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雪乃「比企谷くんの誘いなのだから….あなたの好きなようにしていいわよ」4/4【俺ガイルss/アニメss】

 

「なぁ、雪乃? 年末年始は実家に帰るのか?」

 

 今日は俺の両親の御用納めの日だ。

 明日からは2人とも家で過ごす。

 朝から晩まで俺の家で雪乃と一緒にというわけにはいかない。

 雪乃の動向が気になって雪乃を送る道すがら訊いてみた。

 

 

「家族なら姉さんを含めて、今朝海外に立ったわ」

 

 造作もないことというような口ぶりで雪乃は答えた。雪乃。

 しかし、表情は少し曇っていた。

 

 

「お前は行かなくても大丈夫だったのか?」

 

 決して「行かなくて良かったのか」とは聞かなかった。

 雪乃の家庭の事情は詳しくは知らないが、少なくとも雪乃にとって心が休まる場所では

なさそうに感じたからだ。

 

 

「……ええ。かなり骨が折れたのだけれど、勉強があるからって断ったの。それに、……」

 

 雪乃はここで言葉が詰まったが、みなまで言わなくてもわかった。

 この3日間、生活時間の大半を雪乃と過ごしてきたが、寝るまでの間、頻繁にメールの

やり取りをしていた。

 大半は「今何してる?」といったどうでもいいものだった。

 普段の雪乃なら絶対にしないような内容である。

 由比ヶ浜とのことで不安定になっているからこんなメールを送ってくるのだろう。

 

 言葉を紡ぎだそうとしていた雪乃をそっと抱き寄せてからぎゅっと抱きしめた。

 

 

「八幡、ありがとう……」

 

 冬休みは長い方がいいに越したことがないはずなのに、始業式が待ち遠しかった。

 由比ヶ浜結衣と早く向き合って全てに決着を付けなければならない。

 

 始業式まであと10日。

 そんなことを考えながら、雪乃を抱きしめていた。

 

 

 翌日から冬休みの最終日までは毎日雪乃の家に行って勉強した。

 食事は俺が昼食を夕食は雪乃が作るスタイルはそのままだ。

 

 そして、大みそかの晩に小町も入れて3人で除夜の鐘をついて年越しをしたり、元日も3人

で稲毛の浅間神社に小町の合格祈願も兼ねて初詣をしたりしてなるべく雪乃を一人にしない

ようにした。

 

 ほかには、雪乃の誕生日も祝った。

 小町に言われるまで知らなかったが、1月3日は雪乃の誕生日だった。

 小町がどういう風に両親に話したのかは知らないが、「彼女を家に連れてこい」と言われ、

雪乃の誕生会を開いた。

 地元の名士の娘だと知って、さすがに俺の親父も屑っぷりを披露してくれることなくホッと胸を撫で下ろした。

 ついでに雪乃もいつものような毒舌ぶりは鳴りを潜めていた。

 

 やればできるじゃないの、雪乃さん。

 明日からはもう少し俺に優しくしてくれないものだろうかと思った次第だ。

 

 

 かくして、1月6日の始業式を迎えた。

 いよいよ、由比ヶ浜結衣と向き合うことになった。

 

    ×   ×   ×   ×

 

 この日、由比ヶ浜結衣は欠席した。

 

 思い当たる理由は一つしかない。

 俺と雪乃が付き合ったからだろう。

 

 一刻も早く決着をつけたかったのだが、それは俺の自分勝手な考えだ。

 それに由比ヶ浜もいつまでも欠席を決め込むことはできない。

 由比ヶ浜が明日にでも学校に来るのを待つしかないだろう。

 ただ、決着が1日延びてしまったことで、雪乃へのフォローもその分必要になる。

 いくら雪乃と付き合っているとはいえ、自分の中で雪乃と由比ヶ浜の扱いが違うことを考えると、自己嫌悪に陥ってしまいそうだ。

 

 休み時間、気分転換に廊下をブラブラ歩くことにした。

 廊下に出ると、腕を組んで睨みつけてくる奴がいた。

 固く口を結んで仁王立ちしている。

 お前は吽形かよ。

 

 三浦優美子だった。

 

 

「ちょっとヒキオ、話があんだけど」

 

 不機嫌オーラ全開で噛みついてくるように言葉を発した。

 

 

「何だ?」

 

 けんか腰の物言いに軽くイラッと来て、ぶっきらぼうに答えてやった。

 

 

「冬休み中結衣がずっと元気なかったんだけど、あんた結衣に何かした?」

 原因が俺限定で物を言うのはどうかしているぞ、こいつは。

 事実そうなんだけどな。

 

 

「心当たりならある」

 

 別に何かしたわけではないが、俺が原因なのはまず間違いないのだから、とりあえずこう答えた。

 

 

「結衣の友達として理由次第では、あーしあんたのこと許す気ないから」

 

 一応、俺の言い分を聞いて判断するつもりらしい。

 こいつはもっと物腰柔らかく話ができれば、きっといい奴なんだろうけどな。

 

 

「心当たりか……。冬休みに入ってから雪ノ下と付き合っている。多分そのことが原因だと思う」

 

 

「はぁー? 雪ノ下雪乃と付き合ってるって?」

 

 目を白黒しながら俺に訊き返してきた。

 そりゃ、この俺があの雪ノ下雪乃と付き合っていると言って誰が信じるだろうか?

 付き合ってる当の本人でさえ、不思議でならない。

 こちとら、雪乃に2度も友達になることを断られているのだからな。

 

 

「ああ、雪乃と付き合っている。由比ヶ浜からは聞いてないのか?」

 

「結衣には話したのか?」

 

 三浦は混乱していた。

 俺と雪乃が付き合っていることに驚いただけではないのだろう。

 おそらく、由比ヶ浜が俺のことを好きだったということに今気づいたであろう。

 その両方に驚いているのだろう。

 

 

「ああ、話した。戸塚もその場にいたから信じられないなら訊いてみてくれ」

 

 戸塚には悪いが、こうして誰かの名前を出さなければ信じてくれないだろう。

 

 

「そこまでは言ってないし。それならわーったわ」

 

 そういうなり、教室へと消えていった。

 

 俺は水飲み場で顔を洗ってから、教室に戻った。

 

    ×   ×   ×   ×

 

「あーし、ちょっとそこ通りたいんだけど」

 

 三浦のこの威圧的な言葉を聞くのは今日何度目だろうか。

 休み時間のたびに教室の入り口から中をうかがう女子の一団がいた。

 きっと雪乃と同じJ組の女子だろう。

 修学旅行初日の夜の雪乃の言動や2日目に龍安寺で雪乃と同じ班の女子に会ったときの反応とを照らし合わせてみるとそういう結論になった。

 

 

 それに冬休み中に雪乃とあれだけデートを重ねたわけだ。

 誰かに目撃されていてもおかしくはないだろう。

 きっと雪ノ下雪乃の彼氏は何者かってことになって見に来たのだろう。

 雪乃に直接訊くなんて命にかかわるようなことは、修学旅行のノリとかでなければできないはずだ。

 だからこうして、見物しに来ているのだろう。

 

 

 ちょうど昼休みを迎えて、これから部室に向かうところだった。

 雪乃が俺に弁当を作ってきてくれているので、それを食べに行くのだ。

 三浦がちょうど露払いをしてくれたこのタイミングを逃すわけにはいかない。

 立ち上がって、ドアへと向かっていくと立ちはだかる奴がいた。

 

 

「比企谷、話がある。ちょっと屋上に来てくれないか」

 

 葉山隼人はそれだけ告げるとスタスタと歩き始めた。

 仕方なく俺は「ヤボ用で遅れる」と雪乃にメールを打ち込みながらついて行った。

 

 

「なぁ、比企谷……。結衣といったい何があったんだ? さっき優美子と何か話していただろ。優美子から結衣が元気がないって聞いていたけど、さっき何を話したのか教えてくれなかった。結衣の友達として気になるんだ……。何があったか聞かせてくれないか」

 

 

「別に何かあったんじゃねー。雪乃と付き合い始めただけだ……」

 

 葉山の目を真正面に捕えてこう答えた。

 

 

「ゆ……、君は雪ノ下さんと付き合っているんだ……」

 

 

 葉山は明らかに誰かの名を言おうとして言い直したが、それが雪乃と由比ヶ浜のどちらのことを指しているのかはわからなかった。

 別にそんなことを知ったところで、由比ヶ浜とのことにケリがつくわけではない。

 聞き流すことにした。

 

 

「ああ、そうだ。それだけだ」

 

 目の前には澄んだ青空と青く穏やかな海が広がっていた。

 上空に寒気でも訪れているのだろうか。

 飛行機雲が一筋、彼方の空の彼方へと伸びていた。 

 

 

「そうか、そうだったのか……」

 

 葉山は静かにこう言うと踵を返しながらさらに続けた。

 

 

「変なこと訊いて悪かったな。雪ノ下さんとお幸せに……」

 

 葉山がいなくなるのを待ってから、俺も部室へと向かっていった。

 

 

「よう、雪乃」

 

 

「こんにちは、八幡」

 

 部室に行くと雪乃は弁当に手を付けずに待っていた。

 

 

「悪いな待たせてしまって。弁当先に食っていて良かったのに」

 

 

「私が誘ったのに先に食べるわけにはいかないじゃない」

 

 にこやかにそう答えたが、俺が遅れてきたことをとがめているのだろう。

 目は笑っていなかった。

 

 

由比ヶ浜な、今日休んだわ」

 

 

「そう……」

 

 急に沈痛な面持ちに変わった雪乃は弁当箱をじっと見つめていた。

 

 

「明日ですべて決着するつもりだから安心しろ」

 

 そう言いながら、雪乃の近くに椅子を動かして座った。

 

 

「いつまでもこうしているわけにもいかないから食おうぜ」

 

 むりやり話題をそらして、2人で弁当を食べることにした。

 

 

「口に合うかわからないのだけれど食べてもらえるかしら」

 

 そう言いながら弁当を渡してくれた。

 

 

「サンキュー。雪乃の作ったものなのに口に合わないわけないだろ」

 

 弁当箱を開けると彩りもよく本当にうまそうだった。

 ただ一点、紅一点その存在を誇示するアレがなければ……

 

 

「小町さんからトマトが嫌いだと聞いていたから、しっかりとトマトも入れておいたわよ」

 

 なにそれ。

 お前、いつの間に小町と誼を通じていたの?

 小町からあれこれいろいろと聞き出して俺を調教する気なの?

 

 

「私の手作り弁当をまさか残すことないわよね……」

 

 笑顔とは全く不釣り合いな身も凍るような声で言った。

 怖いよ、調教超怖いよ。

 

 こうしてトマトを食べ終えるまでジト目で睨まれながら雪乃の手作り弁当に舌鼓を打った。

 

    ×   ×   ×   ×

 

「よう、雪乃」

 

 

「こんにちは……、八幡」

 

 放課後、再び部室で雪乃と顔を合わせた。

 雪乃の表情は暗く沈んでいた。

 

 

「……由比ヶ浜だと思ったのか?」

 

 

「ええ……。今日は由比ヶ浜さんが来ないことをわかっているはずなのに……」

 

 雪乃の沈んだ顔は見たくない。

 

 

「今日は俺が紅茶を煎れるわ」

 

 

「そんな……。いいのよ私が……」

 

という雪乃を無視して紅茶を煎れ始めた。

 

 

「俺だって伊達に毎晩紅茶を煎れてないんだぜ」

 

 

 雪乃の前にカップを置いた。

 

 

「ほら、飲まねーのか」

 

 雪乃はカップを口元に運ぶと硬直した。

 

 

「こ、これは……」

 

 

「そうだ……。普段3人で飲んでるやつだ。冷めないうちに飲めよ」

 

 猫舌の俺は暑いのを我慢しながら、紅茶を一口すすった。

 意を決して続いた雪乃の目には涙があふれていた。

 

 

「明日は由比ヶ浜も来るって……。俺が言うんだから間違いない」

 

 そう言って雪乃を抱きしめると、

 

「あなたの言うことはあてになんかできないわ……」

 

弱々しくこう答えながら俺にしがみついてきた。

 

 それから、雪乃の気が済むまで抱きしめ続けた。

 

    ×   ×   ×   ×

 

 翌日── 

 

 由比ヶ浜結衣が登校した。

 由比ヶ浜はあからさまに俺を避けるようなそぶりを見せていてなかなか近づくことはできなかった。

 

 教室の外に目を向ければ、休み時間ごとに昨日よりも俺を一目見に来ようというギャラリーが増えていた。

 クラスメイトも俺の方をチラチラ見ながら何か喋っている。

 いよいよもって、俺と雪ノ下雪乃が付き合っていることが広まったようだった。

 できれば、由比ヶ浜とは一刻も早く決着をつけたいのだが、なかなか好機は訪れない。

 そして、気づけば昼休みを迎えていた。

 

 今日も雪乃の用意してくれた弁当を食べに部室へと向かった。

 廊下に出ると、ギャラリーの生の声が聞こえてきた。

 

 

「あの人が、雪ノ下さんの彼氏なんだって……」

「えー、信じられない」

 

 俺だって信じられないさ。

 雪乃と付き合っていることも由比ヶ浜から好かれていることも……。

 

 

「よう、雪乃……」

 

 

「待ったわ、八幡」

 

 雪乃が努めて笑顔で迎えてくれた。

 1限目のあとに由比ヶ浜が登校したことをメールで知らせたからというわけではなさそうだ。

 雪乃とのことが広まった今、俺がどのようなことを言われているのか推し量って、精いっぱい

の笑顔で俺を迎えてくれたのだろう。

 

 男なら誰もが憧れてもおかしくない高翌嶺の花と付き合っている俺ならまだいい。

 女ならだれもが敬遠したくなるような俺と付き合っている雪ノ下だとそうは……。

 

 

「急に自分の存在が広く知られた感想はどう?」

 

 雪乃はくすっと笑いながら問うてきた。

 しかし、その眼差しには強い意志のようなものが感じられた。

 まるで俺の心の中を見透かしているようだった。

 俺はすぐにくだらない考えを拭い去って答えた。

 

 

「ああ、一人遊びしてるところを見られるってのはかなり恥ずかしいな……」

 

 

「そうよ、八幡……。私はあなたのそういうところが好きになったのだから……」

 

 雪乃は俺の目を見つめながらこう言った。

 

 そうだ、雪ノ下雪乃はこうやっていつも自分を貫いている。

 そんな雪乃を俺は好きになったし、雪乃もまた俺の腐ってもいながらブレないところを好きになってくれたのだ。

 周りが何を言おうが俺たちは互いのそういうところが好きになったのだ。

 何も卑屈になる必要はない。

 

 さて、今日こそ由比ヶ浜とのことをどうにかしないとな……。

 

 

 放課後になった。

 

 ようやく由比ヶ浜に近づくことができた。

 身構える由比ヶ浜

 

「部室で待ってるぞ」

 

こう一言告げて教室をあとにした。

 

 

「よう、雪乃」

 

 

「こんにちは、八幡」

 

 部室に入るとノートパソコンを開いてカタカタやっている雪乃の姿が目に入った。

 

 

「なんしたの?」

 

 

「平塚先生に『お悩み相談メール』をすぐに再開するように催促されたのよ」

 

『千葉県横断お悩み相談メール』 -ロクでもないお悩み相談しか来ないことで定評のあるどうしようも無いシステムだ。

 しかし、残念なことに奉仕部の主要な活動である。

 どうせ、材木座とか材木座とか材木座とか陽乃さんぐらいしか寄こしそうもないのだが、再開せねばならない。

 

 終業式の日に「12月21日~1月5日は冬季休業につきお休みします」とトップページに掲げたままになっている。

 雪乃はシステム再開をしているようだ。

 それにしてもいくら多芸な雪乃とはいえ、こんなことまでできるとは驚きだ。

 

 そんな雪乃に今日はシャンパーニュロゼを煎れて作業の成り行きを見守った。

 雪乃の作業はすぐに終わったが、由比ヶ浜が部室にやって来そうな気配はなかった。

 

 

 沈黙がだんだんと重苦しくなり始めた時、たて続けにメールが2件やって来た。

 

 

「さぁ、八幡仕事よ」

 

 人前に出るのは嫌だが、人の上に立つのが好きというだけあって本当に人使いが荒い。

 どうせくだらない内容だろと思って開くとやはりそうだった。

 

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〈PN:剣豪将軍さんのお悩み〉

『我は意を決して渾身の作をネット上で発表した。しかし、我の作風を誰も理解してくれない。我はどうしたらいい? 心が折れそうだ。ハチえもん助けてよ~』

 

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 雪乃は「さぁ」「早く」といった類の視線を送ってくる。

 

 やっぱりこれって俺が答えるのか。

 あきらめて、素早くキーボードを叩いた。

 

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〈奉仕部の回答〉

『プロを目指すのであれば貴重な意見として受け止めて、これからの作品のなかで昇華させていく必要があるのでしょう。しかし、単なる趣味として書いているのであれば、ただの非難や批判の内容が建設的なものでければ徹底的に無視。この一言に尽きるのではないのでしょうか』

 

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 こんなもんでいいかと一度読み返す。

 そう言えば材木座が煽り行為をしたせいで、遊戯部と脱衣大富豪に付き合わされる羽目になってしまったことがあった。

 あの時はいい迷惑だった。

 雪乃にまで脱衣をさせやがるとは許さん。

 俺だってまだその慎ましやかな胸を見ていないんだぞ。

 

 

「八幡……。あなた今いったいどこを見て何を考えていたのかしら」

 

 雪乃さん、あなたこういうのだけは敏感ですね。

 

 

 それにしても荒らしってウザいよな。

 なにあの粘着力。

 おとなしくゴキブリでも捕まえていろよ、ほんとに。

 こっちはこっちで好きにやってるから、そっちはそっちで巣から出てくるな。

 

 さて、送信と。

 

 

 次は何だ?

 

 

〈PN:お姉ちゃんは心配ですさんのお悩み〉

 

 

「おい、雪乃。お前に来てるぞ」

 

 

「無視していいわよ」

 

 一応、見ておくかと開いてみると、ブレザーのポケット中で携帯が鳴った。

 由比ヶ浜からのメールだった。

 

 そこには、「屋上にいる」とだけ書かれていた。

 

 

「雪乃、由比ヶ浜からメールが来たぞ」

 

 

「八幡、見せて!」

 

 雪乃は言うが早く携帯をひったくった。

 そして、凛とした表情でこう告げた。

 

 

「八幡、屋上に急ぐわよ」

 

    ×   ×   ×   ×

 

 屋上に行くと虚ろな目をした由比ヶ浜がいた。

 

 

「ヒッキー……、ゆきのん……」

 

 俺と雪乃は駆け足でやって来たものの由比ヶ浜にかけるべき言葉が見つからず、ただ黙って見つめているしかできなかった。

 いや、少なくとも俺も雪乃もかけるべき言葉を持ち合わせていたが、タイミングを計りかねていた。

 

 

「……まさか、まさか、ヒッキーとゆきのんが付き合っているなんて……」

 

 由比ヶ浜の目からは大粒の涙がとめどもなく溢れていた。

 

 

「……ゆきのんがヒッキーのことが好きなのは気付いていたけど、けど……、私も私なりに頑張っていたよ……。ゆきのんは友達だし、ヒッキーも仲間だから祝福してあげないといけないのに……」

 

 雪乃の目からも同じように涙があふれていた。  

 

 

由比ヶ浜……、お前さえよければ奉仕部に戻ってきてくれないか……」

 

 情けないことに俺はこんな情けないセリフを弱々しく言うことしかできなかった。

 

 

「ゆ、由比ヶ浜さん、……。私からもお願い……。虫が良すぎるかもしれないけど、あなたには戻ってきて貰いたいわ。……そ、それに、……。いえ……、私の口からは……。私にそんなこと言う資格なんか……」

 

 そう言うと嗚咽を漏らし始めた。

 

 

 1月の冷たく乾いた風が2人と1人の間を吹き抜けた。

 

 

 完全に手詰まりに陥った。

 俺は解を持ち得ていたのではなかったのか?

 なぜ、それを言い出せない?

 なぜ、そう言えるように空気を作れないのか?

 以前の卑屈な自分に戻りつつあるのを頬に風邪を受けるたびに実感せざるを得なかった。

 自分の無力さがもどかしく感じた。

 

 

「ゆ、ゆきのん……、続きを聞かせてほしいんだけど……」

 

 あきらめかけた時、由比ヶ浜が口を開いた。

 

 

「そ、そんな……私には……」

 

 

「いいから聞かせてゆきのん。私が聞きたいのはその続きだもん……。お願い、ゆきのん……」

 

 最後はもう消え入りそうな声になっていた。

 

 

 それは、心からの悲痛な叫びに聞こえた。

 

 

「ゆ、由比ヶ浜さん……。わ、私は……。由比ヶ浜さん、あなたは私にとってたった、たった……

ひとりの友達なの……。虫が良すぎるのは自分でもわかっている……。そ、それでも、それでも……

私はあなたと……友達でいたい。……結衣といつまでも友達でいたい!」

 

 最後の力を振り絞るかのように雪乃は言った。

 

 

「ゆ、ゆきのん!」

 

 その瞬間、由比ヶ浜は雪乃に飛びついた。

 雪乃はよろめきながらも全身で由比ヶ浜を受け止め、ふたり抱き合っていた。

 

 

「結衣、結衣……」

 

 

「ゆきのん、ゆきのん、これからもずっと友達だよ」

 

 

「ええ、結衣。ずっと友達よ」

 

 

 すっかり手詰まりになって投了寸前だったところを由比ヶ浜に救われた。

 俺も雪乃も解にたどり着いていながら、己の力で何もできなかった。

 まったくの無力だった。

 

 そんな俺にも雪乃にも由比ヶ浜が必要だ。

 

 いつまでも抱き合っているふたりに俺は歩み寄っていった。

 ようやく俺も由比ヶ浜に解を提示することができる。

 

 

由比ヶ浜……、いや、結衣……、俺と友達になってくれ……」

 

 

「うん、もちろんだよ! ヒッキー大好き!」

 

 そういうなり俺に飛びついてきた。

 一瞬雪乃のように抱きしめようかと思ってしまったが、さすがにこれはマズい。

 思わず結衣を抱きしめようと動かした手を中途半端にぶらぶらとだらしなく垂らしてしまった。

 

 

「八幡、あなた私という恋人がいながらいったい何をしようとしていたのかしら?」

 

 俺は心臓が思わず凍り付きそうになった。

 怖くて雪乃の方に視線を向けることができない。

 

 

「いいじゃん、ゆきのん」

 

 

「何がゆきのんなの、結衣?」

 

 結衣も俺の胸の中でぶるっと震えたのがわかった。

 怖ぇよ、とにかく怖ぇ……。

 

 

「八幡、命が惜しければ、もうそのような破廉恥なことをしないことね。結衣、あなたもよ」

 

 

「はい……」

「はい……」

 

 雪乃は恐怖のあまり身をすくめる俺と結衣に近づいてきたかと思うと、ふたりまとめて抱きしめてきた。

 振り返ってみると、なんなのこのリア充は……なんて思ってしまうが、とても心地が良かった。

 

 

「さぁ、部室に戻って奉仕部の活動を再開しましょう」

 

    ×   ×   ×   ×

 

 部室に戻ると、雪乃は改めてシャンパーニュロゼを淹れ直した。

 3人でこの紅茶を飲むのは初めてだった。

 

 

「ゆきのんもヒッキーも二人でこんなの飲んでいたんだ……」

 

 怒りを通り越してすっかり呆れかえってしまった結衣を前にして、俺も雪乃もただただ身をちぢこめていることしかできなかった。

 

 

「あっ、『お悩み相談メール』再開したんだ。どれどれ……」

 

 結衣はフフンと鼻を鳴らして、とびきり意地悪な目で俺と雪乃を交互に見比べた。

 

 

「えっと……。ゆきのんは私に隠れてヒッキーとこそこそ付き合い始めました。ふたりともとても感じが悪いです。お姉さんにも黙ってこんなことを続けて年末年始もただれた生活をしていました。私と一緒にこの間違った関係を糺しませんか。よし、送信と……」

 

 カチッと力強くリターンキーをタッチした。

 

 

「おい、結衣……洒落になんねー。ちょっと待て!」

「結衣、やめなさい!」

 

 

「書き込みが完了しました」と書かれた画面が切り替わった。

 

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〈PN:お姉ちゃんは心配ですさんのお悩み〉

『雪乃ちゃんが冬休み中に一度も実家に帰ってきませんでした。お姉ちゃんは心配で心配でなりません。

どうしたら、雪乃ちゃんが実家に帰ってくるのでしょうか。雪乃ちゃん、比企谷くん、答えなさい!』

 

 

〈奉仕部からの回答〉

『ゆきのんのことなら心配はいりませんよ。ヒッキーと超甘々の超ラブラブになって毎日楽しく過ごしています。私に入り込む余地がなくてうらやましい限りです。いずれ、ヒッキーを連れてご実家に帰省することがあると思いますので、それまでゆきのんのことを待っていてあげてください。邪魔をしたらふたりの友人として絶対に許しません (`・ω・´)』

 

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「えへへ……。これでおあいこだよ」

 

 ホッと胸をなでおろす俺と雪乃を見て、結衣はとびっきりの笑顔を見せた。

 

 

 ぼっちの道に入ってから早10年 ──

 

 

 俺は雪乃とふたりぼっちになった。

 そして、今日、結衣という友達を得てぼっちを卒業した。

 

 この部室で3人で過ごすのもあと1年ちょっと。

 この残り限られた時間を大切にしたい……。

 

 

 ―― 一度壊れてしまったものは元には戻らない。

 

 

     でも、形を変えて作り直すことはできる。

 

 

 ―― そう、これが俺の導き出した解だ。

 

間違いだらけの俺の青春だったが、これだけは間違っていないと俺は思っている。

 

 

 ―― ラブコメの神様よ、これで良かったんだよな?

 

     俺たち3人はどんなことがあろうともずっと友達だ。

 

 

 

 ── 春

 

 4月になって数日が過ぎた。

 今日から俺は大学3年生として学部生になった。

 

 春は新たな出会いの季節だと世間様は言う。

 確かにその通りだ。

 それは否定しない。

 ただ、ぼっちにとっての「新たな出会い」は世間一般のそれとは全く異なった意味合いを持つ。

 そう、春は新たなトラウマとの出会いなのだ ──

 

 

 高校卒業後、俺は雪乃と同じ大学に進学した。

 雪乃が手とり足とり、苦手だった数学をわかりやすく教えてくれたおかげだ。

 

 大学入学後のこれまでの2年間は、雪乃とはクラスこそ違えども可能な限り同じ科目を履修してきた。

 空きコマの時間や昼食はもちろん一緒に過ごしていたし、通学も毎日一緒だった。

 一緒にいる割には相変わらずお互い口数は少なかったけどな。

 

 この2年間雪乃とはかなりいちゃついて日々ふたりだけの世界に生きていた。

 そのおかげで2年間にできた友達はゼロである。

 

 否、それは言い訳だ。

 

 お蔭も日向もなにも雪乃と一緒にいてもいなくても間違いなく友達なんかできなかったことだろう。

 雪乃もまた然りだったと言えよう。

 

 否、むしろ雪乃がいてくれたことでこの2年間は、ぼっちにつきもののトラウマが量産されずに済んだと言った方が正しい。

 

 

 ところで、そんな雪乃は今日から理系学部の大半がある地元千葉県内のキャンパスに通う。

 そして、文系学部の俺はこれまで2年間過ごしてきたキャンパスで残り2年間をまた過ごすのだ。

 

 雪乃はきっと今頃、研究室内でぼっち生活の第2ステージを既に開始していることだろう。

 実験結果が違うものなら同期、先輩に関係なく、自分の実験の合理性やら正当性やらについて実験の手順から始めて、結果、考察に及ぶまで広範囲にわたって持論を展開し、相手をやり込めてしまうことだろう。

 なにこのダンガンロンパ

 さすがの苗木君や霧切さんでも心が折られてしまうんじゃないの?

 ほどほどにしとけよ、雪乃……。

 

 さて、雪乃の心配をしている場合ではない。

 そんな俺も間もなく数年ぶりのぼっち生活を始めるのであろう。

 しかし、雪乃との教養での2年間のイチャイチャ生活で恐らくぼっちスキルが低下しているに違いない。

 一日も早くぼっちとしての勘を取り戻さなければならない。

 一度でもぬるま湯に浸りきった生活を送ってしまうと、あとが大変だ。

 

 

 そんなことを考えているうちに研究室に着いた。

 中世日本史を扱う研究室だ。

 

 ドアをノックすると、

 

 

「はーい」

「どうぞ」

 

と2人の声がした。

 

 

「失礼します。今日からこの研究室でお世話になる……」

 

 

「ああ、君は……」

 

 いきなり話を遮られてしまった。

 なにこれ、ぼっちには名前も名乗らせてくれないの?

 所変わってもやっぱりぼっちはぼっちなのね。

 

 

「比企谷くんだね」

 

 

「……へっ?!」

 

 なんであなた俺の名前知っているの?

 もしかして、「『この目』を見たら110番」って手配書とか回ってきているの?

 

 

「なにも驚くことないよ。君はいつも雪ノ下さんと一緒で目立っていたから、教養で時期が被ってる人間なら誰もが知っているよ」

 

 

「あんな美人の彼女といつも一緒にいれば、そりゃ目立つわ」

 

 

 なにそれ、俺のステルス性能はいったいどこに行ったの?

 もしかして、俺って雪乃の付属品とかペットとか奴隷とか……、なにかそんな風に認識でもされていたの?

 入室した時点でぼっちが確定するものだと端から思っていた俺は混乱した。

 

 

「とにかくよろしくね」

「これから、よろしくな」

 

 

「……あっ。こ、こちらこそ、よろしくお願いします……」

 

 

 このあと3、4年生が全員そろったところで指導教官の先生がやってきて顔合わせをした。

 不思議なことに教養で時期が被っていた3・4年生は誰も俺のことを「ヒキタニ」と間違わなかった。

 

 雪ノ下のおまけとしての俺の知名度は抜群のようだった。

 それにしても、俺が毎日知恵熱を出すくらい勉強してどうにかこうにか滑りこむことができた大学に通う連中のことだけはある。

 俺の名前を正しく認識しているとは、相当記憶力が良いと見えた。

 

 しかし、指導教官の先生だけは俺の名前を読み間違えた。

 でも、さすがは中世日本史専攻の先生だ。

 「ヒキタニ」なんて屈辱的な呼び名ではなく鎌倉にかつてあった古地名の「ひきがやつ」と間違えた。

 

 どうやら鎌倉幕府の研究が専門の先生のようだ。

 ちなみに鶴岡「八幡」宮は鎌倉市の「雪ノ下」にある。

 これ豆な。

 雪乃にこれを教えるとデレて悶死しそうだから黙っているけど。

 それに、次の日あたりに婚姻届を持って迫ってきそうでなんか怖い。

 嫁にもらうのではなく、婿にもらってくれるのなら大歓迎だけど、雪乃はそんなことは絶対に許してくれないだろう。

 

    ×   ×   ×   ×

 

 7月になった。

 試験期間真っただ中だ。

 

 相変わらず友達がいないという点では、ぼっちといえばぼっちだ。

 しかし、完全に孤高なるぼっちというわけではない。

 

 今は、空きコマを1つ挟んで次の試験の時間まで研究室で休んでいるところだ。

 これまでの俺だったら絶対こんなところに寄りついてはいない。

 

 この研究室には、筋金入りの歴史マニアが集まっている。

 俺もその一人。

 特定の友人はいないが、歴史談議には自然と花が咲く。

 

 「上杉謙信があと10年長生きしたら、織田信長を滅していたか」

 「島津四兄弟があと20年早く生まれていたら、どこまで制圧していたのか」

 

 この手のマニアックな話題を次から次へと思いついては、毎日飽きもせず議論している。

 俺もそうだが、趣味=専門となっている連中ばかりなので、皆会話には困らない。

 

 きっと、今までみんなこんなマニアックな会話をする相手に恵まれて来なかったのだろう。

 だから、その反動で研究室内がこんな雰囲気になっているのかも知れない。

 その証拠にぼっちマイスターの俺が一目置くぼっちスキルの持ち主が何人かいる。

 しかし、彼らが専業主婦を目指しているかどうかは不明だ。

 でも、そんなことはどうでもいい。

 相互不干渉、相互不可侵がぼっちの鉄の掟である。

 

 やはり、ぼっちはぼっちとぼっちに過ごすに限る。

 とどのつまりこういうことだ。

 

──  ぼっち最高! いや、最強!

 

 

「よし、できた!」

 

 プリンターから出てきたA4用紙をニヤニヤしながら見つめた。

 今日は午前で最後の試験が終わった。

 すぐに自宅に帰ると気分よく前期最後の課題をこなしていた。

 ちょうど仕上がったところで、あとはプリントアウトしたこの文書の中身をチェックして、先生にメールを送るだけだ。

 これで、俺も夏休みに突入だ。

 

 このあと家庭教師のバイトがあるのがちょっと面倒だが、それでも夏休みへの期待感で満ち溢れて心躍っていた。

 文書の中身のチェックも完了した。

 

 えーと、……送信の前に旅程を確定しないといけなかったな。

 宿やら飛行機やらの予約を取ってからの送信になるな……。

 

 時計を見ると存外に時間が経っていた。

 そろそろバイトに出かけなければならない。

 

 残りは帰って来てからの作業となるが、今日中には先生にメールができそうだ。

 読み終えたばかりのA4紙を机の上に置くと、小町に声をかけてバイトに出かけた。

 

 

「八幡、これはいったいどういうことかしら」

 

 バイトを終えて家に帰ると、不機嫌オーラ全開の雪乃が俺を迎えた。

 玄関に仁王立ちしているとか、お前金剛力士像なの?

 突然すさまじい殺気を放ちながら口を開いたかと思うと、氷漬けにされてしまいそうな冷たい表情で俺を射すくめると固く口を結んだ。

 なにそれ、一人で阿形と吽形の役でも演じているの?

 怖くてトラウマになりそうなんだけど。

 

 

「あなた、私に隠れて楽しいことを企んでいたのね」

 

 夫に浮気の証拠を突きつける妻のようにA4用紙を俺の目の前にかざした。

 

 

「それか……。夏休みの宿題の計画書なんだけど……」

 

 

「……いいわ。まずは、お上がりなさい」

 

 いや、ここ俺の家なんだけど。

 

 

「……3泊4日四国の旅だなんて大層なご身分ね。羨ましいわね」

 

 さっきから幾度となく繰り返されるこのセリフ。

 繰り返すたびに刺々しさが増しているのは気のせいだろうか。

 それに雪乃は海外旅行どころか留学歴だってある。

 それなのに四国旅行ぐらいでなんでこうもネチネチと言われなければならないのだろうか。

 

 

「だから、先生から出された宿題なんだって……」

 

 こちらは繰り返すたびに弱々しくなっていく。

 雪乃の執念深さにはほとほと参ってしまう。

 

 

「この旅行はいったい誰と行くのかしら」

 

 何が言いたいの?

 俺と一緒に旅行に行きたいと言うような異性なんて小町ぐらいしかいないんだけど。

 結衣だって今は彼氏がいるし、仮に誘ったところでキモいとしか言わないと思うんだが。

 

 

「だから、一人旅だって……」

 

 さっきもこう答えた。

 いつまで続くのこの無限ループは……。

 小町の作ってくれたシチューが冷めちゃってるんですけど。

 

「えっ?! 誰と?」

 

 お前の耳って絶対俺の目よりも腐敗が進んでいるだろ。

 

「だから、一人だって!」

 

 ちょっとイラッと来てしまって大声で返してしまった。

 ヤバッ、やりすぎたかな?

 雪乃が凹まなければいいけど……なんて思っていたら大間違いだった。

 キッと般若のような形相で睨んできた。

 もう嫌だ。

 

 

「なぜ……、一人なのかしら……」

 

 もうなんという声音なの。

 いや「怖」音といった方がいい。

 それとも、「恐」音?

 

 

「そりゃ、だって大学の……」

 

 小町が何やら俺にサインを送っていた。

 人差し指を立て口の前でチッ、チッと振っている。

 

 

「なぜ、一人なのかしら」

 

 小町のサインでようやく雪乃の意図が理解できた。

 はー、仕方ない……。

 

 

「雪乃……、良かったら俺と一緒に四国に行かないか」

 

 

「ええ、もちろんよ、八幡……」

 

 急に目をキラキラと輝かせ、柔和な表情に変わった。

 こいつ何面相なの?

 十一面観世音とかそんな穏やかなやつじゃなくて、阿修羅とかの類でしょ、あなた。

 

 

「せっかくのお誘いを断ったら八幡がかわいそうじゃない。私以外にあなたと旅行に行っても構わないなんて言う女性なんかほかには誰もいないでしょ」

 

 そう言うと、ウインクをしながら小首を傾げてきやがった。

 俺が一番弱い仕草を熟知しているだけあってたちが悪い。

 

 俺っていつもこの仕草に騙されているよな……。

 ここまでわかっていながら、雪乃の虜になっている俺。

 多分、この先の人生には「比企谷八幡下僕エンド」が待っているのだろう。

 

 

「そうね……、祖谷に行くというのならやっぱり、かずら橋ね。それに、大歩危小歩危

遊覧船にも乗りたいわね……」

 

 さて、日程を1日、2日伸ばしてもう一度旅行計画を練り直した方がいいかもな。

 ルンルン気分で一人盛り上がって饒舌になった雪乃を見て、俺と小町は苦笑したのであった。

 

 

「やっとできたか……」

 

 雪乃と旅程を練ること3時間、ようやく完成した。

 飛行機のチケットとレンタカーの予約は俺が、ホテルの予約は雪乃が行った。

 

 これで旅程が確定したので、先生にメールを送信した。

 思わず、ファー……と生あくびが出てしまった。

 ここ数日、試験勉強で寝不足になっていたのだ。

 

 

「これでばっちりね!」

 

 そう言うと雪乃も大きく伸びをすると俺にもたれかかってきた。

 

 

「ところで、雪乃……。玄関で待ち構えていたからびっくりしたんだけど何か用でもあったの?」

 

 ほんと、さっきは金剛力士像よりもおっかなかったぜ。

 

 

「そうだったわ……。昨日、八幡の部屋に本を忘れていったの。それを取りに来たのよ……」

 

 

「ああ、これか。」

 

 机の端に置かれていた分厚いハードカバーの表紙には小難しい専門用語が書かれていた。

 文系の俺には中身がまったく想像できない。

 「プルームテクトニクス」って何?。

 「プレートテクトニクス」なら知っているんだけど。

 

 おっと……、雪乃の話の途中だった。

 

 

「……それで、小町さんに頼んで部屋に上げてもらったのだけれど、偶然この旅程表を見つけてしまって……」

 

 

「それで、俺が詰問されたんだな」

 

 意地の悪い口調で返してやった。

 

 

「……。もういいでしょ。こんな可愛い彼女と一緒に5泊6日の旅行に行けるのだから」

 

 

「まあ、それについては異存はないけどな」

 

 雪乃を抱き寄せて髪を撫でてやる。

 いつ触れても手触りがいい。

 

 

「小町さんは明日も試験があるのだから、まだ勉強しているのでしょ。隣の部屋でいちゃつくのはどうかと思うのだけれど」

 

 照れ隠しに俺からパッと離れた。

 先にもたれかかってきたのはあなたの方でしょ、雪乃さんよ。

 

 なんとか大学に入ることができた小町は、明後日まで前期の試験があるそうだ。

 大学に入っても相変わらずアホの子の小町は、ヒーヒー言いながら毎日勉強している。

 そのため、最近毎朝俺以上にゾンビのような目をしている。

 

 

「……ところで、あの旅程表は何の課題だったの?」

 

 

「おいおい、怒りに任せて俺の話を聞いてなかったのかよ……」

 

 

「え、ええ……」

 

 珍しく自分の非を認めた。

 明日は強風で京葉線が止まるかもしれない。

 大学までは総武線で通ってから問題はないけどね。

 

 

「俺の研究室って中世が専門だろ。それで、テーマを決めて夏休み中に中世の史跡巡りをしてレポートを書けって宿題が出されたんだよ……」

 

 

「ええ、聞いていたわよ」

 

 なんだよ、ちゃんと聞いてんじゃねーかよ。

 

「さらにいうと、うちの先生って鎌倉幕府が専門だろ。だから、成立過程にあった源平の合戦に興味を持ったんだ。そんで、そこから派生して平家の落人伝説も調べてみようと思ったわけ。それで、四国に行って屋島の史跡と平家伝説の史跡を巡ることにしたんだ。で、あまりにもマニアックな内容だから、一人旅にしたわけ」

 

 

「確かにマニアックね。でも、八幡と一緒なら、その……どこでも構わないのだけれど」

 

 雪乃はボソボソ言いながら照れる。

 最初からそう言ってくれれば、怖い思いをしなくてよかったのにな。

 俺に女心を理解しろとかどれだけハードル高いんだよ。

 

 

「で、本当はお前とはハウステンボスにでも行こうと思ってたんだぜ。今回の旅ですっかり金欠になりそうだからやめにするけど」

 

 

「そう……。一応は私との旅行も考えてくれていたのね」

 

 雪乃は満足げに答えると、小さく欠伸を一つした。

 そろそろ日が変わりそうなので、ここでお開きにして雪乃を家まで送っていった。

 

 さて、雪乃と行く四国旅行。

 どんな旅になるのか今から楽しみだ。

 

    ×   ×   ×   ×

 

「ちょ、ちょっと、八幡。置いていかないでよ……」

 

 俺の袖口をグイグイと引きながら雪乃が言った。

 

 

「さしもの雪ノ下でも高所恐怖症だったんだな」

 

 

「そ、そんなことあるわけないじゃない……」

 

 

「いてて……。だから、思いっきり袖を引っ張んなよ」

 

 

 俺たちは今、鳴門にいる。

 

 朝一で成田から関空までLCCに乗って、さらに関空から神戸空港までは高速船で移動した。

 そのあと、レンタカー会社の車で神戸市内まで送迎してもらい、そこで車を借りた。

 そして、明石海峡大橋を渡ってまずは淡路島に入った。

 

 淡路ICで高速を降りると松帆の浦へと向かった。

 藤原定家が「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」と詠んだ場所だ。

 定家自身が編纂した百人一首にも収録されている和歌だ。

 白砂の海岸を想像していたが、礫がゴロゴロした海岸だった。

 

 雪乃とは百人一首談義をした。

 互いに予備知識を持ち合わせているので、話が盛り上がった。

 やはり雪乃と付き合っていて良かったと思う。

 

 ちなみに百人一首には定家が家庭教師をしていたとされる式子内親王の和歌「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする」が収録されている。

 この二人は恋仲だったが成就できなかったという説がある。

 

 そのため、この百人一首には互いのことを想って詠んだ2篇の和歌が収められているという説まであるのだ。

 俺と雪乃は互いに想い合っているふたりでいられることの幸せさをかみしめて、次の目的地へと向かった。

 

 

 15分ほど進むと北淡震災公園に着いた。

 阪神淡路大震災の震央近くにある場所だ。

 震央とは震源の真上にあたる地上地点を指す。

 つまり、震源とは地中を指している言葉なのだ。

 

 ここには野島断層と呼ばれる断層が保存されていた。

 俺たちふたりは、自然の脅威をまざまざと見せつけられた。

 雪乃は緊張した面持ちでずっと俺の手を離さなかった。

 こうして、淡路島を回った後、再び高速に乗ると大鳴門橋を渡って四国に入った。

 

 

 そして、現在、大鳴門橋の橋桁の下に設置された「渦の道」と呼ばれる通路を歩いている。

 450m続くこの通路は、海面からの高さ45mのところにある。

 足元には、鳴門の渦を覗き込むことができるガラス窓が設置されている。

 ちょうどまさに今、渦がものすごい勢いで発生している。

 

 高さ45mといえば、建物に換算するとちょうど15階くらいの高さだ。

 雪乃の部屋もマンションの15階にあるが、ここは海の上だ。

 周りに建造物がないせいで、数字以上の高さを感じる。

 俺も決して高いところや絶叫マシンが得意なわけではないが、雪乃ほど恐怖を感じてはいない。

 

 

「雪乃、服を引っ張りすぎだ。痛ぇよ……」

 

 

「八幡、あなた歩くのが早すぎるわよ。女性のエスコート一つ満足できないのかしら」

 

 悪態をつきながら、なおも服をグイグイ引っ張ってくる。

 

このあと、高松に入る前に平賀源内記念館を見学する予定だ。

 なんせここには、解体新書の初版本が展示されている。

 これはどうしても見ておきたい。

 だから、いつまでもここで油を売っているわけにはいかないのだ。

 

 

「ったく、仕方ねーな……」

 

 冷やかしの視線が周囲から注がれたが気にしている場合ではない。

 

「は、八幡……、こ、これはいったいどういうつもりかしら……」

 

 雪乃はへっぴり腰になってろくに歩くことができない。

 そこで、先に進むために最終手段に出たのだ。

 

 俺にお姫様抱っこされた雪乃は羞恥に身もだえていたのであった。

 

    ×   ×   ×   ×

 

「雪乃……、これは……」

 

 ホテルの部屋について中に入るとダブルベッドが目の前にあった。

 

 

「何かしら?」

 

 涼しい声で雪乃は答える。

 

 

「これって……」

 

 

「ダブルベッドよ。何か?」

 

 雪乃はこれ以上余計なことを喋ったら[ピーーー]わよという殺気を放っていた。

 

 雪乃と旅行に来るのは3度目だが、ダブルベッドは初めてだ。

 

 最初の旅行で、俺はシングルを2室取った。

 雪乃は不機嫌そうにジト目を向けてきた。

 

 次の旅行で、俺はシングルツインを1室取った。

 ツインかと思ったらシングルの部屋だった。

 だって俺、旅慣れていないんだもん……。

 

 当然、そんな言い訳が通じるわけはない。

 雪乃をその部屋に宿泊させたが、その日はほかに空室がなかった。

 俺は別のホテルに自分の部屋を取ったため、雪乃から激しく罵られ、次の日も口をきいてもらえなかったの

であった。

 

 そして、3度目の今回は雪乃が部屋を取った。

 

 あまりにも大胆すぎる雪乃にドキドキしてしまった。

 あのー……、そのー……、俺、アレを用意していないんですけど……。

 いきなり責任取るとか、貧乏学生なのでまだ無理ですが、何か?

 

 

「……まぁ、なんだ。その……、安着祝いってことで飲まないか?」

 

 やべー、雪乃のことを急に意識し始めて、俺の中で妄想が止まらなくなっている。

 それに雪乃はチェックインの時にちゃっかりと「比企谷雪乃」とかいう偽名を名乗っていた。

 これで意識しない方がおかしい。

 酒でも飲んで気を紛らわせないと正気を保っていられない。

 いつまでもモラトリアムをやっていたいのに、俺の歳で父親になるとかマジ勘弁。

 

 

「ええ、いいわよ」

 

 ホテルの自販機で缶ビールを2つ買って乾杯した。

 今日は、早朝に千葉を出発して高松までやって来た。

 なかなかなの移動距離だ。

 

 くーっ、ビールが五臓六腑に染み渡る。

 下戸である俺と雪乃は、たちまちノックアウトされ、懸念された事案は発生しなかったのであった。

 

    ×   ×   ×   × 

 

 旅行2日目。

 

 今日は、屋島の史跡巡りだ。

 屋島の史跡マップを事前に手を入れたが、これには結構な数が載っていた。

 それらを今日は、1日いっぱいかけてそれらを回るのだ。

 

 雪乃は旅行前に源平ものの本を読み漁っていて、俺に付き合う気満々のようだ。

 そんな雪乃のしおらしさが可愛らしい。

 

 騎上の那須与一が平家の船上に立てかけられた扇を射抜いた際に願をかけた「願い岩」、義経が弓矢を敵兵の前で流してしまい慌てて熊手でかき集めたという「義経の弓流し」、まな板を持っていなかった源氏の兵が調理のために平らな背中で野菜を切ったという「菜切り地蔵」などさまざま史跡や伝承の地を訪れた。

 それにしても、地蔵の背中で菜っ葉を切るなんてなんて罰当たりなんだろう。

 

 

 そして、午後からは屋島"本島"へといった。

 屋島地形学的には四国本土から独立した島だが、法律上では四国本土に含まれるという。

 幅数mの海峡が彼我を隔てているが、法律上では川として扱われているため、陸続きとみなされているのだ。

 

 ここでは、山頂まで登り、願掛けに「瓦投げ」をして楽しんだ。

 俺も雪乃も互いに何を願ったかは内緒にしたが、きっと同じことを考えていたのだろう。

 

 

「ところで八幡、ここから『檀ノ浦が見渡せる』って書かれているのに、九州がどこにも見当たらないのだけれど」

 

 雪乃が小首をかしげて尋ねてきた。

 

 

「いや、『だん』の字が違うから。関門海峡の方は土偏の『壇』で、こっちは木偏の『檀』なんだわ」

 

 確かにこれはマニアでなければ、勘違いするかもな。

 雪乃と同じ感想を持った奴はきっとほかにもたくさんいることだろう。

 

 

「八幡、知っていたのであれば、なぜもっと早く教えてくれないのかしら」

 

 なぜ、この俺に矛先を向けてくるのかしら?

 そんなことを言おうものなら「何か?」と返されるのが関の山なので、軽く聞き流すことにした。

 

 山上めがけて吹き抜けてくる風が気持ちいい。

 しばし、壇ノ浦ならぬ檀ノ浦の眺望を楽しんだ。 

 

 史跡巡りを終えたあと時間があったので、高松平家物語歴史館へ寄った。

 ここには、平家物語に描かれている数々のシーンが膨大な数の蝋人形で再現されている。

 壇ノ浦の合戦の様子を描いたものなんて、まさに地獄絵図そのものだ。

 

 ここでも、展示の演出に怯え、俺に縋り付いてくる可愛い雪乃の姿を見ることができた。

 こんな雪乃なら何度でも見てみたい。

 

 結局、この日も歩き回った疲れでベッドに入るなりすぐに眠りについたのであった。

 

    ×   ×   ×   × 

 

「八幡、さっきから『揺するのはやめて欲しい』と言っているのだけれど……」

 

 雪乃が震える声で懇願してくる。

 

 

「俺は何も揺すっちゃいねえ……。おい、おい、急に引っ張んなよ。揺れて怖いだろうが」

 

 

 旅行3日目。

 俺と雪乃は奥祖谷の二重かずら橋にいる。

 

 ここにはシラクチカズラという植物の蔓で架けられているかずら橋が2つ並んでいる。

 別名「夫婦橋」と呼ばれる。

 この橋は足元が格子状に木が組まれているので、川の水面が覗いて見える。

 高所恐怖症の人間にとっては、かなりの絶叫スポットだ。

 

 この日は、香川県から徳島県に入った。

 

 脇町のうだつの町並み散策をした後、祖谷のかずら橋を回って奥祖谷までやって来た。

 雪乃は祖谷のかずら橋でも同様に怯えていたにもかかわらず、性懲りもなく二重かずら橋にも行きたいと言った。

 

 それにしても、雪乃はいったいどういう学習能力をしているのだろうか。

 この植物だけで作られた吊り橋の上で、雪乃はさっきからフラフラしている。

 ただでさえ、その振動で橋が揺れているのに急に服を引っ張ってきて俺を急停止させてく

れるのだ。

 だから、さらに揺れてしまい、俺もかなりの恐怖を感じている。

 

 さすがにここでは、初日の「渦の道」のようにお姫様抱っこをするわけにはいかない。

 橋の真ん中で立ち往生してしまったのだが、どうすりゃいいんだよ?

 

 吊り橋で出会った男女は恋に落ちやすいだとかいう「吊り橋理論」なるものがあるが、今まさに俺が置かれている状況はそんな理論とは真逆だ。

 恋ではなく、豊かな水量を湛える祖谷川に落ちてしまいそうだ。

 

 

「雪乃、頼むから引っ張らんでくれ。ゆっくりと手を引いて歩くから、それで辛抱してくれないか」

 

 

「ええ。……八幡頼むわ」

 

 雪乃は顔を赤らめているが、俺の顔は青ざめている。

 

 ちょっとこれって不公平じゃないか。

 

    ×   ×   ×   × 

 

「さてと、今日の宿はここだ」

 

 

「えっ……。これって民家ではないのかしら……」

 

 俺たちは農家民宿なるところへやって来た。

 予約は雪乃が入れたが、この宿はもともと俺が見つけたのだ。

 

 

「ああ、ここは山間部の農家の生活体験ができる宿だ」

 

 俺たちがこれから2日間泊まるのは茅葺の家屋だ。

 この家屋が丸々一棟俺たちにあてがわれるだ。

 

 

「それにしても、まだ15時なのだけれどチェックインするにはまだ早すぎるのではないかしら」

 

 平家屋敷やら資料館やら色々と見学する場所があるにもかかわらず、それらをスルーしていることに雪乃は疑問を感じた。

 

 

「いや、それはな……」

 

 部屋の鍵を借りに向かいながら事情を説明しようとしていると、向こうから一人の男性が駆け寄って来た。

 

 

「き、君が比企谷くんだね」

 

 三十をちょっと過ぎた男性が何やら焦った口調で話しかけてきた。

 

 

「はい、比企谷です」

 

 

「えっと……これ鍵ね。あと、こっちが納屋の鍵。納屋の中に冷蔵庫があるから。その中に2日分の食材があるから使って……。えっと、それから薪もあるから。……あー、君たち薪割りしたことがあるかい?」

 

 とにかく焦っている様子だ。

 次から次へとまくし立てるように話すので、頭をフル回転して情報を叩きこむ。

 

 

「あのー、どうかなさったのですか?」

 

 きょとんとしている雪乃をそのままにして、質問した。

 

「つ、妻が急に産気づいたんだ。予定日までまだ一月あるのに、ついさっき急に産気づいたんだ。妻は持病持ち

だからこれから病院に駆けつけるところなんだ……」

 

 

「な、何かお手伝いできることがありますか?」

 

 なんか知らないけど、俺まで焦って来ちゃったよ。

 ぼっちは突発な出来事には弱いのだ。

 

 

「そ、そしたら、ちょっと頼むよ……」

 

 

 ── 10分後

 

 オーナー夫婦は小一時間離れた町場の病院めがけて出発した。

 俺の手には連絡先のメモが握られていた。

 オーナーの携帯の番号と10分ほど離れたところに住むオーナーのご両親宅の電話番号だ。

 あまりにも突然の出来事で、雪乃とふたりでしばらく放心状態になっていた。

 

 

「八幡、私たちだけになってしまったのだけれど、何をしたらよいのかしら……」

 

 すがるような目で俺を見つめる雪乃は、そっと俺の袖口を引っ張った。

 

 

「そうだな、まずは薪割りだな」

 

    ×   ×   ×   ×

 

「八幡、鉈を渡すわね……」

 

 

「ちょっと待ったー! 雪乃!!」

 

 鉈をさやから取り出そうとする雪乃を大声で静止した。

 

 

「鉈を渡すときはこうやるんだ……」

と実演してみせた。

 

 鉈の刃は大変鋭い。

 はさみや包丁と同じ感覚で刃の部分を持って渡そうものなら、たちまち5本の指を失ってしまう。

 薪割り台にザクッと刺して手を離したところで、柄の部分を持ってもらうのが正しいやり方だ。

 あと、防刃手袋をつけた方が良い。

 これは、中学の時に千葉村で教わった知識だ。

 

 ちなみに、奉仕部の合宿の時、戸部が振りかぶって薪を割っていたがあれも間違いだ。

 薪割り台に薪を載せたあと、薪の上にしっかりと鉈の刃をあてがってさせてからゆっくりと刃の重みで下ろしていくのが正解だ。

 また、薪が固いときは鉈の刃を同じくあてがってから別の薪で刃の部分を叩くのだ。

 雪乃と一緒に1時間で3束の薪を割った。

 

 さて、薪割りが終わったから今度は火おこしだ。

 かまどに薪をくべ、火をおこす。

 火打石はうまく使えないので、火おこし器で種火をおこした。

 これは佐倉の国立歴史民俗博物館のイベントで覚えてきた。

 俺はディズニーランドと歴博の年間パスポートを両方持っている。

 俺の千葉愛は誰にも負けないつもりだ。

 

 ところで、さっきから雪乃が向けてくる視線が妙に熱を帯びて色っぽい。

 気の迷いをおこしてしまいそうになったので、すぐに気持ちを切り替えて食事の準備をした。

 

 煤汚れが取れやすいように底をクレンザーで塗ったくった鍋と釜でカレーライスを作って食べ終えると、すぐに洗い物をして風呂の準備を始めた。

 ここまでノンストップで3時間ちょっと。

 井戸から水を何往復もして運んでこなければならないので、なかなかの重労働だ。

 

 雪乃は人並み外れて体力が無いのだが、明日は大丈夫なのだろうか?

 

 

「すっかり暗くなったわね。あの時間帯に宿に入って正解だったわね」

 

 

 山奥にあるので千葉よりも暗くなるのが早い祖谷。

 雪乃は今日の早い時間帯のチェックインに疑問を感じていたが、どうやら理解したようだ。

 

 風呂をあがってようやく一息つけた。

 しかし、そうゆっくりはできなかった。

 

 ランプの灯りのもと、メモ帳に今日見学してきた内容をまとめる作業をしていた。

 この家屋には電気が引かれていない。

 当然コンセントもない。

 パソコンは全く使えないので、手書きで記録をまとめていた。

 

 

「八幡、まだ終わらないのかしら」

 

 雪乃が不機嫌そうに声をかけてきた。

 

 

「あともう少しで終わるから待っていてくれ」

 

 雪乃が持参したシャンパーニュロゼを啜りながら答えた。

 

 

「本当に少しなのかしら」

 

 俺のメモ帳を覗き込んできた。

 

 

「ああ、あと10秒もあれば終わる」

 

 最後の一文を書き留め終えると、雪乃が肩にもたれかかってきた。

 

 

「あなたって、以外にまじめなのね」

 

 

「そりゃ、単位がかかっているからな」

 

 

「それに……、今日はその……、とても頼もしかったわ」

 

 

「まぁ、俺はアウトドア向きではないからな」

 

 

「ただの引きこもりかと思っていたのだけれど……、す、素敵だったわ」

 

 ランプの揺らぐ炎のせいか、雪乃が艶めかしく見えた。

 髪をアップにしているので、うなじが覗いている。

 ドキッとした俺は思わず紅潮しているうなじを凝視してしまった。

 

 しばらく互いのことを見つめ合って極上の沈黙の時間を過ごした。

 雪乃とはこうしているだけで幸せだ。

 互いに口数が少ない分、無言でいても苦に感じない。

 むしろ、俺たちは静寂のひとときを楽しんでいるきらいがある。

 

 不意に谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』を思い浮かべてしまった。

 初めて読んだとき、日本で初めてスワッピングをした変態が何を言うと思ったが、この状況では谷崎の言わんとしたことがなんとなくわかった気がする。

 

 まぁ、でも、あれだな……。

 谷崎が美しいと言っているものより、雪乃の方が間違いなく美しい。

 異論は断固として認めない。

 

 そんなことを考えていると、雪乃は俺の胸に顔をうずめて静かに寝息を立てた。

 テレビも見れないことだし、今日はもう寝るとするか。

 

    ×   ×   ×   ×

 

 痛ぇ……。

 右腕に痺れと痛みを感じて目を覚ました。

 昨日、何度も井戸から水を運んだから筋肉痛になったのだろうか。

 

「?!」

 

 痺れと痛みの正体は雪乃だった。

 俺の右腕を枕にしていた。

 何の夢をているのだろうか?

 穏やかな笑みを湛えながら雪乃は美しい寝顔を見せていた。

 雪乃もこうして黙っていれば、美人なのにな。

 

 舌鋒鋭い雪乃の暴言に日々貶められている俺。

 なんだ、もっと、その……、自身の胸のように慎ましやかな態度接してくれればありがたいのだが。

 そんな雪乃に惚れてしまったのだから仕方がないといえばそれまでだ。

 

 さて、どうしようものか。

 尿意を催すがこの状況では、トイレには行くにはいけない。

 いつまでもこの寝顔を見ていたい気持ちと尿意との狭間でジレンマを抱えていた。

 

 

「んっ……」

 

 雪乃が目を覚ました。

 

 

「! ……八幡、あなたの顔を見ると一発で目が覚めてしまったわ」

 

 目覚めの開口一番、いきなり悪態をつかれた。

 

「雪乃、普通はここで、おはようじゃないのか……」

 

 呆れた口調で返した。

 しかし、いつものように無視された。

 

 

「ところで八幡、なぜあなたと同じと布団で寝ているのかしら」

 

 目を開いたものの俺の腕から頭をどける気配はない。

 

 

「いやいや、お前が俺の蒲団に入ってきたんだろ……」

 それに俺の腕、めちゃくちゃ痺れていたいんだけど。

 

「そうかしら。夜中に目が覚めた時、八幡が隣にいないから寂しかったのだけれど」

 

「おいおい、今の思いっきり矛盾してるだろ」

 

 

「そうかしら……」

 

 急に顔を真っ赤にした雪乃。

 眼前30センチのところで、いつもより大写しに見える雪乃の顔を見ていると、こっちまでドキドキしてきた。

 

「ところで、俺はトイレに行きたいんだが……」

 

 そろそろ我慢の限界に近付いてきた。

 

 

「そう……。八幡、あたな使えないわね。せっかくいい枕を見つけたのに」

 

 俺は枕扱いかよ。

 どうせなら抱き枕とかにしてくれない。

 あんまり当たるところがなさそうだけど、特に胸とか。

 

 家屋の外にあるトイレで用を足し、手水で手を洗って戻ってくると布団が片づけられていた。

 

 

「なにお前、これからラジオ体操でもしに行くの? 俺は夏休みサボっていた方なんだけ

 

 

「だ、だめよ、八幡。布団に一緒にいたら……」

 

 なんで雪乃と一緒に布団の中にいる前提なんだよ。

 

 俺は寝たい。

 ひとりで寝たい。

 それと、腕がまだジンジンしていて痛い。

 

 

 手桶に水を汲みに外に出ると、60過ぎの夫婦がやって来た。

 

 

「お兄ちゃんががここに泊まった人かい?」

 

 

「ええ、そうです」

 

 

「昨日は息子夫婦が迷惑かけてすまなかったね。これ朝食だから」

 

 夫婦の手にはふたり分の食事があった。

 どうやら差し入れのようだ。

 

 

「あいすみません。お気遣いただきまして、どうもありがとうございます」

 

 うやうやしく礼を言った。

 

 

「ところで、奥さんは中にいるのかい?」

 

 俺たちのことを夫婦だと思っているらしい。

 

 

「え……え、まぁ……」

 

 どう反応したらよいかわからず、中途半端な答えになってしまった。

 

 

「あのー、実は平家伝説について調べに来たのですが、平家にゆかりのある方ですか?」

 

    ×   ×   ×   ×

 

「新婚さんだと思ったけど、学生さんだったんだね」

 

 食事後、まだ6時をまわったばかりだというのにご夫婦のご厚意に甘えて家に上げてもらっている。

 平家一門の末裔の方のようで、伝来の品を見せてもらったり伝承を聞かせてもらったりしていると

ころだ。

 

 許可をいただいてICレコーダーに録音させていただいているが、こうして雑談を挟みながら話を伺っている。

 俺と雪乃ののろけ話もところどころ録音されている。

 あとからこれを聞き直してレポートにまとめるとかなんていう拷問なの?

 

 

「朝ごはんを用意してくださってありがとうございます。朝からまた2時間コースで炊事をする覚悟だったので助かりました」

 

 雪乃は慇懃に謝辞を述べた。

 

 

「あなたたちは、若いのに息子たちから何も教わらないで普通に炊事、風呂焚きができたのだから大したものね」

 

 雪乃は褒められてちょっと照れていた。

 しかし、薪割り、火おこし、風呂焚き、それほとんどやったのは俺なんだけど。

 

 一通り話を伺うとご夫婦が尋ねてきた。

 

 

「ところで、『農業体験』は何を申し込んだんだい?」

 

 

「山菜摘みと豆腐作りです」

 

 雪乃が答えた。

 ところでこれって農業体験なのか?

 春や秋だったらいろいろと農作業があったのだろう。

 

 

「君たちは、日中は取材で忙しくなりそうだから、早速始めようか」

 

 旦那さんは年季の入った農協マークのつば付き帽を被るとスクッと立ち上がった。

 

    ×   ×   ×   ×

 

「雪乃ちゃん、これは何かわかる?」

 

 俺たちは今、夏の山菜摘みをしている。

 今晩の夕食のおかずにするのだ。

 

 奥さんは雪乃のことが気に入ったようで、さっきからこうして話しかけている。

 

 

「これは、ミツバかしら」

 

 

「そうよ。雪乃ちゃん、正解よ。ねっ、八幡くん、良い奥さんになりそうね」

 

 いたずらっぽく笑いながら、俺と雪乃を見る。

 ふたりとも顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。

 

 

「あら、初々しくていいわね。あっ、これこれ、八幡くん、これは何かわかる?」

 

 さっぱりわからない。

 

 

「八幡くん、君が大好きなものだよ」

 

 ニヤニヤしながら旦那さんの方が俺にヒントを与えてくれた。

 

 

「も、もしかして、これって……、ユ……ユ……」

 

 恥ずかしくて頭文字でストップしてしまった。

 雪乃はわからないらしく小首をかしげていた。

 

 

「さぁ、八幡くん。男らしいところを見せないとね。あなた大好きなんでしょ」

 

 奥様からとどめの一言をにっこりと言われる。

 なにこの拷問。

 正解したら雪乃がデレたのを見て悶死、不正解だったら雪乃に睨まれて獄門死……ゴクリ。

 ちっとも逃げ場がない。

 

 

「さぁ!」

 

 うっ……、もう逃げられないか。

 

 

「ユ、ユキノシタです……」

 

 

「だって、雪乃ちゃん!」

 

 雪乃ちゃんをつつきながら奥さんがニヤニヤしている。

 雪乃は顔から火が出たように真っ赤になっていた。

 もちろん、俺もだ。

 

「こ、これって、毒草ですか?」

 

 そう尋ねると、急にほてりを覚まして冷気を帯びた表情で雪乃が、

 

 

「何か?」

 

とすごんできた。

 怖っ!

 

 

「これは胡麻和えのおひたしや白雪揚げって天ぷらにして食べたり、熱さましや火傷、凍傷に効く薬草としても使われるんだよ」

 

 旦那さんが教えてくれた。

 

 

「凍傷に効くんじゃなくて、凍傷になるの間違いじゃないんですか」

 

 

「八幡、あなた何て言ったのかしら」

 

 雪乃はギロリと睨んでくる。

 凍傷どころか氷漬けにされてしまった気分だ。

 

 

「可愛い彼女さんなんだから、ほどほどにしておきなさい、八幡くん……」

 

と奥様にたしなめられた。

 

 あのー、いつも攻撃にさらされているのは俺の方なんですけど。

 

 

「……だって、雪乃ちゃんは奥さんになる人なんでしょ。比企谷雪乃って名前で宿泊を申し込んできたんだから」

 

 

「!……」

 

 雪乃は思わぬ暴露で固まってしまった。

 いや、知ってるって、お前は高松のホテルでもやってただろ。

 

 終始、ご夫婦のペースに狂わされっぱなしのまま俺たちは散策を兼ねた山菜摘みと豆腐作りを終えた。

 そのあと、旦那さんが方々に連絡を取ってくれたおかげで、山の斜面いっぱいに広がる集落でのレポート

取材はスムーズに進んだ。

 ほかにも平家屋敷や資料館を回ったり、祖谷峡に足を延ばしたりと祖谷の自然と風土を満喫して日中の行程

をこなした。

 

 

 夕方からは「『夫婦水入らず』のところ押しかけてごめんね」とご夫婦がやって来た。

 一緒に炊事をして朝積みの山菜や作った豆腐を堪能した。

 特にユキノシタの白雪揚げがおいしかった。

 

 やはりここでもこのご夫妻のペースに乗せられ、しどろもどろの俺と雪乃だった。

 俺らでは銀婚式をとうに向かえたこのふたりにはどうあがいてもかなわない。

 そんなこんなで楽しいひと時もお開きムードになった頃、旦那さんの携帯が鳴った。

 

 

「おーー、そうか! おめでとう!!」

 

 どうやら無事出産したようだ。

 奥様とも話した後、俺たちに携帯が手渡された。

 

 

「比企谷くんたち、ほんとにすまなかったね。でも、おかげさまで無事長女が産まれたよ!」

 

    ×   ×   ×   ×

 

「どうもお世話になりました。お元気で」

「本当にお世話になりました。お体ご自愛ください」

 

 

「比企谷くんと雪乃ちゃん、今度は結婚したらまたおいでね」

「ふたりとも待っているぞ」

 

 

 別れの言葉を交わし、祖谷をあとにした。

 

 今日は5泊6日の旅行の5日目だ。

 今日は四国から本州に向かい、神戸まで行くのだ。

 

 

「ご夫婦には本当に良くしていただいたわね」

 

 

「ああ、本当に来てよかった」

 

 祖谷での2泊3日のことは生涯忘れられないだろう。

 本当に濃密な時間を過ごすことができた。

 

 

「さて、若夫婦の病院にも寄ってみようか」

 

 

「そうね、贈答の品を買っていきましょう。でも、その前に大歩危小歩危の川下りをしていかないと……」

 

 そういえば、雪乃はじゃらん片手に楽しそうに調べていたなぁ。

 

 

 遊覧船は俺たちふたりだけの貸し切り状態だった。

 

 徳島方向で大きな事故があって国道が一時通行止めになっているせいだという。

 そこを通っていく予定だが、しばらく観光して通行止め解除を待つのも一つの手だろう。

 船頭さんとの会話を楽しみながら、奇岩怪石が織りなす渓谷の清流を満喫した。

 

 これまで俺も雪乃も大股で歩くと危険、小股で歩くと危険ということから「大歩危」「小歩危」と地名がつけられたと見聞きしていたが、これは誤りで崖を意味する「ほけ」「ほき」という言葉に由来するものだそうだ。

 

 こういうことを知るのはまさに旅の醍醐味だ。

 

 

 遊覧船を降りると若夫婦のいる病院へと向かった。

 国道は通行再開となり、スムーズに進むことができた。

 

 病室に行くと赤ちゃんを抱いて幸せいっぱいの笑顔を浮かべている若夫婦が待っていた。

 

 

「比企谷くん、本当に悪いことしちゃったね。でも、ご覧のとおり母子ともに元気だよ!」

 

 すっかりとお父さんの表情になった旦那さんが満面の笑みで声をかけてきた。

 

 

「この子は今朝、新生児室から出てきたばかりなの。雪乃さん、抱いてみて」

 

 雪乃は恐る恐る赤ちゃんを抱いていた。

 いくら氷の女王といえども母性は持っているようだ。

 最初は首のすわりが気になって緊張した面持ちだったが、柔和な表情で赤ちゃん言葉を一生懸命話して

あやしている。

 

 

「ほら、比企谷くんも抱いてみてごらん」

 

 奥さんに促されて俺も抱いてみた。

 しかし、しっくりと来ない。

 赤ちゃんも同様に感じたのか、大声で泣き始めた。

 

 やっぱりこういうのは女性にはかなわない。

 俺も自分の父親のことを屑だと思っているが、母親に対してはそこまでの感情は抱いていない。

 あっ、でも雪乃の場合は違うか……。

 まだ見ぬ雪乃の母親のことを考えてしまったが、すぐに頭から拭い去った。

 

 

「俺たちそろそろ神戸に向かうんで、これで失礼します」

 

 

「それと、これは私たちふたりからです」

 

 雪乃と一緒にベビー用品専門店で赤を赤らめながら選んできたベビー服とおむつを手渡した。

 

 

「ふたりとも悪いね」

「病院に行く支度を手伝わせてしまったうえにほったらかしにしていたのにごめんなさいね」

 

 

 ふたりとも所在なさげに声をかけてきた。

 

 

「今度は結婚したらまた祖谷に来て。今度はしっかりと歓待するから」

「ぜひ、ふたりのお子さんの顔も見てみたいわ」

 

 

「……」

「……」

 

 

 俺も雪乃も羞恥のあまりに黙りこくってしまった。

 

 そして、互いの健康と幸せを願い、再開を約束したあと、病室を辞した。

 

    ×   ×   ×   ×

 

「さぁ、神戸までぼちぼち向かうか。雪乃、運転代わってくんない?」

 

 そういえば、初日の大鳴門橋のあたり以外は全部俺が運転していたよな。

 交代で運転するって話だったのに。

 

 

「嫌よ!」

 

 力強くきっぱりと断った。

 なにその「ますらおぶり」は。

 あなた、鎌倉武士なの?

 

 

「……だって、こうしていられないじゃない……」

 

 オートマ車なのでほとんど使うことのないシフトレバー。

 その上にちょこんと置いている俺の左手にそっと右手を添えてきた。

 

 

「そうかい」

 

 

「ええ、そうよ」 

 

 

 結局、そのまま運転することになった俺だが、ちょくちょく休憩をとりながら神戸に向かった。

 せっかくだから何か見ていこうと阿波の土柱に立ち寄った。

 世界三大土柱の一つらしいが、俺も雪乃も初めてその存在を知った。

 サスペンスドラマのクライマックスで登場しそうな場所だった。

 

 周りには誰もいない。

 雪乃とボーッとしながら風雨が長い年月をかけて形成した景観を楽しんだ。

 

 

 さて、次はどこに行く?

 

 

「……」

 

 雪乃は赤面して激しく狼狽していた。

 

 俺たちが入ったのは某名所近くにある日本初という秘宝館だ。

 よくもまあこんなに集めたものだと、所狭しと並ぶ「お宝」の数々。

 雪乃と一緒なだけあって、かなり目のやり場に困った。

 雪乃なんかは完全に目が泳いでいた。

 

 一見物静かそうなご主人が展示品を前にして立て板に水の如く饒舌に語りだす。

 このギャップがたまらない。

 雪乃はかなりテンパっていたが、なおも口上は続いた。

 

 なぁ、雪乃……、これからは他人様の忠告には素直に耳を傾けることだな。

 俺は一応、よしとけって言ったからな……。

 

 それにしても、ディープだ、ディープすぎる……。

 白昼夢の中をさまよっているような感覚にとらわれたのであった。

 

 

「雪乃、どこか寄りたいとこはあるか?」

 

 まだ顔のほてりがとれない雪乃は顎に手をやりながら考え込んでいた。

 

 

「……そうね。もう一度松帆の浦に寄ってもらえないかしら」

 

 実は俺も帰りに寄りたいと思っていたところだ。

 

 

 四国を飛び出し、再び淡路島にある松帆の浦にやって来た。

 

 沖合を大型船が行き交い、対岸には工場地帯が広がっていた。

 中世文学的情緒は影を潜めているのだが、どうしてもここでないとダメだと俺の本能がそう言っていた。

 

 

 礫が敷き詰められたように広がる岩石海岸の波打ち際をふたり手を繋いで歩いた。

 

 

「『来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ』か……」

 

 俺は歩みを止めると対岸を見つめながら定家の和歌をつぶやいた。

 

 

「『玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする』と返すべきね……」

 

 雪乃は式子内親王の和歌をそらんじて返答した。

 

 そして、さらに続けた。

 

 

「……でも、私たちはこうして互いのことを想いながら一緒にいることができる」

 

 雪乃はそう言って、身を寄せてきた。

 

 

「ああ、まったくその通りだな……」

 

 雪乃の両肩を掴んで向き合った俺は、今まで心に秘めてきた「決意」を述べることにした。

 

 

「雪乃、大学を出たら俺と結婚してください。一生をかけて雪乃のことを幸せにします」

 

 

「八幡、もちろん喜んでお受けいたします。ふつつか者の私ですが、よろしくお願いいたします」

 

 

 西の空に黄金色をした夕陽が沈んでゆく。

 

 ふたりで夕陽を見送りながら、まだ先は見えねどもどこまでもどこまでも続いていくであろうふたりの未来について思いを馳せた。

 

 

「雪乃、指輪の代わりといっちゃなんだが、この夜景で我慢してくれないか」

 

 

「そんなこと気にしなくてもいいわよ。八幡から一番欲しかった言葉を言ってもらえたもの」

 

 神戸に着いた俺たちは、摩耶山から100万ドルの夜景を楽しんでいる。

 

 

「指輪な、クリスマスに渡そうと思っていたんだ。でも、まだ金が足りない」

 

 

「そういうことを直接伝えるのはどうかしら。八幡らしいといえば、それまでだけれども」

 

 額に手をやりながらも上機嫌でクスッと返してきた。

 

 

「ねえ、八幡……。その……、あなたはプロポーズしようといつ思ったの?」

 

 

「俺は病院で赤ちゃんを見た時かな。俺もああなりたいって……」

 

 自分の心の中をさらけ出すのはちょっと恥ずかしい。

 

 

「私もよ……」

 

 きっと雪乃もそうなのだろう。

 

 

「……もし、あの時あなたがああ言ってくれなかったら、私から言おうと思っていたのよ」

 

 あまりにも唐突な告白に軽く狼狽したが、そういえば俺だって……

 

 

「実はな……、俺がクリスマスイブに告白した時、一緒にプロポーズもしようと思っていたんだ。でもな、雪乃がOKしてくれたことで舞い上がって

プロポーズするの忘れていたんだ……」

 

 

「は、八幡……、あなたって人は……」

 

 雪乃がいったいどういう心境でこう答えのかはわからない。

 

 

 ただ一つ言えることは、この日の「この時」以上にベストのタイミングはなかったのだろう……。

 

 

 俺たちは幸せをかみしめて宿へと向かった。

 

    ×   ×   ×   ×

 

「ただいまー」

 

 玄関を開けると、小さな影が素早く動き俺に飛び付いてきた。

 

 

「おとうさん、おかえりなさーい」

「おとうさん、おかえりなさーい」

 

 

「おう、ただいま」

 

 

「すごーい、おかあさんのいったとおり、おとうさんがかえってきたー。あいのちからってすごーい」

「ほんとだー。あいのちからすごーい」

 

 小さな影の正体は、3歳になる俺の息子と娘だ。

 

 

 雪乃とは大学を卒業した年の6月に結婚した。

 

 結婚に至るまでは驚くくらいスムーズだった。

 付き合い始めてすぐに雪乃を両親に紹介していたので、俺の家の方は全く問題がなかった。

 小町も両親もものすごく喜んでくれた。

 

 

 雪乃の家の方も驚くくらい、俺たちの結婚を後押ししてくれた。

 

 陽乃さんが雪乃のご両親に高校時代から同棲しているだとか、あることないことを吹き込んでいた。

 雪乃もずっと実家に帰っていなかったせいもあってか、陽乃さんの言うことをすっかり真に受けてしまったそうだ。

 それで、雪乃に良家との縁談を進めようなんて考えも起きず、すっかりあきらめがついていたらしい。

 

 そんなとき、俺たちは結婚を考えていることを報告しに行った。

 そこで初めて、陽乃さんの言っていたことが全くのでたらめだったこと、俺たちが真面目に交際して

いたことを知って目を真ん丸にして驚いたのだ。

 

 それまで雪乃と不仲だったお義母さんもこれには全くケチのつけようもなく、「ぜひ、うちの娘を……」と、二つ返事で了承してくれて、とんとん拍子で結婚話が進んでいった。

 

 

 そして、結婚の翌年の9月に双子が誕生した。

 

 息子は俺似だが、目は腐っていない。

 娘は雪乃似だが、武闘派ではなく穏やかに育っている。

 親のひいき目を差し引いても将来有望だと思っている。

 

 いや、娘に近づく男は俺が指一本たりとも触れさせはしない!

 

 

「ほらよ」

 

 カバンとコートを手渡すとわいわい言いながら仲良く部屋の中へと消えていった。

 

 

「フフフ。おかえりなさい、八幡」

 

 雪乃が悪戯っぽくほほえみながら迎えてくれた。

 

 

「雪乃……、あいつらにいったい何教えたんだよ」

 

 「愛の力」とか言ってたんだけど、何やってんの?

 

 

「フフフ……。あなた、いつも駅に着いたらメールくれるでしょ……」

 

 このメールは結婚してからの習慣となっている。

 子どもができる前、ふたりとも仕事をしていたので、先に帰った方が晩飯を作ることにしていた。

 駅前のスーパーで買い物をして食材を調達する都合上こうしていたのだ。

 

 雪乃が専業主婦となった今は、仕事が遅くなったとき料理を温め直す合図となっている。

 実は正確に言うと兼業主婦なんだけどな。

 

 

「それで、いつもメールをくれてから5分きっかりで家に着くじゃない。私が料理を温め直すとその直後にあなたが帰ってくる。あの子たちは、私たちのメールのやり取りを知らないからいつも不思議がっていたの……。

それで、『お母さんはどうしてお父さんが帰ってくるのがわかるの?』なんて聞くものだから、『愛の力よ』って答えたの」

 

 結婚して4年以上経つが、雪乃はもじもじ照れながら答えた。

 相変わらず照れた雪乃は可愛い。

 思わず抱きしめたくなったが、子どもの手前やめといた。

 

 

「ほどほどにしとけよ」

 

 苦笑しながら答えたが、「愛の力」と言われるのは悪くはない。

 なんせ俺はそんな雪乃と2人の子どもを心から愛している。

 

 

「おとうさーん、おかあさーん、はやくこないとごはんさめちゃうよー」

「さめちゃうよー」

 

 

「おう、今行くぞー」

「今行くわよー」

 

 束の間の夫婦の会話を終え、ふたりとも2児の父親と母親に戻った。

 

    ×   ×   ×   ×

 

「おとうさん、あしたはどこにおでかけするのー」

 

 今日は金曜日だ。 

 金曜日はいつも定時で退勤するように心がけている。

 そして、土日はできる限り家族で出掛けるようにしている。

 金曜日の夕食では、こうして子どもたちのリクエストを聞くようにしていのだ。

 

 

「どこに行きたいんだ?」

 

 引きこもり状態だった10年前の俺からは信じられない質問だ。

 

 

「ぼく、マザーぼくじょうにいきたいなー」

 

 さすがは我が息子。

 

 必ず千葉県内の施設の名前を挙げる。

 きっと将来は千葉愛に満ち溢れたいい男になることだろう。

 

 

「あなたはどこに行きたいのかしら?」

 

 雪乃が娘に尋ねた。

 

 

「わたしはね、うーん……」

 

 顎に手をやり考え込むポーズ。

 どっかで見たことが……。

 

 

「……あきになったことだし、おいもさんをほりにいくのがいいとおもっているのだけれど」

 

 何このミニ雪乃。

 思わずブッと吹き出してしまった。

 

 

「なにかしら?」

 

 またしても、娘がこう言った。

 おいおい、雪乃、娘に口調が伝染してしまっているぞ。

 

 笑いをこらえながら雪乃の方を見ると顔を真っ赤にしていた。

 俺の視線に気づくとキッとした視線を送りながらこう言った。

 

 

「何か?」

 

「……なにか?」

 

 やっぱり娘が真似をした。

 雪乃は頬を朱に染めて、うなだれている。

 

 

 まさか、このまま雪乃みたいな性格に育ってしまったりしないだろうな。

 思春期になったら俺、怖くて手が付けられないぞ。

 

 いや待て、息子に俺の目が伝染して腐り始めたらどうしよう。

 我が子にはトラウマを量産する人生を歩ませるわけにはいかない。

 ただでさえ、どっかの千葉の兄妹のように仲が良すぎるふたりのことを心配をしている。

 本格的にふたりの我が子の行く末が不安になってしまった。

 

 

「じゃあ、決まりだな。明日は、マザー牧場に行って動物さんと触れ合ったあと、お芋掘りだな。

お母さんにいつものようにおいしいお弁当を作ってもらおう」

 

 

「ええ。腕によりをかけるから、お弁当楽しみにしているのよ」

 

 雪乃は柔和な笑みを湛えながら、子どもたちに語り掛けた。

 

 

「わーい」

「わーい」

 

 こうして我が家のささやかな夕食のひとときは過ぎていった。

 

    ×   ×   ×   ×

 

「おとうさん、これよんでー」

「おとうさん、これよんでー」

 

 ステレオ音声のように同時を声を発しながら、ふたりで仲良く一冊の本を持ってやってきた。

 

 

「おう、今日もこれか? 久しぶりに千葉県横断……」

 

 

「うるとらくいずはもういい!」

「うるとらくいずはもういい!」

ウルトラクイズはもういいわよ」

 何この親子合体攻撃?

 

 

「わかった、わかった……。今日は『さよなら さよなら にんげんさん』のお話を読むからね」

 

 雪乃と交代で子どもたちを風呂に入れて子どもたちを寝かしつけるところだった。

 子どもたちを布団に入れると、俺と雪乃は両側から挟むように寝ころんだ。

 そして、子どもたちに読み聞かせを始めた。

 

 

 いぬいとみこ著 『ながい ながい ペンギンのはなし』だ。

 これは、俺が小さいころ幼稚園で読み聞かせしてもらった思い出深い作品だ。

 雪乃も幼いころ読み聞かせてもらったことがあるらしい。

 

 ペンギンの兄弟、兄のルルと弟のキキが冒険を経てたくましく育っていく物語だ。

 「さよなら さよなら にんげんさん」はその中に収められている3つ目の話である。

 

 

 雪乃とは毎日、交代で読み聞かせをしている。

 雪乃は自作の童話や紙芝居で子どもたちを寝かしつける。

 ふたりの最近のお気に入りは「腐った目をした魚と心を閉ざしたお姫様」の話だ。

 もしかして、誰かモデルがいたりするの、この話?

 

 

 子どもたちに促されるままに『ながい ながい ペンギンのはなし』を読み聞かせていると、しばらくしてふたりともスースー寝息を立てて穏やかな表情で眠りについた。

 

 

「今日はここでおしまいだな」

 

 

「ええ。お疲れ様」

 

 本にしおりを挟んで本棚に戻すと雪乃と居間に引き上げた。

 

 

「八幡、晩酌にする?」

 

 

「いや、今日は雪乃の淹れた紅茶がいいな」

 

 

「じゃあ、シャンパーニュロゼでいいかしら」

 

 

「ああ、頼む」 

 

 

 雪乃とソファーに並んでシャンパーニュロゼを味わう。

 恋人同士に戻った気分だ。

 雪乃が肩にもたれかかりながら話しかけてきた。

 

 

「八幡と知り合って10年目になるのだけれど私はとっても幸せだわ」

 

 

「ああ、俺も幸せだ。ずっとぼっちのまま過ごしていると思っていたのに不思議だ。雪乃と出会わなければ今頃、専業主夫の夢に挫折して引きこもりのニートになっていたかもしれないからな」

 

 

「でも、あなたはなぜか専業主夫の夢をかなえてしまったけどね」

 

 雪乃はクスリと笑いながらこう言った。

 

 結婚して3年目、育児休暇から開けた雪乃と入れ替わりで、俺も1年間の育児休暇を取得した。

 毎日、ふたりの子育てをしながら身の回りの家事をこなして、会社勤めの雪乃のサポートをした。

 1歳になった子どもの世話はなかなか大変だった。

 でも、雪乃はもっと大変な時期の育児を行っていた。

 

 俺は身をもって雪乃の大変さを知ることとなった。

 俺は家事も育児も完璧にこなす雪乃のことを尊敬している。

 妻としてもこれ以上ないくらい最高の女性だ。

 本当に俺は幸せ者だ。

 

 

「ところで、八幡。あなたに2つ話したいことがあるの」

 

 雪乃はスッと立ち上がると、子どもたちを起こさないように寝室から茶封筒を手にして戻ってきた。

 

 

「あなたと一緒に見たかったから、まだ私も見ていないの……」

 

 中からは、校正用のゲラが出てきた。

 

 俺たちの子どもたちが大好きな「腐った目をした魚と心を閉ざしたお姫様」の絵本の原稿だった。

 ふたりで一枚一枚じっくりと見ていった。

 

 

「……どうかしら」

 

 雪乃は恥ずかしそうにぼそぼそと言った。

 

 

「すごくいいな、これ」

 

 雪乃はこの春、会社を辞めた。

 

 子育てに専念したいとのことだったが、せっかくだから趣味で書いている童話や紙芝居を児童文学賞に応募するように勧めた。

 書き溜めたものの中から1点応募し、賞を取ったのがこの作品だ。

 そして、現在絵本として出版の準備が進められている。

 

 編集者にほかの作品も認められ、これからは子どもたちを幼稚園に預けている間、主婦として家事をこなす傍ら兼業作家としてやっていくことになった。

 もちろん、俺は夫として2児の父として雪乃をしっかりと支え、これまで以上に子育てにも励むつもりだ。

 

 雪乃を抱き寄せると、きれいな黒髪を撫でつけた。

 

 雪乃も甘えるように俺の胸の中に顔をうずめた。

 

 

「……それともう一つ話したいことがあるの」

 

 そのままの恰好で雪乃は話し始めた。

 

 

「今日、結衣から電話があったの。結衣は妊娠2か月でお母さんになるそうよ」

 

 

「ほんとかよ、結衣もついに母親になるんだな」

 

 互いに結婚してからも付き合いは続いており、今では家族ぐるみの付き合いだ。

 結衣とその夫は俺たちの子どもを可愛がってくれるので、息子も娘もこのふたりのことが大好きだ。

 結衣のところの子どもが育ったら、2家族で遊びに行ったりするのもいいな。

 

 

「結衣に贈るお祝いの品を考えなければならないわね」

 

 

「そうだな。それから、もう少し子どもが大きくなったら、祖谷でお世話になったご夫婦のところにも行かないとな。若夫婦のお子さんももう小学生になっているんだよな……」

 

 大学3年の時以来合っていないが、今でも老夫婦と若夫婦と便りを交わしている。

 

 

「そうね。子どもたちにも祖谷の美しい景色を見せてあげたいわ。ねえ、八幡、祖谷の雪景色も素晴らしい

そうだから、冬になったら家族旅行で行ってみましょう」

 

 

「そうだな。たった2伯3日の滞在だったけど、ふるさとのような懐かしさを感じるよな。よし、行こう!」

 

 

「ええ」

 

 

 それから自然と祖谷からの帰りに松帆の浦で俺がプロポーズをした時の話題になった。

 

 

 今でも覚えている。

 

 

 あの時のふたりの胸の高まりを……。

 

 

 あの時のふたりの誓いを……。

 

 

「……」

「……」

 

 

 雪乃とどれくらいの時間抱き合っていたのだろうか。

 

 

 雪乃が口を開いた。

 

 

「ねぇ、八幡……。私、また子どもが欲しいわ……」

 

 雪乃の表情は見えないが、耳は真っ赤に紅潮していた。

 

 

「そうだな……。今は双子がいるから、今度は一人ってのはかわいそうだな。雪乃さえよければ、また双子がいいな」

 

 

「ええ、そうね。やっぱり双子がいいかしら……。八幡との子どもなら何人でも産むわ」

 

 

「いやいや、野球チームとか言われたら俺養って行けないわ」

 

 

「…………馬鹿っ」

 

 雪乃は体を起こすと、ゆっくりと片目をつむり、そしてゆっくりと小首をかしげた。

 俺が一番弱い、雪乃のお得意の仕草だ。

 

 

 ガラッ……。

 

 

「お父さん、お母さん、トイレ―……」

「トイレ―……」

 

 

 息子と娘が目をこすりながらやって来た。

 

 

「はい、はい。今連れて行ってあげるわ」

 

 再び子どもを寝かしつけると、今は静寂に包まれていた。

 俺と雪乃は互いに熱いまなざしで見つめ合っていた。

 

 

「雪乃……」

「八幡……」

 

 

 お互いの名を呼び合うと、再び長い長い抱擁をした。

 

    ×   ×   ×   ×

 

 ── むかし むかし あるところに いっぴきの さかなが いました。

 

 

 その さかなは 「くさった めを している」と みんなから なかまはずれに されていました。

 

 くるひも くるひも さびしい おもいを していた さかなは、 あるひ ひとりの おひめさまに

であいました。

 

 

 その おひめさまも また ひとりぼっち でした。

 

 それは それは とても うつくしい おひめさまでした。

 

 

 しかし、 おひめさまは その  いじわるな かみさまに えがおを うばわれてしまい、 みんなに 

かたく こころを とざして いました。

 

 さかなは そんな おひめさまが きになって、 まいにち まいにち あいにきては おひめさまに

うれしかったこと かなしかったこと たのしかったこと さびしかったこと など いろいろな ことを はなしました。

 

 

 おひめさまは しだいに さかなに こころを ひらいて いきました。

 

 おひめさまは さかなと いっしょに いるのが たのしくて たのしくて たまりませんでした。

 

 

 でも、 おひめさまは さかなの まえで わらうことは できませんでした。

 

 

 そんな おひめさまを みて、 さかなは こころを いためて いました。

 

 

 ── かみさま、 ぼくは どうなっても いいから。

 

 ぼくは どうなっても いいから。

 

 だから、 おねがいです。

 

 どうか おひめさまに えがおを かえして あげて ください。

 

 どうか、 どうか かえして あげて ください。

 

 

 ── すると、 かみさまは いいました。

 

「さかなよ、 おひめさまに えがおを かえしたら、 ほんとうに どうなっても いいのだな?」

 

 

「はい、 ほんとうです。 だから、 おひめさまに えがおを かえして あげて ください」

 

 さかなは、 ひっしに なって おねがいしました。

 

 

「よかろう。 おひめさまに えがおを かえして やろう」

 

 かみさまは、 つえから まぶしい ひかりを だしました。

 

 

「これで、 おひめさまは ぶじに えがおを とりもどせたんだ。 これからは わらう ことが 

できるんだ。 ありがとう、 かみさま」

 

 

 さかなは、 それきり うごかなく なって しまいました。

 

 

 ── おひめさまは さかなが やってくるのを まっていました。

 

 きょうは どんな はなしを きかせて くれるのかしら。

 

 さかなの ことを かんがえて いると たのしくなって おもわず えがおに なりました。

 

 おひめさまは じぶんが えがおで わらって いることに きがつきました。

 

 さかなさんが まいにち まいにち あいに きてくれたから えがおが もどったのだと。

 

 

 しかし、 いつまで たっても さかなは あらわれません。

 

 おひめさまは さかなの ことが しんぱいに なって、 さがし まわりました。

 

 すると、 いしに されて かたまっている さかなを みつけました。

 

 

「さかなさん、 さかなさん、 どうして いしに なって しまったの?」

 

 

 おひめさまは いしに なった さかなを みて、 みっかみばん なきつづけました。

 

 

──  「かみさま、 かみさま、 どうか さかなさんを もとに もどして ください。

     わたしは どうなっても いいから、 どうか さかなさんを もとに もどしてください」

 

 おひめさまは いっしょうけんめい かみさまに おねがいしました。

 

 

 すると、 かみさまは いいました。

 

 

「ほんとうに どうなっても いいのだね?」

 

 

「はい。 だから、 さかなさんを もとに もどしてください」

 

 おひめさまは まよわずに そう こたえました。

 

 すると、 かみさまは つえから まぶしい ひかりを だしました。

 

 

── 「おひめさま、 おひめさま、 おきてください」

 

 おひめさまは めを さましました。

 

 

「あなたは だれかしら?」

 

 みたことのない おとこのこが そこに いました。

 

 

「ぼくだよ、 ぼくだよ、 さかなだよ」

 

 おひめさまは おどろきました。

 

 

「あなたは ほんとうに おさかなさんなの?」

 

 

「そうだよ。 ぼくは さかなだよ。 かみさまが ぼくを にんげんに してくれたんだよ」

 

 おひめさまは うれしくて うれしくて たまりませんでした。

 

 うれしさの あまり なみだを ながしました。

 

 

「おひめさまの ないている かおは みたく ないよ。 おひめさま、 どうか わらってください」

 

 おとこのこが そう いうと、 おひめさまは にっこりと わらいました。

 

 

 やがて、 ときがすぎ おとなに なった ふたりは けっこんしました。

 

 まわりの だれもが うらやむ しあわせな けっこんでした。

 

 

 ふたりは たくさんの こどもに かこまれて、 いつまでも いつまでも しあわせに くらしました。

 

    ×   ×   ×   ×

 

 ── 月曜日の朝

 

 今日からまた社畜としての一週間が始まる。

 

 愛する妻と2人の子どもを養うためにサラリーマン稼業という苦行に励まなければならない。

 働きたくないなと思いつつ、身支度を整え食卓に向かった。

 

 そうはいうものの、会社には感謝している。

 就活で28連敗した俺を拾ってくれたただ一つの会社だ。

 おまけに本社は千葉市内にある。

 千葉愛溢れる俺にとって最高の環境だ。

 それになんだかんだいって実は第一希望の会社で、仕事も結構楽しい。

 

 でも、家族と離れ離れにされる月曜日の朝は憂鬱である。

 

 

「おとうさん、めがゾンビになってるよー」

「おとうさん、めがゾンビになってるよー」

 

 双子のステレオ音声が聞こえてきた。

 

 俺は台所で3人分の弁当を作っている雪乃に近づき、そっと耳打ちした。

 

 

「雪乃、お前子どもたちにいったい何教えてんだよ」

 

 

「何かしら?」

 

 雪乃はフライパンを揺すりながら、しらばっくれている。

 

 

「お前、子どもたちに『ゾンビの目』だとか言われたじゃないか。俺泣いちゃうよ」

 

 雪乃は満面の笑みでこう言った。

 

 

「あら、八幡。あなたの泣き顔を見ようものなら、私や子どもたちの目まで腐ってしまうからやめてもらえないかしら」

 

 子どもたちに聞こえないように小声で言うが、相変わらず雪乃は雪乃だった。

 このままで済むと思うなよ。

 

 雪乃にニヤッといやらしい笑みを向けると食卓に戻った。

 

    ×   ×   ×   ×

 

 歯磨きを終えるとネクタイという名の社畜の証の首輪をつけ、スーツの上着を羽織った。

 2人の子どもはそれを合図とばかりに立ち上がって、鞄とコートを手にした。

 

 

「じゃあ、そろそろ行ってくるわ」

 

 俺、子ども、雪乃の順に玄関に向かった。

 

 靴を履き終えるて振り返ると、3人並んで俺を見つめていた。

 

 

「せーの……」

 

 ふたりの子どもが息をピッタリに声を揃えた。

 

 

「おかあさん、『あいのあかし』は?」

「おかあさん、『あいのあかし』は?」

 

 

「なっ……」

 

 雪乃は顔を真っ赤にして絶句していた。

 

「こ、これは……、い、いったい……ど、どういうことかしら」

 

 雪乃は耳まで朱に染めながら、恨めしい目つきで俺をにらむ。

 

 新婚当時、雪乃は「愛の証」と称して、出勤前に玄関口でキスをねだってきた。

 そして、キスをしてからふたり別れて、それぞれの会社へと向かっていった。

 そのことを子どもに教えてやったのだ。

 「ゾンビの目」の仕返しだ。

 

 

「はやくー」

「はやくー」

 

「早くー」

 

 俺も便乗してやった。

 

 

「くっ……」

 

 雪乃はそのまま発火しそうなくらい肌を紅潮させ、唇をかみしめている。

 

 さて、仕上げといくか。

 

 

「この勝負、俺の勝ちだな」

 

 子どもたちから、鞄とコートを受け取り、身を反転させようとした瞬間……

 

「勝負」という単語に反応してしまった 雪乃が、俺の顔を両手で固定していきなり唇を奪ってきた。

 

 

「フフ……。私の勝ちね」

 

 雪乃はお得意のウインクに小首をかしげる仕草をした。

 俺はその狂おしい仕草にたちまち真っ赤に染めあがって、凝固してしまった。

 

 子どもたちはキャーキャー言っている。

 

 ああ……、俺の負けだな。

 完敗だ。

 

 

「早く出ないと遅れるわよ……」

 

 目をそらしながら、雪乃がそう言った。

 

 ハッと我に返った俺は、改めて身をひるがえした。

 

 

 その時──

 

「おとうさん、おかあさん……」

 

 息子と娘が同時に口を開いた。

 

 そして、同時にこう言った。

 

「……ぼくたち、おとうとといもうとのふたごのきょうだいがほしいな」

「……わたしたち、おとうとといもうとのふたごのきょうだいがほしいな」

 

「へっ?!」

「へっ?!」

 

 思わず雪乃と顔を見合わせてしまった。

 

 

「まさか、昨日の話聞かれたのか……」

「まさか、昨日の話聞かれたのかしら……」

 

「かったのはぼくたちだー」

「かったのはわたしたちだー」

 

 ふたりは手を取り合ってキャッキャと喜んでいた。

 

 さすが、俺と雪乃の両方の血を引いた子どもだ。

 

 

 知らぬ間に俺たちより一枚上手に育っていた。

 

 

「……おっと、バスに乗り遅れる」

 

 まだ照れている雪乃を放って家を飛び出した。

 

「いってらっしゃーい」

「いってらっしゃーい」

「いってらっしゃーい」

 

「いってきまーす」

 

 

 月曜日の朝なのに俺の足取りは不思議と軽かった。

 

 

 俺もこうしてひとかどの幸せというものを手に入れた。

 

 雪乃と出会わなければ、こんな満ち足りた思いを味わうことができたであろうか?

 

 

 ── 人生とはつくづく不思議なものである

 

     人生は小説よりも奇なりと ──

 

 

 そう思いながら駅へと向かっていった。

 

 

 ── ラブコメの神様、これからも俺たち家族に幸多からんことを!

 

 

 

 

 

 

 

元スレ

雪ノ下「比企谷君、今からティーカップを買いに行かない?」

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