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五月「………あの、私、これだけ襲ってもいいお膳立て、したのですが///」 【五等分の花嫁ss/アニメss】

 

何度試そうにもこれ以上カレンダーを捲ることが出来なくなって、そこでようやく今が何月かを理解した。

玄関から一歩外に出ればそこにはもう冬が広がっており、間もなく今年が終わってしまうという事実をぼんやりと悟る。 

 

 すっかり歩きなれてしまった通学路に、ずいぶんとくたびれた制服。そういったものともあと数か月でお別れだ。

小学生の時も中学生の時も似たタイミングはあったはずで、しかし当時は何を思うでもなかった。だが、今回限りは少し特別。 

 

 嫌でも思い入れなきゃならない出来事と交錯し続けた高校生活。

特に二年後半からの攻勢は凄まじく、忘れようにも忘れられない記憶がちらほら。

 

その中には可能なら忘れ去ってしまいたいことも含まれているのだが、この際それは考えないことにしておく。 

 

 過去を振り返るたびに胸中にじんわり広がるこの感傷が、世に言う名残惜しさってやつなのだろうか。

 

結局のところは自問自答でこの問いに答えてくれる相手はおらず、だから永遠と自分の内側で反響するだけになってしまうのがうざったいけれど。 

 

 暖房の良く効いた職員室と比べて、廊下はお世辞にも快適とは言い難かった。

スラックスの裾から入り込む冷気に脚が震えて、連動するかのように歯の根がカチカチと鳴る。

 

白む吐息を見れば分かる通りに、節電はばっちり行われているようだ。環境保護に意欲的な施設のようで大いに結構。 

 

 それにしても、この時期の学校から漂う焦燥感はどうにも好きになれそうにない。

受験間近の三年生とそれを受け持つ教師たちは絶えず余裕のない顔をしているし、下級生もその勢いに飲み込まれているせいで非常に窮屈だ。

マンツーマンの面談やら面接練習やらがそこかしこで実施されていて、とにかく校内全体が息苦しさに満ち満ちている。 

 

 それらを受けて、嫌だなあと大きくため息をついた。

 

こちらの事情を一切顧みることなく変遷していく周辺世界に関してもそうだし、今までとは打って変わってその環境から影響を被ってしまいそうになっている俺に対してもそうなのだが、とにかくもう少しでもいいから穏便に回ってくれやしないものだろうか。 

 

「上杉君」 

「……ん」 

 

 教室への帰りしなに声をかけられる。誰かと思って顔を見れば、今日も今日とて頭部に星型のアクセサリーをくっつけた末っ子さんがそこには一人。彼女も寒さには強くないようで、冷気にあてられた頬はほんのりと紅潮していた。 

  

「職員室に用でも?」 

「ああ、まあな」 

 

 会う場所が会う場所で、歩く方向が歩く方向だったため、繕いようがなかった。

今の俺は誰から見ても、職員室から出てきた生徒だ。 

 

「ちょっと担任から呼び出されて」 

「……悪事を働いたりは」 

「してねえよ」 

 

 法律なり学則なりに触れた記憶はない。

というかちょっとくらいやんちゃをしたところでこれといった問題はないように思う。

 

学校なんて好成績さえキープしておけば教師の評価は自ずと高くなるのだから、これまで向こうも俺にガミガミ言ってくることはなかったし。 

 ……だがまあ、今回は事情が事情だったため、仕方なかった。 

 

「ではどんな理由でしょう?」 

「追い追い話すから待ってろ。ってかお前、人のこと心配してる余裕あるのか?」 

「……うっ」 

 

 露骨に目を逸らされる。

誤魔化そうにも俺は彼女のテスト結果を網羅しているので、口先で何を言おうと無駄だった。

 

直近の模試では、なかなか苦しいアルファベットが成績欄に印字されていた記憶がある。 

 

「俺はいいから、今は自分のことだけに集中しとけよ」 

「そうは言っても……」 

「ここに来てるってことはお前も職員室目当てなんだろ? ならさっさと行ってやれ。後がつかえる」 

 

 五月は妙に食い下がる気配を見せたが、意図してそれに取り合わず、そそくさとその場を脱する。

積極的に話したいことではなかったし、話すにしても場所を選ぶ必要があると思った。

 

少なくとも誰が盗み聞きしているかも分からない廊下で持ち出すような話題ではない。 

  

「後でちゃんと教えてくださいね!」 

 

 五月の声を背中で受けながら、室温を気にしなくても構わない教室へと向かう。

体が冷えていると、その延長で心まで凍えてしまいそうな気がしたから。 

 

 時期が時期だから、もう通常授業という名目で時間割が運営されていない。

何もかもが受験対策に染まっていて、ここが高校なのか予備校なのかの判定が自分の中で曖昧になってきているのが分かる。 

 

 午後イチのコマは発展演習ということで、有名大の過去問を解かされた。

幸か不幸か以前に手をつけた問題だったので制限時間の三分の一程度で解答欄を埋め終えて、残り時間を思考に費すことにする。 

 

 思い返すのは、先ほど職員室で問われた話題。

自分の中で未だに結論が出ていない、一つの大きな悩みについて。

この数か月で何度も考えさせられて、されどまるで答えがまとまってくれなかったこと。 

 

「…………」 

 

 プリントの端のスペースに、同じ長さの直線を角度を変えて数本書いて階段を作る。

その段に対応させるように小学校、中学校、高校と書いて、そして次に。 

 

「…………」 

 

 次に、何も書けなかった。

俺の思考力は現在を描くのに精いっぱいで、その先の未来を書き記してくれない。

数か月後の身分さえ、確定させることが叶わない。 

 

 どう想像しようにも上手く行ってはくれなかった。

先へ先へと進んでいくと必ず思考が断絶するポイントがあって、何度試してみてもその関を越えられないのだ。

そしてそれは、決まって進学や就職といった場所で発生する。 

 

 要するに、お先が真っ暗だった。

 

その場所に至る能力の持ち合わせはあるのに、それを活用している自分の姿が思い描けない。

目的なく手段を鍛え上げたツケをこんな時になって払わせられることに歯噛みし、今しがた書いたばかりの階段をHBの鉛筆で塗りつぶす。その像はまるで今の自分の脳内を図解したかのようで、直視するのが躊躇われた。

 

 教室に響くのはペンが文字を記す音と、クラスメイトの呼吸音。

それから、時計が秒針を刻む音。 

 

 そのどれもが優柔不断な俺を急かしているように思えて、逃げるように目を閉じた。 

 

 そんなことをしたって、白紙の進路調査票は埋まってくれやしないのに。 

 

 どんな問題も、永遠に保留しておけるならそれより楽なことはないのになと思う。

期限をどこまでも先延ばして、追及をのらりくらりとかわして、そうやっていつまでも面倒なことを考えずにいるのが許されるなら、俺もそっち側に流れるかもしれない。 

 

 けれど、現実としてそんなことを許容してくれるほど世界は甘く作られてはいなくて。だから遅かれ早かれ、満足の行く行かないにかかわらず、答えを迫られるときは必ずやって来る。 

 

「へんなかお」 

「そう思うなら見なきゃいいだろ」 

 

 図書室。机の上に必要なテキスト類をざっと並べて、黙々と励んでいたところ。 

別に招集をかけたわけでもないというのに、三玖は俺の対面の椅子をそっと引いて、そこに腰をおろした。 

 

「眉間にしわが寄ってる」 

「目が疲れてんだよ」 

「ほんとに?」 

「ほんとに。ついでに言えば脳とか体とか、他にも色々疲れはたまってる」 

 

 変な顔、というのは表情が苦しげだという意味だろうか。

考え事をするのならそれに関わる如何は己の内側に留めるべきで、外に漏出させるのは好ましくない。

芸とか品位とか、その他もろもろを問われる。 

 

 昔までならどれだけ険しい顔をしようが問題はなかったが、ここ最近は勝手に心配してくれる連中がいるので、下手な迷惑をかけたいとは思っていなかった。 

 

 それがこうやって三玖からの指摘を受けるほど目に見える変化を起こしてしまっているのなら、いよいよ深刻。 

 

「えい」 

「えい、じゃねえよ」 

「ほぐせば少しは良くなるかなって」 

 

 大きく身を乗り出した三玖が、指先で俺の眉間をつまんでくる。それに飽き足らず前後左右にぐりぐりと動かしてくるので、前を見るのもままならない。 

 

「そこをいじったところで疲れは取れなくないか?」 

「気分的に」 

「気分で解決はしないんだな、残念なことに」 

 

 原因は明らかに睡眠不足なので、保健室のベッドにでも潜り込むのが一番だ。

ただ、最近は寝つきも良好とはいえないからなんとも。 

 

 それ以前に解決すべきことが山積しているとの見方もあるが、俺の能力で片付けるのが不可能だからここまでだらだらと間延びしてしまったわけで。 

 

 眉間から下降して頬っぺたをつつき始めた三玖の手を退けて、目をノートに落とす。正直これ以上手を尽くしたところで意味があるかは微妙なのだが、気分的に妥協はしたくなかった。 

 

「無理はほどほどにね」 

「心得てる」 

「心得てるなら、ゆっくり休むべきだと思うんだけど」 

「……自分のことだけ考えりゃ良いのならそうしてたかもな」 

「……意外にお人好しだよね、フータロー」 

「意外は余計だ」 

 

 俺が現在扱っているのがセンター対策系の問題集だったのを見て、三玖は色々と察したようだ。 

 

「どうせなら皿まで食ってやろうと思ってな」 

「…………?」 

「こっちの話」 

 

 嫌味を言うようだが、俺自身はもうどうにでもなる。

国内の最高学府なら、基本的にどこだって射程だ。

なんなら明日に試験を持ってこられようが構わない。 

 

 だから、こちらの心配は、自分以外に預けられている。 

 

「ここまでやってきたんだ。どうせなら成功してもらった方が得だろ」 

「損得で考えるのがフータローらしいっていうか」 

「俺の一年の価値が問われてるからな」 

「そんなの、気にしなくてもいいのに」 

 

 気にするんだこれが。

自分のやって来たことが間違いだったかもしれないという憂いは、人生に大きな影を落としてしまうから。 

 

 というか、それ以上に。 

 

「本人の頑張りを知っちまってるから、応援してやりたくもなる」 

「お人好しと言うよりは、お節介焼きなのかもね」 

「否定はしない」 

 

 これから受験に臨む誰かさんのために躍起になって要点整理ノートなんて作っているのだから、そう言われても仕方ない。

ここまでくると介護に近い趣さえ感じる。 

 

 昼間はあんなことを言ったけれど、あいつの努力に関しては疑っていない。

要領が絶妙に悪いせいでこれまでは結実しなかったが、人生の大一番でくらい成功体験を味わってもらっても罰は当たらないだろう。 

  

「サポート頼むぞ」 

「うん、分かってる」 

 

 精神面のケアは俺の領分じゃない。

それはこれまでで嫌と言うほど理解させられているので、大人しく姉妹に丸投げしておく。

同じ家で過ごす家族である以上、俺なんかよりもよほど上手く立ち回ってくれるに違いないから。 

 

 得手不得手はどうしてもあって、そしてそれは彼女たちに限った話ではない。

克服しようと努めるのも大切だけれど、効率の方を優先させた方が丸く収まる場合だってある。おそらく、今は後者だ。 

 

 一年前よりは彼女たちのことを深く知って、一年前よりはその心の内を推し量ることに大きなウェイトを割くようにもなった。

けれどそこにはどうしても俺の性向上の限度が存在するので、踏み込み過ぎるのも考え物だ。 

  

「……で、お前はどんな用向きでここに来たんだ?」 

「好きな男の子の顔を近くで眺めておこうと思って」 

 

 一切の予備動作なく投下されたバンカーバスターの余波がどこまで広がっているか確認するために周囲を一通り見回すが、幸運にも聞き咎めた者はいないようだった。

 

聞いていないフリをしているのかもしれないが、別にそれでも構わない。

今この場において重要なのは、いかになんてことない感じで受け流せるかどうかだから。 

 

「……反応してもらえないと恥ずかしいんだけど」 

「悪いが今ちょうど切らしてる」 

「スーパーじゃあるまいし」 

 

 真っ向から受け止めて甘酸っぱい感じの雰囲気になってしまうと、間違いなく勉強どころではなくなる。 

 

 酷いことをしているという自覚はあるけれど、俺の考えられる最適解がこれである以上、頼らないわけにはいかない。 

 

「入荷予定はあるの?」 

「……数か月後じゃねえかな」 

「そっか。なら、気長に待つ」 

「わ――」 

 

 悪い。そう言いかけて、けれど途中で口を噤んだ。

どこかで致命的な間違いが発生している気がするというのが第一の理由で、第二には、それを弁解するだけの資格が自分に備わっているようには思えなかったというのが挙げられる。 

 

 やったことがやったことだ。

最低とか最悪とか、そのあたりの誹りは黙って全部受け止めておかないと。

一人で勝手に謝って、救われた気分になるのは何かが違う。

 

この話題に関してのみは、どうあっても彼女たちの優しさに甘えることは許されないと思うから。 

 

「わ?」 

「……忘れてたら言ってくれ」 

「じゃあ、今日から毎日催促を」 

「やっぱやめてくれ」 

 

 急ごしらえの方針転換なんてしても、何もいいことはなかった。

最低具合がさらに跳ね上がっただけだ。

マイナス百が二百になろうが三百になろうが零点を割り込んでいるというところでは同じなので、今更気にしたところでと感じたりもするけれど。 

 

「気付いたら四葉も手籠めにされてたし、もっとアピールしなきゃなって」 

「お願いだからそれ以上いじめないでくれ……」 

「朝帰りした後、冷や汗だらだらで苦笑いしてる四葉に何が起きたかを考えるのはすごく簡単だったよ」 

「その節は大変申し訳なく……」 

「申し訳なく思うなら、せめて最後くらいはきっぱりね」 

「……おう」 

 

 温情、あるいは憐憫。結局甘えに走ってしまっている俺は、思ったよりもずっと弱っちい人間らしい。 

 

 なればこそ、せめて彼女の言う通りに有終までは持っていきたかったが、『誰が』とか、『どういう理由で』とか、果たしてそんなことを言う権利が俺にあるのかどうか。 

 

 分からないなりにどうにかしようともがいていて、そのたびにずぶずぶと底なし沼へと沈んでいく。

 

厄介なことにじっとしていても体は泥に動きを奪われていくから、両者の違いは侵食速度の差だけ。それならばせめて自分の力で溺れてしまおうと思うのは、俺の傲慢か。 

 

「あ、そうだ」 

「なんだ」 

「三玖が一番って言う練習、ここでしておく?」 

「圧」 

 

えげつないプレッシャーだ。誰もかれも最近こんなのばっかり。 

 

 もっとなりふりを構って欲しいところだが俺の素行が素行なので強くは言えず、だから必然的に、彼女との視線の交わり合いをやんわり避けるところに帰着する。 

 

「……とにかく、俺は作業に戻るから」 

「ん、分かった。……見ててもいい?」 

「好きにしてくれ」 

 

 それから数時間、何をするでもなくただただ椅子に座りながら俺を見つめてくる三玖になんとも言えないものを感じながら、それでもどうにか予定していたものを作り上げた。 

 よくもまあ飽きないものだというのが、正直な感想だった。 

 

「これ、五月に渡しといてくれ」 

「自分で渡せばいいんじゃないの?」 

「こういうのは早い方がいいだろ。時間がそんなに残ってるわけでもないんだし」 

 

 ノートに題でもふっておこうかと思ったが、気の利いた文言が思いつかなかったのでそのままにした。

サルでもわかる』なんて喧伝した上で理解されなかったらあまりにも悲惨過ぎるので、変に凝らない方がいいとも思う。

外見より中身で勝負していけ。 

 

「……まあ、この時期にやたらめったら新しいものに手をつけるのは危険だとは分かってるんだけど、心情的に拠り所になるものがあると楽だからな」 

「了解。しっかり届ける」 

 

 三玖がノートを鞄にしまい終えるのを確認してから、その場を離れる。

 

思いの外手間取ってしまったというのもあって、図書室内の人影は既にまばらになっていた。

おおかた、暗くなる前に帰路に就こうという魂胆の連中が多かったんだろう。 

 

昇降口で緩慢に靴を履き替えて、外を眺める。 

 

 照明に慣れてしまった目に、夕闇はいくらか暗すぎた。

疲れ目では瞳孔の収縮も上手くいかず、また眉間にしわを寄せることになる。 

 

「ほら、さっさと帰るぞ」 

 

 振り返って言う。

ローファの踵がどうにも合わないらしくもたついている三玖を急かすために。 

 

「え……?」 

「なんだその困惑顔」 

「いや、いつものフータローなら一人ですぐに帰っちゃうところだから」 

「そうしたってどうせ付いてくるだろ、お前は」 

 

 もしかすると、俺は割と恥ずかしい類の勘違いをしてしまったのかもしれない。

すっかり一緒に帰るものだとばかり思って、それを前提に行動していた。 

 

 これを思い上がりと呼ばすになんと呼ぶといった感じだが、当の三玖はまんざらでもないらしかった。それどころか、ご満悦らしかった。 

 

「うん、付いてく」 

 

 言って、ようやくのこと立ち上がる。……けれど。 

 

「それはサービス対象外なんだが」 

「しーらない」 

 

 しっかり組まれた左腕を、半ば諦観の意を込めながら見下ろす。

独占欲の高さは姉妹に共通するようで、以前の二乃なり四葉なりを彷彿とさせるような、抜け出す方法が見つけ出せない完全な両腕によるホールドだった。 

 

 こんなことをしなくても走って逃げ出したりはしないというのに、一体何が彼女たちを突き動かすのか。……と、そこまで考えて、四葉の言が頭の中に甦る。

 

誰より近くで自分の欲しかった幸せを見せられる恐怖。

そもそもこいつらの定義する幸せになぜ俺が関与しているのかという根本的な疑問は飲み込めていないが、こいつらはこいつらなりに必死なのだろう。 

 

 だからこんな風に、捕らえた腕に頬ずりを―― 

 

「いくらなんでもそれはねえだろ」 

「せっかくだし」 

「お前も損得勘定で動いてるじゃねえか」 

 

 この指摘で多少は離れてくれるかと思ったが、どうやら彼女の決意は俺の思う以上に硬いようで。 

 なおも頑なに体をすり寄せてくるのを強引に引き剥がして、なんとか会話を続ける。 

 

「しゃーないから聞くわ。ずっと気になっていたことではあったんだけど、なぜここまで俺にご執心なんだお前?」 

「なぜって?」 

「いや、上手くは言えないけど……」 

 

「俺のどこが好きなんだ?」と正面切って言う胆力はなかった。

自分の口で言うと認知を確定させてしまったようで悔しさが滲むというのもある。 

 

 しかし、これはずっと気になっていたことではあったのだ。

男の趣味が悪いなーと漠然と感じはしていたが、そこに明確な理由付けがなされているのなら、聞いておきたい。

 

敵と己を知って百戦百勝の構えだ。 

 

「なぜってどういうこと? もっとはっきり聞いて欲しい」 

「さてはお前分かってやってるな?」 

「分からない。何も。だからはっきり聞いて欲しい」 

「三十六計」 

「逃げるに如か……あ、ちょっと。待ってよフータロー」 

 

 形勢不利と見たら取りあえず逃げる。兵法の基本だ。 

 

 俺がいつから戦争に参加していたのかは謎だが、ここは歩幅を大きく広げて、三玖の意識を歩行に割かせることに注力する。

俺の脚の方が長いので、加減をやめれば歩行距離に差がつくのだ。 

 

 しかし、俺の権謀は虚しく散る。というのも、しばらく黙ってもらおうと思っていたのに、突然三玖が口を開いたからで。 

 

「…………まさに、こんなところとか」 

「意味が分からん」 

「いつもはこっそり歩幅合わせてくれてるってことでしょ」 

「…………」 

 

 完全に無意識なので、いきなり言われても困惑するしかない。確かに横並びで歩くことには慣れてきたけれど、そこに隠れた意図なんて一つも……。 

 

「そういうところがあったかいなあって」 

「……誰でもしてるだろそんなの」 

「そういう素直じゃないところも」 

「無理やり好きな要素増やそうとしてないか……?」 

 

 単純な疑問。天邪鬼な部分まで気に入られても困る。

卑屈だったりひねくれていたり、少なくとも俺の性格は褒めそやされるようなもんじゃない。 

 

 ここまでくるとどうにも恋に恋している感が強くなっている気がして、そこから漂う違和感が拭えなかった。

盲目的すぎるのは、流石に違うように思う。 

 

「人を好きになるって、要はそれでしょ?」 

「それってどれだ」 

「一つ『ここがいいなー』って思ったら、だんだん他のところにも目が向くようになるの。それで気が付いたら、その人の全部が好きになってる」 

「……じゃあさ」 

 

 大本。根っこ。今に至る原因。

それがあると彼女は言うのだから、この際教えてもらうことにしよう。 

 

「最初の一つってなんだったんだよ?」 

「さあ?」 

「さあって」 

 

 いきなりの矛盾。自身の言葉を彼女本人が否定しにかかっている。 

 

 今の言葉から鑑みるに、何かしらの理由が必要不可欠なはずだった。それがないなら、今こうなってはいないって。 

 なのに当人がこの調子では、何をもってその発言が裏付けられるかが不明瞭になってしまう。 

 

「押しに弱かったのかもね、私」 

「口説いた覚えなんてないぞ」 

「違くて。ほら、フータローはさ、最初から距離を気にしないでぐいぐい詰めてきたから」 

「仕事だったし……」 

「それにしたって強引だったよ」 

 

 俺なりに必死だったので仕方のないことだ。

生活がかかっている以上、適当に投げるわけにはいかなかった。 

 

 結果として、大きく踏み込み過ぎたというのはあると思う。

だがしかし、それで陥落するのはいくらなんでも耐性がなさすぎる。 

 

「きっかけはたぶん、そんな感じ。こんなに近くに男の人がいるの、初めてだったから」 

「引き運が悪くて残念だったな」 

「ん、どうだろ」 

 

 言って、三玖はそのまますり寄ってくる。

人懐こい猫を思わせる動きに、人としての尊厳を問いたくなった。 

 

「フータローじゃなかったら、きっとこうはならなかったと思うなぁ」 

「…………それは嫌味か?」 

「半分はね」 

「もう半分は?」 

「……感謝、かな?」 

 

 確かに私生活をはちゃめちゃに荒らしはしたが、その中でも仕事に関してはきっちりこなしてきた。

その部分に恩義を感じるというのなら、受け入れられなくもなかったり。

今考えれば、プロに任せていた方がもっと丸く収まったのではないかと思いもするけれど。 

 

 ……が、そんな俺の内心を知ってか知らずか、三玖は否定を示す次の言葉を紡いでいく。 

 

「フータローに会えたおかげで、昔よりずっと自信がついたから」 

「別に、いずれどうにかなってたろ」 

「じゃあ、その『いずれ』を手っ取り早く引き連れてきてくれたフータローには、俄然感謝をしなくちゃね」 

「そういうもんかね」 

「前と違って、好きなものを素直に好きって言えるようになったよ」 

「……なんだその目は」 

「好きな人を見る目」 

「…………」 

 

 これ以上のやり取りは不毛と言うか、俺の精神力が一方的に摩耗していくだけというか。 

 

 とにかく、今は何を言っても墓穴を掘ってしまいそうな気がしたので、一度口を紡ぐ選択をした。 

 

「フータローが恥ずかしがり屋さんなのは知ってるから」 

「……ただの予防策だっての」 

「何を予防するの?」 

「主に失言。それと、そこから来る揚げ足取り」 

 

 一度口に出した言葉は引っ込みがつかないので、吟味を挟んでいくしかない。

思考と発言を直結させるのは安易すぎる。

少なくとも、俺の性格とは相性が良くない。 

 

「黙ったら黙ったで、私の言葉が刺さってるのが分かって嬉しいけど」 

「そう言われたらとうとう打つ手がねーよ」 

「打たなきゃいいんだよ。私はいつでも準備万端だから」 

「一応聞いとく。何の準備だ?」 

「嫁入り」 

「こえーよ。怖い」 

 

 みんな怖い。どこまで先を見てるんだか分からなさすぎる。

三玖を見るに『冗談だよ』と否定する様子もなさそうなのがまた、俺の不安を煽り立ててくるのだ。 

 

 こういう奴らを四人ほど相手にしていくのか、

俺は。業があまりにも深すぎて今にもこの場で泣き出しそうだ。 

 

「私をこんな風にした責任は、フータローにあるんだからね?」 

「安直に病むな」 

「……それは冗談としても、良いよね、お嫁さん」 

「男だからその感情は分からん」 

「お嫁さんって、女の子にとってはウェディングドレスのイメージだから」 

 

 基本的に一生に一度だけ世話になる華美な服装。

大きな晴れ舞台として、深層意識では誰もが憧れるものなのだろうか。 

 

「一応仏教国なんだけどな、日本」 

「フータローは白無垢の方が好み……?」 

「そういう意図はない。ってかそれは神道だろ」 

「神前式も趣があって良いよね」 

「ここで歴女の顔を出すな」 

「紋付の袴、似合いそうだし」 

「バージンロードって和製英語らしいぞ」 

 

 向こうが会話を放棄して妄想に耽り始めたので、こちらも大暴投することにした。キャッチボールなんて知らない。 

 

 しかしその球は三玖の体を掠めたようで、「へー」と頷いているようだ。 

 

「バージン」 

「なぜそこで区切った」 

「バージン……」 

「なぜ俺を見る」 

「いや、もうあげちゃったなと思って」 

「胃が千切れるから勘弁してくれ」 

 

 やっぱり、口は災禍を招いてしまう。

この際だから大人しく声帯でも潰しておこうか。 

 

 それ以上に災いを呼んでくる器官があることには薄々勘づいているが、ここを切除する想像をすると全身が震えあがるのでやめておく。命は惜しい。 

 

「まあいいや。誰かさんが私の憧れを叶えてくれるように、今からお祈りしておくね」 

「それは脅迫って言うんだぜ」 

「それでもいいよ。なりふり構う余裕がないもん」 

 

 外気は冷たいはずなのに、三玖はそれを感じる余地すら残してくれない。

肌のふれあいと、それから心のふれあいでもって、さっきからずっと体が火照っている。 

 

 いっそ雪でも降ってくれれば話題を逸らすことも出来るんだけどなと思いつつも、そういえば彼女と会ってから、進路に関しての懊悩を一時的に忘れられていたことに気付く。

代償に、同等の爆弾を落とされはしたけれど。 

 

「なあ、三玖」 

「なあに」 

「お前、将来の夢ってあるか?」 

「フータローのお嫁さん」 

「ノータイムで答えんな。……でも、そうか」 

 

 ぱっと出てくる選択肢があるだけ羨ましい。

俺には、それすらないから。 

 

 これさえあればというものが自分の中央に座っていないのは、今思えば歪な精神構造なのかもしれない。

たかだか十八のガキに、未来を決める決断を迫るだけ無謀だという見方も出来なくはないけれど。 

 

「フータローには何かあるの?」 

「……さあ、どうだかな」 

「ないなら、見つけるのを手伝うよ。恩返しにね」 

「恩なんか売ってねえよ」 

「勝手に買ったもん」 

 

 正規の購入手続きを経てくれと毒づく。

だが、協力者がいる方が、頼もしいか。 

 

「大丈夫。私たちに勉強を教えるより難しいことなんて、世の中に存在しないんだから」 

「それだけ説得力やべーな」 

「だから元気出してよ。最近、ずっと疲れた顔してる」 

 

 むにむにと頬を引っ張られる。

その程度で、凝り固まった表情筋がほぐれることはないけれど。……でも、心の方には、ちょっとだけゆとりができた。 

 

「……これじゃあ、どっちが先生なのか分かんねえな」 

 

 聞かれないように呟く。

教え導く側がこんなんでいいのか全くの謎だ。 

 

 未だに、舵の取り方は分からなかった。

その場しのぎを繰り返してきたせいで、具体的な方法論は確立されていない。 

 

「ラストスパートだ」 

 

 何においても。終わった後に倒れこめそうにないから、余力を残しておかなければいけないけれど。

 

それでもあと数か月で、今の俺に襲い掛かっている問題の大半は一応の解決を見る……ことになっている。

今の段階では神のみぞ知ることだから、せめて上手く行けと願っておこうか。 

 

 ここからの自分の判断一つ一つが、未来の自分を作る大きな分岐点になる。

まるで実感が湧かないが、悔いだけは残さないようにしないと。 

 

「出来る限り、私も協力するから」 

「なら、この腕をほどくところから始めてくれ」 

「これは別問題」 

「さいで」 

 

 空に浮かぶ星を見上げながら、肺にたまった空気を吐き出す。

こういう甘えたやり取りをしていられるのも、おそらく今が最後だ。 

 

 何を選ぶにしろ、選ばないにしろ、きっと円満な解決法なんて存在しない。大団円はどこにもない。 

 

 それならそれで、俺にお似合いの結末のように思う。

自分の分を超えた行いだったと考えれば、意外にすんなり受け入れられる。 

 

 どんなことになろうとも、その顛末は全てこの身で受け止めよう。自分で引いてしまった引き金なのだから、面倒を最後まで見切らないことには話にならない。 

 

 当然の帰結。当たり前の責任。それを超えた先に、待っていてくれるものはあるのだろうか。 

 

「ほら、お前んちあっちだろ」 

「ん、もうちょっと」 

「お前のもうちょっとは異常に長いんだよ。知ってるかんな」 

「なら、あと五分」 

「五分はちょっとなのか……?」 

 

 体力自慢なら一五〇〇メートルを軽々駆け抜けられるくらいの時間。大抵のカップ麺が出来上がる時間。

それがちょっとかどうかは、俺の尺度では断言できなかった。 

 

「もしくは十分……」 

「指定しても伸びるんじゃ意味ねえだろ」 

 

 ぽすっと胸あたりに収まる三玖の頭をどう扱うべきか悩んで、最終的に握りこぶしをぐりぐり押し付けることに決めた。

これなら、触れることに特別な意味を見出されなくて済む。 

  

「ね、フータロー」 

「なんだよ」 

「キス、しとく?」 

「しとかねえよ」 

「いや、断られてもするんだけど」 

「えぇ……」 

 

 極力限界まで背を反って、目を瞑りながらこちらに唇を寄せてくる三玖から逃れた。

残念なことに、一日一回は朝一番で消化済みだったりする。 

 

「……むぅ」 

「むぅじゃないが」 

「じゃあ、こっちで我慢しておく」 

 

 ちゅっと、唇が首に触れた。これは協定的にセーフでいいのか……? この抜け穴を許すと、どんどん綻びを突かれる気がするんだけど。 

 

「このほうが記憶に残っていいかもね」 

「良くねえよ。なんにも良くない」 

 

 そのたびに寿命を縮めてしまう。

長生きしようとは思わないが、別に早逝したいってわけでもないのだ。 

 

「あったかい……」 

 

 そりゃあそんなにべたべた引っ付いたら、寒さを感じるどころではないだろう。

決して俺は湯たんぽなどではないので、勘違いはしないでもらいたいのだが。 

 

「頑張ってね、フータロー」 

「言われなくても頑張るっての」 

 

 こんなやり取りの間にも、時間は刻々と流れていく。 

 

 結局、経過したのは五分や十分どころではなかった。

何もない道端で立ち尽くして、中身の伴わないどうでもいい会話をして、そうやって、だらだらと貴重な時間を消費していく。 

 

 なんてことはなく、ぬくもりを誰よりも求めていたのは、ここにいる俺自身だったらしかった。 

 

 やっぱり、彼女たちへの甘えは消えてくれない。 

 

 抱えているものが多すぎて、それらを消化する時間が追いついてこない。

だから必然として睡眠の方にしわ寄せが回ることになって、なんだか体が怠かった。 

 

 昨日がそうであったように、今日も渡された問題はさっさと解き終わったので、残り時間は瞑目して過ごすことにする。

あくまでも授業の延長なので気分的に居眠りはできないが、視覚を切るだけで多少体は休まるだろう。

 

ペース配分を誤ってこんなところで体を壊そうものなら、五つ子のサポートなどとは言っていられなくなる。 

 

 …………そのつもり、だったんだけど。 

 

「珍しいですね、上杉君が授業中に居眠りなんて」 

 

 背中を揺さぶられて覚醒。時計を見れば、今は授業間の休み時間。ちょっと休むつもりが、そのまま眠りの世界に誘われてしまっていたらしい。 

 

 意識下どころか無意識下でも大分参ってしまっているのだなぁと肩を落としながら、俺を起こした張本人である五月と向かい合った。 

 

「気ぃ抜いたら意識飛んでた。悪いな」 

「謝られることでもないですが」 

 

 確かにそうだ。俺は五月に不利益を押し付けたわけじゃない。それなのに「悪いな」では、言語的に不調和か。 

 

 かと言って、起こしてくれたことに感謝するのはそれはそれで違うような。

俺が日本語を自在に使いこなせないだけかもしれないが、こういうときに重宝する表現の一つくらい用意しておいてくれればいいものを。 

 

「そうだ五月。ノート、ちゃんと届いたか?」 

「そのお礼を言いに来たのですが」 

「別に、後で構わないのに」 

 

 今日は全員で集まって勉強する予定が入っている。

礼はその時で良いのに、律義な奴だ。

このあたりがこいつの美徳でもあるのだろうけど。 

 

「目は通したか?」 

「一通りは」 

「ならいい。そこまで急いでやる必要はないから、暇を見て進めとけ」 

「ありがとうございます、本当に」 

「仕事だからな」 

 

 仕事が占める領域を逸脱している感は否めないが、乗りかかった舟だ。……いや、それどころか、しっかり腰を据えてしまった舟だ。

ここまでくれば、もう最後まで付き合うしかないだろう。

 

当初は呉越同舟っぽい趣があったのをここまで歩み寄るのに相当な苦労をした。

それと比べて考えれば、ここからの一押しくらいはなんてことない。 

 

「報酬、弾まないとですね」 

「忘れんなよ」 

「しっかり記録してありますから」 

 

 耳を揃えて~とでも言おうかと思ったが、こいつにはその手の冗談が通じないことを思い出す。

下手をすると角をぴっしり合わせた現ナマを用意してくるかもしれないから、この表現は胸の内に秘しておこう。 

 

「で、今のテストの手ごたえは」 

「今日は午後から雪が降るそうですよ」 

「なるほど分かった。死ぬ気で頑張れ」 

「…………うぅ」 

 

 大きく項垂れる五月。

天気の話題で誤魔化すなんて盛大なテンプレートは俺には通じないのだった。 

 

 しかし、そうか。感触薄か。焦ってどうにかなるものでもないけれど、今の段階でそれはなかなかに厳しいものがある。 

  

「中途半端が一番良くないからな」 

 

 最近の言葉の中では何より一番感情が乗っている気がする。

大いなる自戒を込めた助言に、しかし五月は肩を落としたままだ。 

 

「全然自信がつかなくて」 

「そりゃな。自信ってのは成功体験か努力に基づくもんだし」 

 

 俺の場合なら学年一位と言う看板。二乃なら料理、四葉ならスポーツ。

明確に実績を残せる何かがあるのなら、それは自分の中で強固な屋台骨になってくれる。 

 

 だが、そこには大前提として大いなる落とし穴が存在していて。 

 

 今しがた俺は自信に関することを言ったが、それは二次的な相関なのだ。

最初にあるのは興味か偶発的な成功のどちらか。

それを基盤にして努力へと発展し、それを呼び水にして更なる成功を己の手中に収める。

 

このループの過程で、自信と呼ばれるものが勝手に自分の中に居つくのだ。 

 

 その点において、やるだけのことをやっているのに失敗続きの五月は弱い。

努力と成功が実感として結びついていない以上、何をしようが不安は残る。 

 

 それを取り除くのが果たして俺の仕事かどうかは判然としないが、最低限のアドバイスくらいはしてやれるといいんだけど。 

 

「……とは言え、一朝一夕でどうにかなる問題じゃねえんだよなぁ」 

 

 自分に甘い奴なら、一生懸命頑張った自分自身を肯定することができるだろう。だが、中野五月は堅物だ。

 

そんな妥協を良しとするタイプの人間性を持ち合わせてはいない。 

 融通が利かないと言えばそれまでだが、俺は心のどこかで、その頑固さを評価している節があった。

 

出来ることなら彼女にはその愚直さを後生大事に抱えてもらったまま、理想のゴールにたどりついて欲しいとさえ思っている。 

 

 しかしそれを成し遂げるには高いハードルがあまりにも多すぎて、どうやって打倒すればいいか困りものだ。 

 

「まあ、そのあたりはなんとか知恵出しとくわ。精神論以前の問題として知識量が足りてないってのはあるし、今はひたすら勉強するしかないわな」 

「……毎度お手数おかけします」 

「仕事だって言ってるだろ。もっと楽に構えとけ」 

 

 肩肘張るなと言ったところで、真面目な奴は余計に気負ってしまう。だからといって無言で突き放すわけにもいかず、そのあたりのパラドックスが俺をちくちくと突き刺してきた。 

 

 『教える』という行為の難しさはこの一年で嫌というほどに理解させられてきていて、それでも未だに分からないことまみれだ。

 

相手の力量を推し量りながらラインを引いて、性格を考慮しながら物言いを考えて。

たかだか五人を相手にこれだけの労力を払わせられるのに、一クラス四十人なんてとてもじゃないが面倒を見切れる気がしない。

……全員が全員こいつらレベルの問題児と仮定した場合だけれど。 

 

「とにかく頑張れ。俺も頑張る。今んとこはこれだけ」 

 

 五月の背中をグイっと押して彼女の席に押し返す。

俺とばかり顔を合わせていては気が滅入ってしまうだろうから、不可欠の措置だ。 

  

「あ、あのっ」 

「話があるならまた後で。そろそろ次の授業始まるぞ」 

 

 会話を断ち切る。次の授業ってやつまでの間にはまだ五分程度の猶予が残っているけれど、彼女の姉に言わせればその時間は『ちょっと』に過ぎない。

 

なら、『そろそろ』と表したところで問題らしい問題は見受けられないだろう。 

 

 頑張ると本人に宣言してしまった以上、半端なことは出来ない。

俺のことは二の次においてでも、対策を練らないと。 

 

「フータロー君から見て、五月ちゃんはどんな調子?」 

「正直に言って良いか?」 

「嘘つかれた方が困るな」 

「ならぶっちゃける。かなりヤバい」 

 

 学校での勉強会を終え、五つ子と俺とで夜道を歩いていた。

その中の流れで、俺は前方のグループから少しだけ距離を取り、一花と一対一で話す態勢になっている。 

 

「なんて言うか、目に見える数字以上に五月の心が置いていかれてる。たぶんだけど、あいつにはイメージがないんだ」 

「イメージって?」 

「自分の目標をつかみ取るイメージ。過去の失敗の多さが災いしてるんだかなんだか知らないが、五月にはそれが薄い」 

「なるほど」 

「で、だ。一応は夢に向かって前進してるお前から見て、この状況はどうするべきだと思う?」 

 

 使えるものはすべて使うことにする。

この際、それが猫の手だろうが姉妹の手だろうが構わない。 

 

「私と五月ちゃんじゃ、そもそも性格が全然違うからなぁ」 

「分かったうえで聞いてる。今はとにかく意見が要るんだ」 

「うーん、たとえば……」 

 

 一花は何かを指折り数えて、そしてその後、折った指を元に戻す。

何のためのアクションかは良く分からないが、彼女なりに意味があってのことなのだろう。 

 

「たとえば?」 

「たとえば……なんだろね?」 

「おい……」 

「分かんないものは分かんないよ。こればっかりは五月ちゃんの気分次第だし」 

「まあ、それはそうなんだが……」 

 

 だからこそ、家族として長年付き合ってきた連中の意見が欲しかった。

俺では理解しかねることだって、彼女たちならなんとかしてくれるのではないかと思ったから。 

 

 けれど、血縁があろうがなかろうが、結局のところ人が二人いればそいつらは他人なのだ。

俺だって、らいはのことをなんでも知っているわけじゃない。兄妹仲は決して悪くないのにだ。 

 

 解決策がどこかに隠されているのだとすれば、その在り処は五月の心中以外にあり得ない。

それが理解できただけで収穫だとすべきか、それとも足踏みしていると見るべきか。 

 

「どうしたもんか」 

「大変だね、先生も」 

「まったくだ」 

 

 予報通りに降り出した雪にはしゃぐ四葉を遠巻きに眺める。

これだと、先生と言うよりは保護者って感じが強い。

 

「ただ、ここまで来たらもう引き返せねえ。死なば諸共だ」 

「死なないでよ」 

「今のままだと結構な確率で死ぬからな。そろそろ墓の準備をしておく頃かもしれない」 

「ならいっそ、ウチのお墓に一緒に入る?」 

「いや、俺んちにも……待て。唐突に爆弾投げてくんな」 

「そのためには籍を入れとかないと」 

「ブレーキオイル切れてんじゃねえのか」 

 

 慣れとは恐ろしいもので、近頃誰も停止位置を守ってくれなくなってしまった。

せっかく真面目な話をしていたというのに、これじゃあもうどっちらけだ。一気にそういう気分じゃなくなってしまう。 

 

「フータロー君ちのお墓に入るのでも良いよ」 

「さっきのは『止まれ』って意味だ。分かったか?」 

「上杉一花……いい響きだね」 

「…………」 

 

 どう考えてもわざと話をこじらせているので、耳をつねって地獄の妄想吐き出しタイムを中断させた。

タチが悪いにしたって、限度があるだろうに。 

 

「日本の離婚率は三五パーセントだ」 

「六割以上も一生を添い遂げるだなんて素敵だよね」 

「強い強い強い」 

「私たちなら絶対その六割に入れると思うな」 

「怖い怖い怖い」 

 

 他人に詰め寄るのに数字を用いるのは暫く控えよう。

どんな開き直りをされるか分かったもんじゃない。 

 

 俺としては一花の発言内容にひやひやするというのはもちろんあったけれど、そこに加えて前の連中が聞き耳を立てている可能性まで思い浮かんで、本当に気が気ではなかった。

これが新しいトリガーになったらマジでどうしてくれるんだ。 

 

「なーんてね。演技演技」 

「それ言えば何でも許されると思ってないか?」 

「思ってるわけないじゃん。本当だよ。嘘じゃないよ」 

「…………」 

 

 なんだろう、一瞬背中がヒヤッとした気がする。

何に反応したかは定かじゃないけれど。 

 

 しかし、他の姉妹がいる中でガンガンこういう話をされていいことなんて何もない。

ついでに言えば二人っきりの時にされてもいいことがない。

つまり、いつだっていいことはないのだ。 

 

 来るところまで来た実感はあるので、ここはもういっそ盛大なクズ路線で走ろうか。俗にいうガン無視。興味を向けなければ、彼女だって大人しくなるだろう。 

 

 そう思って、即座に行動に移す。

一花から目を逸らして、努めて彼女の言葉を聞かないようにする。 

 

 …………が。 

 

「フータロー君の手あったかー」 

「…………」 

「フータロー君の腕ながー」 

「…………」 

「フータロー君の唇――」 

「構うから許してくれ」 

「フータロー君の唇――」 

「マジでブレーキ故障してるだろお前」 

 

 バックステップで一花から距離を取り、一度大きく息を吐く。

まともに取り合っていたら命がいくつあっても足らない。 

 

 これで一旦仕切り直したつもりなのに一花はこちらにじりじりとにじり寄って来ていて、第二ラウンド開始のゴングが俺の頭に響こうとしていた。 

 

と、その時。 

 

「上杉さーん! 見てくださいこれ! 雪の結晶!」 

「お、おう」 

「写真、写真撮ってください!」 

「お、おう」 

「素早くお願いしますね! 溶けちゃうので!」 

「お、おう」 

 

 たったか走ってきた四葉が、自分の手袋にくっついた雪の粒を俺に見せてくる。

で、そのままスマホを手渡され、慣れない手つきでパシャパシャ二、三枚だけ撮影して、彼女に返した。 

 

 四葉は礼を言って、すぐさま前列に帰っていき、再びはしゃぎ始める。

まるで台風みたいな奴だ。

 

しかしこの状況においては願ってもない最強の助け舟。

そこに関しては素直に感謝。 

 

四葉は相変わらずだな……」 

「そうだね。そんな子まで手にかけちゃうフータロー君も相変わらずだね」 

「俺に怨みでもあんの……?」 

 

 ウィークポイントばかりをぐさぐさ突き刺してきて困る。

しかしそれが事実である以上は否定しようがなく、そのあたりがまた一段と厄介。 

 

 過去の過ちを論ったところで、何かが覆るわけじゃない。

そのうえでなお会話のテーブルに載せるということは、どこかに意図なり思いなりが隠れているはず。

一花においては、俺に残った良心をいたぶることが目的だろうか。 

 

「怨みっていうよりは、妬みっていった方が近いかも」 

「妬みの対象はなんだよ」 

「フータロー君の感情が私以外に向くこと?」 

「なぜ疑問形……」 

「自分でもはっきり分かってないからね。ただ、君が他の女の子と話してるのを見るともやもやする」 

「…………」 

「しかも面倒なことに、それが妹でも例外じゃないみたいで」 

「…………」 

「どうせ同じ顔なんだから私でいいじゃんって思っちゃうんだよね」 

「極論だろ、それは」 

「フータロー君的には、容姿って二の次?」 

「どう答えても角が立つ質問はすんな」 

 

 あって困るものではないが、第一優先ときっぱり言い切ってしまえば反感を買うと分かる。

 

他人を好きになるとき、ファクターをルックスに求めるのは不純と言う向きが通念としてあって、だから人はそのあたりを上手く繕って当たり障りない理由を探そうとする。

内面を愛することが何より美しいことなのだと、そんな考えが世には蔓延している。 

 

 正直なところ、俺は何も分からない。

少し前までは他人に好意を向けられたこともなければ、他人に好意を向けたこともなかった。

俺の人生に存在するのは親愛のみで、恋愛という概念とは人生を通して関わり合いがないものだろうとも考えていた。 

 

 ただ、近頃の狂騒の中、嫌でも考えざるを得なくなった。

人が人を好きになるメカニズムや、どうしてそれを伝えるのか。

 

もちろんのことまるで答えは出てくれなくて、時間ばかりが失われていくだけなのだが。 

 

「他人に興味を持たない人生を送っていた俺に、いきなりそういうのは難しいんだっての」 

「そもそも私たちって可愛く見えてる?」 

「難しいって言ってるだろ」 

 

 女優なんてやってるんだから、自身の見てくれについてはある程度理解しているのだろう。

ただ、それは一定の分母を用意したときの支持率の話であって、個人レベルにまで通用する理念ではない。

 

だからこそ、こうやって直接確認せざるを得ない状況というのも存在する。 

 

 ただ、俺が馬鹿正直に答えるはずもなく。 

 

「それはお前の中で結論付けといてくれ。口ならいくらでも出まかせが言える」 

「気付いたら手を出しちゃうんだから、超かわいいってこと?」 

「俺を理性が欠如したバケモノみたいに言うな」 

「…………」 

「……事実であろうがもう少し言いようがだな」 

 

 慌てて訂正するも虚しく、明らかにもの言いたげな視線が突き刺さってくる。

行為中の自分とそうでないときの自分とを切り離せるならどんなに楽だろうか。 

 

「まあ、良い方に捉えておくね」 

「勝手にどうぞ」 

 

 気に召すようにしてもらえればいい。下

手に否定を挟んでも、肯定を挟んでも、どっちみち話は拗れそうだ。それくらいなら、彼女の想像に任せてしまおう。

 

「っと、今は勉強のことでいっぱいいっぱいなフータロー君をいじめるのはここまでにしておいて」 

「いじめている意識があるのならもっと加減しろよ……」 

「罪悪感を募らせておこうと」 

「発想が怖いんだって」 

「そうしておけば逃げられることはなくなるかなーと思ってね。……でも、今は本当に余裕なさそうだし、これくらいが限度かな」 

 

 一花の手が、すっと俺のスラックスのポケットに差し込まれる。

ひんやり冷たい感覚が急に襲ってきたせいで、俺は思わず変な声を漏らしてしまった。 

 

「あったかーい」 

「手袋しろよ。なんで剥き身なんだ」 

「手をつなぐ理由にするつもりだったんだけど、どうやら無理っぽいし。だから、これで妥協するの」 

「妥協のラインが絶対におかしい……」 

 

 わきわきと蠢く一花の手に何度も身震いする。

スラックスのポケットと言うことは、必然的に急所が近接している。こいつが何をしでかすかなんて分かったもんじゃないので、布越しに彼女の手を押さえつけた。 

 

「……あ」 

「なんだよ……」 

「フータロー君、意外とツンデレだよね」 

「男に貼るレッテルじゃないことだけは確かだ」 

 

こんな会話の間にも、雪は静かに降り積もっている。 

雪解けが、遠くないといいんだけど。

 

 二十四節季でいう大雪を通り過ぎた十二月の半ば。

日に日に強くなっていく冷え込みに度重なる厚着を強要されながら、今日も今日とて家庭教師だと中野姉妹が住まうアパートへ足を運ぶ。 

 

 開けっ放しになっている玄関ドアの鍵は、俺に対する信用の表れか、あるいはただの不用心か。 

 

「五月は?」 

 

 こたつに座して待っている面々は、勢ぞろいというわけではなかった。

いつも五月が座っているところだけがぽつんと歯抜けになっていて、妙な違和感がある。 

 

 さては無理がたたって熱でも出したか。

そう思って寝室の方に視線を向けると、俺の考えを否定するように、三玖が壁掛けのカレンダーを指さした。 

 

「……そういうことね」 

「朝一番に訪ねてすぐ帰るって言ってたけど、長引いちゃってるみたい」 

「了解。お前らは自習しててくれ」 

 

 入って来たばかりの玄関に逆戻りして、靴を履き直す。

つくづく俺の領分じゃねえなあと思うが、やらないことには始まらない。 

 

「入れ違いになったら連絡頼む」 

 

 それだけ告げて家を出た。

一度温かな空間に立ち寄ってしまったせいで、寒さはいっそう際立ったように思う。 

 

「風邪ひくぞ」 

「…………!」 

 

墓石の前で手を合わせている五月を捕捉し、横に並んだ。 

 

 本日は十二月十四日。そして、毎月十四日は彼女たちの母親の月命日にあたる。

五月が毎月欠かさず墓参りをすることは知っていたが、ナイーブな時期にいることもあってか、予想以上に長居をしてしまっているらしい。 

 

「あ、ご、ごめんなさい! すぐ帰るつもりだったのに!」 

「線香余ってるか?」 

「……? ええ、一応」 

「分けてくれ。供え物する余裕はないが、それくらいはな」 

 

 百円ライターで線香数本に火を灯し、供える。

面識もない相手の喪に服するのは、なんだか変な感じがした。 

 

「お前の母親、学校の先生だったって言ったか」 

「はい」 

「ならご利益もあるか」 

 

 碑に刻まれている横並びの没年月日と戒名を順に辿って行って、明らかに名づけの法則が異なる一つを見つける。

病死した人物にありがちな、疫を雪ぐ名前。

それが彼女たちの母親の名であることは想像に難くない。 

 

 きちんと傍記されている本名に意識を吸われかけたが、今はそれを気にしている場合でもないだろう。

こいつをさっさと家に連れ帰って、少しでも多くの知識を叩き込んでやらないと。 

 

「なんだか意外です」 

「何がだよ?」 

「遅刻したことを怒られるものだとばかり」 

「俺を何だと思ってんだ……」 

 

 風に吹かれて、線香の燃焼速度が増した。

実家の香炉にも手を合わせてこようかなんて考えながら、五月の方に視線を向ける。 

 

「サボりだったら怒るだろうが、そうじゃないことくらい俺にだって分かるっての」 

「そもそも上杉君の場合、こういう信心深さとは無縁のような気がして」 

 

 宗教的な価値観の話。

確かに、俺はそこまで信仰心が篤い人間ではないけれど。 

 

「神サマは信じてないが、仏に関してはそうでもない」 

「……その心は?」 

「神がいるなら俺の母親もお前の母親も死んでない。逆に、俺の母親やお前の母親が死んでる以上仏はいる」 

「暴論……」 

「自分で納得できればそれでいいんだよこんなのは。現にこの解釈が一番しっくりきてるし疑ってない。俺は信仰を自分の軸に据えていないし、適当なくらいがちょうどだ」 

 

 少なくとも墓前でするような話じゃないがな、と付け足す。

時と場所と場合は見極めないといけない。 

 

 まあ、そういうのは置いても、五月の気持ちが分からないわけではないのだ。

人事を尽くさずして神頼みに走るのは論外だが、出来る限りの努力を積み切ったうえでそこに不安が残るのであれば、後はスピリチュアルなものに縋るしかない。

 

そして一般的な環境下で育ってきた日本人の場合、それが先祖の類である可能性が高いのも分かっている。 

 

 空から見守ってくれているという考え方。正しい努力には正しい顛末が付いて回るはずだという理想論を、もうこの世界にはいない誰かに肯定してもらいたい。 

 

 それを一概に弱さだと断じて括ることは、俺にはできなかった。 

 

「なんというか、上杉君らしいです」 

「どこらへんが?」 

「迷いのなさが。私は、道に迷ってばかりで」 

「……そうでもないんだな」 

「はい?」 

「なんでもない。で、その迷いってなんだよ?」 

「信念、でしょうか」 

 

 五月は自分の心臓のあたりに手を当てる。

疑似的に、心に触れているのか。 

 

「上杉君と違って、自分の信じたことをそのままに受け入れる力が私にはありませんから」 

「初耳だぞ、そんな力の存在」 

「当たり前に思っている人ほど気づかないものですよ」 

 

 笑いかけられる。その笑顔が絶妙に脆くて、表情とは裏腹な思いがないまぜになっているのが分かった。 

 

「ついついよそ見をしてしまいますから。普通は」 

「俺が普通じゃないみたいな言い方はよせ」 

「なら、なおさら撤回しかねます」 

 

 変人認定など要らないのに、彼女はそれを取り消してくれない。

こちらには否定材料がないせいで、言われるがままだ。 

 

 墓所で軽口をたたき合うのは、マナー的にどうなのだろうか。 

 

「……よしんば俺が普通じゃなかったとして、別によそ見をしてないわけじゃねえよ」 

「そうでしょうか?」 

「よそ見ってのは、選択肢を複数持つ人間の特権だ」 

 

 それだけ言って、今いる場所から離れる。彼女の返しを待ちはしない。 

 

「ほら、そろそろ行こうぜ。お前の姉連中が待ってる」 

「あっ、ちょっと」 

 

 慌ててついてくる五月を尻目に、石段を降りる。

感傷に浸れども今抱えている問題が解決するわけではないので、きちんと実になることを積み上げないといけない。 

 

 それ以前に、負い目があった。……その、なんというか、彼女たちの母親に申し訳ないことをしているというか……。 

 

「どういう意味ですか、今の」 

「どうもこうもない。そのまんまだ」 

 

 連日の降雪で薄ら白む歩道に足跡を残しながら、来た道を逆戻り。春の遠さに目が眩むが、いざ春が来たら来たで、また新たな課題が俺の目の前に姿を現すのだろう。

悩みも課題も天壌無窮。生きている限りその輪から逃れる術はない。 

 

 意識的に、俺が数分前につけたばかりの足跡を上書いて歩く。

真っ直ぐやって来たつもりがところどころで歪んでいて、自分の認識のずれを見せられているようだ。 

 

「それ以前に、この前のお話もまだ聞いていませんし」 

「この前?」 

「職員室の近くで会ったときです。追い追い話すって言っていたじゃないですか」 

「ああ、あれ」 

 

 機会が機会だ。二人で話す時間があるうちに、言っておくのが吉か。 

 

 だが、タイミングが微妙な気もした。

俺に対して余計な心遣いをされても困るし、現在余裕がないのは彼女の方に違いないのに。 

 

 だから、極力なんでもないように装うことに決めた。

深刻な雰囲気を醸し出さないように、気をつけて。 

 

「大したことじゃないから聞き流せよ」 

「それは私の判断次第ですね」 

「進学か就職か聞かれた。以上」 

「大問題じゃないですか」 

「だよなー」 

 

 我ながらそう思う。人生設計が甘すぎだ。 

 だからこいつには言いたくなかった。少なくとも、成績が安定するようになるまでは話題に出さないつもりでいたのに。

 

「ま、まさかまだ決まってないなんてことは……?」 

「取りあえずセンターは受ける」 

「それだけですか……」 

「願書の締め切りで考えればまだ一月くらいは時間あるし、そこまで大した問題でもないだろ」 

「大した問題ですって。私の面倒を見ている場合じゃないでしょう」 

「まあ、なんだ。人生なるようになる」 

「それはなにもかもが円満に片付いた後で言うセリフです」 

 

 ごもっともだ。楽天家の自己肯定に使っていい言葉ではないことだけは確か。 

 

 しかし、どう考えたところで結論は出てくれないのだから仕方ない。勉学を極めれば何者かになれるものだとばかり思っていたけれど、現実はそんなに甘くなかった。

課題の類は次から次に提示され、息つく暇もなく自分に襲い掛かってくる。 

 

 そんな中にあって、冷静な判断を下す自信がない。後悔を残す予感しかしない。 

 

 俺は一体、どこに向かって歩いているのだろう。 

 

「これも一つの教訓だと思って見ておけよ。お前が欲してやまない学力という武器を持っている人間だって、その使い道を知らなければこうなる」 

「笑えませんよ」 

「結局、テストの出来なんてのは手段の一つでしかないんだよ。気付くのが遅すぎた気もするが、俺も一つの学びを得た。そこを突き詰めれば学者という選択肢が生まれるのかもしれないが、残念ながら俺は学問自体に魅力を感じているわけじゃない」 

 

「それは真理かもですが……」 

 

 勉強だけが全てではないことを、彼女たちとの関わりを通して学んだ。

そのせいで、今まで絶対だと信じて疑ってこなかった自身の価値観が揺らいでしまうことにも繋がったわけだが、それが学生の間に訪れたことはむしろ僥倖であろうとも思う。 

 

 人間、何かを始めるのに遅すぎるなんてことはない……などとは言うけれど、それは恵まれた側にいる人間の戯言だ。

資本主義の底辺層で燻っている俺に、そう何度もリカバリのチャンスは訪れない。 

 

 少ないチャンスをものにするために、より多くの観点が必要だった。俺は、それを与えてもらった。 

 

「お前、夢あるんだろ?」 

「……一応」 

「ならその時点で俺より上だ。胸張って生きろ」 

 

 夢や目標を原動力にするやり方がなにより健全だったのだ。

その点で、俺は彼女を尊敬できる。 

 

「……正直、お前が学校教師になっている姿はまるで想像出来ないが」 

「えっ」 

「なんだよ。これはただの個人的な感想だ」 

「いえ、私、直接伝えましたっけ……?」 

「模試の志望欄が全部教育学部のやつが先生目指さねえってことはないだろ……」 

 

 それが分からない程鈍い奴だとでも思われていたのか俺は。

それはさすがに心外だと訴えるために薄眼で彼女を見ると、五月はぽかんとした表情で視線を虚空に彷徨わせるばかりになっていた。 

 

「確かに……」 

「むしろあれで隠してるつもりだったってのが怖い」 

「い、いつか自分の口で宣言しようと思って」 

「いつかが遠すぎる。ほら、今言え今」 

「今ですか?!」 

「お前の口からは聞いてないしな」 

 

 なんの儀式だって感じだが、こういうのが意外と大事だったりする。逃げ道が消えることによって力を増すタイプの人間がいることは知っているから、五月もそうである可能性を願おう。 

 

「いえ、でも、今のままだと……」 

「できるかどうかはこの際どうでもいいだろ。この場合、重要なのはなりたいかどうかだ」 

 

 それっぽいことを言って励ます。

退路の一切を絶たせてしまう恐ろしいやり方だが、彼女にはこれくらいでちょうどいいと思う。

保険も予防線も、挑戦という概念の前では邪魔なものでしかないから。 

 

「それに、聞く相手が俺だしな。気負うことなんか何もない」 

「……だから言えなかったんですよ」 

「…………?」 

 

 会話のどの部分を受けて「だから」という言葉が湧いて出てきたのかは推察できなかった。

 

しかし、そんなことはどうでもいい。

さっさと宣誓させて、迷いから抜け出させてやらないと。 

 

「…………先生に、なりたいです」 

「少し違う」 

「違うと言われても」 

 

 小声でぼそぼそ言ったって、大した効果が望めるようには思えなかった。

もっと、何もかもかなぐり捨てて突っ走る感じがいい

 

「それはただの願望だろ。宣言ってのはもっとこう、我がままで、無根拠な自信に満ちたものじゃないと」 

「つまりは、どういうことでしょう?」 

「なりたいんじゃねえ。なるんだよ、お前は」 

「…………」 

 

 失敗した自分の姿を勝手に想像して、それを恐れるようではいけない。

確かに無駄に知恵をつけて、社会を知って、そういう過程で保身に走る能力を身に着けてしまうことは分からないでもない。

 

でも、いつもそうやって自分の空に閉じこもっていては、前に進む気力が枯れ果ててしまうと思うから。 

 

「それともなんだ? 口だけで終わるのが怖いか?」 

「なっ!」 

「そんな奴が夢を実現させられるとは思えねえなあ」 

「ななっ!」 

 

 俺の低レベルな煽りにきちんと乗っかってくれるのはありがたい。その煽り耐性の低さは、後々修正していかないとまずそうだが。 

 

 とにかく、堰を一つ破ろう。がむしゃらにやるしかないんだ、今の五月は。 

 

「……そこまで言うなら、やってみせようじゃないですか」 

「ほう?」 

「なりますよ。なってみせますからね、絶対に」 

「……ま、ここらへんが落としどころか」 

  

 息を吐いて、彼女に背を向ける。

こちらの思惑通りに動かされてしまった五月を見ていたら、堪らず噴き出してしまいそうだから。 

 

「聞いていますか?!」 

「聞いてる聞いてる。ちゃんと記憶したかんな」 

「絶対にさっきの言葉を撤回してもらいますからね!」 

「出来たら喜んで靴でも足でも舐めてやるよ。出来たら、だけどな」 

「このっ、この人は……! 後悔しても遅いですよ!」 

「はいはい」 

 

 適当にのらりくらりとかわしながら、少しずつ歩を進める。

一気にジャンプアップする方法があれば楽でいいが、バカ不器用な五月に限ってそれは無理。

 

なら、せめて俺が階段くらい作ってやろう。 

 本当に、問題児の先生と言うのは楽じゃない。 

 

「なんで笑ってるんですか!?」 

「笑ってねーよ」 

 

 せめて「ほくそ笑んでいる」とかにしてくれ。「可笑しがっている」でもいい。 

 

 楽しいことがなくても、どうやら人は笑えるらしい。不思議なことだ。 

 

「見返すために全力で頑張れ。まずは今日の課題から」 

「言われなくても」 

 

 後ろにいた五月が俺を追い越して、そのまま家の方へと早歩きしていく。

俺も、それに付いて行くように、少しだけ歩調を速めた。 

 家庭教師が走るから師走か。なるほど、なんにも上手くねーや。 

 

 どれだけ止まれと希っても、時間の流れは変わらない。

起きて動いて眠ったら一日は終わってしまい、それを繰り返しているうちに自己決定の期限は着々と俺の元に迫ってくる。 

 

 たぶん、生まれてから今までで一番密度の高い冬になる。

この先の未来の舵取りを一手に担う時期、季節。

二度と戻らない、たった一度の大一番。 

 

 抱えてしまったタスクはとうにキャパシティを超え、度重なる処理落ちを繰り返しながら同じところを行ったり来たり。 

 

 せめて悔いだけは残さないように、大きな禍根を置いてこないようにともがき足掻けど、大して歩みは進むことなく。

それでも必死に生きた今が、いつかの自分を支えると信じて。 

 

 とにかく、自分に嘘だけはつかないようにしよう。

過程に欺瞞を含んだ結末が、俺を納得させてくれるとは思えなかったから。 

 

 学校は冬休みに突入しているが、補講だか入試対策だかの名目で平時とこれといった違いなく通学を余儀なくされている。

希望者を募った発展講座などもあって、下手を打てば朝から晩まで学校浸りの可能性もあった。 

 

 というか実際に、そうなっている奴がいた。 

 

「精の出るこった」 

「出来るだけ、自分を追い込みたいんです」 

 

 図書室で自習している俺の元を訪れた五月は、その表情に重たい疲労を滲ませていた。

絶え間ない頭脳労働は、確実に心と体に負荷をかけてくる。

経験者である俺にはよくわかることだった。 

 

「どっちかっていうと追い詰められてないか、お前?」 

「最悪それでも構いません。今を走り抜けないことには明日も明後日もありませんから」 

「ここで倒れたら倒れたで一巻の終わりだけどな」 

 

 だからといって、俺が止められることでもない。後々への保険……というわけではないが、もしこいつが夢に破れる未来があった場合、振り返った道のりで俺が障害になっていたりしたらどう悔やめばいいか分からなくなる。  

 

 そういう重要な事柄に口を挟み過ぎるのはお互いのためにならない。ここまで来たら、思う存分やれることをやるべきだ。 

 

「復習できる体力は?」 

「なんとか」 

「ならやっちまうか。講義で分からなかったことや怪しいところがあったら教えてくれ。苦手な箇所から潰していくぞ」 

 

 家庭教師としてのお勤めも、もうそう長く残っているわけではない。もちろんこちらに尽力しすぎて自分のことを疎かにするのは論外だが、もはや彼女たちを見放せるような距離感ではなくなってしまった。 

 

 卒業まではこぎ着けた。

本来の役目はここで終わりだが、どうせなら『笑顔で』卒業するオプションまで請け負おう。

 

夢への第一歩を踏み出すのに、背中くらい押してやってもいいだろう。……別案件で泣き顔を増やしてしまいそうだという懸念は絶えず俺の思考の片隅にあって、そのことへの罪滅ぼし的な側面が存在することは、否定しないが。 

 

 けれど、純粋な思いとして、この仕事を通して得た経験を彼女たちに還元したいと考える自分はいるのだ。

そこに偽りはなく、言うなればこれは、感謝のような―― 

 

「じゃあ、始めるぞ」 

「よろしくお願いします」 

 

 何より、最初期にはあり得なかったこの関係性を心地よいと思ってしまっている。

俺が試行錯誤を繰り返しながら、その果てにようやくつかみ取った成果物。せめてこれだけは、最後まで輝かしい思い出として、自分の中で布にくるんで蓄えておきたい。 

 

 そんな都合の良いことを思うのだから、代価として、相応の努力が必要だろう。 

 

 

 窓の外を見れば、降り出した雪が世界を白色に染め上げていた。

幻想的で結構なことだが、帰る時間までには降りやんでいてくれるとありがたい。 

 

「つくづく運がねえな……」 

 

 不満げに呟いても、雪交じりの雨は俺の意図を汲む気配すら見せず、勢いを増して降り注ぐ。 

 

 冬にしてはマシに思えた日中の気温が災いした。

軒先から手を伸ばして天よりの落下物に触れると、明らかに水気が多いのが分かる。

それは、粒の降下速度を見ても明らかなことだった。 

 

 雪はやめてくれと願ったが、それは別に雨なら許容するという意味ではない。

むしろ、傘が必携になるぶん雨の方が数段厄介だ。

折り畳み傘などという気の利いたアイテムの持ち合わせはなく、帰宅までにずぶ濡れになるのはほぼ見えた結末。

 

この時期に水浸しになる辛さは昨年のごたごたで知っているから、今から既に憂鬱になりかけている。

風邪を引く可能性まで考えると、さらに億劫だ。 

 

「ああ、やっべ」 

「どうしました?」 

「先生に呼び出されてるのすっかり忘れてた。長引くだろうから先帰っててくれ」 

 

もちろんそんな用事はない。が、五月には妙な世話焼き癖があるので、ここでシンプルに傘を忘れた旨を伝えることが憚られた。

 

幸か不幸か彼女の手には折り畳み傘らしきものが握られているし、お節介を受ける前にさっさと帰らせるのが吉。 

 

 五月は俺が進路関係で教員と話し合いの場を持っていることを知っているし、でっちあげの理由としてはこれが一番ツッコミが入りにくいだろう。

 

導入の不自然さだって、今は自身のことでいっぱいいっぱいな五月には気づきえない。

元より鈍いというのもあるにはあるが。 

 

「じゃあな。睡眠時間はある程度確保しとけよ」 

「あなたがそれを言いますか」 

「言ったろ。教訓だ」 

 

 それが良くないことだと知っていて、未だに性懲りもなく繰り返しているけれど。 

 

 とにかく、今は五月を撒くのが先決。

十分に時間をおいてから、俺もなんとか帰宅しよう。 

 

「では、お先に」 

 

 軽く礼をした後、五月がこちらに背を向ける。

彼女の姿が夕闇に馴染んでいくのをしばし見送った後で、時間を潰すために一度教室に行くことにした。

 

忘れ物があるわけでもないが、理由なく入れる場所が意外と限られている学校において、自分が所属しているクラスというのはある種の気安さが感じられる。 

 

 こつこつと反響する自分の足音にそこまでの不気味さを覚えないのは、照明がしっかり灯っているからだろうか。

暖房はケチる癖になぁ……とも思うが、暗いよりはマシ。

この時期の負の想念の連鎖みたいになっている校舎内で、暗闇を一人歩く図太さはない。 

 

 誰もいない教室は、流石に消灯されていた。まあ、これはこれでいいかと思いながら自分に割り当てられた席に座り、なんとなく黒板を眺める。 

 

 乱雑に黒板消しを当てられているせいか、直前に実施された授業の内容がなんとなく読み取れた。

一部文字が残っていたり、あるいはチョークの跡が消しきれていなかったりで、英語教師がここに立っていた過去が窺える。 

 

 残されたアルファベットから推測される単語や文章を頭の中で補足しながら、そこにあったのであろう授業風景を勝手に思い描く。

面白味の欠片もない空想だが、時間を浪費するという点においては割と役立ちそうだった。

 

今くらいは、脳みそを休めても許されるのだろうけれど。 

 

 ある程度時間が経ったのを時計で確認してから、のそのそと席を立つ。

このままだとここで眠ってしまいそうだ。   

 

 寝るならせめて家が良い。体を横に出来る環境と言うのは貴重。

若いからといって無茶をし過ぎると困るのは未来の自分自身だ。 

 

 凝り固まった関節をゴキゴキ鳴らしながら階下に下り、先ほど脱いだばかりの下足をもう一度履く。

順当にいけば、五月はもう家に着いている頃合いだろうか。 

 

 あいつのことだから、もう勉強を始めているかもしれない。

そうでなければお待ちかねの夕飯にありついているかのどっちかだ。 

 

 どちらにせよ、やりたいようにやってくれればそれでいい。

俺はただ、彼女のやることをサポートするだけ。 

 

 こんなときにまで仕事のことを考えるとか、俺もいよいよ社畜めいた思想に脳みそを染め上げられているのかもしれない。 

 

「まあ、そう上手くはいかないか」 

 

 一縷の希望としてあった、時間経過でみぞれが弱まるという可能性はバツ印。

せめてもの救いとして悪化はしていなかったが、元の勢いが元の勢いなのでそこに感謝の心を抱くことはなかった。 

 

 リュックを盾にして走り去る案もあるにはあったが、背中が冷えるので諦めた。

どのみちどこもかしこも濡れるのだろうから、多少抗っても意味はない。

時間当たりのダメージ率から考えると、走って帰った方がいいのには違いないが。 

 

 そんなこんなで、意を決して踏み出す。

足元がびちゃびちゃと跳ねて気持ち悪いが、贅沢を言っていられる場合でもない。

 

長い間こんな環境に体を晒し続けようとは思えないので、出来るだけ早く帰宅しよう。

体力勝負に自信はないから、きっとどこかで休憩することになるけれど。 

 

 連日の疲労と体力不足のダブルパンチで悲鳴を上げる呼吸器を強引に黙らせて、規則的なリズムで駆けていく。

 

本来なら、こういった場面で少ない体力を使い込んでしまうのは好ましくない。

 

だが、後々にやってくるだろう身体的な不調とそれとを天秤にかけたとき、ここで使い惜しむという選択肢は取れなかった。

なにせ、自分の面倒だけ見ていればそれで終わるというわけではないのだから。 

 

 それらの面で、本当に厄介だと思う。受験は団体戦って絶対こういうことではないだろとも。 

 だけれども、そのことについて思うたび、不思議と俺の中の負けん気が顔を出すのだ。

もう少しだけやってやろうと、何度も何度も背中を押してくるのだ。 

 

 あの五つ子たちと関わる過程で、自身の中枢が歪められてしまった。客観的に見て由々しき事態で、いずれ対処しなくてはならない案件なのは明白。……なのに、それを悪いことだときっぱり断言してしまう気にはなれない。 

 

根腐れ、とでも呼べばいいのだろうか。 

あいつらは、俺に水をやり過ぎた。 

重症度を見るからに、水は水でも砂糖水だった可能性もある。 

 

「やっぱり。こんなことだろうと思いました」 

 

 だから、こうなる。 

 あっさり、見透かされる。 

 

「風邪を引いたらどうするんですか、もう」 

 

 校門の脇に佇んでいた少女から視線の猛抗議を受け、その場で立ち尽くす。 

 思うことは色々あった。なんで帰ってねえんだよとか、俺が嘘ついてなかったらどうするつもりだったんだよとか、他にも多々。 

 

 だけれど、真っ先に口をついて出た言葉が「すまん」だったあたり、いよいよ調教も大詰め感が否めない。 

 

「お前ひとり騙せないとか、俺もヤキが回ったか」 

「なら、これを機にバレる嘘をつくのはやめにしてください」 

「悪いが、嘘も方便だとお前の姉に教えた都合上、そう簡単にやめるわけにもいかない」 

 

 肩に積もったみぞれを払いのける。

その方便が上手く機能してくれないことには、何の意味もない。 

 

 結果的に彼女の精神的な負担を減らすという目論見は散り、現在進行形でこうやって迷惑をかけている。

やることなすこと全てが裏目に出て嫌になるが、自分の内側にある感情は、きっと嫌悪などではなく―― 

 

「でしたら、バレない嘘をついてください」 

「肝に銘じておく」 

 

 会話の最中にも天からの落下物は延々と降り注いできて、前髪やら睫毛やらに付着するそれらのせいで、一定の視界を保てない。 

 

 何度も何度もうざったそうに額を撫でている俺を見かねてか、五月がこちらに手招きのジェスチャーをしてきた。 

 

「立地的に、ここなら多少は安全です」 

「悪いがこれ以上お前に近づくと持病の発作が起こることになってる」 

「さっきの今でその嘘は無謀が過ぎるでしょう」 

「だってなぁ……お前、それ……」 

「良いんですか。このまま長々とここに留まっていると、二人そろって病院行きですよ」 

「それは……そうかもしれないが」 

 

 取り立てて丈夫というわけではない。

ある程度の条件さえ満たしてしまえば、俺の体はあっさりと発熱する仕様になっている。

五月に関してもおそらく同様のことが言えて、だから、屋根のある温かい場所に移動するのが急務だ。 

 

 で、この場において、そのうちの片方だけならやんわりと満たしてしまえる方法があった。 

 

 しかし、しかしだ。そのやり方を肯定してしまうのは、なんとも言えない敗北感が……。 

 

「私だって恥を忍んでいるんですから、さっさと思い切ってください」 

 

 そう言う五月の顔は真っ赤で、寒さ以上に羞恥が機能しているようだった。

そこまで嫌ならやらなきゃいいのに……。 

 

 善意を踏みにじるようで悪いが、ここで走り去ってしまおうか。

そうすれば、ひとまずの落着を見そうな気はする。

丸く収まりはしないだろうけれど、案の一つとして保留しておくくらいはありだろうか。 

 

「ちなみにですが、ここで上杉君が無視をすると、私は明日の朝までこの場所に立ち尽くす予定になっています」 

「そんな予定はスケジュール帳から消せ」 

「ボールペンで書いてしまったので」 

「二重線で消せ。消しゴムに頼るな」 

「……くしゅっ」 

「…………」 

「…………」 

 

 それはまあ、当たり前の話で。

このクソ寒い屋外に長い間放り出されていたら、その分だけ体は冷える。

恒温動物の悲しいサガで一定に保たれる体温。

そのエネルギーは当然肉体の貯蔵分から持ってくるので、時間に比例して体力はどんどん削られる。 

 

 そして、こいつがいつからここにいたかを考えると、そろそろ疲労が無視できないレベルに達している可能性があって。 

 

「……なんです?」 

「なんでもないけど」 

「別に、あなたのためというわけではありません。自分のこれからを考えたとき、今ここで上杉君に倒れられると、ものすごく大きな不利益を被りますから」 

「…………めんどくせぇ」 

「め、面倒?!」 

 

 どいつもこいつも本当に面倒くさい。本当に厄介。本当にどうしようもない。 

 誰もが誰も扱いにくすぎて、今になっても正しい距離感なんて分かりゃしない。 

 

 ……その距離感を掴み損ねているうちに関係を拗らせたせいで、修復不可能になったものが多すぎる。数えきれないほどに多すぎる。 

 

 おそらく、始め方を誤ってしまったのだ。

今更悔いても過去が覆りはしないけれど、もう少しだけマシなやり口なんてのはいくらでもあって、そして、俺はそれらをことごとく取りこぼしてきた。 

 

でも、本当は、きっと。 

 

「邪魔だろそれ。ほれ、こっち寄越せ」 

「えっ、ちょっと……!」 

「たまたま手隙なんでな、俺は」 

「……あなたの方が五倍は面倒くさいです」 

「なんか言ったか?」 

「いいえ、何も」 

 

半ば強引に、五月の手にあったものをひったくる。 

 雨の中にあっても外を出歩けるようにという意趣を持って作られた、自身の上に無理やり天蓋を形成するアイテム。 

 

 しかもそれを持ち運びが可能なサイズにまで小型化してしまった、人間の飽くなき探求心による成果物。 

つまるところの、折り畳み傘。 

 

 そんな叡智の結晶は、突き詰め過ぎたミニマライズの反動で、高校生二人を風雨から守るにはいささか頼りなく。

そして、それ以上に厄介なこともあって。 

 

「詰めすぎだろどう考えても」 

「どう考えてもあなたが傾けすぎなんです」 

 

 なおのこと、肩やら腕やらに直撃するみぞれには容赦や手心といったものがなかった。

落ちて、溶け、服に染みる。その繰り返し。

ワンサイクルごとに着実に体温が奪われていくのが分かり、かじかんだ指先は感覚が薄れている。 

 

 そのくせ、体は熱に浮かされたようで、ぼやぼやとした輪郭を伴わない感情が波のように押しては返してを連続させていた。 

 

「私が濡れても、あなたが濡れても、どちらもダメなんですから」 

 

 そう言いながら、また一歩分距離が詰まった。

進むたびに腕がバシバシ当たって邪魔くさいので、黙って傘を持つ手を交換し、自由になった五月に近い側の右手をポケットにねじこむ。ずっと外気に晒していて冷え切ってしまったというのも理由の一つに数えられる。 

 

「転んだらどうするんですか」 

「気合で耐えるだろ、たぶん」 

「手を怪我しても終わりなんですから、もう少し気を遣ってください」 

 

 五月は自分のコートをまさぐって何かを取り出すと、それを無遠慮に俺のポケットに突っ込んできた。すると、そこを中心にじんわりと熱が広がって、彼女が握っているのがカイロなんだなと理解する。 

 

「一日使っているので、そこまで温かくはないですが」 

「いや、ありがたいけど……」 

 

 気遣い自体は丁重に受け取っておくとして、それと同タイミングで投げ入れられた爆弾にはどのように対処するのが正解なのだろうか。これが分からない。 

 

「ありがたいけど……これじゃ共倒れだろうよ」 

「問題です」 

「突然どうしたお前」 

「カイロはどんな理屈で発熱しているでしょうか」 

「鉄の酸化過程で熱エネルギーが生まれてるんだろ。中学レベルだ」 

「では、日常身の回りにある鉄製品がそうやって熱くならないのはなぜ?」 

鉄粉と鉄パイプじゃ反応する表面積が違う」 

「同じことです」 

「…………何が?」 

「今、こうしているのと同じことです」 

「絶対ちが」 

「同じことなんです」 

 

 否定の言葉は言い終わる前に遮られた。

どんな角度から考察しようにもあり得ないことだが、真っ向から斬り伏せられた。 

 

 五月的にはきっと、アレゴリーのつもりなのだろう。俺は認めないけど。

……だが、認める認めないを差し置いて、現状がややこしくなっていることは客観的な事実であって。 

 …………なんで手を突っ込みっぱなしなんだよ、こいつ。 

 

「表面積を減らせば、反応速度は抑えられますから」 

「お前の服にもポケットついてるじゃん……」 

「カイロは一個だけです。譲れません」 

「じゃあお前が独占していいよ。なくてもあったまるにはあったまるし」 

「それはダメです」 

「なぜ」 

「ダメなものはダメと世間の相場が決まっているからです」 

「とうとう理屈抜きの力技で来やがったな」 

 

 言い訳のレパートリーが貧弱だった。

せめてもう少しくらい用意しておいても良かったのに。 

 

 そこまでして俺にカイロを押し付けたいか……とも思うが、善意であるのが分かっているから強く断りにくい。

こいつの根っからの不器用さを加味しても、強引が過ぎる気がしてならないけれど。 

 

 それとも、これは一周まわった利己なのだろうか。

彼女の言を額面通りに受け取って、そのまま飲み下してしまうのが正しいのだろうか。 

  

「ってかお前、これはどういう心境の変化だ」 

「これ、とは?」 

「手、無理なんじゃなかったのかよ」 

「いつの話ですか」 

「一年前」 

「それはほら……物を介しているので」 

 

 確かに、繋いでいるというよりは、たまたま触れあっているといった方が今の状況を説明するのにはしっくりくる。

ちょうど、カイロが間仕切りの役割を果たしていて、どこからどこまでが五月の手なのかが分かりにくかった。 

 

 この場合、俺はどうすればいいのだろう。

一年かけての成長を喜ぶべきか、あるいはこれが進歩のないことだと嘆くべきか。 

 

「……訂正します。少し、嘘です」 

 

 ん、ん、と数回咳ばらいをした五月がそんなことを言う。

しかし、少し嘘とはなんだろうか。日本語は成立しているのか、それ。 

  

「何がどう嘘なんだ?」 

「どう、と言われましても」 

「いや、聞き返されても俺が困るだけなんだが」 

 

 答えが五月の中にしかないのだから、それを彼女が開示しないことには始まらない。こればかりは俺の取り扱いではないのだ。 

 

 五月が言い出した以上、その発言の回収は五月がする。なんてことはない、当たり前の摂理。  

 

 だからきっと、ここから詳細の説明が始まるのだろうと思って待機していた俺を襲ったのは、盛大にその予想を裏切っていく展開で。 

 

「…………それを聞くのは野暮でしょう」 

「なんでだよ」 

「だからその……あるじゃないですか、色々」 

「具体的に言ってくれ」 

「察してください」 

 

 ぷいっとそっぽを向かれてしまった。

これはつまり、会話はここで終了という意思表示と見ていいのだろうか。

どうせならそれくらい分かりやすくその嘘とやらについて解説を願いたいのだが、今の五月は打てど響かずといった具合で、コミュニケーションが成立しそうにない。

 

そもそもお互いがかなりの譲歩をしたうえで相互干渉を可能とした間柄なので、こうやってどシャットを喰らったらもうおしまいだ。 

 

 類似の状況に立たされた機会は数えしれないが、あれはそもそも心の開き具合が今とは比べ物にならない頃合いだったので、そこそこ理解を深めた気になっている相手からガン無視を決め込まれるとなかなかにクるものがある。

言葉の脆さというやつを、こういうときほど思い知らされる。 

 

「俺に言外にこぼした意図を拾う能力はない」 

「……自慢げに言うことじゃないでしょうに」 

 

 素直に告白したら反応をもらえた。

分からないことは分からないと言う。

変に意地を張っても意味がない。

学ぶことの根本に共通する姿勢だ。

 

じゃあこの会話から何を学べるのかと聞かれたら、それもまた正直に「分かりません」なのだが。 

 

「悪いが成長過程で捨ててきた」 

「それはそれは大変ご立派なことで」 

「ちなみに今のが皮肉だってのは分かる」 

「……程度による、と」 

「何事もな」 

 

 分かり過ぎるということもなければ、分からな過ぎるということもない。

俺の能力は、他人の想像の範疇の中にすっぽり収まりきるぐらいのもの。 

 

 だから、こいつの言うことの一欠片くらいは理解できている気でいた。

それが実態に即したものかどうかは重要ではなく、過去の五月の言動を考えたときに、一番有り得そうな心境を。 

 

 しかし、わざわざ口に出すのはそれこそ野暮というもの。

ついでに、間違っていたら赤っ恥だし。 

 

 そしてさらに言うのなら、俺が俺っぽい行動パターンで動くとしたら、まあ間違いなくここで本人に直接聞くのがセオリーだ。

 

間違った予想が自分の中だけでの真実、事実として定着してしまうくらいなら、顰蹙を買うことを承知してダイレクトに問う。

その結果として白い目で見られようが何をされようが、そこに誤解がないのならそれでよかった。 

 

 思えばこれは、一種の偏執であるのかもしれない。

正解に固執し過ぎて、それ以外の全てがどうでも良くなってしまったような。

本当は過程にだって意味があるはずなのに、正解という一つの結果を大々的に掲げ、その他を不要だと淘汰していくような。 

 

 少なくとも、去年以前の俺ならば、ここからでも容赦なく踏み込んでいった。

解答が見えないままでいることにイラついて、行動を起こしていた。 

 

だけれど今は、わずかながらに違って。 

 

「俺に野暮だの野暮じゃないだのは分からん。人との付き合いが浅すぎるからな」 

「それも自慢することではないですね」 

「ただまあ、なんとなく見えてきたものはある」 

「たとえば」 

「ここでこれ以上ずけずけ行くと、しばらくお前の機嫌を損ねることになる。それは好ましくない。だから、このあたりで分かったふりでもして黙るよ。空気読んでな」 

「それは成長ですか?」 

「そういう基準で考えてねえよ。ただの処世術だ」 

「大人にはなっているかもしれませんね」 

「嫌な言い方するなぁと思ったが黙っておく。これも処世術だ」 

「黙れていませんけどね」 

 

ここで、ようやく五月がこちらに向きなおった。ひと段落、か。 

 

 正直なところ、俺も分かりかねている。

なぜこいつらのご機嫌を取る方法なんかを知らぬ間に覚えて、しかもそれを当たり前に実行するようになってしまったのか。

別に懐柔されたわけでもなければ、前までのように借金への焦りがあるわけでもないのに。 

 

 単純に、教師業を円滑に進めるため、というのは理由ひとつになり得ると思う。

へそを曲げられたままでは会話すらままならないし、そういう奴が一人いるだけで場の空気は最悪だし、それに辟易してはいた。 

 

 だが、そういうものを最たる理由として揚げるのはどうかと思った。これは上手く言語化できる感覚ではないのだが、なんだかこう、しっくりこないのだ。 

 

 五月の言葉を借りるのなら、少し嘘がある。

どこかに異物が混じっている。

 

確かに正解という大きなくくりの中の部分集合に属してはいるが、それはただの構成要素であって全てではない。

しかも、根幹をなしてもいない。 

 

 では、どう表すのが正解なのだろうか。

疑念が生まれ、思考している以上、どこかに必ず答えはあるはず。

思考と存在が等価なものであるとどこかの誰かが大昔に提唱していたことを思い出す。

それに倣えば、間違いなく答えはある。

 

ただ、見つけられていないだけで。 

 

「個人的には、語らない美しさというのがあっても許されると思います」 

「それを理由を話さないことへの免罪符にしちまうのはアリなのかよ」 

「ずるいとは感じますよ」 

「でもやっぱり、アリだとは思ってんだろ?」 

「女の子は、ずるいくらいがちょうどいいものでしょう?」 

 

 これまた予想できない類のセリフが飛んできて瞠目する。

道理に従うタイプのキャラクターだと思っていたので、そんな凡百のロマンチストみたいな発言をするとはこの目で直に見ても信じられなかった。 

 

 俺のぎょっとした様子を不審に思ったのか、五月のカイロを握る手に、先ほどよりも少しばかり力がこもる。 

 

「似合わないですか?」 

「合う合わない以前に、お前がその手のことを言うと思ってなかったんだよ」 

「でも言いましたよ」 

「聞いちまったよ」 

「じゃあ、私はそういうことを言うかもしれない子だったという話です」 

「なんてことない一言で印象がガラッと変わるから、人付き合いは苦手なんだ……」 

 

 何千何万と繰り返すやり取りの中のたった一節。

それだけのせいで、「こんなものだろう」とこちらが勝手に規定していた幅をあっさりと跳び越え、乗り越していく。

想定の範囲をどれだけ広く持っていてもこうやって越えられてしまうのだから、まともにやっているのが馬鹿らしく思えてしまう。 

 

 俺が難しく考えすぎているのは分かっている。

分かっているが、誰もがこんな指針も方策もない超高難易度の試験をクリアしているのかと思うと、俺なんかよりもそいつらの方がよほど出来の良い人間に見えてくる。

 

実際、そういう価値観で世界を運営している人々の視点に立ってみれば、落第の烙印を押されるのはきっと俺の方なのだろう。 

 

 本当に、こいつらからは余計な気付きを得てばかりだ。

気付き過ぎて、そのたびそのたび頭がこんがらがっている。 

 

「しかもお前、さらっと本題から逸れた方向に俺を誘導しようとしてるしよ」 

「…………」 

「まあ、これ以上は聞かないことにしとくけど」 

 

 何がどう嘘なのかは、やっぱりまったく分からなかった。

知らないうちに脳みそが人物評やら俺の思考パターンの変遷やらについてリソースを割き始めていたせいで、そっちについての解析がまるで進んでいない。

 

というよりは、先んじて門外漢であることを知ってしまっているせいで、入り口前で足踏みしているとでも言えばいいだろうか。 

 

「総括する。あったかいから後はどうでもいい。以上」 

「ずいぶん適当なまとめですね……」 

「考え疲れたんだよ。あとねみぃ」 

 

 帰宅途中くらい気楽にいたいものだ。

家に帰ったらまた勉強勉強勉強なのだし。 

 

「……本当に体調は大丈夫なのでしょうか?」 

「限度は弁えてるよ。経験則でな」 

「その、生徒としてのお願いではないので、聞いてもらえるかどうかは分からないのですが……」 

「ん?」 

「上杉君に体を壊されるのは嫌です。すごく嫌です。……なので、もう少しだけ自分に甘くなってもらえませんか?」 

「……考えとく」 

 

 俺も、積極的に病院の世話になりたくはない。

乞われたからには、多少見直してみる必要があるか。 

 

 たとえば、せめて今日くらいは体が許すまで眠るとか。 

 

「ちなみに、生徒としてではないのならなんなんだ?」 

「それはその……友人、は少し違いますかね。なら、中野五月個人の、ええと、なんというか……」 

「なんというか?」 

「……………………それを聞くのは野暮でしょう」 

「了解。貴重な助言をもらったってことだけ覚えておく」 

 

 ここで聞き返そうものなら、またあれやこれやと思考の応酬が始まるのは目に見えていた。

今しがた体に気を遣えという旨のことを言われたばかりなので、ここは何も考えずに彼女の言葉に従おう。 

 

そうやって楽をすることも、たまには必要なんだ。きっと。 

 

 そのままてくてくと歩を進めて、俺の家へと近づいて行く。

口に出してはいないけれど、このペースだと五月は遠回りしてでも俺の家に寄るルートを選んでくれるらしい。

そのことについて言及しようかとも思ったが、きっと野暮になってしまうだろうから、胸の内に留めておいた。

大丈夫。この会話の中にも、俺はきちんと学んでいる。 

 

 沈黙が続いているが、居心地の悪さは感じなかった。

なんというか、ほどほどにちょうどいい空気感だ。

こうやって二人並んで歩いていても息苦しくない。 

 

 でも、そういう心理的な問題とは別に、物理的な問題は生じていた。 

 

というのも。 

 

「痛いんだけど……」 

「か、加減が分からなくって」 

「もう冷えは引いたから心配いらねーよ」 

 

凍えてしまった俺の指先を溶かすように、五月の手が重なっていた。

しかしなんだ。そこにかけられている力があんまり強いものだから、少し痺れが回ってきている。

最初のうちはかじかんだとき特有の感覚の鈍さかとも思っていたが、いざ暖まってくるとどうやらそうではないことが判明してしまった。 

 

「だからもう放していいぞ。カイロも返す」 

「…………」 

「謎の意地張らなくていいって。マジでもう大丈夫になったから」 

「…………このままでいると、不都合がありますか?」 

「手が痛い」 

「っ、そ、それ以外に」 

「特には思いつかないが」 

「…………なら」 

「ん?」 

「なら、別に、いいじゃないですか。上杉君のお宅まで、そう遠くもないんですから」 

「まだ結構――」 

「…………ダメですか?」 

「そういうわけじゃ……」 

 

 全身から捨て犬のような雰囲気を漂わせるのはやめて欲しい。

俺が悪いことを言っている気分になるだろ。 

 

 五月がどんな事情を抱えてこんなことを言っているかは知らないが、このスタイルでいることに強いこだわりでもあるのだろうか。

さっぱり推察することはできず、また余計に思考をめぐらせることになってしまう。 

 

「ならせめて、もっと緩く握ってくれ。それが妥協点だ」 

「に、握ってません!」 

「はぁ?」 

「掴んでるんです!」 

「同じだろどっちも」 

「違いますから! 全っ然違いますから!」 

「痛い痛い痛い」 

「とにかく、握ってないんです。これは重要なことなんです!」 

「痛いって」 

「分かってください。絶対に!」 

「分かった。分かったから緩めてくれ」 

「…………あっ、熱くなりすぎました……」 

「まぁ、これくらいなら許そう」 

 

 ちょうどいい塩梅の力加減になったので、認めてやることにする。もう掛け合いをするのに疲れたから、言われたままに流されてしまうのが一番楽でいい。 

 

 俺には彼女自身の言葉という免罪符がある。

だから、思考はそろそろ放棄だ。 

 

「このやり取りがお前の息抜きになってれば嬉しいよ俺は……」 

「……私は、まるで休まりません」 

 

 あれだけ言ったのに、また五月の手が強張り始めた。仕方ないので、指先だけでも痛まないよう、両者のそれが重なり合わない形に手と手を無理やり組み替える。 

 

「…………ちょっとぉ」 

「勘弁してくれ。俺は疲れた」 

 

 途端に全身脱力してしまった五月を引きずるようにして、帰路を急ぐ。 

 

 俺たちに交際関係はないので、差し詰めこれは変人繋ぎとでもいったところか。…………やっぱりなんにも上手くねーや。 

 

 カレンダーの日付を見れば、今年も残すところ一週間となっていた。センターまでもう一ヵ月を切ったと思えば、時間が流れる早さに驚きもする。 

 

 結局のところ、重要なことはなに一つだって決まっていなかった。自分の行く末も、卒業までにはなんとかしておくと約束したことも。 

 

 忙しさと慌ただしさを言い訳にしてただただ時間を浪費せど、期日が伸びることはない。

 

いつかは必ずそのときが来て、否応なしに選択を迫られることになる。そのことが常に頭の中にあるのは事実だが、現実問題、考えていられるだけの精神的余裕も肉体的余裕もなかった。

今はただ、五月をサポートすることのみに尽くさないと、悔いが残ってしまいそうな気がしていたから。 

 

 ……だが、それすらも、きっと言い訳なのだと思う。先延ばしにしておく都合の良い理由として、家庭教師という己の立場と、夢に向かって励んでいる五月を利用しているだけだ。

悪用と言い換えてもいいかもしれない。

 

目の前の問題に集中しているふりをして、やがてやってくることが分かり切っている課題から目を逸らしている。逸らし続けている。 

 

 無駄なことだと我ながら呆れる。

こんなやり方をして、得られるものなどなにもないというのに。……それでも、どうにかして避けよう、逃げようという意思が働いてしまって、場は全てどっちらけだ。 

 

 俺はなぜ目を背けようとしているのか。どうして手をつけたがらないのか。

そこにある思いにどんな名前がつくのかを理解できないまま、刻限だけがこちらに迫ってきていた。まるで俺を追い立てるように、着実に。 

 

 人間関係を楽に紐解く公式も構文も、この世界にはない。

その事実に数えきれないほど肩を落としながら、それでも、俺は……。 

 

「よう」 

「……お、おはようございます」 

 

 寝不足の目を擦りながら、俺より早く図書室にやってきていた五月の隣に腰を下ろす。

ここの椅子の硬さも、今ではすっかり体に馴染んでしまった。

もっといいものを揃えてくれよという気もするが、それも努力の証左だと思えば、まあ悪くはないか。 

 

「……なぜ避ける?」 

「な、なんとなく……」 

 

 俺から距離を取るように、五月の体が大きく傾く。

元は姿勢の整っている奴だから、かなりおかしな印象をこちらに与えてきた。

 

さて、俺はなんとなくなんてはっきりしない理由で避けられるような悪事を犯しただろうか。……思い当たる節があまりに多すぎて逆に特定困難だが、彼女の知り得る範囲の情報に限定すれば、たとえば。 

 

「結局風邪ひいたんじゃないだろうな」 

「いえ、健康体です。そういうのでは、ないです」 

「なら構わないけど。……で、それじゃあなんなんだ?」 

「だから、なんとなくなんですよぉ……」 

 

 彼女の体がくてっと脱力した。

己の現況を説明するに相応な語彙を保持していないとか、そういう理由だろうか。

そうならそうで、擬音でもなんでも使って表現する努力をして欲しい。俺のお察し能力に期待するなとは再三に渡って言っているのに。 

 

「そういや昨日の話だけど」 

「…………っ」 

「だからなんなんだよ……」 

 

 昨日、のあたりで目に見えて動揺し始めた。

俺でも分かるくらい、と言えば、分かりやすさの指標としてこれ以上はないだろう。 

 

 俺はただ、あの後無事に帰宅できたかという何でもない無駄話をしようとしただけなのに、その慌てようはいったいなんなのだ。

なぜ頬を赤らめる必要がある。 

 

「やめです。その話はやめです」 

「はぁ?」 

「話すなら別のことに。そうですね、美味しいものについてなんてどうでしょう」 

「そういや昨日の夕飯はカレー……」 

「昨日と言う単語はNGで」 

「たかが雑談に枷をつけるなよ……」 

 

 ゲームでもやっているのならまだしも、今はただのフリータイムだ。こんなところで浪費する体力の持ち合わせは俺の中にない。

いっそ黙るのが一番賢い選択に思えたので、しばらく口を噤むことにする。

 

彼女は既にノートやら参考書やらを展開しているので、分からないところがあれば向こうから聞いてくるだろうし。 

 で、早速向こうが口を開いたかと思えば。 

 

「……その、昨日のこと、ですけど」 

「割とめちゃくちゃだなお前」 

「NGはあなただけなので」 

「暴君でももうちょい理屈を添えるぞきっと」 

 

 昨日のことを蒸し返されたくなさげなのに、なぜか自ら火種を投下していく怒涛の矛盾スタイル。

何がしたいかさっぱり分からない。 

 

「ちょっと、手、見せてもらってもいいですか……?」 

「どっち?」 

 

 こっち、と指を差された。回りくどい言い方をするならば、昨日傘を持っていなかった方の手を。 

  

「ん」 

「痣とかは……大丈夫ですね。良かった」 

「握力だけで痣作るのはバケモンだろ」 

「もしそうなっていたら大変じゃないですか」 

 

 確かにちょっとだけ鬱血してはいたっけ。

どんだけ強く握れば気が済むんだって感じだったが、彼女視点で言えばあれは掴んでいただけらしい。

 

俺から見れば、握るも繋ぐも掴むも意味に差異は見つけられないのだが。

微妙なニュアンスを追いかけて言葉遊びをするのは作家にでも任せておけばいい話であって、俺に関わりのあることじゃない。

まあ、ここは彼女の意思を尊重して『掴んでいた』ということでまとめておいてやろう。 

 

「そんなことより勉強だ勉強。俺を気遣う時間で英単語の一つでも覚えた方がよっぽど建設的だぞ」 

「気兼ねなく勉強できるように下準備をしただけですよ」 

 

 言いながらも、きちんと手は動いている。

頭が付いてきているかは知らないが、手癖で問題が解けるくらいの次元に到達しているのなら問題はないか。

本番を見越したときにそれくらいの余力があった方が精神的に楽だろう。 

 

「……上杉君、今日の日付はご存知ですか」 

「二十四日」 

「ですか。ですよね」 

「いきなりどうしたよ。はっきりしないならスマホで確認すりゃいいだろ」 

「いえ、一応です。一応」 

「一応ねえ」 

 

 今年の残り日数ばかりに気を取られていたけれど、そうか。今日はクリスマスイブか。

ということは、去年にこいつらがあのアパートに引っ越して一周年。全員そろって冬の冷たい水の中に飛び込んでからも一周年って寸法だ。 

 

 感慨深く思う。

再雇用から一年の節目を迎えても、俺はやっぱりこいつらに手を焼かされているのだ。

道中新たな面倒ごとを数多抱え、それでもやっとこさここまでたどり着いた。自己評価では赤点を免れない道程だったけれど。 

 

 しかしまあ、なるようになるものだ。

絶対に途中で崩壊する気しかしなかったのに、なんでかんでのらりくらりと切り抜けている。

 

俺の存在が姉妹の仲に亀裂を入れるかもしれないという心配はずっと消えずに俺の後ろを付きまとい続けているが、薄氷の上を歩くような奇跡的なバランスでもって、強引に関係性を成立させている。 

 

 歪だと言う奴もいるだろうが、俺にはこれが精いっぱいだった。笑いたければ笑ってくれ。 

 

「お前らはプレゼント交換とかすんの?」 

「…………っ」 

「なんかおかしいぞお前。今日は一々俺の言ったことに反応しすぎだろ」 

「す、すると思いますよ」 

「何にも言われなかったような顔で強引に話を続けようとすんなよ……」 

 

 どうにもぎこちない。

いや、手練れた会話というものがどんな形かは知らないけれど、絶対にこういう形態を取らないとだけは断言できる。

そもそも俺は普段、五月とどんな風に話していたっけ。 

 

 何にしたって、五月の態度は不自然そのもの。

隠し事でもしているのだろうか。 

 

「まあ、クリスマスとか、俺にはよく分からんけどな」 

「どういう意味です?」 

「そのまんま。その類の行事に馴染みが薄いんだよ」 

 

 世間がきゃっきゃきゃっきゃと騒ぐお祭りごとも、俺には関わりのない話。

割のいい日雇いバイトの求人が出る程度の認識しかない。

実際、去年はケーキ屋で働いていたわけだし。 

 

「ガキのときにサンタ服を着た親父を見て真相を察して以来、なにごともそんなもんかって目で見るようになっちまったし」 

「それはご愁傷さまで……」 

「そんなわけで、俺とクリスマスは縁がないんだ。以上」 

 

 この歳になってプレゼントをもらいたいなんて思いはしないけれど、胸の奥底のほんのちょっとしたところに、一抹の名残惜しさみたいなものは確かにあった。だが、思うだけだ。

それを望めるほどの身の上ではないと弁えている。 

 

 だけど、まあ、そういう文化に取り巻かれて育ってきた五月たちを見て、少しばかりの羨ましさを感じることはあった。

妬み……とまではいかないけれど、もし自分がその立場にあったらどうだったろうかという、少しばかりの興味関心だ。 

 

「でも、その、今年は少し期待してもいいかもしれませんよ?」 

「ウチに煙突はねーよ」 

「ある家の方が少ないと思いますが……」 

 

 欧米文化を強引に日本に取り込んだせいでそこらへんの擦り合わせが上手くいっていないことも、子供のころは気にならなかった。

 

メインはプレゼントだから、窓から入ってこようが玄関から入ってこようが、最悪ポストに投函されていようがどうでも良かったのだろうと思う。

滅茶苦茶な話だが、微笑ましいといえば微笑ましい。

滑稽だと言って斬り捨てるのはどうにも違う気がする。 

 

「期待するとなにもなかったときの反動がデカいからな。話半分くらいで覚えとく」 

「そうですね。それくらいがいいのかもしれません」 

「無駄話が過ぎた」 

 

 何を目的にこんな日にまで登校しているかを忘れてはならない。

休みを一日潰すのならば、せめて有益な使い方をしなければならないだろうに。 

 

「分からない箇所はあるか?」 

「今のところは特に」 

「ならいい。しばらく席を立つから、戻ってくるまでに質問すること整理しといてくれ」 

 

 首の骨をこきこき鳴らしながら椅子を引く。

まだやってきたばかりなのに……という五月の視線が痛いが、言葉に出して聞かれない限りはこちらから委細を話す責任は生まれない。

さっさと立ち去ってしまえば俺の勝ち逃げだ。 

 

 昨日の教訓から持ってきていたカイロを片手で弄びつつ、その場から離れる。

椅子の軋る音が、やけに印象深く耳に響いた。 

 

 学校が気を利かせたのか、もしくは教員側の要望なのかは明らかでないが、今日に限って特別授業に類するものの予定は組まれていなかった。

三年生を担当する教師は気が休まらないだろうから、たまの休息を与える意味もあるのだろうか。

どちらにせよ、俺に参加の意思はない以上はどうでもいいことだが。 

  

「失礼します」 

 

 ……というよりも、講座がなかったところでこうやって招集がかかるのだから、結局どうしたって無駄なのだ。 

 

 進路についての要領を得ない会話を担任と繰り返しているうちに、三十分以上が経っていた。

 

未だ自分の進む道を決めかねている俺と、基本的に進学の方向で話をまとめたがる教師とではどうにも相性が悪く、表面的な話し合いだけで中身が一切進行しない。

まるで形骸化した儀礼みたいに、毎度似たようなことを言い合うだけだ。 

 

 そりゃまあ、俺にだって気持ちは分かる。

どこにだって受かる学生に就職なんてされてはこの学校の進学実績に穴が空くし、教師間のヒエラルキーにも影響するかもしれない。

 

ただ、決まらないものは決まらないのだから早くしろと急かされたって答えが浮かんできようもないことくらい、うっすらでいいから承知してくれないものだろうか。 

 

 教師としての視点は俺も手にしているから、向こうの苦悩も分かる。俺は本来必要のない迷惑をかける問題児に区分されているに違いない。ただ脳死で受験、進学を選んでくれるのなら、どこにでもいる優等生で終わったのだろうに。 

 

 だけど、俺の精神性がそれを良しとはしてくれなかった。

明確な目標を欲する気持ちが強すぎて、向こうが提示する特待生の条件や給付型の奨学金の話もほとんど頭に入ってきてくれないのだ。

 

こんな状態で人生の重要な決定を下すには無理があるというのが正直な自己評価で、だから冷静になれる限界までゆっくり時間を使いたいのだが、それを許してくれるような世界ではない。

 

まさか先方も、学力以外で躓く学生の存在を考慮に入れてはいないだろうから、話に折り合いをつけようがなかった。 

 

ウィーン会議じゃないんだから……」 

 

 なんなら踊ってすらいないから、そのたとえの正確性には疑問が残る。

俺の手許には使い道の分からない各種説明書だけが残って、今から処分方法を考えていた。 

 

「まさかこれがクリスマスプレゼントじゃねえよな……」 

 

 プリントを睨みつける。

五月の言ったことがこんな形で具現化したのだとしたら地獄が過ぎる。真っ先に捨てることを考え出さなきゃならないプレゼントとはなんだ。 

 

 もらったものを乱雑にリュックに詰め込んで、足早に図書室への通路を歩もうとした、そのとき。 

 

「みっけ」 

「びっくりするから普通に話しかけてくれよ」 

 

 手の甲をぺしっとはたかれたので振り向けば、そこには覚えのある顔が。ついでに言えば覚えのあるヘッドホンが。 

 

「びっくりさせようと思ったんだもん」 

「ああ、さいで」 

「む、感触薄」 

「めんどくさい話の後で疲れてんだよ」 

「話って?」 

「進路。担任と」 

 

 しまい込んだばかりの書類を再び引っ張り出して見せると、三玖は「あーっ」という表情で、ちょっとだけ眉を下げた。

事情のなんたるかは察してもらえたらしい。

 

「大変だね」 

「向こうは仕事で俺は人生の一大事だ。まあ仕方ないだろ。……で、お前はなんで登校してんの?」 

「ん」 

 

 袖をくいくい引かれる。ここでの説明はお預けか。 

 

「どこ行くつもり?」 

「屋上」 

「カツアゲかよ……」 

 

 ジャンプしても小銭の音はしねーぞと思いながら、進路を変更して階段を昇っていく。

この時期、積極的に屋外に赴く性質ではないので、ちょっとだけ脚が重かった。 

 

 連日の天候不順が災いしてか、屋上の各所が凍り付いていた。

そこまで雪の多い地方ではないはずなのに、今年はやけに降り積もる。現在進行形で空は曇って、均衡がわずかに崩れようものなら容赦なく世界を脱色してしまいそうに見えた。 

 

「お前も教員の呼び出し受けたのか?」 

「ハズレ」 

「違うのか」 

 

 当たり前に勉強してくれるようになったとはいえ、根っこの勉強嫌いが失われたわけではないから、喜んで学校に来る奴ではない。

講座がないのは既に明らかな以上、そういった類の招集を受けたものだとばかり思ったのだが。

 

「五月に用事?」 

「それも違う。あったら家で済ませばいいし」 

「それはそうか」 

 

 わざわざ不要な労力を支払う必要性は薄い。

じゃあ、どこに理由があるのだろうか。 

 

「フータローに会おうと思ったら、取りあえず学校かなって」 

「俺に用事?」 

「うん。ほら、今日が何の日かくらい知ってるでしょ」 

「アポロ八号が世界で初めて月の周回飛行をした日だよな」 

「ふざけてる……?」 

「こんなことを大真面目に言う奴がいたら縁切ったほうが身のためだぞ」 

 

 俺なら切る。間違いなく。 

 

「クリスマスだろ。そのくらい知ってる」 

「ん。プレゼント、出来るだけ早く渡したくて」 

「俺は何にも用意してないんだが」 

「……お返しくれるの?」 

「一旦忘れろ。怖え。目が怖え」 

「くれるの?」 

「血走らせるな。落ち着け」 

「じゃあ、後からもらうってことで」 

「ええ……」 

 

 こちらからは何も発信していないのに決定事項のように処理されてしまった。まあいいけどさ……。

 

いや、良くねえな。ねだられる前にちょうどいいものを見繕ってこないと無茶な要求を通される未来が見えすぎる。

それはさすがに勘弁だ。 

 

「そのうちな、そのうち」 

「今忙しいのは分かってるから大丈夫。余裕出来たらでいいよ」 

「じゃあ、年度内には……」 

「には?」 

「……なんでもない」 

 

 年度内。つまりは高校卒業までだ。

俺はそのタイミングを期日に設けたデカすぎる約束を彼女らと結んでいるので、あまり積極的に話題に上がる可能性のある単語を発したくはなかったが、常に気を張っていられるわけもなく、こういう形で墓穴を掘ることになる。

三玖の顔を見るに俺の失言には既に気づいている様子だ。 

 

「楽しみにしてるからね」 

「……俺の甲斐性に期待すんな」 

 

 明言されなかったから、楽しみにしているのがお返しなのか、それともまた別のものなのかははっきりしない。……でも、そんなに単純に終わるわけはないんだよな。 

 

 というか、プレゼントとやらを送られる前からお返しの話をしてどうする。

あくまで釣り合いが取れるような範囲で授受を行うべきだというくらいは俺の理解の内だから、向こうの贈り物の格を計ったうえで、こちらも弄策すべきに違いない。 

 

 なのでまずは受け取ってみてから。 

 

「気に入るか分からないけど」 

 

 そう前置かれてから、三玖はごそごそと自分の鞄を漁り始めた。

その場所に収まりきるサイズだという前情報をゲットだ。……いや、それくらいは言わずとも知れたことだけども。 

 

「フータロー、いつも寒そうにしてるから、ちょうどいいかなと思って」 

 

 言いながら、一歩ずつ俺の方へと距離を詰める三玖。手元には、毛糸を組んだ細長い一品が。 

 

 三玖はそれをそのまま俺の首元にするすると巻いて、満足げに鼻を鳴らした。 

 

「本当は手編みにしたかったんだけど、そんな時間があるなら勉強に回した方が良いだろうから」 

「ああうん、サンキュ……」 

「無難過ぎたかな?」 

「いや、あまりにもちゃんとしたものでびっくりしてるだけ……」 

 

 一晩自由権やらなんやら、とにかくやばいものをもらってばかりいた気がするので、ここまでストレートにありがたいものを渡されると反応に困る。

なんてプレゼントっぽいプレゼントなんだ……。格とかいうふざけた単語を持ち出した自分の浅ましさが滅茶苦茶恥ずかしくなる。 

 

 これは真面目に考えないとなーと思いつつ、左右で微妙に長さにズレがあるマフラーを上手いこと調節した。当たり前だが、暖かい。 

 

「風邪、引かないようにね。もっと早く渡した方が良かったのかもしれないけど、クリスマスの誘惑が強かった」 

「ありがたく使わせてもらう。うん」 

「他の子と被っちゃうかもしれないけどね」 

「それならそれでローテ組めば……」 

「えー」 

「いや、気持ち多めに使うから……」 

「ならよし」 

 

 いいのかそれで。

本人が言うなら問題ないってことだろうけど。

 

「じゃあ、俺は五月のサポートにもど……」 

「一日一回」 

「最近控えめだったろ……」 

「今日くらいいいでしょ……?」 

「日に依るのか?」 

「依るよ。すごく依る」 

 

 依るらしい。初耳。 

 今のことがあるので俺もあまり強く出られず、そのうちに彼女の接近を許してしまう。相変わらずの甘い匂いが体に毒でしょうがない。 

 

 今巻いたばかりのマフラーをきゅっと引っ張られ、必然的に俯く。そこには既に、朱に染まった三玖の顔が用意されていて。 

 

「……っ」 

「…………ん」 

 

 なんでかいつもよりも長めにくっついた唇をやっとこさ離して、気恥ずかしさに任せて彼女の肩をぐっと押す。

明るいうちから近づくのには慣れていないから、自衛だ自衛。 

 

「ほら戻るぞ。防寒具があっても寒いもんは寒い」 

「フータロー、顔真っ赤」 

「どの口で言ってんだお前」 

 

 やいのやいの言いながら屋上を後にする。

暖房をケチる学校とはいえ、流石に風がないぶん体感温度も多少はマシになった。 

 

 階段をとぼとぼ降りながら、ふと思い立って振り返る。

なんだか、いつもと様子が違うような―― 

 

「何やってるのフータロー。早く行こ」 

「ああ、うん」 

 

 三玖に急かされて、前を向く。

誰かが物の配置を変えたのか何なのか絶妙な違和感が消えなかったが、それを明かしてどうにかなるということもあるまい。 

 

「このまま帰るのか?」 

「そのつもりだけど」 

「じゃあ下駄箱まではお供するか……」 

 

 ここでハイさよならではさすがに淡白すぎる気がした。

先ほどの恩義込みで見送りくらいはしてやらないと。 

 

「フータロー、そういう気遣い出来るようになったよね」 

「おかげさまでな」 

 

 ご機嫌取り、とも言うんだけど。 

 

「遅くなった」 

 

 結局一時間ぶりくらいに図書室に舞い戻る。

案の定、五月は姿勢よく勉強を続けていた。 

 

「ん……?」 

「どうしました?」 

「背中、妙に埃っぽくなってないか?」 

 

 瞬間、過去目の当たりにしたことがないレベルの俊敏さで五月が己の背を払った。

こいつ、このレベルの潔癖症だったっけ……? 

 

「なんでもありませんが」 

「なんか息荒いぞ。大丈夫かお前?」 

「なんでもありませんが!」 

 

 やっぱり今日の五月はどこかおかしい。

そのどこか、というのがパッと分からないのがもどかしいが、何かが狂っていることに違いはなさそうだった。 

 

 まあ、今は態度がどうであれ勉強さえ進めばいい。俺が注力すべきはその一点だ。 

 とにかく、ここがスタート。今日も出来るだけのことをしよう。 

 

 

 

 あの人の帰りがあんまり遅いのが気になって、心当たりを探りに行ったのが発端。

この前と同様に肩を大きく落としながら職員室から出てきた彼を見つけたときには、もうその後ろに三玖が迫ってきていた。 

 

 自分でもどうしてか分からなかったけれど、見てはいけないものを見るような気分になって、とっさに体を物陰に潜めた。

会話が聞き取れるぎりぎりの距離から息を殺して盗み見る姉の横顔は、普段自分に見せるものとは趣が全く違っていて。 

 

 警戒心の欠片もなく弛緩し、ほんのり上気した頬は、それはもう誰が見ても一発で看破できるくらい、恋する乙女のそれで。 

 

『みっけ』 

 

 ついでに言えば、声音までもが平時よりも半音上がっていて。 

 その大きな感情を一身に受けている彼は、いつものぶっきらぼうな調子で、なんでもないように取り合う。 

 

 けれど、二人の距離感は、私と彼の距離感よりもはるかに近いことが、なんとなく読み取れてしまった。 

 

 息遣い。視線。声のトーン。そういったコミュニケーションの素地一つ一つが、明確に私に向けられるものと違うのが、本能的に、直感的に、理解できてしまう。 

 

 それに気付いたとき、なぜだか無性に心臓の下のあたりが痛んだ。心がこんな場所に格納されていることを、生まれて初めて知ったように思う。 

 

 良くないことだと理解していて、階段を昇る彼らの後を追いかけた。屋上にたどり着いた二人にバレないよう自販機の陰に身を隠して、扉越しに聞こえてくる会話を拾う。 

 

 小慣れたテンポで繰り返される言葉のキャッチボール。

その一投一投が、着実に自分の内側を抉ってくる。

三玖が今現在立っている舞台に、自分が未だ昇れていないのを時間をかけてじっくりと理解させられる。 

 

 そのうちに足に力が入らなくなって、壁に背中を預けてどうにか体重を支えた。

心臓が脈を刻む音が生々しく反響し、目も耳も全部塞いでしまいたくなる。 

 

 でも、直視したくない現実に限って積極的に提示してくるのがこの世界らしく。 

 

 一日一回。

その単語の後に扉の向こうで展開された事象を思い描くのは容易かった。 

 

 先ほどまで途切れることなく続いていた会話がそのときに限って絶えたのが、全ての証明だったと思う。 

 

 その後は、記憶が千々に散ってよく覚えていない。

どうにか二人に気付かれないよう体を丸めてやり過ごして、不在がバレないように急いで図書室に戻って。とにかく、必死だったことだけは確かだ。 

 

 なんで、あそこに立っているのが私じゃなかったんだろう。 

 

 

『あの、三玖』 

『どうしたの?』 

『お昼のことなんですが――』 

 

 

 

 

 日頃はただの置物になっている携帯電話が久々に仕事をした。

滅多に聴かないコール音をちょっとだけ長く耳に染みこませてから、利き手で通話ボタンを押す。 

 

発信者表示は、『中野三玖』となっていた。 

 

「もしもし。どうした急に?」 

『た、大変!』 

「何が?」 

『だから、大変なの!』 

「落ち着け」 

 

 いつもは感情の起伏に乏しいのに、今は声だけで分かるくらいあからさまに動揺していた。

つまりはそれ相応の一大事が起きているということで、聞いている俺にも緊張が走る。 

 

「まずは何が起きたかから話してくれ。詳しいことはそれからだ」 

『五月が――』 

 

 五月が家出した、と。彼女は震える声でそう言った。

 

 

 

 そぞろ歩く。冬の寒空の下を、上着の一枚も羽織らないで。 

頭の中に響いて消えないのは、先ほどした三玖との会話。

 

自分はただ二人が知らず交際関係にあったのかを確かめたかっただけなのに、彼女の口から飛び出てきたのはそんな予想をはるかに上回ってくる、出来ることならば知らないままでいたかった特大の秘め事で。 

 

 本当は祝福するつもりでいた。

その用意を万全にしたうえで、話しかけたはずだった。

三玖が彼に対して好意を持っていることは本人直々に聞かされていたのだから、それが正しい行いだと思っていた。 

 

 自分の中にある嫉妬や後悔自体は否定しない。

なぜ私では、という思いが常に脳裏をチラつくことも事実で、その感情に嘘はつけない。

 

でも、姉妹が思い人と結ばれたのならそれが喜ばしいことでないわけがないのだ。

だから、渦巻く様々な感情の処理は後回しにしたって、今だけは素直に祝う側に回ろうとしたのに。 

 

なのに、なのに、なのに。 

そんなのは、あんまりだ。 

 

 私には見えていないところで、私には分からないうちに、私以外の全員が、密かに彼と繋がりを持っていたなんて。 

 

 いつからとか、誰からとか、そういうのはどうでも良かった。

『そういう事実があった』というだけで、既に乱れ切っていた私の心を壊すには十分だった。 

 

 出会いは、決して良好なものではなかったと思う。

第一印象はどう繕っても最悪で、あんな人に自分たちの未来を任せるだなんて考えられなかった。

 

自己中心的でデリカシーに欠け、こちらの考えも知らずにずけずけと心の深くまで歩み寄ってくる。

そんな彼のやり方には不満を持つことばかりで、何度も何度も衝突した。

 

勉強ができる人に、努力しても努力しても成績に改善の見られない自分の気持ちが理解できるわけがないのだと思いもした。

頭の出来が初めから違うのに、分かったような顔で語らないでくれと。 

 

 でも、そんな絶望的な関係の中でも、ゆっくり時間をかけて育めたものだってあって。 

 

 彼のしつこさや諦めの悪さは私たちの可能性を信じて疑わなかったがゆえのもの。

ぶっきらぼうな言葉の数々は人付き合いに慣れていないあの人なりの励まし。

 

その他にも、考えが変わったことはたくさん、たくさんあった。

斜に構えた受け取り方を排することで見える本質が、たくさん身近に転がっていたのだ。

 

彼はただ不器用なだけで、実際は感情表現が下手くそな普通の人だって。

 

そんなことに気付くまでに一年もの時間を要しながら、それでも私たちは、お互いのことを少しずつ理解し合いながら、笹船が進むくらいのスピードで、じっくり、じっくり、歩み寄れた。 

 

そして、その過程で、私は。私は……。 

 

なのに、なのに、なのに。 

どうして、こんなことになってしまうんだろう。 

どうして、こうなってしまったんだろう。 

 

 

 ――ねえ、上杉君。分かり合えたと思っていたのは、私だけですか? 

 

 

 

 

 三玖からの一報を受けて、あてもなく夜の外に飛び出した。

なんでも完全にノープランで出ていってしまったらしいから、財布とかコートとか、そういったこの時期生きていくのに最低限必要なものすら五月の手許にはないという話だ。 

 

 五月、家出、と、この二つの単語を並べたとき、当然思い当たるものがある。

あれは一年と少し前、姉妹間でのちょっとした諍いがトリガーだった。 

 

 だが、今回の家出は前回と異なって、二乃と連れ立っての行動ではない。

あくまで家からいなくなったのは五月だけで、そしてその理由も、前とはガラッと変わっている。 

 

 まあ、有り得る話ではあった。

いつまでも隠し通し続ける無理も、いつまでも騙し続ける無謀も、そう上手いこと続いてくれるわけはない。

そのうちにバレてしまうことは明らかで、それが今になったというだけ。

喋ってしまった三玖を責められはしない。

 

 けれど、どうしてこんなタイミングで……という思いが心のどこかにあるのも事実。

いいや、伝わっていいタイミングなどありはしないけれど、それにしたってもう少し後になって欲しかった。

 

よりにもよって受験前で余裕がないこの時期に、そんな意味の分からない情報を叩き込まれてしまえば大半の人間は思考がパンクする。

 

不器用で人間関係に潔癖を持ち込む五月であればなおさら、受け入れることなんて出来ずに困惑して当たり前。というか、戸惑いどうこうの前に普通に激怒していると思う。

 

積み上げた信頼なんて、あっさりと消え去ってしまったはずだ。

 

 分かっていたつもりだった。

自分が進んでいる道がどれほど危ういものだったかくらい。

なんでここまで綱渡りが成功したのかも謎なんだ。

 

個々人の利益追求がたまたま他者の尊厳を侵さないギリギリのラインを攻めていたからだとは思うのだが、その利益関係に関わらない人間が輪に加わった場合にどうなるかは考えるまでもなかった。

 

この歪な関わりを見れば理解不能で気味の悪いものとして認識されるに決まっている。登場人物の大半が自分の身内であればなおさら。 

 

その場しのぎを続けに続けて、最後に最悪な形でボロが出た。

 

分岐点はおそらく、二乃に襲われたあの日。

あのときに下手な対応をしなければ、現状ここまでこじれることはなかったように思う。

 

確かに一度完全に信用を失うことにはなるが、一度の過ちならまだどうにかリカバリすることが出来た可能性もある。

俺はその可能性とやらから目を逸らして、更なる修羅へと歩みを進めてしまった。

 

 ――いや、どうだろう。 

 

 信用とか、信頼とか、分かるようでよく分からない単語を引っ張って、自らの思考に誤魔化しをかけている気がする。

俺は瞬間的にそんな見込みが出来るほど鋭い人間じゃない。 

 

 俺はきっと、自分でもよく分からないうちに、自分自身を欺いている。

簡単な結論に面倒なカモフラージュをして、率先的に分かりにくくしてしまっている。認めてしまうのがものすごく癪で、負けてしまったような気分になるのが嫌で、隠している感情がある

 

 五つ子に、仲のいいままでいて欲しい。……いいや、これは違う。だって、これに関して言えば隠してなんかいない。

 

俺は日常、ぼんやりとでもはっきりとでもこの思いを抱えながら姉妹に接し続けてきて、ここまで入り組んだ人間模様を中心となって演出してしまった今になっても、その思い自体は変わらず心のどこかに持っている。

 

俺が本当に願っているのは、これ以外の何かだ。

 

では、なにか。 

  

俺の思いは、願いは、なんなのか。 

 

「それが分かんねえから苦労してるんだっての……!」 

 

 冬で、夜だ。当然寒い。

この前二人並んで帰った時よりもずっとずっと寒い。 

 

 気温でいえばみぞれが降るほどだったこの前の方が低いはずなのに、なぜか俺の体からは寒気が消えない。

三玖からもらったばかりのマフラーをきつく締めても、上着のファスナーを限界まで上げても、震えが止まってくれやしない。 

 

 熱があるわけでも、体調が悪いわけでもないのに、寒さがいっそう辛いものに感じられるのは、いったいなぜか。どうしてか。 

 分からない。俺には、なにひとつ。 

 

 でも。でも……。 

 

「……………………ッ!」 

 

 頭の中に溢れかえるありとあらゆる思いを振り切るように、思い切り地面を蹴り飛ばした。

靴とアスファルトとが擦れ合う音が何度も何度も反響して、その音がいつまでも自分の中から消えないように、がむしゃらに駆ける。

 

体力なんてもう尽きているというのに、それでもまだ気力を捻出して脚を動かす。

五月が居そうな場所を片端から訪ねて、また訪ねてを繰り返す。

今頃、他の姉妹もそうやって彼女を探していると思う。

 

 こんな情けない俺でも、分かることはあった。

五月がどんな奴で、今ごろどんな行動をとっているかくらいは想像がついた。

 

あいつはきっと、今もこの冬空の下をさまよっている。

俺に対する嫌悪とか、姉妹に対する不信とかを心の中でごちゃまぜにしながら、体を寒風に吹き晒している。

そういう奴だって知っている。 

 

 こうやって探し回っているくせに、もし見つけたら何を言うかも考えていない。

みっともない釈明をするのか、謝って赦しを乞うのか、その方向性すら己の中で定まりがついていない。

 

それでも見つけなきゃいけないという思いだけが先行して、空転して、ひたすらに脚を前に動かした。

どうしたって彼女がいないことには始まらないからというのはもちろん、今立ち止まったら自己嫌悪で死んでしまいそうだからというのもある。

 

あのときああしておけばの連続で、頭が破裂してしまう。それは、ダメだ。

 

 だって、後悔は俺に許された行為じゃない。 

 

 流されるままにこんなところまでやって来た責任は俺にあって、だからその末路を受け取るのも俺である必要がある。

 

目を逸らすのは簡単で、現にこれまでずっとそうしてきて――でも、もうその手段はとれない。

自分が立っている場所はとっくの昔に袋小路のさらに奥。複雑に絡み合った蜘蛛の巣の上。

 

今更どうにか逃げようともがき足掻いたところで状況を悪くするだけだ。無論、現状維持ですらこの場面においては悪手。

 

だからそろそろ、きちんと正面から向かい合わなきゃいけない。

最低だろうが最悪だろうが、きちんと一つの出来事として片をつけないといけない。

自分の不始末をなんとかするのは、やっぱり自分自身の仕事だと思うから。 

 

 散々酷い道のりをたどってきて、途中途中で甘い蜜だけをすすった俺への罰と思えばまあ、納得が行く。 

 

 俺はもうどうでもいい。

だからせめて、彼女たちの関係をもう一度つなぎ合わせられるように。俺という異物が崩壊させてしまったものをどうにか再建できるように。  

 

 ――いいや、それは、己の真意との間にいくらかの齟齬がある。 

 

 違和感があった。今思ったことがどうにも受け入れられないような、不思議な違和感が。

 

この期に及んで何を……という話だが、突如聴こえた不協和音は放置しておくにはあまりにも不気味で、だからもう一度、自分の持っている感情を精査したくなる。 

 

 俺の行動の源泉となっているのは、何とか彼女たちを笑顔で卒業させてやりたいという思いだ。

そのためには全員の信頼を損ねるわけにいかなくて、何度も何度も苦しい言い訳を積み重ねた。

そうしないことには五姉妹の成績を維持、向上させられなかったから。 

 

 では、もはや全員の卒業が確定的になった今、それを引きずる必要が果たしてあるのかどうか。 

 当時打ち出した苦肉の策はあくまで苦肉の策であって、いつか綻ぶことは重々承知していた。

だからこそ俺はその綻びが先延ばしされるように尽力したし、その過程であれこれ追加で秘密を抱えてきた。 

 

 正直な話、もうここまできたら全部投げ捨てても良いのだ。

俺は不完全ながらも当初請け負っていた仕事は遂げたし、彼女たちは次へと進む権利を得た。

 

大筋で見ればそれなりの結末。あとは報酬だけ受け取って縁を切ってしまえば、また昔のような日常に戻ることが出来る。

静かで、波が立たない、気楽な日常へ。――静かで、何も起こらない、面白味の欠片もない毎日へ。

 

 あいつらと知り合ってからの日々は面倒ごとの連続で、ちっとも休まる暇がなかった。

 

直に教えていない時間にも次の授業についてのことを考えなくてはならなかったり、家族の問題に俺が顔を突っ込むことになったり。

割の良いバイトだとウキウキしていられたのはほんの少しの間だけで、蓋を開けてみればとんでもない地雷がそこら中に埋まっている、事前に内容を確認していたら願い下げ確定の超ブラック業務。

 

借金のことさえなければやめられるのにと思った回数は両手の指どころか両足の指まで含めても足らず、何度も何度ももっとよく考えた上で始めるべきだったと後悔した。

 

 それなのに、なんで俺は今、こうやって家庭教師の座にしがみつこうとしているのだろうか。 

 

 やめられるのならやめたかったはずの仕事で、一度は自分から暇をもらったこともあった。それなのにいつの間にか復職して、あまつさえ、関係が切れることを寂しいなどと思ってしまいもして。 

 

 変わっていく己の心に追いつけないまま、気付けばこんな場所にまでやってきていた。 

 

 気持ちの整理をつけるタイミングをいつまで経っても見つけられなかった俺は、自分がどんな思いで彼女たちに接しているのかを理解できないまま、時間だけを溶かしてしまった。

 

 今になって認められることはある。

俺は確かに、あいつらと過ごす空間を、時間を、どこか居心地のいいものとして認識するようになっていた。

 

自分がこれまで目的なく身に着けてきた知恵を活用して誰かの役に立てられるあの場は、もしかしたら俺が長い間心のどこかで欲していた舞台なのかもしれなかった。

 

いつかの日のためにと蓄えた知識や経験を活かせる場所はなかなかに得難くて、だから、偶然からそれを手に出来て、幸運だったのかもしれないと思うようにもなっていた。 

 

 その感情に、偽りはあるだろうか。――ないと思う。これまでの日々は確かな記憶として、今も俺の中に蓄積されている。

 

 嬉しかったのだ。

俺の積み上げてきたものが無駄じゃないと証明されたみたいで。

あの子に恥じない自分になれたような気がして。

 

だから、その機会を与えてくれたあいつらには、漠然とした感謝の情を抱えていて。 

 

 徐々に俺に心を許してくれるようになったあの感覚も、俺の教えで次の目的地へと導いていくあの感動も、彼女たちなしには掴みようがなかったもので。 

 

 だからきっと、その過程で生まれたのだ。当初は微塵も持っていなかった、新しい感情が。 

 

 それはたぶん、自分が考えるよりもずっとずっと単純なこと。 

  

 あまりに当たり前になり過ぎて、わざわざ言葉にする必要もないと己の中で処理してしまったもの。 

  

 自身の感情を何度も何度も再編して残ったその上澄みは、実はそこら中に転がっているくらいシンプルな―― 

 

「俺は」 

 

 もやもやとして判然としない思いを、きちんと言葉の形にする。

この工程を経て、初めて飲み込める気がする。 

 

「俺は――――」 

 

 続けた言葉は、驚くほどにしっくりと馴染んだ。

口から発した文章が耳から再度自分の中に入り込んで、ゆっくり時間をかけて体内を循環する感覚が心地よかった。

 

なんてこともない、くだらない、どこにでもある言葉なのに、今の俺にはこれしか必要が無いようにすら思える。

それくらいに、長いこと探し求めていた解答だった。 

 

 つくづく、学校の成績などなんのあてにもならないことを痛感する。こんな答えを導き出すのに時間をかけ過ぎだ。どう考えても。 

 

 そう思いながらため息まじりに蹴飛ばした小石が、小さく跳ね回りながら、とある障害物にぶつかってその勢いを完全に失った。

夜中の墓地は酷く不気味で、幽霊なんか信じていなくても背筋に震えが走りそうになる。

 

 いや、違うか。

震えそうになっているのが事実だとして、その原因は決して幽霊なんかではない。適当な理由付けに利用される心霊現象サイドからしたらたまったものじゃないだろう。 

 

 俺はきっと、怖いんだ。

今しがた答えに気付いてしまったがゆえに、これからそれにヒビを入れるかもしれないのが怖い。

端的に言えば、臆病になってしまっている。 

 

 

でも、言わないことには始まらないから。 

 

だから一度大きく息を吸って、吐いて。 

 

いつかと同じように、またこの言葉から幕を開こう。 

 

 

 

「見つけた」 

 

 足にぶつかった小石を怪訝に思ってそちらの方を向いたところ、見慣れた誰かさんが顔面蒼白になって息も切れ切れのまま佇んでいた。聞こえた言葉は掠れていて、ずいぶん自分のことを探し回ったのだろうなというのが見て取れる。

今会ったところで、特に話せることもないというのに。 

 

「探したぞ」 

「お願いしていません」 

「怖がりのくせにこんな時間の墓場にいるのは盲点だった」 

  

 彼は目の前の墓石を見ながら言う。

私の言葉に取り合うつもりがあるかどうかも分からない。

石碑のとある場所を懐かしむように指でなぞって、そのまま二の句を継ごうとする。 

 

「お前の姉貴たちも、まだ必死になって探してる」 

「知りませんよ、そんなの」 

「家に帰る気は?」 

「まさか、あんな話を聞いたうえで、今まで通りの生活に戻れるとでも?」 

 

 できる限りの力で睨みつける。

 

ちょっとした仲違いや喧嘩ならまだよかった。

どちらかの譲歩によって改善の見込みがある程度の出来事なら、人生において何度か起こり得る喧噪の一部として仕方ないながらも受け入れられた。 

 

 でも、こと今回に至ってはそうじゃない。

見せられているのは大いなる価値観のズレで、それはとてもじゃないけれど自分に馴染むようなものではない。 

 

 体表を爬虫類が這い廻るような気味の悪さがずっと消えてくれなくて、許されるのなら今にも叫びだしてしまいそうだった。

様々な感情が自分の中で複雑怪奇に混ざり合っていく感覚が、酷く恐ろしい。 

 

「あなたのことを信頼していました」 

「そりゃどうも」 

「……でも、それはあくまで、昨日までの話です」 

 

 知らないままでいられたら、どれだけ幸福だったかと思う。

そうしたらきっと今だって、彼は頼りがいのある私たちの家庭教師でいてくれたはずなのに。 

 

 しかし、裏でどんなことが起こっていたかを知った今になれば、もう。 

 呑気な視点で考えることは、出来なくなってしまって。 

 

「私には、あなたのことが分かりません」 

 

 これが、何よりも正直な感想。

彼がどんな人間で、どんなことを考えて動いているかをなんとなく掴んできたつもりだったのに、一日の間でそのすべてが否定されてしまった。同時に自身の審美眼すらも信じられなくなって、何を拠り所にして歩けばいいかが分からなくなる。 

 

 私が思い描いていた彼の人物像は、実像と符合しない。

ずっとこの目で見てきたものは虚像であって、本物ではない。

そう思うと、世界全てを疑ってしまいそうだ。 

 

 全幅の信頼を寄せていたはずの相手が実は酷い隠し事をしていて、しかもその裏には姉妹の結託があった。

仲間外れは自分だけ。どうしたって、その事実に納得できない。 

 

「一人にしてください。これ以上お話しすることはありませんから」 

 

 決意をもって突き放す。

今は誰が近くにいてもダメだ。

私に寄り添ってくれそうな人間に限って、ことごとく私の心を裏切っている。

 

そんな中で当たり前のように呼吸することは、とてもじゃないが不可能。

頼るアテはどこにもないが、なんとかしてみんなと距離をおかないことには気持ちの整理すらつけられない。

 

お願いだから放っておいて欲しい。 

 

 でも、心の底からそう願っているのに、彼はなぜかその場から去ろうとしない。 

 

「早くいなくなってくださいよ……」 

「残念ながらそういうわけにもいかない」 

「ここにきて教師面ですか?」 

 

 言葉の端々に棘が生えている。

己の中で息を潜めていた攻撃性が、生まれて初めて牙を剥いている。 

 

 自分のそういう部分に向き合うのは苦しい。

剥き身の心で人と接してはすぐさま何かが摩耗してしまう。

 

だから、今すぐにでもここから去ってもらいたかった。

周りのみんなを嫌いになりかけている今、自分さえも嫌いになってしまったらどこにも寄る辺がなくなってしまう。

 

そうなれば落ちるだけになってしまう。

それはきっと何よりも恐ろしいことだから、私のことを案じる気持ちが少しでもあるなら、ここは放置の選択をしてもらいたい。 

 

 デリカシーのない彼にだって、この程度の感情の揺らぎなら推し量ってもらえるはず。 

 

 そう思っているのに、やっぱり立ち去ってはくれなくて。 

 

「今更できる教師面なんか持ってねえよ。やったことに関しても、全面的に認める。言い訳するつもりもない」 

「開き直り?」 

「好きなように受け取ってくれ。訂正可能な立ち位置じゃなくなってるしな」 

 

 意図して目を合わせず、声の抑揚を殺す。

感情的になっているということさえ、今の彼に知られたくはなかった。全てを鎖して心理的な距離を設けるのが、一番有効な精神防衛策だと思った。 

 

 熱くなったところで、怒ったところで、これまでにあったことが改まる道理はない。

事実は事実として厳然と世界に存在し、どうあっても失われたりはしない。

 

なら、そんなことに労力を割くだけ無駄だと割り切るのが尤もらしい。 

 

 皮肉なことに、彼がこれまで私に教えてきた効率化の方策が役に立っている。

あらゆる出来事に対し、真っ当な姿勢で臨む必要はない。

人生には、取捨選択が要る。 

 

 願わくば、この関係が簡単に切り捨てられるようなものなら良かったのに。 

 

「本当に弁解しないんですか。私が間違った解釈をしているかもしれませんよ」 

 

 だが残念なことに、自分の不器用さがいつまで経っても道行きの邪魔をする。

彼を信じたい気持ちがどうしても消えてくれなくて、こちらに勘違いがあった可能性に期待してしまう。 

 

 そんなこと、望むだけ無駄だと分かっているのに。

自分の弱さが、そうさせてしまう。 

 

「間違ってねえよ。たぶんだけどな。ずっと、バレたらロクなことにならないだろうなと思ってきて、実際に今そうなってる。なら、合ってる」 

「そう、ですか」 

 

 関係修復への一縷の望みも絶たれた今、いよいよもって自分がどうすればいいか分からなくなる。

 

いっそ思い切り彼の頬でも張ってやれれば良いのだろうけれど、そんなことをしても何かが解決する風には思えなかった。

たまった鬱憤をそんな形で晴らした虚しさが心を余計に冷たくするだけだ。 

 

 彼は私に不義理を働いていて、私はそのことに気付きすらしなかった。結局、残るのはそれっきり。 

 

 所詮、私たちはその程度の間柄に過ぎなかったということなのかもしれない。 

 

 いい加減に低下してきた体温と底冷えしていく思考とのダブルパンチで、無意識に上半身を掻き抱いた。

防寒着すら着ないで外に飛び出すなんて、なんて意識の低い受験生だろう。 

 

すると、そこに。 

 

「ほら、とりあえずこれ羽織れ」 

「今のあなたから施しなんて……」 

「損得勘定くらいしとけ。ここで体調崩して困るのはお前だろ」 

 

 こんな中においてもいつもと同じ傍若無人っぷりを発揮しながら自分の上着を強引に押し付けてくる人がいた。

 

ここで自棄になって全てを放り出せるなら楽でいいのだろうが、現実はそう単純な構造をしていない。

 

立ち尽くしていても明日は来るし、それを繰り返すうちに受験に襲われる。

今はそんなことを考えたくないのに、学生の性としてどうしても乗り越えられない壁がある。

 

それを思うたびに、自分のちっぽけさに嫌気がさす。

全部投げ捨てて台無しにしてしまえるような性格だったら、こんなことにはならなかっただろうか。 

 

 そして、何より。 

 

彼の気遣いを嬉しいと感じてしまう自分がいるのが、辛かった。  

彼の匂いと体温が残るコートに触れて高鳴ってしまう心音に気付くのが、苦しかった。 

 

 浅ましいと思う。醜いとも思う。この期に及んで何を考えているのかとも。

 

しかし、思考と感情は別々に切り離せるようなものではないから、どこかから湧き出してくる喜色を否定することは叶わなかった。

嫌いになったつもりでも、それを自分に信じ込ませても、心中深くに眠る真意までもは欺けない。 

 

きっと、未だ惹かれている。 

現実を理解しても、なお。 

 

「せっかくここまで自分の意思で頑張って来たのに、それを俺みたいなどうでもいい奴の茶々でひっくり返してたら世話ねえよ」 

 

 聞いて、やはり彼は根本的にずれているのだと思った。

 

だって、本当にどうでもいい人だったら、何一つとして歯牙にかけずにいられたはずだから。

彼が私たちにとって欠かせない存在になってしまったからこそ、こんなにも心が乱れているのに。

彼が私の一部になってしまったせいで、こんなにも苦しい思いをしているのに。 

 

「……話すだけ無駄なのかもしれません。私とあなたは分かり合えない。もうそれでいいでしょう?」 

「初めから会話が成立するなんて期待はしてないから気にすんな。こうなるのは予定調和だ」 

 

 思わず、「はぁ?」と聞き返してしまった。

あまりに傲岸な言い分に、少し苛立つ。

 

どう考えても状況は私優位なのに、なぜそんなことを言われなくてはいけないのか。

さっき感じたはずの思いやりは偽りだったのか、と。 

 

「お前に会ったところで何も言えることなんかないって知ってる。言い訳も弁解も釈明も申し開きも、どれだけ重ねたって意味がない。だから、俺はようやく終わった自己分析を開示しに来たんだ」 

「それは、どういう……」 

「どうもこうもない。ただ、ずっとよく分からなかった自分の内面を考察してみて、その結果としてなにが分かったのかを伝えようと思った」 

「それは、今関係あることなんですか……?」 

「受け取り方次第だ」 

 

 この時点で、だいぶ意味が分からなくなっている。

なぜ私はそんなことに付き合わされそうになっているのだろうか。

まともに取り合う気力すらどう捻出すればいいか分からなくなっている、今この状況で。 

 

 しかし、彼が意味のないことを好んでする人間でないことは経験則で知っていた。

なら、これからの話にもそれだけの意味が包含されると考えるべきか。……それは期待が過ぎるように思えてならないけれど。 

 

「不思議だったんだ。これだけの泥沼に両足どっぷり浸ってまで、自分の立場を守ろうとするのが。そうする理由はたとえば借金苦から逃れるためだったり、お前らの卒業まではなんとか面倒を見てやりたいという思いからだったり、色々挙がりはした。でも、そういうのは全部しっくりこなかった。間違ってはいないけれど正しいとも言い切れないような微妙な感触が付きまとって、長いこと悩んでいた」 

 

 相槌を打つ間もなく、彼の言葉は続々と繋がっていく。 

 

「お前らと出会ってからの毎日は災難続きで、どうやって逃げるか画策したこともあった。というか、いつも考えていた。俺は家庭教師をしにきただけのはずなのに休みはつぶれるわ姉妹喧嘩に巻き込まれるわで、どう考えても通常業務の領域を逸していると思うことばかりだった」 

 

 続く。 

 

「だけど、その環境の中で、少しずつやりがいのようなものを見出していったのかもしれない。いつしかお前らに教えることは苦ではなくなっていたし、それが自分の糧になっているような感覚も得るようになった。ただ知識だけを積み上げてきた俺の人生において、お前らは初めてアウトプットに付き合ってくれた。全員の成績が少しずつ向上していくのが自分のことのように嬉しくて、見える世界が大きく広がった気分になった。そして、それは今も変わっていない」 

 

 続く。 

 

「俺はたぶん、自分が教える以上に、お前たちから教わっていたんだ。下手くそな人生の改め方とか、人との接し方とか。教科書をどれだけ読み込もうが身に付かなかった知恵が、お前たちには備わっていた。知識を与える見返りとして、知恵を享受していた。それはきっと、あのまま人生を歩んでいたら身に着かないでいたことだ」 

 

 続く。 

 

「だから、素直に感謝している。出会えたことで、俺は変わった。変えてもらった。……まあ、俺が良くない方向でお前らを変えてしまったのはここでは別問題として」 

 

 続く。 

 

「じゃあ、ここで最初の疑問に立ち返ろうと思う。なぜ俺が、今の立場に縋りついているのか。俺なりの分析でようやく求めだした答えを、聞いてもらおうと思う」 

 

 続く。 

 

 

「俺は、きっとさ――」 

 

 

 ここでようやく、途切れることなく続いていた彼の言葉に隙が生じた。

水が流れるようにすらすらと繋がっていた台詞に切れ目が出来て、風の音以外が世界から消え去った。 

 

 何を目的としたタメかは分からなかった。

これから先の言葉をより一層際立たせるための助走のようなものだったのかもしれないし、単純に、言葉が出てこなくなったからかもしれない。

もしかすると、彼にとっては珍しく、言葉にするのをためらっているなんてこともあるのかも。 

 

 本当は聞いてあげる義理なんてない。

耳を塞いでいても、ここからいなくなってしまってもいい。

彼がしたことを考えれば私がこれからどんな暴虐を働こうがそれを咎められるいわれはないし、無視して良い。 

 

 でも、今この瞬間だけは、なんでか黙って聞き届けようという気分になっていた。

そうすることが一つの義務だと言わんばかりの強制力が世界から働いているようで、不思議とフラットな気持ちでいられた。 

 

 単純に、興味がある。頭の良い彼が時間をかけて導き出した自己分析とやらがどんなものなのか。

この場から立ち去るのは、それを聞いた後でも遅くない気がする。 

 

 

「――お前たちに、嫌われたくなかったんだ」 

 

 

ぽかん、と。 

思考が一瞬で漂白されて、思ったことも考えたことも、全てがどこかへ遠ざかってしまった。 

 

 

「呆れる気持ちも、下らないと言いたくなる気持ちも分かる。でも、これが長いこと時間をかけてようやくたどり着いた結論だ。笑いたきゃ笑ってくれ」 

「そ、そんな、意味が……」 

「そのまんまだよ。お前らに頼られる感覚が心地よくて、出来るだけ長くその環境に身を置いておきたいと願った。慕われる自分を守るために、ここまで色々間違ってきた。それもこれも全て、嫌われたくないというその一心からの行動だったんだって気づいた」 

 

 彼は首を傾げながら困ったように笑って、 

 

「我ながら酷い話だと思う。そうならそうで、もっと選べるやり方はあったはずなのにな。でも、俺はそういうことにはとにかく疎くて、だから誤魔化しに誤魔化しを重ねることでしか対応できなかった。泥沼に足をとられていくのが分かってもなお、信頼ってやつを手放したくなかった」 

 

 まあ、それも今となっては台無しだけどな、と続いた。 

 

「とにかく、これで全部だ。最後まで付き合ってくれてありがとな」 

 

 そして、ようやく、彼の姿が視界から遠のいていく。

結局、やって来たことに対する謝罪も弁解もすることなく、あらゆることを自己完結させて、全部終わらせた気になって、この場から去って行く。 

 

ねえ。 

  

あなたは、それでいいのかもしれないけれど。 

 

私の気持ちはどうなるんですか? 

 

「ちょっと!」 

「……呼び止めを誘ったわけじゃないから、もう無視で良いぞ」 

「そうじゃないでしょう! 自分は気持ちよく言いたいことを言い切って、その後のことは丸投げですか!」 

「だって、お前は赦さないだろ。なら、どれだけ時間をかけても無駄なことだ」 

「あーーーーー、もうっ!」 

 

 やはり、ズレている。

こういうときに効率性を度外視できないところとか、決めたら曲げないところとか、前から何一つとして変わっていない。

 

私たちから学んだようなことを言ったくせに、結局根っこは彼のままだ。

それが果たして悪しきことなのかは私の視点だけで断じることはできなかったけれど、確かに一つ、言えることがある。 

 

「上杉君は大馬鹿です!」 

 

 感情を見せるのが嫌だったはずなのに、そんなことはすっかり忘れたような大声を出す。

ここには二人しかいなくて、距離も離れていなくて、こんな声量は要らないのに。

 

それでも、彼に対する苛立ちや憤りが渦を巻いて、こうしなくてはやっていられない。 

 

「もっと出来ることがあったでしょう! 正直に相談するとか、早い段階で謝るとか、色々!」 

「だから、嫌われたくなかったんだっての」 

「一度や二度で嫌いませんよ。私が怒ってるのは、ずっと隠し事をされていたことなんです!」 

「普通言えねえだろ。お前の姉妹とやることやったなんて」 

「どうしようもない事情があったなら、初めに言ってくれればよかったんです。困っているって教えてくれれば、私だって、私だって……!」 

「私だって?」 

「……私だって、あなたの力になれたかもしれないじゃないですか」 

 

 いつも頼ってばかりだから、いずれどんな形になるかは分からないけれど恩返しがしたいという思いがあった。

向こうから頼ってもらえるタイミングを待っていた。

それなのに、知らないうちにこんなことが起こっているなんて。

 

「信頼してくださいよ。私のことも」 

「いや、だから……」 

「言い訳はしないんじゃなかったのですか?」 

「これはそういうのじゃなくて、えっと……」 

 

 口ごもる彼を無視して、今度はこちらから言葉を紡ぐ。

どうせなら、全部吐き出してしまった方がいい。

上杉君の不遜ぶりを真似るように、少しだけ気を大きくして。 

 

「だいたい、いつも横暴なんですよ。独善的というか、独りよがりというか。一度決めたら変えられない頑固なところ、本当にどうかと思います」 

「それは」 

「口ごたえは受け付けていません」 

 

 一方的に愚痴をぶつける時間なのだから邪魔しないで欲しい。

ボールを打ち返してくる壁があってたまるものか。 

 

「私にバレていないのをいいことにひそひそひそひそと。まともな対処法の一つも考えてみてくださいよ」 

 

 気持ちが完全に理解できないわけではない。

出来の悪いテストは二度と見返したくなくなるし、隠したくなる。

だけど、今はそういう自分の事情は全部全部棚に上げて、たまった鬱憤をひたすら吐き出すことにした。

 

私優位の状況なのだから文句は言わせない。

こうなればもうやりたい放題だ。 

 

「なんて言うか、思いやりが足りないんです。自分のことを考えているのか私たちのことを思っているのかは知りませんけど、やり方がいつも雑! 基本的にずっと空回ってるじゃないですか! それが嫌なんですよ。思っていることがあるのなら全部はっきり伝えてください!」 

 

 常々感じていた伝達不足も、ここではっきり言っておく。

察しが良くないのはこちらも同じなのだから、思っていることはきちんと言葉にしてもらわないと分からない。 

 

 思えば、すれ違ってばかりだ。

出会ってから今日に至るまで、上手く行ったことの方が少ない。

 

その成功体験の方が確かな思い出として積み上がっているから記憶が美化されているけれど、そもそも私たちは最初から相性が良くなかったのだ。

強引にこじつけて綺麗な過去だったように印象操作しても、その事実は変わらない。 

 

「変なことはしないで、ずっと自慢の先生でいてくださいよ」 

 

 だからきっと、今のが一番の本音。

素直に感謝できるような人のままでいてほしかった。

私たちを教え導いてくれた恩人として。たまたま出会えた無二の友人として。

それを余計な何かで穢されてしまったことが、何よりも悔しい。 

 

 こんなことさえなければ、いつまでだって恩義を抱えたままいられたのに。 

 

「あなたは、私たちの家庭教師でしょう……?」 

 

 言いたいことは他にもいくらだって残っていた。

けれど、力を出し尽くしてしまったかのように体は重いし、声帯は震えない。

 

どういう感情なのか自分でもさっぱり分からない涙が後から後から零れ出てくるし、膝はがくがくと安定しないしで、体中が不安定になっている。 

 

 相手がこの人でなければここまで心乱されることはなかっただろうというのが直感的に理解できるのが、まず何よりも腹立たしかった。

 

こんな酷い人に深く依存してしまっている自分をどうしても嫌いになれなくて、そのもどかしさも相まって、溢れる涙はとめどなく敷石を濡らしていく。 

 

「…………悪い」 

 

 ふいに彼の手が、頭におかれた。 

 

ようやく引き出せた謝罪のような言葉だが、それを得たところで何が満たされるわけでもない。

だから涙で崩れた顔で必死に睨んで、赦す気なんて欠片もないことを訴えかける。 

 

 それについては彼も承知しているのか、諦めたような顔で二度三度と私の頭を軽く撫でつけて、ゆっくりその手を下におろした。 

 

「きらいです。上杉君なんて、だいっきらい……」 

「だろうな」 

「世界で一番、きらい……」 

「知ってる」 

「きらい。きらいきらいきらいきらいだいっきらい!」 

「分かってるってば」 

 

 その言葉の裏に隠れたもう一つの感情が表に出てこないようにと必死に押し殺しながら、何度も何度も、子供のような悪口を繰り返していく。

こうでもしていないと、自分の中でせめぎ合う思いに負けてしまいそうだったから。

ふとした拍子に、こんな中で言ってもどうしようもないことを口走ってしまいそうだったから。 

 

まさか、好きだなんて。 

とてもじゃないけれど、言えるわけがないのだから。 

 

「もう、それでいい。そう思われて仕方ないだけのことをした。取り返しがつくなんて考えてもいない。……けど、せめて、姉妹のことだけは赦してやってくれよ。俺と違って、死ぬまでの長い付き合いなんだから」 

「そういう、ところが……」 

 

 その先は言葉にならなかった。

いや、言葉に出来なかった。

そういう不器用な優しさに惹かれてしまったなんて、言えなかった。 

 

「ほら、帰るぞ。冷えたし疲れたろ。暖まって、休んで、元気になったら、またいくらでもなじってくれていいから。だから今は、最初に自分のことを考えてくれ」 

 

 やっぱり、自己完結だ。

彼の中ではもうこの話は終わったことになってしまっている。

失った信用は取り戻せないし、私からはずっと憎まれたままだということで全てを片付けてしまっている。 

  

それが、なんでかものすごく癪に障った。 

 

「帰りません」 

  

 数歩先に進んでいた彼の手を、握りつぶすような勢いで引っ張り寄せる。

もう、目の届かないところで後ろめたいことをさせないように、強く引っ張る。 

 

「まだ、言い足りません」 

「後からいくらでも……」 

「口ごたえする権利があるとでも?」 

「…………」 

 

 その一言で反論を封殺し、逃れる理由づくりを始めた彼の目を、じっと見つめる。 

 

真っ向から、向かい合う。 

 

「これは、あなたが負うべき責任です」 

 

 残るであろう禍根とか、軋轢とか、そういうことについての考えを巡らせるのはやめにした。 

 

私は、ここで全てを終わらせる。 

 

 

 

「ドライヤーは向こう。タオルはそこらへんにあるのを適当に。まあ、前に来たことあるから分かると思うけど」 

 

 状況が目まぐるしく変わるせいで、どんな経緯でこうなったのかが良く分からなかった。

 

それだけ言い残して居間から離れて風呂場に向かい、思考を整理するために最初から考え直すこととする。 

 

 五月家出の一報を聞いて探しに出たところまでは良い。

彼女を見つけて言いたいことを言ったのも良い。

その後、五月が家に帰るのを拒むことだって、それなりに予想できた行動ではある。

だから、ここまではたいした問題じゃない。 

 

 面倒なのは、その後。 

 

頑なな五月をどうにか説得してでも雨風を凌げて暖房も効いた場所に連行するべきだという俺の考えに、おそらく間違いはなかったはず。

 

風邪を引いたらおしまいだという姿勢は終始一貫させているつもりだったから。

なので、引きずってでも彼女を姉妹の元に連れ帰そうとしたのだが、それがなかなか上手く行かなかった。 

 

 だからって、どうして俺の家に連れ帰ることになるんだよって話だけども。  

 

 毎回のことだが、もっとまともな折衷案はどこかに転がっていたに違いない。

妥協点が絶対におかしい。

 

それだというのに結局こうなっているあたり、俺はそういう星の元に産まれ落ちたのだと解釈するほかないのだろうか。

そうであって堪るかという反骨心も湧かなくなっているあたり、いよいよもって本格的に世界に白旗を上げるタイミングなのかもしれない。 

 

「つーか、親父……」 

 

 泣き腫らして目元を真っ赤にした五月を見て、ウチの父親が不要な気遣いを巡らせてしまったらしい。

もう夜も良い時間だって言うのに、らいはを連れて実家に引っ込みやがった。

 

どう考えても酷い勘違いをしているし、今は二人で間がもつわけもないから、出来ることならばここにいて欲しかったのに。

 

二人きりで明日の朝までなんて、地獄以外のなにものでもない。

これからのことを考えただけで、俺の胃は幾重にも捻じれていきそうだ。 

 

 そりゃあ、何を言われてもいいだけの覚悟はした。

しかし、それがまさか自分の家で行われるなんて思うわけがないだろう。

こんな状況の中でも唯一安全な場所だと信じていた自宅さえ戦地になってしまうのだとしたら、今後俺はどうやって心情のやりくりをしていけばいいのだ。 

 

 湯船に深く体を沈めて冷えを追い出しながら、まずどんな顔で出ていったものだか考える。

 

今現在会話らしい会話が出来るとは思えないし、無言で布団を並べて眠ってしまうのがいいだろうか。

 

しかしそれはさすがに……どうだろう。

誠意のようなものが大いに欠けている気がしないでもない。

ここは大仰にでも悪びれている風を装うべきなのか。

 

 そもそも悪びれるも何も、俺は普通に申し訳ないことをしたと思っているわけで、それをわざわざ分かりやすいように態度で示すのは厭味ったらしくも思えた。

 

こうなれば思考は堂々巡りに突入して、何が正解かを導き出せなくなってしまう。

もう一度謝ってみるのも選択肢の一つではあるが、どうせ赦してはもらえないというのが両者の共通認識であるのだから、無駄なことだと一蹴されるのが関の山か。 

 

 イメージしたすべてに失敗の未来が付きまとってくる感覚があって気が滅入る。

これもまた、俺に与えられた罰なのだろう。

 

文句を言う権利なんて端からないのだから、また素直にサンドバックになるしかない。

それだけで済むと思うのも甘えで、俺は今後五月から向けられるどんな感情も余さず受け止める責務がある。

これはある意味当然の帰結。やって来たことが全て祟った結果がこうだ。 

 

 いつまでも体をふやかしているわけにはいかないから、どうにかこうにか重い腰を持ち上げた。

明日には五月を家に返す算段をつける必要もあるし、やることは基本目白押しなのだ。 

 

 適当に体を拭いて、浴室から出る。

この段階でせめて第一声くらいは決めておけば良かったと思ってしまう自分の無計画さが憎い。 

 

「……どうも」 

「…………どうも」 

 

 身支度をそれなりに整えたらしい五月は俺が着古したよれよれのジャージを身にまといながら、大分色あせてしまったちゃぶ台に教科書を広げていた。

 

あいつは完全な手ぶらだったから、たぶんあれは俺の持ち物だろう。そのあたりに転がっていたものを拝借したんだと思う。

 

勉強熱心なのを咎める必要もないので、距離をとって腰を下ろした。それにしてもどうもってなんだどうもって。 

 

 じろじろ見るのもどうだろうと思って、なんとなく視線をあちこちに彷徨わせる。

だけどここは慣れ親しんだ自分の家で、目新しいものなんかどこにもない。

だから必然的に目が向かうのは、いつもと異なる様相を呈している五月まわりになってしまって。 

 

「ちょっと」 

「悪い分かってる席外す」 

 

 居たたまれないことこの上なく、いっそしばらく出ていこうと決断。そっちのほうが双方の精神衛生にも優しいはず。

 

風呂上がりに出歩くには少し厳しい季節だが、この空間と比べればチベットの高地だろうがロシアのはるか北だろうが大波荒れ狂うベーリング海だろうが天国だ。

なんならいっそこのままカニ漁師にでもなってこようか。 

 

「私、お風呂上がりの人を冬の外に追い出すような人間だって思われてるんですか……?」 

「じゃあ他に何をしろと」 

 

 五月は呆れかえったような目をして、次に、呆れを一周させたような顔で苦い笑みをこぼしながら、 

 

「勉強、教えてくださいよ」 

 

 なんて、一言だけ告げるのだった。 

それはどうにも懐かしい響きで、だから俺はその感覚に一瞬だけ面食らいながら、どう答えたものかと、少しだけ頭を悩ませて。 

 

「…………」 

 

ああ、なんだ。 

こうやって始めれば良かったんだ、きっと。 

 

 どこから間違ったかとか、何がいけなかったのかとか、そういうことを延々考え続けていたけれど、結局はここだ。

 

一番最初から、俺は悪手を打っていた。

そこからバタフライ効果のように波及していった影響が、今の俺たちを形成したんだ。 

 

 本当なら、あそこからやり直せるのが一番だったんだろうけど。 

もちろん、そんな願いが叶うほどこの世界は優しく出来ていないから。 

 

 だから俺は、目の前にいる女の子の憐みに甘えて、安っぽい焼き直しをするみたいに。 

 

「おう、任せろ」 

 

 それだけ告げて、五月の傍につける。

この場にはもう、自分のアイデンティティだった満点の答案用紙もなければ、立ち位置を保証してくれるテストの順位表もない。

俺をどんな人間だか確定させる証明書は、どこにもない。 

 

 でも、それでいいと思った。

身分が関わらない実力勝負ということはつまり、これまで俺がどれだけ真面目に教師をやってきたかの真価を問われるということ。

信用を掴むに必要なのは、自信と地力。 

 

 彼女と同じ視点で、ずらずらと並んだ問題文を読んでいく。

もちろんのこと教科書は端から端まで理解しているので、困るようなことはない。 

 

「どこからでもいいぞ」 

 

 こうして、多分最初で最後になる我が家を会場にした特別授業が開講した。

一人の生徒に対し、一人の教師が必死になって指導する。 

 

……まあ、これは、なんていうか。 

世間一般に周知される、家庭教師のようだと思った。 

 

 瞼が少々重たくなってきたので時計を確認すると、もう日付が変わっていくらか経っていた。

昨日は色々あって普段と比べても疲労度合いが段違いだから、このあたりでお開きにしてはどうかと進言する。 

 

「じゃあ、そうしましょうか」 

 

 意外に素直に受け入れてもらえたのでほっと胸を撫でおろした。

自分を犠牲に俺ごと徹夜で、なんて言い出したら大変だったから。

五月の性格を考慮すると、そうなる確率が完全にゼロとも言い切れなかったし。 

 

 そうなればあとは眠るだけだと、押し入れにあるらいはの布団を引っ張り出した。

なんとなく、客に使わせるなら親父よりこっちのほうがいいような気がしたから。

 

そうしてから、俺の布団を極力離してセッティングし、二つの布団の間をちゃぶ台で仕切った。

貧弱なバリケードだが、ないよりはマシだ。

俺の行いを知っている以上、五月も落ち着いて眠れないだろうし。 

 

 それにしても、なんだろう。

言い足りないことがあるからと言ってここまで来た割には、俺への愚痴や文句の類はまったく耳にしなかったような。

もはやそんなことに拘泥する必要性が皆無だ、というところまで見下げられたということか。

 

 今さら関係の修復だとかなんだとか生っちょろいことを言うつもりはなかったけれど、さすがにそれは堪えそうだ。

まともに取り合うに値しない人間判定は厳しい。 

 

 でも、今は取りあえず眠ろう。

五月を確保した旨は他の奴らに伝えたし、後はどうにかして連中に引き渡すだけだ。

どうやって説得するかをこの眠たい頭で考えるのはまったく建設的じゃない。 

 

 消すぞ、と前置いてから消灯し、くたびれた布団の中に体を埋めた。おかしな動悸がずっとしているけれど、なんだかんだで疲れているせいか、この環境でもしばらくすれば眠れそうだ。 

 

 とにかく、明朝。困ったことは、起きた後の俺に丸投げしよう。 

そう思いながらゆっくり瞼を閉じて…………行く最中に、謎の足音が聞こえた。 

 

 その足音の主は俺の頭付近で動きをぴたりと止めると、あろうことかそのまま俺の布団に潜り込んでくる。 

 

 普段なら寝ぼけたらいはの仕業だろうと片付けられるこの現象は、しかし彼女のいない今この状況においては決して成り立つはずもなく。 

 

 だからつまり、今俺の背中にぴったり付けている奴の正体は、考えるまでもなく自ずと明らかに―― 

 

「何してんのお前……」 

「口ごたえする権利があるとでも?」 

「さすがに今はあるんじゃねえかな」 

「言ったでしょう、言い足りないって」 

「だったら電気つけて普通に」 

「顔の見える場所では言えないこともあります」 

 

 だからって、こんな場所で言えることもまあまあ限られてるんじゃないかと思うのは俺だけか。 

 

「そのレベルの罵倒?」 

「それとはまた、少し違って」 

「だったらなんだ。どうせ反論は出来ないんだし、聞くだけ聞くけど」 

 

 諦め半分になっている気もするが、彼女の言うとおり、俺に拒否権などない。

聞けと言われれば聞く以外の選択肢はない。  

 

 彼女が自分の腹の中にどれだけのものを溜めているかは知らないが、その原因を作ったのが俺である以上、聞き遂げないわけにはいかない。 

 

「その投げやりな感じ、すごくイラっときます」 

「眠気には勝てねえよ……」 

 

 ここ最近の不眠傾向と相まって、俺の体は自分が思う以上に参っている。

布団に入れば眠るようにプリセットされている。

だから、こんなおかしな状況になっても、睡魔はきちんと襲ってくるのだ。 

 

「あのときのものすごく申し訳なさそうな態度は嘘だったのですか?」 

「そうはならんだろ……」 

「それなら、もっと相応しい態度があると思いません?」 

「たとえば?」 

「それを探すのはあなたの仕事です」 

「前も言ったろ。俺は察しが悪いって」 

「みんなと邪な関係を結んだら私がどんなことを思うかは察せませんでした?」 

「…………」 

「ほら、分かっているのに分かっていないフリをしていた人が、察しの悪さなんかに逃げないでくださいよ」 

 

 痛すぎるところを突かれる。

俺にとってのそれは弁慶でいう向う脛なので、狙われたらただただ悶絶するしかない。 

 

 もちろんのこと、五月がどんな反応をするかの察しはついていたし、だからこそあれこれ策を講じて隠した。

そんな俺が、下手な言い訳に自身の鈍感さを使うのは筋が通らない。 

 

「……信頼を裏切る形になったのは悪かったと思ってるよ」 

「じゃあ、どうして続けたんです?」 

「それは、その、一つ隠したらもう一つ隠さなくちゃいけなくなって、その後は雪だるま式に」 

「……そうでもして続けたいくらい、あなたにとって良いこともあったのでは?」 

「その質問、素直に答えるとどうなる?」 

「怒ります」 

「じゃあ、嘘をつくと?」 

「もちろん怒ります」 

「なら、正直に言った方が身のためだと」 

「ええ」 

「…………そりゃあ、俺だって男だし」 

「最ッ低」 

「こうなるよな。知ってたよ」 

 

 だけど言わなかったら言わなかったで、それはここにいない彼女たちの信頼を裏切るようでどうしようもない。

義理立てしなくてはならない方面が多すぎるがゆえにこうなったというのが簡潔なまとめになるのだろうか。 

 

「よくもまあそんな口で嫌われたくなかったなんて言えましたね」 

「ギリこんな口になる前の出来事だったろ」 

「同じことですよ。私にとっては」 

「違うと思う……いてて、分かったよそうだよ認めるよ」 

 

 口ごたえしたのでつねられた。

力関係が分かりやすくていい。

俺はイエスマンにならざるをえないってわけだ。 

 

「……そんなに」 

「ん?」 

「そんなに、良かったんですか?」 

「…………」 

「私の信用を裏切るなんて酷い選択をしても良いかなって思えるくらい、良かったんですか?」 

「いや、考えがそこに直通してたわけじゃ……」 

 

 再びつねられる。

弁解の意図がなかろうと、今は五月に逆らえないらしい。 

 

「でも、結果的にはそういうことじゃないですか」 

「……そうだな。そうだよ」 

「…………あなたは、本当に酷い人です」 

 

 自覚はあるので問題ない。

杜撰な管理を重ね続けた結果、こうして五月を盛大に傷つけてしまっている。

そこに関してはもう疑いようもなく、否定のしようもない。 

 

「この一日で、あなたのことがものすごく嫌いになりました」 

「それくらい嫌われるだけの残りしろがあったことの方が驚きなんだけど」 

「殺意が湧きました」 

「……あの、さすがに命だけは」 

 

 みっともない命乞いだ。

下手を打てば殺されかねない状況に置かれているのだと今更気づく。痴情のもつれでの刃傷沙汰は良く聞く話だ。

まさか、俺がその当事者になりかけているなんて思いたくはないが。 

 

「……ですが、あなたの教師としての手腕は否定できません。それは先ほど再確認してしまいました」 

「残念ながら、そっちの手は抜けなかったもんで」 

「不愉快です。すごく。この上なく」 

「…………」 

「もし、私にあなたなしでも自分の未来をどうこうできるだけの見通しがあれば、今すぐにでも三下り半を叩きつけられたのに」 

「……お前の受験が終わったらさっさと消えるから」 

 

 他の四人をどうにかコントロールしていた約束を大きく破る形になるが、彼女たちも共犯だ。

五月の意に沿う形を作るためには、それを破棄するくらいでないと。 

 

 幸か不幸か、俺がどんな道を選ぼうと、それが彼女たちの将来とバッティングすることはない。

なら、ここからゆっくりフェードアウトして、今後の人生で中野姉妹に関わらないようにしたほうがいい。それが、ちょうどいい。 

 

 そんな形で、期せずして俺の将来設計が完成しかけた瞬間に。 

 

「それは違うでしょう」 

「いや、こればっかりは譲れないだろ」 

「私たち姉妹を滅茶苦茶にしたうえで、責任の一つも取らずに逃げると?」 

「ここで出てくる責任って単語は意味が重たすぎるんだよ……」 

 

 そして、その形での責任の取り方は、酷くアンバランスな結果を生んでしまうわけで。

非常に不平等で、どうしようもなく不条理な結末がやって来てしまうわけで。 

 

「お前も嫌だろ。こんな奴が親戚になるの」 

「……それは置いておくとして」 

「ほら、嫌なんだろ」 

「…………親戚は嫌です」 

「ほらな。……痛いって」 

「死んじゃえばいいのに……」 

 

 怨嗟の声が耳元で反響する。

声のトーンが真剣すぎて、身をよじることも出来なくなってしまった。 

 

「……でも、私の感情は別として、あなたはきちんと後片付けをするべきです。いなくなるのだとしても、それが全て終わってからでないと筋が通りません」 

「お前相手の話し合いが難航しすぎてるっていうか、正直一生折り合いつかないと思うんだけど」 

「当然でしょう。どんなことをされても赦しませんもん」 

「そしたら一生俺みたいな変な男が姉妹につきまとうことになるんだぞ……」 

「…………だから、そういうことですよ」 

「変わり者過ぎるだろ……だから痛いんだよ。さっきから攻撃力上げてきてるよな……?」 

「ほんと嫌い……」 

 

 もう、これに関しては俺が鈍いどうこうの問題じゃない気がする。さっきから感じていたことだが、五月がなんだかおかしくなっているようだ。

疲労がピークを超えてハイにでもなってしまったのだろうか。 

 

「赦してくれないこともこれからずっと嫌われることも確定してんのに、俺はそこをどうやって攻略するんだよ」 

「できませんよ。私は心変わりしないので」 

「ほら、認めてんじゃん。初めから無理なんだって」 

 

 ここで、ふと気づいた。

当初の重苦しい雰囲気は消え去って、いつの間にか普段のように会話が出来るようになっていたことに。 

 

 サンドバックにされるつもりが、当たり前に反撃してしまっていることに。 

 

「それでも、誠意を見せることはできますよ」 

「誠意ってなんだよ」 

「聞いてばかりじゃないですか」 

「だから、俺にそういうのは分かんないんだよ」 

 

 俺の知識領域に、こういうときの対処に使えそうなものは一つとしてない。

そもそもそんな便利なものがあれば今こんなことにはなっていない。

 

「謝り続けることくらいしか思いつかないのに、それはもうお前に否定されてるんだぞ。だったらどうしろってんだ」 

「だから、それを考えるのがあなたの役割なんですって」 

「全然話が進まねえ……」 

 

 同じところを行ったり来たりだ。

これで問題が解決しようはずもない。

されど、どれだけ頭を捻ったって出てくる案は凡庸でとても役に立ちそうはなく、その事実がいっそう俺を追い立てる。 

 

「嫌われたくないっていう当初の動機がもう既に遂げられなくなってるのに、俺は今後どうすればいいんだよ……」 

「泣いて赦しを乞ってみたらどうです? まあ、赦しはしませんけど」 

「自己完結が早過ぎるんだっての」 

 

 はぁーっとため息を吐きながら丸まる。

どうして俺たちは、こんな場所でこんな生産性のない会話をしているのだろうか。

 

もう何もかもが終わったはずの話を、なぜ彼女の方から率先して持ち出してくるのだろうか。

その理由がさっぱり分からなくて、さらに体をぎゅっと縮めた。

いっそこのまま圧縮され続けて消えてしまえたらいいのに。 

 

「まあ、お前ら姉妹の仲がどうにか上向くように取り繕わなきゃいけないとは思ってるんだけどさ。それにしたって元凶の俺が介入することでよりややこしいことになる気しかしないし」 

「ややこしいとは」 

「いや、だから……そもそも喧嘩じゃない以上、仲直りって概念が存在するのかも分からないだろ。仲違いしてるのは間違いないけど、こと今回に関してはお前が譲歩する形でしか元鞘に戻れないわけだし」 

 

 悪いのは完全にこっちサイド。

五月に落ち度がない以上、彼女の寛容さに頼るしかない。

でも、ここまで不信感を募らせた姉妹に対して温情をかけられるかと言ったら、それはかなり酷な要求であると思うのだ。 

 

「どんな道を辿っても、お前は絶対損をする。妥協しなかったら家族仲は最悪のままで、妥協したら今回の怒りのやり場がない。好き勝手やったのは俺たちの方なのに、被害を被るのは全部お前だ」 

 

 どこにも救いがないように思えて頭を抱える。

人間関係を損得で考え始めたら終わりだというのは薄々勘づいているけれど、さすがにこれでは五月が不遇なんて次元ではない。 

 

「ほんと、どうしたもんだかな」 

「もう元通りにはなりませんよ。諦めてください」 

「……それすら譲っちまったら、いよいよ終わりだろ」 

 

 せめて、俺が彼女たちに関わる前の段階くらいまでには関係を修復してやりたいのに。

絶対に無理だとは分かっていても、俺が手を出せば出すほど拗れていくって知っていても、それだけはなんとかしたいのに。 

 

「俺の命で手打ちにできないか……?」 

「さっきは嫌がっていたのに?」 

「それで済むなら安いような気がしてきた……」 

 

 卑劣な逃げだが、俺が差し出せるものなんてそれくらいしか残っていない。

我ながら何言ってんだよと思うけど。 

 

「今のあなたの命にそこまでの値打ちはありませんよ」 

「さらっと手厳しいこと言うな」 

「捧げるならせめて、もう少し価値を高めてからでしょう」 

「偉人にでもなれば釣り合うか……」 

「さすがにそこまでは要求しませんが」 

 

 一般高校生の命の重さなどたかが知れている。

もちろん命を賭ける云々に限っては冗談だけど、今の俺では、議論するところにすら達せていない。 

 

「なすべきことをなしてください。そこまでいってようやく話が始められます」」 

「なすべきこと、ねえ。お前がそれでいいって言うなら、仕事は最後までやり遂げるけど」 

「当たり前です。私が言っているのは、それ以後のことなのですから」 

「以後?」 

「はい。その後のこと」 

「……いや、だから言ったろ。進学するかどうかすら定まってないって」 

 

 五月が何を期待しているかはさっぱりだが、俺の未来には一切の展望がない。

他人の人生をここまで滅茶苦茶にしておいて今さら自分のことなんて……という気後れもある。

 

いずれは考えなくてはならないことだけど、それについて現在頭を悩ませられるだけの余裕があるかと問われれば、首を横に振らざるを得ないのだ。 

 

 そもそも、こんな小規模の人間関係すら上手く運営出来なかった俺が、大きな希望を掲げること自体馬鹿らしく思える。

俺という人間の程度は既に知れてしまっていて、前を向くだけの意志力は残されていない。 

 

「俺みたいなのが成功したらお前ももやもやするだろ?」 

「確かに」 

「な? だから、こそこそ生きていくのが関の山だと思うんだよ」 

「……ですが、そこを簡単に割り切ってしまえないのが人間です」 

 

 はぁ、と五月が一つため息をついた。

生温かい吐息が首筋にかかってこそばゆい。 

 

「あなたの人間性に関しては完全に見損ないましたが、悔しいことに能力に対する評価は健在なんですよ」 

「それは概ね高評価ってことでいいのか?」 

「概しなくとも高評価です。残念ながら、あなたの力なしでは卒業すら危うかった人間がここにいるので」 

 

 またため息。

その言葉で、俺も散々だった頃のこいつらの成績を思い出す。

 

当時から考えれば、ずいぶんと遠くまで来たものだ。

勉強に関してだけ言えば、俺もこいつらもひたむきに頑張れたと思う。その点のみにおいては、自分を認めてやれる気がした。 

 

「バカなりにお前らは良くやってくれたよ。手探りで正しいかどうかも謎な俺の指導に付いてきたしな」 

「頼れそうなものがそれ以外に残っていなかったもので」 

「そうか。それは――」 

 

 悲惨だったなと言おうとして、直前で言葉を押しとどめた。

努力しても努力しても実を結ばない感覚は俺と縁が薄いもので、それをあっさり流すのはためらわれたからだった。 

 

「それは、大変だったな」 

「……ええ。ですから、あなたには恩があったんです。…………恩があったのに」 

 

 また肉をつねられる。

言葉以外で意思表示するにしても、暴力に頼るのは勘弁してほしい。 

 

「こんなことのせいで、恩返しの気持ちも薄れてしまいました」 

「そのまま希釈してなかったことにしとけ。それが一番だ」 

「……それを簡単に割り切れないから困ってるんじゃないですか」 

「…………五月?」 

 

 さっきまでずっと俺の脇腹をつねっていた手がへその当たりに回って、そこを緩く圧迫してきた。それと連動するように彼女の柔らかな体が背面に押し付けられて、一瞬たじろぐ。 

 

「何か?」 

「いや、それ俺のセリフ……」 

「このくらい慣れたものでしょう? 私たち、五つ子なので」 

「それとこれとは話が違うと思うんだよ……」 

 

 確かに慣れたものは慣れたものなのだが、この感触は嫌でも過去あった出来事を想起させるので精神によろしくない。

 

しかし、どうして彼女がこんな行為に走るのかはさっぱり分からなかった。今の俺はきっと、姉をことごとく食い散らかした汚らわしさの権化に見られているのだろうし。 

 

「話を戻します」 

「体勢も戻してくれ」 

「……上杉君自身は気づいていないのかもしれませんが」 

 

 俺の発言は無視らしい。

そういえば、口ごたえする権利はなかったのだった。

焼かれようが煮られようが、今の俺にそれを否定できるだけの権限は与えられていない。

だから精々、彼女の邪魔にならないことを心掛けるべきか。 

 

「きっとあなたには、他人を教え導く能力がありますよ」 

「あれは能力っていうよりは、泥くささとかじゃねえかな」 

「それでも、上杉君には他人を変える力がありました。……そしてそれを悪用して私の姉妹を手籠めにしました」 

「…………あの、どういう方向に話を運ぶつもりかだけ聞いて良い?」 

「黙ってください」 

「いや」 

「黙ってください」 

 

 度重なる封殺。

同時に五月の顔が俺のうなじあたりに埋まって、声がわずかにくぐもった。

くすぐったさに変な声が出そうになるが、そうしたらいよいよ最上級の不興を買ってしまいそうなので、下唇を噛んでどうにか耐える。

 

「だから今後は、その才能を正しく扱ってくださいよ」 

「正しく……?」 

「ええ、正しく」 

 

 元よりそんな才能を持っているつもりも、悪用した覚えもなかったけれど、彼女視点から言えばそれはどうにも違うらしい。 

 

 けれども、正しさと言うのがどういうことを指すのかが俺にはてんで分からず、だからまた彼女の言葉を待つことになる。 

 

「あるじゃないですか。その能力が生きる場所」 

「…………いや、待て待て待て。それじゃあお前」 

 

 どうにか察して、彼女の言葉を遮ろうとする。

けれど、五月はそんな俺の思いなんかまるで知らないみたいに、一言で。

 

「先生、目指せばいいじゃないですか」 

 

ごく当たり前のように、己の希望する職種を俺に提示してきた。 

 

「それはダメだろ……」 

「なぜ?」 

「向き不向きの前に、お前は耐えられるのか? こんな奴が自分と同じ道を進もうとして」 

「業腹ですよ」 

「なら、どうして……」 

「あなたがいつまで経っても自分の適性に気づかないから、仕方なくです。私以上に向いている人が挑戦すらしないでふらふらしている方が、ずっとイライラします」 

 

 ぎゅっと。 

 彼女の腕が、俺の腹部に強く食い込む。 

 

「私たち生徒に申し訳ないことをした自覚があるなら、これから他の生徒を正しく教導することで詫びてください。これまでのことは赦せませんし水に流すつもりも毛頭ありませんが、そういった形で罪滅ぼしをすることはできるはずです」 

「それじゃあ、お前自身が救われないだろ」 

「……そこに居てくれれば、あなたを監視して溜飲を下げられます」 

 

 さり気なく恐ろしいことを言われた気がする。

つまり、これからずっと俺は五月の掌の上だと。 

 

「靴や足を舐めさせられることと比べれば、よほどマシな提案でしょう?」 

「それはお前の夢が実現してからの話であってだな」 

「なら、決定事項です」 

 

 強く言い切られる。

その姿が頼もしく思えるが、そう発破をかけたのはそもそも俺だったか。 

 

 本当に、自分の行いに足元を掬われてばかりだ。 

 

「……まあ、あなたの人生なので無理強いは出来ませんが」 

「ちなみに逃げたら?」 

「らいはちゃんと養子縁組します」 

「家族が人質かよ……」 

 

 むしろそうなった方がらいはの幸せが約束されそうな気もするけれど、籍を持っていかれるのは堪える。

なんでかんで、俺にとっての数少ない血縁なのだし。 

 

「……………………考えとく」 

 

 だからといって、即断即決できるような問題でもない。

俺一人ではどうにもならないことだってある。

 

考える時間を用意しないことには、これが正しい判断なのか自分にも見当がつかない。

教師になろうなんて思ったことはこれまでに一度だってなくて、当然のように迷いもついてくる。 

 

 けれど、そうか。 

 人から見て、俺にはそんな適性があったのか。 

 

「考えとくから、その、そろそろ……」 

「なんですか」 

「手、離してくれよ……」 

 

 五月の手は未だ俺の腹部をぎっちり押さえつけたままで、背中には何か大きな存在感がくっつき続けている。

この感触が毒であることは身に染みて理解しているので、血迷わないためにも彼女には早くここから離れてもらわないといけない。

 

ある程度穏便に話がまとまりかけた今この状況にあって、俺はもうこれ以上過ちを重ねたくはないのだ

 

「どうしてです……?」 

「お前、俺がこれまでやってきたことに対してそんなに無警戒でいるんならヤバいぞ」 

「これまでとは?」 

「だから、お前の姉連中がどんな目に遭ってきたかは理解してるだろ」 

「……つまり上杉君は、私に対して劣情を催している、と」 

「いや、そういうのじゃなくて。……でも、俺がどんな人間かくらいはきちんと認識しておいた方が」 

「…………一花も、二乃も、三玖も、四葉でも良くて、私に限ってダメだと」 

「なんだその被害妄想」 

「…………女のプライドです」 

「俺に傷つけられるようなもんじゃないだろ、それ」 

 

 否定の直後、また腹をつねられた。

こいつの機嫌をどうやってとればいいかは未だによくわからない。 

 

「殺人が重罪でなければ、私は今あなたを殺めていたかもしれません」 

「そこまで」 

「ほんと、嫌いです……」 

「なら、なんで……」 

 

 なんでこいつは、こうやって俺に張り付いたままなのだろうか。

互いの息を吐く音が聞こえる距離で、鼓動の音が聞こえる範囲で、体温が共有できてしまう密度で。

どうしてそこから動いてくれないのだろうか。 

 

「ねえ、上杉君」 

「なんだよ……」 

「世間は今、どんな季節か知っていますか?」 

「受験シーズン」 

「……他には」 

「他には……クリスマスとか」 

「そうですね。クリスマスです。では、ここで質問なのですが」 

 

 五月は、ただでさえ近かった距離をさらに詰めて、口を俺の耳元に寄せながら。 

 

「せっかくの大きなイベントだからと勇気を出して好きな男の子に贈り物をしようとした女の子がいて、しかし偶然その子と自分の姉がキスしている場所に立ち会ってしまったら、どうなると思いますか?」 

「…………何のたとえだ」 

「どうなると思いますか?」 

 

 示唆に富んだ、そしてどこかで聞いたような話。

けれど、その中には俺の知らない情報が織り込まれていて。 

 

「…………家出とか、するかもな」 

 

 もうほとんど出てしまっている答えから目を逸らすことも出来ず、思いのほかに呆気なく、一番に思い浮かんだ、ありきたりな解答を口に出した。  

 

 そのなぞなぞの正解が何かは、次の五月の発言が示した通りに。 

 

「……しちゃいましたね、家出」 

「午前のうちには帰ってやれよ」 

「それは……みんなの態度次第です」 

「きっとしばらく、家庭内の王様はお前になるから」 

「王様というと?」 

「一番風呂に入れたり、おかずが一品増えたりする」 

「ずいぶん質素な国ですね」 

「十分豪勢だろ。それ以上に何が欲しいんだよ」 

 

「……ねえ、上杉君」 

「なに」 

「無反応は切ないです」 

「……どこに反応しろと」 

「分かっているくせに」 

「だってお前、あんだけ嫌いだって言ってたろ」 

「嫌いですよ」 

「じゃあ、なんで」 

「知りませんよ。私だって」 

「その感情の機微をよりにもよって俺に理解しろと」 

「乙女心は複雑なんです」 

「どこにもそんな兆候なかっただろ」 

「だってここ数ヵ月は、私ばっかり贔屓してたじゃないですか」 

「その程度で落ちないでくれよ……昔は犬猿の仲やってたのに……」 

「女の子は意外と単純なんですよぉ……」 

「矛盾が早えよ……。いくらなんでもチョロすぎだって」 

「だって、それ以外にも、色々……」 

「色々、なんだよ」 

「色々、私を思い上がらせるような態度を取ってきたあなたが悪いんじゃないですか」 

「いや、そんなつもりは」 

「そうですか。そうですね。関係を持った子と話すのが気まずくて私の方に逃げてきただけですもんね。ホント最低。最悪。不潔」 

「…………」 

 

「否定してくださいよ」 

「……事実だし」 

「~~~~~~ッ!!」 

「暴れんなよ」 

「そこは嘘でも否定するところじゃないですか」 

「嘘ついたら怒るだろ、お前」 

「当たり前です」 

「詰んでるじゃん」 

「そこをなんとかしてくださいよ」 

「無茶言うな。隠蔽工作に失敗した人間がどうなるかを進行形で体験してるのが俺だぞ」 

「もう今より状況が悪くなることもないでしょう」 

「って言うかなんだよ。さっき俺に復活のチャンスを与えたのは結局惚れた弱みからかよ」 

「そうでもなければとっくに縁を切ってますよ」 

「そこはもっと公正な判断をだな」 

「あなただって、一人に決めないで好き放題やってるじゃないですか」 

「ぐ……」 

 

「そんな人が、公正なんて言葉を使わないでください」 

「でも、それだと弱みに付け込んだみたいで気分が良くないだろ」 

「弱みを作ったあなたの勝ちですね。おめでとうございます」 

「投げやりじゃねーか……」 

 

 途切れることもなく、暗がりの中でマシンガンのように歯に衣着せぬ言い合いを続ける。

最初はあったはずの眠気も既にどこかへ行ってしまって、変に昂ったテンションだけが残った。 

 

 五月の手は未だ俺に巻き付いたままで、そこに込められた意味を理解した今となっては、積極的に払いのけることはできなくなってしまっている。

 

五月も五月で俺の弱みに付け入っているので、イーブンということにならないだろうか。……ならないだろうな。

俺が抱えた余罪の量からして、そう簡単に清算することは叶わない。 

 

「お前だけは最後まで俺を嫌っておかないと、整合性が取れなくなっちゃうだろ」 

「嫌いなのは変わっていません」 

「なんだそれ」 

「……ただ、嫌いなところと好きなところが別々に存在しているだけです」 

「なんでそういうとこだけ器用なんだよ」 

「不器用だから一つに定まらないんじゃないですか。私だって、本当は一極に振り切りたいのに」 

「俺が更に最低な行動を繰り返せばいいのか」 

「なんでそうなるんですか。更生する流れじゃないですか」 

「……そうしたら、ダメな方に振り切れるだろ」 

「嫌われたくないって言ったのは上杉君ですよ?」 

「でも、そこだけはけじめとして……」 

「だから、頑固すぎるんです。ここまで言ったのだから、もう私の弱みに付け込み続ければいいじゃないですか。問題らしい問題を全部なあなあにしてしまえばおしまいですよ」 

「お前、言ってること滅茶苦茶だ……。更生しろって言ったかと思えば、弱みがどうこうとか。眠気で頭回ってないんじゃねえの」 

 

「…………だって」 

「だって、なんだよ」 

 

「今すぐ更生されたら、私の初めてはいつまでお預けされるんですか……?」 

「……は?」 

 

 不穏当な言葉の後で、じーっとファスナーを下ろす音が響いた。

確か、貸したジャージがそういう形状だったから、今彼女が何をしようとしているかは嫌でも分かる。 

 

「みんなみんな愛してもらって、私だけが仲間外れですか?」 

「お前、不潔だって言ってたじゃん……」 

「顔も体も同じなのに、私だけが不合格ですか? そんなに面倒くさい女の子は嫌ですか?」 

「良いから早く寝ろ。キャラおかしくなってるぞ」 

「色々な問題は捨て置いて、同じ布団に潜り込んできた女の子に手を出さないのは男の子としてどうなんですか?」 

「そこで手を出してきちゃったのを後悔してるからこうやって耐えてるんだろうが。俺なりの反省なんだよこれは」 

「……いくじなし」 

「何とでも。酷い男だと思って一生恨んどけ」 

 

 悶々とはするが、ここが自宅であるという心理的な安寧効果も相まって、比較的平常心でいられた。

これまではずっとアウェーでの戦いだったから、ここにきて俺の本領を発揮できた気がする。

元より、己を律するのは得意な方だったのだ。 

 

 完勝の確信を得て、いよいよ眠ろうと目を瞑る。

まさかこいつに、二乃のように俺を襲ってくる気概はあるまい。

 

人間、どうやっても越えられないラインがある。

俺は五月の限界を見極めている自信があるので、もう大丈夫。

 

話が長引きはしたものの、これからも会話くらいは出来る間柄に落ち着くだろうし、贖罪は長いスパンでじっくりと重ねていこう。

本人が自分の弱みを否定しない以上、いつかは当初の意見を翻して和解する道も生まれるかもしれない。 

 

 けれど、胸の中でざわつくこの感情はなんだろう。まだ、見落としていることでもあるのだろうか。 

 

「……んっ」 

「…………」 

 

 後ろからやけに湿っぽい音と五月の上ずった声が同時に聞こえてきて、全身の汗腺が開いた。

背後で展開されている行為は予想こそつくものの、決して認めたくはない類のもので。 

  

「うえすぎ、くん……」 

「…………」 

 

 甘ったるい呼びかけを無視するように手で耳を塞いだ。

だが時すでに遅く、その声音がくわんくわんと、何度も頭の中を駆けずり回る。 

 

 確かいつだかに、一人でするだけだからとかいう謎の理屈で俺を巻き込んだ女子がいた。

あのときの再来を思わせるこの状況に、俺はただただ震えることしか出来ない。

頭が徐々に熱っぽくなっていくのが分かって、それを押し殺すために理性を総動員するほかにない。 

 

 そうやって必死に心の防衛ラインを構築している俺をあざ笑うかのように、伸びてきた五月の手が俺の唇に触れた。

 

どういう意図かは分からないがそのまま隙間をこじ開けようとするのを直感で防ぎつつ、体側で這って距離を取ろうとする。

だが、体勢が体勢なので思うようには前進できず、同じ場所で体を暴れさせているだけになる。 

 

 これは、良くない。非常にまずい。

男子高校生として極めて健全な性欲を持った俺にとっては毒にしかなり得ない。

 

今の五月を傍に置いておいてもろくなことにならないのは目に見えているので、ここはいっそ、この布団を抜け出してらいはの布団に潜り込むべきか。

 

……いや、そんなことをしてもついてこられたら無意味か。

ならいっそ、今晩だけでも公園で寝泊まりを……。 

 

「………………あの、私、これだけ襲ってもいいお膳立て、しましたよ」 

 

 またも耳元に響く囁き。

妙に色を帯びたその声は、聞き逃すに聞き逃せなくて。 

 

「上杉君はここにいるのに、上杉君に愛してもらう妄想で、慰めましたよ」 

 

 少し前まで真剣な言い争いをしていたはずの口から飛び出した言葉の内容はとても信じられず、けれどこれだけ近くで感じていた以上、否定することはもはや叶いそうにもなく。 

 

 そういう行為を毛嫌いしている印象があった五月の発言は、否応なしに俺の心臓を抉ってくる。

鼓動のリズムは加速して、全身の血管が跳ね回っている。 

 

 戸惑いは俺の思考力を徐々に奪いながら、脳内を不純な色に染め上げていく。

 

そして。  糸で引かれるように、体が彼女の方へと向いた。 

 

「性欲魔人」 

「絶対お前の方がむっつりだと思う……」 

「そん、な、こと……」 

 

 強引に。  五月のみずみずしい唇を、俺のそれでぴっちり塞いだ。 

 一ミリの隙間も生まれないように。 

 

 鼻呼吸だけではさすがに苦しくなってきたのでようやくのこと唇を離すと。

五月は呆けた顔で口を開け放しながら迎え舌をしているので、もう終わったぞと頬をつねってみる。 

 

「……四人も相手にしたら、こうなりますよね」 

「上手くて悪かったな」 

「…………否定できないのが苛立ちます」 

 

 なぜか左手は握りっぱなしで離してもらえないので、どうにか右手だけでホックを外す。ここでも大してもたつかないあたり、俺の練度はどうなってしまっているのだろうか。 

 

「……絶対、男の趣味悪いですよね」 

「それはお前の姉ちゃんたちにもまとめて刺さるからやめとけ」 

「全部ひっくるめて言ってます。中野の血はダメ男好きの系譜です」 

「言い切り過ぎだ」 

「だって上杉君、ダメ男ですもん」 

「そうだけども」 

「本当に、どうしてこんな人を好きになるような人間がいるのでしょうね」 

「自己否定だぞそれ」 

「……でも、好きなんですよ」 

「……おう」 

「こそこそ隠れて姉妹みんなに手を出して、それで何事もないように振舞っていた最低な人だと知ってもなお、好きって気持ちが消えないんですよ」 

「悪かったって」 

「私、いつの間にかあなたにおかしくされていたみたいです」 

「……あの」 

「あなたのせいで私の感情はぐちゃぐちゃなんですよ」 

「……お前、言ってて恥ずかしくないの?」 

「こんな格好じゃ今更ですよ」 

「……」 

「……とは言え、恥ずかしさがなくなるわけではなくて」 

 

 

「本当に今更だな……..」

「ちょっと、それは、ぞくぞくしてダメなんです ……」 

「弱みには付け込んで欲しいんじゃなかったか」 

「ひ、ひど。さい、てい……いじわる」 

「よく言われる」

「あっ、だめ、です……!」 

 

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ーーーーー

ーーーーーー

 

 どちらともなく眠ってしまって、どちらともなく起きだした後で。 

 未だ離してもらえない手について、訊く。 

 

「そういやこれ、なんでずっと握りっぱなしなんだ?」 

「握ってませんよ」 

「……掴みっぱなしなんだ?」 

「掴んでもいません」 

「じゃあ、なに?」 

 

 彼女は、当たり前に笑って。 

 

「離すとふらふらしてどこかに行ってしまうので、繋ぎとめているんです」 

 

 ぐーぱーぐーぱーと力んだり緩めたりしながら、なんでか愛おしそうに、それを自分の胸元に抱き寄せた五月は。 

 

「そうすれば、あなたはもう、後ろめたいことをしないでいられるでしょう?」 

 

 飽くまで彼女視点では、だが。 

 そういう考え方も、出来なくはないのか。 

 

 

「…………卒業まで、あと三か月ないのか」 

「受験までは二か月ないですよ」 

「じゃあ、それまでに、色々整理しないとなあ……」 

 

 やるべきことは変わらず山積みのままで、それどころか当初思っていたよりも片付けなければならないものが増えてしまっている。 

 

 果たして俺は、その期間で、誰もが納得できる結論を提示することができるのだろうか。 

 

「いつかお前に赦してもらえるように。あいつらの誰とも、遺恨を残さずいられるように」 

「嫌われたくないのでしょう?」 

「ああ。でも、今となってみれば……」 

 

 天井の染みを見上げながら噛み締めるように一言だけ言って、俺はまた眠りにつくことにした。 

 

 特に捻ったわけでも、これといって考えたわけでもない。

でも、だからこそ、ありのままの本音が染み出した言葉を。 

 

「……お前らの誰からも、好かれたままでいたいよな」 

「じゃあ、――」 

 

 眠りに誘われてしまったせいで、続いた五月の言葉を記憶することは叶わなかった。 

 

 けれど、なんだか。 

 とても暖かい気持ちに包まれたことだけを、覚えている。 

 

 

 

 

 ――夢を見ていた。 

 

 それはとてもはちゃめちゃで、滅茶苦茶な、若かりし日々の記憶で。 

  

 若気の至りなんて言葉で片付けるには少々おイタを重ね過ぎた、苦くて甘い、物語。 

 

 自分の周りに突然現れた五人の女の子と俺とで綴ったストーリーは、倫理も論理も破綻させながら、どんどんと間違った方に流れていって。 

 

 それでも、その過程で何かを拾い集めながら、未完成だった俺という人間を、少しずつ今の俺へと昇華していった。 

 

 愛とか、憎とか、おおよそ存在し得るありとあらゆる感情をないまぜにしながら突き進んだ物語は、最後の最後に至るまで予想の付かない展開の連続で。 

 

 泣いたり、笑ったり、でもやっぱり泣いたりを繰り返しながら、めいっぱいの時間を使い込んで、どうにか全員が妥協できるような、一つの結末を見出した。 

 

 

 ――なんて、そう上手くはいかなかった。 

 

 当たり前のような延長戦。続き続ける小さな戦い。高校だけで終わるかに見えた俺たちの関係は、なぜだかその後もずっとずっと絶えることなく継続していって。 

 

 だけど、最後は。 

 

 火種になった俺自身が我を押し通すことで、ようやくの終戦を迎えることになった。 

 

 多くの涙と多くの笑顔をこの目で見てきて、その末に出した結論だった。 

 

 正直、未だに誰もが支持してくれているかどうかは分からない。

当然のように最初は一悶着二悶着あって、鎮火までに要した時間は計り知れない。 

 

 でも、結局、全てはエゴで回っているのだ。 

 

 どうしたいとか、誰といたいとか、どういう気持ちでありたいとか。それを決めるのは、全て自分の役割なのだ。 

 

 だから俺は、己に素直に、正直に。 

 

 ありのままの自分が望むままに、一つの答えを提示した。

 

 

「――風太郎」 

 

 聞き慣れた声が耳元からして、微睡みから現実へと回帰する。

声の主の方を見れば、そこには華美なドレスで着飾った誰かさんがいて。

ついでに言えば、俺も俺でここ一番という感じの一張羅で。 

 

「どうしてちょっと泣いてるの?」 

「さあ、なんでかな。眠っていたから、そのせいかもしれない」 

 

 まさか、夢の内容までは言えない。

もし後悔しているなんて思われたら癪だから。 

 

 俺は、満足している。今の結果に、これ以上なく。 

 

 彼女はいかにも歩き辛そうな格好で、それでも器用に俺の一歩前に飛び出して。俺の左手をしっかり握りしめてから。 

 

「じゃあ、お先ね。後は、舞台の上で」 

 

 そう言い残して、一足先に待機部屋から去って行く。 

 

 俺はその後ろ姿を最後の最後まで見送って、とうとうこの部屋から誰もいなくなってようやく、さっきの言葉に返事をした。 

 

 一言で、過去から抜け出していくように。 

 昨日の俺を、置き去りにしていくように。 

 

 

「ああ、今行く」 

 

 

 

 

 

 

 

 

元スレ

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