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余接「鬼いちゃん……僕を何だと思ってたの?」【物語シリーズss/アニメss】

 

001 

 

 

初めは決まって、青くて綺麗な海面に漂っている。 

目の前は無限に広がる大空だ。 

 

身体は動かなくて、指先を動かすことすらままならない中、水分を吸った衣服と身体が物理法則に従って次第に沈んでいく。 

沈んでいく途中にも意識はあって、目も開いたままだけど、海水が入って痛くなったり、なんてことはない。 

それどころか沈む過程で身体中のあちこちから海水が入り込み、肺まで海水に満たされるのにも関わらず、苦しくもない。 

 

衣服はゆっくりと水圧で崩れ、しばらくすると身体も崩れていく。 

ぐずぐずになった身体中どころか内臓までもを魚に啄ばまれ、海水に融け、骨すらも粉になっても意識は残っている。 

 

原初の海、生物は海から産まれた、という言葉を思い出す。 

 

海底は見えない。 

 

何処までも何処までも沈んでいく。 

 

黒くて、暗くて、重い。 

 

意識だけが深海にいる、不思議な感触。 

ここには大気の流れも、音も、意識さえも入る余地はない。 

 

目を閉じると見える、いつもの光景だ。 

人間ならば眼球を巡る血液の流れが靄のように見えるそうだけれど、原動力が心臓ではない僕に血液は流れていない。 

光を映す眼球も硝子玉と同じで乾いている。 

目を閉じて見えるのは、完全な闇だ。 

脳もまともに動いていない僕には睡眠も必要ないけれど、暇な時や身体の劣化を遅らせる時に眠ることはある。 

 

この『沈む夢』は、その時に時々見る。 

 

これは多分、単なる僕の記憶が見せる心中の投影が夢として現れているものだ。 

色々なものがぐちゃぐちゃに混ざった結果、どういうわけかこのような光景を見せているだけだ。 

 

だって僕は、斧乃木余接は、過去も未来もなく、必要に応じて存在するだけの存在、動く死体なのだから。 

 

その中で、今日に限ってその闇の中に誰かがいる。 

 

上背は僕と同じくらいの、小さな子供。 

 

『――――――――――』 

 

何か言葉を発しているのか、唇がせせこましく動いている。 

 

表情は真っ暗闇のせいで微塵も窺えない。 

 

……君は誰? 

 

「おはよう、斧乃木ちゃん」 

 

ぱちくり、と目を開くと見慣れた鬼いちゃんの顔が映る。 

 

「…………」 

 

「どうした?」 

 

どうやら、座りながら眠っていたらしい。 

 

首を傾げる鬼いちゃんも横目に、きりきりと首を180度左右にゆっくりと振る。 

自分で言うのも何だけれど、扇風機のようだった。 

 

「その首をあり得ない角度で曲げる癖、人前で出すなよ」 

 

顔がちょうど真後ろに来たあたりで、正面にいた鬼いちゃんのツッコミが入る。 

 

いくら僕が式神とは言え、人間社会で行動する上は人間らしく振舞わなければならない。 

首を曲げすぎるのは癖と言うか、便利なだけだ。 

身体ごと振り向かなくても真後ろが見えるのは効率的だと思うんだけど。 

 

「かっこいいでしょ、司馬懿みたいで」 

 

「君はどう考えても呂布とか禰衡の類だろ」 

 

「じゃあ鬼いちゃんは程遠志だね」 

 

「超咬ませ犬じゃん!正史にすら出してもらえないの!?」 

 

せめて馬謖あたりにしてよ、とわめく鬼いちゃんは放っておいて、辺りを確認する。 

 

鬼いちゃんの部屋だ。 

なんでこんなところで寝ていたんだっけ。 

 

「そうだった、鬼いちゃんとお医者さんごっこをしている最中だったね」 

 

「いや、してないぞ? 」 

 

「鬼いちゃんが『僕の注射器で治療してあげよう』って言われた後に気を失った気がする」 

 

「してねえっつってんだろ!斧乃木ちゃんが妹二人が出掛けて暇だからって僕の部屋に来た途端寝たんだよ!」 

 

「そうだっけ。覚えてないや」 

 

覚えてないのは本当だけど、まあ、冗談はこのくらいにして置いておこう。 

これくらいのやり取りはもう日常茶飯事だ。 

 

「夢を見たよ、鬼いちゃん」 

 

「夢?」 

 

ふと、先程の光景が気になって口を突いて出た。 

 

こんな事を鬼いちゃんに言ったところで、どうしようもないのに。 

 

式神でも夢を見るのか?」 

 

「いや、見ないよ」 

 

「……?」 

 

僕は、というか式神は夢を見ない。 

必要がないからだ。 

 

夢は記憶の整理棚と聞いたことがある。 

記憶というデータを処理しきれない脳がデフラグをするように、眠っている間に人間には理解出来ないレベルの最適化を行うのだ。 

 

その際に、整理中の記憶が夢として現れる、らしい。 

だから夢というのは脈絡もないよくわからないものが多い、というのが通説だ。 

実際、人間の脳の解析はほとんど進んでいないみたいだからね。 

 

その点、僕に記憶を整理する必要はない。 

一般的に脳と言われる器官はあるにはあるけれど、僕はあまり使っていない。 

じゃあ何処で記憶を保存しているんだ、という話になるのだけれども、それは僕を作ったお姉ちゃん達に聞かないとわからない。 

 

正直、さして興味もない。 

興味を持つことは許されているけれど、意味があるとは思えない。 

 

式神として動く以上、記憶、というよりは記録かな。 

記録は必要だけれど、それがどんな構造になっているか、なんてどうでもいい。 

 

僕に与えられているのは、お姉ちゃん達の手足となって働くこと。 

それだけだから。 

 

その事自体が嫌なんて事はあり得ない。 

 

その為に産まれた僕が役目を嫌うということは、自ら存在意義を稀釈してしまうだけだ。 

 

度が過ぎると、いつかの蝸牛のようにくらやみに追い回されるだろう。 

 

それに、待遇も悪くはないと思う。 

他の式神がどうかは知らないけれど、お姉ちゃん達はそれなりに優しいしね。 

もっと、鬼いちゃんのように可愛がってくれてもいいとは思うけれど。 

 

鬼のお兄ちゃん。 

 

僕の知る人間関係の中で、唯一の変態の鬼いちゃんだ。 

小さな女の子のパンツが好きで、僕が人形のフリをしているのをいい事に一日一回はスカートをめくられる。 

 

変態で、よくわからなくて、たまに、本当にたまにかっこいい吸血鬼のお兄ちゃん 。 

 

ああ、そうだ。 

吸血鬼も夢を見るのかな。 

 

忍様に聞くのは嫌だから、鬼いちゃんに聞いてみよう。 

 

「ねえ、鬼いちゃんは夢って見る?」 

 

「夢って……寝る時に見る方だよな?まあ、人並みには」 

 

先程は式神である僕が夢を見るわけなんかない、と言ったけれど、見てしまうものは仕方がない。 

 

人間なら気のせいかな、で済むんだろうけれど、僕みたいな半ば機械的な存在にとっては、体験した事実をねじ曲げることは不可能だ。 

どうしたって記録として残ってしまう。 

 

死体は夢を見る、なんて書くとサスペンスかミステリー映画のキャッチコピーみたいだね。 

 

「そう」 

 

……こんなにも僕が仕事に関係ないことで思考を巡らせることはかなり珍しい。 

思慮や考察が必要ない時は思考停止している方が多いからね。 

考えるのにもカロリーは使うから、その方が省エネになるし。 

 

「それは、羨ましくないな」 

 

でも、僕はやっぱりあの夢らしき何かが気になるんだと思う。 

 

だって、あれはたぶん。 

 

僕の、死ぬ夢だから。 

 

ああ、そうだ。 

 

もうそろそろ、あの時期だ。 

 

「ねえ、鬼いちゃん」 

 

「ん?」 

 

「お願いがあるんだ」 

 

鬼いちゃんはどんな顔をするだろうか。 

 

驚くだろうか。 

 

笑うだろうか。 

 

どちらにせよ、本気に取ってもらうことは難しいように思える。 

 

「なんだ?今日一日、語尾に『にゃん』とつけてくれたら考えてやってもいいぞ」 

 

……未だにわからないな、鬼いちゃんの考える事は。 

 

まあいいか、別に恥ずかしい訳でもないし。 

というか、恥ずかしいって感情自体、僕には薄い。 

みっともない、とは思うけれど。 

 

「いいにゃん」 

 

この『お願い』が通ったのなら、鬼いちゃんは僕を軽蔑するだろう。 

 

控えめに見て軽蔑されなかったとしても、少なくとも鬼いちゃんはもう二度と僕と会うことはないだろう。 

 

だから、最後のお願いだ。 

 

「僕を殺して」 

 

にゃん。 

 

 

002 

 

 

それは、何の変哲もないある日のことだった。 

 

僕は話があるという斧乃木ちゃんと共に外出し、二人で歩きながらジュースを飲んでいた。 

勿論というかなんというか、僕の家で人形のフリをしている斧乃木ちゃんに稼ぎがある筈もなく、ジュース代は僕持ちである。 

 

斧乃木ちゃんは、月火のしでの鳥の一件で知り合うことになった、死体の付喪神である。 

 

その後、紆余曲折あり晴れて僕の家に物言わぬぬいぐるみとして居候する事と相成った。 

その目的は僕の護衛及び監視、なのだと思う。 

正直なところ、その辺りは未だによく分かっていない。 

もう大した用事もないことだし、僕の元を離れてもいいとは思うのだけれど。 

 

だが何を考えているのかよく分からない斧乃木ちゃんではあるが、度々助けられていることも確かだ。 

 

彼女はなんでも百年以上保存された死体、らしい。 

こう字面だけ読むとおぞましい存在な気もするが、実際の彼女は生きている人間と、少なくとも外見はそこまで変わることはない。 

ゾンビやキョンシーのように一目で化物とわかる生ける死体とは違い、その振る舞いに死体を連想させるところはほぼないと言って差し支えないだろう。 

外見は、と強調した通り内面には人間らしくない部分もちらほら見える訳だが、それも人間の域を逸脱したものでもない。 

少々性格が悪くて、表情がまったく変わらない。その程度だ。 

 

「斧乃木ちゃんからデートのお誘いとは珍しいな」 

 

「デート?」 

 

「違うのか?」 

 

まあ、斧乃木ちゃんが僕をデートに誘う訳なんてないだろうけど。 

 

「デートって逢瀬のことでしょにゃん。愛し合う恋人同士が愛を再確認しつつ、 貴方は裏切らないよね、って牽制し合う精神を削る心理戦だって聞いたけどにゃん」 

 

「何その歪んだデート感!?誰に聞いたんだよ!」 

 

「お姉ちゃんだにゃん」 

 

「影縫さん……過去になんかあったのかな……」 

 

「でも時々ナンパされたりしてるにゃん」 

 

影縫さんはあの通り、男でも敵う相手のいない程の怪力の持ち主だからか、男なんて影すらも見たことがない。 

それこそ大学の同期だったという忍野と貝木くらいのものだけれど、あの二人が影縫さんと……なんてことは万に一つくらいしか無いだろう。 

 

忍野はあの通りの表六だし、貝木は異性よりも金を優先するような男だ。 

仲間としての意識はあれど、恋仲なんてことはないと、確信に似たものはある。 

 

影縫さん本人にしても、外見は間違いなく美人の類だが常に地面を歩かないから出会いも難しいだろう。 

中にはそれでもナンパしてくる強者もいるにはいるだろうが、そのほとんどが軽くあしらわれるか殴られるか投げ飛ばされて終わりなのが見なくても目に映るようだ。 

 

まあ、影縫さんが恋人とデレる姿なんて想像出来ないし、出来たところで胃がもたれそうだから丁度いい……のか? 

 

「って言うかさ、斧乃木ちゃん」 

 

「にゃん?」 

 

「その語尾、もういいから」 

 

「わかったよ」 

 

確かに斧乃木ちゃんに付き合う代わりに語尾に『にゃん』をつけて喋れ、と命令したのは僕だ。 

僕には違いないが、羞恥の欠片も見せず淡々とにゃんにゃん言われてもちっとも萌えない。 

むしろ萎える。 

お手軽に女の子の萌力を跳ね上げる萌えワードの筈なのに、なんでだろう……。 

 

僕から言っておいてなんだけど、ブラック羽川と被るし。 

 

「ちなみに僕はナンパされたことがないんだ」 

 

「そりゃあ……斧乃木ちゃん程の年齢の童女をナンパするような根性の持ち主は中々いないだろ」 

 

それは中身がどうこう以前にこのご時世だからだ。 

 

見知らぬ幼女に親切で話し掛けても捕まる世の中って。 

世知辛いぜ、全く。 

 

「されてみたいな、ナンパ」 

 

「されてみたいのか……よし、じゃあ僕が一肌脱いでやろう」 

 

「いいよ別に。おい。いいって言ってんだろ」 

 

斧乃木ちゃんのドスの効いた声もそっちのけに、斧乃木ちゃんを壁ドンする。 

 

最近の女子は壁を背にして追い詰められるのが好きだと聞く。 

本来の壁ドンはもうちょっと違う意味合いを持つんだけれど。 

 

それは置いておいて、やってみたかったんだよね、童女をナンパ。 

 

「可愛いお嬢ちゃん、良かったら僕と一緒にハーゲンダッツでも食べながらお話しない?」 

 

「鏡見て出直して来たほうがいいよ、このゴミ虫にも劣る駄目生物が」 

 

「辛辣すぎる!!」 

 

「言い寄ってくる男には第一印象でノックアウト、とも言われたよ」 

 

「すっごい英才教育!」 

 

モンスターペアレントも真っ青だ。 

ひたぎとはまた趣の違う、直球すぎる否定の言葉に少しだけ心が痛む。 

というか、その無表情で言われると倍凹むんだよ。 

 

そもそもナンパ以前に斧乃木ちゃんは人間ではない。 

 

斧乃木余接という存在を一言で客観的に表現するのならば、式神の一言でことは足りる。 

 

彼女は式神であり、同時に付喪神でもある。 

 

式神とは簡単に言えば陰陽師によって使われる体のいいパシリだ(と斧乃木ちゃんが言っていた)。 

ポ○モンみたいなものだと思ってくれていい(これも斧乃木ちゃんが言っていた。待遇が不満なのか?)。 

 

実際、彼女は陰陽師である、彼女の言うところの『お姉ちゃん』、影縫余弦によって使役されている。 

 

付喪神というのは汎神論、アニミズムから派生した信仰で、全てのものには心があり、特に日本においては長く使用した道具には魂が宿る、という考えだ。 

 

付喪神は元々『九十九神』と表記し、文字通り百年近く使った道具、ものに神が宿ると見なす。 

だから道具や家畜などは大事にしなきゃいけませんよ、という教訓も含まれているのだ。 

 

 

……と、ここまで読めば日本人の職人気質な美徳をそこはかとなく感じ取れる、ちょっと美しい逸話で終わるのだけれど、穿った見方をしてしまえば擬人化なんだよね。 

 

鶴の恩返しで助けた鶴が美女になって尋ねてくる、なんて御伽噺があるように、日本人は昔から擬人化が好きなようだし。 

 

ワシの鍬萌え、とか草刈り鎌萌え、とかたぶんそんな感じだ。 

 

斧乃木ちゃんの場合は百年かけて保存されてきた死体と言っていたから……死体萌え? 

 

無いとは言わせない。 

最近では無機物なんて序の口、死体や悪魔の類でさえ萌えの対象だ。 

確かにレイレイとか宮古芳香は可愛い。 

 

つまり日本のHENTAI文化は遺伝子レベルで組み込まれた生粋のものだったのだ。 

 

だから僕が特別におかしいとか変態だとか、そういう批判をよく八九寺や羽川から聞くが、そんなことはないんだぜ? 

 

「鬼いちゃん、僕のこと好き?」 

 

「なんだよいきなり……まぁ、もちろん好きだよ」 

 

「死体愛好家のことをネクロフィリアと呼ぶそうだね」 

 

「らしいな。僕には縁がないと言うか、理解し難いけど」 

 

「このネク野郎が」 

 

確かに世界にはネクロフィリアと呼ばれる、物言わぬ死体を愛する人間は存在する。 

 

それは異性限定だったり、死体であれば人間ですらなくてもいい、というものから種々様々のようだが、僕としてはあまり受け入れられる嗜好ではない。 

道徳的に良くないだとか、罰が当たるだとかそんな一般論はすっ飛ばしても、単純におぞましいと思う。 

 

先述した死体萌えだって二次元にデフォルメされているからこそのものであり、実際にゾンビやらキョンシーやらに出会ったら裸足で逃げ出す自信がある。 

実際、大人八九寺さんのいた未来では、ゾンビに出会い脇目も振らずに逃げようとした(逃げられなかったけど)。 

 

今こうして斧乃木ちゃんと普通に話せているのは、あくまで斧乃木ちゃんが限りなく人間に近いからであり、意思の疎通が出来るからだ。言い方こそ酷いが、間違ってはいない。 

 

それに。 

 

斧乃木ちゃんを否定してしまったら、化物の端くれである僕は生きてはいけないだろう。 

 

まあでも、ネクロフィリアというものもほんの少しはわからなくもない。 

 

死体というものは、言ってしまえば理想の恋人になり得る。 

口答えもせず、どんな要求も受け入れてくれて、その上、死ぬこともない。 

 

命を持たない、という点だけを除けばある意味では完璧な恋人だ。 

そういう意味では二次元に近しいものも感じる。 

 

 

こんな実話がある。 

 

とある外国にカールとエレナという名の男女がいた。 

カールは妻子持ちだったにも関わらずエレナに一目惚れし、形振り構わず求婚する。 

だがエレナは二十二という若さで末期の結核で死に掛けていた。 

カールはエレナを必死に治療しようと試みるも、その甲斐なくエレナは病に倒れる。 

嘆き悲しむカールは葬儀が終わった後もエレナが忘れられず、墓を掘り起こしてエレナの死体を家に持ち帰る。 

 

腐敗により損壊一歩手前の死体を防腐液に漬け込み、蝋と絹で表面を整え、内臓を取り出し綿を詰め、骨格をピアノ線で補強し、抜け落ちた本人の髪でウィッグを作り、鼻に添え木をし、義眼を作って眼窩に嵌めた。 

そしてカールは死ぬまで死体であるエレナと共に暮らしたと言われる。 

 

この話の結末には気分が悪くなるオチがあるのだが、ここでは関係がないので割愛する。 

 

だが、この話も表面だけ見たら美談になるのではないだろうか。 

 

文字通り、死んでも相手を愛する。 

生死を越えた愛だ。 

女性の方からしても、死んだ後も愛され続けるのは女としての本懐とも言える。 

 

現実にこんなことをしたら罪に問われることは間違いない。 

実際、カールも一度見つかって裁判にかけられていると聞く。 

 

彼の行為が正気の沙汰ではない、正しくないことなのはどこからどう見ても一目瞭然なのだが、人の慕情なんてものは物差しで測れるものじゃない。 

異常と感じる情愛の形を、肯定は出来なくとも、否定も出来ない。 

 

なんせ、人類が始まって総数約一千億人。 

 

宇宙に出て二次元の三次元化もかくやというところまで進歩した僕ら人類だが、誰一人として未だに愛というものを解明出来ていないものなのだから。 

 

「なんか今日の斧乃木ちゃん厳しくないか?」 

 

斧乃木ちゃんには、明確な『自分』というものが存在しない。 

 

性格も思考能力も与えられたものであり、その精神構造は常識や基礎知識はあれど、何も知らない赤子に近いのだろう、結構な確率で傍にいる人間の影響を受ける。 

 

会った頃より飛び抜けて口が悪くなっているのは、月火ちゃんの影響も勿論、斧乃木ちゃんは千石の件で貝木と会ったらしいので、その悪影響をも間違いなく受けている。 

 

……斧乃木ちゃんが月火の悪影響を受けて、あの屁理屈と我侭で武装したような性格にならなければいいけれど。 

いや、もう手遅れなのか? 

 

「ところで、本題なんだけど」 

 

「あ、あぁ」 

 

突然の切り返しに少々戸惑う。 

そういえば今日は話がある、と聞いて来たんだった。 

 

「お姉ちゃんがね、臥煙のおば、お姉ちゃんと今日、一緒に来るってさ」 

 

「へえ?」 

 

おい、今臥煙さんのことおばちゃんって言おうとしてなかったか。 

 

……まあいい、下手に突っついて巻き添えを食うのも馬鹿らしい。 

臥煙伊豆湖影縫余弦戦場ヶ原ひたぎ。この世で怒らせてはいけない女ベストスリーだ。 

 

「っていうか、影縫さん戻って来たのか」 

 

「うん。巨大白熊を倒してカレーにしたって言ってた」 

 

相変わらずオーガのような事をするが、あの人なら難なくやりそうだ。 

今ふと思ったが、難なく熊を倒せそうな女性、ってフレーズは影縫さんにしか許されないな。 

 

スープカレーだってさ」 

 

「いや、それはどうでもいい。とうとう僕のお守りもお役目御免か?」 

 

僕の吸血鬼問題も終わり、扇ちゃんとの一件も終え、鏡の世界も辛うじて事なきを得た。 

 

今のところ、斧乃木ちゃんが僕の傍にいる理由は、吸血鬼としての僕と忍の監視くらいしか見当たらない。 

それがもう必要ないと判断されたのならば、斧乃木ちゃんもこの街を去るだろう。 

 

少々寂しい気もするが、致し方あるまい。 

いつかは通る道だ。 

 

「ううん、ただのメンテナンス」 

 

「メンテナンス?」 

 

「僕の。お姉ちゃん達と離れてからだいぶ間が空いちゃったからね」 

 

「ああ……」 

 

式神である斧乃木ちゃんのメンテナンスか。 

 

言われてみれば、斧乃木ちゃんが影縫さんの手を離れてからそこそこの時間が経つ。 

式神としても、死体としても、定期的なメンテナンスは必要なのだろう。 

式神のメンテナンスってものがどんなものなのかは想像がつかないけれど。 

 

「……なあ斧乃木ちゃん、ちょっと失礼なこと、聞いていいか?」 

 

「なに。今日の僕のパンツの色は白だけど」 

 

「いや、そんなことは聞いてない」 

 

「年下愛好家の方々の要望にお応えしてクマさんのプリントも入っているよ」 

 

「……いや、それもどうでもいい」 

 

っていうか既に知ってる。 

何故知っているのか、その理由は僕の沽券に関わるので聞かないで欲しい。 

 

「じゃあ他に思い付かないんだけど」 

 

僕が聞くのを躊躇う事柄がパンツの話ってどうなんだよ、おい。 

 

「じゃあ、なに」 

 

「その……斧乃木ちゃんの身体って腐らないのかな、って」 

 

好奇心で聞いていいことではなかったのかも知れない。 

 

正直、女の子としてもデリケートな問題だと思うし、素人の僕が踏み入れるべき領域ではない。 

ただ、ほんの少し気になった。 

斧乃木ちゃんも自分が死体であることをコンプレックスに思っている訳ではなさそうだし、聞いてもいいかな、と思ってしまったのだ。 

 

聞いた後で、やっぱり後悔してしまったのだけれど。 

 

「レディにそんなことを聞くなんて、最低だね鬼いちゃんは」 

 

「ごめん……忘れてくれ」 

 

「……別に、鬼いちゃんが気にすることじゃないよ。大したことじゃないし、されても困る。僕は定期的にメンテナンスをする時に防腐処理もされてるから、時間が空かなきゃ大丈夫だと思うけど」 

 

「思うけど、って」 

 

人間の死体って放っておくとかなりの速度で劣化する、って聞いたことがあるんだけれど……。 

 

あまり想像したくないことではあるが、ずっと僕の傍にいたから腐敗が進んでいる、なんて事態は嫌だ。 

 

「腐ったことがないからわかんないな。詳しく聞きたいのなら、お姉ちゃんか臥煙のお姉ちゃんに聞いてよ」 

 

「いや、いいよ。ごめんな、変なこと聞いて」 

 

出歯亀だこんなもの。 

 

愚かしいにも程がある。 

 

気恥ずかしさと罪悪感を誤魔化すかのように、斧乃木ちゃんの頭を撫でる。 

 

撫でられている間、斧乃木ちゃんは何故か目線を僕の方に向け続けていた。 

 

気安く撫でてんじゃねえよ、と暗に言われている気がして、思わず手を離してしまう。 

 

「…………」 

 

「……ど、どうした?」 

 

「なんだろう……なんか、変」 

 

斧乃木ちゃんらしくない、曖昧な返事が返ってきた。 

 

彼女はこれ以上なくものをはっきり言う子だ。 

そもそも言葉をオブラートに包む、ということを知らないのかも知れない、と疑う程である。 

 

その斧乃木ちゃんからなんか変、なんて具体的な状態がわからない言葉を聞くとは思わなかった。 

 

「なんか、ざわざわする。ざわざわというか、もこもこというか、ふわふわというか」 

 

「どれもわかんねえよ」 

 

せめてどれかひとつにしろ。 

 

「良くわからないけれど、大丈夫か?」 

 

「うん、身体に問題はないよ」 

 

例の、メンテナンスの間が空きすぎている弊害だろうか。 

 

「ねえ鬼いちゃん、『生きている』と『死んでいる』の違いは、どこにあるんだろう」 

 

「え?」 

 

「僕に心は無いけれど意志はある。僕に心臓の鼓動は無いけれど身体は動く。僕に時間は無意味だけど身体は時間の流れの中にある。僕と鬼いちゃんの違いって、何なんだろうね」 

 

「え、えっと……」 

 

いきなり高尚な質問を受けて戸惑ってしまう。 

 

無邪気な子供に『生きてるってなあに?』と聞かれた気分だ。 

 

明確な答えなどあるのだろうか。 

そりゃあ、生物学的に生物と非生物の違いを説けば論理的には可能だが、斧乃木ちゃんの聞きたいのはそんな話ではないだろう。 

 

どう答えるべきか逡巡していると、斧乃木ちゃんは眼を閉じて嘆息はしなかったものの、近い雰囲気を醸し出していた。 

 

それは自分に対する戒めか、僕に対する落胆か、もしくは両方か。 

 

「……ごめん。こんなこと聞いても意味ないよね」 

 

明らかに斧乃木ちゃんが変だ。 

少なくとも僕の知っている斧乃木ちゃんはこんなことを聞くような子ではない。 

 

どうしてしまったのだろうか。 

……これも月火の弊害か? 

 

「ごめんごめん、教養も叡智も解さない鬼いちゃんに答えろっていうほうが酷だったよ」 

 

「おい、それはあまりにも失礼じゃありませんか?」 

 

「だって鬼いちゃんって、ジェロニモっぽいんだもん」 

 

「なんでだよ!いいじゃないかジェロニモ!サンシャイン戦とか名勝負じゃないか!」 

 

ちなみに僕はジェロニモが大好きである。 

人間なのに死闘の果てに悪魔超人を倒す勇姿には子供心ながらにも憧れたものだ。 

決して人間の時の方が強かったとか言ってはいけない。 

 

「誰も弱いとは言ってないよ」 

 

「ぐっ……」 

 

「誰もただの人間とは言ってないよ」 

 

「言ってんじゃねえか!」 

 

明らかな話題の取替えだったが、僕も耐えられそうになかったので良しとしよう。 

 

真面目なのは時々でいい。 

 

こうしていつものやり取りをし、少々斧乃木ちゃんの様子が気になりながらも、その後斧乃木ちゃんと散歩を楽しんだのだった。 

 

 

003 

 

 

僕は知っている。 

 

その硝子玉のような瞳に僕の姿は映っていれども、眼中にはないことを。 

 

僕は知っている。 

 

何を言われたところで、その言葉は記憶に刻まれることなく消えて行くことを。 

 

僕は知っている。 

 

僕のことに関する事象を尋ね耳を傾けながらも、興味など微塵もないことを。 

 

それが気に障る、ということはない。 

 

そもそも始めから彼女にそんなものを期待する方が愚かだ。 

 

それでも、人の形をしていて、動き、話し、食す。 

 

表情を変えはしないけれど、趣を理解する情緒は持ち合わせている。 

 

そんな存在を、人間ではないから、という理由で一蹴してしまうことは、僕には出来ない。 

 

それは、斧乃木ちゃんを否定してしまったら、自分をも否定することになるからに他ならない。 

 

そんなつもりで斧乃木ちゃんに接しているつもりは毛頭ないが、心の奥底に沈澱した醜い感情の中では、僕は彼女を同類と見なすと同時に、見下してすらいるのかも知れない。 

 

『中途半端な僕でも、死んでなお使われる彼女よりはマシだ』と、そんな下衆極まりないことを、思っていないとは完全に否定出来ないのだ。 

 

「おいおいこよみん、何を難しい顔をしているんだい?悩み事があるのなら何でも知ってるおねーさんに相談してみるのも選択肢のうちだよ?」 

 

『その辺でお茶しない?おねーさんが奢ってあげるからさ』 

と臥煙さんに逆ナンされた僕は、浪白公園にてペットボトルのお茶を片手に座っていた。 

 

ジャングルジムの上には影縫さん、それを無言で周囲を歩きながら回す斧乃木ちゃん、ブランコには臥煙さんが、それぞれ僕を対面に構えている。 

何だか今から裁判を受ける罪人の気分だ。 

 

手元には一口だけ飲んだペットボトルのお茶がある。 

 

いや、確かにお茶だけどさ。 

 

確かに奢りだけどさ。 

 

もうちょっと……ほら、あってもいいじゃない? 

 

「いえ、少し考え事をしていただけです」 

 

「ひょっとして余接のことかな?」 

 

「私は何でも知ってる、ですか?」 

 

「まさか。いくら私でも人の心は読めないさ」 

 

皮肉で言ったつもりだったのだが、軽くあしらわれてしまう。 

 

嫌いという訳ではないのだが、やっぱりこの人は苦手だ。 

常に心を見透かされているようで、基本的にあまり出会いたくない人だ。 

 

嫌な予感がする。 

 

様子がいつもと違う斧乃木ちゃん。 

 

予告もなく突然現れた臥煙さんに影縫さん。 

 

そんな前触れは一切無かったにも関わらず、否が応にも殺伐とした空気。 

 

そして何より、悲しいことに僕の嫌な予感は、嫌な結果という形で大抵当たるのだ。 

 

 

004 

 

 

「堪忍な、鬼畜なお兄やん。急に呼び出してもうて」 

 

「お久し振りです、影縫さん」 

 

「とォから余接の面倒見てもろて、おおきにな」 

 

ひらひらとジャングルジムの上から手のひらを振る影縫さん。 

元々無愛想というか、ぶっきらぼうな人だ。 

僕としても散々にトラウマを植え付けられた相手なので、正直なところあまり眼前に立ちたくはない。 

 

「さてさてこよみん、時間がないから手短に話すよ。今日きみを呼んだのは他でもない。きみには恩返しをしてもらいたいんだ」 

 

「恩返し?」 

 

「先に言っておくけれど、残念ながらきみに拒否権はある」 

 

ある……? 

 

ない、の間違いじゃないのか? 

 

「余接からある程度は聞いたと思うけれど、余接はそろそろメンテナンスの時期なんだ」 

 

気付くと、雨が降ってきていた。 

まだ飛沫が薄く、霧のような雨だからか、三人とも気にする様子はない。 

 

「余接は大きく分けて三通りの調整が定期的に必要だ。ひとつ、身体の調整。これは私の仕事。身体の劣化を防ぐ」 

 

僕が先ほど懸念したものだ。 

 

さすがに式神と言えど、素体が生身の死体であれば自然の法則に従って時間の経過と共に腐敗に蝕まれるのは避けようがないのだろう。 

 

「ふたつ、式神としての調整。これは余弦の仕事だ。式神としての劣化を防ぐ。具体的には、式神を操る符呪や咒(まじない)を施す」 

 

どういう仕組みで影縫さんが余接ちゃんを支配下に置いているのはわからないが、それが物理的なものであれまじない的なものであれ、人の手によるものであれば劣化はいずれする。 

斧乃木ちゃんが支配の外に行かないような調整、と考えて差し支えないだろう。 

 

「そしてみっつ、魂の調整」 

 

魂の、調整? 

 

「知っての通り、余接は死体の付喪神や。今ここにおる斧乃木余接と、この死体に宿っとった人格は全くの別物になる」 

 

斧乃木ちゃんが、斧乃木ちゃんではなかった頃。 

 

斧乃木余接』ではなく、名も知らぬ童女だった頃。 

 

それは確かに存在する。 

斧乃木ちゃんが作られた人形でない限り、『人間だった頃』は必ずあったのだ。 

 

「その『かつて斧乃木余接ではなかった』という事実が、拒否反応に近い現象を起こすんだ」 

 

「最近、何や心当たりあらへんか?」 

 

心当たりなら、ある。 

 

斧乃木ちゃんは夢を見た、と言った。 

それに、斧乃木ちゃんらしくない問いまで。 

 

「…………」 

 

いや、そんなのは些細なことだ。 

 

それよりも気になるのは。 

 

僕らの話なんてそこのけに、他人事のように枠登りの周りをぐるぐると周り続ける童女の存在。 

 

なんで、斧乃木ちゃん本人はあんなに静かなんだ? 

 

「なに、鬼いちゃん。熱視線を感じるけれど」 

 

「いや……斧乃木ちゃんのことなのに、本人が蚊帳の外だからさ」 

 

「そりゃあ、僕には関係ないんだから、蚊帳の外も仕方がないよ」 

 

「関係ないって」 

 

「僕は……いや、死体は『もの』だよ、鬼いちゃん。かつて魂が宿っていたとしても、ここにあるのはヒトの抜け殻だ」 

 

だから、だから関係ないって言うのか? 

 

「いいかい鬼いちゃん。僕は僕に興味がない。でも壊れたらお姉ちゃん達が困るから、こうして来ているだけだよ」 

 

自分は道具に過ぎないから、命もない確固とした意志もない人形だって言うのか。 

 

そんなの、あんまりじゃないか。 

 

例えそうだとしたって、きみは何度となく僕を助けてくれたし、とても血の通わない操り人形とは思いたくはない程に人間らしいじゃないか。 

 

何を言うべきかの葛藤の中で固まっている僕の元に、斧乃木ちゃんがやって来る。 

立ちっぱなしで俯く僕の顔を掴み、顔を近付けて来た。 

 

「鬼いちゃん」 

 

寒い。 

 

なんだこの寒さは。 

 

雨はまだそれほど降っていないのに、呼吸をしたら肺の中まで凍りついてしまいそうな程に、寒い。 

 

斧乃木ちゃんの顔が更に、口付けを出来るほどに近くなる。 

 

怖い。 

何も映っていない瞳。怖い。 

寒い。感情を全く灯さない声。怖い。 

体温を全く感じない両手。怖い。 

怖い怖い怖い。 

 

「『僕を何だと思ってたの?』」 

 

数秒前、斧乃木ちゃんが人間らしいだなんて、甘白いことを思っていた自分を呪いたくなる。 

 

馬鹿を言うな。 

下手をしたらキスショットとの邂逅時よりも怖い。 

 

その怖さは直接恐怖を煽るものではなく、目に見えないものが毎日、人間を殺して回っているといったような、薄ら寒くそれでいて実体の掴めない恐怖。 

 

虚無がこれ程にも恐怖を煽るものだとは、思わなかった。 

 

思わず口から悲鳴がこぼれそうになる。 

 

「ひ……!」 

 

と、その時。 

 

「余接、おいたはその辺にしとき」 

 

影縫さんが、暴風の如き殺意とともに何かを口走った。 

 

瞬間、何かが弾けるかのように、軽度の衝撃と共に視界が砂埃で覆われる。 

 

眼前で何かが爆発を起こしたのかと錯覚する程の爆風に視界を閉ざす。 

 

「う……あれ?」 

 

ようやく収まった頃に眼を開けると、そこには何も無かった。 

 

「逃げよった」 

 

影縫さんがジャングルジムの上で薄く笑っている。 

 

斧乃木ちゃんが、『例外のほうが多い規則(アンリミテッド・ルールブック)』を使用しその場を去って行ったらしい。 

 

あまりにも唐突で予想外の展開に、僕はしばらくの間、ようやく本格的に降り出した雨の中、茫然と佇んでいた。 

 

 

005 

 

 

「すまんな、鬼畜なお兄やん。身内のゴタゴタに巻き込んでもうて」 

 

「あ……いえ」 

 

斧乃木ちゃんの変貌、畏怖の濃度に晒された身体が、ようやく呼吸の仕方を思い出す。 

 

あんな、あんなにも、命を持たない者の圧迫感が怖いとは思わなかった。 

 

それもそうだ、手折がそうだったように、元々死んでいる者は死を恐れない。 

人間にも命知らずという言葉があるように、死を決意して臨む者が凄烈な気迫を見せる事がある。 

 

だが、斧乃木ちゃんのそれは違う。 

最初から死んでいる者の気迫は、ひたすらに冷たく薄ら寒い。 

 

気圧される、どころの話ではない。 

こちらの戦意を、一斉に黒く塗り潰してしまう絶対零度の畏れだ。 

 

慣れとは恐ろしい。 

いつもふざけてじゃれあっていた斧乃木ちゃんが、式神だということを半ば忘れていた。 

 

彼女は、いくらあんな形をしていようとも、怪異だということを。 

 

「こよみん、死体ってのはさ、とてもとても保存しにくいものなんだ」 

 

「え?」 

 

どこから取り出したのか、いつの間にか傘をさしていた臥煙さんからのいきなりの言葉に、呆気に取られる。 

 

今日は予定になかった事もあって、天気予報も見なければ傘も持ってきていない。 

雨を避けられるような天蓋つきの場所へと移動するも、影縫さんは地面を歩けない為にびしょ濡れだ。 

本人は気にしていないようだからいいのかも知れないけれど。 

 

話を戻すが、それはなんというか、寝耳に水ではないが意外な言葉だった。 

 

だって、斧乃木ちゃんは死体の付喪神だけれど、無表情な点を除けば普通の女の子と変わりはない。 

 

無論、死んだ人間の肉体が放っておけば腐って土に還っていくことは知っている。 

産まれ、生き、死に、土に還る。人間にも例外なく適応される、生物に課せられた自然の理だ。 

 

「でも、五千年以上昔のミイラとかが今もあるじゃないですか」 

 

「ミイラは脳から内臓まで何もかも取り去って代わりに樹脂やオガクズを詰めたものだよ。それにあれは保存目的と言うよりは宗教的側面の色合いの方が遥かに強い」 

 

言われてみればそうだ。 

ミイラは権力者が死後も権威を誇示するために作る象徴のようなものだ。 

 

「じゃあ、斧乃木ちゃんは……」 

 

「余接が特別なんだよ。余接は臥煙一族が総力を掛けて人間の死体を『もの』として百年扱った結果、産まれた付喪神だ。化物作りの臥煙だからこそ可能だったというだけで、百年以上人間をそのままの状態で保存するなんてそれこそ正気の沙汰じゃない」 

 

「そもそも、仏さんを式神にする例は僵尸……キョンシーしかあれへん」 

 

キョンシーならば僕でも知っている程に有名だ。 

死体に札を貼って操る術で、死後硬直を表現するために両腕を前に突き出している描写が多い。 

わかりやすい例ではレイレイだ。 

レイレイ可愛いよね。 

 

日本では火葬の文化があるからそもそも死体は残らないもの、という概念の方が強い。 

その為か、日本には死体をモチーフにした妖怪、外国で言うキョンシーやゾンビーは意外と少ないのだ。 

すぐに思い付くところで狂骨くらいだが、あれは肉体は既に無く骨だけだし。 

 

……そんな事より。 

 

「……何が言いたいんですか?」 

 

待っていた、と言わんばかりに口元を歪める臥煙さん。 

 

「余接が私たちの手によって作られて、もう十年以上が経つ。が、まだ余接を完全にものに出来たとは言えなくてね」 

 

「うちらの目的は、『斧乃木余接』を確立させることや」 

 

「それは、斧乃木余接ではないかつての人格を、『殺し切る』と。そういうことですか?」 

 

斧乃木ちゃんの前の人格なんて、僕が知る訳もない。 

 

だけれど、どんな事情があったにせよ、あの歳で死んで、死んだ後も式神として使役される童女を哀れんではいけないのか。 

 

「死人の為に出来ることなんて、なんもあれへんわえ」 

 

ふと、何かが切れたかのように、急激に心中が冷静になる。 

 

雨の音が一粒毎に聞こえるようだ。 

 

「……影縫さん。先に謝っておきます」 

 

「……?先て、何の先や」 

 

「僕が生きている内に謝っておく、ということですよ」 

 

これ以上、自分を留められる自信はない。 

 

臥煙さんはともかく、影縫さんに殺されない、という保証もない。 

 

……けれど。 

 

「はあ?」 

 

「死体を操るなんてドン引きするようなことを大の大人が何人も揃ってやっておいて、その上達観したつもりでもいるのかよ」 

 

「…………」 

 

だからって、黙っていられる程に僕はまだ歳を食っちゃいない。 

 

ふと、風来の専門家を思い出す。 

あいつならこういう時、なんて返すのだろう。 

 

「何が死人に出来る事はない、だ。死体はお人形じゃないんだぞ。いくら中身が枯れたからって、その死体に宿っていた人間にだって感情はあったんだ。人生があったんだ。物語があったんだ。それを無視して蔑ろにして見て見ぬ振りをして自分たちの目的の為だけに斧乃木ちゃんを使役しているというのなら――――」 

 

ああ、胸糞が悪い。 

 

こんなにも気分が悪いのは、いつ以来だろうか。 

 

「お前達は、僕も含めて死人にも劣るクズだ」 

 

ここまで言うのであれば、ここまで深入りするのであれば、僕も同罪に他ならない。 

 

成り行きとは言え、その斧乃木ちゃんに何度も助けられているのは僕だ。 

だったら僕にもその一端を担う資格は、ある。 

 

臥煙さんが言った通りに、僕には関わらずにやり過ごす選択肢もあった。 

こんな荷物は放り出してしまった方がいいに決まっていたんだ。 

 

でも、放ってなんかおけない。 

 

だって、斧乃木ちゃんの一大事じゃないか。 

 

ここは義理人情の世界ではないが、受けた恩を返せる機会をそのままにしておけるほど、僕はまだ阿良々木暦を終われていない。 

 

「……うちらの事情もよう知らん余所もんが、よくもまぁそこまで吹くやないか」 

 

アホ毛の先端がちりちりと疼く。 

 

肌は発せられる殺気を受けてひりつく。 

 

当たり前だけれど、死と相対するのは何度やったところで慣れるもんじゃないな……。 

 

だけど、ここで退いてたまるか。 

 

「ああ、僕は斧乃木ちゃんのことなんてほとんど知らない。でも、斧乃木ちゃんはもう他人じゃない」 

 

そう、他人ではない。 

 

無口で、無愛想で、たまに口を開いても辛辣で、キャラが安定しなくて、性格の悪い可愛げの欠片もない斧乃木ちゃんではあるけれども。 

 

阿良々木家家訓。 

一度でも同じ屋根の下で一晩を過ごした者は、家族だ。 

今考えついたが中々どうして間違っちゃいない。 

 

……あれ、そう考えると僕が一夜を共にしたのって、家族と忍を除けばひたぎと斧乃木ちゃんくらいしかいないんじゃね? 

 

羽川は虎の件で僕の家に泊まったらしいけど、その時僕、いなかったしな……。 

 

あの後一ヶ月は羽川の残り香で大変だったと言うのに。 

母親(と月火ちゃん)相手に布団を干すのを断固として拒否した程だ。 

結果としてお小遣い一ヶ月抜きの刑に処された訳だが、羽川臭の香水を買ったと思えば安いものだろう。 

 

とにかく、だ。 

 

何が可笑しいのか、くつくつと笑いを耐える臥煙さんに、空を見上げて呆れたように息を吐く影縫さん。 

 

「いやいや、いいねえ若いってのは」 

 

「うちの負けや、鬼畜なお兄やん」 

 

「え?」 

 

「おどれの、言う通りや」 

 

本格的に降り出した雨の中、影縫さんは今まで見たこともない表情で、僕を見据えていたのだった。 

 

 

006 

 

 

どうして死ぬのが怖いのか、僕にはわからない。 

 

僕にとって死は『停止』だ。 

そもそも作り物の魂に死を恐怖する機能なんて、ついていたって邪魔なだけだ。 

人のために産まれた僕は、人がいなくなったら消えるだろう。 

 

例え人のためにと造られた僕でも、これだけはわかる。 

 

産まれる時から悲惨で醜悪な過去しか存在せず、産まれた後も明るく救いのある未来など与えられない。 

 

人よりも丈夫で強く出来ている僕だけれど、人に依存して、人に命を下され、人に嫌われる。 

 

極論になるけれど、怪異とは、各々が人の多すぎる感情を映しとった鏡のようなものだ。 

 

こうありたい。 

こうなりたくない。 

 

人の理想、呵責、希望、絶望、嫉妬、慢心、欲、怨恨、劣等感、嫌悪、無念、恥、後悔、憧憬、愛憎、あらゆる感情から構成されている。 

 

キスショットの場合は、憧憬と絶望が同居していると言える。 

不死身で絶対的な力を持った吸血鬼という存在になりたいという憧憬に、人よりも優れた生物がいなくてはならないという前向きな絶望。 

同時にその反面、ああはなりたくないという蔑視から、キスショットは産まれた。 

 

僕の場合は、『死なない』という羨望と、『死ねない』という悲哀を内包している。 

 

そう考えると、怪異は総じて報われない。 

人間の負の部分を押し付けられた汚れ役だ。 

共通点として、人が人としての矜恃と威厳を護るための存在、とも言える。 

 

「…………」 

 

気付くと、北白蛇神社の境内へと来ていた。 

 

ここの神様である八九寺真宵は見当たらない。 

迷い牛の頃の名残で神様のくせに外出が好きな彼女のことだから、また散歩だろうか。 

 

賽銭箱の上に腰掛け、入り口を正面に据える。 

 

時間は、いつの間にか夜になっていた。 

 

僕は、今の僕の状態を把握している。 

 

一つの身体に、二つの魂。 

僕である斧乃木余接と、かつてこの肉体に宿っていた、名前も知らない女の子の魂。 

 

本来ならば既に成仏した彼女の魂だけれど、その残滓とも言えるものが、未だこの身体に遺っている、というのがお姉ちゃんたちの見解らしい。 

 

僕としては違う人格が入っているなんて自覚もないから、よく分からない。 

 

僕は斧乃木余接であって、それ以上でもなければそれ以下でもない。 

 

乱暴な物言いをするのならば、式神として必要な能力を持ち得るのであれば、『僕が僕である必要すらない』。 

 

……だったら、何故僕はここにいるんだろう。 

 

人間は命を持つ。 

命を持つ以上は何の垣根もなく存在する理由となる。 

自分の存在理由を問う人間が多いと聞いたことがあるけれど、僕から言わせれば、『生きている』というだけで立派な存在理由だ。 

 

反して僕に命は無い。 

 

命が無いのならば、存在するのにそれ相応の理由が必要だ。 

 

僕の理由は、なんだっけ。 

 

「あや?そこにおわすのは小此木さんではないですか」 

 

鳥居をくぐり、リュックサックを背負った少女がやって来る。 

 

この北白蛇神社の主たる神、八九寺真宵だ。 

 

「……僕はそんなアルカイザーに変身しそうな名前じゃない。僕の名前は斧乃木だ」 

 

「失礼、噛みました」 

 

「違う……わざとだ」 

 

「貸しました……30万円ですね。では、10日後に45万円お返しください」 

 

「……闇金?」 

 

トゴとは暴利にも程がある。 

 

「世の中お金ですよ、お金」 

 

そう言いながら賽銭箱を覗き、嫌らしい笑みを浮かべながら親指と人差し指で輪っかを作る。 

どこかでちゃりーん、と音がした気がした。 

 

「でもこのご時世ですし、あまりお賽銭も期待出来ません。実際少ないですし」 

 

「賽銭を高金利で貸し付ける神様ってのもどうかと思うけどね」 

 

そんなのだから信仰がないんじゃないの? 

 

「この世に暴利など存在しない……っ!……と何処かの偉い人も言っていましたよ?」 

 

そりゃ、もう何処からもお金が借りられず、後がない人にとっては神様なんだろうけど。 

 

……それよりも、彼女がどうやって取り立てするのか、そっちの方が気になる。 

凄んでも全然怖くなさそうだし、腕っぷしも絶対弱いだろうし。 

 

「ところで斧乃木さん、何か御用ですか?」 

 

「ん、ああ……家出、かな」 

 

明確には全然違うけど、似たようなものだろう。 

鬼いちゃんをガン付けでびびらせちゃったし、思わず逃げちゃったからお姉ちゃんに怒られるのは確定だ。 

 

「家出ですか!そりゃあ阿良々木さんの家なんかにいたら毎日セクハラされちゃいますしねえ」 

 

わかりますわかります、と勝手に頷く八九寺真宵。 

 

そう言えば僕と忍様と並んで、鬼いちゃんのセクハラを受け続けてきたトップスリーだ。 

鬼いちゃんの名誉の為に言っておくと、実際、鬼いちゃんは毎日のように僕のスカートをめくってくる。 

僕が人形のフリをしているのをいい事にやりたい放題だ。 

いつか天罰が落ちるだろう。 

 

「それでも、帰る家があるだけいいと思いますよ」 

 

よっこい正太郎、と奇妙な掛け声と共に隣に座る。 

 

何だろうこの空気。 

もしかしなくても、八九寺真宵は僕のことを慰めよう、もしくは諭そうとしているのだろうか。 

はっきり言って勘違いもいいところだし、もっと酷いことを言ってしまえばめんどくさいんだけど。 

 

「そうかな」 

 

「ええ」 

 

とりあえず、適当に返事をする。 

 

相手はこんななりをしていようとも神様だ。 

まだ神として力は弱いとはいえ、いつぞやの忍様の二の舞はもうこりごりだ。 

 

それに明確には僕の家じゃないんだけどね。 

実際、人形としているだけだし。 

 

「それに私は、半ば家出したまま死んじゃったようなものですから」 

 

そうだった。 

彼女は、八九寺真宵は、確か父親に黙って別れた母親に会いに行こうとして、青信号を渡り命を落とした。 

その後はいつまでも家に帰れない、人を迷わす怪異として生まれ変わるのだが――――。 

 

「……死ぬ?」 

 

ぷつん、と。 

 

「……死ぬって、なんだっけ」 

 

何かが、切れたような音と共に。 

 

「斧乃木さん?」 

 

意識が。 

 

「……だ」 

 

死。終末。停止。死亡。膠着。終焉。死没。逝去。他界。死去。不祝儀。薨去。絶命。永眠。蓋棺。絶息。閉眼。往生。昇天。死。死。死。死。死。 

 

「え?」 

 

「……いやだ」 

 

 

しぬのは 

 

こわい 

 

 

007 

 

 

「二人とも北白蛇神社に行くんだ、余接はそこにいる。余弦も『歩けるように』細工を施しておいた」 

 

と、臥煙さんの言葉により、扇ちゃんのマウンテンバイクを盛り漕ぎで駆りながら北白蛇神社へと向かう。 

 

降り続ける雨にもう身体中びしょ濡れだが、致し方ない。 

 

「いた、斧乃木ちゃん!」 

 

影縫さんを肩に乗せ、北白蛇神社の境内に辿り着いた僕たちを迎えたのは、全身を震わせる程の激音だった。 

 

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」 

 

「な……!?」 

 

凡そ人とは思えない、ましてや斧乃木ちゃんのような小さな女の子が発するには相応しくない、悲痛な叫喚が響き渡る。 

 

思わず耳を塞いだ。 

音を多分に吸収するという水分、雨の中でもそれは十二分に鼓膜を刺突する。 

 

声と表現するよりは、音。 

 

声帯をどのように使用すればあんな音が出せるのか、そんな慟哭だった。 

 

偶然居合わせたのであろう、隣にいた八九寺があまりの大音量に気を失っていた。 

無理もない。身近な存在であり、生きて行く上で重要な要素として占める音も、度を過ぎれば人を殺傷し得るのだ。 

 

「……難儀なやっちゃ、わやくちゃやりよって」 

 

鳥居を潜ると、影縫さんが地面に降り立つ。 

 

聞けば、影縫さんがいつも地に足を着けないのは、斧乃木ちゃん関連の『呪い』らしい。 

そりゃ、好きで地面を歩かないなんて変人はいないか。 

 

仕組みはよく分からないが、今回、この境内に限り臥煙さんが『呪い』の発動を抑える結界か何かを張ったらしい。 

 

「――――――――――!!」 

 

もう、音にすらなり得ない雑音を喉から撒き散らしながら、斧乃木ちゃんは目にも止まらぬ猛スピードで襲いかかってくる。 

 

「うわぁっ!?」 

 

『例外のほうが多い規則(アンリミテッド・ルールブック)』を加速装置として使用しての、原始的な体当たりだ。 

単純にして、強力な攻撃。 

 

そのまま交通事故のように後方へと吹き飛ばされるのかと思いきや、目の前には相撲のように四つに組んだ影縫さんと斧乃木ちゃんの姿があった。 

影縫さんが庇ってくれたらしい。 

 

斧乃木ちゃんも大概だが、足元の石畳が抉れる程の衝撃を顔色一つ変えずに受け止める方も受け止める方だ。 

 

「十年越しの反抗期……受け止めたるわ、余接」 

 

「…………っ」 

 

「うちは、おどれの姉やんやからな」 

 

対する斧乃木ちゃんを見て思わず戦慄する。 

 

その表情は、とてもではないが戦う者のそれではなかった。 

 

虚無だ。 

 

喜怒哀楽の欠片も見当たらない、完全な無表情。 

いつも無表情だった斧乃木ちゃんでも、慣れると多少の機微はわかるようになる。 

だが、今の斧乃木ちゃんにはその僅かな感情の揺れ動きさえ存在しない。 

 

あれが、本当の『死体の表情』だ。 

 

「うああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」 

 

その、正に人形同然の表情で狂音を発するその様は、シュールどころの話ではない。 

 

おぞましい、という表現も適切ではない。 

 

ただただ、惨めに映る。 

 

「影縫さん!」 

 

二人の力はほぼ互角なのか、影縫さんが手加減しているのか、がっぷりと組むこと数十秒。 

 

痺れを切らした斧乃木ちゃんが、大口を開けるのが見えた。 

 

「ぐ…………!」 

 

影縫さんの肩への噛み付き。 

恐らくは人類で最も歴史の古い攻撃方法。 

 

本来ならば進化の過程で弱体化した人間の咬筋では、獅子や犬に代表される野生の動物のそれには遠く及ばない。 

が、痛みを厭わない斧乃木ちゃんならば、人の肉体を噛み千切る程度の芸当はしてのけるだろう。 

 

「この……あほたれ……!」 

 

肩を喰い千切られ、距離を取る影縫さん。 

出血する患部を手で押さえながら、苦笑いを浮かべる。 

あのキスショットでさえまともに勝てるか疑問符が浮かぶ影縫さんを退かせるあたり、流石は斧乃木ちゃんと言ったところか。 

 

いや、感心している場合じゃない。 

影縫さんの怪我は、肩の肉ごと抉れているものの鎖骨までは到達していないようだ。 

ならば出血も大したことはないだろう。 

 

「斧乃木ちゃん……」 

 

口の周りを主人の血に染め、肉片を唾棄するがごとく吐き出す斧乃木ちゃん。 

 

いや、斧乃木ちゃんではない。 

 

あそこにいるのは、影縫さん、臥煙さん、貝木、忍野、手折、そして僕の咎だ。 

 

僕たち生者が、あのいびつな死者を作り上げてしまったのだ。 

 

「僕が……相手だ!」 

 

言葉は辛うじて通じるのか、標的を僕に変えたらしく、彼女は身体をこちらに向ける。 

 

心渡は使えない。斧乃木ちゃんごと斬ってしまう。 

 

忍のエナジードレインも望み薄。死者の原動力はどす黒い感情だ。 

 

ならば。 

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!」 

 

もはや声帯も正常に動作しないのか、音と呼ぶことすら至難な叫びと共に彼女は僕に向かって射出を開始する。 

 

影縫さんですら止めるのが精一杯だった突撃を止められるとは思わない。 

 

だが、何としても止めなければならない。 

 

ここで決着を着けなければ、僕が止めなければ、『斧乃木余接』が失われてしまう。 

 

「ぐ、ぅ……っ!!」 

 

斧乃木ちゃんの身体がまるでカノン砲の砲弾のように突き刺さる。 

 

足と腹筋に全力を傾け踏み止まることを試みるも、地面を削りながら後退は止まらない。 

 

呼吸が止まるのは無論のこと、一瞬で身体がバラバラになりそうな感覚に陥る。 

 

背骨が今にも折れるぞと言わんばかりに悲鳴を上げている。 

 

激痛に気絶しそうになるのを、舌を噛んで堪える。 

 

ふと、このまま鳥居を越えて空中に放り出されるのかと思っていた身体が、急ブレーキをかけたかのように止まった。 

 

「このどあほ……無茶すんなや……!」 

 

背後には、影縫さんが僕を支えてくれていた。礼は後だ。 

 

「う……よ、よく聞け、そこの童女……!」 

 

肺から空気をねじり出すようになんとか声を発する。 

 

彼女を突き動かすのが感情ならば。 

 

その感情を、均してやればいい。 

 

「『××××』」 

 

「……なに、それ」 

 

僕の呟いたその単語を受け、彼女は動きを止め、初めて言葉を紡ぐ。 

 

本当は聞かなくても知っている筈だ。 

 

斧乃木余接の記憶上は単なる一単語でしかないその言葉だが。 

 

それは。 

 

「君の、名前だ」 

 

「…………」 

 

臥煙さんから渡された切り札。 

 

今となっては誰も知ることのない歴史だ。 

 

「僕は君を知らない。君がどんな性格で、どんな経緯を辿って今ここにいるのかもわからない。けれど」 

 

そこには、悲しい過去があったのかも知れない。 

 

どんな過程を経ようが、死んでなお百年以上も保存されるなんて境遇は、とてもじゃないがまともとは言えない。 

 

その事を憐れむことも、保存を施した当人を責めることも、僕には出来ない。 

 

「斧乃木ちゃんは、僕らにとって大切な存在だ」 

 

だが、斧乃木ちゃんを失う訳には行かない。 

 

単なる勝手な我儘だ。 

 

最初は自然の摂理に逆らって臥煙の人間が行った、理外の所業だけれど。 

 

「きみが必要なんだ、斧乃木ちゃん」 

 

百年の月日を経て、斧乃木余接として必要とされる存在に昇華された。 

 

少なくとも、斧乃木余接を失うと悲しむ人間がここにいる。 

 

それじゃあ、駄目なのか? 

 

「駄目だ。僕を殺してよ、鬼いちゃん。でなければ」 

 

でなければ、みんなを殺してしまう、と斧乃木ちゃん。 

 

なんだ、意識があるんじゃないか。 

 

「自分を蔑ろにするのは、やめてくれよ、斧乃木ちゃん」 

 

そんな、自己犠牲ではないが自分は式神だから、死体だから、と軽んじるのは、やめてくれ。 

 

「僕は死体だ。式神だ。その無機質な存在を鬼いちゃんはあたかも人間のように扱う。おかしいよ」 

 

「ふざけんな!まだ自分がどれだけ必要とされてるのかをわかってねえのかよ!」 

 

「…………」 

 

「どうでもいい式神のために肩を削ぎ取られてまで止めるか!?どうでもいいものの為に命を賭ける訳ないだろう!」 

 

「もうええ余接、今回のおいたはなしにしといたる」 

 

背後で僕を支えていた影縫さんが、呆れも混じりに話し掛ける。 

 

意外なことにそらは、まるで母親のように、優しい声だった。 

 

「せやから、戻って来んかい」 

 

「お姉、ちゃん……」 

 

頭を押さえ、一歩後退する斧乃木ちゃん。 

 

恐らくは、斧乃木余接と以前の宿主が衝突し合っているのだろう。 

 

臥煙さんが言っていた。 

今回のケースは、臥煙の不手際だと。 

とっくの昔に成仏したと思っていた魂が、なお死体に宿っているなんて夢にも思わなかったそうだ。 

 

そして、一つの身体に二つの人格を共存させた事により衝突が起こる。 

 

今までの状態を保つ為に必要なのは、かつての人格の鎮静化と、斧乃木余接という人格の自立だ。 

 

死者を突き動かす恐怖、怨恨といった感情に打ち勝つには、斧乃木余接が感情を得る必要性が出てくる。 

それが出来なければ、斧乃木余接は死者の劣情のままに手当たり次第破壊を繰り返す殺戮人形として処分される。 

 

「作り物だからってなんだ。死者だからってなんだよ。きみはこうして大勢から必要とされているじゃないか」 

 

無機物に、人工の造形物に命は宿らないのかも知れない。 

第一、作るもの全てにいちいち意識があったら大変だ。 

 

だが、付喪神の考えは同感できる。 

 

人間に触れ続けてきた人工物や無機物が意識を持って、やがて命を持つ。 

何ともロマンチックじゃないか。 

そして命を持つのならば、心も形成されて当然だ。 

 

それに。 

 

怪異が人間がいないと存在できないように。 

 

誰かから必要とされる存在に、意味がない訳がない。 

 

「ねえ、『お兄ちゃん』」 

 

「うわ……」 

 

間抜けな驚きの声を隠せなかった。 

 

影縫さんも同様だったらしく、背後で小さく笑っている。 

 

なんせ、斧乃木余接が笑っていたのだから。 

いや、彼女は斧乃木余接ではないから笑えて当然か。 

 

「私のこと、私の新しい中身……斧乃木余接ちゃんのこと、好き?」 

 

それは、紛うことなき彼女が問いたかった真実だろう。 

 

何てことはない。 

彼女はただ、寂しかっただけなんだ。 

 

「ああ、大好きだ。結婚してくれ」 

 

「それは、余接ちゃんに言ってね」 

 

そう言うと、彼女は年相応に可愛く笑って、ばいばいと手を振った。 

 

私の身体に宿った新しい私を大事にしてね、と。 

 

そう言われた気がしたのだ。 

 

 

008 

 

 

「お疲れ様だね、二人とも」 

 

この瞬間にことが終わることを把握していたかのように、神社の階段を登り臥煙さんは現れた。 

 

境内では、ようやく八九寺が目を覚ましていた。 

仮にも神様の癖に全く役に立たなかったな、こいつ……。 

 

「はれ……?」 

 

「大丈夫か、八九寺」 

 

「阿良々木さんにプロポーズされる悪夢を見ました……」 

 

「そうか、それはきっと正夢だな」 

 

たぶん、さっきの斧乃木ちゃんに向けた言葉だろう。 

って、悪夢なのかよ。 

 

「鬼いちゃん」 

 

「お疲れ様、斧乃木ちゃん」 

 

もう彼女は完全に消えたのか、いつもの斧乃木ちゃんがそこにいた。 

 

今度は、きちんと成仏出来ているといいな。 

 

「えっと、その……なんというか、ごめん」 

 

どう謝っていいのかわからない、といった感じでそんな言葉を漏らす。 

 

ひょっとしたら謝ったことすらないのかも知れない。 

命令を受け、それを忠実にこなすだけの能力を持つ斧乃木ちゃんには、今まで謝る必要もなかったのだろう。 

 

殊勝な斧乃木ちゃん。レアだ。 

デレるひたぎさんくらいのレアだ。 

 

「いいよ、殺された訳でもないし」 

 

「死ぬのは駄目だよ、鬼いちゃん。あれはダメだ。あれはよくない」 

 

「あれ、って……」 

 

「うん、思い出した。思い出したっていうか、思い出さないようにしていたんだと思う」 

 

人はあまりにも辛い記憶があると、防衛本能が働きその記憶を綺麗さっぱり忘れてしまう、というケースがあるらしい。 

けれどその記憶自体が無くなるわけではなく、無意識の底に沈めているだけであって、確実に存在はする。 

覚えているだけで生きることを阻害する記憶を、脳が意思とは無関係に見えない場所へ――つまり無意識へと隠すのだ。 

 

堆積した泥の奥底深くに埋めるように、そう簡単には見つからないように。 

 

「……辛いか、斧乃木ちゃん」 

 

「別に。思い出したからって何か変わるわけでもないよ。僕が人間だった頃に戻るわけでもないしね」 

 

影縫さんに聞いたところによると、斧乃木ちゃんの身体の構造として、脳は命令系統の基礎としてしか使用していないらしい。 

つまり、記憶や思考というものは斧乃木ちゃんの頭蓋内に収まっている脳には蓄積しない。 

じゃあ人間関係や現代の常識のような記憶は何処に蓄積されてるんだ、という話になるのだが、その辺りは聞いてみたが専門用語ばかりで仕組みは全くもってわからなかった。 

 

まあ、要約すると『斧乃木余接』という存在に記憶その他諸々を刻んでいる、ということらしい。 

魂みたいなものだろうか。 

 

脳という器官は人間において最も複雑かつ繊細なもので、人類が始まってから未だ大半が解明されていないブラックボックスだ。 

だが、現代において情報処理用のチップが人間の脳を目標として作られるように、反面とてつもなく高性能でもある。 

 

僕らが普段使用しているパソコンや携帯電話の情報処理はノイマン型と呼ばれ、プログラムに従って命令を順番にひとつひとつこなしていくものだが、脳はそれを同時並行で処理出来る……らしい。 

 

羽川を例に挙げてわかりやすく例えよう。 

 

羽川翼を認識する際、ノイマン型コンピュータは羽川の性別、身長、指紋、声紋、血液型などのデータを全て入力した上でそれらをプログラムに従い照合し、『限りなく羽川翼である』と認識する。 

 

だが僕だったら一目見ただけで僕の脳は羽川を羽川翼と認識する。 

それは羽川の外見は勿論、雰囲気や体格(主に胸部)、声や時には匂いなどを並列的に一瞬で処理し、『ああ、彼女は羽川だ』と認識するのだ。 

 

言い換えてしまえば詰まる所は『経験』だ。 

とはいえ、コンピュータに頭の良さで勝てるかと言われれば全くもって自信はないけれど。 

 

話が逸れてしまったが、脳を極力使わない、という方針には使用による劣化を防ぐという理由もあるが、何より拒否反応を起こすことが一番の問題、だそうだ。 

 

述懐したように、ベースとなった身体が、『斧乃木余接』という人格を受け入れない。 

一つの身体に二つの人格――いや、魂、が入ることを身体が拒否するのだ。 

 

多重人格も人間には多数存在するが、例え多重人格だろうとベースとなる魂は必ずあって、そこから精神が派生するだけだ。 

化物作りのプロフェッショナルである臥煙一族でも、そこだけはどうにもならないらしい。 

 

人は死んだ後でも記憶は残る。 

 

言葉通り、死んでも忘れないことは忘れないのだ。 

 

「でもまあ、僕が人間だった、って数少ない証拠でもあるから。鬼のお兄ちゃんの顔を立てて大事にしてあげるよ」 

 

「……それはどうも」 

 

達成感といつもの斧乃木ちゃんの辛辣な言葉からか、どっと疲れが襲う。 

 

思わず目の前にいた童女に倒れかかるようにハグをしてしまった。やったぜ。 

 

抱き締めた斧乃木ちゃんの身体は、予想に反せず冷たかったが、超柔らかかった。 

 

「ちょっと、鬼いちゃん。こんなみんなが見てる前で」 

 

「うるさい、黙ってろ」 

 

無表情のままお決まりの反応を示す斧乃木ちゃんの身体を、更に強く抱き締める。 

 

これは愛情や恋情、慕情なんかじゃない。 

 

友情でもない。 

 

人情でもなければ恩情でもない。 

 

色情や劣情でもないことは無論のこと、同情ともまた違う。 

 

僕は風情もなく強情にもある意味純情な斧乃木ちゃんの心情と内情を、事情も知らずに激情の下に晒してしまった。 

 

彼女にとっては非情であり無情な、大きなありがた迷惑だったことだろう。 

 

それでも、情であることは間違いない。 

 

斧乃木ちゃんが好きだとか、そんな陳腐な理由じゃなく、斧乃木ちゃんは僕にとって掛け替えのない存在のうちの一人だ。 

 

僕は斧乃木ちゃんをもっと知りたかった。 

それは確かなものだ。 

 

その事で彼女を傷付けて踏み躙ってしまったけれど――――強がりを言わせてもらうのであれば、後悔はあまりしていない。 

 

「おうおう、お熱いこっちゃ」 

 

「駄目だよこよみん、余接を嫁にしたかったら私と余弦を倒さないと認めないよー?」 

 

「そりゃ無理です」 

 

僕が完全に吸血鬼化したところで難しい気がする。 

何しろ力の一千万と技の一千万だ。 

この二人が組んだらどんな化物でも勝てる気がしない。 

 

「なんだよ、諦めるの早すぎるんじゃないの」 

 

「ひたぎや羽川を敵に回した上で史上最強の姑が二人もついてくる……そんなのは頼まれても御免だ。悪い夢にも程がある」 

 

「そうだね」 

 

「納得しちゃうのか……」 

 

「僕も鬼いちゃんとつがいだなんて、ごめんだ」 

 

「……おお」 

 

「これはこれは、ツチノコよりも珍しい」 

 

二人の声に反応して振り向くと、二人はあり得ないものを見るように、目を見開いていた。 

あんな影縫さんと臥煙さんを見るのは間違いなく初めてだ。 

 

不審に思って、身体を離して斧乃木ちゃんの顔を見る。 

 

と。 

 

「……なんだ、似合うじゃないか」 

 

くしゃくしゃと斧乃木ちゃんの頭を撫でる。 

 

本音で鬱陶しそうに僕の手を撥ね退ける斧乃木ちゃんの表情が。 

 

確かに、本当に僅かにだけれど、笑っていたのだった。 

 

 

009 

 

 

後日談というか、今回のオチ。 

 

「リーチ……っ」 

 

九巡目、八九寺が牌を横に曲げ、千点棒を放り投げる。 

 

ざわざわと血液の流れる音が耳朶を打つ。 

僕の手は面前混一のイーシャンテンだ。 

そして手の中に安牌はなし。 

 

ええい、ここで引いたら男がすたる! 

 

ギャンブルは男の美学だ! 

 

「スジだ!どうだ八九寺、当たれるものなら当たってみろ!」 

 

「御無礼、ロンです。リーチ一発純チャン二盃口ドラ四……おっと、裏が乗って親の数え役満ですね?」 

 

「なあああ!?」 

 

馬鹿な、なんで僕ばかりこんな目に!? 

 

唐突な展開で申し訳ないのだが、先程の騒動の後、臥煙さんの提案で麻雀をやる運びとなった。 

なんでも麻雀牌をかき混ぜる音は縁起がいいらしく、中国では葬式で死人の霊を鎮める為に麻雀を打つ風習もあるそうだ。 

 

という訳で、締めとして麻雀を行う運びになった……のはいいのだが。 

 

直江津高校の雀鬼と呼ばれていた(気がする)僕に挑むとは身の程知らずな連中どもめ、丸裸にしてくれるわ! 

 

……と意気込んだのも束の間、逆に丸裸にされてしまった。 

これで三回目のトビだ。 

一回目は影縫さんに、二回目は斧乃木ちゃんに、そして今八九寺に飛ばされた。 

お金は賭けていないからいいものの、悔しいことこの上ない。 

 

「うーん、阿良々木さんばかり飛んでつまらないですね」 

 

「なんだとこの野郎」 

 

「鬼いちゃんが弱すぎるんだよ」 

 

「自分の手ェしか見とらん人間が勝てる訳あれへんやろ」 

 

「懐かしいなぁ、大学ではメメや泥舟と皆でランチを賭けてよく部室でやったね、余弦」 

 

ちなみに臥煙さんは高見の見物である。 

『私が入るとみんな面白くないって言うんだよね』との事だ。どんな打ち方だよ。 

 

「せや、このままじゃおもんないし、脱衣麻雀にしたろか。鬼畜なお兄やんもやる気出はるやろ」 

 

「是非とも!」 

 

影縫さんの提案に光速で反応する。男女比1:3で脱衣麻雀! 

 

男の夢じゃないか! 

 

「あのう……それ、私たちにメリットが全然ないんですけど」 

 

「じゃあこうしよう。後精算方式にして、勝ち負けが蓄積するルールだ。こよみんが誰かから上がったら上がられた人から1ポイント。こよみんがツモったら誰かを指定して1ポイント。こよみんが誰かに振り込むかツモられたら、マイナス1ポイント。普通の勝負も加味して、ワンスリーのウマとビンタで2ポイントもつけよう」 

 

「最終的なポイントで、プラスのポイント分、その枚数を脱がす事が出来ると、そういうことですか?」 

 

「その通りだ。明晰だねこよみん」 

 

「僕の方が不利な気がするんですが……」 

 

「そりゃそうだよ、これくらいじゃないと吊り合わないでしょ?」 

 

確かにそうだ。 

だが千載一遇の好機でもある。 

 

合法的に女性を自発的に脱がせることが出来る機会なんて、この先ないと断言出来る! 

 

ここで受けないで何が阿良々木暦だ。 

 

今まで凹んだ分、流れは必ず来る! 

 

「くくく……寒くて泣いても知りませんよ?」 

 

「ようし、可愛い後輩を裸にする訳にも行かないし、私が入ろうじゃないか。余接、変わりなさい」 

 

無言で席を立つ斧乃木ちゃん。 

 

斧乃木ちゃんも脱がせてみたかったが、その気になれば家で人形のフリをしている時に脱がせられるし、良しとしよう。 

 

……何が良しなのか自分でもわからなくなってきたな。 

 

「ほんなら、続きやるで」 

 

じゃらじゃらと牌をかき混ぜた後に影縫さんが賽を振る。 

 

さあ、一世一代の勝負だ。 

気合を入れろ、阿良々木暦。 

 

と、斧乃木ちゃんがいつの間にか僕の側に座っていた。 

 

通しをしている訳でもあるまい。 

牌を切りながら話しかける。 

 

「どうだ、斧乃木ちゃん。こういうのは楽しくないか?」 

 

「楽しい……のかな。よく分からないや」 

 

あくまで表情はそのままに、訥々と言葉を紡ぐ様は、いつもの斧乃木ちゃんに違いなく。 

 

「でも、悪くはないよ。少なくとも、このままでいいと思える程度には」 

 

いつもより少しだけ饒舌に、そんな事を言ったのだった。 

 

「……はは、そうか」 

 

馬鹿だな、斧乃木ちゃん。 

 

それが楽しいって事だよ。 

 

ああ、そうなのか。 

 

そんなことも、知らなかったのか。 

 

それは、許されないな。 

 

「斧乃木ちゃん。今度、皆で何処かに遊びに行こうか」 

 

「……ナンパ?」 

 

「ああそうだ、寂しい僕のために付き合ってくれよ」 

 

「…………ん」 

 

小さく頷く斧乃木ちゃんの表情は変わらなかったけれど。 

 

少しだけ、嬉しそうに見えたのは、勘違いじゃないと思いたい。 

 

なに、事件もひと段落して、まだまだ時間は沢山あるんだ。 

 

斧乃木ちゃんがその表情を変えるまで、連れ回してやろうじゃないか。 

 

変わらなくたっていい、それはそれで斧乃木ちゃんとの想い出になる。 

 

「こよみん、それはロンだ」 

 

「えっ?」 

 

大三元だね。32000点」 

 

「あらら、また阿良々木さんのトビですか」 

 

「なんでだあ!?」 

 

「一気にマイナス10ポイントやな」 

 

何で僕だけ!? 

 

く……まずい、まずいぞ。 

このままでは八九寺と臥煙さんに一生こき使われるのが目に見えるようだ。 

それだけは回避せねばならない。 

 

「び、ビンタを倍にしませんか……?」 

 

「ふふ、威勢のええことやな」 

 

「いいでしょう阿良々木さん、夜明にはまだ間があります」 

 

銭金だの勝負だのには退屈していたところなんだ、受けて立とう」 

 

「……鬼いちゃん、フラグが立ってる気がするけど」 

 

「ここでやめられるか……!もう後がないんだ……!」 

 

「……まあ、いいか」 

 

北白蛇神社に、景気のいい音が鳴り響く。

 

 

 

 

 

 

「よつぎコープス」

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