沙希「お願い。ちゃんと言葉にして言って欲しい」 八幡「わかった」【俺ガイルss/アニメss】
『誰だお前?』
『おい、近寄んなよ』
『キモッ』
『ギャハハハハ、コイツ本当に来やがった!』
『罰ゲームに決まってんだろ』
『なにマジになっちゃってんの?』
『勘違い野郎』
『身の程をわきまえろっての』
八幡「………………」
八幡(俺はベッドで上半身を起こす)
八幡(最悪の目覚めだった。夢で安心した、なんてことはない)
八幡(過去の記憶を夢の中で反芻しただけなのだから。くそ、昼寝なんてしなけりゃよかった)
八幡(いくら過去の事とはいえ、嫌な記憶を凝縮して見せられたのは精神的にキツい。俺は頭を振って陰鬱な気分を無理やり追い出そうとする)
八幡(今日は春休み初日で、お祝い事をするんだから沈んだ気持ちでいるわけにはいかないからな)
八幡「よっ、と」
八幡(俺は自分の頬をパン、と叩いて無理やり奮い立たせ、ベッドから降りた)
八幡(時刻は夕方に差し掛かろうという頃だ。階下に降りると雪ノ下と出くわした)
八幡「よう。もう来てたのか」
雪乃「ええ、準備も色々あるし」
八幡「悪いな、こっちが誘ったがわなのに」
雪乃「いえ、私も祝うほうだもの。それは構わないのだけれど…………」
小町「あ、お兄ちゃん起きた?」
八幡(台所から顔を覗かせた小町が手を振ってくる)
雪乃「祝う対象に祝う準備をさせてどうするのよ。こんな時くらい役に立とうとは思わないのかしらゴミ谷君は」
小町「いえいえ、いいんですよ雪乃さん。ゴミいちゃんがいるより小町と雪乃さんでやった方がはかどりますし」
雪乃「それもそうね」
八幡「…………」(ズキン)
八幡「まあ男子厨房に入るべからずって言うだろ? ちょっと顔洗ってくるわ」
八幡(俺はやや強引に会話を打ち切り、洗面所に向かう)
八幡(そう、今日は小町の総武高校合格のお祝いをするのだ)
八幡(はっちゃけた親父やテンションの高い由比ヶ浜のせいですでに何度も祝っているのだが、何かと勉強を見てくれた雪ノ下に改めてちゃんと礼を言いたいという要望のため、ウチに招待して何度目かの合格祝いをすることになったのだ)
八幡(家庭の事情やら用事やらで春休み初日である今日実行となった。両親も早めに帰宅することになっているが、料理などの準備は雪ノ下や小町自身が行っている。まあ俺より腕はいいからな)
八幡(あ、俺も一応手伝おうとはしたぞ。断られただけで)
八幡(そうこうしているうちに両親が帰宅した。仕事帰りに買ってきたであろうケーキを冷蔵庫に入れ、いそいそと着替えてテーブルに着く)
八幡(ったく。俺の時はケンタで買ってきたチキンでささっと済ませたのに。まあ俺と小町じゃわけが違うか)
八幡「…………」(ズキン)
八幡(仕方、ないよな)
八幡(やがてテーブルに所狭しと様々な料理が並べられる。さすが雪ノ下だ、ウチの家族じゃ誰もこうはいかん)
比企谷父「これは、すごいな…………」
比企谷母「ええ、とても美味しそう」
小町「見た目だけじゃなくて実際に美味しいよ。ちょっとつまみ食いしたけどほっぺた落ちそうだった!」
雪乃「小町さん、つまみ食いなんかしてたのね…………」
小町「だ、だってすごく美味しそうだったから我慢できなくて…………」
雪乃「まあいいわ。そこまで言ってくれるなら作った甲斐もあるもの」
比企谷母「じゃ、そろそろいただきましょうよ。雪ノ下さん、乾杯の音頭をお願い出来るかしら?」
雪乃「わかりました。では…………小町さんの合格を祝って、乾杯」
「「「「乾杯!」」」」
八幡(五つのグラスが思い思いにぶつかる)
小町「でも残念でしたね、結衣さんが来れなくて」
八幡「先約があるって言ってたな。ま、いいだろ。今日は雪ノ下と一緒にするのがメインなんだから。あいつは小町の勉強を手伝ってないし」
雪乃「それはあなたもじゃない」
八幡「うるせえな。手伝いたくても学年一位様がいる以上役に立たないだろ」
小町「雪乃さん教え方上手だから苦手科目もばっちりだったよ。ホントすごく感謝してます! あーあ、お兄ちゃんじゃなくて雪乃さんがお姉ちゃんだったらよかったのに」
八幡「…………」(ズキン)
八幡「悪かったな、こんな兄で」
小町「そうだ雪乃さん、お兄ちゃんと結婚してくださいよ。そうすれば晴れて小町のお姉ちゃんです!」
雪乃「な、何を言ってるの小町さん!?」
比企谷父「そうだぞ小町、こんな素晴らしい女性が八幡になどと勿体無い。この役に立たん穀潰しには逆の意味で相応しくない」
八幡「…………」(ズキン)
八幡「うるせえ、釣り合いが取れてないのはわかってんだよ」
比企谷母「本当にね…………八幡、勘違いしちゃだめよ。あなたは雪ノ下さんみたいな子にお話ししてもらえるだけでも有り難いと思わなきゃ」
八幡「…………」(ズキン)
八幡「へーへー、雪ノ下さんには感謝してますよっと」
八幡(皆で雪ノ下の料理をつつき、食卓は絶賛の嵐に包まれる。気合い入りすぎだろと突っ込みを入れたくなるくらい美味かった)
八幡(両親の賛辞に雪ノ下は照れたように軽く頭を下げる。ちょっと新鮮だな)
比企谷父「いやー女の子が多いと華やかでいいな。小町だけでは八幡の陰鬱さを打ち消すのに精一杯だから」
八幡「…………」(ズキン)
比企谷母「雪ノ下さん、あれと替わりにウチの子になる気はないかしら?」
八幡「…………」(ズキン)
小町「あ、それいい! 小町もお兄ちゃんの世話をするよりお姉ちゃんに甘えたりしてみたいです!」
八幡「…………」(ズキン)
八幡(別に皆に悪気があるわけじゃない。これくらいの言動はいつものことだ)
八幡(だけど夢見が悪かったせいか、ちょっとだけ心に響く)
雪乃「ひ、比企谷くん…………え?」
八幡(熱心なアプローチに戸惑った雪ノ下が助けを請うように俺を見る。が、その表情が驚愕に変わった。何だ? 俺の腐った目以外に何か付いてんの?)
小町「お、お兄ちゃん、なんで、泣いて…………」
八幡「え…………」
八幡(慌てて自分の目元を触ると、確かに涙が流れていた)
八幡「う…………」
八幡(何で、何で、何で)
八幡(一度自覚するともう止まらない。あとからあとからボロボロと涙が溢れてくる)
八幡「あ、あああああ!」
八幡(俺は思わず立ち上がり、その場を飛び出す)
八幡(呼び止める声が背中にかけられるが、俺はそれらを一切無視して全力で逃げ出した)
~ 駅前 ~
沙希「はあ、やっと着いた。信号トラブルで遅れるなんてツイてないね」
沙希(改札を出てあたしは一人呟く。少し遅くなっちゃったな)
沙希(ま、みんなは田舎にいるままだから急いで帰る必要はないんだけど。しばらくは一人か…………)
沙希「何か食べて帰ろうかな…………あれ?」
沙希(駅前のベンチに座って顔を伏せてる同年代くらいの男子。あれって、比企谷じゃない。何やってんだろこんなとこで)
沙希(思いもよらない邂逅にちょっとだけドキッとしながらそちらに足を向ける。だけどその姿にどこか違和感を覚えた)
沙希「!」
沙希(気付いた。靴を履いてないんだ! あたしは慌てて比企谷に駆け寄った)
沙希「比企谷っ!」
沙希(あたしが叫ぶように声をかけると、比企谷は緩慢な動きで顔を上げる。その表情はまるで能面のように何の感情も見えない)
八幡「……ゎさき、か」
沙希(ぽつりと呟いて前半が聞こえにくかったので名前を呼ばれたのかと一瞬勘違いしてしまった。だけど今はそんな場合じゃない。あたしは比企谷を刺激しないようにそっと問いかける)
沙希「何かあったの?」
沙希(あたしは比企谷をウチに連れて帰ることにした。何を言っても生返事で反応の鈍いこいつを放っておけるわけないじゃないのさ)
沙希(靴下のまま歩かせるのもどうかと思ったけどそこは仕方ない。抵抗の様子は見せず、手を引っ張ると素直に着いてくる)
沙希(こんな時だけど繋いだ手にドキドキしてしまった。比企谷もちゃんと握り返してきたし)
沙希「ちょっとここ座って待ってて」
沙希(家に入り、比企谷を玄関先で座らせる。あたしは荷物を置いて洗面所に向かった。タオルをお湯で濡らして絞り、玄関に戻る)
沙希「ほら、足こっちに出して。脱がすよ」
沙希(あたしは比企谷の靴下を脱がした。外を歩いたせいかところどころ穴が空いている。悪いけどこれは捨てさせてもらおう)
沙希(見た限り足の裏を怪我したりとかはないようだ。濡れタオルで汚れた箇所を中心に拭いていく)
沙希「ん、おっけ。こっちに来な」
沙希(腕を引くと比企谷はのろのろと立ち上がり、あたしと一緒に居間に移動する)
沙希(テーブルの前に座らせたが、多分お茶とか出しても手を付けないだろう。あたしは単刀直入に聞いた)
沙希「家で何かあったの?」
八幡「…………」
沙希(今までは生返事でも反応していたのに、この質問には押し黙ったままだった。確実に何かあったねこれは)
沙希(喧嘩でもしたんだろうか? 比企谷にはあまりそういうイメージはなかったけど)
沙希(その黙ったままの姿が儚くて今にも壊れてしまいそうに見え、あたしは思わず比企谷の頭に手を乗せて撫でてしまった)
八幡「!」
沙希(バシィッと音が鳴り、腕がじんじんと痺れる。比企谷に思い切り振り払われ、手首辺りを叩かれたのだ)
八幡「あ…………」
沙希(比企谷の表情が変わる。自分でしたことが信じられないといった感じだ。そしてそれは怯えに変わった)
沙希(あたしはカウンセラーでも心理学者でもない。だけど今対応を失敗したら比企谷の心が壊れかねないことくらいはわかる。再び比企谷に向かって手を伸ばす)
八幡「っ…………」
沙希(何をされると思ったのだろう、比企谷は目を瞑って身をすくめる)
沙希(あたしは比企谷のすぐ横で膝立ちになり、比企谷の頭に両腕を回してぎゅっと抱きしめた。胸に顔が埋まる形になるが、恥ずかしいとかそんな気持ちは一切ない)
沙希(比企谷の表情は見えないが、しばらくすると肩を震わせ始めた。もしかしたら嗚咽しているのかもしれない)
沙希(少し腕の力を緩めると慌てたように比企谷があたしの背中に腕を回し、すがるように抱きついてくる。離さないでというように。見捨てないでというように)
沙希「大丈夫、大丈夫だから。あたしはここにいるから、ね」
沙希(あたしは比企谷の頭と背中に手をあてて撫でながら、優しく囁く)
沙希(微かに聞こえていた声が少しずつ大きくなり、やがて比企谷は叫ぶように大声で泣き始めた)
八幡「…………」スー、スー
沙希(ふふ、泣き疲れて寝ちゃったか)ナデナデ
沙希(でもこの体勢じゃ寝にくいかな? よいしょ、っと)
沙希(比企谷の身体を動かし、あたしにもたれかかる体勢から横たわらせて膝枕をする)
沙希(比企谷の寝顔なんて初めて見るけど、結構整った顔立ちしてるよねやっぱり。あ、涙がちょっと目元に残ってる)
沙希(指でそっとそれを拭く。そしてあたしは改めて自覚した。というか実感した)
沙希(あたしは、本当に比企谷のことが好きなんだ)
沙希(比企谷のために何かしてやりたいし、出来ることがあるなら喜んでする)
沙希(下心がないではないけど、それ以上に比企谷の悲しい顔を、苦しむ顔を見たくない)
沙希(今回のこと、あたしは比企谷に尽くしてあげよう)
沙希「好きだよ、比企谷」ナデナデ
八幡「ん…………」
八幡(目が覚め、見覚えのない天井が目に入った)
八幡「あれ?」
八幡(どこだここ? 昨晩何したんだっけ? この毛布も枕にしてた座布団にも見覚えがないし)
八幡(上半身を起こして昨日の事を思い出そうとするが、その前に台所であろう奥の部屋からひょこっと一人の女子が顔を覗かせた)
八幡「か、川崎…………?」
沙希「あ、起きた? いま朝ご飯作ってるからね」
八幡(そう言われて奥に引っ込んだ瞬間、全部思い出した。俺は身体を丸めて毛布を被る)
八幡(うああああああああ! お、俺は何てことを!)
八幡(恥ずかしい! 恥ずかしい! 恥ずかしい! 何やってんだ俺は!)
沙希「何してんの? 朝ご飯出来たよ」
八幡(ひとしきり毛布の中で悶えていると、川崎から声がかかる。俺は覚悟を決めて這い出た)
八幡「川崎、その」
沙希「いいよ」
八幡「え?」
沙希「今はいいから。朝ご飯、食べよ。結構寝てたしお腹空いてるでしょ?」
八幡(壁に掛けられた時計を確認すると少し遅めの朝、といった時間だ。確かに夕べはあまり食べてないしな)
八幡「えっと、じゃあ、いただきます」
沙希「ん、召し上がれ」
八幡(色んな思考が頭の中をぐるぐる回っている。言いたいこと、聞きたいことが山ほどある。だけど川崎の用意してくれた朝食が美味くて、俺は夢中でそれをかっこむ)
八幡(そんな俺の様子を見て川崎は嬉しそうに笑った。何だろう?)
八幡(しかし本当に美味い。雪ノ下とはまた方向性が違う美味さだ)
八幡(………………雪ノ下、か)
沙希「ね、比企谷」
八幡「お、おう、何だ?」
八幡(ちょっと気分が落ちそうになったタイミングで川崎が話し掛けてきてくれた)
沙希「ご飯もお味噌汁もおかずもおかわりあるからさ、遠慮しないで言ってよね」
八幡「う…………」
八幡(正直図々しいとは思う。だけどまだ腹は物足りなく、もっとこの川崎の作った美味い料理を食べたいという欲求が強かった)
八幡「あー…………じゃあ頼む」
沙希「うん」
八幡(俺が器を差し出すと川崎はそれを受け取り、台所へ向かう)
八幡(嬉しそうにしているのは俺が美味そうに食べているからだろうか?)
八幡「………………」
八幡(ヤバい、またちょっと泣きそう。どうしちまったんだ俺は……)
八幡(朝食を終え、川崎が淹れてくれたお茶を飲みながらボーっと待つ。いやボーっとしてはいないか、色々考えているわけだし)
八幡(やがて食器を洗い終えた川崎がこっちに戻ってきた。俺は頭を下げる)
八幡「川崎、その、すまん。色々迷惑をかけてしまって」
沙希「ううん。大したことはしてないよ」
八幡「そんなことはねえだろ。本当に、悪かった」
沙希「大丈夫だから頭上げてってば。こっちが恐縮しちゃうでしょ」
八幡「だって、泊めてくれてメシまでご馳走になってんのに俺はお前の手を叩いたり、その……胸に顔押し付けたりとかしちまって」
沙希「あたしが気にしてないからいいって。それに今ウチはあたし以外は田舎帰ってるから平気だよ。予備校とかあるからあたしだけ昨夜日帰りでこっち戻ってきたんだ」
八幡「そうなのか、なら…………って、それは尚更良くないだろ! 女子一人の家に俺みたいなのを泊めるなんて、何かあったらどうすんだよ!」
沙希「あたしの心配をしてくれるの? 比企谷は優しいね」
八幡「茶化すなよ。俺が言いたいのは……」
沙希「わかってるって。比企谷だから泊めたんだ。他の男だったらこんなことしないよ」
八幡「っ…………!」
八幡(なんだよそのセリフ。勘違いしちゃうだろうが!)
沙希「で、どうするの? 家に帰るの?」
八幡「……そうだな。あまり長居するのも悪いし」
沙希「無理しちゃって。手、震えてるよ」
八幡「! こ、これはただの武者震いでだな」
沙希「何と戦うつもりなのさ…………ほら」
八幡(川崎は俺に向かって両腕を広げた。まるで誘うように)
八幡「何だよ?」
沙希「いいよ、抱きついても」
八幡「な、何言ってんだ!?」
沙希「ああもう、焦れったいね」
八幡(川崎はこちらに寄ってきて昨晩のように俺の頭を胸に埋めるように抱きしめた)
八幡(めちゃくちゃ柔らかい感触と良い匂いに頭がくらくらする。だけどどこか安心するような、ほっとするような、そんな感情になり、腕の震えはいつの間にか止まっていた。俺は川崎に身を委ねる)
八幡「なあ…………何も聞かねえのか?」
沙希「聞いてほしいなら聞くけど」
八幡「…………」
八幡(そうだな。もう川崎には恥ずかしいとこをたくさん見せてしまったんだ。なら今更か)
八幡「じゃあ……ちょっと俺のくだらない話を聞いてくれねえか?」
沙希「うん、いいよ」
八幡(俺は川崎に抱きしめられたまま、昨晩のことを話し始めた)
八幡「…………と、まあそんなことがあったわけなんだが」
沙希「そう…………」
八幡「誰が悪いってわけじゃねえのはわかってんだよ。みんな本気で言ってるわけじゃないからな。雪ノ下だって親の前では俺を貶すようなことはほとんど言ってねえし、親や小町が俺をディスるのもいつものことだし」
沙希「…………」
八幡「ただ今回はタイミングが悪かったな。ちょっとあんな夢を見て少し精神が弱ってたみたいでさ、普段なら全然構わないんだが」
沙希「いや、良くないでしょ。そんなに言われてあんた何も思わないの?」
八幡「いつものことだし慣れてるよ。なんだかんだ構ってくれるし」
沙希「無視されるよりはいいってこと? そんなの悲し過ぎじゃない…………」
八幡「いや、そんな悲観的に捉えることでも」
沙希「馬鹿…………」
八幡(川崎は俺の頭を抱く力を強めた。しかし性的な情欲は一切沸かず、ただされるがままになる)
八幡「…………そういやお前はあんま俺の悪口言わねえな。何でだ?」
沙希「何でって…………普通言わないでしょ」
八幡「そうか? 由比ヶ浜ですら俺にキモいキモい言うんだぞ。むしろ言う方が普通じゃね?」
沙希「まあ由比ヶ浜は……ね」
八幡「?」
沙希「でも家を飛び出してきた、というか泣いたってことはやっぱりあんたも嫌だったってことでしょ?」
八幡「あー…………ほんの少し、な。ま、家に帰ってちょっと怒られてちょっと謝って終わりだろ」
沙希「手を震わせるほどショック受けたくせに」
八幡「はん、そんなの俺の数あるトラウマのひとつになるだけだ。大したことじゃねえ」
沙希「へえ。じゃ、あたしの胸で大泣きしたことを誰かに言っても構わないんだね?」
八幡「ちょっと待ってください川崎さん」
沙希「大したことないんでしょ?」
八幡「すいませんホント勘弁してください」
沙希「まったく…………あんたがそんなんだから周りも気にせずに色々言ってくるんだよ。少しは言ってやらないと」
八幡「いや、いつもは本当に気にしてないんだって。今回はたまたまだな」
沙希「じゃ、時には傷付くって教えないと駄目だよ」
八幡「教えるってもなあ……何て言うんだ?」
沙希「口頭じゃなく行動で示すんだよ」
八幡「例えば何をするんだよ?」
沙希「ちょうど春休みだし家出しちゃいな」
八幡「悪口言われて拗ねて家出って…………子供かよ」
沙希「高校生は子供でしょ」
八幡「そうでした」
沙希「それとも自分探しの旅にでも出る?」
八幡「どっちにしても無理だ。財布もなけりゃ泊まるとこもねえんだぞ」
沙希「あっそ。ところで比企谷、奉仕部って春休みもやってんの?」
八幡「あん? さあ、知らんな。何か依頼でもあるのか?」
沙希「うん、せっかくだしあんたに頼もうと思って」
八幡「今の俺に出来ることなんか限られてるが……ま、一宿一飯の恩もあるしな。とりあえず言ってみろよ」
沙希「そう、じゃあさ」
八幡(スッと川崎は腕を解いて身体を離し、少し離れて座る。ちょっと名残惜しい)
沙希「女一人でしばらく留守番なんてちょっと不用心だからさ、家族いない間ウチにいてくれない?」
八幡「はあ!? いやいや、駄目だろそれは」
沙希「女一人にするつもりなの? ちなみに誰か泊まりにくるような女友達なんかあたしにはいないから」
八幡「いや、でも…………」
沙希「あっ、あいたたたた…………昨夜叩かれたとこが痛くて買い物とか不便になりそう。誰か男手がいてくれれば楽なんだけど…………」
八幡「うぐっ…………」
沙希「あー、手首が痛いなー、洗濯とかも大変になりそう。そういえばあたしが昨日着てた服、誰かさんの涙とかで汚れちゃってたなー。比企谷が駄目なら雪ノ下や由比ヶ浜に色々相談してみよっかなー」
八幡「わかった! 留守番させてもらう! 依頼は引き受けるから!」
沙希「そう? ありがとう」
八幡「ったく…………んじゃ準備してくっから一回帰るわ」
沙希「何言ってんの。それじゃ家出にならないでしょ」
八幡「マジで家出させるつもりなのかよ…………財布もスマホも着替えもないんだぞ?」
沙希「お金は生活費とかはこっちが出すし、必要なら渡すよ。抵抗あるなら今後いつか返してくれればいいから。連絡する相手もいないのにスマホなんか使わないでしょ? 下着類は父さんや大志用の予備があるからそれを使いな。着替えも大志のを借りればいい。男同士ならそこまで抵抗ないでしょ?」
八幡「あとウチはともかくお前の親御さんとかにはなんて言われるか」
沙希「それも大丈夫。母さんに電話して許可はもらってるから」
八幡「年頃の娘一人の家に男泊めるのを許可するのかよ…………」
沙希「ま、その辺は色々と、ね」
八幡「はぁ…………改めて確認するけど本当にいいのか? 俺は男でお前は女なんだぞ?」
沙希「そうだね」
八幡「何かされるかもとか思わないのか?」
沙希「するの?」
八幡「そんなつもりはねえけどさ、理性トんだりするかもしんねえだろ」
沙希「そん時はあたしの見る目がなかったってことで諦めるよ。こう見えても諦めはいいんだ」
八幡「じゃあ俺を泊めようとすんのを諦めろよ…………」
沙希「ぐちぐちうるさいね、もうあたしの依頼引き受けたんだから覚悟決めな」
八幡(川崎はそう言うが、明らかに口実だ。一旦俺を家から引き離すのが目的だろう)
八幡(これで本当に親達からのディスりが減るかはわかんねえし、むしろいなくなって喜ぶまである)
八幡(でも…………たまにはこんな非日常もいいか、なんて思うあたりやはり多少は自暴自棄になっていたのだろう)
八幡「わかった、しばらくの間居候させてもらう。悪いけどよろしく頼むな」
沙希「うん、遠慮しないでいいから」
八幡「でもよ、何でお前はここまで俺に構ってくれるんだ? 普通ならあんなみっともないとこ見せた男なんて引くだろ」
沙希「何でだと思う?」
八幡「わかんねえから聞いてんじゃねえか。あれか、お前俺のこと好きなんだな? なんて」
沙希「なんだ知ってたのあたしの気持ち。ま、そういうことだね」
八幡「はああ!?」
沙希「だから我慢できなかったら別に襲ってもいいよ。抵抗しないから」
八幡「いやいやいやいや、冗談だろ? 冗談だよな?」
沙希「信じなくてもいいけどね。今はあんたの家族とのことを考える方が大事でしょ」
八幡(いえ、そっちの方が大事というか衝撃なんですが)
沙希「とりあえず靴下と靴くらいは用意しとくかな。下駄箱に予備のスニーカーがあったから出掛ける時はそれ使って。出しとくから」
八幡(そう言って川崎は玄関の方に向かう)
八幡「…………」
八幡(なんか、とんでもないことになったな…………)
八幡(こうして俺の、川崎家での居候生活は始まったのだった)
沙希「じゃ、ちょっと着いてきて。軽くウチの中案内しとくから」
八幡(戻ってきた川崎にそう言われて俺は腰を上げる。トイレや風呂場などを確認し、使っていいものを指示された)
沙希「ここが大志の部屋ね。そんなに散らかさなかったら勝手に入って漫画とか読んでもいいから。あたしもそうしてるし」
八幡「わかった」
沙希「こっちが親の部屋。ここは入らないでね」
八幡「わかった」
沙希「んでここがあたしの部屋。比企谷には夜は居間に布団敷いて寝てもらうけど、寂しくなったら来てもいいから」
八幡「わかんねえよ!」
沙希「こんなとこかな? もうすぐお昼ご飯だけど冷蔵庫の中身が心許ないから買い物しないと」
八幡「スルーすんなよ…………買い物なら手伝おうか? 荷物持ちくらいならするが」
沙希「ありがと。じゃ、スーパー行こっか。ちょっと着替えるから玄関か一緒にあたしの部屋に入るかして待ってて」
八幡「後者は有り得ないだろ! 玄関で待ってっから」
沙希「そう? 着替え覗きたくなったらいつでも来ていいからね」
八幡「っ…………!」
八幡(俺は言葉に詰まり、無言でその場を離れる)
八幡(なんなんだあいつは…………)ドキドキ
八幡(先ほど渡された新品の靴下を履き、玄関に向かう)
八幡(新しいスニーカーが用意されていたので、サイズを確認して履いてみる。うん、大丈夫だな)
沙希「お待たせ。靴のサイズ大丈夫?」
八幡「おう、平気だ…………って」
八幡(振り向くと、やたらキマった服装の川崎がいた。え? スーパー行くんだよね? これから誰かとデートってわけじゃないよね?)
沙希「何? あ、ひょっとして似合わない?」
八幡「いや…………えっと」
沙希「ごめん……やっぱり変だよね。着替えてくる」
八幡「ち、違う! そうじゃなくて、その、すげえ綺麗だから言葉に詰まっちまったんだ」
沙希「…………ホント?」
八幡「ああ。思わず見惚れちまった。こんな時の語彙が不足してて上手く言えねえけど、すごく魅力的だ。世の中の男共を虜にできるぜ」
沙希「他の男なんかどうでもいいよ。比企谷は? 虜になってくれてる?」
八幡「う…………あ、ああ、そりゃな。何で今まで川崎がこんなに綺麗なのを知らなかったんだろうって後悔してるくらいだ」
沙希「ふふ、ありがとう。比企谷にそう言ってもらえるとすごく嬉しい」ニコッ
八幡(何なのその笑顔!? 勘違いしちゃうじゃないか!)ドキッ
沙希「そんじゃ行こっか」
八幡「お、おう」
八幡(俺は先に玄関を出て、ドアを開けておいて靴を履く川崎を待つ)
沙希「おっけ。鍵かけるよ」
八幡「おう」
八幡(川崎はドアを閉めて鍵をかける。ノブをひねって確認し、鍵を俺に差し出してきた)
沙希「はい、合い鍵。なくさないでね」
八幡「…………お前、ちょっと人を信用し過ぎじゃないか?」
沙希「だから比企谷だけだってば。持ってないと不便だよ。それともどっか行くときは四六時中一緒にいる? あたしはそれでもいいけど」
八幡「……わかった、一応借りておく」
沙希「ん、信用してるから気を遣わないでいいよ。こう言っちゃなんだけどあんた必要なく他人に疑われるようなことしないでしょ」
八幡「必要なく、って何だよ?」
沙希「心当たりがなきゃ気にしないでいいよ」
八幡「………………」
沙希「ほら、行くよ?」
八幡「…………ああ」
八幡(俺と川崎は並んで歩き始めた)
八幡「なあ、川崎」
沙希「ん、何?」
八幡「スーパー、こっちにあんのか?」
沙希「ううん。せっかく比企谷とのお出掛けなのにスーパーだけなんて味気ないからね、ちょっと色々見てまわりたくてさ。その、迷惑だったかな?」
八幡「い、いや、今の俺に用事なんてあるわけないしな。どこでもお供するぜ」
沙希「ふふ、ありがと」グイッ、ギュッ
八幡「な、な、何で腕を組んで……」
沙希「………………駄目?」
八幡「う……だ、駄目、じゃない……」
八幡(でも周りの目がすげえ気になる。川崎って美人だしな…………)
八幡(ドギマギしながら歩いていると駅前のショッピングモールに着く)
八幡「そういや何を見に来たんだ?」
沙希「春物の新作の服とかかな。今日は買うつもりはないんだけどちょっと一通り見ときたくてさ」
八幡「そっか。お前スタイルいいもんな…………あ、へ、変な意味じゃないからな!」
沙希「ふふ、慌てなくたっていいよ。どっちの意味だって嬉しいから」
八幡「う……」
八幡(川崎の意図が掴めない。まさか本当に俺のことが好きなのか? いやいや、まさかな…………)
八幡(最初に入ったのは女性物の服が売られている店だった。入りにくいことこの上なかったが、しっかり腕を掴まれて離してもらえなかったので、やむなくそのまま二人で入る)
八幡(こんな所に俺なんかが一人でいたら間違いなく通報される。組んでいた腕を解いて服を見始めた川崎から離れないようにしないと)
沙希「ふうん、今年はこんなのが流行りなんだ…………ね、比企谷、これとこれ、どっちがいい?」
八幡「いや、俺そういうセンスないから参考にならんぞ」
沙希「じゃあ聞き方を変えるよ。これとこれ、どっちが比企谷の好み?」
八幡「…………どっちかといったらそっち、かな」
沙希「へえ。どこを基準に選んだの?」
八幡「ぐ…………わ、笑うなよ?」
沙希「笑わないって」
八幡「その……そっちの方が、お前に似合いそうだなって」
沙希「え…………」
八幡(川崎がポカンとした表情になる。恥ずかしさMAXになった俺は思わず顔を逸らした)
八幡「す、すまん! 気持ち悪いこと言って」
沙希「ううん、嬉しい……」
八幡(川崎が服を戻し、再び腕を組んでくる)
沙希「ね、今度は男物の服を見に行こ?」
八幡(何やら微笑ましいものを見る表情の店員に見送られてその店を出る。川崎はやたらと上機嫌だ)
八幡「あんま見てないけどもういいのか?」
沙希「うん。参考にしてるだけで買うわけじゃないからね。比企谷の好みもちょっと知れたし」
八幡「…………」
沙希「じゃ、次はあの店だよ。行こ」
八幡「ああ」
八幡(俺達は川崎が指差した店に入る。うん、ここはまだ落ち着けるわ。一人でいても通報されないしな)
八幡(川崎は次々と服を俺の身体に当て、何やら真剣に考えている。別に俺は服を買う予定はないんだが)
八幡(一通りチェックして俺の好みを聞き、満足したようにその店を出る)
沙希「ついでだからフードコート辺りでお昼にしちゃおっか? 今から買い物して作ってたら遅くなっちゃうし」
八幡「あー…………」
沙希「あ、お金なら気にしないで。どうしても気になるならいずれ返してくれればいいから」
八幡「じゃあ、すまんがちょっと借りにしとくわ」
沙希「ん」
八幡(俺達はフードコートに向かい、適当に注文して席に着く)
八幡「んじゃ、いただきます」
沙希「いただきます」
八幡(しばらくは食事に集中する)
八幡(そろそろ食べ終わるかという頃、川崎が何やら神妙な顔付きになってこちらを向く)
沙希「……ねえ、比企谷」
八幡「何だ?」
沙希「あたし、他の男子と出掛けたりしたことないからわかんなくてさ…………その、今、楽しんでくれてる?」
八幡「…………」
八幡(ああ、そうか)
八幡(川崎は俺を元気付けてくれようとしてくれてるんだ。俺はその行動よりもその気遣いの方が嬉しかった)
八幡(不安げになっている川崎に対して俺はいかにもな軽口で返す)
八幡「当たり前だろ。川崎みたいな美少女とデート出来て楽しくないなんて男がいたら俺が説教かましてやる」
沙希「ふふっ、何それ?」
八幡(俺の言葉におかしそうに笑う川崎。こいつってこんなに笑うやつだったんだな。いつもムッとしているイメージだったけど…………)
沙希「どしたの、じっと見て? あたしに惚れちゃった?」
八幡「な、何言ってんだよ!? だいたい俺なんかに惚れられても迷惑だろ……?」
沙希「いや、あたしは比企谷が好きだって言ったじゃない。迷惑なわけないでしょ」
八幡「ああ、俺を元気付けようと言ってくれたんだろ? ちゃんとわかってるから」
沙希「はあ……わかってないじゃない」
八幡「え?」
沙希「あたしはね、前から比企谷の事が好きなの。『付き合って』とか『返事をちょうだい』とかは言わないけどあたしの気持ちまで否定しないでよ」
八幡「え、マ、マジで?」
沙希「好きでもない男にここまで世話焼いて家にまで泊めるなんてどんなお人好しなのさ…………そんな人間出来てないよあたしは」
八幡「そ、そうなのか…………」
沙希「ま、気にしなくていいよ。あたしが勝手にあんたに惚れてるだけだから」
八幡「でも」
沙希「いいから。今はあたしの気持ちを利用するくらいでいなって。あたしもあんたと一緒にいれて嬉しいんだからさ」
八幡「…………すまん」
沙希「別に謝るとこなんかないでしょ。じゃ、スーパー寄って帰ろうか。荷物持ちしてくれるんだよね?」
八幡「おう、任せろ。というか今の俺にはそんくらいしか出来ないからな」
沙希「ふふ、充分助かるよ。行こ?」
八幡(そう言って川崎は腕を組んでくる。どうも本気で俺の事なんかを好きらしい)
八幡(生まれて初めて罰ゲームじゃない告白をされた。今でも信じられねえけど…………いつかちゃんと真剣に考えないとな)
八幡(そんなわけでスーパーに到着した。俺は買い物カゴを取る)
八幡「で、何から買うんだ?」
沙希「んー……というか夕飯何にするか決めてないね。比企谷は何か食べたいものある?」
八幡「トマト以外好き嫌いはないが…………そうだな、肉じゃがとかどうだ?」
沙希「男子は肉じゃが好きだもんね。さすがは男を落とす料理って言われるだけのことはある」
八幡「実際肉じゃがが嫌いな男なんていないだろ」
八幡(それに正直肉じゃがくらいちょっと料理かじってりゃ誰だって簡単に作れるだろ。誰が作ったって大差ないだろうし)
沙希「これさ、比企谷はあたしに落としてほしいんだなって深読みしてもいい?」
八幡「なっ…………」
沙希「ふふっ」
八幡「からかうなよ…………」
沙希「比企谷がそんなつもりじゃないのはわかってるって。じゃ、お野菜から見ていくよ」
八幡「おう」
八幡(川崎は食材を吟味しながら次々とカゴに入れる。数日分のつもりか、結構カゴいっぱいになっていくな)
沙希「あとは玉子…………あ、セールで一人一パックになってる。比企谷、レジ一緒に並んで。そうすれば二つまとめて買えるから」
八幡「へえ、そんなシステムなんだ。わかった」
八幡(あとはちょっと飲み物、ついでにマッ缶を取って二人でレジに並ぶ)
八幡(川崎が会計を済ませる間に俺はカゴを持って台に移動し、袋詰めをする。何とか二袋で収まったな)
沙希「お待たせ。あ、もう詰めててくれたんだ。ありがと」
八幡「おう。んじゃ帰ろうぜ」
沙希「あ、一つ持つよ」
八幡「いいって。俺は荷物持ちとして来てるんだから」
沙希「違うよ、比企谷には片手空けててほしいの」
八幡「え…………」
沙希「ね?」
八幡「う…………で、でもどっちも重いぞ。バランス取ろうとして均等に入れちまったから」
沙希「いいよ別に。じゃ、行こ」
八幡「お、おう」
八幡(俺達は一袋ずつ持って出口に向かう。店外に出たところで川崎が俺の空いている腕側に回り、俺の手を取った)
八幡「あ…………」
沙希「その、嫌だったら気にせずちゃんと言って。あたしがしたいことはするけど、比企谷が嫌がることはしたくないから」
八幡(そう言って指を絡めて手を繋いでくる。いわゆる恋人繋ぎってやつだ)
八幡「…………」キュッ
沙希「あ…………ふふ」
八幡(俺が無言で握り返すと川崎は嬉しそうに微笑む)
八幡(そこから川崎家に着くまで特に会話はなかったが、気まずい雰囲気とかにはならない。むしろ心地良かった)
八幡(こんな感じになるのは川崎だけなんだろうな。他の知り合いじゃ多分こうはいかない)
八幡(………………)
沙希「ただいま、っと」
八幡「改めてお邪魔します」
沙希「違うでしょ。比企谷は今ここに住んでるの」
八幡「…………ただいま」
沙希「うん、おかえり」ニコ
八幡「っ……い、一緒に帰ってきたのにそれはおかしくねえか?」
沙希「いいの。あたしが言いたかっただけなんだから」
八幡(川崎の笑顔にドキッとしてしまった。勘違いしちゃうとこ…………勘違い、じゃなかったなそういえば)
八幡「と、とりあえず冷蔵庫に入れるもんあるんだろ? 台所持って行こうぜ」
沙希「そうだね」
八幡(俺達は買ってきた物を台所に持って行く。俺が冷やす物を袋から出して川崎に渡し、川崎が適所にしまう)
沙希「そういえばあたし今日1コマだけ予備校あるんだけど、あんたは予備校どうするの?」
八幡(全部整理し終わり、冷蔵庫の扉を閉めて立ち上がった川崎が聞いてくる)
八幡「あ、そういや考えてなかった。あまり休むとスカラシップ駄目になるかもしんねえけど、家から連絡行ってたら面倒だな」
沙希「じゃ、あたしがちょっと予備校に探りを入れてくる。それから考えればいいよ」
八幡「ん、そうするか。悪いな手間掛けさせて」
沙希「いいってそれくらい。ところであんたの家の方はどうする? 誰かから遠回しに聞いてみようか?」
八幡「…………いや、いい」
沙希「そう?」
八幡「どんな結果でも今はちょっと知るのが怖い。もうちょい落ち着いてからにするわ」
沙希「ん、わかった」
八幡(川崎はそう言って俺の手に自分の手を重ねてきた。そこで初めて俺は自分の手が震えているのに気付く)
八幡「…………悪いな」
沙希「気にしないで」
八幡(川崎は震えが止まるまでずっと俺の手を握っていてくれた)
八幡「はあ…………すまん、もう大丈夫だ」
沙希「本当はずっと握ってていたいけどね、もうすぐ予備校の時間なのが残念だよ。一人でいて平気?」
八幡「子供扱いすんな…………とは言えねえな、昨日からのあれじゃ。ま、平気だろ」
沙希「大志の部屋の漫画でも読んでればいいよ。こち亀全巻あるから暇つぶしにはなるし気も紛れるでしょ」
八幡「いや、単純にすげえんだけどそれ…………全巻持ってるやつ初めて見たぞ」
沙希「買ってるのは父さんだけどね。夕飯の支度は帰ってからするよ。七時過ぎくらいになるけどいい?」
八幡「食わせてもらってる身で贅沢は言わねえよ。腹空かして川崎の肉じゃがを楽しみにするから」
沙希「ふふ、期待しててね」
八幡(川崎はそう言って一度自室に戻り、着替えて道具を持って予備校へと出掛けて行った。んじゃ、こち亀読ませてもらうかな)
八幡(こち亀は頭空っぽにして読めるからいいな。しかし中川って金持ちキャラのくせに初登場時はタクシーで来たのかよ。しかもツケで)
八幡(ま、長期連載でキャラが変わるなんてよくあることか…………お、玄関で物音がする。川崎が帰ってきたのか、出迎えてやろう)
八幡「お帰り川崎。お疲れ様」
沙希「ただいま比企谷。すぐにご飯の準備するからね」
八幡「…………」
沙希「どうしたの?」
八幡「いや、なんかすっげえヒモみたいだなって思って」
沙希「ぷっ、まあ間違ってないよね。惚れられてる女の家に転がり込んでご飯作ってもらって自分はダラダラしてるんだから」
八幡「うっせ。今はこんなんだけど絶対借りは返すからな」
沙希「ふふ、待ってるよ」
八幡(川崎はエプロンを着けて台所に向かう。手伝うって言っても断られるのはわかってるから何も言わないが。むしろ足手まといだろう、俺は大人しく待つ)
八幡(しばらくして良い匂いが漂ってきた。腹の虫を鳴かせているうちに川崎がお盆を持ってやってくる)
沙希「お待たせ」
八幡(テーブルに次々と料理を並べていく。ご飯、味噌汁、肉じゃが、漬け物)
八幡(ひとしきり並べたあと、エプロンを外して川崎も腰を下ろす)
沙希「じゃ、食べよっか」
八幡「おう、いただきます」
沙希「召し上がれ。あたしもいただきます、っと」
八幡(さて、まずは味噌汁から)ヒョイ、ズズ
八幡「!」
八幡(え、何これ? めっちゃうめえ)ズズ、ゴクゴク
八幡(出汁から違うのか? ウチと味が全然違うし豆腐がすげえ美味い)パクパク
八幡(…………あれ?)
八幡「えっと、すまん川崎」
沙希「何?」
八幡「味噌汁、おかわりあるか? その、全部飲んじまった」
沙希「はあ? もう?」
八幡「いや、何か美味くて……気が付いたら…………」
沙希「仕方ないねぇ」フフッ
八幡(川崎は苦笑いしながらも器を受け取り、よそってきてくれた)
八幡「しかし美味いな、出汁が違うのか? ウチのよりこっちが正直好みだ」
沙希「あ、そうなの?」
八幡「あと豆腐の味が濃厚なんだが……高級品かなんかか?」
沙希「ううん、手作りだよ。豆腐って別に作るの難しくないからね」
八幡「えっ!? 手作り!? 市販のじゃなくて?」
沙希「うん、時々作るよ。こっちの方が家族みんな喜ぶし」
八幡「そりゃそうだろ。こんな味の濃い豆腐なんて初めてだぜ。めちゃくちゃ美味い」
沙希「そう? ならどんどん食べてね」
八幡「おう。さて、そろそろ肉じゃがを、っと」
八幡(俺はじゃがいもを箸で掴む)
八幡「!」
八幡(か、形が崩れない!? 普通は鍋の水分で煮崩れするんだが…………箸でしっかり掴めるぞこれ)ヒョイ、パク
八幡「! 何だこれ、すげえほくほくじゃねえか! 味もしっかり付いてるし……ええー?」
沙希「ああ、水を使ってないからね。酒、醤油、野菜の水分で蒸らす感じでやるんだ。焦げないようによく見てないと駄目だけど、その分美味しく出来るからさ」
八幡(肉や玉ねぎ、人参なども余計な水分がないせいか、しっかり味が付きながら歯応えも丁度良い)
八幡(ヤバい、胃袋が落とされちゃう! くっ、肉じゃがなんかに絶対負けない!)
沙希「ね、比企谷」
八幡「な、何だ?」
沙希「おかわり、いっぱいあるからね」ニコッ
八幡(肉じゃがには勝てなかったよ…………結局ご飯を三杯も食べてしまった)
八幡「ふう……御馳走様でした」
沙希「お粗末様でした。ふふっ、見ていて気持ちいい食べっぷりだったね」
八幡「いや、だってすげえ美味かったし。肉じゃがってあんなに美味いものだったんだな…………味噌汁も美味かった」
沙希「朝は時間なくてお味噌汁はインスタントだったけど、比企谷に食べてもらえるから夜は頑張っちゃったよ。じゃ、食器を片付けるかな」
八幡「ああ、洗い物くらいなら俺がやるぞ。全部してもらうのも悪いし」
沙希「いいの、後片付けまでが料理なんだから。比企谷はゆっくりしててよ」
八幡「でも」
沙希「ならさ、あとで浴槽洗ってよ。比企谷も使うんだし」
八幡「わかった。任せろ」
八幡(そのあとは食器を洗い終えた川崎が淹れてくれたお茶を飲む)
八幡「そういや予備校どうだった? 俺のこと聞いたか?」
沙希「ああ。家族から電話があってちょっとの間休むかも、みたいな連絡があったらしいよ。詳しいことは聞いてないっぽいけど」
八幡「そうか。別に出ても問題なさそうだな。俺が出席してもわざわざ家に連絡しないだろ、その様子だと」
沙希「そうだね。講義が被ってないときはあたしの参考書貸してあげる。同じ時は隣で見ればいいよね」
八幡「世話かけるな」
沙希「いいって」
八幡「まあ、万が一家族に連絡行ってもその前に予備校側から何か反応があるだろ。そん時はそん時に考えるとするか」
沙希「…………」スッ
八幡(川崎が手を伸ばしてテーブルに乗せられていた俺の手に重ねる。どうやらまた無意識に震えていたようだ)
八幡(どうも家族のことを話題に出すと震えるらしい。これは何とかしないと…………でもその前に)
八幡「悪いな川崎。こんなんになっちまってて」
沙希「ううん、こう言っちゃなんだけど堂々と理由があって比企谷の手に触れられるからね。気にしなくていいよ」
八幡「…………よくそんな恥ずかしいこと言えるな」
沙希「ちょっと前なら恥ずかしくて出来なかったかもね。でも今は比企谷のためになることをしてあげたいって気持ちの方が上だから」
八幡「……………………ありがとな」
沙希「どういたしまして」
八幡(俺の震えが収まっても、そろそろ浴槽を洗うと言うまで、俺は川崎とずっと手を繋いでいた)
八幡「ふう…………」
八幡(身体を洗ったあと、俺は湯船に浸かり、大きく息を吐く)
八幡(気持ちいい……風呂は命の洗濯、とはよく言ったものだな)
沙希「比企谷ー」コンコン
八幡(ノックされて声を掛けられる。ドアの曇りガラスの向こうに川崎のシルエットが見て取れた)
八幡「おう、何だ?」
沙希「替えの下着と寝間着代わりのジャージ置いとくから。バスタオルは使ったらそのまま洗濯機に入れといて」
八幡「わかった。サンキューな」
沙希「ん、それじゃごゆっくり」
八幡「あ、ちょっと待ってくれ川崎」
沙希「なに?」
八幡「その……少し話さねえか?」
沙希「ここで? いいけどさ。なんならあたしも入ろうか?」
八幡「来んな! てかそれのことなんだけどよ」
沙希「それ? 何のこと?」
八幡「今入ってこようとしたことだよ。お前さ、そこまで積極的なやつだったか?」
沙希「…………」
八幡「もちろん俺がお前の全部を知ってるわけじゃねえけどさ、それでも何つうか……」
沙希「キャラが違うってやつ?」
八幡「ああ、そんな感じだ。別に悪いわけじゃないんだが、どうも戸惑ってしまってな」
沙希「うん。ま、そうだろうね。でもあたしも恥ずかしい気持ちはあるからね。思い出したら今朝のあんたみたいに布団の中で悶えたいくらいには」
八幡「忘れろ!」
沙希「ふふ」
八幡(川崎はその場に座り、言葉を続ける)
沙希「あたし、田舎に日帰りで帰ってたんだけどさ」
八幡「そう言ってたな」
沙希「その時お祖母ちゃんとちょっとお話したんだ。お祖母ちゃんの昔の話」
八幡「へえ、どんな?」
沙希「お祖母ちゃん、若い頃に身分違いの恋をしたんだって。その頃まだその辺りはそういうのは許されないような風習があってさ、お互い好き合ってたみたいだけど最後まで言えないまま離れ離れになっちゃった」
八幡「…………そうか」
沙希「お祖母ちゃんがその人に想いを告げなかったのはそういう時代背景があったからだけど…………じゃああたしはどうなんだろって考えたの」
八幡「…………」
沙希「一応確認するけどさ、比企谷って恋人とかいないよね?」
八幡「いるわけないだろ、俺だぞ?」
八幡(『俺だぞ?』。うむ、なんという説得力)
沙希「だったらあたしがあんたに想いを告げるのはいけないことじゃない。今までしなかったのはただあたしが恥ずかしいってだけだったから」
八幡「…………」
沙希「ちょっと考えたの。もし、あんたがあたし以外の誰かと付き合ったらって」
八幡「有り得ないだろそんなの。俺が誰かと付き合えるなんて」
沙希「そんなことないよ。現にあたしはあんたを好きなんだし、他にあんたを好きな女子がいる可能性もゼロじゃない」
八幡「う…………」
沙希「そうなった時、きっとあたしは何でもっと早く想いを告げなかったんだろうって後悔する。そう思ったら想いを伝えたいって気持ちが恥ずかしさを上回ったよ。そんなふうに考えてたらまさかいきなり駅前でばったりなんてね」
八幡「カモがネギしょってるのを見つけたわけか」
沙希「しかも自分から鍋に入ってるくらいだね。あんたには悪いけどこれはチャンスだと思った。あんたと距離を縮めるための」
八幡「普通そういうのは言わないんじゃねえか?」
沙希「比企谷があたしをお人好しとか思ってるみたいだからその辺は言っとかないと。あたしがあんたに嘘を付いたらもう人間不信になるかもしれないし」
八幡「人間不信なのは元からだから安心しろ」
沙希「ふふ、どこを安心しろっていうのさ…………ま、要するに弱ってるあんたの心につけ込んであたしに惚れさせちゃおうっていう狡いことを考えてる悪い女なんだよあたしは。ちょっと積極的なのもあんたが押しに弱いからぐいぐいいってるだけ」
八幡「そうか…………」
沙希「だからあんたは気にせずあたしの世話になってればいいの。もしあんたが他の人を好きになってもあたしの魅力や努力が足りなかっただけだからね。いつでもフってくれて構わないよ」
八幡「…………なあ川崎」
沙希「何?」
八幡「ちょっと、そっちに近寄っていいか?」
沙希「全裸で近付くなんて何か邪な考えが…………」
八幡「ねえから」
八幡(裸で女子と会話をしているなんて考えないようにしてたのに!)
沙希「冗談だって。いいよ」
八幡(俺は湯船から出て、ドアの前に立つ)
八幡「川崎、ありがとう。こんな俺を好きって言ってくれて」
八幡(とん、と手の平を川崎に向けるようにドアにつく)
八幡「でもごめんな。まだ心のどこかで人を、お前を信じきれないんだ、情けない話だが。お前を信じたいって思ってるのに」
沙希「ううん。ありがとう、比企谷」
八幡(川崎が立ち上がり、ガラス越しに手を合わせてきた)
八幡「なんで礼を言うんだよ。お前を信じられないって言ってるんだぞ」
沙希「信じたいって言ってくれたじゃない」
八幡「それだけで…………」
沙希「うん、それだけで充分…………さ、そろそろ湯船戻りな。風邪引いちゃうよ」
八幡「ああ…………なあ、川崎」
沙希「ん?」
八幡(俺と川崎の手の間を隔てるのはドアのガラス一枚。だけどそれがひどく遠く感じられる)
八幡「……………………やっぱり何でもない」
沙希「ふふ、何それ」
八幡「すまん」
沙希「焦らなくていいよ…………ゆっくりで、いいから」
八幡「! …………ありがとうな」
沙希「ん、それじゃ」
八幡(川崎はその場を離れ、俺は再び浴槽に浸かる)
八幡(川崎には悪いと思ってる。だけどまだ小町や親父達、そして雪ノ下に会う勇気がない。みんなそんなやつらじゃないとわかっているのにどうしても悪い方向に考えてしまうのだ)
八幡(俺はその場にいない川崎に向かって申し訳なく言う)
八幡「すまん…………もうちょっとだけ、お前に甘えさせてくれ」
八幡(風呂から出て居間に戻ると、川崎が何やら縫い物をしていた。こちらに気付くと一旦その手を止める)
沙希「お茶淹れるよ。温かいのと冷たいのどっちがいい?」
八幡「えっと、じゃあ温かいので。悪いな」
沙希「いいの。あたしも喉が渇いたとこだし。ちょっと待っててね」
八幡(川崎は台所から湯呑みを二つ持ってきた。茶葉を入れた急須にポットからお湯を注ぎ、湯呑みに淹れて俺に差し出す)
沙希「はい。まだ少し熱いから気を付けてね」
八幡「おう、サンキューな」
八幡(俺はそれを受け取り、息を吹いて冷ましながら飲む)
八幡「そういや何を縫ってたんだ?」
沙希「ああ、これ? あんた用の服だよ」
八幡「えっ? 俺の!?」
沙希「うん。父さんや大志が着なくなっててまだ綺麗なやつを今風にアレンジしてるの…………ってそういえば聞き忘れてたね。あんた他人が着たやつとか古着とか気にする?」
八幡「いや、特に気にしないし着れりゃいいって思ってるから…………というかそんなこと出来るのかお前って」
沙希「まあこれくらいはね。この方がお金かからないし」
八幡「昼に新作チェックしてたのはこのためか…………すげえな。文化祭の時も思ったけど、改めて尊敬しちまうわ」
沙希「ふふ、誉めたって服と食事と寝床くらいしか出ないよ」
八幡「衣食住揃ってんじゃねえか。てか本当に俺用なの? 親父さんや大志の使っちゃっていいのか?」
沙希「うん。元々こういう時用に取ってあるやつだから平気。あまり古いのやほつれてるのは練習用だったり雑巾になったりするけどね。一応フリーサイズのだから問題ないと思うけどあとで着てみて」
八幡「わかった…………なんつうか、本当に何から何まですまん。俺はお前に何もしてやれてないのに」
沙希「頭下げないでよ、さっきも言ったでしょ。あたしがしたいからしてるんだって」
八幡「でも……」
沙希「いいから。どうしてもって言うならあたしに耳掻きでもさせてくれればいいよ?」
八幡「え? まあ、ちょっと恥ずかしいけど俺でいいなら…………」
沙希「あれ? いいの?」
八幡「でも小さい頃小町にしてやった経験くらいしかないから上手くないぞ」
沙希「えっ? 違う違う。あたしがする方だってば」
八幡「はあ? それじゃお返しにならんだろ。むしろ俺の借りが増えてるじゃねえか」
沙希「ううん、あたし人に耳掻きするの好きだもの。弟達にはよくしてあげてるしね。好きな人にしてあげるのも夢だった」
八幡「うぐっ………………」
沙希「普通に言っても多分何だかんだ断られそうだから交換条件みたいな形で言っちゃうけどさ、あたしの夢を叶えてくれないかな?」
八幡「わ、わかった…………で、でも、俺も女の子にしてもらいたいとか思ったことはあるから、貸し借りは無しっつうか、他に俺に出来ることがあればそっちで返させてくれ」
沙希「うん、考えとく」
八幡(川崎は嬉しそうに微笑み、棚から耳掻き用の道具一式を用意する。そして少しテーブルをずらし、スペースを確保して女の子座りをした)
沙希「さ、ここに頭乗せて」
八幡「お、おう」
八幡(川崎は自分の太ももをポンポンと叩き、俺は寝転がってそこに頭を乗せる)
八幡「お、お邪魔します」
沙希「うん、いらっしゃい。そういえば比企谷は女の子に膝枕してもらったことある?」
八幡「あるわけねえだろ。物心ついてから家族にすらされたことあるか曖昧だ」
沙希「! ふふ、じゃああたしが比企谷の初めてだね。嬉しいな」
八幡(ちょっとエロく聞こえる…………)
沙希(無意識にだろうけど、比企谷はさっきから家族のことを口にしてても手は震えてない。少しはマシになったのかな……)ナデナデ
八幡(え、なんで頭撫でてくんの? 耳掻きは? でも、気持ちいい。こんなこと、されたことない…………あ、ヤバい、なんか泣きそう)
八幡(あ、あ、なんで、なんで…………)ポロポロ
沙希「!!」
八幡「す、すまん、何でかわかんねえけど涙が……すぐ、止まるから」ポロポロ
沙希「あたしは何も見てないよ。好きな人に膝枕してあげて頭を撫でる夢が叶って堪能してる最中だから」
八幡(川崎はそう言いつつもティッシュボックスを目の前に置いてくれた。俺はそこから何枚か取り、目に当てる。くそっ、何なんだこの腐った目は。ちっとも持ち主の言うことを聞かねえ)
八幡(俺が落ち着くまでのしばらくの間、川崎はずっと頭を撫でてくれていた。正直名残惜しくもあったが、俺は涙を拭き取って川崎に言う)
八幡「ありがとう、もう大丈夫だ」
沙希「ん? 何かあったの? あ、そういえば今から耳掻きするんだったね」
八幡(あくまでも見なかったことにしてくれようとする川崎。俺はそれに甘えることにした)
八幡「ああ。その、最近してなかったから汚いかもしれねえけど、よろしく頼む」
沙希「うん。綺麗にしてあげるよ」
沙希「ん……よしっ、と。比企谷、終わったよ」
八幡「………………おう」グッタリ
八幡(ヤバい。ヤバいヤバい。人に耳掻きしてもらうのってこんなに気持ち良いのか? 身体に力が入らん…………)
八幡(いや、たぶん川崎が上手なだけなんだろうけど。気持ち良すぎて変な声まで出てしまった…………もうお婿に行けない)
八幡(って、よく考えたらもう恥ずかしいとこ色々さらけ出してんな。今更か)
沙希「どうしたの? 眠いならこのまま寝ちゃう?」
八幡「あー……いや、気持ちよかったから余韻に浸ってたわ。ありがとうな」
八幡(俺は身体を起こして川崎に礼を言う)
沙希「こっちこそさせてくれてありがとね。さ、あたしもお風呂入ろっかな」
八幡「おう。今更だけど悪いな、先にいただいちゃって」
八幡(実際は固辞しようとしたのだが、『そんなにあたしが入ったあとのお湯の方がいいの?』って言われちゃなあ……)
沙希「気にしないでって。お布団そこに用意してあるから眠かったら先に寝ちゃっててもいいからね」
八幡「わかった」
沙希「あと覗くならこっそりね」
八幡「覗かねえから!」
沙希「ふふ。じゃ、行ってくる」
八幡(川崎は身の回りのものを軽く片付けてから風呂場へと向かった。俺はリモコンを取ってテレビを点ける)
八幡(しかし一通りチャンネルを回したものの、特に見たい番組がなかったのですぐに消してしまった)
八幡「ま、この時間はろくなのやってねえか。ドラマ見てもわかんねえし…………あれ?」
八幡(リモコンをテーブルに置いたとこで気付く。俺の前の湯呑みから湯気が立っていた。おそらく川崎が風呂場に行く前に新しく淹れていってくれたのだろう)
八幡「気が利きすぎだろあいつ…………」
八幡(俺は湯呑みを手に取り、じっと中身のお茶を眺めながら今後のことを考えた)
八幡(とりあえず明日は予備校がある。午前中は川崎と同じだが、午後は川崎が午後一から、俺は間を空けて夕方からの講義だ)
八幡(その間は…………うん、ちょっと街中をぶらついてみよう。正直なとこ誰か知り合いに会うかもしれないし、それが怖いけどいつまでも川崎を頼るわけにはいかない。いわゆるリハビリってやつだ。手を握ってもらわなくても、抱きしめてもらわなくても、大丈夫なように)
八幡(………………)
八幡(川崎沙希、か…………)
沙希「あれ、まだ起きてた?」
八幡「ああ、昨日結構寝たしな。まだあんまり眠くないんだ」
八幡(背中から声が掛けられ、俺は返事をしながら振り向く)
八幡「っ…………!」
沙希「? 何?」
八幡「い、いや、髪を下ろしてんのが珍しくてさ」
沙希「ああ、普段は結んでるからね。どう? ギャップにときめいたりしない?」
八幡「な、何言ってんだよ」
沙希「ふふ、否定しないんだね。あ、そういえばアイスあるよ。比企谷も食べる?」
八幡「お、おう。じゃあいただくわ」
沙希「ん。ならすぐ持ってくるよ」
八幡(川崎は台所へと向かう。正直髪型とかよりパジャマ姿の方にドキッとしました)
八幡(その後はアイスを二人で食べ、縫い物を再開した川崎と雑談をしながら過ごした)
八幡(何だろう。川崎といるのがすごい心地いい)
八幡(正直なところ家に一人でいるのと同じくらい居心地が良かった。気を使わず、気を付けず、気を張らず、ただ自然のままにいる)
八幡(もちろんずっとこのままというわけにはいかないのはわかっているけれども)
沙希「じゃ、そろそろ寝よっか」
八幡「そうだな。夜も遅いし」
八幡(俺達は歯を磨き、おやすみの挨拶をして寝床に向かう。川崎は自分の部屋へ、俺は居間へ)
八幡(だけどお互いの姿が見えなくなる直前の位置で俺が振り向くと、川崎もちょうどこちらを振り向いた)
八幡(川崎が軽く笑って手を振ってきたので俺も同じように返す。それに満足したか川崎は部屋に入っていった)
八幡(俺も居間に入り、電気を消して布団に潜り込む)
八幡(お休み、川崎…………)
八幡(何もないだだっ広い空間に俺は一人立っていた。すぐに直感する。これは夢の中なんだと)
八幡(そして辺りを見回した途端、黒いモヤがいくつか立ち上る。ちょうど人型のサイズくらいだ)
八幡(それらから一斉に俺に向かって声が発せられる)
『ゴミ谷君』『ゴミいちゃん』『穀潰し』『勘違い』
八幡(これは夢だから、なんてごまかせるわけはない。むしろ夢だからこそ逃げることもどうすることも出来ず、心の柔らかい部分をえぐられる)
『キモい』『ゴミ』『陰鬱』『根暗』
八幡(違う! 見知らぬやつならいざ知らず、このみんなは本気でそんなことは言わない!)
八幡(だから、その声で言うのは止めてくれ!)
八幡(俺は耳を塞いでしゃがみ込んでしまう。しかしそれでも声は聞こえてくる。いつの間にか周囲は真っ暗になっていた)
八幡(逃げ出したいけど身体が動かない。叫びたいけど声が出ない。発狂しそうだ)
八幡(誰か、助けて…………)
『大丈夫?』
八幡(え?)
八幡(突然今までと違う声音に思わず顔を上げる)
八幡(先程までのモヤは消えており、周りは眩しいほどに明るくなっていた)
八幡(全身が暖かくて柔らかいものに包まれているような感覚に襲われる)
八幡(声の主は目の前にいるのだが、光加減のせいか顔はよくわからない。けど、何だろう、すごく安心する)
『大丈夫。あたしがここにいるよ』
八幡(声の主はそう言って手を差し出す。俺はおそるおそるそれに向かって手を伸ばした)
沙希「んっ…………」
八幡(むにゅ、と柔らかい感触が手の平に伝わり、俺は目を覚ました)
八幡(え…………?)
沙希「あ、比企谷、起きた? おはよ」
八幡(頭の上の方から川崎の声がした。え、え、この体勢と位置関係からすると俺が顔を埋めているこのすげえ柔らかいものは…………川崎の胸?)
八幡(それに気が付いて咄嗟に離れようとしたが、首と後頭部に川崎の両腕が回されてしっかりと抱きしめられていたので逃げられなかった)
八幡(まあ本気で逃げようと思えば逃げられるだろうけど…………あれ? ひょっとしてさっき手で触った柔らかいものって…………か、考えるのを止めよう)
八幡「川崎、ここ、俺の寝てた布団だよな?」
沙希「うん、そうだけど」
八幡「何でお前がいて俺を抱きしめてんの?」
沙希「んー、やっぱり覚えてないか。あんた昨晩うなされてたんだよ」
八幡「え、そうなのか?」
沙希「ちょっと夜中に目が覚めてさ、あんたの様子を見に行ったらすごい苦しそうでね…………起こそうかなとも思ったけど昨日みたいに抱きしめたら嘘みたいに大人しくなったよ」
八幡(また夢のせいか…………)
沙希「だからそのまま抱きしめながら一緒にお布団入って寝ちゃった。その、余計なお世話だった?」
八幡「んなわけねえだろ…………悪いな、本当に迷惑ばかりかけて」
沙希「そんなことないよ。比企谷と一緒に寝れたんだしね。なんならまだ寝ててもいいよ」
八幡「いや、眠くはない…………けど、その」
沙希「何?」
八幡「もう少し、お前とくっつきたい…………背中、腕回していいか?」
沙希「ん、いいよ。ほら」
八幡(川崎は腰を少し浮かす。そのくびれのある位置から片腕を通して川崎の身体に両腕を巻き付け、強く抱きしめて胸に顔を埋める)
八幡「柔らかいな…………それに、暖かい」
沙希「ブラしてないから特にそうだろうね。ふふ、いつも大きくて邪魔だって思ってたけど、少しでも比企谷が気に入ってくれたなら嬉しいよ」ナデナデ
八幡(川崎はそう言って頭を撫でてくる。正直エロい気持ちがないでもないが、それ以上に心が安らぐ。さっきまでチクチクと精神を蝕んでいた痛みはもうすっかり消えていた)
八幡「あと五分くらいだけ、こうさせててくれ」
沙希「別にもっと長くてもいいよ?」
八幡「いや、甘えすぎるともっと駄目人間になっちまうから…………」
八幡(しばらく川崎と抱き合った後、俺達は起き上がって朝食をとることにした。あまり遅くなると予備校に間に合わないしな)
八幡(布団を畳んで部屋の端に移動させてテーブルに着くと、パジャマにエプロンというレアな姿をした川崎が朝食を運んできた。白米に味噌汁、目玉焼きにベーコンにサラダ。実に定番なメニューだ)
八幡(が、ある程度予想していたけど、誰が作ってもそんな変わらないであろうそれは明らかに通常より一段階上の旨さだった)
八幡「あのさ、俺は家出したっつってもいずれ戻るつもりなんだけど」
沙希「? うん」
八幡「あまり俺の舌を肥えさせないでくれよ。ずっとここにいたくなっちまうだろうが」
沙希「ふふ、そんなに美味しかった?」
八幡「ああ、すげえ旨かった。御馳走様」
沙希「ん、お粗末様でした。着替えは昨晩作った服がそこにあるから」
八幡「おう、サンキューな」
八幡(着替えると川崎はジャージを回収して洗濯機を回し、食器を洗い始める)
八幡(俺がぼーっと朝のニュースを見ている間もてきぱきと効率良く動き、家事を済ませていく)
八幡(うーむ、見てる限り専業主婦は専業主婦で大変そうだな)
八幡(一通りの家事を終えて着替えてきた川崎が俺の向かいに座った。新しい茶葉を用意してお茶を淹れ、俺に差し出してくる)
八幡「ああ、ありがとう」
沙希「ん」
八幡(短いやり取りのあと、川崎はじっと俺を見つめてくる。特に用があるというわけでもなさそうで、時折柔らかく微笑む。俺は照れくさくなって顔を逸らしてしまった)
八幡(普段だったら勘違いしたり『俺の事好きなの?』とか言っちゃって馬鹿にされたりするんだが…………勘違いじゃないんだよなあ)
八幡(結局洗濯機が洗濯終了のアラームを鳴らすまで川崎はずっと俺を見ていた)
沙希「んじゃ、そろそろ予備校行こっか」
八幡「おう」
八幡(川崎の呼び掛けを機に俺は立ち上がった。二人で玄関に向かい、靴を履く)
沙希「あ、そうだ忘れてた。比企谷、ちょっと両腕広げてみて」
八幡「あん? こうか?」
沙希「うん…………よし、変なとこないね。急ピッチで仕上げた割には良い出来かな」
八幡「ああ、服か。サイズも問題なしだ。どうだ、格好いいか?」
沙希「うん、惚れ直したよ」
八幡「あう…………」
沙希「ふふっ、何で自分から言いだして照れてるのさ」
八幡「うっせ……行こうぜ。荷物持ってやるよ」
沙希「ありがと。ね、腕組んでもいい?」
八幡「…………人通り多くなったら離せよ」
沙希「うん、わかった」
八幡(川崎は嬉しそうに俺の腕に自分のを絡めた。何というか、本当に変わったなこいつ…………いや、全然嫌じゃないんだけどね。むしろ可愛いと思ってしまうまである)
八幡「悪いな。俺のせいで歩きになっちまって。自転車じゃないとちょっと遠いだろ」
沙希「ううん、これくらい構わないってば。教材持ってもらってるんだし」
八幡「そっか」
八幡(適当に雑談しながら歩き、予備校に到着する。ここでようやく川崎は腕を解いた。何となく止めさせるのが躊躇われてここまで組んだまま来てしまったのだ)
沙希「歩きだから早めに来たけど思ったより時間かからなかったね」
八幡「そうだな。ま、教室行って準備してようぜ」
沙希「うん」
八幡(俺達は連れ立って屋内に入って教室に向かう。その際に受付の前を通り、何人かの講師とすれ違ったりしたが、まったく俺の事を気に掛ける者はいなかった)
八幡「なあ、俺ってここに通ってたよな…………?」
沙希「いや、ここって結構放任タイプだからでしょ。やる気ないやつはほっとくしやる気あるやつはしっかり教えるってのが売りなんだから。正直生徒が来ようが来まいが関係ないんじゃない?」
八幡「そ、そうだよな。いないものになってないよな俺。存在が認識されなくなったわけじゃないよな?」
沙希「疑うなら声でもかけてみればいいじゃない…………」
八幡「ばっかお前、最低限必要なこと以上の話をしなきゃいけないなんて罰ゲームだろうが。今俺は人間不信なんだぞ」
沙希「それは元からって言ってたじゃない…………ま、あの様子だと比企谷の家に連絡がいくとかもないでしょ。行こ」
八幡「おう」
八幡(俺達は教室に入り、並んで座る。教材を出して講義の準備を済ませ、待機状態に入った)
八幡「悪いな、ノートや筆記用具まで用意してもらって」
沙希「あのさ、いちいちお礼言わなくていいって」
八幡「いや、でもこういうのは」
沙希「あんたが戻るときにまとめて言ってくれればいいからさ。そこまで気にしないでよ」
八幡「……まあ、善処はする」
八幡(やがて他の予備校生達も集まってき、間もなく講師がやってきて講義が始まった。俺は川崎と一緒に参考書を見ながらノートを取っていく)
八幡(そんな感じで午前の分が終わり、昼休みになる)
八幡「そういや昼飯どうするんだ? 俺は食わなくても我慢できるけど」
沙希「しなくてもいい我慢をしないでよ…………ちゃんと作ってきたってば」
八幡「え、俺の分も?」
沙希「当然でしょ。ご飯ここで食べていいって言ってたし、はい」
八幡「お、おう。サンキュ」
八幡(俺は川崎から差し出された弁当箱を受け取る。開けると栄養バランスも考えられてそうな色とりどりのおかずとおにぎりが入っていた)
八幡「相変わらず旨そうだな…………いただきます」
沙希「うん、召し上がれ」
八幡「しかしいつの間に用意してたんだ? 冷凍食品とかじゃないだろこれ」モグモグ
沙希「朝ご飯作るときに下拵えは済ませたからね。洗濯物干した後にぱぱっと」モグモグ
八幡「冷めてもちゃんと旨いってのはすごい。おにぎりもわざわざ箸で掴めるサイズに握ってるしおかずも多いし」モグモグ
沙希「トマトは入ってないから安心して食べてね」モグモグ
八幡「ああ。でも川崎が用意してくれるんならトマトも平気で食えそうな気がする」モグモグ
沙希「今日夕食に出そっか?」モグモグ
八幡「できればやめてくれ…………御馳走様でした」
沙希「お粗末様でした。あたしも御馳走様。弁当箱回収するよ」
八幡「おう、サンキュ」
沙希「ん。ところであんた午後はどうするの? 一回家に帰る?」
八幡「いや、ちょっと街をぶらつこうかなと」
沙希「…………大丈夫?」
八幡「はは、何がだよ?」
沙希「ううん。でも何かあったら家に帰っててもいいからね」
八幡「わかった。でも、ま、そうそう何も起きねえよ。お前の講義が終わるくらいに戻るから」
沙希「うん」
八幡(この時俺は楽観的に考えていた。しかし比企谷八幡という人物は相当運に見放されているらしい)
??「あっれー、比企谷君じゃん!?」
八幡(本屋の店頭で広告を見ていた俺の背中に声が掛かった)
八幡(おそるおそる振り向くと案の定そこには陽乃さんがにこにこ笑いながらこちらにやってくる)
八幡「…………どうも」
陽乃「ひゃっはろー、奇遇だねー。一人?」
八幡「俺はいつだって一人ですよ。家でも学校でも」
陽乃「あっはっは、相変わらず面白いね比企谷君は。どう、暇ならお姉さんとお茶でもしない? 奢るからさ」
八幡「良いですよ」
陽乃「そう言わずにちょっとだけでも…………え?」
八幡「でもちゃんと奢ってくださいね。俺今一文無しなんで」
陽乃「嘘……あの比企谷君が私の誘いを受けるなんて」
八幡「断られる自覚あったんですか…………いや、社交辞令だったら別にいいんですよ無理しなくても」
陽乃「待った待った、ならちょっと先の喫茶店行こう。お昼食べてないから小腹も空いたし。ちゃんと奢るから、ね」
八幡「わかりました。お付き合いします」
八幡(俺と陽乃さんは喫茶店へと歩き出す。と言っても本当にすぐそこだったのだが)
陽乃「私はこのBセットを。比企谷君は?」
八幡「俺は腹減ってないのでホットコーヒーだけで」
陽乃「遠慮しないでいいのに。ま、とりあえずそれで」
八幡(注文を受けたウエイトレスが確認し、カウンターへと戻っていく。陽乃さんは無遠慮にじろじろと俺を見てきた)
八幡「…………なんですか?」
陽乃「比企谷君、今日デート?」
八幡「何でですか。俺にそんな相手いませんよ」
陽乃「えー、雪乃ちゃんがいるじゃない。なんかやたらおめかししてるからさ」
八幡「そうですか? 俺にはよくわかりませんが。あとあいつが俺とデートするわけないでしょう」
陽乃「そんなことないよー、あの子比企谷君のこと大好きだもの。ちょっと電話して誘えばイチコロだって」
八幡「勝算のない戦いはしないことにしてますので」
陽乃「だからいけるってば。そんな消極的な男の子は好きくないなー」
八幡「別に貴女には嫌われたって構いませんけどね」
陽乃「へえ…………つまり嫌われたくない子はいるわけだ」
八幡「っ…………!」
八幡(その言葉尻を捉えた台詞に思わず動揺してしまった)
八幡(嫌われたくない子がいる、と指摘されたことにじゃない。そう言われて無意識に頭に思い浮かべたのが他の誰でもない、川崎沙希だったからだ)
陽乃「あ、やっぱりいるんだ。誰? 雪乃ちゃん? ガハマちゃん?」
八幡「…………小町に決まってるじゃないですか」
陽乃「えー、そんなのつまんないー」
八幡(唇を尖らせてむくれる陽乃さん。この態度から察するに雪ノ下経由で俺が家出したことは伝わっていないようだ)
八幡(取るに足らないことだからなのか、大事にしたくないからなのかはわからないが。まあどうせ前者なのだろう)
八幡(やがて注文の品が届き、陽乃さんはサンドイッチに手を伸ばした。俺は自分の前に置かれたコーヒーに砂糖を入れる)
陽乃「でもさー、もうちょっと雪乃ちゃんに構ってあげてよ。雪乃ちゃんが寂しがるじゃない」
八幡「そんなことないでしょう。あいつには由比ヶ浜もいますし」
陽乃「あの子はあの子で雪乃ちゃんの友達やってくれてるからありがたいんだけどねー」
八幡(そんな雪ノ下を中心とした会話をしばらく陽乃さんと行い、俺は自己分析をする。元々陽乃さんの誘いに乗った理由はこのためだ)
八幡(陽乃さんと会話をするのはそんなに怖くない。やはりある程度親しい関係にある人と話すのが俺は怖いのだろう)
八幡(いや、正確に言えば傷つけられたり裏切られたりするのが、か…………もうちょっとタフだと思ってたんだけどな、俺の精神)
八幡(その点陽乃さんとはそういった関係ではないからな。むしろ裏切られることしかないまである)
陽乃「そういえばそろそろ比企谷君に確認しておきたいんだけどさ」
八幡「なんですか改まって?」
陽乃「比企谷君てさ、結局雪乃ちゃんのことをどう思ってるの?」
八幡「…………それに答える義務も義理もありませんよね」
陽乃「そうだね。だからこれは雪乃ちゃんの姉の好奇心として聞いてるだけ。言いたくなければ言わなくてもいいよー」
八幡(陽乃さんは軽い感じで言ったが、その目はどうにか俺の本心を見破ろうと観察力を働かせているのがわかる)
八幡(しかし実際のところどうなのだろう? 俺は今、雪ノ下雪乃に対してどんな感情を抱いているのだろうか?)
八幡「ちょっと、考えさせてもらっていいですか? 自分でもよくわからないとこあるんで」
陽乃「え? あ、うん」
八幡(俺の返答が意外だったのだろう。気の抜けた返事が返ってきた)
八幡(俺は目を閉じて今までのことを思い出す。奉仕部で出会ってから今に至るまでの、様々なことを)
八幡「…………」
陽乃「…………」
八幡(ゆっくりと目を開けると、珍しく真剣な表情をした陽乃さんがこちらを見ていた)
陽乃「結論は出たのかな?」
八幡「ええ…………やっぱり好き、だったんでしょうね」
陽乃「…………」
八幡「憧れ、というのもありますがそれを含めても好きだったという感情が一番近いと思います」
陽乃「もちろん男女的な意味でだよね?」
八幡「もちろん恋愛的な意味です。元々俺は惚れっぽい方ですが、才色兼備でありながら常に己を高めようとするその姿勢は眩しいものでしたよ。あれだけ一緒にいて惚れるなという方が無理でしょう」
陽乃「でも過去形にしたってことは今では好きじゃないってこと?」
八幡「まあそうですね。原因は端的に言えば諦念と疲労感ですよ」
陽乃「…………」
八幡「同じぼっちでありながら立場も生き様もまるで違う。俺なんかが釣り合う相手じゃない」
陽乃「…………雪乃ちゃんは特別な人間なんかじゃないよ。どこにでもいる普通の女の子だよ」
八幡「知ってます」
陽乃「え?」
八幡「だから今言ったのは体の良い言い訳です。雪ノ下さん以外にはこう言うつもりですから」
陽乃「…………私には何て言うの?」
八幡「疲れたんでしょうね。好きでいることに」
陽乃「…………」
八幡「雪ノ下さん、貴女人間のクズですよね」
陽乃「!! …………突然何を言うのかな、比企谷君?」
八幡(陽乃さんは目を細めてギロリと俺を睨む。こええ!)
八幡(だけど次の瞬間ハッとして、しまった!という表情になる)
八幡「すいません。ですが本気で言ったわけじゃないんです」
陽乃「う…………」
八幡「常日頃からこんなふうに言われながらもその相手を好きでい続けるのってたぶんすごいエネルギーを使うんですよ。そういう扱いには慣れているつもりなんですけどね、やっぱり慣れてるだけで辛くないわけじゃないので。だから俺はいつの間にか雪ノ下を好きになり、いつの間にか雪ノ下を好きじゃなくなったんでしょう」
陽乃「でも、雪乃ちゃんは本気で言っているわけじゃなくて」
八幡「わかってますって。本気だったら俺はとっくに奉仕部を辞めてます」
陽乃「…………」
八幡「まあそんなとこですよ。雪ノ下さんはなぜか俺を買い被って雪ノ下とくっつけようとか思ってるみたいですが、そんなことにはなりませんから」
陽乃「…………雪乃ちゃんが暴言を吐かずに優しくなったらどう?」
八幡「ないでしょうね」
陽乃「どっちの意味で?」
八幡「どっちの意味でもです」
陽乃「そっか…………」
八幡(陽乃さんはふうっと溜め息を吐いた)
八幡「一応言っときますけど雪ノ下には今の話をしないでくださいよ。また何か色々言われるのも疲れますんで」
陽乃「うん、前向きに検討しとくよ」
八幡「NOと同意義語じゃないですかそれ…………」
八幡(俺は店内にある時計を確認する。もういい時間だった。思ったより長く話し込んでいたようだ)
八幡「すいません、俺ちょっと行くとこがあるんでここらで失礼します。コーヒー御馳走様でした」
陽乃「うん。私はもう少しここにいるから。ねえ比企谷君、これからも雪乃ちゃんと仲良くしてあげられないかな? もちろん恋愛要素抜きで」
八幡「俺は構いませんよ。雪ノ下のことを嫌いになったわけじゃありませんからね。恋してなくとも憧れや尊敬はしてますから。それじゃ」
陽乃「うん。またね」
八幡(陽乃さんに別れを告げ、俺は喫茶店を出た。少し早足で行けばちょうどいいくらいか)
??「………………あれは……」
八幡(予備校に向かいながら陽乃さんとの会話を思い出し、俺は自分の手を見る)
八幡(ある程度落ち着いて心の整理が付いたのだろうか、家族や雪ノ下の話題になってもその手が震えることは最後までなかった)
八幡「まあ、まだ会うのはちょっと怖いけどな…………」
八幡(俺は予備校に着き、待合室の椅子に座って川崎を待つ)
沙希「ん、お待たせ。何もなかった?」
八幡「んー、どうだろ?」
沙希「?」
八幡「ま、帰ってから話すよ」
沙希「そう? じゃ、これ参考書とか。あたしは先に帰ってて夕飯の支度してるから。それとも待ってようか?」
八幡「いや、いいよ。遅くなっちまうだろ」
沙希「うん。夕飯のリクエストはある? 特になければ魚系でいこうかと思ってるけど」
八幡「お、いいな。じゃあそれでよろしく頼む」
沙希「わかった。じゃあまた後でね」
八幡「おう」
八幡(俺は川崎と手を振って別れ、教室に入る。受け取った鞄から教材を出し、講義の準備をし始めた)
小町「御馳走様でした…………」
結衣「こ、小町ちゃん、もう少し食べないと身体に悪いよ」
小町「すいません、でも食欲がなくて……」
雪乃「…………ごめんなさい、小町さん」
小町「な、なんで雪乃さんが謝るんですか?」
雪乃「やっぱり比企谷君が出ていったのは私のせいだと思うの」
小町「ち、違います! 小町がお兄ちゃんに非道いことを言ったからで…………」
雪乃「でもあなたも御両親もいつも通りの対応だったのでしょう? だったら普段いない私が原因だとするのが自然よ」
小町「いえ、雪乃さんこそいつも通りだったじゃないですか。小町達の方がテンション上がってお兄ちゃんに色々言っちゃったから…………」
結衣「それを言うならあたしだって普段からヒッキーに非道いことを言っちゃってるよ…………だからさ、ヒッキーが帰って来たらみんなで謝ろ?」
小町「……はい」
雪乃「そうね、そうしましょう」
結衣「うん! でもそのためにはちゃんと元気でいないと。さ、ご飯食べよ? せっかくゆきのんが作ってくれたんだから」
小町「はい! …………すいません雪乃さん、わざわざウチに作りに来てもらっちゃって」
雪乃「いいのよ。私も一人だと気が滅入ってしまうし…………その、比企谷にも謝らなければいけないし」
結衣「はあー、ヒッキーどこ行っちゃったのかなあ…………ちゅうにのとこにも彩ちゃんのとこにもいないっていうし」
小町「お兄ちゃんが頼る人なんてそうそういないと思うんですけどね…………」
雪乃(私達三人はテーブルの上に置かれたスマートホンを見る。比企谷君の自室に置きっぱなしにされていたものだ)
雪乃(悪いとは思ったけれど中身を見せてもらい、何か比企谷君の行方のヒントがないかチェックさせてもらった)
雪乃(その結果、収穫はゼロ。数少ない知人の誰も彼の居場所に心当たりはないらしい)
雪乃(誰も口にしないけれど…………どうしても最悪の状況が頭に浮かんでしまう)
雪乃(警察にこそ届けてはいないものの、小町さんは食い入るようにニュース番組や新聞の事故欄を見ているし、御両親も頻繁にネットニュースを仕事の休憩中に確認していると聞く)
雪乃(比企谷君…………)
結衣「やっぱり、誰かに探すの手伝ってもらう? 大袈裟になるのを嫌がるのはわかるけど、優美子や隼人君くらいなら…………」
雪乃「そろそろそれも視野に入れないといけないかもしれないわね……」
雪乃(そんな会話をしていると音楽が鳴り出した。どうやら誰かの携帯の着信音のようだ)
結衣「あ、ごめんあたし。…………姫菜? ちょっと電話してくるね」
雪乃(どうやら海老名さんかららしい。由比ヶ浜さんは電話を持ってリビングを出て行った)
雪乃(正直なところ由比ヶ浜さんを呼んで良かったと思っている。彼女の明るく前向きな姿勢には私も小町さんもだいぶ救われているのだから)
小町「とりあえずあとでまた上行ってお兄ちゃんの部屋を見てみましょう。結衣さんがいたら何か新しい発見があるかもしれないですし」
雪乃「そうね。あまり男性の部屋に無断で入るのは感心しないのだけれども…………今回は仕方ないわね」
小町「んっふっふー、そんなこと言っても内心はお兄ちゃんの部屋に興味津々なんじゃないですか?」
雪乃「な、何を馬鹿なことを…………!」
雪乃(しばらくぶりに見た小町さんの笑顔。少しは元気が出たのかしら?)
雪乃(けれどその表情は廊下から聞こえてきた由比ヶ浜さんの声で一変する)
結衣『えっ!? ヒッキーが!?』
雪乃・小町「「!!」」
雪乃(二人ともばっと廊下の方を見る。しかし由比ヶ浜さんの電話の内容を盗み聞きするのも躊躇われてどうしようか逡巡していると、由比ヶ浜さんがドアを開けてリビングに戻ってきた)
結衣「うん、じゃ、電話切るね。詳しいことはまた今度話すから。ありがと」
小町「ゆ、結衣さん! 今、お兄ちゃんのことを!?」
雪乃(電話を切った由比ヶ浜さんに小町さんが駆け寄って声を掛ける)
結衣「う、うん。なんか姫菜がね、昼にヒッキーっぽいのを見掛けたらしいんだけど…………その……陽乃さんぽい人と一緒だったって」
雪乃「!」
雪乃(私は部屋の端に置いてあった鞄を漁り、携帯を取り出して姉さんの番号を検索する。履歴からすぐに見つかり、コールボタンを押した)
小町「でも何で結衣さんに連絡が来たんですか? お兄ちゃんのこと言ったんですか?」
結衣「う……その、ヒッキーが他の女性に取られちゃうよって発破をかけようとして電話してきたんだって…………」
小町「おやおやー」ニヤニヤ
雪乃(比企谷君が見つかったためか二人が呑気に話している。けれども私は気が気でない。姉さんが関わると大抵禄なことにはならないのだから)
陽乃『はいはい、お姉ちゃんですよー。雪乃ちゃんからかけてくるなんて珍しいねー』
雪乃(数コールのあと、陽気な姉さんの声が聞こえてきた。二人にもわかるようにスピーカーモードにする)
雪乃「姉さん、無駄話も余計な腹の探り合いも無しよ。お願いだから比企谷君に会わせてちょうだい」
陽乃『…………え? どうしたの突然?』
雪乃「無駄話は無しと言ったはずよ。昼にも比企谷君と会っていたのでしょう?」
陽乃『あ、うん。街の中で偶然会ってさー、お茶に誘ったら珍しく断られなくてね。誰か見てたの? でも別れてからはどこ行ったか知らないよ。というか会いたいなら比企谷君の家に行けばいいじゃない。住所を知らないってことはないんでしょ?』
雪乃「…………」
陽乃『雪乃ちゃん?』
雪乃「姉さん、それは本当のことなの?」
陽乃『えっと、雪乃ちゃんが何を言っているのかわからないんだけど…………』
雪乃「…………比企谷君、家出して行方不明だったのよ」
陽乃『はあっ? だって、めちゃくちゃ普通だったよ? いや、私の誘いを受けた時点で普通じゃなかったのかな…………』
雪乃「ちょっと詳しい話を聞きたいのだけれどいいかしら?」
陽乃『直接会って話した方が良さそうだね。雪乃ちゃんは今どこにいるの?』
雪乃「比企谷君の家よ。御両親は仕事で遅くまで帰って来ないけど小町さんと由比ヶ浜さんが一緒にいるわ」
陽乃『おっけ。すぐに行くから待ってて』
雪乃(そう言うなり姉さんは通話を切る。私も携帯電話を待機状態に戻して鞄にしまった)
雪乃「姉さんが会っていたのは比企谷君本人で間違いなさそうね…………遠くへ行ったり何かに巻き込まれたりとかはないみたいよ」
結衣「ああ、良かった…………」
小町「お兄ちゃん……良かったよぉ……」
雪乃(やはりどこか不安だったのだろう。とりあえずの無事が確認されて安堵の溜め息が漏れる。かくいう私も肩の力が抜けるのがわかった)
八幡(講義を終えて川崎家に向かっている最中、俺は幾度も小町や両親、そして雪ノ下との会話を思い出していた)
八幡(フラッシュバック、などではなく意図的にだ。そして自分の手を見る)
八幡「…………うん」
八幡(ほぼ震えていないそれを見て俺は満足げに頷いた。立ち直りが早いと自分を誉めてやるべきだろうか?)
八幡「それでもしまたすぐに傷付いたら世話ないけどな…………おっと」
八幡(いつの間にか川崎家に到着していた。俺は呼び鈴に指をかける)
八幡「………………」
八幡(しかし俺はそれを鳴らさず、そこから離してポケットに手を伸ばす。そこには川崎から預かった鍵が入っていた)
八幡(こっそりと入って川崎を驚かしてやろう、なんて子供じみた悪戯心を起こしてしまったのだ)
八幡(そんな行動をあとで激しく後悔するとも知らずに俺は鍵穴にそっと鍵を差して解除し、ドアノブを回す)
八幡(音を立てずにドアを開け、靴を脱いで気配のする台所へと向かう)
八幡(静かに様子を窺うと、火をかけている鍋の前で鼻歌を歌っているエプロン姿の川崎がせわしなく動いていた)
八幡(さすがに火を使っている時に驚かすのはマズいな、止めとくか…………てか随分機嫌良さそうだな)
八幡(どう声を掛けたものかと考えていると、川崎がお玉で鍋の味噌汁を少し掬って小皿に取り、つっと味見をするのが見えた)
沙希「ん、我ながら良い出来だね。比企谷も美味しいって言ってくれるかな?」
八幡「…………」
沙希「おかわりとか、してくれるかな…………ううん、贅沢言っちゃ駄目だ。好きな人に食べてもらえるだけでありがたいと思わなくちゃ」
八幡「…………」
八幡(俺は細心の注意を払ってその場を離れる。どうにかバレずに一旦外に出て来れた)
八幡「…………」
八幡(何なの!? 何なのなの!? あいつ俺のこと好き過ぎじゃね!?)
八幡(俺は恥ずかしさのあまりその場にうずくまってしまった。くそ! 聞かなきゃよかった! 絶対顔真っ赤だぞ俺、どんな顔で会えばいいんだよ!)
小町「どうぞ」コトッ
陽乃「うん、ありがとねー」
雪乃(姉さんが到着し、小町さんがお茶を淹れる。皆が椅子に座ったところで早速私は切り出した)
雪乃「姉さん、もう一度確認するけれど姉さんは昼に比企谷君と会っていたのよね?」
陽乃「うん。それは間違いないよ。どっちかって言うと家出したってのを疑っているくらいなんだけど…………」
雪乃「彼は一昨日の夜から帰ってきてないの。御両親も仕事にこそ行っているけれどいまいち手につかないそうよ。三日経って見つからなければ警察に届けようと仰っていたわ」
陽乃「でもさー、イマドキ男子高校生が二日くらい家を空けるのって珍しくもないんじゃない? そりゃ比企谷君は友達の家を泊まり歩くとかは出来ないけど」
雪乃「いえ、比企谷君は携帯電話も着替えも、財布すら持っていないのよ…………原因は、私達のせい」
陽乃「…………何があったの?」
雪乃「ええ、順番に全部話すわ。その後姉さんの話を聞かせてちょうだい」
陽乃「うん、わかった」
雪乃(珍しく真剣な表情の姉さんに私はあの日のことを話し出す)
八幡(よし、だいぶ落ち着いた。過去の経験が活きたぜ。昔の恥ずかしいトラウマを思い起こし、今の恥ずかしい気持ちを相殺する。毒を持って毒を制すってやつだな)
八幡(改めて深呼吸したあと呼び鈴を鳴らし、今帰宅したことをアピールしつつドアを開ける)
八幡(玄関先に腰を下ろしてスニーカーの紐を緩めていると、奥からパタパタとスリッパを鳴らして川崎がやってきた)
八幡「おう、ただいま」
沙希「お帰りなさい、お疲れ様。もうすぐご飯出来るからね」
八幡(川崎はそう言って、俺が傍らに置いた教材の入った鞄を取った)
八幡(靴を脱いで立ち上がり、居間に向かう俺の後ろを着いてくる。なんだかこれって…………いやいや)
沙希「ふふ、なんだか夫婦みたいだね。仕事帰りの旦那様と、食事を用意して待ってる奥さん、って感じで」
八幡(うおおい! 深く考えないようにしてたのに! また俺の顔が赤くなっちまうだろうが!)
八幡(しかし、それを誤魔化すために言った俺のセリフは最悪なものだった)
八幡「ははは、だったらお帰りのキスでもするか?」
沙希「え、していいの?」
八幡(そうだったよ! こいつ俺のこと好きなんだったよ!)
八幡「い、いやっ、その…………そうだ! 帰ったらまず手を洗わないとな!」
八幡(俺は逃げるように洗面所へと早足で向かう。川崎は楽しそうに笑いながら台所へと戻って行った)
八幡「うう…………やっぱり赤くなってやがる」
八幡(鏡を確認して俺は呟く。正直小町や親や雪ノ下達とのことなんかどうでも良くなってきたぞ…………考えてみりゃ勝手に俺が落ち込んでるだけだもんな。あっちからしてみればいつも通りの事をしてるだけだったんだし、理不尽に感じているかもしれん)
八幡(………………)
八幡(………………)
八幡(ま、いいか)
八幡(ちょっと考えるのが面倒くさくなったので俺は思考を放棄する。いや、どちらかといえば川崎への対応でいっぱいいっぱいになり、そっちまで考える余裕がないというのが本音だが)
八幡(とりあえず居間に行くか…………)
八幡「ん、いい匂いだな」
沙希「うん、お魚が上手く焼けたからね。あとお味噌汁注ぐだけだから座って待ってて」
八幡「おう」
八幡(俺はテーブルの前に胡座をかく。焼き魚に大根おろし、白米に漬け物、それらが食欲をそそる匂いを漂わせている)
沙希「はい、お味噌汁。あとおかず足りなかったらこれ」
八幡(味噌汁の入った器を置いた後、テーブルの中央に煮物の入った皿を出す)
八幡「お前、本当に何でも作れるんだな……」
沙希「まあウチは両親とも共働きでご飯とかはあたしが作ってたからね、習うより慣れよってやつだよ。さ、食べよ?」
八幡「ああ、いただきます」
沙希「うん、いただきます」
八幡(エプロンを外した川崎と共に食事を開始し、俺は箸を伸ばす)
雪乃「…………そしてさっき由比ヶ浜さんの友人から比企谷君と姉さんが一緒にいるのを見掛けたと電話があって、姉さんに連絡したのよ」
陽乃「そっかー、だからか…………」
小町「だからか、って何がですか?」
陽乃「うん。喫茶店でお話したときにね、雪乃ちゃんやガハマちゃん、それと小町ちゃんの名前が出る度に比企谷君の顔が一瞬強張ってたの」
小町「え…………?」
陽乃「たぶん、比企谷君は親しい人に会うのが怖い状態なんじゃないかな? また蔑まれるんじゃないか、傷付けられるんじゃないか、って」
結衣「ヒ、ヒッキーを傷付けるなんてそんな!」
陽乃「ないって言える?」
結衣「う…………いえ、たぶんあたしはずっとヒッキーを傷付けていた。あんなにキモいキモいって言いまくって……本当はそんなこと思ってないのに……」
陽乃「自分で言うのも何だけど私とは信頼関係があるわけじゃないからね、だから普通に会話できたんだろうけど…………ま、ある意味雪乃ちゃん達三人は比企谷君に信頼されていたってことだよね」
雪乃「でも、私達がそれを壊してしまった…………比企谷君の優しさに甘えていたのよ…………由比ヶ浜さんにもとばっちりで迷惑をかけて」
結衣「それは違うよゆきのん! さっき言ったようにあたしだってヒッキーに色々言っちゃってたんだから! 誰が悪いのかって言ったらあたし達みんなでしょ。だから、みんなで謝ろ? 自分だけ悪いみたいな言い方しないでよ」
雪乃「そうね……ごめんなさい」
陽乃「ま、家出の原因はわかったけど…………それじゃあ比企谷君はどこにいるんだろうね? さっきの予想が当たってたら、親しい人にこそ会いたくないって言うなら、比企谷君はどこで寝泊まりや食事をしてるのかな?」
雪乃「それに関して姉さんに聞きたいのだけれど、比企谷君は靴を履いていたかしら? 彼は靴も履かずに飛び出してしまったのよ」
陽乃「うん。普通の運動靴っぽいやつだった。服装は結構キマってたかな。もしかしたらデートでも行くのかって思ったし」
小町「え? こんな服装じゃなかったですか?」
雪乃(小町さんはスマホの画面を姉さんに見せた。あの食事会の時に私の料理を写メに撮ったのだが、その際に比企谷君が写り込んだものだ)
陽乃「ううん、全然違うよ。今年の流行ものっぽかったし、どこかで買ったんじゃない? あ、でもお金持ってないんだっけ」
雪乃「…………さすがに店頭のものを盗むようなことはしないでしょうし、やはり誰かのところに世話になっていると考えるのが妥当かしら?」
陽乃「比企谷君の知り合いには全員当たってみたの?」
雪乃「心当たりはすでに連絡済みよ。ほとんどいないけれども」
結衣「うーん、やっぱり隼人君達にも聞いてみるよ。彩ちゃんとちゅうにの他にヒッキーが頼ろうとする男子なんて思い付かないもん」
陽乃「まさか女の子のところだったりして、なんてねー」
小町「あはは、有り得ますね!」
雪乃「………………」
結衣「………………」
陽乃「あれ、どしたの雪乃ちゃん?」
雪乃「いえ、何でもないわ…………ところで姉さん、喫茶店では比企谷君とどんな話をしたのかしら?」
陽乃「それは、ちょっと…………」
雪乃「私達には言えないような話なの?」
陽乃「できれば雪乃ちゃんだけに話したいかなー、って」
雪乃「ここにいる二人にとっても他人事ではないのよ。比企谷君がどこにいるかのヒントがあるかもしれないし、二人にも聞いてもらいたいわね」
陽乃「…………雪乃ちゃんにはちょっとショックな話なんだけど」
雪乃「比企谷君が家出する以上のショックなんてそうそうないわよ。早く教えてちょうだい」
陽乃「んー…………ま、いいか。雪乃ちゃんには少しお灸を据える意味でも、ね」
雪乃「お灸?」
陽乃「うん、えっとね」
雪乃(いざ姉さんが口を開こうとしたとき、チャイムが鳴って玄関の方から気配がする。一瞬比企谷君が帰ってきたのかと思ったけれど、どうやら御両親らしい)
小町「あ、お父さんお母さんお帰り。今日は早かったんだね」
雪乃(ドアから顔を覗かせた小町さんが対応する。すぐにお二人ともリビングにやってきた)
比企谷父「来ていらしたんですか、雪ノ下さんに由比ヶ浜さん。それと…………」
陽乃「あ、お初にお目にかかります。私は雪乃の姉の雪ノ下陽乃といいます」
比企谷父「どうもご丁寧に。八幡と小町の父です。こちらは家内です」
比企谷母「どうも。えと、お姉さんは八幡のことをご存知なのですか?」
小町「あ、そうだ! お父さんお母さん、陽乃さんがお昼にお兄ちゃんと会ったんだって!」
比企谷父「えっ!? そ、それは本当ですか!?」
陽乃「はい。普段とそんなに変わったところは見受けられなくて雪乃から聞いて驚きました。とりあえずその時の詳しい話をしようとこちらに伺った次第です」
比企谷母「八幡は! 八幡は元気だったですか!? 怪我などしていたりは!?」
小町「お母さん落ち着いて。とりあえず座ろうよ」
比企谷母「あ、す、すいません」
比企谷父「このような格好で申し訳ないですが、お話を聞かせていただけますか?」
陽乃「はい。と言ってもそんなに話せることはないんですけど」
雪乃(姉さんはそう前置いて私達に話したのと同じようなことを御両親に伝えた)
陽乃「ですから、どこにいるかはともかく事件や事故とかに遭っている様子はないのでそこは安心してください」
比企谷父「そう……ですか」
比企谷母「よかった……よかったわ八幡…………」グス
陽乃「ふふ、八幡君は愛されてますね。こんな家を飛び出してしまうなんて悪い子です」
比企谷父「いえ…………悪いのは我々の方なんです」
陽乃「……といいますと?」
比企谷父「親の口から言うのも何ですが、アレはいい息子に育っていると思ってます。少々性格がひねくれて人付き合いに難はありますが、勉強はそれなりに出来ますし人を思いやる優しさを持ち合わせています」
陽乃「そうですね。誤解されたり本人は否定しがちですが、私は彼のことを買っていますよ」
比企谷父「そう言っていただけると…………要領もよくて何だかんだ大抵のことは自分だけでこなしてしまうし、一人でいるのが好きなようで」
陽乃「はい」
比企谷父「しかしそれ故に私達は間違ってしまったんです。八幡に関しては放任主義気味になってしまい、八幡もそれをよしとしているように見えてしまいました。どんなにしっかりしててもあいつはまだ高校生だというのを失念してしまっていたんです。まだ親の愛情を必要としている歳だと言うのにっ…………」
陽乃「…………」
比企谷父「…………失礼、取り乱してしまいました。息子の知人に話すことではありませんでしたね」
陽乃「いえ。ですがお気持ちはよくわかりますよ。八幡君にその思いをぶつけてみてはどうでしょうか?」
比企谷父「ええ、そのつもりです。それと、つい蔑ろにするようなことを本心でないとはいえ言ってしまったのも謝らなければなりませんし…………それで、八幡はどこに行ったかはわかりませんか?」
陽乃「すいません、それはわかりかねまして…………」
比企谷父「そうですか……あの、喫茶店で八幡とはどのような話を?」
陽乃「それは、ちょっと御両親には…………」
雪乃「姉さん、いったいどんな話をしたのよ。御両親にも話しづらいことなの?」
陽乃「えっと、いわゆる恋バナを…………ね」
比企谷父母「!」
雪乃・結衣・小町「「「えっ!?」」」
陽乃「ちょっと込み入った話もしたので、さすがに親に知られるのは子供からすれば止めてほしいのではないかと…………」
比企谷父「そう、ですね。八幡もいい気はしないでしょう」
比企谷母「でも……」
比企谷父「だから小町、一旦小町が聞いてくれないか? それで私達に話していいと判断したところだけあとで教えてくれればいい」
小町「うん、わかった! それじゃ皆さん、小町の部屋に移動しましょう!」
雪乃(小町さんが立ち上がり、私達もそれに倣って移動する。でも気になるわね、比企谷君の恋バナ…………)
八幡「御馳走様でした…………」
沙希「お粗末様でした……ってどうしたの? 美味しくなかった? まさか無理しておかわりしてくれたんじゃ…………」
八幡「ちげえよ逆だ逆。あのな、俺運動部じゃないんだから食ったらそれだけ太りやすくなるんだぞ。旨すぎて何度もおかわりしちゃうのを制止してくれよ。俺自身の意志じゃ止まんねーんだから」
沙希「なにその理不尽な怒り方…………えっと、そんなに美味しかった?」
八幡「語彙が足りなくて申し訳ないが、すっげえ旨かった。お前の家族が羨ましいわ」
沙希「ふふ、ありがと。でもあんただったらあたしと家族になれる方法があるよ」
八幡「え…………あっ!」
沙希「じゃ、食器片付けちゃうね。少ししたら予備校の講義の復習、一緒にやろ?」
八幡「お、おう」
八幡(川崎は食器を持って台所に行き、洗い物を始める)
八幡(さっきのあれ…………つまりそういうことだよな? いや、俺のことを好きだっていうならそうなんだろうけど)
八幡(やべえな。川崎が俺の中でどんどん大きくなってる…………いやいや、別にヤバくないけどさ)
八幡(…………川崎沙希)
陽乃「雪乃ちゃん、比企谷君と話したのは雪乃ちゃんにもちょっとショックな内容だって言ったじゃない。御両親の前で尋ねるなんて何を考えてるの!?」
雪乃「御両親にも話を聞いてもらうべきかと思ったのよ…………まさか恋愛絡みとは思わなかったわ」
小町「まま、二人とも落ち着いてください。それで、早くお兄ちゃんとのお話聞かせてください!」
陽乃「おおぅ、随分食いつくね小町ちゃん…………」
結衣「あ、あたしも聞きたいかなー……って」
雪乃「そうね。比企谷君の居場所のヒントがあるかもしれないし、早く聞かせなさい」
陽乃「…………」
雪乃「姉さん?」
陽乃「その前に雪乃ちゃんに一つ聞いておきたいんだけどさ」
雪乃「何よ改まって」
陽乃「雪乃ちゃんて、比企谷君のことどう思ってるの? あ、もちろん恋愛的な意味でだけど」
雪乃「っ! …………別に、何とも思っていないわ」
陽乃「もうちょっと素直になりなよー。人を好きになるなんて恥ずかしいことじゃないんだからさ」
雪乃「しつこいわね。何故私があんな男を好きにならなければならないのかしら? ひねくれてて碌に友人もいないような男なんて…………」
陽乃「それものすごいブーメランが返ってきてるからね? でも、そっか。雪乃ちゃんは比企谷君を何とも思ってないのかあ」
雪乃「だいたい今は私の話は関係ないでしょう? 比企谷君の話はどうしたのよ」
陽乃「ん? だから比企谷君は雪乃ちゃんのことが好きだったって話をしたんだよ」
雪乃「えっ?」
結衣「ええっ?」
小町「えええっ? ほ、本当ですか!? 本当にお兄ちゃんがそんな話を!?」
陽乃「うん。聞いてみたら何か真剣に考え出してね。気付かないうちにそういう気持ちを持ってたんだって。でも今思い返せばこんな質問に答えるってこと自体変だったんだねぇ。衝撃的で考えが及ばなかったよ」
結衣「そっか……ヒッキーはゆきのんが好きなんだ…………」
雪乃「ま、まああんな男に好かれても嬉しくはないのだけれど。でも逆恨みとかでストーカーになられても厄介だし、今度からはもう少し優しくしてあげてもいいわね」
小町「と言いつつ顔がにやけてますよ雪乃さん」
雪乃「こ、これは比企谷君が私を好きだなんて滑稽な事を言うから可笑しくて…………」
陽乃「あ、それは大丈夫。比企谷君が雪乃ちゃんのことを好きだったのはちょっと前のことだから。今はもう恋愛感情を持ってないらしいから安心していいよ」
雪乃「…………………………え?」
沙希「やっぱりあんた頭良いよね数学以外は。というかもう少し数学も頑張ろうよ」
八幡(二人で漢文の勉強をしていて、俺がアドバイスをしたあと川崎はそう言ってきた)
八幡「いやいや、数学なんて人生の役に立たないだろ。大学だって数学必要ないとこに行くつもりだし」
沙希「何を中学生みたいなこと言ってんのさ…………というかあんたあれでしょ。一回躓いてそこを理解できないまま授業が進んでいって挫折したパターンでしょ?」
八幡「う…………」
沙希「先生に聞くのも躊躇われるし、教えてくれるような友達もいない。んでズルズルここまで来ちゃったわけだ」
八幡「見てきたようなこと言いやがって……合ってるけどさ」
沙希「ちなみにあたしは平均点を常に上回るくらいの成績だよ」
八幡「何だよ自慢かよ?」
沙希「ううん」
八幡(川崎は首を振ったあと、そっとシャーペンを持っている俺の手を上から重ねるように握ってきた)
沙希「わからないところ、最初からあたしが教えてあげるからさ、もう少し頑張ってみない?」
八幡「う……い、いや、俺はもう数学は」
沙希「役に立たないって言うけどさ、そんなのわからないでしょ? 何かの拍子に学んでおけばよかったって思うことがあるかもしれないじゃない。なんなら春休み終わってからも教えてあげるから」
八幡「で、でも悪いだろ。お前の迷惑にもなっちまうし」
沙希「ううん、代わりに他の教科を教えてもらいたいんだ。今の漢文みたいにさ。それでおあいこでしょ?」
八幡「う…………」
沙希「あ、ご、ごめん。ちょっと強引だったね…………」
八幡(そう言って川崎は手を引っ込めた)
八幡「い、いや、俺のことを考えてくれてんのは嬉しいぞ、うん」
沙希「…………ごめん。ホントはさ、あんたと少しでも一緒にいられたらなって思って提案した」
八幡「なっ…………」
沙希「あ、でも、勉強教え合いたいってのも本当だから。一人でするより捗るだろうけど、あたしも一緒に勉強するような相手がいないし…………」
八幡「…………まあ、その、考えておくよ」
沙希「うん」
八幡(その後はまた勉強に戻り、ちょっとだけ雑談を挟みながらも復習を済ませる)
八幡「よし、と。こんなもんだな」
沙希「だね。じゃ、そろそろお風呂がわいてるから入ってきなよ。ジャージと下着は用意してあるから」
八幡「おう、ありがとな。んじゃお先にいただくわ」
八幡(俺は教材を片付け、風呂場に向かう)
結衣「ゆきのん大丈夫かなぁ…………」
小町「ええ……まさか雪乃さんがあんなに取り乱して泣くなんて想像も付きませんでしたね…………今日は陽乃さんがマンション送った後も一緒にいるって言ってましたけど」
結衣「うん…………ね、小町ちゃん。今日さ、あたしお泊まりしてもいいかな? ちょっと今一人になりたくなくて…………」
小町「はい、全然構いませんよ! …………その、やっぱり陽乃さんの言ってたこと、気にしてます?」
結衣「う、うん…………あれ、ゆきのんに向けて言ってたけどあたしにも言えることだったし」
小町「結衣さんも、兄のことが好きなんですか?」
結衣「そう……だね。あたしはヒッキーのことが好きだよ」
小町「まあ知ってましたけどね」
結衣「え、嘘!?」
小町「いや、そんな驚くことでも…………多分兄以外はみんなわかってますよ」
結衣「うう…………あたしそんなにわかりやすい?」
小町「はい、すっごく。兄ももしかしたらって思ったことは何度もあるんじゃないですかね?」
結衣「…………でも、ヒッキーの中では違うなって判断されたんだよね。あたしも結構ヒッキーに色々言っちゃってるし」
小町「まあはっきり想いを伝えない限りは勘違いだと自分に言い聞かせるでしょうね…………でもまさかそんな色恋沙汰に否定的な兄が雪乃さんを好きになっていたとは……いや、小町も結構煽りましたけど」
結衣「うん…………ね、小町ちゃん。明日暇かな?」
小町「え? まあ兄を待つこと以外やることはないですが」
結衣「あ、そっか。ヒッキーの帰りを待ってなきゃいけないか…………」
小町「でも陽乃さんのおかげで無事は確認できましたし、出掛けるのも構いませんよ。というか雪乃さんのとこですよね?」
結衣「うん。やっぱりそばにいてあげたいかなって」
小町「じゃあ明日朝に確認のメールでも入れて訪問しましょう。小町も雪乃さんのこと気になりますから」
結衣「ありがとう小町ちゃん」
沙希「ふう、いい湯だった…………って、何してんの?」
八幡「ああ、今テレビでやってた問題をCM明けまでに解こうと思ってな」
沙希「どれどれ…………あ、これ知ってる」
八幡「待て! 言うなよ、解けそうなんだから…………こうだ!」
沙希「うん、正解。というか頭の回転もいいんだからやっぱりその気になれば数学もいけるって」
八幡「あーあー聞こえませーん」
沙希「まったく…………お茶淹れるけど飲む?」
八幡「おう、頼むわ」
沙希「はいよ」
八幡(俺と川崎はしばらくの間お茶を飲みながらゆっくりとした時間を過ごす)
八幡(ずっとこんな時間を過ごせたら、なんて考えが頭をよぎるがそういうわけにもいかない)
八幡「なあ川崎、お前の家族っていつこっちに戻ってくるんだ?」
沙希「あと三日くらいの予定だよ。一応帰ってくる前に連絡は母さんから来るから」
八幡「そういや大志経由で小町に連絡行ったりしねえのかな? おぞましいことにあいつらお互いの連絡先知ってんだろ」
沙希「何さおぞましいって…………大丈夫。母さんに連絡はしたけど知ってるの母さんだけだから」
八幡「あ、そうなのか? まあ父親は娘一人の家に男が泊まるなんざ絶対反対だろうしな」
沙希「バレたってあたしが文句言わせないけどね」
八幡「父親が娘に弱いのはどこも一緒か…………川崎」
沙希「何?」
八幡「俺、明日家に帰ろうと思うけど、どうだ?」
沙希「そう…………ていうか何であたしに許可を求めるのさ? 自分の家に帰るんでしょ? 別にあたしは軟禁してるわけじゃないんだし」
八幡「まあそうなんだけど」
沙希「何時くらいに帰るの?」
八幡「昼前には」
沙希「そう。じゃ、お昼ご飯はいらないね」
八幡(一見平然と会話をしているように川崎の表情はあからさまに曇っていった。俺の身を案じてくれているのだろう)
八幡「まだ少し怖いけどさ、前に進まないわけにもいかねえし」
沙希「そう、だね……」
八幡「だから、その…………ちょっと頼みというか、お願いがあるんだが」
沙希「頼み?」
八幡「えっと…………今夜、一緒に寝てくれねえかな?」
沙希「えっ!?」
八幡「違う違う! エロい意味じゃないから勘違いも通報もするなよ!? その、なんつーか」
沙希「ふふ、いいよ。一緒に寝よう?」
八幡「即答だなおい」
沙希「断る理由なんか無いしね…………じゃ、もう歯を磨いて寝よっか」
八幡「ああ」
八幡(俺達は洗面所に行って歯を磨く。川崎は一旦自分の部屋に戻って枕を持ってき、居間にある俺の布団を敷く)
沙希「よいしょっと」
八幡(灯りを豆電球だけにして暗くし、まず川崎が布団に潜る)
沙希「ほら、おいで」
八幡「…………何で俺の枕の位置がそんなに下がってんの?」
沙希「遠慮しないでいいから。あたしの胸がいいんでしょ?」
八幡「まあ……否定はしない」
八幡(俺も布団に潜り、頭を枕に載せて顔を川崎の胸に埋めるようにし、両腕を川崎の背中に回して抱き付く。川崎は片腕を俺の首に回して抱きしめ、もう片手で頭を撫でてくる)
八幡「ん…………すげー心地良い…………お前の胸でしか眠れなくなったらどうしよう」
沙希「ふふ、その時はちゃんと責任を取るよ…………明日、頑張ってね」
八幡「……ああ」
八幡(俺は少しだけ川崎を抱きしめる力を強め、より密着して体温を感じる)
八幡「あったかいな…………人の身体って、こんなにもあったかいんだ…………」
沙希「安心するでしょ? 何か辛いことがあったらいつでもおいで。あたしがこうしてあげるから」
八幡「ありがとうな、川崎…………」
八幡(俺は柔らかさと暖かさに包まれながら眠りについた)
結衣「…………ねえ小町ちゃん、今更だけどゆきのん本当に大丈夫なのかな? やっぱり一人にしといてあげた方が良かったんじゃ…………」
小町「いや、本当に今更ですよそれ。もう雪乃さんのマンション前まで来てるのに。メールしたら来ても構わないって言われたんですよね?」
結衣「うん…………だけどあれ、社交性? かもしれないじゃん」
小町「たぶん社交辞令って言いたいんですよね、それ…………まあ迷惑そうだったらその時点で引き上げればいいんですよ」
結衣「……そうだね。よし、えいっ!」ポチポチピンポーン
『はい、由比ヶ浜さんかしら?』
結衣「あ、ゆきのん! うん、あたしだよ!」
『今オートロックを解除したわ』
結衣「うん、すぐ部屋に行くね!」
小町「声は結構普通そうですね」
結衣「みたいだね。さ、ゆきのんの部屋に行こ」
小町「はいっ」
雪乃「いらっしゃい。上がってちょうだい」
結衣「うん、おじゃましまーす」
小町「おじゃまします」
陽乃「あ、二人とも昨日ぶりだね」
雪乃「今あなた達の分も紅茶を淹れるわ。少し待っていてちょうだい」スタスタ
結衣「…………見た感じもう立ち直ったみたいですけどどうなんですか?」ヒソヒソ
陽乃「うーん、立ち直ったというより開き直ったってのが当てはまるかなぁ?」ヒソヒソ
小町「開き直った?」ヒソヒソ
雪乃「なに内緒話をしているのかしら?」カチャカチャ
結衣「あ、紅茶ありがとう!」
小町「ありがとうございます」
陽乃「ねえ雪乃ちゃん。昨晩の事覚えてる?」
雪乃「何度確認させるのよ……ちゃんと覚えているわ。確か…………」
~~~~~~~~~~~~
雪乃『もう、恋愛感情は持っていない?』
陽乃『うん。だってさ、雪乃ちゃんて人間の屑だし気持ち悪いよね』
結衣『えっ!?』
小町『なっ!?』
雪乃『………………そう。そういうことだったのね』
陽乃『んん?』
雪乃『なるほど…………陰口を叩かれたりするのは慣れているつもりだった。でも身近な人間に言われるのは少しキツいわ』
陽乃『雪乃ちゃん…………』
雪乃『そして私はあの時だけでなく、ずっと比企谷君に言い続けてきた…………愛想を尽かされてもむしろ当然のことだったのね』
陽乃『まあ比企谷君も比企谷君だけどね。せいぜいちょっと注意するくらいで強く止めさせようとしてこなかったし』
雪乃『いえ、普通に考えればわかることよ。ただ私は比企谷君のその優しさに甘えていたに過ぎないわ』
結衣『ゆきのん…………』
雪乃『今からでも、間に合うかしら?』
陽乃『え?』
雪乃『比企谷君に謝って、またいつも通りの日常に戻って、楽しい日々を過ごせるかしら?』
陽乃『雪乃ちゃん…………うん、きっと大丈夫だよ!』
結衣『それにゆきのんならまたすぐヒッキーが惚れ直しちゃうよ! あたし、ヒッキーのこと諦めて二人を応援するから!』
小町『小町もです! お兄ちゃんにはやっぱり雪乃お義姉ちゃんが一番似合ってますから!』
雪乃『あらあら。いずれ結婚はするでしょうけどまだお義姉ちゃん呼びは早いわよ』
小町『あ、小町ったらうっかり』テヘペロ
雪乃『ふふふ』
~~~~~~~~~~~~
雪乃「…………と、こんな感じだったわよね?」
結衣「全然違うよ! 何であたしがヒッキーのこと諦めてんの!?」
小町「雪乃さん、さすがに記憶の捏造はちょっと…………正しくは」
~~~~~~~~~~~~
雪乃『もう恋愛感情は持っていない?』
陽乃『うん。だってさ、雪乃ちゃんて人間の屑だし気持ち悪いよね』
結衣『えっ!?』
小町『なっ!?』
雪乃『姉さん!? いくら姉さんでも怒るわよ!』
陽乃『あれあれー、何でそんなに激昂するのかな? いつも雪乃ちゃんが比企谷君に言っていることじゃない』
雪乃『あ、あれは…………』
陽乃『自分が言うのはいいけど言われるのは嫌だってのはちょっとワガママが過ぎるんじゃない? ねえガハマちゃん?』
結衣『えっ!? え、えっと…………』
雪乃『わ、私は本気で言っているわけではないわ! それは比企谷君もわかってくれているわよ!』
陽乃『うん、それは知ってるって。もし本気で言ってたらとっくに部活を辞めて縁を切ってるってさ』
雪乃『だったら!』
陽乃『それでも辛かったんでしょ。好きな相手から本気じゃなくても蔑みの言葉を投げられるのが。比企谷君言ってたよ、好きなままでい続けるのが苦痛だって』
雪乃『わ、私は…………私は…………』
陽乃『ま、雪乃ちゃんが別に比企谷君を好きじゃないのなら気にしなくていいよ。恋愛感情はなくなっても今まで通りに部活仲間として付き合いはするって言ってたし』
雪乃『…………嫌よ』
陽乃『雪乃ちゃん?』
雪乃『嫌、嫌、嫌、嫌』
陽乃『何が嫌なの?』
雪乃『比企谷君は私を好き。なら相思相愛じゃない。只の部活仲間なだけなんて有り得ないわよ』
陽乃『あれ? 雪乃ちゃんは比企谷君が別に好きじゃないんだよね?』
雪乃『そんなことないわ! 私は比企谷君が好きよ!』
陽乃『あ、そうなんだ。でもね雪乃ちゃん、比企谷君はもう雪乃ちゃんのことが好きじゃないの。だから相思相愛じゃないんだよ』
雪乃『どうして!? お互い好き合っていたはずなのに何で!?』
陽乃『いつもお姉ちゃん言ってたよね、素直にならないと駄目だよって。もっと自分から歩み寄れば近付けたはずの関係を壊したのは、雪乃ちゃん自身』
雪乃『嫌! 嫌! 教えて姉さん! どうすればまた比企谷君は私を好きになってくれるの!?』
陽乃『今までのアドバイスを無視してたのにこういう時に頼るのはそれこそ虫のいい話じゃないかな?』
雪乃『あああああああ! 比企谷君! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!』
結衣『ゆ、ゆきのん…………』
小町『雪乃さん…………』
~~~~~~~~~~~~
小町「…………てな感じでずっと陽乃さんの身体にすがりつきながら泣いてましたよね」
雪乃「人の記憶は移ろいやすいものね…………だからこそ私達は日々本物を求めて生きているのかもしれないわ」
結衣「なんで良い話ふうにしてんの!? ゆきのんのはただの現実逃避の妄想だからね!?」
雪乃「まあさっきのくだりは冗談なのだけれども…………頭を冷やして一晩考えたわ。要するに私は子供だったのよ、好きな相手には意地悪をしてしまうっていう実に幼稚な類い」
陽乃「雪乃ちゃんは今までまともな恋愛も人を本気で好きになったこともないからねー。ま、私ももうちょっとちゃんとアドバイスできたら良かったんだけど」
雪乃「そうよ、姉さんが悪いわ。だから私と比企谷君が恋人同士になれる策を考えなさい」
小町「雪乃さん、ちょっと開き直りすぎじゃないですかね…………」
結衣「しかも策って言っちゃったよ。正攻法で行く気はないんだね…………」
陽乃「まあ雪乃ちゃんに言われたからには考えてみるけど…………難しいと思うよ? というかその前に比企谷君を見つけないと」
雪乃「そういえばそうね。結局どこにいるのかしら…………」
沙希(比企谷は昨夜言っていた通り、昼前に出て行った)
沙希(だけどやたら軽い感じて『んじゃ行ってくるわ』だけなのはどうなのさ!?)
沙希(別にそこまで欲しかったわけじゃないけど、少しは泊めた事に対するお礼や感謝の言葉を言ってくれても良かったんじゃない? あたし胸まで貸したんだよ?)
沙希(はあ…………やっぱりあたしの一人相撲なのかな…………あたしのしたことなんて実は大きなお世話だったりとか)
沙希(お昼ご飯作ったけどあんまり美味しく感じないし…………いいや、これ夕ご飯にしちゃお)
沙希(そう思っておかずにラップをして冷蔵庫にしまったとき、来客を知らせる呼び鈴が鳴る)
沙希(だけど勧誘だろうと宅配便だろうと今は誰かの対応をする気にならない。あたしは居留守を決め込むことにした)
沙希(しかし普通なら立ち去るかもう一度呼び鈴を鳴らすかする場面なのに、あろうことか鍵を開けてドアの開く気配がする。あたしは慌てて玄関に向かう)
八幡「あれ? なんだ、いたのか」
沙希(そこにはバッグをしょった比企谷がいた。そういえば合い鍵渡したまんまだっけ)
沙希「ど、どうしてここに? 帰ったんじゃないの?」
八幡「ん? ああ、一回帰ったぞ。誰もいなかったけど。親は仕事だし小町もどっか出掛けてるみたいだから書き置きだけしといた」
沙希「じゃなくて! なんで戻ってきたの? そのまま家にいればいいじゃない」
八幡「おいおい、お前が言ったんだろ。女一人は不用心だから家族が帰ってくるまでいてくれって」
沙希「え…………あっ」
八幡「まあ依頼人が依頼をキャンセルするっていうなら仕方ねえけど…………どうなんだ?」
沙希「っ…………一人で怖かったよ。だから、ウチにいて?」
八幡「おう、引き受けた。着替えや予備校の教材も持ってきたからな、準備は万端だ。数学の参考書も用意したし」
沙希「えっ?」
八幡「教えてくれるんだろ?」
沙希「…………みっちりしごいてあげるよ」
八幡「はは、お手柔らかにな…………ところで、不躾で悪いんだが」
沙希「なに?」
八幡「ウチに何もなくてさ、昼飯食ってねえんだ。食うもんある?」
沙希「! あるよ、残り物でいいなら」
八幡「お前が作ったメシなら文句はねえよ…………その、食べさせてくれるか?」
沙希「うん、すぐに温めて用意するから。手を洗って居間で待ってて」
八幡「ああ」
沙希(さっきまでの陰鬱な気分はどこへやら。あたしはスキップをせんばかりの気分で台所に向かった)
沙希「お待たせ。あり合わせのおかずで悪いけど」
八幡「贅沢なんか言わねえよ。川崎の作ったメシってだけで充分だって」
沙希「そ、そう? ありがと」
八幡「何でお前が礼を言うんだ? いただきます」
沙希「うん、召し上がれ。あ、比企谷さ、着替えはあるんだよね?」
八幡「ん? ああ。だけど、その…………」
沙希「? 何?」
八幡「図々しいけど、もし、またお前が服を作ってくれるって言うなら、そっちを着たいかなって」
沙希「! あの服、気に入ってくれた?」
八幡「ああ。雪ノ下さんにも誉められたしな」
沙希「雪ノ下?」
八幡「あ、言ってなかったか。昨日予備校の合間に雪ノ下の姉の陽乃さんに会ったんだよ」
沙希「へえ…………何か言われたの?」
八幡「まあ、色々とな。そん時に服を誉められたんだよ、デートでも行くのかって。お前のセンスがいいってことだな」
沙希「あ、あたしは別に…………」
八幡「少なくとも俺よりはマシだろ。小町にも結構突っ込まれるし」
沙希「そうなんだ……でも、うん。比企谷が喜んでくれるなら作るよ」
八幡「そうか、ありがとな…………その、川崎」
沙希「ん?」
八幡「メシ食ったら、話、あるんだけど」
沙希「…………わかったよ」
八幡(俺の神妙な顔付きに何かを察したか、川崎は緊張した表情で頷いた)
沙希「そういえばさ、比企谷」
八幡(縫い物を始めた川崎が手を止めずに話し掛けてきた。本当に器用なやつだな)
八幡「ん、何だ?」モグモグ
沙希「何て書き置きしてきたの? あたしのとこにいるって?」
八幡「いやいや、んなこと言ったら即座に警察沙汰になるわ。俺が捕まる方で」モグモグ
沙希「そんなわけないでしょ…………」
八幡「俺に関しては気を遣いすぎることはないぜ。ちなみに書き置きは『三日後くらいに帰る』とだけメモってテーブルに置いてきた。ついでに俺のスマホあったから小町に同じ文言でメールもな」
沙希「え、それでメール返信とか来てないの?」
八幡「さあ? メール送ったあとは家に置いてきたしな。電話やらメールやら来ても鬱陶しいだけだし」モグモグ
沙希「今頃家でガンガン鳴ってるんじゃない? 妹も心配してるかもよ?」
八幡「かもしれねえしそうでないかもしれねえ。でもここで世話になるのに必要ないしな。小町は帰りにケーキでも買っていけばいいだろ」
沙希「もうちょっと真剣に考えているかもよ、あんたが家出したことについて」
八幡「それならそれでいいさ。というかそれが目的だって川崎も言っていたじゃねえか」
沙希「まあそうなんだけど…………」
八幡「ん、御馳走様でした。相変わらず旨かったぜ」
沙希「お粗末様でした。食器片付けたらお茶淹れるから待ってて」
八幡「おう。悪いな」
八幡(川崎は食器を流しに持っていって水に浸け、湯呑みを用意して急須にポットからお湯を注ぐ)
沙希「はい」
八幡「ああ、サンキュー」
八幡(お茶を淹れた湯呑みを川崎から受け取る。息を吹いて少し冷まし、一口飲んで喉を潤した)
八幡「なあ、川崎。さっきも言ったけど、俺昨日雪ノ下さんに…………ちょっとややこしいから名前で呼ぶからな、陽乃さんに会ったんだ」
沙希「うん」
八幡「そん時に聞かれたんだ。俺は雪ノ下のことをどう思っているのかって」
沙希「…………へえ」
八幡(川崎の顔が少し強張った。俺は手を伸ばし、テーブルの上に乗せられていた川崎の手に重ねる)
沙希「あ…………」
八幡「とりあえず最後まで聞いてくれ」
沙希「う、うん」
八幡「そこで俺は今までまともに意識していなかったけど、ちゃんと考えてみたんだ。俺が雪ノ下のことをどう思っているのか」
沙希「………………」
八幡「どうやら俺は雪ノ下のことが好きだったらしい」
沙希「!! ………………そう」
八幡「つっても過去形だけどな。冬になるくらいまでは多分好きだったんだろう。でも二月になるころには異性としての好意はもうなかったと思う」
沙希「…………理由を聞いてもいい?」
八幡「両方か? 好きになったのはなんとなくわかるだろ。一番身近な異性で行動もよく一緒にしていたし、容姿端麗で頭も良いしな」
沙希「好きじゃなくなった理由は?」
八幡「それも想像つくだろ。普段からあんだけ言われてりゃ愛情もなくなるっての」
沙希「身近ゆえの気安さで言っているかもよ?」
八幡「まあ実際その通りなんだろうな。本気だったらとっくに縁は切ってる。でもだからこそ異性として意識されてるってことはないだろ。好きな相手に悪口を言うって小学生じゃあるまいし…………脈無しの恋愛なんて疲れるだけだし無意識に諦めもあったと思う」
沙希「そう言われるとあたしも照れ隠しであんたに何か言っちゃったことがあるかもしれないけど、どう?」
八幡「いや、お前からはほとんど記憶にないな。ただやたら睨まれてるような気はしたが…………あれって睨んでたんじゃなくてもしかして見つめてただけなのか?」
沙希「うん、たぶん。あたしちょっと吊り目だから睨んでるように見えたかも。ごめん」
八幡「いや、謝ることじゃないだろ。構わねえから…………それでな、今の俺は雪ノ下のことを恋愛感情的には何とも思ってない」
沙希「うん」
八幡「変わりに…………と言ったらお前に失礼だけども、俺はお前を好きになった」
沙希「うん………………え?」
八幡「いや、やっぱり変わりにってのは違うな、すまん。俺は純粋にお前のことが好きになったんだ」
沙希「ひ、比企谷…………」
八幡「というか当たり前だろ。数日前まで俺は好きなやつがいない状態だったんだぞ。そんで精神的に参っている時に好きって言われてあんなに優しくされりゃ好きにならない方がおかしいっての」
沙希「そ、そう…………」
八幡「でもさ、それってなんか軽い感じがしてさ、自分でもそれでいいのかって思う」
沙希「………………」
八幡「だから…………その」
沙希「比企谷はさ」
八幡「え?」
沙希「比企谷は恋愛を難しく考えすぎなんだよ。過去に色々あったのかもしれないけどさ、もっと単純に捉えていいんだって」
八幡「単純、に…………」
沙希「うん。対象の異性を好きかな? って考えて、好きだな、って思えばもう恋愛なの。極論だけどそれくらいでいいんだよ」
八幡(川崎は片手に重ねられた俺の手をもう片方の手で包み込むように握った。俺はじっと川崎の顔を見つめながら考える。ここ数日の川崎と共にいた時間を思い出し、ふうっと息を吐いた)
八幡「うん。やっぱり俺は、お前のことが好きだ」
八幡(もう一度好意を伝えると、その言葉は自分の心に驚くほどストンと受け入れられた)
八幡「単純だと思われるかもしれねえけど、ここ数日で一気に持っていかれたわ」
沙希「ふふ、頑張った甲斐があったかな?」
八幡「ああ。俺を慰めてくれて嬉しかった。抱きしめてくれて嬉しかった。料理を作ってくれて嬉しかった」
八幡(一旦言葉を切り、俺も両手で川崎の手を握る)
八幡「好きって言ってくれて、嬉しかった」
沙希「…………うん」
八幡(川崎は小さく頷き、頬を少し赤くしながら何かを待つように俺を見つめる。鼓動が早鐘のようになりながらも俺は言葉を発する。過去に何度も口にしたが、これほどまでに報われてほしいと思ったことはない言葉を)
八幡「好きです。俺と、付き合ってください」
沙希「…………はい」
八幡「は」
八幡(今まで何度も言ったことのある言葉だが、返ってきたのは一度も聞いたことのない返事)
八幡「はは」
八幡(その意味が頭に浸透するのに数秒の時間を必要とした)
八幡「ははは」
八幡(肩の力が抜け、妙な笑いが俺の口から漏れる。悲しいわけでもないのに目から涙が溢れる)
八幡「ありがとう…………ありがとう、川崎」ポロポロ
沙希「何で泣くのさ? そもそも最初に好きだって言ったのはあたしからなんだしそんなに緊張しなくてもいいじゃないの」
八幡「そうだな。でも、俺を受け入れてくれたのがすげえ嬉しくて……すまん」ポロポロ
沙希「まったく。仕方ないね」
八幡(川崎は呆れたように笑い、繋いでいた手を離して俺のそばに寄ってくる。そしてここ数日でしてくれたように俺の頭を胸に抱き寄せた)
八幡「ん…………」
八幡(俺は抵抗せずに川崎の胸に顔を埋め、両手を腰に回して抱きしめる)
八幡「なんかすまねえな。せっかく好きって言ってくれてんのに情けないとこばっかり見せちまって」
沙希「ううん。むしろあたしにはそういう弱いとこも見せてほしいかな」ナデナデ
八幡(川崎が俺の頭を撫でてくる。すげえ幸せだ…………)
沙希「あたしの胸を堪能してるとこ悪いけど、もうすぐ予備校の時間になるよ。そろそろ準備しないと」
八幡「ん、ああ、そうか」
八幡(俺達は互いの両腕を解き、立ち上がる。その際に川崎の顔を見ると視線が絡まり合う)
八幡「………………」
沙希「………………」
八幡(何も言わずにしばらく見つめ合い、川崎が一歩近付いてくる)
八幡(僅かに顎を上げて目を閉じた川崎の頭に手を添え、ゆっくりと自分の顔を近付ける)
八幡(そして、二人の唇の距離がゼロになった)
八幡(どのくらいそうしていたか、俺達がようやく唇を離した頃には少し息が荒くなっていた。呼吸が疎かになっていたようだ)
沙希「…………じゃ、あたし部屋で準備してくるから」
八幡「お、おう」
八幡(さすがに川崎も恥ずかしかったのか、顔を真っ赤にしてそそくさと自分の部屋に戻ってしまった)
八幡(かくいう俺も色々な想いが頭を駆け巡り、崩れ落ちそうになるのを必死で堪える)
八幡「はぁ…………すっげえ嬉しい…………」
八幡(つい自然にぽつりとそんな言葉を俺は呟いた)
小町「ごちそうさまでした! やっぱり雪乃さんの料理は絶品ですね!」
結衣「ホントお店に出せるレベルだよね。ごちそうさまでした!」
雪乃「ふふ、ありがとう小町さん、由比ヶ浜さん」
陽乃「そうだ雪乃ちゃん。いい策を思い付いたよ!」
雪乃「策?」
陽乃「言ったじゃない。比企谷君をオトす策を考えてって」
雪乃「いえ、あれは冗談なのだけれど…………」
陽乃「いいからいいから。ずばり、男をオトすには胃袋から! 学校始まったら比企谷君にお弁当を作ってあげよー!」ドンドンパフパフ
雪乃「その擬音どこから出してるのよ…………でもお弁当か、悪くはないわね。小町さん、比企谷君は基本コンビニで買っているのよね?」
小町「はい。ウチは作る人がいないですからね。でも兄は受け取ってくれますかね? 突然そんなことされても戸惑ったり断られたりするんじゃないでしょうか」
雪乃「それは事前に言っておくわよ。今回のお詫びも兼ねてということならきっと受け取ってくれるわ」
結衣「ううー、ゆきのんが相手じゃ分が悪いよー。あたしお弁当作るなんて無理だし…………」
陽乃「何言ってんの。ガハマちゃんには雪乃ちゃんにない武器があるじゃない」
結衣「え?」
陽乃「おっぱい嫌いな男子なんていないんだからさー、その大きなモノで誘惑すれば一発だって」
結衣「えっ、ええええ!?」
雪乃「くっ…………」
結衣「そ、そりゃあヒッキーはたまにあたしの胸をチラチラ見てくることはあるけど…………あ、でもあたしそんなヒッキーに散々キモいとか変態とか言っちゃってる…………」
陽乃「男の子はつい見ちゃうものなんだけどねー。その辺をある程度容認できるようにならないと男と付き合うのとかが大変だよ」
雪乃「そんな脂肪の塊の何がいいのよ…………全部お腹に移ってしまえばいいのに…………」ブツブツ
小町「ゆ、雪乃さん、落ち着いて!」
陽乃「くくくっ…………ん、あれ? 誰か携帯鳴ってるよ?」
小町「あ、小町のです。メールみたいですね。相手は…………えっ、お兄ちゃん!?」
雪乃・結衣「!!?」
小町「お兄ちゃんのスマホは家に置きっぱなしなのに! 電話、電話!」ピッピッ
小町「…………電源が切られてる。お兄ちゃん、帰ってきたの!?」
陽乃「落ち着いて小町ちゃん。メールは何だって?」
小町「その、三日後くらいに帰るってだけ…………」
八幡「よし、んじゃ行くか。一応自転車も持ってきてるけどどうする?」
沙希「歩いて行くにはちょっと微妙な時間だね…………キ、キスに時間取られすぎちゃったかな?」
八幡「おい、そこで恥ずかしがるなよ、俺まで恥ずかしくなるだろうが。昨日までのお前ならそんなふうにはならなそうなもんだが」
沙希「う…………し、仕方ないじゃない。恥ずかしいもんは恥ずかしいんだよ…………でも、うん、そうだよね」
八幡「いや、あまり積極的に来られても俺が困惑するだけだがな。で、どうする? 自転車で行くか?」
沙希「…………ちょっと悪いこと頼んでいい?」
八幡「悪いこと?」
沙希「比企谷の後ろに、乗せてほしいんだけど」
八幡「! 二人乗りってことか…………いいぜ、小町専用席だったけど川崎なら大歓迎だ」
沙希「うん、よろしく」
八幡(俺は川崎が戸締まりをしている間に自転車を準備する)
沙希「じゃ、お願いします、運転手さん」
八幡「おう、しっかり捕まっててください、お客さん」
八幡(俺と川崎の荷物を前カゴに入れ、サドルに跨がる。川崎が荷台に座って俺の腰に手を回したのを確認し、ペダルを漕ぎ始めた)
八幡「一応人通り多いとこは避けるから少し遠回りするぞ」
沙希「ん、了解」ギュッ、ムニュッ
八幡「…………あとあんまり胸を押し付けないでくれ。運転に集中できなくなる」
沙希「あ、そう? じゃ、また次の機会に」スッ
八幡「やっぱりわざとだったのか…………」
沙希「当ててんのよ」
八幡「そのセリフ知ってんのかよ」
沙希「昔大志が古本で買ってきたから。異世界に行くのは明らかに失敗だったよね」
八幡「夜明けの炎刃王はなあ…………」
八幡(そんなたわいもない話をしながら俺達は予備校に向かう)
八幡「到着、っと」キキッ
沙希「ん、ありがと」
八幡「おう。一コマ目何だっけ、英語?」
沙希「うん。同じだよ」
八幡「んじゃ行くか」
八幡(俺と川崎は連れ立って教室に入り、空いている席に並んで座る。直前の講義が終わったばかりのようでちらほらと片付けの終わっていない生徒が残っていた。が…………)
八幡「…………なあ、何か視線を感じるんだけど」
沙希「みたいだね。いつも一人だったあたしたちがつるんでるから気になってるんじゃない?」
八幡「いや、昨日も一緒にいたじゃねえか」
沙希「むしろ二日連続だからでしょ」
八幡「そういうもんか?」
沙希「あたしに声を掛けてきた男子も何人かいるしね。一人だとチョロいとか思われてたのかな?」
八幡「え…………ま、まあお前は外見もスタイルも良いから」
沙希「ありがと。ふふ、嫉妬した?」
八幡「…………ちょっとだけ」
沙希「大丈夫、誘いに乗ったことは一度もないから。ま、これからはあんたには虫除けになってもらうからね」
八幡(そう言って川崎は突然顔を寄せてきて俺の頬に唇をつける)
八幡「!? な、な……お前…………」
沙希「ふふっ」
八幡(川崎は楽しそうに笑う。くそっ、可愛いじゃねえか! そして周りを確認するのが怖い。さぞかし怨嗟の視線が俺に突き刺さっていることだろう)
八幡(仕方なく俺は講師が来るまで川崎から目線を離さずに会話を続けたのだった)
小町「…………やっぱりお兄ちゃん、一回帰ってきてたみたいですね。財布なくなってますし、部屋も何かしら漁った跡があります…………」
雪乃「スマホは置きっぱなしだけど、横にあるメモは間違いなく比企谷君の筆跡のようね」
陽乃「へー、雪乃ちゃんて見ただけで比企谷君の筆跡とかわかるんだ?」
雪乃「っ…………!」
結衣「うう……ごめんね小町ちゃん。あたしが誘わなければヒッキーと会えたのに」
小町「いえ、結衣さんのせいじゃありませんよ! もしかしたら兄は誰もいないのを確認してから帰ってきたのかもしれませんし。それに三日後には帰ってくるって言ってますので、それを待てばいいだけですから」
結衣「うん…………でも時間は書いてないよね。何時頃に帰ってくるのかなあ?」
雪乃「小町さん。比企谷君が帰ってきたら連絡をいただけないかしら? その日のうちに行けるようならすぐに向かわせてもらうわ」
結衣「あ、あたしも!」
小町「はい、おまかせください!」
陽乃「じゃあそれまで作戦会議だね。比企谷君を如何にしてオトすか」
雪乃「う…………」
結衣「あう…………お、オトすって……」
陽乃「ほらほら、そんなんじゃ他の女の子に盗られちゃうよ」
結衣「で、でもヒッキーのことを好きな女の子なんてそうそういないし…………怪しいのはいろはちゃんと沙希くらいかな」
雪乃「…………まさかそのどちらかのところに行ってる、なんてことはないわよね?」
結衣「いろはちゃんは春休み初日から田舎に帰るって言ってたけど…………」
小町「多分沙希さんもですね。大志君から初日から田舎のおばあちゃんのところに行くって聞きました」
陽乃「まあさすがに比企谷君も女の子のところに転がり込むなんてことはないでしょ。帰ってきたら聞いてみればいいじゃない」
雪乃「そうね。比企谷君が帰ってきたらまず謝って、すべてはそれからよ」
陽乃「…………ところで雪乃ちゃん、先に一つ厳しいことを言っておくね。さっきまで一緒に盛り上がってた私から言うのもなんだけどさ」
雪乃「何かしら?」
陽乃「楽観的に捉えているかもしれないけど、謝ったところで比企谷君が許してくれるとは限らないんだよ?」
雪乃「!!」
陽乃「表向きは今まで通り仲良くしてくれるかもだけど、心中はどうだかわからないからね。比企谷君は特に」
雪乃「…………」
陽乃「もちろん小町ちゃんもガハマちゃんもね。お姉さんの考え過ぎかもしれないけど」
結衣「うん…………」
小町「はい…………」
小町(ごめんなさいお兄ちゃん。許して貰えるまで、小町何度でも謝るし何でもするから…………早く帰ってきて)
沙希「ただいま、っと」
八幡「ただいま」
八幡(俺と川崎は予備校が終わったあと、スーパーに寄って買い物をしていった。米が少なくなっているのを忘れていたそうだ)
八幡「よっ、と。米はここに置いとけばいいのか?」
沙希「うん、いいよ。ごめんね重いもの持たせちゃって」
八幡「何言ってんだ、これくらいのことならどんどん頼ってくれよ。その、か、彼氏、なんだからさ」
沙希「ふふ、そうだね。ありがとう比企谷」
八幡「お、おう」
八幡(くっ、やはりまだ俺の方が恥ずかしい…………嬉しいけども)
沙希「そろそろ夕飯作り始めようかな。今日はハンバーグにしようと思うけどいいよね?」
八幡「ああ、期待して待ってるぜ。せっかくだから今のうちに浴槽洗っとくわ」
沙希「うん、よろしく。適当にタイマーも仕掛けといて」
八幡「あいよ」
八幡(俺は風呂場に向かい、袖と裾を捲ってブラシで浴槽を洗い始める)ゴシゴシ
八幡(ついでだから床も少し掃除しとこう)ゴシゴシ
八幡(タイマーは…………九時くらいでいいか)ピッピッ
八幡(ひと仕事終えて濡れた手足を拭き、居間に戻るとテーブルにお茶が淹れてあった。川崎が淹れてくれたのだろう)
八幡(礼を言おうと思ったが、料理中に話しかけるのもどうかと思うので止めておく。俺は鞄から数学の参考書を取り出した)
八幡(予備校の合間に少し基礎を教わったのでやってみることにしたのだ。高一の参考書というのが情けない限りだが、せっかく川崎が教えてくれるなら頑張ってみたいじゃないか)
八幡(えっと…………)
八幡(ふむ…………)
八幡(悪戦苦闘しながらも問題を解いていると、川崎が台所から顔を覗かせて声を掛けてくる)
沙希「比企谷、そろそろごはんできるからキリのいいとこで終わらせてテーブル空けといて」
八幡「ん、わかった」
八幡(ちょうど今ちょっとした難問を解き終わったしここまでにしとくか)
八幡(テーブルの上を片付けて布巾で満遍なく拭く。すぐに川崎が御盆を持ってやってきた)
沙希「お待たせ。あとごはんよそってくるから」
八幡(ハンバーグにサラダに味噌汁。実に旨そうだ。俺の皿にはハンバーグが二つ乗っている)
沙希「はい、ごはん」
八幡「おう、サンキュ。これ、二つ食べていいのか?」
沙希「うん。一つじゃ物足りないかと思って。多かったら残してもいいよ」
八幡「いや、全然食える。いただきます」
沙希「ん、召し上がれ。あたしもいただきます」
八幡(早速ハンバーグを箸で一口大に切り、口にする)
八幡「やっぱり期待通り…………いや、期待以上に旨え。本当に凄いよな川崎は」
沙希「ふふ、ありがと。たくさん食べてね」
八幡「おう」ガツガツ
八幡(実際は少し多いかなと思ったのだが、この味の前では杞憂だったようで、あっという間に平らげてしまった)
八幡「ふう、御馳走様でした」
沙希「お粗末様でした。食器洗ったらお茶淹れるからちょっと待ってて」
八幡「あ、そのくらいは俺が…………」
沙希「いいから座ってなって。あたしに世話焼かせてよ」
八幡(川崎は笑いながらそう言って食器を台所に持って行く。なんつーか、甘やかされてんな俺…………)
八幡「………………」
八幡(俺は立ち上がって台所に向かい、スポンジで皿を洗う川崎に近付く)
沙希「ん? どうかしたの?」
八幡(振り向かずに問うてくる川崎には言葉を返さず、川崎の腰に両腕を巻き付けて後ろから抱きしめた)
沙希「あっ…………ひ、比企谷?」
八幡「………………」ギュッ
沙希「………………」
八幡(無言のまま抱く力を少し強めると、川崎は顔を赤らめながらも食器洗いを再開する)
八幡(食器の水気を切り、全て拭き終えた川崎が顔をこちらに向けた)
八幡(しばらく見つめ合ったあと、どちらからともなく顔を近付けて唇を重ねる)
八幡「ん…………」
沙希「ふ…………」
八幡(互いにわずかな声を漏らしたあと、顔を離して再び見つめ合う)
八幡「はは」
沙希「ふふ」
八幡(なぜか二人とも自然と笑いが出てしまう)
沙希「お茶、淹れよっか?」
八幡「ああ。実はちょっと緊張して喉渇いちまったからな」
八幡(身体を離して居間に向かう。川崎が湯呑みを用意してお茶を淹れてくれる)
八幡「はあ…………なんというか、お前とお茶を飲んでると本当に落ち着くな」
沙希「そう?」
八幡「ああ。正直一人でいるのと同じくらい気が休まる感じだ」
沙希「うーん。あたしとしては二人きりの状況にドキドキしてほしいかなって面もあるけど」
八幡「そんなん何度もしとるわ。さっきの台所のやつとか」
沙希「知ってるよ。心臓が凄い速く鳴ってたの、くっついた時にわかったからね」
八幡「う…………いきなり悪かったな。ああしたいって思っちまって、緊張はしたけど止まれなかった」
沙希「ううん、あたしも嬉しかったから」
八幡「そうか。なら良かったわ」
沙希「うん…………ねえ、そっちに行ってもいい?」
八幡「! あ、ああ」
八幡(川崎は立ち上がって移動して俺の横に座り、そっと俺に身体を寄りかからせて肩に頭を乗せてきた。俺は手を川崎の腰に回す)
八幡(無言のまま時が流れていく。だけど全然気まずい雰囲気にはならない)
八幡(風呂のタイマー音が鳴るまで俺達はずっと身体を寄せ合っていた)
沙希「出たよ。どう?」
八幡(風呂上がりの川崎が声を掛けてくる。数学の指定されたいくつかの問題を解いておくよう指示されていたのだ)
八幡「ああ、何とか解けたと思う。二回見直したけど大丈夫なはずだ」
沙希「どれどれ」
八幡(川崎が隣に座り、手元のノートを覗き込んでくる。その際にふわっと良い匂いが俺の鼻に届いた。シャンプーの香りだろうか?)
沙希「ん、ちゃんと出来てるじゃない。やっぱ理解力はあるんだよねあんたって」
八幡「いや、お前のおかげだよ。ありがとうな」
沙希「礼を言うのはまだ早いよ。これから今までの分全部取り戻すからね」
八幡「ああ、よろしく頼む」
沙希「うん。でも今日はここまでにしとこ。最初から飛ばすのも良くないし」
八幡「そうだな、もうすぐ日付変わるし。そろそろ寝るか?」
沙希「そうだね」
八幡(俺達は歯を磨くために洗面所に向かう)
八幡「………………」
八幡(くそ、昨夜は誘えたのに付き合ったら逆に誘いにくくなったぞ)
八幡(そうこうしているうちに歯を磨き終わり、川崎は自分の部屋に引っ込んでしまう)
八幡「あ…………」
八幡(ええー、挨拶も無しか?)
八幡(しかしすぐに再び部屋のドアが開き、川崎が出てきた。その手には枕が持たれている)
八幡「か、川崎」
八幡(川崎は俺の近くまで寄ってき、そっと耳元で囁いてくる)
沙希「一緒に、寝よ?」
八幡「お、おう」
八幡(やった! と飛び上がりそうになるのを堪え、俺は何とか返事をした)
八幡(居間に戻り、川崎が布団を敷く。しかしそのまま入らずに俺を見つめてくる。どうかしたのか?)
沙希「ね、比企谷」
八幡「何だ?」
沙希「…………する?」
八幡「!!」
八幡(主語も目的語もないたった二文字の質問。だけどその意味がわからないほど俺は鈍感ではない。が…………)
八幡「…………いや、しない」
沙希「そう? どうして?」
八幡「その、な。そういうことは責任取れるようになるまでしないつもりなんだ。だから、あと四カ月ちょっと待っててほしい」
沙希「四カ月? ああ、あんたの誕生日か。十八歳になってからってことね?」
八幡「ああ。お前が大事だから特に、な」
沙希「うん、わかった。待ってるから」
八幡「悪いな」
沙希「いいよ。あたしもまだ少し怖かったし。あ、でも我慢できなかったらいつでもいいからね?」
八幡「我慢できなくなるようなことするなよ?」
沙希「ふふ、さあね?」
八幡「おい」
沙希「でも八月か。万一デキちゃっても生む前にちゃんと高校卒業は出来るね」
八幡「いやいや、避妊はしっかりするから」
沙希「万一だってば。ま、あたしはそのままデキ婚しちゃってもいいけど」
八幡「俺が嫌だわ。ちゃんと大学行って就職してからでないと養うものも養えん」
沙希「あれ? あんた専業主夫目指してるんじゃなかった?」
八幡「あー…………お前の為だったら働いてもいいかなって…………そもそも家事とかはお前の方がずっと上だし」
沙希「ふふ、結婚すること自体は嫌じゃないんだね?」
八幡「当たり前だろ。川崎みたいな良い女、他の奴に渡してたまるか。お前は俺のもんだ」
沙希「ありがとう、嬉しい…………さ、もう寝よ? この胸もあんたのものだから好きに使って」
八幡「ああ。じゃあまたその胸で寝かせてくれ」
沙希「うん。おいで」
八幡(川崎は布団に入り、昨夜と同じように俺の使う枕を胸辺りに下げる。俺も続いて布団に入り、川崎を抱きしめながらその豊満な胸に顔を押し付けた)
八幡「川崎…………好きだぜ」
沙希「うん。あたしも比企谷が大好き」
八幡(俺の言葉に川崎が頭を撫でながら返してくる。眠気が一気に押し寄せてきたので俺はそれに身を委ねた)
八幡「おやすみ…………沙希」
沙希「! おやすみ、八幡」
八幡(そのまま一晩抱き合ったまま眠り、翌日も特に変わりのない一日を過ごす)
八幡(川崎の作った料理を食べ、予備校で講義を受け、空いた時間に川崎から数学の手ほどきを受ける)
八幡(変わったことといえばキスの回数がやたら多かったことか。あと夜に寝るとき、今度は川崎が俺の胸に顔を埋める体勢で寝たことくらいだな。その際に頭を撫でたら髪がサラサラですごい気持ち良かった)
八幡(次の日も似たような感じで過ごしたが、前日と違うのはこの日が居候最後の日ということだ)
八幡「家族はもうすぐ帰ってくるんだっけか?」
沙希「うん。あと一時間くらいで着くって」
八幡「んじゃ、そろそろおいとまするか。この数日間、楽しかったぜ」
沙希「ううん、こちらこそ…………ね、本当に大丈夫?」
八幡「ああ。辛いときにはお前がいてくれるって言ってくれたからな。精神的に余裕もあるし丈夫になったと思う」
沙希「そう? ならいいんだけど」
八幡「その代わりお前に裏切られたらそれこそ俺はぶっ壊れちまうかもな。ははは」
沙希「初日のを見る限りなくはないかもね。でもあたしはあんたを裏切ったりしないから。証拠、見せようか?」
八幡「証拠?」
沙希「はい、これ」
八幡(そう言って差し出されたのは川崎の名前が書かれた婚姻届だった)
八幡「こ、これは…………」
沙希「まだ未成年だから保護者欄埋めてなくて使えないけどさ、成人したらあとは判子捺すだけでいつでも使えるよ」
八幡「…………」
八幡(俺は無言でそれを預かり、大切に鞄にしまう)
八幡「川崎」
沙希「何?」
八幡「俺がもうちょっとマシな男になったらプロポーズするからさ、いつか一緒に出しに行こうぜ」
沙希「うん、待ってる」
八幡(俺は荷物をまとめ、鞄をしょって立ち上がって玄関に向かう)
八幡(靴を履いて振り向き、鍵を川崎に差し出す)
八幡「これ、返すわ。世話になったな」
沙希「うん」
八幡(鍵を受け取った川崎は目を閉じて顔を寄せてくる。俺は川崎の後頭部に手を回し、唇を重ねた)
八幡「…………じゃ、帰ったらメール入れるから」
沙希「うん。メルアドのメモ、なくしたりしないでね」
八幡「ああ。それじゃ、また」
沙希「またね」
八幡(俺は軽く手を振り、川崎家を出る。こうして俺の居候生活は終わりを告げたのだった)
八幡(ふあ…………すげえ眠い。昨夜は川崎を抱きしめながら寝たからだな、ちょっと感触が勿体なくてなかなか寝なかったし)
八幡(帰ったらすぐ川崎にメールして一眠りするか。あ、その前に小町にケーキ買ってやらねえと。コンビニのでいいか)
八幡(もうすぐ夕飯の時間だが…………いらねえな。予備校のために遅い昼飯になったし、明日の朝まで寝ちまおう)
八幡「ついでにマッ缶飲むか…………コンビニは、と」
八幡(目に入ったコンビニに行き、マッ缶とケーキを買って家に向かう)
八幡(そういやもっとマシな男になったら、って川崎には言ったけどどうすればマシな男として認められるんだろうか。リア充みたいになるってのとは違うよな多分)
八幡(普通に考えればいい大学行ってちゃんと就職することか? まあ、プロポーズするなら養えるだけの甲斐性がないと無理だろうし)
八幡(とりあえずは勉強から、かな。数学もある程度できるようになれば選択肢は広がるはずだし、ちょっとだけ頑張ってみるか)
八幡(そうこう考えているうちに我が家に到着し、自転車をとめて鍵を掛ける。それをポケットにしまい、代わりに家の鍵を取り出して開ける)
八幡「たでーまー」
八幡(玄関で靴を脱いでると、リビングから小町が飛び出してきた)
小町「お、お、お兄ちゃん!?」
八幡「おう、愛しの可愛い妹よ、元気だったか? ほれ、お土産のケーキだ」
小町「え、あ、ありがとう…………じゃなくて! その……」
八幡「あー、悪い。今すっげえ眠いんだ。夕飯はいらねえから明日の朝まで寝かせてくれ」
小町「え…………」
八幡(昼の川崎の数学講座の疲れが今頃来たのだろうか? 頭が少しぼんやりしてきた。ついでに大あくびまで出てしまう)
八幡(多分サキウム不足のせいでもある。ちなみにサキウムってのは元気になる成分のひとつで川崎沙希との触れ合いで摂取できる………………うん、我ながらキモいわ。やっぱり疲れてんな)
八幡「んじゃ。滅多なことでは起こすなよ? せっかくの春休みに安眠を妨害されるなんて御免だし」
小町「で、でも、小町、お兄ちゃんに…………」
八幡「話あるなら明日聞いてやっから。んじゃお休み」
小町「あ…………」
八幡(小町は何か言いたそうだったが、今のコンディションではまともに聞けないだろう。悪いけど明日にしてもらおう)
八幡(部屋に戻り、スマホで川崎に『帰った。寝る』とだけ送り、俺はベッドに飛び込んであっという間に眠りにつく)
沙希「ん、メール?」
沙希(携帯を操作し、届いたメールを見ると短く『帰った。寝る』とだけあった)
沙希「付き合って初めてのメールがこれってどうなのさ…………」
沙希(そう言いつつもあたしはそのメールを保護指定し、うっかり消えないようにする)
沙希「返信は……いいか。起こしたら悪いし、明日の朝にでもしとこう」
沙希(なんか、夢みたいな数日間だった)
沙希(比企谷と一緒にいれて、あまつさえ付き合うことになるなんて)
沙希(料理も食べてくれたし、抱きしめ合ったり、一緒に寝たり、キスまで…………)
沙希(怖いくらい、幸せ…………でも、あいつにとってもっともっと良い女になりたい)
沙希(学校始まったらお弁当を作ってあげよう。服も作ろう。まだまだ色んなことを勉強しなくちゃ)
沙希(あ、あと、いつかのために、エ、エッチなことも…………)
沙希(つい比企谷とそういうことをする想像をしてしまい、悶々としてるところで呼び鈴が鳴り、我に返る)
沙希(みんなが帰ってきたようだ。出迎えに行こう。もう比企谷がいた痕跡は消したはずだし)
沙希(まあ母さんにだけは根掘り葉掘り聞かれるんだろうけど…………他のみんなに黙っててくれたし、帰宅時間とかの情報もくれたからそれくらいは仕方ないか)
沙希(色々からかわれるであろう未来に少しだけ憂鬱になりながらあたしは玄関に向かった)
八幡「ん…………」
八幡(伸ばした腕が空振り、ポスンと布団に落ちて俺は目を覚ました)
八幡(そうか。帰ってきたから川崎は隣にいないんだな)
八幡(…………そうだ。俺は家出してたんだった。昨夜うっかり小町と普通に会話してしまったな。いや、小町は何か言いたそうだったけど)
八幡「起きるか……」
八幡(時計を見ると五時半といったところだった。何か食うもんあるかな?)
八幡(そう思ってリビングに入ると親父とお袋がテーブルで朝食をとっていた。え? 随分早いな)
八幡「おはよう。俺の食うもんある?」
八幡(しかし二人ともポカンとしたままこっちを見るだけだった。ああ、そういや普通に話し掛けられたって戸惑うに決まってるわな)
八幡「えっと、色々ご迷惑をかけてすいませんでした」
八幡(実際にどのくらい迷惑をかけたかはわからないが、とりあえず頭を下げておく)
比企谷父「…………八幡、頭を上げてここに座りなさい」
八幡(親父がやたら神妙な声で椅子を指差した。そのあとお袋の方に移動し、俺と向かい合う形になる)
比企谷父「八幡」
八幡「はい」
八幡(何やら改まって呼んでくる。まさか本当に俺が必要なくて追い出そうってんじゃないだろうな? いや、さすがにそれはないと思うが、万一そうなったらまた川崎んとこに行くことになんのかな?)
八幡(そんな的外れな想像をしていると、いきなり両親揃って頭を下げてくる)
比企谷父「お前の気持ちも考えず無神経なことを言ってすまなかった」
比企谷母「ごめんなさい。この馬鹿な母親を許してちょうだい」
八幡「え? お、おい、何だよ突然? 頭上げてくれって」
比企谷父「いや、俺達はこうしなければならん。でなければ完全に親失格だ」
八幡「何でだよ!? そりゃ俺は出来の良い息子ってわけじゃないが、小町みたいな良い子を育ててるじゃねえか」
比企谷父「そんなことはない! お前だって俺達の自慢の息子だ!」
八幡「うおっ、下向いたまま怒鳴るなよ…………とりあえず頭上げろってば。でないとまともに話も出来やしねえ」
八幡(そう言うとようやく二人は頭を上げた)
八幡「で、えーっと、何で俺に謝るんだ?」
比企谷父「何でって……あの日、俺達はお前に色々ひどいことを言ってしまってだな」
八幡「いや、そんなのいつものことだろ。いちいち気にするなよ」
比企谷母「気にしないわけないでしょう! あんたが家を飛び出しちゃって…………」
八幡「あー…………」
八幡(なんだか思っていた以上に心配をかけていたらしい。悪いことをしたな)
比企谷父「お前のことを貶すようなことを言ったが、あれは本気じゃないんだ。しかし親子とはいえきちんと線引きしなければならんこともあるはずなのに、それを軽んじてしまった。本当にすまない」
八幡「あ、いや、別に慣れてるから」
比企谷母「それがおかしいのよ。慣れるほど言われているというのがそもそも問題なの。それも全て私達のせい。ごめんなさい」
八幡「えーと、うん、わかったからさ、まずは朝飯にしないか? 俺、腹減ってんだけど」
比企谷父「おい。俺達は真面目に話しているんだぞ」
比企谷母「目をそむけないで聞いてほしいの」
八幡(め……)
八幡(面倒くせえええ!)
八幡(あん時はそりゃちょっと悲しかったりもしたけどさ…………いや、かなりか? 実際泣いてしまったりしたわけだし。でも今となっちゃ黒歴史というか恥ずかしい過去なんだよ、親にちょっと貶されて泣いて家出したなんて。あんまり思い出したくない)
八幡(…………多分こんな心境になったのも川崎のおかげなんだろうなあ。あいつ関連で色々衝撃的なことがあったせいでくだらないことに思えてきたんだし。まさかこれも狙いのひとつだったのか?)
比企谷父「だから八幡、お詫びにお前の願いを何でも叶えてやろう」
八幡「シェンロンかよ」
比企谷父「ただし俺の力を超える願いは叶えられん」
八幡「まんまシェンロンじゃねえか」
比企谷母「正直なところ物で釣るみたいになってるけど、蔑ろにしがちだったあんたのために何かしてあげたいのよ。遠慮しないで言ってごらん」
八幡「あー…………じゃあさ」
比企谷父母「「うん」」
八幡「今回の事、気にすんなよ。んで今まで通りに接してくれればいいから」
比企谷母「え?」
比企谷父「し、しかしそれでは俺達の気が……」
八幡「なんだよ、何でも叶えてくれるんだろ?」
比企谷父「う…………」
八幡「だいたいあの日はたまたまちょっと嫌なことが重なっててな、色々あって泣いちまったんだよ。親父達だけのせいってわけじゃねえから」
比企谷父「…………わかった」
比企谷母「お父さん!?」
比企谷父「母さん、八幡がそうしてほしいと言うならば俺達は従うべきだ。これ以上何かさせるよう仕向けるのは俺達が罰されて楽になりたいだけにしか見えん」
比企谷母「そう……そうね」
八幡「いや、だからそこまで大袈裟なもんじゃねえってば……」
比企谷父「だが八幡、お前も言いたい事は言ってこい。子供だからって遠慮はしなくていいんだぞ」
八幡「だからさっきからメシが食いたいって言ってるじゃねえか…………このトースト食っていいか?」
比企谷母「あ、じゃあもう何枚か焼くよ。ついでに八幡の分のコーヒーも淹れるから」
八幡(そう言ってお袋は台所に向かった。やれやれ、ようやく朝飯にありつけそうだ)
八幡「ところで今日はやけに早くね?」
比企谷父「ああ、今仕事が佳境に入っててな。お前が大変な時なのに仕事にかまけるなど本来は許されないことなのだが…………」
八幡「いやいや、それで俺と小町を養ってくれてんだから感謝してるって。むしろそんな時に迷惑かけて悪かったよ」
比企谷父「そんなことはない。子供に迷惑かけられるのが親の仕事だ。だが、小町もすごく心配していたぞ。雪ノ下さんのお姉さんから話を聞くまでは事故にでもあったりしてないかとかな」
八幡「ああ、陽乃さんに聞いたのか」
比企谷父「色々とな。ところでその時に聞いたが服装が家を出たときと違っていたそうじゃないか。この数日間どこに行っていたんだ?」
八幡「あー…………彼女のとこに泊まってた」
比企谷父「え…………?」
比企谷母「え…………?」
八幡「うおおっ! 危ねえっ!」
八幡(ちょうどお袋が持ってきたトーストを乗せた皿がテーブルに落ちそうになるのをキャッチする。なに? 俺の言ったことがそんな衝撃的なの?)
八幡(いや、うん、衝撃的ですね。だって俺の口から『彼女』だよ?)
比企谷母「ごめんなさい。ごめんなさい八幡。そんな現実と妄想の区別がつかないほど追い詰められていたなんて…………」
比企谷父「母さん、ここは八幡に合わせるんだ…………そうかそうか! よく出来た彼女じゃないか! 良かったな!」
八幡「全部聞こえてるからな? いや、別に信じなくてもいいけどさ…………」モグモグ
比企谷母「え、ほ、本当なの?」
八幡「あ、やましいことはしてないぞ。ちゃんと相手の親御さんに宿泊許可ももらったし」モグモグ
比企谷父「は、八幡に、彼女が…………」
八幡「絶句するのもわかるけどさ、仕事の時間平気か? 結構な時刻だけど」モグモグ
比企谷父「なに? あ、そろそろ出掛ける準備をしないとならんな。八幡、帰ったら詳しく聞かせろ」
八幡「気が向いたらな」モグモグ
八幡(親父達は慌ただしく着替えて出掛けていった。ええー…………川崎のこと説明すんの?)
八幡(俺達の関係をどの辺りまで伝えていいかあとで川崎に確認しとくか)
八幡(そう考えて次のトーストに手を伸ばした時、リビングのドアが開いて小町が顔を覗かせてきた)
小町「お兄ちゃん…………」
八幡「おう、おはよう小町。トーストでいいならあるぞ」モグモグ
小町「…………お兄ちゃん、この前は、その…………」
八幡「小町」
小町「は、はい」
八幡「朝飯、一緒に食おうぜ」
小町「う、うんっ」
八幡(少し戸惑いながらも小町は椅子に座った。しかしそこからじっと動かずに俯いている)
八幡(俺は腕を伸ばして小町の頭に手を乗せ、ゆっくりと撫でてやる)
小町「お兄ちゃん…………ごめんなさい、ごめんなさい」
八幡(小町は肩を震わせて泣きながら謝罪の言葉を口にし始めた)
八幡「大丈夫だって。何も怒ってねえから。ほら、泣き止まないと可愛い顔が台無しだぞ」ナデナデ
八幡(しばらくしてようやく落ち着き、小町は顔を上げる。目が赤かったが、もう涙は流れていない)
小町「あれ、嘘だから。お兄ちゃんは小町の大切なお兄ちゃんだから」
八幡「さて、何のことかな? 俺には覚えがないんだが」
小町「もう…………でも、ちゃんと帰ってきてくれて良かった……あとで雪乃さんと結衣さんも来るから」
八幡「あ? 何でだよ?」
小町「二人ともお兄ちゃんに謝りたいんだって」
八幡「何をだよ。面倒臭いだけだ、早く断りの連絡をしろ」
小町「そんなこと言わないでよ。二人はいつも素直になれなくてお兄ちゃんに色々言っちゃったのを反省してるんだから」
八幡「むしろいつも素直だろあいつらは。やりたい放題言いたい放題じゃねえか」
小町「そうじゃなくて、その…………」
八幡「何だよ?」
小町「ううん、やっぱりその辺は本人達から聞いて。小町が言うことじゃないから」
八幡「? よくわからんが、あいつらは俺に何か言いたいことがあるんだな?」
小町「うん」
八幡「仕方ねえな…………何時頃来るって?」
小町「多分連絡すれば今からでも来るんじゃないかな?」
八幡「は? まだ七時前だぞ?」
小町「うん。それだけお兄ちゃんにしたい話があるんだよ」
八幡「さすがにそれはな…………十時くらいに来るように言っとけ。それとも俺から連絡するか?」
小町「あ、うーん…………ここは小町からしとく」
八幡「おう。んじゃ俺は部屋にいるから」
八幡(食い終わって立ち上がろうとすると小町が俺の服を掴んできた)
八幡「どうした?」
小町「お兄ちゃん…………小町はお兄ちゃんのこと、大好きだからね」
八幡「おう、ありがとうな。俺も小町が大好きだぞ」
八幡(小町の頭をひとしきり撫で、自室に戻った途端、机の上に置いていたスマホが振動する。どうやらメールのようだ)
八幡(確認すると川崎から『おはよう。大丈夫?』とのメールだった。『問題はない。ちょっと時間あったら電話していいか?』と返信するとすぐに『今でも構わない』との返答が来た。俺は電話番号を入力し、コールボタンを押す)
沙希『もしもし』
八幡「おう、おはよう」
沙希『おはよう。家族とお話した?』
八幡「ああ、めっちゃ謝られた。こっちが恐縮しちゃうくらいだったぜ。小町なんか泣いちまうし」
沙希『ふふ、そう。やっぱりなんだかんだであんたは大事に想われてるんじゃない』
八幡「まあ、そうみたいだな…………でもよ、ちゃんと向き合えたのはお前がいてくれたからだと思う。だから、ありがとうな、川崎」
沙希『どういたしまして。って言ってもそこまで大したことした覚えはないけどね。結局あたしがしたいようにしてただけだし』
八幡「それでも、だよ。んでちょっと相談があるんだけど…………」
沙希『相談?』
八幡「ああ。その、俺達がくっついたこと、他に言ってもいいのか?」
沙希『別にいいんじゃない? 何か問題があるの?』
八幡「あー、なんつーか…………」
沙希『当ててあげようか? あんたは学校での評判が良くないからその関係であたしにも迷惑がかかるんじゃないかって心配してるんでしょ?』
八幡「何なのお前。エスパーなの?」
沙希『そんくらいちょっと考えればわかるって。ちなみにその心配はいらないよ。あたしだってあんたと同じでぼっちなんだから今更離れるような友達とかいないし』
八幡「そっか」
沙希『ふふ、嬉しいな』
八幡「あ? 何でだ?」
沙希『いつもの比企谷だったらさ、あたしに迷惑がかかったら嫌だと思ってさっさと身を引くでしょ? それをしないってことはあたしと離れたくないって思ってくれてるんだよね?』
八幡「…………マジで何なのお前。俺ってそんなにわかりやすい?」
沙希『さあね? ま、積極的に言いふらすことはしないけど聞かれたり必要だったりしたら言うってくらいでいいんじゃない?』
八幡「そうだな。実はあとで雪ノ下と由比ヶ浜が来るんだが…………」
沙希『早速浮気? 潰すよ?』
八幡「違えよ! 何を潰すんだよ怖えな…………何か話があるとか謝りたいとからしいが」
沙希『そう。それであたしとのことを言うの?』
八幡「言っといた方がいいだろ。これからのことも考えるとさ」
沙希『そうだね。あたしも同席する?』
八幡「いや、それには及ばねえよ。信用はされないかもしれないがな」
沙希『あたしをどんな手で脅してるんだ? くらいのことは言われそうだね』クスクス
八幡「ま、別に信じてもらわなくてもいいけどな。お前と付き合ってるって事実には変わらないんだし」
沙希『うん。でも何か困ったことがあったら連絡してよ? 力にはなるから』
八幡「わかった。今更遠慮なんかしねえから…………あ、あとさ」
沙希『ん?』
八幡「今日夕方予備校あるだろ? その、迎えに行っていいか?」
沙希『! うん、待ってる』
八幡「おう。んじゃそろそろ切るわ。朝っぱらから電話して悪かったな」
沙希『ん、平気。むしろ声が聞けて嬉しかったよ。また後でね』
八幡「また後でな」
八幡(俺はボタンを押して通話を切った。途端に後悔が訪れる)
八幡(夕方、じゃなくて昼過ぎから会いに行っていいか聞けば良かった…………早く会いてえ。昨日会ったばかりなのに)
八幡(ま、雪ノ下達の話とやらが長引く可能性もあったしな。今日は仕方ないか)
八幡(俺はスマホを置き、数学の参考書を取り出して机に向かった。少しは自分の力で出来るようになっとかないとな)
八幡「んー…………あれ? おかしいな。どうやっても計算が合わない」
八幡(そろそろ休憩しようかと思い、最後の設問を解いていたら行き詰まってしまった)
八幡(どうしたものか、と思っているとドアがノックされて小町が顔を覗かせる)
小町「あ、お兄ちゃん。雪乃さんと結衣さんが来たんだけど…………」
八幡「おう、すぐリビングに行くから」
小町「うん」
八幡(ちょうどいい、雪ノ下に聞いてみるか。俺はノートと参考書を持って部屋を出る)
八幡(リビングに入ると椅子に座っている三人がいた。俺は空いている小町の隣に座る)
結衣「ヒ、ヒッキー…………」
雪乃「比企谷君、その…………」
八幡「なあ、雪ノ下。ちょっと聞きたいことあるんだけどいいか?」
雪乃「え? な、何かしら?」
八幡「これなんだけどよ、なんか上手く合わなくて…………」
八幡(俺は解いている途中の問題とノートを見せる。予想外だったのか雪ノ下は目を見開いて呆けたが、すぐにノートをチェックし始めた)
八幡「どうだ?」
雪乃「…………一番最初の代入がおかしいわ。xとyに代入する値を逆にしてしまっているから辻褄が合わなくなるのよ」
八幡「え、マジか? あ、本当だ。ただのケアレスミスじゃねえか」
雪乃「数学は特にケアレスミスが顕著に出る科目よ。それを無くすだけでだいぶ変わるわ」
八幡「えーっと…………こうだな、出来た。サンキュー雪ノ下」
雪乃「いえ、これくらい構わないのだけれど…………あなた数学は捨てたのではなかったかしら?」
八幡「ん、ああ。そのつもりだったけどよ、まだ間に合うかもしれねえしやれるだけのことはやっとこうかなって」
雪乃「あな…………いえ、何でもないわ。それはいい心掛けね」
八幡(雪ノ下は何かを言い掛けてそれを止め、変わりに突然褒めてきた)
八幡「何だよ突然。気持ち悪いな、変なものでも食ったか? らしくないぞ?」
雪乃「…………」
結衣「…………」
小町「…………」
八幡「? どうした?」
雪乃「ごめんなさい比企谷君。こういう時、私はいつも自然にあなたを貶めるようなことを言ってしまっていたわ。でも、本心で言っているわけではないの」
結衣「あ、あたしも! ヒッキーのこと悪く言っちゃう時あるけど、本気で言ってるんじゃないから! でも、ごめん!」
八幡(そう言って二人は頭を俺に下げてきた)
八幡「おう、そうか。わかった」
八幡(俺は参考書とノートを閉じながらそう返事をする…………ちょっと喉が渇いたな。まだマッ缶が冷蔵庫にあったはず)
八幡「そういや何も出してねえな。お前ら何か飲むか?」
八幡(俺がそう言うと二人は頭を上げてじっと俺を睨むように目線を向けてくる)
八幡「…………何だよ?」
雪乃「比企谷君、私は真面目に話しているの」
結衣「お願いヒッキー、ちゃんと聞いて」
八幡(あ、これ今朝もあったな。面倒くさいやつだ)
八幡「わかったわかった。でもその前に飲み物をだな…………」
小町「あ、それ小町がやるよ。お兄ちゃんは座ってて」
八幡(すぐに小町がパタパタと台所に向かった。仕方ない、任せよう。ちゃんとマッ缶を持ってきてくれればいいのだが)
八幡「あー…………で、何だっけ? 今まで罵倒とかしてきてごめんなさいってことだろ? うん、俺は気にしちゃいねえからお前らも気にすんな。以上」
雪乃・結衣「え…………?」
八幡「むしろそんなふうに謝られたり優しくされたりする方が違和感あって落ち着かないまである。それにまあ……あんまり的外れってわけでもないからな。キモいのもシスコンなのもひねくれてるのもゴミなのも自覚はしてるから」
結衣「そ、そんなこと」
八幡「いいって。揺るぎない事実なんだから。ただお前らが悪意を持って言ってるわけじゃないってのはわかってる。いわゆるコミュニケーションのひとつだろ? だったら申し訳なく思う必要はないし、接し方を変える必要もない」
雪乃「でも、あの日あなたは」
八幡「だからそれは忘れてくれ。ちょっと悪口言われただけで泣いて家出したなんて恥ずかしい黒歴史以外の何でもないんだから」
雪乃「…………」
結衣「…………」
八幡(二人が押し黙ったところで小町がお盆を持ってやってくる。俺の前にはマッ缶が、他の席にはお茶が差し出された)
雪乃「ありがとう小町さん」
結衣「ありがと小町ちゃん」
八幡「ちゃんとマッ缶を持ってくるとはわかってるじゃないか。さすが最愛の妹だな」ナデナデ
八幡(頭を撫でてやると小町がえへへと嬉しそうにはにかむ。が、雪ノ下と由比ヶ浜は何とも言えない表情をした)
八幡「何だ?」
雪乃「…………いえ、何も。でも、もう一度だけ謝らせてちょうだい。あなたのためでなく、私がそうしたいの」
八幡「…………まあ、それでお前の気がすむんなら」
雪乃「ありがとう。そして、ごめんなさい」
結衣「ごめんね、ヒッキー」
八幡「あいよ。わかったからもう頭上げろって。今更態度とか変えなくてもいいからな」
雪乃「あなたがそう言うなら…………でも言い過ぎないようには気をつけるわ」
八幡「だからそんな気は遣わなくていいってのに」
雪乃「…………ところで、先日姉さんと会ったそうね? あとで聞いたのだけれど」
八幡「ん、ああ」
雪乃「その際の話を聞いたのよ」
八幡「おう」
雪乃「…………」
八幡「…………?」
雪乃「…………二人の会話内容を聞いたのよ?」
八幡「それが………………あっ」
八幡(俺は陽乃さんとの会話を思い出し、参考書とノートを持って立ち上がろうとする。が、それより早く小町に捕まってしまった)
八幡「離せ小町。俺は今から部屋のベッドで枕に顔を埋めて足をバタバタさせるのに忙しいんだ」
小町「ダメだよお兄ちゃん、まだお話は終わってないんだから」
八幡「あの時の俺はどうかしてたんだ。何で雪ノ下さんにあんなことをベラベラ喋ってしまったんだか…………」
八幡(俺は観念して椅子に座り直す。今逃げたっていずれ避けられなくなるしな)
八幡「あー…………すまん、気持ち悪いことを言って。でも安心してくれ、ストーカーになったりとかはしねえから」
八幡(そう言って頭を下げる。というか怖くて雪ノ下の表情が見れん)
雪乃「か、構わないわ。異性から好意を向けられるのは慣れているもの」
八幡(さすが雪ノ下。モテる女は言うことが違いますね。俺もそんな事を一度は言ってみたい…………いや、いらねえな。必要ない苦労をしそうだし、川崎さえいればいいや)
八幡(しかし思ったより悪くない反応だな。それこそ罵詈雑言の嵐が飛んでくると思ったのだが)
雪乃「あの……その……」
八幡(顔を上げると何やらモジモジしている雪ノ下が目に入る。何だ?)
八幡(しばらく続きを待っていたが一向に話す様子がない。その雰囲気に耐えられなくなったか小町が口を開いた)
小町「そ、そういえばお兄ちゃん。陽乃さんが言ってたけど、お兄ちゃんちょっとオシャレしてたみたいじゃない? この数日間どこ行ってたの?」
八幡「ん? ああ、か…………」
八幡(待てよ。ここで『川崎のところ』って言ったらまたややこしいことにならねえか?)
八幡(あいつと付き合ってる事自体はいいんだが、家に泊まったとなると色々言われそうだ。やたら真面目な雪ノ下なら男女が一つ屋根の下で云々言いそうだし。俺はともかく川崎に被害が及ぶのは宜しくないな。しばらく名前は伏せとくか)
小町「か?」
八幡「…………彼女のとこに泊まってたんだよ」
雪乃・結衣・小町「……………………え?」
八幡「あ、別にやましいことはしてないぞ。相手の親御さんの許可ももらってるからな」
雪乃「…………比企谷君。『彼女』なんて曖昧な三人称はわかりにくいわ」
八幡「三人称じゃねえよ。恋人的な意味での『彼女』だ。ちなみにおしゃれしてるように見えたっていう服はそいつの見立てな」
結衣「ヒ、ヒッキーに彼女? 嘘、だよね?」
八幡「まあ信じなくてもいいけど…………俺が一番信じられんし。告白されてもしばらくは冗談だと思ってたからな」
小町「ちょ、ちょっとストップストップ!」
八幡「あ、何だよ?」
小町「お兄ちゃん、ちょっとこっち来て!」
八幡(突然小町に引っ張られ、俺はリビングを出る)
八幡「どうしたんだよ? あいつらに聞かれたくない話か?」
小町「ほ、本当なの? お兄ちゃんに彼女がいるって」
八幡「まあな」
小町「だ、だってお兄ちゃん、雪乃さんの事が好きだったんじゃ」
八幡「だから言ってるだろ。『好きだった』って。過去形なんだってば。雪ノ下さんに聞いてないのか?」
小町「そ、それは…………」
八幡「まあ小町だから言うけどよ。今回のアレ、色々な要因が重なって思わず飛び出しちまったんだ。だからお前らだけが原因てわけじゃない」
小町「…………」
八幡「端から見たら自殺でもしかねない様子だったらしいぜ。そんなふうに落ち込んでる俺を献身的に世話してくれて、尽くしてくれて。本当、俺には勿体ないくらいの彼女だよ」
小町「その…………付き合ってるのはいつからなの?」
八幡「三日くらい前だ」
小町「えっ!?」
八幡「家に泊めたりしてくれて、何でここまでしてくれるんだって聞いたら好きだからって言われたんだ。軽いって思われるかもしれねえけど、そう言って笑うあいつを俺はどんどん好きになっていって、俺から告白して付き合うことになった」
小町「そう……なんだ…………誰? 小町の知ってる人?」
八幡「それはまだ秘密な。いずれ紹介してやるよ。とりあえず戻るぞ」
小町「あ、待ってお兄ちゃん! …………その、しばらく部屋に戻っていてくれない? あとで呼ぶから」
八幡「何でだ?」
小町「お願い…………」
八幡「……何か訳ありか。わかった、部屋にいるから」
小町「うん。ごめんね」
八幡「いいよ、そのくらい」
八幡(俺は小町の謝罪を背に自室に戻る。あ、参考書とかリビングに置きっぱなしだ。仕方ない、他の教科をするか)
八幡(暗記ものを一通り頭に詰め込み、一旦間を置こうとしたところでドアがノックされた。小町か?)
八幡「おう、開いてんぞ」
八幡(しかし予想に反して入ってきたのは雪ノ下だった。どうしたんだ?)
雪ノ下「お邪魔するわ」
八幡「あいよ。何か用か?」
雪乃「あなたに話があるのよ」
八幡「そういや小町がそれっぽいこと言ってたな。何だ?」
雪乃「……………………」
八幡「?」
雪乃「これから言うことは冗談でも何でもないわ。全部本当のことよ」
八幡「何だかしこまって」
雪乃「それと多分比企谷君にとって迷惑であろうこともわかっているわ。それでも、私の我が儘で聞いてほしいの」
八幡「お前に振り回されるなんて今更だろ。言ってみろよ」
雪乃「比企谷君」
八幡「おう」
雪乃「私はあなたが好きよ」
八幡「!!」
雪乃「私と、男女のお付き合いをしてください」
八幡「………………………」
雪乃「………………………」
八幡「冗談…………じゃ、なかったんだっけな」
雪乃「ええ」
八幡「ありがとう、こんな俺を好きになってくれて。でもごめん。俺、好きなやつがいるんだ」
雪乃「その子のこと、私よりも好きなのかしら?」
八幡「ああ。これ以上ないくらいに、な」
雪乃「そう…………」
八幡「雪ノ下、その…………」
雪乃「大丈夫よ。私達は春休み前と同じ関係に戻るだけ…………そうでしょう?」
八幡「そう、だな…………」
雪乃「だから由比ヶ浜さん。あなたもきちんと告白して、きちんと振られなさい。でないとちゃんと前に進めないわよ」
八幡「えっ!?」
八幡(雪ノ下がドアの方に呼び掛け、そちらを向くと由比ヶ浜が入ってきた)
結衣「あ、あはは…………」
雪乃「じゃ、私はリビングにいるわ」
八幡(入れ替わるように雪ノ下が出て行き、由比ヶ浜が俺の前に立つ)
結衣「ヒッキー」
八幡「お、おう」
結衣「あたし、ヒッキーのことが好き! だから、あたしと付き合ってください!」
八幡「…………ありがとう、こんな俺を好きって言ってくれて。でも、ごめん。俺、好きなやつがいるから、お前とは付き合えない」
結衣「あたしより、その子の方がいいの?」
八幡「俺にとって、世界一の彼女だよ」
結衣「そっか…………」
八幡「由比ヶ浜…………」
結衣「まあ元々あたしには勝ち目がなかったんだよね、きっと。その子がいなくても、ゆきのんに勝てないもん」
八幡「そんなことは…………」
結衣「いいの…………でも、ちょっとだけ待ってて。少ししたら、リビングに来て。そんでいつもみたいにお話しよ?」
八幡「…………わかった」
結衣「じゃ、またあとでね」
八幡(由比ヶ浜は一瞬だけ泣きそうな表情を隠しきれず、すぐに顔を背けて部屋を出て行った。それを部屋の前で見届けた小町が入ってくる)
小町「お兄ちゃん…………」
八幡「訳ありってのはそういうことか…………」
小町「うん…………小町も詳しいことは言わずに本当にお兄ちゃんには彼女がいるって言ったんだけど……けじめをつけるために気持ちを伝えるって雪乃さんが」
八幡「まさか、二人がなあ…………」
小町「これっぽっちも思わなかったの?」
八幡「いや。もしかしたら、くらいは考えたことがある。だけどその割に当たりが強いからやっぱりねえわって思ってた」
小町「二人にもチャンスはあったのかな…………?」
八幡「充分あったんじゃねえか? 今更言っても仕方ないけどよ」
小町「はあー…………で、そのチャンスを逃さずお兄ちゃんを射止めた彼女さんはどんな人なの?」
八幡「あー、スタイルはいいな。胸も大きいし」
小町「ふむふむ」
八幡「料理も裁縫もそこらの主婦より全然上手だし、家族想いで気も利くし、頭も良い方だ」
小町「…………」
八幡「顔も美人に分類されるな。何度か男に声を掛けられてるみたいだし」
小町「何その雪乃さんと結衣さんの良いところを掛け合わせたような人。本当にそんな人いるの?」
八幡「だよなあ…………なんで俺なんかを好きになってんだあいつは?」
小町「小町に言われても…………ん? んんー?」
八幡(突然小町は首をひねって考え始めた。何だ?)
小町「ねえお兄ちゃん。もしかしてお兄ちゃんの彼女って、大志君のお姉ちゃん?」
八幡「…………あんま言いふらすなよ、周りで騒がれても厄介だし。というかよくわかったな」
小町「あ、やっぱり。お兄ちゃんの交友関係でそれっぽい人が他にいないもん。ね、詳しく聞いていい?」
八幡「夜にな。親父達も話聞かせろってうるさいからまとめて話すわ」
小町「りょーかい。雪乃さん達には言うの?」
八幡「様子を見て、って感じだな。そろそろリビング行くか」
小町「あ、待って。一回小町が見てくるから」
八幡「…………わかった、頼む」
八幡(一度小町に確認してもらい、大丈夫とのことで俺もリビングに向かう。テーブルにはすでに平然とした表情の二人がいた。俺と小町も椅子に座る)
雪乃「比企谷君。今からの会話は嘘や欺瞞、気遣いやごまかしはなしにしてほしいの。あなたには迷惑かもしれないけど、私達が未練を捨てて先に進むために、お願い」
八幡「…………わかった。とことんまで付き合ってやんぜ」
結衣「ありがとうヒッキー」
雪乃「それじゃあまず聞きたいのだけれど…………」
八幡(そこから俺達は色んな話をした。今まであった出来事のこと、その時互いにどう思っていたか。口にしたことと思っていたことが実は違ったりとか、何も言えなかった時に実はこう思っていたりとか)
八幡(色恋沙汰も忌憚なくさらけ出した。本当は二人とも辛いはずだろうに、何も気にしていないふうを装っている。彼女達にとっておそらくこれは乗り越えるべき試練なのだろう)
八幡(あらかた話し終えたところで沈黙が訪れる。しかし気まずい空気ではない。何か、ひと仕事終えたような雰囲気。俺はそこで口を開く)
八幡「なあ、雪ノ下、由比ヶ浜」
雪乃「何かしら?」
結衣「何?」
八幡「俺と、友達になってくれねえか?」
雪乃「ええ、喜んで」
結衣「うん! あたし達、とっくに友達だよ!」
八幡(まるで俺の言うことを予想していたかのように即答してくる二人。俺はつい笑みがこぼれてしまった)
八幡「ありがとうな、二人とも」
八幡(結局昼食も四人でとり、以前みたいな空気の中での食事となった)
八幡(雪ノ下が豆知識を披露したり、由比ヶ浜がとんちんかんなことを言ったり、俺が変なことを言って小町が代わりに謝ったり。だけど若干、いや、だいぶ俺に対する当たりが弱くなっている。内容は変わらないものの、表情が優しくなっているのだ)
八幡(男女の関係でこそないものの、俺達三人の繋がりはより強くなったと感じる。正直この今の時間を終わらすのは惜しい。でも…………)
八幡「すまん、俺はそろそろ予備校に行く時間だ。悪いけど…………」
雪乃「あら。そういえば随分と長居してしまったわね。由比ヶ浜さん、私達もそろそろおいとましましょう」
結衣「うん。そうだね」
八幡(雪ノ下と由比ヶ浜を玄関まで見送り、俺も出掛ける準備をする。鞄を背負ったところでカマクラを抱いた小町が話し掛けてきた)
小町「出掛けるにはまだちょっと早いよね。沙希さんとこ行くの?」
八幡「ああ、同じ予備校だからな…………ってそういやカマクラの姿あんま見なかったけどどっか閉じこもってたのか?」
小町「あー……実はあのお祝いの日に雪乃さんが構い過ぎちゃって、苦手意識持っちゃったみたいで雪乃さん来たら隠れるようになっちゃった……」
八幡「あいつは…………」
小町「せっかくだから抱っこしていく?」
八幡「いや。実は川崎は猫アレルギーなんだ。服に毛とか着いたら良くないから」
小町「あ、そうなんだ…………沙希さんのこと、今度ちゃんと紹介してよね」
八幡「おう。自慢の彼女、見せ付けてやるよ。んじゃ、行ってくる」
小町「行ってらっしゃい」
八幡(俺は小町に見送られながら家を出た。目指すは川崎家だ)
八幡(前もって出掛ける際に連絡していたので、俺が着く頃にはもう川崎は家の外で待っていた)
八幡「よう、待たせたか?」
沙希「ううん、平気…………雪ノ下や由比ヶ浜と話したんでしょ? どうだった?」
八幡「あー…………色々あった」
沙希「何それ?」
八幡「ちょっと長い話になるからさ、帰りにどっか寄って話さないか?」
沙希「まあ構わないけど…………ちょっとくらいの浮気ならいいけど本気にはならないでよ?」
八幡「ちょっとくらいならいいのかよ…………いや、しねえけど。俺はお前ひとすじだっての」
沙希「そ、そう、ありがと……」
八幡(俺はそこで周囲を見回し、誰もいないのを確かめて自転車から降りて川崎のそばに寄る)
八幡(ゆっくりと顔を近付け、逃げないのを確認し、唇を合わせる)
八幡「愛してるぜ、沙希」
沙希「あたしも愛してるよ、八幡」
八幡(俺達はしばらく見つめ合って笑い合い、自転車で予備校に向かう。もちろん二人乗りだ)
八幡(この腰に回された腕が、背中に感じる存在が、いつまでも俺のそばにありますように…………なんてな)
~ エピローグ【数年後】 ~
八幡「うー、寒い…………まだ一月半ばだもんな」
八幡(俺はコートの襟を立て、足を早める。帰ったらとりあえずエアコンを入れて…………メシどうすっかな。作るのも面倒だし今から買い物行くのもなぁ……カップめんでいいか)
八幡「あれ?」
八幡(アパートに着くと俺の部屋の明かりが付いてる。もしかして)
八幡「ああ、やっぱり来てたのか」
沙希「ん、お帰り。お邪魔してるよ」
八幡(ドアを開けると、台所で料理している川崎がいた。俺は部屋に入る)
八幡「はあー、部屋があったけえ、ありがてえわ。何、メシ作ってくれてんの?」
沙希「うん…………ていうかメールしたじゃない。返信なかったけど、見てない?」
八幡「え? あ、マジだ」
八幡(スマホを取り出して確認すると『今日行くから』とシンプルなメールが来ていた)
沙希「ちょっと帰るのも遅いし、残業か飲み会でもあるのかなと思ったけど」
八幡「いや、ちょっと買い物しててな…………ちょうどいいや」
沙希「ちょうどいい?」
八幡「ま、メシの後にでも話すよ。ていうか早く早く。その匂いマジでヤバい。空腹感が抑えきれん」
沙希「ん。あと十分くらいで出来るから着替えときなって」
八幡「おう」
八幡(俺はコートとスーツを脱いでハンガーに掛け、部屋着に着替える。川崎は私服だったが、川崎のスーツの類はない。どうやら一度家に帰ってからここに来たようだ)
八幡(時々渡してある合い鍵で、大学卒業後に一人暮らしを始めた俺の部屋に来てこんなふうにメシを作ってくれたりする。本当に良い女だよなこいつ)
沙希「お待たせ」
八幡「おう…………って、今日はちょっと量が多いな」
沙希「冷蔵庫の奥に賞味期限近いのがいっぱいあったから全部使った。その辺ちゃんとしないと勿体ないよ…………残ったらラップして明日の分にするから。明日は土曜で休みだし昼もここで食べるんでしょ?」
八幡「まあな。んじゃ、いただきます」
沙希「いただきます」
八幡「お前今日泊まってく?」モグモグ
沙希「うん、そのつもり。用意もしてるし」モグモグ
八幡「あいよ。あ、これ旨え」モグモグ
沙希「それ田舎のお祖母ちゃんとこで作ったやつ。この前送ってきてくれた」
八幡「へえ。礼を言っといてくれ」モグモグ
沙希「うん」モグモグ
八幡(しばらく食べて、腹がいっぱいになって箸を置くと、川崎は残り物のおかずにラップをしていく)
沙希「じゃ、これ冷蔵庫に入れとくから」
八幡「おう。ごちそうさま」
八幡(テーブルの上を片付け、食器洗いを終えて川崎はお茶を淹れてくれた)
八幡「サンキュ」
沙希「うん」
八幡(俺は一口飲んで喉を潤す)
八幡「ふう…………なあ、川崎。お前、今の仕事に愛着はあるか?」
沙希「何突然? うーん……大学卒業して勤め始めてもうすぐ三年か。仕事自体は面白いんだけど課の上司がクソでね」
八幡「女性がクソとか言うな」
沙希「部下の手柄は自分の物にして失敗は人に押し付ける無能だよ。あたしにはしてこないけど気の弱い女性社員にセクハラまがいのことをするし、女性陣は辟易してる」
八幡「よくクビや降格になんねえな」
沙希「夜の店が好きで人を奢りで連れて行くから男性社員には受けがいいんだ。社長親族にコネもあるみたいだし。まあ環境が良くないから愛着ってのはあんまりないね」
八幡「そっか…………」
沙希「何? あんたの会社で人員募集でもしてんの?」
八幡「あー、そうじゃなくてだな…………これ、最終決定待ちだけどほぼ決まってることなんだが」
沙希「うん」
八幡「俺、関西の支社に行くことになりそうだ」
沙希「…………左遷? 何をやらかしたの?」
八幡「逆だ逆。うちの会社は有望なやつは三年目くらいになると一度あっちで何年か経験積ませてこっちに戻って栄転ってのがお決まりの出世コースなんだよ」
沙希「へえ、凄いじゃない! あんたが有望株に選ばれたんだ」
八幡「ああ。新人の頃に飲みだの派閥だのの人間関係とかが煩わしくてひたすら仕事の勉強とかに打ち込んでたら生真面目な部長の目に留まってな。そっから自然に…………」
沙希「そうなんだ。行くんでしょ?」
八幡「まあな。チャンスなんだし」
沙希「ふふ、まさか専業主夫になるとか言ってたあんたがねえ……」
八幡「うっせ」
沙希「でも関西か…………なかなか今みたいに気軽に会えなくなっちゃうね」
八幡「そのことなんだけど…………向こうには会社の寮があるんだ」
沙希「あ、だったら家賃もここより安いでしょ。貯金もしやすいんじゃない?」
八幡「ああ、それもそうなんだけど、そこ、家族寮もあるらしくてな」
沙希「? うん?」
八幡「その…………今の仕事をやめて、ついてきてくれねえか?」
沙希「…………え?」
八幡(俺は立ち上がって押し入れにあるファイルから一枚の紙を取り出す)
八幡「これ、出しに行かないか?」
八幡(そう言ってテーブルの上に出したのは、かつて俺が家出騒動を起こし、その終焉の日に川崎から受け取った婚姻届だ)
八幡(川崎は両手を口に当てて驚愕の表情をしたが、やがてポロポロと涙を流し始める。なんだか追い討ちをかけるみたいだが、やっぱり最後まで言わないと駄目だろう)
八幡「あと、これ。冬のボーナスで買ったんだ。受け取ってくれると嬉しいんだが」
八幡(鞄から出した小さな小箱を川崎に差し出す。中を見ずともわかるだろう。指輪だ)
八幡(川崎は慌ててハンカチを取り出して涙を拭き、深呼吸をする)
沙希「比企谷…………ううん、八幡…………お願い。ちゃんと言葉にして言って欲しい」
八幡「わかった」
八幡(俺も頷き、深呼吸をする)
八幡「川崎沙希さん。俺と、結婚してください。ずっと、俺のそばにいてください」
沙希「…………はい。末長く、よろしくお願いします」
終
元スレ
八幡「川崎家に居候することになった」沙希「遠慮しないでいいから」
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