている以上、精神を満たす以外の道が消え去ってしまう。 

 

 それはつまり、その。 

 

 ただ、愛情を受け取りたいだけだということに……。 

 

「……私、そこまで魅力ないかな?」 

「そうじゃなくて」 

 

 頬のあたりを持ち上げたり、二の腕で胸部を強調したりしながら三玖は問う。

女性的な魅力がないならあんな滅茶苦茶なことはしねえだろうがと突っ込みたいが、この状況で持ち出すのは憚られたのでどうにかオブラートに包むことにした。 

 

「その……あれだ。あんまりがつがつし過ぎてると不安になる」 

 

 放っておいたらいずれ共依存のモデルにでもなっているのではないか。

 

とりわけこいつは自分の能力に自信を持てない奴だから、客観的に見ても大きく平均値を上回っている容姿で勝負に出たがるのかもしれない。……だが、短くない間それなりに近くで見てきた間柄として、そういう自己否定的なやり方を見せられるのはどうも、どうにも。

 

表立って言うほどのことではないにしろ、こいつにだって長所なりいいところなりはたくさんあって。

鈍い俺ですら発見できたそれが、彼女の強みに変わらないことはあり得ないと思うのだが。 

 

 簡明な言い方を選ぶのだとしたら……たとえば。 

 

「……別に、そんなやり方じゃなくてもなんとかなるんじゃないか、お前なら。俺にだってそう思わせられるんだから自分でも気づくだろ」 

 

 これは、意外にもしっくりきた。言葉にするとすとんと落ちた。

 

自分の限界を規定するのはいずれもたらされる結果の方であって、自分自身であってはいけない。

それを、伝わりやすい形でまとめられた気がする。 

 

 けれど、慣れないことは言うもんじゃない。さっきとは別の意味から体が熱いし、彼女の顔を見られない。 

 

 だけど、それっきり黙ってしまった三玖のことが気にならないわけでもなくて、沈黙に耐えかね、視線を横に向けると……。 

 

「…………」 

「いや、だから、羞恥のポイントがだな……」 

 

 元々の肌の色を思い出せないくらいにゆでだこ状態な三玖が、唇をもにゅもにゅ動かしていて。 

 それが限りなく小さな音での発声だと気づき、耳を傾けると。 

 

「フータローも、そういうの、ほんとにやめて……」 

 

 なんて、うわ言みたいに何度も何度も繰り返していた。 

 

 

 やがて三玖は首をぶんぶんと振って、どうにか今さっきの衝撃から回帰すると、真正面から俺を見据えて。 

 

「こうなったら、本格的に止まれなくなっちゃう……」 

「…………ぇ?」 

 

 俺の見立てでは、良い感じに和解する展開だった。

もうこんなやり方はしないからねって、そう言わせる流れだった。

 

なのにどうして、彼女の息はより荒く、瞳の色には熱っぽさが増しているのでしょうか……? 

 

「もうダメだよ……」 

「おい……おい?」 

 

「ご、ごめんね? いい話の後に、こんな。でも、もう無理」 

「何がどう無理なんだよ……ッ」 

「頭の中フータローでいっぱいになって、夜も眠れなくなっちゃう」 

「ちょ、待て……」 

 

ーーーー

ーーーーー

ーーーーーー

 

 放課後、俺は図書室の隅で参考書を展開しながら、馴染みの流れで後悔していた。

 

不幸中の幸いか首筋の痕について触れてくる相手はいなかったけれど、それ以上に俺の動きが不審だったので意味がないことだ。

 

 学生の本分を三玖に説いたはずなのに、当の俺自身がそれを遵守できていないのだから笑い種だろう。

誘惑してきたあちらの責任と言えばそれまでだが、結局それに乗っかったのは俺の意思である以上、言い訳をしようにもどこかに引っかかりが残ってしまう。 

 

 いい加減に、この状態を何とか改善せねばなるまい。

ずるずる続いて行くのが目に見えて明らかであるのだから、手を打つなら早いに越したことはない。

 

 となると、何から始めるべきか。

あくまで倫理と論理に則って、かつ実現可能な手法を模索しなければならない。 

 

 そう言うのは簡単でも、実際のところ、どうすればいいかなど分からなかった。

放置すればまた明日にでも連中は俺を襲ってくるだろうし、それに対して俺が流されてしまうのは明白。

 

 いっそ他所で彼女でも作ってしまおうかとでも思ったが、その後に何が起こるかを予期できない。

下手にやる気を削いでしまったら落第待ったなしなので、それこそ本末転倒。どうやったってどん詰まりだ。 

 

「あ、いたいた」 

「いない」 

「そっか。じゃあ隣失礼するね」 

 

 タイミングの悪さに関して、ここ最近の俺を凌駕する人類はいないのではないか。

比喩でもなんでもなく、明らかに俺の周囲の時空が歪んでいる。

おかしくなっている。どこに助けを求めればいいんだこれは。 

 

 よりにもよってこの状況での一花との邂逅は想定外。

今日はこそこそと逃げ隠れるつもりでいたのに、勘弁してくれ頼むから。 

 

「勉強しろよお前も」 

「してるしてる。それに関しては全然問題なし」 

「じゃあ今は何してんだよ」 

「ん、フータロー君探し。おしゃべりしようと思って」 

「俺は特に話すことなんてないぞ」 

「まあまあ。あんなことした仲じゃ――」 

 

 ノールックで口を塞ぐ。この動作にちょっと手慣れてきてしまっている自分に辟易するが、かと言って野放しにしていたら酷い単語が出てくるのは見え見えだし。 

 

 でも、昼の件があったのでそこには警戒をはらった。

すぐさま手を離して、人差し指を口の前でピンと立てた。 

 

「ここは図書室だ。私語厳禁」 

「はーい」 

 

 言ったきり黙りこくる一花。

 

彼女はどうやら俺の解いている問題を覗き見ているらしい。

横にいられると気が散るのは確かだが、ちょっかいさえかけてこなければなんとかなる。

俺も自分の時間をどこかで確保しないとまずいのだ。 

 

 だけれど、現実はそう単純ではなく。 

 

「ねえ」 

「集中できないから顔見てくんな」 

「フータロー君ってリップ使ってたっけ?」 

「…………」 

 

 とんでもなく不穏な単語を耳にし、硬直。

 

昼休みの後で唇をしっかり拭っておくつもりだったのが、あまりの疲労のせいかそのことを完全に忘却していた。

 

慌てて口許を隠すも、それがかえって容疑を確定的なものに変えてしまう。 

 

「……それが何だよ?」 

 

 虚勢を張る。開き直る。お願いだから見逃してくれと、心の底から祈りを込めて。 

 

「ううん、なんでもない」 

 

 奇跡的に祈りは通じたようで、一花からそれ以上の追及はなかった。

言い訳の弾がなかったので、今詰め寄られたら明らかに死んでいた。

危ないなんてもんじゃない。 

 

 ここまでくるともはや、ラメを俺に塗りたくるところまで含めて二乃の策略だったかのように思えてくる。

よしんばそうでなかったとして現実に俺の肝は冷えまくっているわけだから、とんでもない策士だ。 

 

「なんでもないならもういいだろ。頼むから集中させてくれ」 

「うん、そのつもり」 

 

 そう言っているのに、体のあちこちに視線を感じる。見定められている。 

 

 もしかすると、朝昼のドタバタの痕跡が残っていたりするのだろうか。染みとか、縒れとか。

 

急いでばかりで身を繕うタイミングを設けられなかったから、下手をすれば背中あたりにでも決定的な証拠があるのかもしれない。 

 

 だからといって、気にする素振りを見せるわけにはいかなかった。

だってそうすれば、当然彼女の注意もそちらに向いてしまうのだから。

 

なので、たとえ何があろうとなかろうと、俺の意識は机上のテキストとノートだけに向けられていなければならない。

そうしないことには、追及の手から逃れられない。 

 

 鉛筆を動かすスピードや眼球の運動にまで最大限の集中力を使う。

自然さを装うというのは存外に難しいもので、常に同じ調子でいればいいというものでもない。

 

演技で飯を食おうとしている人間の前でこんなことをするのには不安しかないが、死力を尽くせば何とかなる部分だってあるかもしれない。諦めるには、いささか早計。 

 

「さっき二乃に聞いたんだけどさ」 

「……集中させてくれ」 

「これだけこれだけ。ほんのちょっとだから許してよ。……でね、何を聞いたと思う?」 

「知らん」 

 

 心臓が狂ったようにビートを刻む。

よりによって、なんで今そいつの名前が出てくるんだ。 

 

「正解はねー」 

「…………」 

 

 昼のあの時と同様に、一花の細い指が俺の唇を端から撫でていった。

何を目的とした行為かは、今更語るまでもない。 

 

「『三玖にリップ貸した?』でした~」 

「……答えは?」 

「もちろん貸してないって。まあ、なかなかそんなことないしね」 

「だから……なんだよ」 

 

 出てくる解答なんて分かっている。

けれど、少しでも一花が的を外してくれていますように。 

 

 そう願って、見えないところで拳を強く握ったが。 

 

「二乃からフータロー君、で、フータロー君から三玖っていうのが私の予想」 

「…………」 

「一人だけ早くに出ていったから二乃は朝で、全然見かけなかったから三玖は昼かな?」 

「…………」 

「まあ、時間なんてどうでもいいけどね」 

「…………」 

 

 沈黙は金である。

なれど、ことこの状況に際してその金言を信奉し続けるには無理があった。そこまでいけば流石に妄信だ。 

 

 だから、何かしら言い返さないといけない。

打破するに足る何かを見つけねばならない。 

 

「……落ち着け」 

 

 だというのに、口から出てくるのは場繋ぎの言葉。

唾液が枯れて喉が引き攣り、体がおかしくなっている。頭が回らない。他人を騙せるだけの素材が用意できない。 

 

「フータロー君がまず落ち着いてよ」 

 

 よほど狼狽しているのか、向こうに気を遣われる始末だ。

しかしどうしろと。一花は、まだ二乃と俺との間に何があったかを知らないままなのに。知らないままでいてもらう予定だったのに。 

 

 ここで話すというのも手の一つではある。もうどうしようもないのは明白だから、大人しく全部ゲロってしまえばいい。

一花は理性的な方だから、理解はしてくれるかもしれない。 

 

 だが、その後はどうなるのか。どんな道に進んでも誰かしらのやる気は削がれて、全員そろっての卒業が夢物語になってしまう。

当初の目的が果たされないというのは、個人的に大問題だった。

 

金銭が発生しているというのも勿論だが、ここまできて責務を放り投げられない。どうしても信条に悖ってしまう。 

 

「別に責める気なんてないよ。付き合ってるわけでもないし」 

「…………」 

「だけど、あんまり見せつけられると妬けちゃうなって」 

 

 一花の手が、俺のシャツの襟をぺらっと捲った。そこにあるのは当然……。 

 

「上の、頑張って隠してあるのが私がつけたやつだよね。なら、その下が……三玖かな?」 

「…………」 

「お、当たった」 

 

 顔に出やすい性質らしい。

簡単な誘導尋問にいとも容易く引っかかっている。

 

まあ、二択のうちのどちらを答えに認定されようと、俺の立場は揺らぎはしないが。

なんせもう崖下にいるから、崖っぷちに追い込まれる心配がないのだ。

後ろ盾が消滅した人間は無敵。この前知ったことだ。 

 

「派手にやったね」 

 

 意識的にか、もしくは無意識か、三玖がつけた痕は一花につけられたものよりも一回り大きい。

内出血量をコントロールすることなんて出来ないだろうが、これが狙った結果なのだとしたら、独占欲とかいうやつの恐ろしさがいよいよ浮き彫りになってくる。 

 

「偶然だろ……」 

 

 そんな言葉しか出てこない。

認めてしまうのに抵抗がある。姉妹の間での張り合いなんて俺には分からないことだし、もし分かっていたとしても見て見ぬふりをする。厄介ごとに率先して突っ込むタイプではないのだ。 

 

「偶然でこんなになるかなぁ」 

 

 指先でその部分をつままれた。

自然と距離が詰まって、覚えてしまったシャンプーの匂いに視界が眩む。

 

見た目という点での視覚、匂いという点での嗅覚。

その二方向から攻め立てられるのは本当にもう、なんと言うか。 

 

 首に触れていた一花の指は、次第に顔の方へとスライドしてきた。

 

「さて」 

「…………」 

「なんでガードしちゃうの?」 

 

 予備動作なしでいきなり近づいてきた唇を、とっさに手で防いだ。我ながらなかなかの反射神経。……そう感嘆していられる状況でないのが何より残念だ。 

 

 一花は唇の先を尖らせ、いじけたような表情を作る。

俺の今の行動がさぞかし不満なのだろう。

 

二乃とも三玖ともしたくせに、と。

それなのになぜ自分は弾かれるのか、と。 

 

「いきなり来たら誰でもこうするだろ」 

「じゃあ、試してみる?」 

「何をだ」 

「フータロー君がいきなり私にキスしようとして、それが防がれるかどうか」 

「やらん。やる理由が見つからない」 

「誰でもって言ったんだから、私もそうじゃないとフータロー君が嘘つきになっちゃうよ?」 

「それなら嘘つきで構わん」 

「いけずだなぁ……」 

 

 比喩というものについて一から解説するのもやぶさかではなかったが、それをするのは少なくとも今じゃない気がした。

まず真っ先に、俺は常識を説くべきではないかと思うのだ。 

 

「下手くそだから嫌なの?」 

「なぜ自ら蒸しかえす……」 

「分かんないじゃん。そろそろ程よく上手になってる頃かもよ?」 

「二日で劇的に変わる能力なんてねえよ」 

 

 それが叶うならこいつらは一週間もあれば落第候補を脱せるし、俺だってもっと稼ぎに繋がる技能を習得しているはず。

 

それが不可能だから難儀しているのに、そう上手くいくわけなんてない。 

 

 練習に相手が不可欠な行為である以上、コソ練するのも無理なことだ。 

 

「フータロー君、日頃口が酸っぱくなるくらいインプットとアウトプットの重要性について語ってるじゃない」 

「俺で試すな」 

「フータロー君と上手にキスするのが目的なのに、他の人としたら意味ないでしょ?」 

「俺は一度だって自分の唇の権利を移譲した覚えはないぞ」 

 

 人権が蔑ろにされている気がした。さながら俺は綱引きの綱。

 

問題は、同時に三方向から引っ張られていることだろうか。

そろそろどこかに亀裂が入る頃合いだと思うんだが。 

 

「減るものじゃないのに」 

「見えないところで色々減ってることに気付け」 

「たとえば?」 

人間性」 

 

 基本的にこういう行為は許可制だ。

一方の感情で押し付けにかかるのはタブー。

下手をすると罪に問われる。

 

お宅の妹が未だに笑って日常生活を送れるのは、俺が告発していないからってだけなのだ。 

 

「じゃあ、キスしていい?」 

「ダメだ」 

「キス、しよっか?」 

「間に合ってる」 

「キス、したいな」 

「結構だ」 

「……泣くよ?」 

 

 新聞屋の勧誘を断る時と同じ流れだった。

言った俺自身、『間に合ってる』はちょっとまずいんじゃねえかなと思う。 

 

 泣かれるのは嫌なのでケアに走るべきか。 

 

「泣くのは勘弁してくれ」 

「演技じゃないよ。ガチな方だよ」 

「余計にタチが悪い……」 

「もう来てるもん、涙がここらへんまで」 

 

 一花は己の目頭をつねった。そんなところにまで到達していたら、もう引っ込ませるのは至難の業なのでは……? 

 

「どうすりゃ止まるんだよそれ」 

「キス」 

「打算まみれじゃねえか」 

 

 彼女の目頭を、今度は俺がつねった。

こうしていたら出てこなくなるというわけでもないだろうが、かと言って口車に乗ってやる義理はない。

俺は清廉に生きるのだ。 

 

「……フータロー君的にはさ」 

「なんだよ」 

「私の顔って好みから外れてる感じ?」 

「なんだいきなり……」 

 

 女の好き嫌いなんてこれまでの人生でまるで考えたことがない。

もちろん、好みの顔立ちなんてものもない。

 

整っていて悪いことはないと思うが、俺がそれを指定できるほどの人間かと問われれば、そこは首を傾げざるを得ないポイントだ。 

 

「女優なんてやってんだから容姿には自信あるんじゃねえの、お前?」 

 

 美少女を自称していたこともあったし、そこに関して異論をはさむ気もない。

見てくれについて言うのであれば姉妹そろって高水準だ。

で、俺のこの評価は誰もの共通認識と思って間違いない気がする。 

 

「まあ、うん。ないわけではないんだけど」 

「ならなぜ聞く」 

「ないわけじゃないからこそ、なかなか靡いてくれないのを見てると不安になっちゃうの」 

「はぁ」 

 

 複雑な乙女心というやつらしい。

まったくもって理解は不能だが、だからといって一笑に伏すべきでないというのも、俺はこれまでに学習してきた。

 

しかし、かけてやる言葉が思い浮かぶというわけでもなく。 

 

「そもそも色恋沙汰に興味のない俺に、そういうの期待すんのが間違ってるんだよ」 

「色ごとにはお熱だったのに?」 

「揚げ足とる専門家かお前は」 

 

 比重の問題だ。

性欲が云々の前に勉強を大切にしたいし、一度請け負ったことだからこいつらの卒業も叶えてやりたい。

人間、特定の期間に出来ることは限定されていて、だから今そちらに労力を割くくらいならば、もっと学を深めたいというのが正直な思い。 

 

「別にお前らのことが嫌いとかそういう話じゃない。ただ、今やるべきことはもっと他にあると思う。お前で言うなら仕事がそうかもしれないし、他の奴にしたって卒業だの進学だので山積みだ。その大事な時に、あっちこっちにエネルギー分散させるのは違うだろ」 

 

「まあ、それは……うん」 

「正論だろ?」 

「正論……だけどね」 

 

 だけど、なんだ。

やっていることがやっていることだけに説得力がないと言われたら黙るしかないが。

 

しかし、我が身を省みてばかりでは発言の一つも出来やしない。

確かに正論は潔白な人間が述べるのが何よりだが、そんな人間が存在するかどうかがそもそも疑問。

誰しも心のどこかに後ろめたさの一つや二つは持っているものだろう。 

 

 そして、正論への対抗手段なんて、別視点の正論か屁理屈かくらいのものだ。

それが今の彼女に用意できるかどうか。

 

「……でも、その、ね?」 

「同意を促すな」 

「いや、うん、分かってる。お仕事でもっと成功したいし、ここまで来たらちゃんと最後まで高校生もしたい。……けど」 

「けど?」 

「そっちに集中してる間にフータロー君が取られちゃったら、それこそ本末転倒というか……」 

「…………」 

 

 俺の立ち位置がどこに収まるかがそこまで重要な問題なのだろうか。

 

たかが学生恋愛なのに。……まあ確かに、対抗相手が存在しているせいでレースそのものが加速している感は否めないが。 

 

 でも、それは一種の集団幻想なのではないかと思いもする。

行列の出来るラーメン屋に並んだり、過去一等を出した宝くじの販売所に訪れたりといった類の。

そういう行為のどこに主体性が存在するかは、正直俺には分からなかった。 

 

 競争率の高さがそのものの価値を決定づけるという考え方を理解することは出来ても、すんなり納得することは出来ない。

それを認めてしまうと、自分の根幹を否定したような気分になる。 

 

「お前の優先順位はどうなってるんだか、ひとまず教えてくれ」 

「…………」 

 

 二の腕を人差し指でちょんちょんと触られた。……えぇ? 

 

「……マジで言ってんの?」 

「マジで言ってるの……」 

「おま、お前なぁ……」 

 

 ここは正確には「お前らなぁ」だったかもしれない。

彼女視点ではどちらでも構わないかもしれないが。 

 

「自分で言うのもあれだけど、絶対男の趣味悪いぞ」 

「それは薄々勘づいてたよぉ……」 

 

 勉強より仕事、仕事より俺ってか。なんだそれ。無茶苦茶だ。

俺は最低限の好感度を担保しようとしたことはあっても、惚れられる程のことを為した覚えはないのに。 

 

 振り返ってみても、好かれる要素がどこにあるかが分からない。

これは二乃や三玖にも通じることだが、こいつらは男に対する免疫が低すぎるんじゃないのか。 

 

 一花は机に突っ伏して、ぶつぶつ何かを語り始めた。……聞きたくねえなあ。 

  

「あんなにしつこく世話を焼こうとする人、初めてだったんだもん……」 

「いや、それは言ったろ。借金があるからだって」 

「どんなに言っても諦めようとしないし……」 

「それも金のためだって」 

「……そのくせ、自分は勝手にいなくなるしさ」 

「いや、あれは、その。俺以外に適任者がたくさん」 

「だと思うなら言ってくれればみんなちゃんと否定したのに。って言うか、この時点でもうお金のことどうでも良くなってるじゃん」 

「…………」 

「今だってほとんどボランティア状態だしさ……」 

「後からもらうって言ったろ」 

「今のフータロー君を見てると、それすら反故にしそうなんだもん……」 

「うっ……」 

 

 確かになあなあで終わらせてしまいそうな気がする。俺らしくもなくかっこつけて。 

 でも、言ってしまえばそれだけだ。

俺は職務を全うしようと奔走し、紆余曲折の末に彼女たちがそれに応えようとしただけ。

 

確かにただのビジネスパートナーというには密接に関わり過ぎてしまったが、俺は別に彼女たちにいいところを見せようと意図していない。

それが、どうしてこうなった。 

 

「顔あっつい……」 

「どうせなら耳も隠しとけ」 

 

 ショートヘアのせいで真っ赤な耳が丸見えだ。

彼女はそれについて失念していたようで、即座に両手で頭を覆い隠す。 

 

 口に出す気はないが、俺、たぶんそれの万倍は恥ずかしいもの見てんだけど。

本当に恥ずかしがるポイントがずれている。

もしかして遺伝だったりするのだろうか。 

 

「フータロー君に迷惑かけてるのは分かっても、さすがにこの気持ちを抑えつけとくのは無理だよ……」 

「そこをなんとか出来るから人間がここまで繁栄してこれたんだろ」 

「でも、好きなんだもん……」 

 

 彼女の体がこちらにすり寄ってきて、腕と腕がぴたりと密着する。

一花は基本薄着なので、体温の伝わりが早い。 

 

「ドキドキする……」 

「なぜ口に出す……」 

 

 黙ってればいいのに、そんなの。

実際、俺は言ってないし。心臓が忙しなく動いていたからなんだと言うんだ。 

 

 なおも一花は密着具合を高めてきて、男の硬くてごつごつした体ではどうやっても実現できない柔らかさを俺に与えてくる。

もうちょっと骨ばってくれているくらいの方が、かえって俺には優しかったかもしれない。 

  

「フータロー君さ」 

「なんだよ」 

「二乃とも、そういうこと、したの……?」 

 

 ここで聞くのかと頭が痛くなった。

 

聞かれるのは覚悟していたけれど、上手い返しはまだ思いついていない。

本当に、どうしたものか。 

 

 正直、隠しようが無いとは思っている。

どこかでばれるのは必定で、なら正直に話してしまう方が負う傷は少なくて済むのではないかと。

 

なんなら、俺が三玖とあんなことをしていた原因がそもそも二乃にあるのだと。 

 

 だけど、どうだろう。

打ち明けたからと言って何かが変わる未来は見えない。

ずっと行き止まりの前で立ち往生させられている気分になる。 

  

「たとえばだぞ」 

 

 だから、どうしても確かめたくなる。逃げ道を用意するために、彼女が何を地雷にしているかを確認したくなる。 

 

「たとえば、そうだって言ったらどうなるよ?」 

「……どうにも」 

「どうにもって?」 

「だって私、二乃がフータロー君のこと好きなの知ってるし」 

 

 それが日頃の態度で察したものか、それとも二乃自身が申告したかは判然としない。

 

あいつの性格的に牽制目的で言いふらすのはありそうだとも思ったが、再三に渡って羞恥心のバグを見せられているので、変なところで恥ずかしがって言っていない可能性も大いに考えられる。 

 

 だからここは「ああそう」と流した。

そこまで大々的に話を広げるポイントではないように思ったし、こんな箇所で拘泥していたら、一向に会話が進まない気がしたから。 

 

「あの子、やるとなったら周り見えなくなっちゃうから。だから、そういうことをしていたとしても不思議ではないなって思っちゃう」 

「まあ、そういう奴ではあるな……」 

「って言うか、そんなことを聞くって時点で半分自白だよね」 

「…………まあ、うん」 

 

 黙っていても肯定に取られるのだから、いっそ自分の口で事実だと認めることに決めた。

遅いか早いかの違いになるだけなのだから、さっさと諦めた方が良い。 

 

「今日が初めて……ではないんでしょ?」 

「……おう」 

「三玖とどっちが先?」 

「……二乃だな」 

「良いなぁ」 

「何が」 

「フータロー君の初めては二乃に捧げたわけでしょ。その特別感が羨ましいなあって」 

 

 別に大事に取ってきたわけでもないが、価値あるものだとは思っていなかったし。 

 

 使いどころを考えるべき代物だったのかもしれないなあと考えつつ、視線を横の一花に送る。

彼女は顔を俺の腕に埋めてしまって、だから表情を窺い知ることは叶わない。 

 

「私は初めてだったのに、フータロー君はそうじゃないんだもん」 

「…………」 

「気まずそうにするってことは、三玖にも似たようなこと言われた?」 

「見抜くな」 

「やっぱ姉妹なんだね」 

 

 あいつはもっと嫉妬の鬼みたいになっていたが、それは捨て置く。

黙っていても支障がないことをわざわざ詳らかにする必要性が見えないからだ。 

 

「姉妹そろって変な男の子に引っかかっちゃった」 

「おい」 

 

 否定できないのが苦しい。俺がまともな人間ならこんな泥沼人間関係を構築することはなかったんだし。

だが、その類の誹りをなんでもなく受け流すスキルは俺になく、自然、食って掛かる形になる。 

 

「……まあ、それがフータロー君でよかったなあとは思うけどね」 

「変な男の中でもマシな方だと?」 

「うん。楽しい人だったから」 

 

 真摯とか、誠実とか、そういう美辞麗句からは遠い存在となってしまった俺をそれでもどうにか褒めるにあたって、彼女は『楽しい』なんて単語を引っ張り出してきた。

 

もうちょっと他に言いようがあるだろとも思ったが、彼女の持つボキャブラリの中で最適に思えたのがそれなら否定は出来まい。

どうやら俺は、楽しい人間らしいから。 

 

「まあ、好きになっちゃったら全部が良く見えちゃうからどうしようもないね」 

「ダメ男に引っかかる未来が見えまくるぞお前」 

 

 俺自身、そのダメ男という分類にくくられるかもしれないけれど。でも一花からは『妻が内職で稼いだ金で博打を打つ男』に吸い寄せられそうな空気を感じる。少なくとも俺はそこまで堕ちるつもりはないから、ぎりぎり水際でセーフって感じか。 

 

 俺がかなり失礼な所感を述べたせいか、一花が腕を引っ張る力が強まった。どんな言葉で非難されるか、今のうちからヒヤヒヤものだ。 

 

「…………フータロー君が今のうちに確保しておいてくれれば、そんな心配ないのにね」 

「…………」 

 

 「正気か?」と口にしそうになって、寸前でどうにか引っ込めた。なぜこんな情緒も風情もない場所でプロポーズ紛いのことを言われているんだ俺は。お願いだからもっと先を見据えてものを言ってくれ。お前、馬鹿は馬鹿でも成績を除けばそこそこクレバーに立ち回れる奴だったはずだろ。 

 

「……ちょっと考えたでしょ」 

「何を」 

「私をお嫁さんにした未来」 

「考えてねえよ。なんでそうなる」 

「……………………私は考えたことあるからじゃない?」 

「自爆するくらいだったら最初から言うなよ……」 

「ちゃんとお部屋は掃除するよ?」 

「当たり前だそんなの」 

 

 汚部屋の自覚があるならぜひとも自分でなんとかしてくれという話。

それは人としての最低ラインだ。 

 

 しかしまあ、とんでもない爆弾を落としてくれやがる。

結婚を意識するのが交際すらしていない段階と言うのは、世間的にどう評価されるのだろうか。 

 

「ってかお前マジで顔熱いぞ。熱でもあるんじゃないか?」 

「演技だもん」 

「無茶を言うな」 

 

 熱に浮かされた演技で本当に熱が出るなら、そりゃあ未来の大女優様になれるだろうが。

でも、そんな強がりはあまりにも明け透けで。 

 

 手も、腕も、さっきから微細に震え続けているのに、それを覆い隠す論拠にはなり得ない。 

 

「演技ってことにしないと、いくらなんでも重すぎるでしょ……」 

「自覚があるなら自重しろ。俺はちょっとお前が怖いよ」 

「……私を選ぶって約束してくれるなら、喜んでそうするけど」 

「ほんとお前そういうところだぞ」 

 

 紛うことなきヤンデレの素質。

こいつの将来が心配で仕方ないぞ俺は。……そんなことを言うと、「なら――」と提案されるのが明白だから黙るけれども。 

 

「でも、好きなんだよ」 

「聞いた」 

「ここ最近、好きで好きでおかしくなりそうなの」 

「抑えろ」 

「それが無理だから、一昨日みたいになっちゃったの」 

「えぇ……」 

 

 アレを最終手段にするのは、いかに顔の良い女と言えどレッドゾーンだ。手順を踏んでくれお願いだから。 

 

「正直、今も……」 

「お前もそのパターンかよ」 

 

 うっかり口を滑らせてしまったのに気付いたのは、一花の唇が脇目も振らずに俺の唇を捉えた直後。

妹二人の行動に思うところのありそうな姉貴は、半分暴走でもするみたいに、俺の体に食らいついてきた。 

 

 一瞬、火傷を疑った。 

と言うのも、一花の口の中があまりにも熱すぎたから。

 

 ……というか、それよりも。 

 

明らかに上手になっていらっしゃるのですが……。 

 

 ここで思い当たる。

さっき俺は相手がいないと練習できない行為だと断言したが、恥を忍べば疑似的にそれに近い体験は可能だと。

 

古来から言われている、サクランボのへたを口の中で結ぶとか。

……そういや、弁当にそんなフルーツが入っていたような。 

 

「っ、フータローくん……」 

「…………」 

 

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「あのさ」 

「なに、フータロー君?」 

「今は誰も選ばないって約束したら、こういうの、終わりに出来るか?」 

 

「お前を選ぶわけじゃないけど、他の誰かに決めることもない。そう誓ったら、元通りの関係性に戻れるか?」 

 

 彼女の不安要素はそこだった。俺の帰属先がいったいどこになるのだと。だから、前もって自分はどこにも属さない旨を伝えておけば、なんとかなるかもしれないと思った。 

 

「いつまで保留する気?」 

「…………卒業までには、どうにか」 

「どういう基準で決めるの?」 

「成績順じゃねえかな」 

 

 半分冗談で告げると、一花の顔が青ざめる。

今以上に勉強する未来を想像したからかもしれない。 

 

 もちろんそんな風な選出基準は設けないけれど、ひとまずそれで沈静化が図れるならありがたい。

他の連中にもそう言って多少の安堵を与えれば、今より酷くなることはないだろう。……いや、選ぶ選ばないなんて言える立場なのかな俺……。 

 

「抜け駆けがないなら、お前は安心だろ」 

「まあ、うん。そうかも」 

「だったらそれで頼む。いつかちゃんとけじめはつけるから」 

 

 ここまでして責任の所在を有耶無耶にするのは人間として終わっている。だから、どんな形であれ結末ははっきりさせるつもりだ。……刺されそうだな、いつか。 

 

「……あの、フータロー君」 

「なんだ」 

「…………っ」 

 

 そこでまた、唐突に唇を塞がれる。交渉が一瞬で決裂したかと肩を落とす俺に、一花は一言。 

 

「これは抜け駆けに入る……かな?」 

「…………好きにしろ」 

 

 やっぱりどこまで行っても詰めが甘い。だけどこれで、どうにか活路が見いだせた気がする。初期の目標を達成できるだけの道筋をなんとか作れた。 

 

「…………あぅ」 

「ただし、一日一回までな」 

 

 またまた迫ってきた一花を片手で制する。俺に欲されていたのは、この鋼の精神だった。 

 家庭教師業務の明日は、俺が自分で作るのだ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

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