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結衣「…やっぱり…わたし、ヒッキーのこと….」【俺ガイルss/アニメss】

 

最初はほんとに偶然だった。

 

早朝にサブレを連れて、これから通うことになる高校を見ておこうと思っていただけ。

 

朝も早かったしすぐに帰るつもりだったから、寝るとき着ていたクマさん柄のパジャマのまますっぴんで出掛けていた。

 

高校の近くまで行ったしそろそろ帰ろうかな、と思っていたところでサブレが野良猫を見つけた。

 

あたしに似たのかあたしが似たのか、サブレは好奇心が強いのに気がとても弱い。

 

だから猫とか他の生き物に近付かれると、すぐに逃げ出そうとする。

 

そんなサブレはとても可愛い。こうやって甘やかしてばかりだから飼い主としての威厳がないって言われてサブレには舐められるんだろうなぁ。

 

けど、サブレは相手から近付かれると怯えて逃げてしまうのに、相手が逃げると追いかけてしまう。え、もしかしてただの捻くれ者なの?

 

その時の野良猫は気が弱かったのか、サブレを見てさっと逃げ出そうとしてしまった。

 

これから通う高校に期待を膨らませて、この道を毎日通るのかなぁとかボーッとしていたんだと思う。

 

サブレはあたしの手にあったリードを振り切って、野良猫を追いかけて走り出してしまった。

 

そういうのは散歩中にもたまにあるんだけど、普段の散歩の時は危なくない道を通るようにしてるし、慣れてる道だからそんなに慌てないで追いかけて捕まえてた。

 

けどこの時は慣れない道で、しかも交通量の割と多い道路がすぐ傍にあった。

 

走るサブレは楽しくなったのか、慌てて追いかけるあたしからさらに逃げるように走り出す。

 

待って!サブレ!危ないから!

 

そう思った時には既にサブレは道路にまで飛び出していて、その前には一台の真っ黒い車が迫っていた。

 

頭が真っ白になった。思わず目を覆いそうになった。

 

そこへ、その人は突然飛び出してきた。

 

自転車から飛び降りるようにサブレと車の間に体を投げ出し、サブレを守るように、衝撃に備えて頭を伏せる。

 

聞いたことのない嫌な大きな音がして、真っ黒い車は自転車とその人を弾き飛ばした。

 

そこからのことはあまりにも衝撃的だったせいか、頭が働いてなくて正直なところあんまり細かく覚えてなかったりする。

 

サブレの無事を確認した後、もう逃げないように抱き抱えてから、あたしのせいで怪我をした、サブレを救ってくれた人の姿を見た。

 

その人はあたしがこれから通う総武高の制服を着ていて、怪我をしたのか足を押さえて痛みに苦悶の表情を浮かべていた。

 

あたしは、大丈夫ですか、というような声すらかけられてなかったと思う。

 

それからその人を跳ねた車から、漫画で見る執事のような運転手の人が降りてきて、落ち着いて対応を始めた。

 

まず救急車を呼んで、それから…よく覚えてないけど、事情を聞かれてサブレが逃げ出したことをそのまま話したら、あたしは被害者でも加害者でもないからということで早めに解放された気がする。

 

その時はサブレが無事で安堵していた気持ちのほうが強かったかもしれない。

 

今にして思えばこのときに名前を聞いておけばよかったと思う。教えてもらえたのかどうかは知らないけど。

 

ただ、サブレを守ってくれたその人の目と、自分を省みないその行動はあたしの胸に強く焼き付いた。

 

そして、今日から学校が始まるのに、同じ高校のその人を怪我させてしまったことに罪悪感を覚えた。

 

しばらくたって落ち着きを取り戻すと、まるで運命の出会いだったのかな、という錯覚をしたりもした。

 

あたしは高校に入ってから友達との付き合いを続けているうちに、髪も茶色になったし格好もそれに伴って変わっていった。

 

嫌われたくなくて回りに合わせているうちに、流されるままどっちかで言うとイケイケの女子高生みたいな見た目になった。

 

けどみんなみたいに男の子と付き合ったことはないし、少女漫画であるような運命の出会いに憧れるところだってある。

 

恋に恋する、っていうのかな、そういうの。

 

だから、それからもその人のことが気になって、もう退院したかな、何年生なのかな、あたしのこと覚えてるかな、あたしのせいであんなことになって嫌われてないかな、とか思いながらいつもその人を目で探していた。

 

ほんとは入院してるその人のお見舞いにいけたらよかったんだけど、名前もわかんない人の入院先を知る方法があたしには思い付かなかった。

 

もしかしたらそこまでしようとは思っていなかっただけかもしれないけど。

 

結局なかなか見つからなくて、もう会えないのかなという思いが頭をよぎった頃、その人を学校の廊下で見つけることができた。

 

あの目だ、と思って見つけたときは胸が高鳴った。

 

その人は同じ学年で一年生だった。

 

でも、あんなことがあったのにお見舞いにも行けてないあたしが、気軽に話しかけられるはずがなかった。

 

その人はあたしとは別のクラスだった。

 

だから、その人がいるクラスに軽く話せる程度の友達を作って、用もないのに話しかけに行った。

 

その友達と話しながら、その人のことを横目で何度も、何度も見ていた。

 

あたしに気が付いてくれないかな、という思いも少しだけあった。それは叶わなかったけど。

 

何度も見ているとはっきりとわかったことが一つだけあった。

 

それに気が付いたとき、甘い錯覚はあたしの頭から消えた。

 

その人は、いつも一人だった。

 

その人から何も言われてないのに、胸に痛みを感じた。

 

その人の名前を知りたくてクラスの人に聞いてみたけど、最初の数人の子は、さぁ…なんだったっけ?とか言っていて本当に苦しくなった。

 

きっと自分が怪我をさせてしまったせいで学校に来れなかったからクラスに馴染めてしないんだ、きっとそうだ。そうなら、なおさらちゃんと謝らないと。

 

あたしがその人のことを気にしているのがなるべく周りの人に気付かれないよう、期間を置きながら少しずつ調べてようやく名前を知ることができた。

 

比企谷八幡くん。比企谷くんか。ひきがや…ヒッキー…かな!

 

その人のあだ名はあたしの中ですぐに決まった。

 

あたしには、学校ではずっと一人でいるヒッキーに話しかける勇気が出なかった。

 

自分が悪いんだけど、事故について謝ることから始めて、拒絶されることを思うと動けなくなった。

 

それでもなんとかしなきゃと思って、ヒッキーのクラスの先生に事故のことを話して住所を聞き、一度だけ勇気を出して家に菓子折りを持ってお礼と謝罪をしに行ったことがある。

 

これで自然にヒッキーと話ができるかもしれない。そういえば同級生の男の子の家に行くなんて小学校以来だなぁとか考えて、謝りに行くだけのはずなのに違う意味でドキドキしたのを覚えている。

 

出てきたのは本人ではなく妹の小町ちゃんだった。兄を呼びましょうかとも言われたけど、おもわず断ってしまった。最初からヒッキーが出ていてくれればよかったのに……。

 

伝えてほしいと謝罪の言葉を話すと、兄のことなんてぜーんぜん、ほんと気にしないで下さいねーと言われてしまった。

 

この時はもしかしてヒッキーは妹さんと仲が悪いのかな、なんて思ってしまった。実際は引くほどのシスコンだったけど。

 

ヒッキー本人にもちゃんと伝わるかな。小町ちゃんには名前も言ったし。もしかしたらそれを聞いてヒッキーの方からあたしを探してくれるかも。

 

そんな都合のいいことも考えたけど、待てども待てどもそんなイベントは起こらなかった。

 

これは恨まれているか、嫌われているか、その両方なのかな。

 

でも、そうだったとしても、やっぱり助けてもらったあたしからちゃんと話すべきだと思った。

 

それからも機会を見つけては、声をかけようとヒッキーを眺めていたけど話しかけることはなくて、いつ見てもやっぱりヒッキーは一人だった。

 

たまにクラスの男の子なんかが話しかけるのを見たこともあった。でもヒッキーはめんどくさそうに、無愛想な返事をするだけ。

 

もしかしたら、周囲を寄せ付けないようにしているよう見えるのは気のせいじゃなくて、ヒッキー自身がほんとにそうしているのかも。なんのためかはわからないけど。

 

あんなに勇気のある行動をしてくれたのに、ヒッキーのクラスの誰も事故の内容を知らないようだった。凄いことをしたのに、人に言いたくなったりとかしないのかなぁ。

 

やっぱり話して聞かないとわかんないよね。ヒッキーと話がしたい。何を思っているのかいろいろ聞かせてほしいな。

 

結局何も言えないまま時間が流れ、そうこうしている間に二年生になった。

結局あたしは謝ることも何もできないまま、ほぼ一年を過ごしたことになる。

 

その間、朝礼や体育、何かのイベントがある度に、常に目でヒッキーを追っていた。

 

見つける度に、何をしてるのかな、どんなこと考えてるのかな、と想像を巡らせるようになっていた。

 

だから、あたし自身もだんだん気が付きはじめた。

 

もう、謝らないといけないはただの口実になりつつあって、この人の考えていることを、この人自身のことを、もっと知りたいと思うようになっていたことに。

 

錯覚から始まったあたしの想いは、自分でも気付かないうちに別の形に変わり、いつの間にか恋が始まっていた。

 

けど、少しの罪悪感は消えていなかった。

 

二年生の新しいクラス分け発表の掲示板を見るときに一番に探したのは、自分の名前じゃなくて比企谷八幡の文字だった。

 

F組にその名前を見つけ、同じクラスに自分の名前を探す。

 

あった。あたしとヒッキーは同じクラスだ。

 

嬉しい。これで話しかけることもできるかもしれない。

 

けど、二年生になって新しいクラスになっても、やっぱりヒッキーは一人だった。

 

休み時間には誰とも話さず、昼になるとふっとどこかへ消え、放課後はすっといなくなる。

 

たまに誰かと話してると思ったら、ものすごく挙動不審になってまともに会話できてるとは思えなかった。

 

毎日が同じだった。

 

でもあたしもそれは同じで、クラスで仲良くなった友達と空気を読みながら付き合ってはいたけど、相変わらずヒッキーに話すきっかけは掴めなかった。

 

あたしは少しだけ、人に合わせることに、流されることに疲れていた。勇気を出せないでいる自分にも。

 

そんな時、家庭科の授業で調理実習があった。

 

周りでなんとか君にお菓子作ってあげたいなー、とか声が聞こえて、それで思い付いた。

 

そうだ、クッキーでも作って食べてもらおう。それを口実にお礼を言って、ちゃんと謝るんだ。ヒッキーとお話できるようになるんだ。でもクッキーなんかあたし作れないな……。

 

優美子や姫菜にはこんなこと相談なんかできない。こんなの、あたしには似合わないし。こんな乙女みたいなことバカにされちゃうかもしれない。

 

困った私は平塚先生に相談することにした。そこで奉仕部の存在を教えてくれた。

 

なんでも、生徒の悩み相談を受けて手助けしてくれる部活らしい。

 

ほとんど行くことのない特別棟の、しかも初めて入る部屋。

 

おそるおそる扉を開ける。

 

そこには噂でよく聞く美少女の雪ノ下さんと、なぜかヒッキーがいた。

 

これが奉仕部と、ヒッキーとゆきのんとあたしの出会い。

 

初めて話したヒッキーの印象は、それはもう最悪だった。ほんとに。なんなのこの人、と思った。

 

同じクラスなのに、まさか自分のことを認識してもいなかったなんて。

 

あたしはずっと前から見てたからよく知ってたけど、まさか名前まで知らなかったなんて。

 

ていうかあり得ないよ……。もう二年生になって何ヵ月もたってるのに、まだクラスの人のこと知らないとか……。

 

話し始めてすぐ、いきなりビッチとか言われた時にはどうしようかと思った。怒りのあまり物凄く恥ずかしいことまで口走って超後悔した。

 

ヒッキーは事故の原因はあたしだって知らないみたいだった。

 

でも、それからのあたしは、少しだけ変わることができた。

 

クッキーは結局うまく作れなかったけど、元々食べてもらおうとしてたのはヒッキーだし、結果的にあたしから奉仕部へ出した最初の依頼は解決してもらえたってことになるのかな。

 

あたしが憧れるぐらい、最初からゆきのんは強くてかっこよかったし、ヒッキーは基本的に最悪だったけど、たまに優しかった。

 

もう迷うことはなかった。あたしも奉仕部に入ることにした。

 

ヒッキーがいて、ゆきのんがいた。そこにあたしが入って、今の奉仕部が出来上がった。

 

それから奉仕部でいろんなことがあった。

 

あたしとゆきのん、あたしとヒッキー、ゆきのんとヒッキー。

 

三人の距離は近付いたと思ったら離れて、離れたと思ったら近付いて。

 

なんでこんな人好きになっちゃったのかな、って思ったことは一度や二度じゃなかった。

 

罪悪感が少しだけあったのも確かだけど、あたしが奉仕部に入ってヒッキーに近づきたいって思ったのはそんなんじゃないのに拒絶されたこともあった。

 

同情とかならそんなのはすぐにやめろって。

 

でもそれから、ゆきのんのおかげで事故のことはとりあえずお互い気にしないことになった。仲直りできて、あたしが奉仕部に戻ることができたのはすごく嬉しかった。

 

二人とも一緒に過ごすうちにどんどん好きになっていった。

 

ヒッキーはいろんな依頼に対して、屁理屈みたいなよくわかんないこと言って、わけわかんないこともたくさんやって…。

 

あたしには真似の出来ない方法で、ヒッキー自身が傷だらけになりながら問題を解決してた。

 

そんなヒッキーを見るのはとても辛かった。けどあたしには何もできなかった。見ているだけだった。

 

悲しいこともたくさんあったけど、それ以上に楽しいことや嬉しいことがたくさんあった。

 

あたしの学校生活で一番楽しくて、嬉しくなって、安心できる場所。

 

あたしがいて、一番大好きな友達がいて、たくさん知って前よりももっと好きになった人がいる場所。

 

奉仕部はあたしにとってかけがえのない存在になった。

 

そんな奉仕部がなくなっちゃうかもしれない。そう思ったのは生徒会長選挙の時。

 

今度こそあたしもちゃんとやらなきゃと思った。

 

ゆきのんが生徒会長になったら奉仕部はきっとなくなる。

 

だって、あたしとヒッキーだけじゃ奉仕部は成り立たない。ヒッキーがいなくても成り立たない。

 

いなくても奉仕部が成り立つとしたら、それはあたしだけ。

 

これまでで大好きになった奉仕部と、ヒッキーと、ゆきのんと、あたしの場所。

 

もしあたしが奉仕部に行けなくなっても、あの場所はどうしても守らなきゃと思った。

 

だからゆきのんにも負けないつもりで立候補しようとしてたんだけど、結局ヒッキーが奉仕部を守ってくれた。

 

ヒッキーが守ってくれたのは嬉しかった。

 

でもあたしはまた、何もできなかった。

 

そしてそれがきっかけで、奉仕部はあたしにとって安心できる場所じゃなくなってしまった。

 

またあたしは空気を読むふりをして、場を繋ぐことばかりに一生懸命になっていた。

 

奉仕部はこんなはずじゃなかったのに。ゆきのんが変なのはわかってるのに。

 

あたしは何も言えなかった。違う、言わなかった。

 

ヒッキーはゆきのんに気を遣ってか、あたしたちに嘘をついてまでいろはちゃんの、生徒会の手伝いをしてた。

 

もうどうしようもなくなるぐらい奉仕部の空気が冷たくなった頃、ヒッキーが来て一つの依頼をした。

 

本物が欲しい。

 

それはたぶん、初めてのヒッキーの本当の願いだった。

 

ヒッキーがちゃんと本当に願っていることを話してくれた。

 

そのヒッキーの求める本物に、あたしが含まれているかは深く考えないようにした。

 

奉仕部としての三人の関係のことなら、あたしも含まれるんだけどさ。

 

ほとんどがゆきのんに向いている言葉なのかなって思った。あたしはあの時、別にヒッキーと喧嘩なんかしてなかったし、そんなに気まずくはなかったから。

 

でも、あたしもゆきのんとあのままは嫌だった。

 

本物とか偽者とかよくわかんなかったけど、ゆきのんとまた前みたいに戻りたいって気持ちをぶつけた。

 

ヒッキーの気持ちは、あたしにも、ゆきのんにもちゃんと届いた。

 

だから仲直りできて、奉仕部はまた前みたいに戻った。けど少しだけ変化があった。

 

ゆきのんはその依頼はまだ終わってないと言っていた。ヒッキーはわかってなかったみたいだけど、あたしにもわかった。

 

それをきっかけに、ゆきのんは少し変わった。

 

ゆきのんとヒッキーは、一歩距離を縮めた気がして、あたしの胸に締め付けるような痛みを残した。

 

その後ヒッキーから湯飲みのお礼ってことで、あたしとゆきのんがクリスマスプレゼントを貰った後、ゆきのんとこんな話をした。

 

「シュシュかー、ヒッキーも可愛いの選んでくれたもんだねー」

 

「そうね、仕方がないから大事にしてあげるわ」

 

「あはは、ゆきのんも素直じゃないなー。でもほんとなんでこんな色なんだろーね。やっぱりあたしがピンクでゆきのんが青って感じしない?」

 

「結局、どう思ったのか本当のところは聞かないとわからないんでしょうけど……」

 

「けど?」

 

「彼が……比企谷君が、自分で考えて選んでくれた、というのが重要なのだと思うわ……」

 

「そっか……そうだね」

 

ゆきのんはとても穏やかで、嬉しそうな顔をしてた。

 

なんてことはない会話だったんだけど、やっぱり前までのゆきのんと違うのかな、と思った。

 

確信したのはマラソンの後、保健室での出来事。

 

盗み聞きみたいになっちゃったけど、ヒッキーはゆきのんに一歩踏み込んで、ゆきのんはそれに応えた。

 

葉山君とゆきのんが噂になったとき、ヒッキーにちょっとした探りを入れた時はうーん、違うのかなって思ったけど、ヒッキーも少しだけ変わっていた。

 

あたしともちゃんと向き合おうとしてくれてるのはわかるんだけど、ヒッキーから一歩踏み込んだのはあたしじゃなくてゆきのんの方だった。

 

☆☆☆

 

あたしはこれからどうするべきなんだろう。

 

奉仕部も、ゆきのんも、ヒッキーも大好きで、全部大事。

 

ゆきのんも、たぶんそう。今はヒッキーに応えようとしてる。

 

ヒッキーが求める本物って何なのかな。結局そこに行き着く。

 

そうなると、あたしはそこに入っているのかとても不安になる。

 

とりあえず一つだけあたしにもわかることがある。

 

それは、ずっとこのまま、っていうのは無理だっていうこと。

 

あたしがそれをいくら望んでも、ヒッキーも、ゆきのんも、きっとあたしを置いて変わっていく。

 

変わらない関係なんて、きっとない。

ヒッキーが、ゆきのんが、お互い歩み寄っているなら。

 

あたしももう少しだけ、踏み込んだほうがいいのかな。

 

そうしないとあたしだけ、置いていかれるのかな。

 

そうなったら奉仕部は、あたしだけを残して変わってしまうのかな。

 

嫌な考えが頭に広がり、マイナス思考に陥って涙が滲む。

 

ダメだ、こんなんじゃ。しっかりしろ結衣。

 

あたしはゆきのんのことも大事。きっとゆきのんもそう思ってくれてる。これはあたしの中で確信に近い。

 

だから、ゆきのんの気持ちの変化をわかりつつもヒッキーに近づこうとする自分に、ちょっとだけ罪悪感と嫌悪感がある。

 

あたしって卑怯だな、やっぱり。

 

でも、あたしだけ置いていかれるのはやだよ。

 

ゆきのん、ヒッキー、あたしを置いていかないでよ……。

 

☆☆☆

 

ゆきのんとヒッキーの距離のことは頭から離しておかないと。

 

いつもみたいに出来なくなっちゃうと、二人に心配かけるかもしれないから。あたしは二人に心配かけたくないから。

 

朝、学校に出掛ける前の準備の時間。

 

鏡の前で自分を眺めながら頭にお団子を作り、笑顔を作る。

 

うん、いつものあたしだ。大丈夫。

 

奉仕部でのあたしの役割は、基本的にしゃべりたがらない、みんなと動きたがらない二人の背中を押すことかなって勝手に思ってる。

 

ゆきのんもヒッキーもいつも嫌々、渋々だけど、大抵のことはちゃんと聞いてくれる。

 

たまに本気で嫌がられてないかなって思うこともあるけど、ほんとにダメそうだったらあたしも言わない。そのぐらいの空気は読める……はず。大丈夫だよね……。

 

大体のことはあたしが二人とそうしたいからそうしてるだけで、渋りながらも付き合ってくれる二人は優しいなって思う。

 

だから、あたしも二人のためにやれることはやりたいな。

 

だから、あたしも、ついて行って、そこにいて、いいよね。

 

誰にともなく許可を求めてから返事は待たず、そのことは頭から締め出すことにした。

 

通学のバスに乗ってる間に考える。

 

あたしはヒッキーに、待ってても仕方ない人は待たないで、こっちから行くと宣言した。

 

なら、あたしから行かないと。ヒッキーのほうからあたしの方へは来てくれない気がする。

 

なかなか応じてくれないヒッキーに、ふと嫌がられてるんだとしか思えなくなり、独りで泣いたことはこれまでにもたくさんある。

 

でも、あたしの勘違いじゃなければ、だけど。

 

ヒッキーはあたしにも目を向けてくれている、向き合おうとしてくれている、と思う。

 

文化祭で話したちっぽけな約束は先送りにされたままなんだけど、いつも渋ってはいるんだけど、嫌そうというようには見えない。

 

それがあたしの事を思ってなのか、ゆきのんと奉仕部のことがあるからあたしを無碍にできないだけなのか、それともあたしの知らない何かなのかは、正直わからない。

 

だから不安になる。疑う。嫉妬する。自分を。ヒッキーを。ゆきのんまでも。

 

こんなことしたくない。嫌だ。何よりも自分のことが。

 

あたしが近づこうとするのが、それがヒッキーの優しさに付け込む行為だとしても。卑怯と呼ばれる行為だとしても。

 

それでも、傍にいたい。

 

考えたくないけど、もし、ヒッキーの想いはゆきのんだけに向かっていて、あたしは奉仕部を円満にするためだけの存在だったとしても。

 

それでも、傍にいたい。好きでいたいんだ。あたしは。

 

それでもいいんだって、あたしは勝手に優美子から教わった。

 

頭でヒッキーのことを思い浮かべる。

 

嫌そうな顔。照れてる顔。ぶっきらぼうな返事するときの顔。屁理屈を得意気に話す顔。くしゃくしゃに歪めて、願いを話す時の顔。ふっと弱々しく笑う、その笑顔。

 

どれも、あたしの好きな人の顔。

 

また今日も会える。早く会いたい。もっと近づきたい。

 

ヒッキー、あたしね、このまま何もできないまま置いていかれるのは嫌だよ。

 

何かしてないと、不安でどうにかなっちゃいそうだよ。

 

だから、もうちょっと、ヒッキーに避けられたりすることにならないように、距離を見極めながら、もう一歩だけ踏み込んでみようかな……。

 

明日は土曜だし、何か一緒に出掛ける口実、ないかな……。

 

理由がないとヒッキーは動こうとしない。これはたぶんあたしと出掛けるのが嫌というわけではなくて、ヒッキーはそもそも外に出たがらない人だから。

 

えー……今更だけどどうなのそれ……。

 

でももう好きになっちゃってるし、仕方ないか。

 

そういえばバレンタインデーがもうすぐだなー。うーん、チョコ一緒に買いにいくとか?

 

いやそれはおかしいから!あたしもそんなの見られたくないし!

 

あ、でもチョコあげるにしてもいろいろあるよね。あの、なんかケーキみたいなやつとか。ザトー……じゃなくて、ガトー……ショコラ?

 

そうそう、ガトーショコラとか。他は、そう、うん、アレとか。

 

ダメだ、全然名前が出てこない。あたし言葉のボキャ……ボキャラブリー?が……。

 

……もっとできる子なんだよ、あたしは。ほんとほんと。総武高受かったし!ほぼ二年前だけど。

 

食べたことはあるんだけどなー。ちょっと調べてみよう。

 

携帯を取り出して、バレンタイン、チョコ、いろいろ、検索っと。

 

そうそうこれこれ。ザッハトルテとかフォンダンショコラ

 

うっ、こんなの全然作れる気がしない……。

 

いや、今はそれは置いといて、ヒッキーと出掛ける口実を探さないと。

 

そうだ、ヒッキーがどんなのが好きか知りたいしスイーツバイキングに行くのはどうかな。

 

実は今チョコケーキの画像見てたら、あたしが行きたくなっただけなんだけど。

 

ヒッキーはいつも甘ったるいコーヒー飲んでるし、甘いものが嫌いってことはなさそうだ。

 

でもなー、たぶん、いや確実にそんなとこに行くのは嫌がるだろうなー。

 

そんなスイーツ空間に俺が行けるわけねぇだろ(声真似)、みたいなこといかにも言いそう。今の似てた気がする。

 

でもヒッキー、それは通用しないんだからね。

 

だっていろはちゃんとなんかいい感じのカフェに行ってたじゃん!

 

なんでゆきのんでもあたしでもなくていろはちゃんなの!?

 

ってあたしが嫉妬するのはおかしいよね。ヒッキーはあたしの何でもないんだし。

 

でもなんでいろはちゃんはヒッキーと一緒に行けたんだろう。なんて誘ったのかな……。

 

あ、わかったかも。依頼だ。

 

あの時なんかよくわかんないこと言ってたけど、仕事だから来て下さいって言われて、わかってないままノコノコ出ていったんだ。

 

ヒッキーって専業主夫になりたいとか言っときながら、いつも仕事ってなったらちゃんと真面目にやるんだよね。

 

将来はもしかしたら文句言いながらもしっかり働いて、会社でどんどん出世したりして。

 

サラリーマンのヒッキーかー……うわー、全然想像できない。

 

でもスーツのヒッキーはちょっとかっこ良さそう……かな……。細身だけど以外と体はがっちりしてるし……。

 

はっ!?

 

危ない、ちょっと想像しすぎちゃった。顔ニヤけてないかな……。

 

想像してニヤけるとかあたしもうダメだ……。ほんとベタ惚れなんだなー……。

 

ずっとこうやって想像してるのが、あたしは一番幸せなのかもしれないな……。

 

最近はちょっとしたことでこんな風に思考がネガティブな方向に傾いてしまう。こんなこと考えたくないのに。

 

あたしは……。

 

☆☆☆

 

結局どうやって誘おうかあまり考えてないまま放課後がやってきた。

 

やっぱり依頼とか仕事とか、そんな口実を作って誘うのはよくないかな。

 

あたしはヒッキーにもう一歩だけ踏み込むことにしたんだ。

 

だから、素直にあたしがそうしたいからだとお願いしてみよう。

 

それでどうしても嫌がるようだったらその時は、今回のデートは諦めることにしよう。

 

ヒッキーが教室を出る前に、一緒に部室に行こうと声をかける。

 

ヒッキーはいつもみたいに、おー、とやる気のない声で応じてくれる、なんでもないやり取り。

 

それだけでも嬉しいけど、もう一歩だけ、近くに居させて、ヒッキー。

 

そう心の中で願いながら話す。

 

「ねぇ、ヒッキー。明日、暇かな?」

 

「明日?土曜だろ。超忙しい」

 

出た……どうせ暇なのに。

 

それぐらいはわかるぐらいの付き合いはヒッキーとしてきたつもりだよ。想定内!

 

「え、なんか用あるの?」

 

「おお……まぁ、家でゴロゴロとかな……」

 

「暇じゃん、超暇じゃん!」

 

「ばっかお前、日頃疲れた体を休めるには必要な時間なんだよ」

 

……よし、無視しよう。

 

「明日ちょっと付き合って欲しいとこがあるんだけど、ダメかな?」

 

「ちょっと、俺の話聞いてる?」

 

「明日ちょっと付き合って欲しいとこがあるんだけど、ダメかな?」

 

同じ台詞をもう一度言ってみる。

 

「すげぇ無視された……。何だよ……聞くだけは聞く」

 

おお、効果あった。もうちょっと。

 

「スイーツバイキングなんだけど……ヒッキー甘いもの嫌いじゃないよね?」

 

「あー……まあ、嫌いじゃないが……名前からしてもうな……。あんなとこ行きたくねぇよ俺は……」

 

やっぱりそういう反応だよねー。これもわかってた。

 

「ヒッキー行きたいとこなんかほとんどないじゃん……」

 

「まあな……そういうのはほら、雪ノ下と行けばいいんじゃねぇの」

 

そこでゆきのんを出さないでよ、バカヒッキー。無神経なんだから。

 

「ううん、ゆきのんじゃなくて……明日はあたしが、ヒッキーと行きたいの」

 

これが最後。あたしのお願い。これでダメなら仕方がないと諦められる。

 

「……どうしても?」

 

「……うん」

 

「あの、あれだ。デスティニーランド、じゃなくて、いいのか」

 

「あ、えーと、うん……。それは、ヒッキーから誘ってもらう時に、取っとく」

 

「そうか……」

 

ここでヒッキーからその話が出ると思わなかった。

 

あたしが勝手に約束したのに、催促した時にしかその話は出してくれなかったのに。

 

ちゃんと覚えてくれてるんだ。

 

「……明日、いいの?」

 

「おお、わかったよ……。そんな真剣にお願いされたら断れねぇよ……」

 

やった、無理矢理っぽいけどお願いが通った。

 

お礼、お礼言わないと。

 

「ありがと、ヒッキー」

 

いつもの笑顔、ちゃんとできてるかな。

 

「礼を言われる筋合いはねぇよ……。ちゃんと行くかもまだわかんねぇし」

 

ヒッキーは照れるように顔を背ける。こういうとこほんとにかわいいなぁ。捻くれてるけど。

 

「ヒッキーは来てくれるよ」

 

信じてる。ヒッキーのこういう言葉は、ちゃんと信頼できるから。

 

「わかんねぇだろ……明日風邪引くかもしんねぇし」

 

「引かないよ。それに、ヒッキーなら、引いてもきっと来てくれる」

 

「そりゃ俺を……やっぱいいわ、なんでもない」

 

ヒッキーは自信満々のあたしの顔を見て言いかけた言葉を引っ込める。

 

「そっか、わかった」

 

自然と笑顔になったのが自分でもわかった。

 

なんかちゃんと会話になってるのか、なってないのかよくわかんないけど。

 

ヒッキーとちょっとでも通じ合ってる気がして。

 

嬉しくて、嬉しくて。顔がニヤけちゃうな。

 

あたし、チョロい女だなぁ。どうしようもないなぁ、あたし。

 

「で、なんでスイーツバイキングなんだ」

 

「あ、いや、あのね。バレンタインデーのチョコ調べてたらガトーショコラとかあってね、見てたら食べたくなっちゃって……」

 

「そんだけかよ……」

 

「うん……行ったらヒッキーがどんなの好きなのかなって、わかるかなと……」

 

しまった。

 

これじゃあたしがバレンタインにヒッキーにケーキあげようとしてるってバレバレじゃん。ていうかそう言ってるのと同じだ。

 

うわー、恥ずかしい恥ずかしい……。

 

顔に熱が籠ってきたような気がして手で扇ぐ。

 

ヒッキーもそれきり黙って俯いてしまった。

 

そのまま無言で部室の近くまできたところで声をかける。

 

「じゃあ明日、朝10時に千葉駅でいいかな?」

 

「昼飯とそれって、別なのか?」

 

「いや、パスタとかサラダなんかもあるみたいだから、お昼も兼ねて……かな。ちょっと歩いたりしてお腹すかせてからバイキングに行こうかなと……いいかな?」

 

「オーケー、わーったよ」

 

よかった。ヒッキーと明日はお出掛けだ。

 

部室の扉の前に立ち、元気よく扉を開ける。

 

中にはいつものようにゆきのんがいた。

 

「やっはろー!ゆきのん」

 

「こんにちは」

 

「うす」

 

いつもの、あたしの大好きな奉仕部の時間が始まる。

 

二人は本を広げて静かに目だけを動かす。

 

言葉がなくても、とても穏やかで、安心する時間。

 

もう無理に言葉を探す必要のない、信頼の空間。

 

なのにあたしは無意識に、いつもより少しだけ、ゆきのんの顔を真正面から見ないで済む角度に身体を傾けて座っていた。

 

約束の時間の15分前に千葉駅に着いた。

 

ヒッキーはまだ来てないみたいだし、身だしなみの最終チェックをすることにしよっと。

 

鏡を取り出して顔とお化粧、歯、表情、髪と順にチェックする。うん、バッチリ。

 

服装は気合いが入りすぎに見えないように、けどしっかり可愛く!って考えながら選んだ。

 

うーん、スカートちょっと短いかな……でもまぁいっか。制服もこんなもんだし、レギンスも履いてるし。

 

シュシュはほんとは髪につけたかったんだけど、いきなり髪型変えるのもなぁ……と悩んだ結果、手につけておくことにした。

 

見えないところでは下着もしっかりお気に入りのものを選んできた。

 

……い、いや、期待してるわけじゃないからね?

 

そんなのまだちょっと無理っていうか、そんなこと想像できないっていうか……うわわっ、もうやめやめ!

 

そんなことは絶対にないんだけど、まぁ、一応……。女の子ってそんなもんだよね?

 

頭の中で誰に対してかわからない言い訳をしてると、後ろから突然肩をつつかれた。

 

「ひゃああっ!」

 

慌てて振り向くと迷惑そうな顔をしたヒッキーがいた。

 

き、来てたんなら声かけてよ!

 

「あの……あんまりそんな大声出さないでもらえますかね……下手したら事案になっちゃうんで……。そして連れていかれるのは俺だけとか何これ」

 

なんか落ち着かない様子でぶつぶつ言い始めた。悪いことしちゃったかな……。

 

「ご、ごめん……でもビックリさせないでよ……。おはよ、ヒッキー」

 

「おお、おはよ」

 

なんか照れ臭そうにムスッとしてる。いつものヒッキー、かな。

 

ヒッキーの私服はそんなにお洒落って感じじゃないんだけど、清潔そうで、体型とあってて……ちょっと新鮮で、かっこいい。

 

この辺はきっと小町ちゃんのファッションチェックが入ってるんだろうなー、ありがたいことです。

 

あたしの格好はどう思われてるかな、変とか思われてないかな。

 

恥ずかしいけど、ちょっと聞いてみようかな。

 

「どう……かな?」

 

手を伸ばして全身をヒッキーに見てもらう。

 

「どうって……何が」

 

目を背けながらじゃ、何のことかわかってるって言ってるようなもんなのになぁ。

 

「あたしの、格好」

 

「おお……まあ、いいんじゃねぇの」

 

「むー、なんかてきとー」

 

ジトっとした目を送ってみる。

 

「……俺にそんなの求められても困るんだよ……。……あれだ、似合ってると思うぞ」

 

「……ありがと、ヒッキー」

 

なんか言わせちゃったみたいな気もするけど、凄く嬉しいよ。

 

あー、照れてもう完全にそっぽ向いちゃった。かわいいなぁもう。

 

「じゃ、行こっか」

 

勇気を少しだけ出して、腕にしがみついてみる。

 

「おあっ……ちょっ、離れてくれ……」

 

「えー、寒いし」

 

「それでも無理だ……俺には厳しい……」

 

ちょっとやりすぎちゃったかな……。調子に乗りすぎはダメだ。ちゃんと自制しないとね、うん。

 

距離感は少しずつ、縮めていかないと。いきなりやり過ぎると、待っているのはたぶん、拒絶だから。

 

「じゃあ、これで……」

 

ヒッキーの袖のところをちょっとだけつまむ。

 

「それぐらいなら、まぁ……」

 

えへへ、これでも十分嬉しいんだよ、あたし。

 

今のヒッキーとあたしの距離は、このぐらいってこと、なのかな。

 

ヒッキーに聞いてみたいな……怖いから絶対に聞けないんだけど。

 

「じゃあどこ行こっか。ヒッキー行きたいとこある?」

 

「家かな」

 

「えー、それはスイーツバイキング行ってからにしようよ。ヒッキーのお家でいい?」

 

「ちょっ、ちげぇよ。ってか来るつもりなのかよ」

 

今の返しは我ながらなかなかよかった。ちょっと上手だったはず。

 

「ヒッキーが言ったんじゃん」

 

「だからそれは……はぁ、わかった、やり直す。なんかお前、俺のあしらい方うまくなってねぇか……」

 

「伊達に長い間付き合ってないってことだよ」

 

「……そうか、そうだな」

 

「そうだよ」

 

これだけいろんなこと一緒にやってきたんだから。

 

あたしはヒッキーの全部は知らないけど、ちょっとは知ってるよ。捻くれてるとことか、いろいろね。

 

ヒッキーもあたしのこと、同じぐらいは知ってくれてるはず、だよね。

 

「……じゃあ、ちょっと買い物付き合ってくれるか」

 

「珍しいね。何買うの?」

 

「何ってのは決まってないんだが……こないだ雪ノ下に部屋で使えるようなのあげたろ、お前。そんな感じのを小町に買ってやろうかと思ってな。受験も追い込みだから家にいる時間長いんだよ」

 

「おー、なるほどねー。ヒッキーちゃんとお兄ちゃんしてるんだねー」

 

「お兄ちゃんなんだから当たり前だろ。あとお前がお兄ちゃんとか言うな」

 

小町ちゃんにはほんと優しいなぁ。てゆーかこれはもう完全にシスコンだよね……。

 

小町ちゃんに彼氏できたらどうなるのかな……うわぁ。小町ちゃんがちょっとだけ不憫。

 

「じゃあパルコのほう行って雑貨とか見てみよっか、おにーちゃん」

 

「はぁ……。そうだな、行くか小町」

 

「ちょっ、あたし小町ちゃんじゃないし!」

 

「俺をお兄ちゃんと呼んでいいのは小町だけだ。ならお兄ちゃんと呼ぶお前は小町だ」

 

「わ、わかったよやめるよ……ヒッキー」

 

その理屈だとちょっとしたことで小町ちゃん大量発生するかもなんだけど、ヒッキーはそれでいいの?

 

「ん、行くぞ。由比ヶ浜

 

目的地が決まると、ヒッキーはあたしを引っ張るようにしてどんどん歩いていく。

 

あたしは袖をつまんだままおとなしくついていく。

 

引っ張られるのは全然嫌じゃなくて、むしろ心地好い。

 

ヒッキーは昔も告白とかしてたみたいだし、あたしなんかよりよっぽど勇気も決断力もあるんだろうな。

 

やるときはちゃんと決断するヒッキーだけど、あたしと、ゆきのんとの距離を縮めることに関しては、様子をじっくり見ながら恐る恐る、という感じでしかやってない気がする。

 

いろんなイベントがあってわたわたしてたからってのもあるんだけどさ。

 

もしかすると、あたしと同じなのかな。

 

ヒッキーのことを想っても、ゆきのんのことを、奉仕部のことを考えると、その一歩を踏み出すのに躊躇ってしまう。

 

今を失うことが何よりも怖いから。

 

じゃあヒッキーは。

 

何かを失いたくないから?

 

そうだとしたら、何を?

 

ゆきのんか、あたしか、奉仕部だ。

 

全部、だといいな。

 

あたしだけ、なんてことは言わないからさ。

 

ヒッキーの失いたくないものの中に、あたしも入れてよ。

 

それだけでも、いいから。

 

こうやって袖をつまんで黙ってついていくから、あたしを置いていかないで。

 

「……どうかしたか?」

 

どのくらいの間かわからないけど、黙ったままついていくあたしを疑問に思ったのか、ヒッキーはあたしに怪訝な目を向ける。

 

感傷に浸っていた頭を切り替える。

 

「あー、いや、なんでもないよ。ついていくのに精一杯で……」

 

「……気付かなかった、悪い」

 

「いやほんと、大丈夫だから。あたしがトロいだけだし」

 

「そうか」

 

それからヒッキーの歩くペースはちょっとだけ落ちて、あたしと同じぐらいの速度になった。

 

ヒッキーがあたしに向けてくれる優しさに触れた気がして、胸がいっぱいになる。

 

きっとあたしにだけじゃないんだろうけど、今はそんなこと気にしないで楽しまなきゃね。

 

あたしからお願いした、折角のヒッキーとのデートなんだから。

84 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/14(木) 23:38:05.67

それから二人でいろんな雑貨屋や小物を売っている店を回った。

 

ヒッキーはさんざん悩んでいたけど、最終的には身体にまとうことも出来るような大きさの膝掛けを買っていた。

 

買った後にも小町ちゃんと受かるかなって心配そうにしてたから、心配なのはわかるけど小町ちゃんはちゃんと出来る子だよ!それにあたしだって総武高受かったんだし!

 

って伝えるとじゃあ落ちるわけねぇな、とか超納得してた。

 

あたしは超納得できなかったので背中を指で突っつきまくっといた。

 

ついでって言ったらよくないんだけど、あたしも小町ちゃんにはお世話になってるし、総武高受かって欲しいからプレゼントを買っておいた。

 

他にもあたしの服を見て回ったり、高いところから景色を眺めたり。

 

ヒッキーはいつもみたいに渋々って感じだったけど、ほんとにデートしてるみたいだった。

 

これ、デートでいいんだよね?付き合ってないとデートって言わないのかな?

 

まぁ、あたしは嬉しいし楽しいし、それはどっちでもいっか。

 

☆☆☆

 

スイーツの祭典、スイーツパラダイス。通称スイパラ。

 

様々なスイーツだけじゃなくて、パスタやサラダなんかもあるまさに女子のパラダイス。

 

あたしは俄然テンションが上がってきたんだけど、隣に立つヒッキーは店に入る前、並んでるうちからげんなりしていた。

 

「なぁ……やっぱすげぇ入り辛いんだけど……帰っていい?」

 

えー、ここでそれ言うの!?

 

まあそれがヒッキーだよね……こういうところも含めてさ。

 

「だ、ダメだよ!せっかくここまで来たのに!」

 

「だって女同士とカップルしかいねぇじゃん……」

 

「でも、回りから見たらさ、きっとあたしたちも、カップルに……見えると思うよ?だから、みんなあたしたちのことなんて気にしないよ」

 

「そ、そうか……」

 

二人とも顔を赤くして顔を背ける。

 

あはは……これじゃほんとに初々しいカップルみたい。

 

でもあたしとヒッキーの距離はそこまで近くは、ない。錯覚しないようにしないと。……寂しいけど。

 

そのまま二人でお店に入り、先に会計を済ませる。

 

80分食べ放題。よーし食べるぞー!

席に案内されてから、並んでいる料理と色とりどりのスイーツを見ると夢が広がるような気分になる。

 

ヒッキーもその光景を見ているとようやく元気になってきたみたいだ。

 

「おー、すげぇいろいろあんのな。オラちょっとワクワクしてきたぞ」

 

「誰の真似、それ……」

 

「お前悟空も知らねぇのかよ……」

 

「知らないよ、そんなのー。ねね、ヒッキー何から食べる?」

 

「そうだな、まずは……由比ヶ浜、お前飲み物何にする?」

 

「え?んー、お茶でいいかなぁ」

 

「わかった、行ってくる」

 

……なんでこういうことスッとできるのに、外に出たがらないかなぁ……。

 

今の行動とかも、女の子の喜ぶポイントをわかってやってるとしか思えないよ……。

 

ヒッキーが戻ってくるまで、待つ時間。

 

こんなことですら幸せを感じる。

 

ヤバいヤバい……このままじゃ言っちゃダメなことまで言っちゃいそうだ。

 

元気方向にテンションを変えて誤魔化そう……。

 

「なんだ、別に待たずに先に料理取ってくりゃよかったのに」

 

「いいじゃん、一緒に取りにいこーよ。なーににしよっかなー。女子としては……サラダかな!知ってるヒッキー?野菜から先に食べると太りにくいんだよ!」

 

「テンションたけぇなお前……まあ、俺も気持ちはわからんでもない」

 

ヒッキーもこんな場所なのに、十分いつもよりテンション高いよって思ったけど言わずにおいた。

 

それから二人でいろんなものを食べて、いよいよスウィーッツを物色する時が来た。

 

「おぉー……素晴らしき夢の世界……」

 

「大袈裟だな……でもほんといろいろあんな。何にするかな……」

 

「ほらほらヒッキー、いろいろあるよ。チョコケーキにベイクドチョコにチョコスフレ」

 

「チョコばっかじゃねぇか……他のも選ばせろ」

 

「えー、じゃあ今の3つだとどれがいい?」

 

「……ちょっと考えるから先戻ってろ」

 

そう言いながら悩むヒッキーを残して、あたしはお皿いっぱいにいろんな種類のケーキを乗せてから戻ることにした。

 

ヒッキー何選ぶのかなー、と思ってたらすぐに帰ってきた。

 

お皿には可愛くちょこんと二種類のケーキが乗っていた。

 

「……そんだけ?」

 

「いや、いろいろ目移りしてな……決めきれないから基本の2つを食べてから考えることにした」

 

「なんか可愛い盛り付けだね」

 

「うっせ。お前は欲張りすぎだろ。まあ食おうぜ」

 

ヒッキーのお皿に乗っていたのは白いショートケーキと黒いチョコレートケーキ。

 

確かに基本的っぽくて、対照的だ。

 

ヒッキーのやったことに、言ってること以上の意味はほんとにないんだろうけど。

 

その二種類のケーキに、ゆきのんとあたしを重ねてしまった。

 

なんとなく、ショートケーキがゆきのんかなって思った。

 

肌も白くて、純粋で、あたしから見ても美しくて、触れると壊れるくらいに脆そうで。

 

じゃあチョコレートケーキがあたしかな。

 

あたしの胸の中にあるいろんな醜い感情を混ぜて、煮詰めたような黒。甘いんだけど、ちょっぴりほろ苦い。

 

「あんまりじっと見られると食べにくいんだが……」

 

「あ、あー、なんでもないなんでもない、ごめん」

 

慌てて手を振って否定する。

 

睨んでるみたいになってたのかな、チラッと見るだけにしとこっと。

 

自分のお皿の大量のケーキをつつきながらヒッキーの動きをチラチラ見る。

 

ヒッキーが最初に食べたのは、選んだのは、ショートケーキだった。

 

「おお、旨いなこれ」

 

「…………」

 

「どうかしたか?」

 

「……いや、ううん。おいそうだからあたしも次それ食べようかなーって」

 

たぶん、全然そんな意味なんかなくて、ただの気のせいなんだけど。

 

あたしの心の奥にある不安が少し大きくなったのがわかった。

 

☆☆☆

 

その後もゲームセンターに行ったり、本屋に行ったり、いろいろ寄り道してから、帰ろうと駅に歩き始めた時には日が沈み始める時間になっていた。

 

いろいろな店を適当に歩き回ってたら、繁華街とはちょっとはずれた場所まで来てしまった。

 

あたしには千葉駅がどっちかもわかんないけど、ヒッキーはなんとなくわかるらしい。

 

なんでわかるの?って聞いたら俺ぐらいの千葉好きになると匂いでわかる、とかわけわかんないこと言ってた。

 

あーあ、もう終わっちゃうのかー。楽しいと時間立つの早いなぁ。

 

夕焼けに染まった橙色の景色を二人並んで歩いていると、生徒会選挙に立候補する意思を伝えた時のことが頭に浮かぶ。

 

三人で対立、みたいになっちゃったけど、今ではそれも大切な思い出。

 

「なぁ」

 

「んー?」

 

「ちゃんと言ってなかったから……今言っとく」

 

え?何?なんなの?

 

「生徒会選挙の時、お前も立候補しようとしてたろ」

 

「え?う、うん……」

 

あたしが思い浮かべてたことと同じでちょっとだけ驚く。

 

「あれ、奉仕部を守ろうとしてたんだよな。ありがとな」

 

こんなに素直にヒッキーからお礼を言われたのは始めてかも。

 

「あ、いや、結局あたしはなんもできなくて……ヒッキーに、また助けられちゃったなとしか……」

 

「まぁ、それでも、だ」

 

「う、うん……じゃあ、どういたしまして……」

 

「もう言わねぇからな」

 

またそっぽ向いちゃった。この……捻デレさんめ。

 

「あ、あの時も言ったけどさ、あたし、好きだから……だから……がんばらなきゃって思ったの……」

 

「……奉仕部が?」

 

「うん……」

 

ゆきのんも、ヒッキーも、だよ。

 

「でも、それだけじゃなくて……」

 

そこから先は言っちゃダメだってば。

 

「ゆきのんも……」

 

言っちゃダメ。

 

いくらバレバレでも、思ってるだけなら。

 

拒絶はされないから、口に出しちゃ、ダメなのに。

 

「ヒッキーも、だよ」

 

言ってしまった。

 

いや、いつか言おうとはしてたんだけど。

 

でもこんなタイミングは違くて……こんなに急に距離を縮めようとしたら、待っているのは───。

 

「……そうか」

 

ほらヒッキーも困っちゃってるじゃん。

 

なんか言わないと。なんか……。

 

「あ、いや、ただ伝えたくなっただけでね、何かしてもらおうとか思ってないからほんと。返事、とか、別にいいから……」

 

こんなのヒッキーを困らせるだけじゃん、何言ってんのあたし。

 

それに返事なんか聞きたくない、だって自分でもわかってるもん。

 

返事なんかしないで、お願い、ヒッキー。

 

「……すまん」

 

なんで謝ってるの。返事なんかいいって言ったじゃん。

 

やめてよ、そんな辛そうな顔しないでよ。

 

ヒッキーのそんな顔、見たくないよ。

 

「だ、だよねー。うん、わかってたよ。だから、伝えるだけでよかったのに……」

 

自分から言っておいて、なんで返事してくれたヒッキーを責めてるの。

最低だ、あたし。

 

「いや、あのな……」

 

やめて、その先は聞きたくない。

 

「い、いいのいいの。あたしはヒッキーのこと好きでもさ、ヒッキーには別に好きな人いるのわかってたし……」

 

なんでそんなに辛そうな顔するの。

 

全部わかってたんだから、あたしは。

 

「はい、もうこの話おしまいね!月曜からも、普通に奉仕部の友達で……いるから……」

 

泣いちゃダメだ。

 

ヒッキーは見たくないものを見てるみたいな目で、あたしを見つめる。

 

ほら、ヒッキーはあたしに求めているのはこんな顔じゃないって思ってる。

 

あたしは、バカみたいに、何も考えてないみたいに明るく笑って、奉仕部の空気を明るくするんだ。

 

また来週には、いつもみたいに笑って奉仕部に行くんだ。

 

ヒッキーが想ってくれてなかったとしても、近くにいたい。傍にいれるだけであたしは十分なんだから。

 

それでもいいって、思ってたんだから。

 

だから、あたしは泣いちゃダメだ。

 

「い、いやほんとね、あたし奉仕部が好きだし、あそこにいれれば十分っていうか、満足っていうか……」

 

しゃべればしゃべるほどヒッキーの顔は悲しそうに歪んでいく。

 

「ちゃんと、今まで通りやるから……」

 

ヒッキーは返す言葉に迷ってるみたいだった。

 

辛そうに、絞り出すように声を出す。

 

「……そうか、来てくれるか……助かる。俺と雪ノ下の二人じゃちょっとな……」

 

俺と雪ノ下の二人だと間が持たないから、由比ヶ浜が間にいて欲しい。

 

俺と雪ノ下のために奉仕部にちゃんと来てくれ。

 

ヒッキーが言ったことの本当の意味は違うのかもしれないけど、あたしにはそう聞こえた。聞こえてしまった。

 

そこからはもう、自分の感情も、声も、涙も、全てが止まらなくなった。

 

「バカにしないでよ……」

 

自分でも驚くぐらい低く暗い声で呟く。

 

こんなこと言いたくないのに。

 

「あたしをバカにしないでよっ!」

 

由比ヶ浜……」

 

ヒッキーは驚いて呆然としてる。

 

「あたしが奉仕部に行くのは、ゆきのんとヒッキーのためなんかじゃない!

あたしがゆきのんと、ヒッキーといたいから勝手にやってることなの!

自分達のために来て欲しいとか……そんなのって……ないよ……」

 

「由比ヶ……」

 

ヒッキーが苦々しそうに何かを喋ろうとするのを遮る。

 

「もういいよ!そんなことのために、あたしはそんな奉仕部なんかっ……」

 

───とっても優しくて暖かい、大切な場所。

 

「あたしはもう、ゆきのんも、ヒッキーも、みんな……」

 

───大好き。

 

さっきから心と体がバラバラで、言いたくないことまで言葉になってるのに。

 

その一言は、あたしの全部を探してもどこにもないみたいに、言葉にはならなかった。

 

悔しくて、悲しくて、切なくて。

 

ヒッキーの寂しそうな顔を見てたら、だんだんあたしの視界も歪んできた。

 

あたしが泣いたってヒッキーは近づいてくれない。

 

でも、いくら考えたって、溢れてくる涙は止まってくれなくなった。

 

「うっ……うぐっ……ひぐっ……」

 

我慢しようとしてるのに変な声が漏れる。止まらない。

 

あたしは、こんなことすらできない。

 

すごく簡単なことなのに。いつもやってることなのに。

 

ヒッキーごめん。

 

あたしはやっぱり何もできないや。

 

あたしはヒッキーの助けになりたいって思ってるのに。

 

だったら、自分がどう思われてるかなんて気にしないで、奉仕部にちゃんと行くべきなのに。

 

そんなことすらできそうにない。

 

ヒッキーのために出来ることなんか何もない。

 

いつだってそうだ。

 

あたしも何かやらなきゃと思って、自分で考えて動いたら空回りしかしない。

 

なんで、なんで、あたしはいつもこうなの。

 

今だってヒッキーは何も言ってくれない。呆れられてるんだ。

 

もうやだ。もうやだよ……。

 

もうヒッキーの顔もちゃんと見れない。

 

今、唯一あたしができること。

 

それは今すぐヒッキーの前から消えること。

 

何も言わずに振り返って走る。

 

どこへ走っているのかはわからない。

 

けど、どこだっていいよそんなの。

 

ヒッキーの前から消えれるんならどこだって。

 

息が苦しい。呼吸がちゃんとできてるのかもよくわからない。

 

すれ違う人もあたしの顔を見てる。みっともない顔してるんだろうな、あたし。

 

気がついたら薄暗くなり始めた、誰もいない公園に辿り着いていた。

 

「……はぁっ……はぁっ……」

 

息ももう続きそうにない。

 

ちょうどいいや、休んでいこうかな……。ちょっと疲れちゃった……。

 

風に揺れてきいきいと錆び付いた音を立てるブランコに座る。

 

もう前を向くのも嫌だ。

 

走ってる間に涙は乾いてたけど、ふと気を抜くとまた溢れてきそうになる。

 

息が苦しくて頭がちゃんと働いてないのか、ちょっとずつ冷静になれてきた気がする。

 

あたし、ヒッキーに酷いこと言っちゃったな。

 

聞かれてはいないけど、ゆきのんにも。

 

あたしはもう、奉仕部には行けないかな……。

 

ヒッキーとも、ゆきのんとも、もう……。

 

あたし、何もなくなっちゃった。なんにもない。

 

それとも、最初から何も持ってなんかなかったのかな。

 

もう、よくわかんないや……。

 

俯いたまま地面と足を眺めていると、隣のブランコが揺れて音を立てた。

 

驚いて顔を上げてそちらを見る。

 

あたしの理想の幻想に、ブランコに所在なさげに座る彼の姿が見えたけど。

 

それは一瞬で消えてなくなった。

 

風で動いただけのブランコは誰もいないのに揺れて、なおも無機質な音を立てる。

 

携帯を取り出す。メールも着信もない。

 

何を期待してるんだろう、あたしは……。

 

なんとなく画像フォルダを開くと、嫌そうにするゆきのんの腕を掴んで、戸惑うヒッキーのマフラーを引っ張っているあたしの、三人の画像が目についた。

 

大粒の涙が落ちて画像を歪ませていく。

ようやく頭で理解ができてきた。

 

錯覚から始まったあたしの初恋は今、終わったんだ。

 

初恋は実らない、ってよく言うよね。

やっぱりあたしもそうなんだ。

 

でも、こんなに苦しいとは思わなかったな……。

 

抑えようとしているはずなのに出てくるうめき声のような嗚咽は、薄暗い公園にだけ響いて、誰にも聞かれることなく、すぐに消えていった。

 

近くの道を歩く家族連れの声が聞こえる。

 

とても和やかで楽しそうに、家路についているようだ。

 

流れる涙は止まってくれたけど、胸にある喪失感は消えてくれない。

 

もう動きたくないな……けどもう帰らないと……。

 

俯きっぱなしだった顔を仕方なく上に向けると、正面に人の足が見えた。

 

誰……?

 

ゆっくり目を上げると、息を切らしているヒッキーがいた。

 

コートもマフラーも脇へ抱え、汗だくになっている。

 

なんでここに来たの……?

 

「はぁっ……悪い……はぁっ……遅くなった……」

 

何を言ってるの……?来てほしいなんて思ってないのに。

 

「何か用……?」

 

「ああ……話がある……はぁっ……ちょっと待っててくれ……」

 

動く気にもなれないあたしを置いて、ヒッキーは疲労の残る足取りで公園近くの自動販売機へ向かった。

 

二人分の飲み物を買ってゆっくり戻ってくると、あたしにコーヒーを差し出す。

 

黙ったまま受け取ると、ヒッキーは隣のブランコに座ってペットボトルの水をあおる。

 

はぁっと一際大きな息を吐くと、ようやく途切れ途切れの呼吸が落ち着いてきたみたいだ。

 

あたしは一言も発しない。

 

あたしから話すことはもう、何もない。

 

さっきあんな酷いことを言っちゃったのに、話すことなんかないよ……。

 

息を整えたヒッキーがぽつりぽつりと話し始める。

 

「遅くなって悪かった……。すぐ追い掛ければよかったんだが、すぐに足が動かなくて見失っちまった……」

 

「別に……そんなこと頼んでないし」

 

こんなことしか言葉にできない。感じ悪いな、あたし。

 

「なぁ、聞いてくれ由比ヶ浜。俺はもう、ちゃんと全部話すから……」

 

「もう聞きたくないんだけど、あたしは……」

 

由比ヶ浜、お願いだ。ちゃんと最後まで聞いてくれ」

 

「……何?」

 

「俺はもう前みたいに、話してないのに伝わってる気になったり、言われてもないのにわかった気にもならないつもりだ」

 

「……?」

 

ヒッキーの話に頭がついていけない。

「思ってること全部、きちんと話すから……俺はもう、すれ違いで何かを失うとか嫌なんだ……」

 

「…………じゃあ、ちゃんと聞く……」

 

それからヒッキーは、あたしにたくさんの話をした。

 

あたしのこと、ゆきのんのこと、奉仕部のこと。

 

結局一番伝えたかったのは、あたしのことも含めて、もう何も失いたくないってことだったみたい。

 

都合のいい話だと思ってたけど……ヒッキーは、まだちゃんとした答えは出せてないけど、あたしのことを好きかもしれない、と言ってくれた。

 

すごく驚いた。てっきり振られたと思ってたから。

 

ゆきのんには確かに憧れていて、近付きたいとは思ってるけど、これが好きなのか自分でもよくわからないし、少なくとも今はゆきのんと付き合うとかは考えられないって。

 

それと、今のゆきのんは何か変だ、とも。

 

何かはわからないけど、ゆきのんちゃんと話す必要がある。俺だけじゃ出来ないことも多いから、助けてくれって言われた。

 

それが終わったら、ちゃんと誘うから、言うからって。

 

あたしもゆきのんとちゃんと話さないといけないことがある。

 

ゆきのんからしたら意味がわからないかもしれないけど……ちゃんと謝って、伝えなきゃ。

 

いろいろ話を続けるうちに、あたしが振られたと思ったのも、ヒッキーがゆきのんしか見てないってことも、全部あたしの早とちりで勘違いだって教えてくれた。

 

結局これからどうなるかはわかんないってことでもあるわけで、ちょっと言いくるめられてるのかな、って気もしたけど……全部大好きだった気持ちが、そんなにすぐ変わるはずもなくて……。

 

「……あたしの初恋はさ、さっき終わったと思ってたの」

 

「……そうか。悪かった……でも……」

 

「……?」

 

「前に雪ノ下に言われたろ。また始めることだってできるって」

 

「……また、好きになってくれってこと?」

 

「そんなの俺が言えることじゃねぇだろ……」

 

……やっぱりダメだな、あたしは。

 

こんなヒッキーから、離れられる気がしない。

 

こういうのを惚れた弱味って言うのかなぁ。

 

初恋は実らないってよく言うよね。

 

だったら、さっき終わったと思った初恋はここに置いていこうかな。

 

それで、新しい恋を始めることにしようかな。

 

また、同じ人に。

 

「……ちょっとだけ、元気出た。けど疲れちゃった……」

 

「あー、お前、これから時間あるか?」

 

「……んー……何もないなら帰るつもりだったけど……」

 

「……ちょっと待ってろ」

 

そう言ってヒッキーは声の届かない場所まで離れていった。

 

どこかへ電話しているみたいだ。

 

あ、戻ってきた、なんだろ?

 

「……これから、うち、来るか。親は仕事でいねぇみたいだし」

 

「え、えー!?誰もいないヒッキーの家とか、無理無理ムリっ!」

 

そんな、いきなり、急展開すぎるよ!

 

心の準備とかそれどころじゃ……。

 

「ち、ちげぇよ……小町いるっつーの……」

 

「あ、そか……そうだよね……」

 

超勘違いしちゃった……恥ずかしい……。

 

「あれだ、勘違いさせたお詫びだ……晩飯何か作る。小町に渡すもんもあるだろ、直接渡せ」

 

「あ、な、なるほどー……。そか、そう、だね……」

 

「で、来るのか?」

 

「……あ、うん、お邪魔、しようかな……」

 

うー……いろんなことが急にありすぎて、やっぱりちゃんと考えられてない気がするけど……。

 

「うし、じゃ帰るか」

 

「わかった……」

 

「で、ここどこなんだよ……」

 

「さあ……あたしに聞かないでよ……」

 

「お前がここに来たんだろが……」

 

それから、晩飯何食いたい?とか、道わかんねぇなとか話しながら、千葉駅を探して歩いた。

 

あたしに気を使ってくれているのか、珍しくヒッキーの方から話しかけてくれる。

 

こういうのって、ヒッキーの言う本物とは違うのかな。

 

あたしにはよくわかんないな、やっぱり。

 

だってヒッキーは今、あたしを繋ぎ止めようとしてくれてる。

 

これは本物なんじゃないのかな。

 

考えているうちにふと、聞きたいことがもう一つあったことを思い出した。

 

「……ね、ヒッキー」

 

「あん?」

 

「チョコレートケーキとショートケーキ、だったらさ。どっちがあたしでどっちがゆきのんっぽい?」

 

「なんだその質問……意味がよくわからん……」

 

「いいから。印象で答えてよ」

 

「うっ……そんな睨むなよ……。そうだな、んー……」

 

あたしの感じてることと、ヒッキーの感じてることは全然違うのかもしれない。

 

だから、どんな印象なのか聞いておこうと思った。

 

「ショートケーキのショートって壊れやすいとか脆い、って意味あんだろ確か。……じゃあ、二人ともショートケーキだな」

 

「え……」

 

「何その反応……俺なんかまずいこと言いましたかね……」

 

「いや、え、あー?うーん、ゆきのんはともかく、なんでそれであたしがショートケーキになるの?そりゃ泣き虫だけどさ……脆そうかな……?」

 

予想外の答えが返ってきた。こんなのほんとに考えてなかった。

 

「脆そうなのは確かに雪ノ下だけどな……。ショートケーキって純粋ってイメージあるだろ。そんならお前もかなと」

 

「……あたしの、どこが純粋なの?」

 

「お前自身がどう思ってるかは知らんが……俺は、お前の想いが一番純粋だと思ってるぞ」

 

「そう……なんだ……」

 

「俺とか雪ノ下は……理屈ばっかり先行して、全然人の気持ち考えなかったりするからな……」

 

それで失敗したことを思い出しているのか、ヒッキーは目を遠くに向ける。

 

「だから、俺と雪ノ下は、そんなお前に何度も救われてる」

 

そうなんだ……。

 

あたしも奉仕部にいて、ちょっとは二人の役に立ててたんだ……。

 

あたしは何もできてないってずっと思ってた。

 

でもヒッキーは救われてるって言ってくれた。

 

純粋に、心から、嬉しい。

 

あたしが二人のためにできること、ちゃんとあるんだ。

 

もう枯れて出てこないと思ってた涙がまた溢れだす。

 

「ちょっ、なんで泣くんだよ……」

 

「いや、これはさっきのと違くて……違うの。嬉しいやつだから……」

 

「……そうか」

 

それきり会話はなくなって、黙ったまま二人並んで歩く。

 

あたしは奉仕部にまだいていいみたいだ。

 

これからヒッキーが、ゆきのんが、あたしが。

 

どんな選択をして、どんな変化をするかはわからないけど。

 

あたしは、三人がバラバラにならないような関係を築いていこうと思う。

 

ヒッキーも、あたしも、確認してないけどゆきのんも、きっとそう願っているはずだから。

 

いつかのおみくじみたいに、誰かが大吉で誰かが凶とかじゃなくて。

 

合わせてみんなで小吉、みたいな結論だって、三人なら受け入れられるかもしれない。

 

いくら理想を願っても現実は変わっていって、変わらないのは過ぎ去った過去だけ。

 

それはわかってるから、こんな綺麗事はすぐにでも消えてなくなるかもしれないこともわかってる。

 

けど、もう少しだけその理想を追いかけてみようかなって思う。

 

結果はわからないけど、この過程だって、きっと本物、だよね、ヒッキー?

 

心の中で二度目の恋をした人に確認してみる。

 

当然返事はないけれど。

 

来週からも、いつものあたしで奉仕部に行けることを考えると、ヒッキーの家に向かうあたしの足取りは少しだけ軽くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

元スレ

http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1431383147/

八幡「それにしても変わらないなお前は…」雪乃「そういうあなたこそ…そちらは娘さんかしら?」【俺ガイルss/アニメss】

 

総武高校を卒業して二十数年… 

 

俺は高校時代の同級生だった川なんとかさんもとい川崎沙希と結婚した。 

 

それまでぼっちだった俺がたくさんの人から祝福を受けて盛大な結婚式を行った。 

 

さらに俺の女房となった沙希もしっかり者で面倒見もよく頼れる存在だ。 

 

そんな沙希と結婚して俺はこれからの結婚生活はしあわせなものだと信じていた。 

 

それなのに… 

 

 

「アンタ!いい加減起きなッ!」 

 

「ふぁぁ…たく…日曜の朝だぞ…もう少し寝かせろよ…」 

 

「何だらしないこと言ってんの。 暇なら子供とどっかに遊びに行ってよ。これから家の掃除するんだから邪魔だよ。」 

 

せっかくの休日だというのに二度寝することも 

 

日曜恒例のスーパーヒーロータイムの観賞も叶わず俺は子供を連れて家を追い出された。 

 

結婚後、沙希は変わった。 

 

家の切り盛りを第一に考えて喧しくなりそんな沙希を俺は疎ましく思うようになった。 

 

まあ結婚生活に夢見がちだったわけだよ。 

 

その昔、母ちゃんが注意する度に親父が口酸っぱく言ってたな。 

 

結婚すればどんな女だって変わってしまう。 

 

親父曰く昔は小町なみに愛らしい存在だった母ちゃんらしいが結婚後は… 

 

家事と仕事の二足わらじの多忙な毎日ですっかり変わってしまったそうだ。 

 

「パパー!早くお出かけしようよー!」 

 

そんなぼやく俺の手を愛らしい愛娘の八希が引っ張ってくれた。 

 

会社では社畜として働き詰め、家では小煩い女房に詰め寄られるストレスだらけの日々で 

 

今となってはこの子だけが唯一の生きがいだ。 

 

この子がいなくなればきっと俺はこの先、生きていくことなど出来やしないだろう。 

 

 

「へえ、それじゃあ八幡また追い出されたんだ。」 

 

「まあな。まったく情けない話だろ。そういう彩加のところはどうなんだよ?」 

 

「僕のところも同じかな。小町ちゃんも結婚してからしっかりしてきたんだけど…」 

 

出かけたはいいが特に行き先のない俺は 

 

唯一の友達でもある彩加を呼んでサイゼでダベッていた。 

 

え?友達なら材木座がいるだろって?別にあいつ友達じゃないし… 

 

ちなみに彩加は俺のMyスウィートエンジェル小町ちゃんと結婚して 

 

俺とは義理の兄弟という関係になった。 

 

つまり俺にとって彩加は義理の弟ってわけだ。 

 

こんな可愛らしい弟が出来たのは俺にとってまさに幸運。 

 

そういえば小町の結婚式で大志のアホが妙に泣き叫んでいたけど 

 

今となってはどうでもいい話だ。 

 

そんな彩加だがやはり俺と同じく小町によって家を追い出されたらしい。 

 

「そうか。彩加のとこも…まったく女って何で結婚すると変わるんだろうな…」 

 

「う~ん。やっぱりお母さんになったからじゃないかな。 女の人って結婚して子供が生まれると変わるっていうじゃない。だからじゃないかな。」 

 

「ほ~ん。そんなもんなのか。」 

 

まあ彩加の言うことにも一理あるな。 

 

沙希があんなに小言をぼやくようになったのは娘の八希が生まれてからだ。 

 

それまでは面倒見のいい姉キャラだった沙希が何故か神経質になりだした。 

 

思えばあの頃から沙希は変わり出していた。 

 

その変化を俺はどうすることも出来ず見ているしか出来なかった。 

 

「パパー!お待たせ!ジュース持ってきたよ!」 

 

そこへ娘の八希がドリンクバーで注いだジュースを持ってきた。 

 

よく見ると俺の分まである。さすがは俺の娘、出来た子だ。 

 

う~ん!やっぱりうちの子最高! 

 

 

「あら、こんな衆目の場で小さなお嬢さんに抱きつくなんて最低のロリコンね。通報しましょうか。」 

 

だがそんな俺に対してまるで凍えるような冷えた声で語りかける女性がいた。 

 

スラリとしたパンツルックのスーツにサラサラとした長い黒髪。 

 

それでいてこの端正な顔つきは…そんな…嘘だろ… 

 

「お前…雪ノ下か…」 

 

「まあ、どこかで見覚えのある男かと思ったら確か名前は…ヒキガエルくんだったかしら。」 

 

「ちげーよ。比企谷だ。つかお前わかっててやってるだろ。こっちは傷つくぞ。」 

 

「ごめんなさい。そうよね。あなたと比べたらヒキガエルが可哀想よね。」 

 

この…相変わらずの毒舌だな… 

 

目の前にいるこいつは雪ノ下雪乃。かつて俺が居た奉仕部の部長だった部活メイトだ。 

 

高校時代は憧れたこともあったが 

 

沙希と付き合うようになってからその憧れの感情は一切切り捨てたつもりだ。 

 

けど、雪ノ下だがまるで時間が止まったかのように高校当時のままだ。 

 

あれから二十年以上も経って俺たちみんな中年に差し掛かっているというのに 

 

こいつは制服でも来たらまだ女子高生だと言い張れるような端正な容姿だった。 

 

あ、もちろん彩加もだけど… 

 

「それにしても変わらないなお前は…」 

 

「そういうあなたこそ…そちらはあなたの娘さん…?」 

 

「娘の八希だ。ほら、挨拶するんだぞ。」 

 

「あの…初めまして…八希です…」 

 

「初めまして。雪ノ下雪乃よ。こちらこそよろしくね。」 

 

雪ノ下は娘の八希に視線を合わせるかのように丁寧に挨拶した。 

 

昔から俺や悪意を持った相手以外には意外と優しい面もある雪ノ下だが… 

 

それにしても本当にこいつは当時のままだ。 

 

時が経つにつれて誰もが変わりゆく中で 

 

いつまでも変わらずにいてくれた雪ノ下のことがどういうわけか嬉しく思えてしまった。 

 

 

「―――それで隣の奥さんが…」 

 

「―――子供のお受験をどうするか聞いてきてね…」 

 

「―――うちも八希のためにそろそろ考えるべきじゃないのかなって…」 

 

夕方、俺は彩加やそれに久しぶりに再会した雪ノ下とサイゼでダベッた後 

 

そのまま娘と共に帰宅したがどういうわけか心が上の空だった。 

 

沙希が何か話してくるがそんなのはちっとも頭に入ってこない。 

 

今は雪ノ下のことで頭がいっぱいだ。あいつは昔のままだった。 

 

雪ノ下か。今はどうしてるんだろ?仕事は何してるんだろ?結婚はしてるんかな? 

 

いや、苗字はそのままだったから恐らく独身のままか。 

 

あの美貌で独身とか勿体ない話だよな。それとも恋人でも… 

 

「本当に高校の頃のままだったよな。」 

 

思わず口に出してしまったがそういえばと思った俺はふと沙希の顔に目を向けた。 

 

自分で言うのもなんだが出会った当初の沙希は雪ノ下に負けず劣らずの容姿の持ち主だ。 

 

けどここ数年で変化…いや…悪く言えば劣化の兆しが見えてきた。 

 

子供が生まれてグラマーだった体型が崩れ落ちてきた。 

 

かつてはあの由比ヶ浜並みの巨乳も垂れてきたし目元なんて小じわが目立つよな。 

 

まあこれが今の俺たち世代の平均的な容姿だ。 

 

それと比べたらあの頃の容姿を保っている雪ノ下はマジで半端ないわけだ。 

 

「ちょっとアンタ!聞いてんの!?」 

 

「うわ!え?なんか言ったか?」 

 

「だから八希のお受験についてだから。うちも私立の中学校に入れるかって話だよ。」 

 

「いやいや、中学校の受験なんてうちには関係ないだろ。」 

 

「何言ってんの!今のうちから受験させないと将来いい学校や会社には入れないんだよ!」 

 

ああ…またこの話か… 

 

沙希の頭の中は俺と同じく娘の八希のことばかりだ。 

 

けどそれは俺みたく単純に愛でるってわけじゃない。 

 

この通り世間にありがちな教育ママと成り果てた。 

 

数年前なんて有名私立幼稚園のお受験をさせようとしたくらいだ。 

 

あの時はさすがに俺もやりすぎだと言って聞き入れてくれたが今回はガチだ。 

 

俺としては学校なんて公立でも構わない。 

 

八希がのびのびと健やかに過ごしてくれたらそれでいいと思っている。 

 

それなのに俺たち夫婦の思いはすれ違ったまま… 

 

沙希はどうあってもお受験をさせるつもりだろうし俺は反対だ。 

 

「アンタもこれからはもっとしっかり稼いでよね。そうじゃないとこの子を大学まで送り出せないんだから。」 

 

へいへい、わかりましたよ。 

 

せっかくの休日だというのにまた社畜としてこき使われる毎日の始まりだ。 

 

そりゃ愛娘のためならしっかりと働くよ。 

 

けどそれが本当に八希の望みなのかといえば… 

 

「…」 

 

八希も今の話を聞いてげんなりとしていた。 

 

ガキのうちからやれお受験だの就職だの言い聞かされたらそりゃ溜まったもんじゃない。 

 

けど俺は… 

 

今の沙希にどうこう言うことも出来ずにもどかしい思いを募らせるしかなかった。 

 

 

「まさかこんなにまた早く会うことになるなんて思わなかったわ。」 

 

「まあな、急な誘いで悪かった。」 

 

「本当に急なのだけど。けど誘ってくれて嬉しいわ。」 

 

「なんだよ?まさか俺に会うのが嬉しいとでも言う気か。」 

 

「そんなわけないでしょ。可愛い八希ちゃんと会えるのが嬉しいのよ。」 

 

翌週の日曜日。 

 

またもや家を追い出された俺は娘を連れて雪ノ下とサイゼで待ち合わせをしていた。 

 

まさかこんなにも早く雪ノ下とまた再会するとは思わなかった。 

 

つか何で俺こんなに嬉しそうにしてんだよ。別にこんな… 

 

「可愛いなんて…雪乃さんお世辞がうまいんだから…」 

 

「そんなことないわ。あなたお母さんに似ているのだから将来美人さんになるわよ。 それにしても川崎さんが羨ましいわ。 こんな可愛い娘がいるんだもの。私もそろそろ子供が欲しいと思ってしまうわね。」 

 

「思ってしまうわねって…お前相手の男がいるのか…?」 

 

「………いないわよ。昔はいたかもしれないけど…今は…」 

 

俺の問い掛けに雪ノ下は過去を懐かしむような切ない顔でそう呟いた。 

 

その意味を……俺は知っている。 

 

 

そう、あれは高校時代。俺は雪ノ下雪乃から告白されたことがあった。 

 

『比企谷くんあなたのことが好きです。付き合ってください。』 

 

その言葉を聞いた時は心底驚かされた。 

 

まさか非モテぼっちの俺があの氷の女王さまから逆告白されるなんて… 

 

けど俺はその告白を受けることが出来なかった。 

 

何故ならその当時、俺は既に沙希と付き合っていたからだ。 

 

だから俺は雪ノ下とは付き合えないと返事した。 

 

それ以来、俺たちの仲は気まずくなり高校を卒業するとそれっきり連絡が途絶えたまま。 

 

その後は沙希と結婚してこうして娘の八希も生まれた。 

 

確かに人並みの幸せは得られたのかもしれない。けれどこうも思う。 

 

もしもあの時、雪ノ下の告白を受け入れていたらどんな未来が待っていたのだろうか。 

 

ひょっとしたら俺は選択肢を誤ったのではないかと… 

 

 

「さあ、せっかくの休日だもの。何処かへ行きましょうか。」 

 

「何処かって…このままサイゼでいいだろ。ぶっちゃけ面倒だし。」 

 

「あなたはそれでいいかもしれないけど八希ちゃんはそうはいかないでしょ。 ねえ八希ちゃん。これからディスティニーランドへ行きましょう。 ちょうどチケットがあるの。あなたも行きたいでしょ。」 

 

「うん!ディスティニーランドなんて久しぶり!」 

 

雪ノ下は前もって準備しておいたチケットで俺たちと一緒にランドへ向かった。 

 

八希もここ最近近場しか行けなかった鬱憤が溜まっていたのかランドへ着くなりはしゃぎまくりだ。 

 

 

「雪乃さん!早くマウンテンに行こうよ!」 

 

「慌てないで。ちゃんと乗れるから急かさないの。」 

 

雪ノ下はしゃぐ八希の手を握って優しく微笑みながらそう言ってくれた。 

 

こんな顔をする雪ノ下を見るのは久しぶりだ。 

 

高校時代、雪ノ下は氷の女王として告白してくる男どもを片っ端から毒舌でなぎ払ってきた。 

 

そんな雪ノ下が唯一心休まるのは 

 

奉仕部の部室で俺や由比ヶ浜といった一部の心許せる相手とのひと時だけだった。 

 

そうだ。これはまるで奉仕部にいた時と同じ心地いいひと時なんだ。 

 

もう一度あの時間を過ごせるなんて俺は夢にも思わなかった。 

 

 

「雪乃さん!ありがと!とっても楽しかったよ!」 

 

「こちらこそよ。また一緒に遊びましょう。」 

 

こうして俺たち三人はディスティニーランドで一日を過ごした。 

 

八希はとても満足した表情で雪ノ下にお礼を告げた。 

 

そんな八希に雪ノ下もまた満面の笑みで応えてくれた。 

 

傍から見たら俺たちは仲のいい家族だと思われるだろう。 

 

「あ~あ、雪乃さんがママだったらいいのになぁ…」 

 

「そんなこと言ってはダメよ。 沙希さんだってあなたのことを悪気があってやっているわけじゃないの。 そこはわかってあげなければダメよ。」 

 

「うん…けど…やっぱりこういう時間をもっと過ごしたいよ…」 

 

「そうね。まだあなたにはこういう時間が必要よね。 わかったわ。今度の休日もまた一緒に遊びましょう。約束よ。」 

 

「わあ!ありがとう!」 

 

こうして雪ノ下は八希のために休日は俺たち二人に費やしてくれるようになった。 

 

俺も悪いと思いながらもつい雪ノ下の言葉に甘えてしまい 

 

気が付けばまるで本当の親子みたいなまでに三人で休日を満喫するようになった。 

 

 

そしてまたもや近所の公園を三人で散歩しながら満喫していた時だ。 

 

「はいお弁当。召し上がれ。」 

 

「なんかスマンな。こんなことまでしてくれてさ。」 

 

「別に大した手間ではないわ。それよりも沙希さんは何も言ってこないの?」 

 

「さあな。今の沙希は娘の進学について頭がいっぱいなんだろうよ。」 

 

「そう、けど気持ちはわかるわ。 奉仕部にいた頃、弟の大志くんが私たちに依頼した時のことを覚えている? 彼女も昔は進学について悩んでいたことがあったものね。」 

 

「そういやあいつ未成年なのにホテルのバーテンで仕事してたっけ。 

まあ俺たちも未成年のくせして店に押し入って説教して無茶したな。 

下手したら全員で停学処分を喰らってたかもしれんというのに… 

本当に若さって恐いな。」 

 

「フフ、そうよね。今じゃとてもじゃないけど真似できないものね。」 

 

公園の遊具で楽しく遊ぶ八希を見守りつつ 

 

俺は雪ノ下の作ってくれた手作り弁当を食べながら過去を振り返っていた。 

 

やはり思い出を共有できる人間との会話は弾むな。 

 

ぼっちだと決め込んでいた十代の頃には考えもしなかった。 

 

けど家に帰れば不機嫌な沙希が待っている。 

 

またあそこに帰らなければならないのか… 

 

ここ最近、家に帰るのが億劫になってきた。 

 

雪ノ下との再会を経てから俺の心境に変化が生じていた。 

 

この三人の穏やかなひと時がいつまでも続けばいい。 

 

それなのに現実はそれを許してはくれない。 

 

つかこれは浮気とはそんな不純なものじゃない。 

 

娘の目の前で不純な行為をやっちゃいけないくらいの分別は付いているからね。 

 

「ところで比企谷くん。聞きたいことがあるのだけど…」 

 

そんな物思いに耽る俺に対して雪ノ下は何やらあることを尋ねようとした。 

 

頬を赤く染めてまるで初心な少女のようだ。 

 

そんな雪ノ下を初々しく思うが同時に俺はその姿を見てあることを思い出した。 

 

忘れもしない高校時代。雪ノ下が俺に逆告白をした時と同じ雰囲気だ。 

 

「もしもだけど…高校時代…私の告白を受け入れてくれていたらどうだったのかしら。」 

 

「…わからん。けど…今とは違った未来にはなっていたかもしれんな。」 

 

「そうね。あなたの奥さんがもしかしたら私だったなんて未来かもしれないわね。」 

 

「お前が奥さんか。きっといい母親になれたかもしれねえな。」 

 

たらればの話しか。昔は嫌いだった。ifの話など無意味だと一蹴していただろう。 

 

けれど大人になった今はそうでもない。 

 

最近ではいつも考えてしまう。 

 

もしもあの時、あの選択を取っていれば今とちがった未来があったのではないのかと… 

 

それはひょっとしたらしあわせで充実した毎日だったのではないか。 

 

人生の選択肢を誤ったが故にこのような未来に陥ってしまったのではないか。 

 

学生の頃からネガティブ思考だが最近ではそれが更に酷くなってきた。 

 

「今とはちがった未来もいいわね。私も子供が欲しいもの。」 

 

「子供ねえ。一応聞くがどんな子が欲しいんだ?」 

 

「そうね、男の子がいいわ。うちは姉さんと私の姉妹だったから…」 

 

「男の子か。お前似の男の子なんてイケメンで女子にモテるだろうな。」 

 

「あら?あなた似の子でもいいのよ。 あなたのように弄れないよう私がしっかりと育ててみせるから。」 

 

俺に似た子か。そんなのが生まれたら将来かなり苦労しそうだな。 

 

まあ子供は可愛い八希がいるのでもう十分です。 

 

こうして楽しいひと時を終えて俺は子供を連れて家に帰宅した。 

 

 

だがそこでは沙希が恐ろしい形相で待ち構えていた。 

 

「お帰り。楽しかった?」 

 

「ああ…つかどうしたんだよ…顔が強ばってるぞ…」 

 

「は?そんなの当然でしょ。アンタたち最近どこで何してるの?」 

 

「どこでって…お前の邪魔にならないように外に出かけただけだが…」 

 

「出かけるって余所の女を連れて行く必要があるわけ?」 

 

やばい…どうやら雪ノ下のことがバレてしまったらしい… 

 

この険悪な雰囲気に八希は怯えて 

 

俺の手をギュッと握り締め俺は必死に言い訳を取り繕うと思考を辿らせた。 

 

「なあ…落ち着けよ…とりあえず子供の手前なんだから…」 

 

「その子供の目の前で浮気してアンタ自分が何をしたのかわかってんの!」 

 

「だから浮気じゃない。雪ノ下とはそんな関係じゃ…」 

 

雪ノ下とは浮気などと不純な関係ではないと 

 

ハッキリ言いたかったが最後までそれを言い切れなかった。 

 

確かに俺は雪ノ下に対して身体どころか指一本触れちゃいない。それは誓ってもいい。 

 

けど雪ノ下に対して何の思いもないのかと問われたら何も言い返すことは出来なかった。 

 

「ほら、ハッキリ言えないじゃない! アンタやっぱり外で浮気してたんでしょ!隣の奥さんたちに聞いたよ! お宅の亭主浮気してますよねってさ… もう赤っ恥だよ!どうしてくれるのさ!?」 

 

「すまん。誤解させるような行動をしていたのは謝る。」 

 

「本当だよまったく…これで八希のお受験が失敗したらどうすんのさ…」 

 

沙希が呆れた顔でそう愚痴った。その言葉を聞いて俺は愕然とした。 

 

ちがうだろ。そうじゃないだろ。 

 

お前の亭主は外で余所の女と浮気していたかもしれないんだぞ。 

 

それなのに何で娘の受験の心配なんてしてるんだよ。 

 

あぁ…そうか…そういうことかよ… 

 

それから沙希はもう諦めたかのようにリビングの方へと向かっていった。 

 

同時に俺は未だに怯え続ける八希を連れて家を飛び出した。 

 

「行くぞ八希。もうここにはいられない。」 

 

「ねえパパ…どこへ行くの…?」 

 

「決まっているだろ。雪ノ下のところだよ。」 

 

もう我慢の限界だった。もうこんな生活を続けられない。 

 

昔、俺は理性の化物だとか雪ノ下さんから言われたことがあった。 

 

けどそんなの知ったことか。俺は感情に従って行動したい。 

 

今のでわかった。沙希はもう俺のことなんて見ちゃくれない。 

 

やはり俺たちの結婚は過ちだったんだ。だからこそ今こそこの過ちを正さなきゃならない。 

 

俺のため、それに娘のためにも… 

 

「八希、俺は今度こそ正しい選択を行う。付いてきてくれるな。」 

 

「でも…そしたらお母さんは…」 

 

「沙希は俺たちのことなんて見ていない!このままじゃ誰もしあわせになれないんだ!」 

 

「それじゃあ…正しい選択をしたらみんなしあわせになれるの…?」 

 

「そうだ。お父さんを信じてくれ。一緒に行こう。」 

 

「わかった。お父さんを信じるよ。」 

 

八希は不安ながらも俺の手を離さないようにギュッと握り締めてくれた。 

 

そして俺は雪ノ下の家へと急いだ。あいつとならきっとうまくいく。 

 

今こそ俺は正しい選択をすべきなんだ。 

 

 

そう思った瞬間、目の前が真っ白になった。周囲が靄に包まれたみたいに何も見えない。 

 

何だこれ?どうなってるんだよ!? 

 

『―――こっちだよ。』 

 

すると誰かが俺の手を引っ張った。 

 

それは幼い子供の手。けど八希とはちがう感触だ。 

 

八希…そうだ…八希… 

 

俺はすぐにうしろを振り向いてさっきまで八希を握っていた手を覗いてみた。 

 

けどその手には… 

 

―――――――― 

――――― 

――― 

 

 

―――なさい。」 

 

 

「起きなさい。」 

 

「あなた、起きなさい。」 

 

ふぇ…気が付くと俺はベッドの中で眠っていた。 

 

あれ?一体どうなったんだ?八希はどうした? 

 

それにここは…周りを見渡すと身に覚えのないような…あるような… 

 

我が家と比べると随分と広い寝室のベッドで横たわっていた。 

 

つか随分とでかいなこのベッド。頑張れば三人くらい詰め込んで寝れるんじゃね? 

 

それよりも…今…俺を起こしたのは誰だ? 

 

この声は明らかに沙希の声じゃない。 

 

そのことに気づいた俺はすぐ声のする方へと振り向いた。 

 

「ようやく起きたのね。休日だからといってだらしないのは許さないわよ。」 

 

そこには…なんと雪ノ下がいた。 

 

けど雪ノ下だけど何か様子がおかしい。それになんと言ったらいいのだろうか。 

 

再会してからずっと感じていた若々しい魅力が薄れている気がした。 

 

まるでうちの沙希みたいに目元に小じわが目立つしそれに肌も年相応になっている。 

 

何だこれ?どうなってんだ。 

 

「オイ…雪ノ下…」 

 

「雪ノ下?何を寝ぼけているの?今はあなたも雪ノ下でしょ。」 

 

「え?俺が雪ノ下?何を言ってんだよ。」 

 

「本当に寝ぼけているのね。あなたは私と結婚して雪ノ下家の婿養子になったのよ。」 

 

そのことを告げられてかなりのショックを受けた。 

 

いや…待て…そんな馬鹿な… 

 

あの変な靄に包まれてからどう考えてもそんなに時間は経っていないはずだ。 

 

それじゃあこれはドッキリなのか? 

 

そう思った時だ。俺の脳裏にある記憶がまるで激しい洪水のように駆け巡った。 

 

『ありがとう雪ノ下。俺もお前のことが好きだ。』 

 

そうだ。俺は高校の時に雪ノ下から告白を受けて付き合うようになった。 

 

雪ノ下雪乃さん。俺と結婚してくれ。』 

 

それから大学卒業して会社に入って雪ノ下にプロポーズして承諾してもらった。 

 

『お義父さん、お義母さん、どうか娘さんを俺にください!』 

 

さらには結婚するために雪ノ下の両親から許しまでもらった。 

 

『雪乃、愛している。これからはずっと一緒だぞ。』 

 

それで結婚式まで行われたんだよな。 

 

式にはみんな来てくれた。小町や由比ヶ浜、一色やら葉山にあーしさん。 

 

そんで戸塚に材木座…あとそれと…沙希… 

 

八希!そうだ八希!八希はどうしたんだ!? 

 

「なあ…雪ノし…いや…雪乃…あの子は…どうしたんだ!」 

 

「あの子?誰のことを言っているの。」 

 

「誰って…俺の子だ!俺の子はどこへ行ったんだ!?」 

 

「いい加減寝ぼけるのはやめなさい。あなたの子は隣にいるじゃないの。」 

 

隣…?俺はすぐ隣を見渡した。するとそこには小さく蹲る子供が眠っていた。 

 

見た感じだと幼稚園児くらいの歳の子だ。誰だこいつ!? 

 

「八太、あなたも起きなさい。パパと一緒にいつまでも寝ているんじゃないの。」 

 

「う~おはよう母ちゃん…けどまだ眠いぞ…」 

 

「まったく変なところばかりパパに似てしまったのね。 ほら、早く起きないとあなたの大好きな番組が始まってしまうわよ。」 

 

「お~!そうだった!スーパーヒーロータイムが始まっちゃうぞ!」 

 

隣にいたのは八太という俺に似た男の子だった。 

 

そうだ。間違いない。八太は俺の子だ。 

 

あいつが生まれてから今日までの記憶が何故か当然のように存在していた。 

 

ふと俺は靄に包まれるまで八希を握っていた手を見つめていた。 

 

何もない。そんな…確かに俺は八希の手を離さず握っていたはずなのに… 

 

「さあ、八太は何を食べたいの。」 

 

「う~ん!メロンソーダが食べたい!」 

 

「ダメよ。それは食後のデザート。まずはメインの料理を食べなさい。」 

 

「え~!俺は甘いものを食べたいぞ!」 

 

あれから数時間がして昼飯は最寄りのサイゼで摂ることになった。 

 

上の子たちは習い事でいないし手間もかけたくないからとのことだが… 

 

てっきり俺は何処かへ遠出するのかと期待していたんだがな。 

 

それにしても違和感ばかりだ。まるで自分がこの世界の異物だと感じずにはいられない。 

 

あの後、俺は必死に自分の記憶を辿らせた。 

 

どうやらこの世界の俺は雪ノ下家に婿入りして 

 

義姉にあたる陽乃さんの秘書的立場にあるらしい。 

 

まあ元の世界と同じく社畜であることに変わりがないってのが泣けるわな。 

 

それと子供も八太の他にもいるらしくその子たちは雪ノ下に似た秀才な子たちばかり。 

 

そんで俺に似ちまった八太はその容姿で親類はあまり快く思われてないらしいが… 

 

「ところであなた、八太の進学だけどそろそろ考えるべきよね。」 

 

「へ?進学?」 

 

「まあ!呆れたわ!この子の進学について何も考えてないの!」 

 

「いや…まさか…こいつも有名私立にでも通わせる気か…?」 

 

「当然よ。上の子たちが行けたのよ。この子だってやれるはずよ。」 

 

雪乃は末っ子の八太に対して秀才な上の子たちと同じくらい期待を寄せていた。 

 

ちょっと待て。何だ…これ…? 

 

「それなのに周りの人たちは八太が出来の悪い子だと馬鹿にして悔しいわ。」 

 

「けど八太も私の子よ。」 

 

「徹底して英才教育を施せばきっとやれるはずだもの。」 

 

おい…どうなってるんだ…? 

 

何でだよ。俺は沙希じゃなくて雪乃を選んだはずだろ。 

 

それなのにどうして沙希と同じことを言っているんだよ? 

 

もうわけがわからなかった。俺は過ちを正すために新たな未来を選択した。 

 

けど…これじゃあ…同じじゃないか…一体どうなってるんだよ!? 

 

 

「あ、八幡も来てたんだね。」 

 

そんな動揺する俺に誰かが声をかけてきた。この声は…彩加だ。 

 

けどその彩加の隣には一人の女性がいた。その女性は俺の妹の小町じゃなかった。 

 

「雪乃に比企谷。アンタたちと同席することになるなんてね。」 

 

「あら沙希さん。あなたたち夫婦で来ていたのね。」 

 

「まあね。旦那とそれに子供と一緒だよ。」 

 

旦那…?そう言うと沙希は彩加の手を仲良さそうに握っていた。 

 

そんな沙希だけど何故か妙に若々しく感じられた。 

 

それも高校時代に出会った時と同じような… 

 

あれ?ちょっと待てよ。この感じ…あの時と同じだ。 

 

元の世界で雪ノ下と再会した時と同じ感覚だ… 

 

「パパー!ジュース持ってきたよ。」 

 

すると彩加のところへとある女の子が駆け寄ってきた。 

 

この子は…八希…娘の八希じゃないか! 

 

「八希!よかったここにいたのか!」 

 

俺はすぐに八希の元へと駆け寄った。 

 

無事でよかった。離れ離れになって心配してたんだぞ。 

 

「八希…?八幡おじさん何を言っているの?私の名前はそんなんじゃないよ。」 

 

「そうだよ八幡。この子の名前は彩希だよ。もう八幡しっかりしてよ。」 

 

「本当にあなたは…今日はなんだかおかしいわよ。」 

 

彩希…?八希…じゃなくて彩希…? 

 

その事実を知られされた途端、俺の脳裏にこの世界の記憶が駆け巡った。 

 

そうだ。この子は戸塚と川崎の娘だ。 

 

あぁ…そうだ…俺はこの世界で雪乃と結婚した。 

 

それで沙希は戸塚と結婚して…小町は大志のアホと結婚したんだ。 

 

だから俺と沙希の娘はこの世界には存在しない。 

 

いや、ちがうな。八希は戸塚と川崎の娘として存在している。 

 

あの時、俺は決してあの子の手を離さずにいたつもりだった。それなのに… 

 

別に死んだとか消滅したとか残酷な結果になったわけではない。 

 

それなのにどうしようもない虚しさを感じて思わず一筋の涙がこぼれ落ちた。 

 

「ところで雪乃。八太も私立の学校に入れるつもりって本気なの?」 

 

「ええ、勿論よ。周りは反対だけど私は本気よ。」 

 

「まあいいんじゃないの。八太もやれば出来るってところを見せつけてやりなよ。」 

 

「うん、僕もいいと思う。 周りがどう思っても母親の雪ノ下さんがしっかりしてれば大丈夫だよ。」 

 

「フフ、二人とも応援してくれてありがとう。なんとしても合格してみせるわ。」 

 

そんな虚しさに漂う俺を尻目に雪乃は戸塚と沙希を相手に子供の進学について話し合っていた。そして理解した。 

 

…結局…同じなんだ… 

 

俺は結婚に夢を見すぎていたにしか過ぎなかった。 

 

大人になり日々の虚しさを感じて甘い夢に浸ろうとした。その結果がこれだ。 

 

かつて結婚した妻とそれに愛しい娘はもういない。 

 

別に誰かを恨む気なんてない。何故ならこれは自業自得だ。 

 

俺はかつての人生が過ちだと思っていた。けどそれは誤解だった。 

 

すべては俺が勝手にそう思い込んでいただけなんだ。 

 

誰もがいつまでも高校時代のままでいられるはずがない。 

 

みんな大人になり考えも変わっていく。 

 

その変化に俺が乗り遅れていただけだったんだ。 

 

ひょっとしたら元いた世界の雪ノ下雪乃は俺が勝手に創った幻想だったのだろう。 

 

誰もが変化していく中で勝手に思い描いた幻想… 

 

それがあの世界の雪ノ下雪乃だったんだ。 

 

 

「うん!俺も頑張るぞ!」 

 

この場にいるみんなに推されて八太は小学校受験する気満々だった。 

 

別に悪いわけでもない。八太は頑張ろうとしている。 

 

それに俺も今更元の世界に戻るつもりもない。 

 

今となってはこの子も大事な息子だ。 

 

子供を失う喪失感を何度も味わうのは御免だ。 

 

ならば俺がすべきことは唯一つ。 

 

それは子供の選択肢が誤ったものにならないよう導くことだけ。 

 

なあ息子よ。お前も将来大事な岐路に立たされるだろう。 

 

その時、お前はどんな選択をしても決して父さんのように後悔するんじゃないぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

元スレ

http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1554654210/

真涼「これくらい別にいいでしょ?私達は恋人なんだから」【俺修羅ss/アニメss】

 

真涼「いよいよ。エイプリルフールになったわ」 

 

真涼「今日は4月1日!携帯のカレンダーの確認もしたわ」 

 

真涼「というわけで騙されなさい!鋭太!」 

 

鋭太「…今、何時だ?」 

 

真涼「何を言ってるのかしら?4月1日の0時よ?」 

 

鋭太「帰れ。以上」 

 

ガタン 

 

 

真涼「…閉め出されてしまったわ」 

 

真涼「…」 

 

真涼「寒い…」ガタガタ

 

 

ガララッ 

 

鋭太「はぁ…」 

 

真涼「鋭太?」 

 

鋭太「ったく何でこんな時間に来たんだよ。女子が一人で危ないだろ…」 

 

真涼「ふふっ、心配不要よ。だって私はずっと庭に隠れていたんだから」 

 

鋭太「こえーよ!自分自身の身が心配になってきたぞ!」 

 

真涼「そうよ。常にあなたを監視しているの。というか私を監視して頂戴、鋭太」 

 

鋭太「もう僕には意味が分からないよ!真涼さん!」 

 

 

真涼「そうね。わかりやすく説明すると…」 

 

鋭太「もうそれはいいから、泊まってけ」 

 

真涼「…え?」 

 

鋭太「こんな時間に彼女を帰らせるわけには行かないしな」 

 

真涼「本当にいいの?」 

 

鋭太「いいって言ってるだろ」 

 

真涼「朝までジョジョ談義するかもしれないわよ?」 

 

鋭太「まあ、まだ春休みだし多少はOKだ」 

 

真涼「ついつい間違えて、鋭太のノート談義しちゃうかもしれないわよ?」 

 

鋭太「うわあああああ!急に泊める気無くなってきたぞ!?」

 

真涼「ふふっ。夜中なのに元気ね?…ありがとう鋭太」 

 

鋭太「ったく、最初から素直に言えってーの。面倒な彼女を持つと本当に疲れるな」 

 

真涼「ええ、私はとても面倒なのよ。常に構ってね。私の偽恋人(フェイク)さん♪」 

 

鋭太「『面倒なのよ』って自覚ありかよっ!!!」 

 

真涼「それにしても『俺のベッドで寝ようぜ』なんて、鋭太って積極的なのね」 

 

鋭太「どんなに台詞を見直しても『俺』も『ベッド』も『寝よう』もまったく言ってないぞ!」 

 

真涼「まったく鋭太ったら照れ屋さんね」 

 

鋭太「お前はリビングな!絶対に俺の部屋には来るなよ!」 

 

真涼「ふふふっ。冗談よ。ありがとう鋭太」 

 

鋭太「…」 

 

鋭太(何で嬉しそうなんだよ…)

 

 

■昼 

 

鋭太「ぐー」Zzzzz 

 

トントントン 

 

鋭太「ん…」 

 

鋭太(あれ?包丁の音が聞こえる…) 

 

鋭太(そうか…真涼か…) 

 

 

鋭太「ふわぁ~」 

 

鋭太「もう朝か…そろそろ起きるか」 

 

「鋭太ー。昼ごはんが出来てるわよー」 

 

鋭太(…って、もう昼!?) 

 

鋭太(そういえば、朝までジョジョ談義で寝かせてくれなかったんだよな…) 

 

鋭太「はぁ…」 

 

 

「鋭太ー?起きてるのかしらー?」 

 

鋭太「おう!起きてるぞー」 

 

鋭太(起きたら飯が出来てるか…こんな目覚めもいいよなっ) 

 

鋭太「朝飯同様だし、味噌汁とかかな~♪卵焼きも欲しいよな~♪」

  

……… 

 

 

真涼「ウイダーインゼリーよ。なんと新発売のトマトヨーグルト味よ」 

 

鋭太「おいぃぃぃぃぃぃぃ!!!」 

 

真涼「起きてから一発目に発声練習をするなんて、さすが鋭太ね」 

 

鋭太「意味がわかんねーよ!というか包丁の音が聞こえたのに、何でウイダーインゼリーなんだよっ!」 

 

真涼「…」 

 

鋭太「おい!」 

 

真涼「台所は見ない方が…身の為よ」 

 

鋭太「……………ああ」 

 

鋭太(そうだった。こいつ料理できないんだった…) 

 

真涼「ちなみに証拠隠滅の為、台所は数秒後に爆発します」 

 

鋭太「すんな!」

 

真涼「冗談よ。包丁は鋭太が喜ぶかな?って、ちょっと頑張って『トントン』させただけよ」 

 

鋭太「何やってんだよ…そんなんで喜ぶわけないだろ…」 

 

鋭太(喜んでました。ごめんなさい) 

 

真涼「…」 

 

鋭太「…」 

 

真涼「その反応。本当にあなたはわかりやすい人ね」 

 

鋭太「うっ…悪かったな」 

 

真涼「ねえ、鋭太?やっぱり料理って出来た方がいい?」 

 

鋭太「ん?出来ないよりは出来た方がいいと思うぞ?」 

 

真涼「…ふ~ん」 

 

鋭太「?」

 

……… 

 

 

鋭太「ご馳走様でした」 

 

真涼「お粗末さまでした」 

 

真涼「ねえ鋭太?」 

 

鋭太「ん?」 

 

真涼「料理は美味しかったかしら?」 

 

鋭太「あ?」 

 

真涼「まったくダメダメね。そこは『彼女が頑張って作った料理なら何でも美味いぜ!』ぐらい言いなさいよ」 

 

鋭太「じゃあ、頑張って作って見せろよゴラァ!!」 

 

真涼「へぇ~、鋭太は私が頑張って作れば食べるというのね?」 

 

鋭太「お、おう」 

 

真涼「あああああああなた正気なの?私は絶対に食べないわよ」 

 

鋭太「うわあああ!騙したなーーーー!」 

 

真涼「ふふっ。冗談よ」 

 

真涼「食べると言ってくれてありがとう鋭太。嬉しかったわよ」クスッ 

 

鋭太「…………なんだよそれ」

 

……… 

 

 

■夕方 

 

鋭太「んー。とりあえず勉強は休憩だ」 

 

真涼「…」 

 

鋭太「なあ?どこまで読んだんだ?」 

 

真涼「ちょうどジョジョの4部が読み終わったところよ」 

 

真涼「きりもいいし。そろそろお暇しようかしら」 

 

鋭太「おう、送っていくぜ」 

 

真涼「あら?今日の鋭太は優しいのね?」 

 

鋭太「俺はいつも優しいんだよ」

  

……… 

 

 

スタスタスタ 

 

真涼(今日ももう終わるわね…) 

 

真涼(夜中から鋭太と一緒だったし、ジョジョも1部~4部まで読み返せたし、悪くない一日だったわ) 

 

真涼「…」 

 

真涼(なにか…忘れて…) 

 

真涼「…」 

 

真涼(って、今日は4月1日エイプリルフール!?) 

 

真涼(鋭太!私を幸せにして、エイプリルフール作戦を台無しにしようとしたわね!?) 

 

真涼「ぐぬぬぬ」 

 

鋭太「ん?なんだ?」

 

真涼「ねえ、鋭太…その、あのね?」 

 

鋭太「ん?」 

 

真涼「私、偽恋人(フェイク)とか関係なしに、本当は鋭太の事が大好きなの」 

 

鋭太「………え?」 

 

鋭太(なっ…なっ!?) 

 

真涼「ふふふふふふふふふ♪何て顔をしているのかしら?」 

 

鋭太「え?だって、お前…」 

 

真涼「嘘よ。全部嘘。忘れたのかしら?今日はエイプリルフールよ」 

 

鋭太「何だ…嘘かよ」 

 

鋭太(一瞬本当なのかと思ってしまった…だって…) 

 

真涼『本当は鋭太の事が大好きなの』 

 

鋭太(と言った時のこいつ…顔真っ赤だし、少し涙目だったし…) 

 

鋭太「…」 

 

鋭太(ずっと一緒にいたけど、本当に本気でこいつが可愛いと…)

 

鋭太「…」 

 

真涼「悔しい?や~い、騙されてやんのー。いい気味だわ~。このガリ勉野郎~♪」 

 

鋭太「…」イラッ 

 

鋭太「真涼!真剣な話をするから…一度しか言わないからよく聞けよ!」 

 

真涼「何よ?急に真面目な顔になって…」 

 

鋭太「俺、季堂鋭太は夏川真涼が世界で一番好きだ!愛してる!俺と真剣に付き合ってくれ!」 

 

鋭太(どうだ!俺の渾身の偽告白(フェイク)は!) 

 

真涼「っ//」ボンッ 

 

 

鋭太「え?」 

 

真涼「なななななななっ何を言っているのかしら?さすがに嘘ってバレバレよ」 

 

真涼「私の真似なんて本当に鋭太ったら、猿知恵ね。ええ、サル真似しかできないお猿さんだわ」 

 

鋭太「はいはい。そうですか。真似で悪かったですね」

 

ギュウウッ 

 

鋭太「って、急に抱きつくなよ!」 

 

真涼「いいでしょ?私達は恋人なんだから」 

 

鋭太「偽恋人(フェイク)だろっ」 

 

真涼「鋭太、大好きよ」 

 

鋭太「何言ってんだよ。俺の方がもっと好きだ」 

 

真涼「いいえ、私の方がもっともっと好きなんだから」 

 

鋭太「…………嘘だよな?」 

 

真涼「もちろん嘘よ。ええ、全部嘘(フェイク)よ」 

 

鋭太「…」 

 

真涼「ねえ、鋭太。もう一回『好き』って言って」 

 

鋭太「はぁ…。はいはい、俺は真涼さんが『好き』だよ」 

 

真涼「ふふっ。騙されたわね。今のお願いは嘘よ」 

 

鋭太「意味がわかんねーよ」

 

真涼「今度は『愛してる』って言って」 

 

鋭太「言わねーよ」 

 

真涼「じゃあ、私が言うわ。鋭太…私は世界で…いいえ宇宙で二番目に鋭太が好きよ」 

 

鋭太「って、二番目かよっ!」 

 

真涼「嘘よ。本当は鋭太が一番なの。ええ、一番好きよ」 

 

鋭太「ぐっ…」 

 

真涼「あら?赤くなったわ。そういう反応嬉しいわ」 

 

鋭太「…」 

 

鋭太(テメーはずっと真っ赤だろうが!) 

 

 

鋭太(この後も、真涼さんの嘘告白(フェイク)が続いた) 

 

鋭太(真涼はとっても嬉しそうだった…) 

 

鋭太(年相応…いやそれ以下の無邪気な笑顔に俺は…) 

 

 

真涼「鋭太、大好きよ」スリスリ 

 

鋭太(何が本当か嘘かわからなくなってきてしまった…)

 

真涼「ふふふっ♪」 

 

鋭太「なあ、真涼?」 

 

真涼「なぁーに?鋭太?」 

 

鋭太「これからもよろしくな」 

 

真涼「おかしな鋭太ね。あたりまえじゃない」 

 

真涼「だって、私は彼女。あなたは彼氏なんだから、ずっと一緒よ」 

 

鋭太「………そうだったな」 

 

鋭太(今の日常が、このフェイクが…) 

 

鋭太(とてもすごく居心地良いと思うのはダメだと思う) 

 

鋭太(だって、全部嘘(フェイク)なんだから) 

 

鋭太「…」 

 

鋭太(でも、もっと今の日常(フェイク)が続けばいいなと思ってしまった) 

 

鋭太(本当に思ってしまったのだった) 

 

 

 

 

 

 

 

 

元スレ

https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1396354376/

アスカ「シンジに触られると…なんかビクンッてなる…」 シンジ「そ、そうなんだ…」【エヴァss/アニメss】

 

ミサト「ただいま…」

 

シンジ「お帰りなさい、ミサトさん…」

 

シンジ「アスカの具合どうですか?」 

 

ミサト「いい方向にむかってるわ、治療が思うよりうまくいってるみたい」 

 

シンジ「本当ですか!よかったー…」 

 

シンジ「でも、あのときボクがしっかりしていれば…こんなことに…」 

 

ミサト「シンジ君、自分を責めるのはやめなさい… あのとき、あなたやレイがアスカの立場なら同じことをしていたはずよ」 

 

ミサト「アスカは正しい判断をしたの…彼女の気持ちわかってあげてちょうだい?」 

 

シンジ「うぅぅぅ…は、はい…わかってます…」 

 

ミサト「わたし、シャワー浴びてくるわね…」 

 

 

~数日後~ 

 

ミサト「ただいま!」 

 

シンジ「あ、ミサトさんおかえりなさい」 

 

ミサト「シンジ君、ちょっと座ってくれる?」 

 

シンジ「はい、なんですか?」 

 

ミサト「アスカのことなんだけど」 

 

シンジ「えっ!アスカの具合になにかあったんですか?」 

 

ミサト「えぇ、アスカなんだけど、かなり容態よくなって明日からここに戻ることになったの」 

 

シンジ「ほ、本当ですか!?よかったーっ!!」 

 

ミサト「でも、まだ完全に治ったワケではないから…」 

 

シンジ「で、ですよね?」 

 

ミサト「使徒からうけた精神的ダメージのおかげで記憶もあいまいなの…」 

 

ミサト「日常の生活は自分でもできると思うけど、心のケアが重要なの…だからシンジ君も協力してね?」 

 

シンジ「もちろんですよ!」 

 

ミサト「ありがとう…あなたのことはアスカにも言ってあるけど、ピンっときていないみたいなのよね」 

 

シンジ「ボクのことがわからないってことですか?」 

 

ミサト「わからないっというより、思いだせてないって言うほうが正しいかも…それでも大丈夫?」 

 

シンジ「大丈夫ですよ!ボクだってアスカの力になりたいです!」 

 

ミサト「その言葉が聞けて安心したわ!ありがとう!明日夕方ぐらいに連れて帰ってくるから」 

 

 

~翌日~ 

 

シンジ「アスカ帰ってくるのか~うれしいなー」 

 

シンジ「きょうはアスカの大好きなハンバーグ作ったし… あっ!アスカにだけ目玉焼きも乗っけてあげよ!」 

 

(ガチャ) 

 

シンジ(あっ!帰ってきた!) 

(たたたっ) 

 

ミサト「ただいまー」 

 

シンジ「お、おかえりなさい!」 

 

ミサト「はい、アスカもなかに入って?きょうからここがあなたのお家よ?」 

 

アスカ「…ぅん…」(こっそり) 

 

シンジ「おかえり!アスカ!」 

 

アスカ「!?」(びくっ…おどおど…) 

 

シンジ「ア、アスカ…?」 

 

ミサト「あー…ちょっと、びっくりしちゃったみたいね? アスカ?この子がまえに言ったシンジ君よ?」 

 

アスカ「・・・」 

 

ミサト「シンジ君、自己紹介してあげて?」 

 

シンジ「あ、はい…はじめまして?って言ったほうがいいかな?ボク、碇シンジです…よろしくね?」 

 

アスカ「…あたしは…アスカ…よろしく…」(おどおど) 

 

ミサト「まぁー玄関じゃなんだから、中へいきましょ?」 

 

シンジ「そうだ!きょうはアスカが好きなハンバーグ作ったんですよ!」 

 

ミサト「あら~?よかったわねーアスカ?きょうはハンバーグですって♪」 

 

アスカ「…ぅん…」 

 

シンジ「はい、おまたせ!はい、こっちがアスカのでこっちがミサトさんの」 

 

ミサト「うん?こっちには目玉焼きないんだけどぉ?」 

 

シンジ「アスカのやつだけ特別なんですよ」 

 

ミサト「えーっ!ずるいー♪」 

 

アスカ「ミサト…目玉焼きいる?」 

 

ミサト「あ、あーいいわよ♪アスカ専用なんだから、あなたが食べちゃいなさい?」 

 

アスカ「うん…」 

 

シンジ(…やっぱり、いつものアスカじゃないな…なにを話していいかわからないや…) 

 

シンジ「あ、アスカ?ハンバーグおいしい?」 

 

アスカ「…う、うん…この味すごくおいしい…」 

 

シンジ「よ、よかったー、一生懸命つくったかいがあったよー」 

 

ミサト「ふーっ、ごちそうさま♪」 

 

アスカ「ごちそうさまでした…」 

 

シンジ「うん」 

 

ミサト「すこし休んだらアスカ一緒にお風呂入りましょうか?」 

 

アスカ「うん」 

 

シンジ「じゃ、ボクは洗い物しよ…」 

 

ミサト「そうだ、アスカにあなたの部屋案内するわね」 

 

アスカ「あたしの部屋?」 

 

ミサト「そー♪こっちにいらっしゃい?」 

 

アスカ「うん」 

 

ミサト「ここがあなたの部屋よ?自由につかってちょうだいね?」 

 

アスカ「うん、ありがとう」 

 

 

~数時間後~ 

 

ミサト「アスカ寝たみたい…」 

 

シンジ「そうですか?」 

 

ミサト「で、どう?うまくやっていけそう?」 

 

シンジ「えぇ、なんかまえのアスカの違って調子狂っちゃいますけど…大丈夫です」 

 

ミサト「そう、あと…明日からなんだけど、私が帰ってくるまで、シンジ君がアスカの面倒みてもらえるかしら?」 

 

シンジ「ぼ、ボクがですか?」 

 

ミサト「わたしも今後のことがあってね…だから、大変かもしれないけどお願いできる?」 

 

シンジ「は、はい!がんばります!」 

 

ミサト「まぁ、日常生活は自分でできるけど、わからなそうなことはサポートしてあげてちょうだい?」 

 

シンジ「はい!」 

 

 

~翌日~ 

 

ミサト「それじゃ、お仕事いってくるわね?」 

 

シンジ「はい!いってらっしゃい」 

 

アスカ「・・・」 

(たたたっ) 

 

ミサト「あら?どうかした?アスカ?」 

 

アスカ「あ、あたしもいく…ミサトと…」 

 

ミサト「ねぇ?アスカ?昨日もお話したでしょ?今日はシンちゃんと一緒にお留守番するの?」 

 

アスカ「…ぅん…わかった…」 

 

ミサト「うん、おねがいね?」 

 

シンジ「・・・」 

 

シンジ(どうしよう…なにかしたほうがいいのかな?) 

 

アスカ「・・・」 

 

シンジ「あ、アスカ?」 

 

アスカ「な、なに…?」 

 

シンジ「パジャマ洗ってあげるから着替えなよ?いまアスカの服もってくるから」 

 

アスカ「うん…」 

 

シンジ「はい、これアスカのやつだよ?」 

 

アスカ「ありがとう」 

(する…するする…脱ぎ) 

 

シンジ「えっ…わぁ!ちょっとアスカ!なに脱いでるの!?」 

 

アスカ「着替えろって…」 

 

シンジ「あ、そうだね…ボク、むこうに行ってるから終わったらパジャマ渡して…」 

 

アスカ「わかった…」 

 

シンジ(あーっ…ビックリした…今のアスカって、そうゆー意識ないのかな?) 

 

アスカ「ねぇ…着替えおわった…」 

 

シンジ「あっ…うん、それじゃ洗っちゃうね?」 

 

シンジ「それとボクのことシンジって呼んでよ?ダメかな?」 

 

アスカ「うん…シ、シンジ…」 

 

シンジ「これからはそう呼んでね?」 

 

アスカ「わかった」 

 

シンジ「昼か…アスカそろそろご飯にするけど何か食べたいものある?」 

 

アスカ「…ハンバーグ…シンジのつくったやつたべたい…」 

 

シンジ「えーっ…また食べたいの?でもなー材料ないし…ピ、ピザでも頼もうよ?」 

 

アスカ「・・・うん」 

 

シンジ「ハンバーグはまた作ってあげるからね?」 

 

(ぷるるるる~) 

 

シンジ「はい。もしもし」 

 

ミサト「あ、シンちゃん?そっちはどーう?」 

 

シンジ「いま、アスカとピザたべてます」 

 

ミサト「あら?いいわねー!特に変わったことなさそうね?きょう、ちょーっち遅くなりそうだからよろしくね?」 

 

シンジ「あ、はい。わかりました…では」(がちゃ) 

 

シンジ「あー食べたね?アスカ」 

 

アスカ「うん、ごちそうさま」 

 

シンジ「いま、お茶いれてあげるからアスカ テレビでも見ててよ?」 

 

アスカ「わかった」 

 

シンジ「はい…お茶」 

 

アスカ「ありがとう」 

 

シンジ(やばい…会話がみつからない…) 

 

シンジ(夕食はある材料でカレーにでもするか…) 

 

シンジ(アスカずーっとテレビみてるな…) 

 

シンジ(すこしアスカの行動をみよう…) 

 

~~~ 

 

シンジ(夕方か…お風呂の準備してあげよう) 

 

シンジ「アスカ?お風呂の準備できたから入ってきなよ?」 

 

アスカ「うん…」 

 

シンジ「ゆっくり入っておいで?」 

 

アスカ「ねぇ、シンジは一緒に入ってくれないの?」 

 

シンジ「えっ!?」 

 

アスカ「一人は嫌なの…お願い…」 

 

シンジ(どうする…ってなに考えてんだオレ!アスカは病気なんだぞ!力になるんだろオレ!) 

 

シンジ「うん、一緒に入ろう」 

 

アスカ「ありがとう」(にっこり) 

 

シンジ(アスカが帰ってきて、はじめて笑顔をみた…) 

 

アスカ「・・・」(するる…脱ぎ) 

 

シンジ(見ちゃダメだ…) 

 

アスカ「入りましょ?」 

 

シンジ「そ、そうだね?」 

 

アスカ「背中洗ってくれる?」 

 

シンジ「えっ!?」 

 

アスカ「ミサトに洗ってもらう時、なんだか気分が落ち着くのよ…だから…」 

 

シンジ「わ、わかったよ…あ、洗うね?」 

 

アスカ「うん」 

 

シンジ「ど、どうかな?いたくない?」(ごしごし) 

 

アスカ「うん、気持ちいい…」 

 

シンジ(あぁ…アスカの背中スベスベだな…うなじのあたりもすごく綺麗だ…) 

 

アスカ「どうかしたの?シンジ…」 

 

シンジ「いや、なんでもない…お湯かけるよ?」 

 

アスカ「うん、お願い…」 

 

シンジ「お、おわったよ…」 

 

アスカ「まえもお願い…」(くるっ) 

 

シンジ「うわぁ!?あ、アスカ…」 

 

アスカ「まえも洗って?」 

 

アスカ「シンジに洗ってもらったら…なんかムネがビクンッてなって…」 

 

シンジ「そ、そうなんだ…」 

 

アスカ「シンジ…シンジの…気持ちいぃ…」 

 

 

シンジ「あ、アスカ?洗いおわったよ…?」 

 

アスカ「うぅんっ…ありがとう…」 

 

シンジ「アスカ……あ、湯船につかろ?風邪ひいちゃうよ?」 

 

アスカ「そうね…」(ぎゅっ) 

 

シンジ「・・・」(ぎゅっ) 

 

 

~数時間後~ 

 

ミサト「ただいまー」 

 

シンジ「あ、おかえりなさい!」 

 

アスカ「ミサト、おかえり」 

 

ミサト「あら?なんか二人とも、もう仲良しになっちゃったの?」 

 

シンジ「きょうはずーっとアスカと話してましたから」 

 

ミサト「それはよかったわ!安心あんしん♪」 

 

 

~翌日~ 

 

ミサト「それじゃ、仕事いってくるわね?」 

 

シンジ「はい、気をつけて」 

 

シンジ(さて、アスカまだ寝てるのかな?起こすか?) 

 

(しゃ) 

 

アスカ「すっー…すーっ…」 

 

シンジ(気持ち良さそうに寝てるな) 

 

アスカ「すーっ…すーっ…」 

 

 

アスカ「ぅん…ふぁ~ぁ…あ、シンジ?おはよう?」 

 

シンジ「あ、アスカやっと起きたね?おはよう?」 

 

シンジ「それじゃ、朝ごはんたべようか?」 

 

アスカ「うん」

 

 

シンジ「今日の夜も….一緒にお風呂入る?」

 

アスカ「………うん//」

 

 

 

 

 

 

 

 

元スレ

http://viper.2ch.sc/test/read.cgi/news4vip/1439016259/

八幡「雪ノ下頼む、お前だけが頼りなんだ」 雪乃「……わかったわ」【俺ガイルss/アニメss】

 

TV<続いてのニュースは千葉県で起きている連続殺人です

 

TV<被害者は○人、いずれも若い男性で……

 

TV<……複数、単独犯両方で捜査を……

 

prrr prrr

 

 

雪ノ下「平塚先生? 珍しいわね。はい、雪ノ下です」

 

比企谷『雪ノ下か! 頼むヤバイんだ! 助けてくれ!』

 

雪ノ下「そう。それじゃ頑張って」ピッ

 

prrr prrr prrr

 

ピッ

 

雪ノ下「鬱陶しいわね。私は忙しいのよ」

 

比企谷『後生だから! 頼む! お願いだ!』

 

雪ノ下「死んだ後まであなたの顔を見るなんて嫌よ」

 

比企谷『なら今生だ! 残りの人生で!』

 

雪ノ下「残りの人生分の根性出せばなんとかなるわよ」

 

比企谷『言葉遊びしてる場合じゃないんだよ!』

 

ドゴッ ガチャガチャ ガンッ

 

比企谷『ぐっ! やめろ! 先生! せんs』プッ

 

ツー ツー ツー

 

雪ノ下「……本当に危険なのかしら」

 

雪ノ下「仕方ないわね……」

 

prrr prrr

 

比企谷『誰だ!? 雪ノ下か!?』

 

雪ノ下「えぇ、表示みていないの?」

 

比企谷『すまん、見てる余裕がなかったんだ。はぁはぁ』

 

雪ノ下「……そんなにひどい状況なの?」

 

比企谷『あぁ、冗談だったらどんなにいいか。今なんとか逃げ切って公園の公衆トイレに隠れてる』

 

雪ノ下「こんな時こそ警察じゃないかしら」

 

比企谷『はぁ、ふぅ。いや、それは俺も思ったが……』

 

比企谷『警察が駆けつけるまでの時間も惜しい、交番もわからない』

 

比企谷『だからお前だけが頼りなんだよ!』

 

雪ノ下「……」

 

雪ノ下「わかったわ、力を貸すわ。先生にも恩があるし」

 

比企谷『ありがとう、愛してるぜ雪ノ下』

 

雪ノ下「気持ちの悪い事を言わないで頂戴。あくまで先生の為よ」

 

比企谷『あぁわかってるよ。変な事言ってすまん』

 

雪ノ下「いいわ。それで、一体どうしたの?」

 

比企谷『最初は先生とラーメン食いに行ったんだよ。色々と面倒になってるお詫びにな』

 

比企谷『んで、食べ終わって出ようとした所で知らない男達にからまれて』

 

比企谷『先生も酒が入ってたから口論になっちまって……』

 

雪ノ下「それで追われているのね。先生は? 無事なの?」

 

比企谷『途中で見失ったけど、近くにいるはずだ』

 

雪ノ下「そう、早くしないと危険ね……」

 

比企谷『そうなんだ、ウグッ』

 

雪ノ下「泣き喚いている場合じゃないでしょう。指示はするけれど、あなたがやるしかないのよ」

 

比企谷『すまん、ここまで怖いのは初めてで……』

 

雪ノ下「誰にだってそう言う時はあるわ、しっかりしなさい」

 

比企谷『あ、あぁ。弱音吐いた、すまん。そうだな、お前が居るんだもんな』

 

雪ノ下「えぇ、そうよ。だから安心しなさい」

 

雪ノ下「ところで、その先生の携帯はどうしたの?」

 

比企谷『揉み合った時に落としてな、逃げる事に必死だったから取る物もとりあえずってやつで』

 

雪ノ下「なら、あなたの携帯は? 先生と連絡取れるかもしれないわ」

 

比企谷『俺のはラーメン待ってるときに充電きれちまって……』

 

雪ノ下「それじゃ、先生とは連絡とれないのね、まずいわね」

 

比企谷『こんな状況でも、ちゃんと話せればいいんだが……』

 

雪ノ下「そうね、でも無いものねだりしていても始まらないわ」

 

雪ノ下「まずは、あなたの安全を確保しましょう。それからよ」

 

比企谷『そうだな、とにかく安心したい。……こんなのはもう嫌だ』

 

雪ノ下「あなたを追っているのは何人? 達って言っていたわよね?」

 

比企谷『あぁ、でも今追ってきてるのは一人だ』

 

比企谷『あんなのが何人もいたら、今こうして生きてない』

 

雪ノ下「そんな人に追われてたなんて……まさか!」

 

比企谷『あぁ。そのまさかだ。まさかあの……あんな……』

 

雪ノ下「ごめんなさい、冗談だと思って無碍にしてしまって」

 

比企谷『やめてくれ、今こうしてお前と話せてるだけでも違うんだ』

 

雪ノ下「比企谷くん……」

 

コツ コツ コツ

 

比企谷『やばい、来た!』

 

雪ノ下「そんな……! なるべく息を潜めて!」

 

比企谷『……頼む……ッ行ってくれ………』

 

コツ     コツ コツ コツ…………

 

比企谷『~~~~ッ ふぅ、はっ、はぁはぁ。行ったみたいだ……』

 

雪ノ下「良かった……! でも、うかうかしていられないわ」

 

雪ノ下「そこからすぐに出て民家に駆け込むのよ」

 

比企谷『でも、それで先生が!』

 

雪ノ下「あの人は大人だし、強い人よ。だからあなたは自分の事を考えなさい」

 

比企谷『強いのは分かってる、目の前でみたし、今まで何度も経験したからな』

 

雪ノ下「えぇ、だから早く……」

 

コツ コツ コツ

 

比企谷『! 戻って来た……っ!』

 

雪ノ下「急いで!」

 

ガァン! ガチャガチャガチャ! ゴンガン!

 

比企谷『あ、あ、駄目だ、もう無理だ、うっ、あ』

 

雪ノ下「諦めては駄目よ! お願いだから!」

 

ガチャ キィ  ……ミツケタ

 

比企谷『ぁ、ぁ……』

 

雪ノ下「逃げて! 早く! 比企谷くん!」

 

ゴッ

 

比企谷『おごっ』

 

ガシャ プツ ツー ツー ツー

 

雪ノ下「比企谷くん! 比企谷くん!」

 

雪ノ下「ぁ……、なんて事……っ」

 

雪ノ下「何が安心しなさいよ……っ。ウッ グスッ」

 

雪ノ下「……」

 

雪ノ下「いいえ、泣いてる場合じゃないわ。今私が諦めていたら駄目」

 

雪ノ下「もしかしたら、巧く逃げたかもしれない。そうよ彼のしぶとさは害虫並のはず」

 

prrr prrr

 

雪ノ下「お願い……出て。出なさいよっ」

 

prrr prrr prrr prrr

 

ピッ

 

雪ノ下「! 比企谷くん!」

 

『はぁい☆ 静ちゃんでぇす♪ 今出られないのごめんなさぁい☆ 御用があるならぁ 発信おn』

 

プツ

 

雪ノ下「イラつく留守電ね……。用があるのはあなたじゃないわよっ」

 

雪ノ下「落ち着いて、もう一度……」

 

prrr prrr prrr

 

ピッ

 

『……もしもし』

 

雪ノ下「!」

 

雪ノ下「その声は……先生? 先生ご無事だったんですか!?」

 

平塚『あぁ、私は至って健康そのものさ』

 

雪ノ下「良かった、心配しました……。それで、比企谷くんは? さっきまで……」

 

平塚『ここにいるよ。一緒にいる、安心してくれたまえ』

 

平塚『目に見える怪我はない。まぁ気を失っているが平気だろう』

 

雪ノ下「はぁ、安心しました。事件の事もありますし、ひどい男にからまれたと聞いていたので……」

 

平塚『事件といえばそうだな。悪魔の様な男だったよ。だが大丈夫だ。巧く追い払ったよ』

 

雪ノ下「では、あとは比企谷君を自宅に送って行くだけですね」

 

平塚『あぁそうだな。私も、もう限界だし……自宅が近くでよかったよ』

 

雪ノ下「そうですか、これで私も安心して寝れま……」

 

平塚『……流石に野外は人目があるからな』

 

雪ノ下「す……?」

 

雪ノ下「人目? あの、なにを……?」

 

平塚『それは、おいそれと言える事ではないよ。私にも立場があるのでね』

 

雪ノ下「あの、立場? わからないのですが」

 

平塚『そうだな……君には分からない話だよ』

 

平塚『もういいかな、比企谷が起きると面倒だし急いでるんだよ』

 

雪ノ下「面倒? 彼が起きていた方が色々と楽なのでは?」

 

平塚『いや、眠っていてもらったほうが事がスムーズに行く』

 

雪ノ下「? すみません、教えて下さい。何をするおつもりなんですか?」

 

平塚『さっきも言っただろう。わざわざ他人に話すようなことじゃない』

 

雪ノ下「まさか……もしかして比企谷くんを……?」

 

平塚『む、喋りすぎたか。まぁ君の考えている通りさ。他言しないでくれよ?』

 

雪ノ下「そんな……」

 

ガチャ キィ  バタン

 

平塚『ふぅ、流石に人一人担いで歩くのは大変だな』

 

平塚『さて、もういいかね? 色々と準備もあるのでな。ふふふっ』

 

雪ノ下「待って! 待ってください! あと少しだけお願いします!」

 

平塚『君はもしかして実況が好きなのかね? 意外だな』

 

平塚『でも駄目だよ。私が言える立場ではないが、今から行う行為はある種神聖なんだ』

 

平塚『世には見せ付けたい輩もいるだろうが、私は御免さ』

 

平塚『それに、言うじゃないか』

 

雪ノ下「お願いします! 何でも、何でもしますから比企谷くんは……っ!」

 

平塚『好奇心は猫をも殺す。ってね』

 

雪ノ下「ひっ!」

 

平塚『どうした? 随分可愛い声を出したじゃないか』

 

雪ノ下「まさか、先生は、わっ私までも……」

 

平塚『はっはっは! 君は確かに可愛いけれど、私にそっちの興味はないよ』

 

雪ノ下「だから、若い男性ばかり」

 

平塚『当たり前だろう。若い方が生きがいいからな。興奮するよ』

 

雪ノ下「この……っ、人でなし!」

 

平塚『教師に向かって言う言葉ではないが、私も生徒に手を出すんだ。受け入れよう』

 

雪ノ下「やめて、止めて下さい……。比企谷くんには、手を出さないで下さい……っ」

 

平塚『そう言われても、私だって限界なんだ』

 

雪ノ下「そんなの知った事ではないわ! やめて、やめて!」

 

平塚『比企谷も分かってくれるさ』

 

平塚『さて、いい加減にしないと目覚めてしまう』

 

雪ノ下「あなた狂ってるわ、……こんな人だったなんて」

 

平塚『君はまだ若いし将来があるからな。世の中の理不尽だよ、なんで私だけ、私ばかり……』

 

雪ノ下「いい歳して、恥ずかしくないのかしら、そんな事でっ!」

 

平塚『恥や外聞なんて捨てたし。嫌味も聞き飽きているよ』

 

雪ノ下「許さない! 絶対に許さない! 警察に突き出してやるわ!」

 

平塚『それはk……あっ』

 

ドタン! バタン!

 

平塚『ちっ! 大人しくしたまえ!』

 

雪ノ下「! 比企谷くん! 急いでそこから逃げて!」

 

平塚『強情な……っ!』

 

ガシャッ

 

『帰らせて下さい!』

 

ドンッ    『ここでお前が出て行ったら……っ』

 

  『嫌です!』

                 ガチャン!

 『だから!』

 

   バタンッ        『そんな風に見』

 

『……です!』

            ドタッ

                  『私だって』

 

雪ノ下「あぁ、お願いっ。早く逃げて……!」

 

 

『この……っ!』

 

ガチャッ

 

プツ ツー ツー ツー

 

雪ノ下「っ、そんな……」

 

雪ノ下「…………ぅ、グスッ」

 

雪ノ下「うぅ、比企谷くん……」

 

ーーーーー

ーーー

ーー

 

prrr prrr

 

雪ノ下「! もっもしもし!」

 

『もしもし』

 

雪ノ下「比企谷くん! 比企谷くんよね!?」

 

比企谷『あぁ、なんとか無事だ』

 

雪ノ下「逃げられたのね、良かった……」

 

比企谷『いや、まだ先生の所にいるんだ』

 

雪ノ下「危険よ! 今警察に連絡するから!」

 

比企谷『待て、今やっとお互いに冷静になったんだ。話し合う時間は必要だろ?』

 

雪ノ下「いらないわよ、そんな時間! その人は何人もっ!」

 

比企谷『そうだな、何人も何人も……。どっかで狂ったんだろうな』

 

比企谷『でも、話せば分かってくれるはず。だから話し合う時間を、な』

 

雪ノ下「そんな人とは何も話すことなんて無い」

 

比企谷『お前らしい言い方だな』

 

比企谷『俺だって逃げ出したい気持ちは大きいが、現状無理っぽいしな』

 

比企谷『そこで、お願いがある』

 

雪ノ下「逃げて、と言う私のお願いは聞きもしないのに勝手ね」

 

比企谷『そこは謝る。すまん』

 

雪ノ下「……分かったわ、分かりました。言ってごらんなさい」

 

比企谷『悪いな。んで、だ。どうするかお前に決めてもらう事にしたんだ』

 

雪ノ下「私はその女を白日の下に晒す。もう決まっているわ」

 

比企谷『最後まで聞けって』

 

比企谷『俺は到底受け入れられないが、このままだとたぶん俺は駄目だろう』

 

比企谷『だが冷静になった今なら、お前が説得できると思う。なんたって雪ノ下だからな』

 

雪ノ下「こんな時に持ち上げられても、お世辞にしか聞こえないわよ」

 

比企谷『だろうな。でもいつも思ってるよ。お前はすごいヤツだって』

 

雪ノ下「……ふん。しょうがないわね、やってあげるわ感謝しなさい」

 

比企谷『あぁ、俺を助けてくれ』

 

雪ノ下「もしもし」

 

平塚『やぁ、さっき振りだな』

 

雪ノ下「本当は嫌で嫌でしょうがないのですけれど、頼まれましたので」

 

平塚『随分な言い様だな。君はまだだろうが気持ちいいんだぞ』

 

雪ノ下「私はしませんし、そんな快楽分かりたくもありません」

 

平塚『いや、君だっていずれするさ』

 

雪ノ下「分かりたく無いと言っているでしょう!」

 

平塚『君は、存外潔癖なんだな』

 

雪ノ下「普通です。あなたのやっている事は犯罪なんですよ?」

 

平塚『そうだな、確かにそうかもしれないな』

 

雪ノ下「分かっているなら、何故こんな事を……。たかが快楽と言う自己欲求で……」

 

雪ノ下「その、くだらない事で何人もっ!」

 

平塚『くだらないとは失礼だな。それにそれだけが目的ではないぞ』

 

平塚『犯罪を犯しているのは理解しているが愛故にだよ』

 

雪ノ下「何が愛ですか。比企谷くんには今日だけじゃなく明日もその先もあるんです」

 

平塚『私にはその覚悟がある』

 

平塚『それに、ちゃんと私だって選んでいる。それがたまたま比企谷だっただけだよ』

 

平塚『ま、些か強引だったのは認めるが』

 

雪ノ下「あなたはもっと、高潔な方だと思っていました。素敵な女性だと」

 

平塚『嬉しいよ。そんな風に思っていてもらえたなんて、でも現実はこんなもんさ』

 

雪ノ下「今ならまだ引き返せるはずです。私も何とか力添えしますから」

 

平塚『信用しない訳ではないが君には少し荷が重いだろう』

 

平塚『気持ちだけ受け取るよ。後はやるだけなんだ、止まれないのだよ』

 

平塚『そうだ、やるだけなんだ。比企谷だって嬉しいはずだ、そうだろう?』

 

雪ノ下「やめて! 今話しをしているのは私でしょう」

 

平塚『何人相手にしても駄目なんだ、私は報われないんだ……』

 

雪ノ下「そこまで、堕ちていたなんて……」

 

雪ノ下「……相手なら私がしてあげます。あなたの気が済むなら全て差し上げます」

 

雪ノ下「だから、そこにいる比企谷くんはやめて下さい。お願いします」

 

平塚『先にも言ったが私はそこまで倒錯してはいない。君は自分を大切にするんだ』

 

雪ノ下「お願いします。お願いします……っ!」

 

平塚『くどい、どんなになっても私は女に手を出す気はない。プライドがあるんだ』

 

雪ノ下「そこを何とか、お願いします」

 

平塚『だから、君は駄目だ』

 

雪ノ下「……そう、ですか」

 

平塚『あぁ。もういいかね』

 

雪ノ下「私はあなたを許さない!」

 

平塚『いつかわかるさ、それじゃあ』

 

雪ノ下「この……っ」

 

平塚『イチャラヴセッ○スするぞ比企谷ぁ!』

 

雪ノ下「人ごr……ちょっと待って!」

 

雪ノ下「いや、待って、待ってください」

 

平塚『ここから私のサクセスロードが始まるぅ!』

 

雪ノ下「私に聞かれている時点で失敗してますし、とにかく待ってください」

 

平塚『もー、煩いヤツだな。手短にな』

 

雪ノ下「あなたは総武高校国語教師生活指導担当奉仕部顧問の平塚静先生ですよね」

 

平塚『よく噛まずに言えたな。そうだ。だが美人の、を付け忘れてるぞ』

 

雪ノ下「で、そこに居る男は目が腐っていて友達ゼロの比企谷八幡君」

 

平塚『君も酷いな。あぁそうだ』

 

雪ノ下「そして、あなたは世間を賑わせている犯罪者」

 

平塚『若い頃はやんちゃしたが、そこまでの事はしてないよ。あぁ今もピチピチだぞ』

 

平塚『君が言っているのはアレだろう。若い男が何人もという』

 

雪ノ下「え、えぇ」

 

平塚『それなら先ほど捕まったとテロップが出たぞ? 見てないのか』

 

雪ノ下「え? いえ、すみません。比企谷くんの事で手一杯で……てっきり先生が」

 

平塚『それで、あんな必死だったのか』

 

雪ノ下「その、何て言えば、申し訳ありませんでした」

 

平塚『いいよ。間違いは誰にでもある』

 

平塚『まぁ、誤解も解けたようだし。こっちも楽しむ事にするよ』

 

雪ノ下「それは話しが別です」

 

平塚『雪ノ下』

 

雪ノ下「条例。法律」

 

平塚『それはどうにかなる』

 

雪ノ下「塀の向こう側ってどんなところなんでしょうね、お話楽しみにしています。それでは」

 

平塚『わかった話し合おう』

 

雪ノ下「まず、比企谷くんを解放して下さい。それで、何も無かった事になります」

 

平塚『駄目だ、解放と同時に通報されるくらいならここで一花咲かせる』

 

平塚『どの道独りと言うなら獄中出産もやぶさかではない』

 

雪ノ下「では、この通話の間絶対に手を出さない事」

 

平塚『それでいいだろう。だが比企谷が我慢できなくなったら合意と見なしていいよな』

 

平塚『私がOK出してるんだから合意の下になるからな』

 

雪ノ下「条例があるのでどの道、ですが今は目を瞑ります」

 

平塚『だってさ比企谷! どうだ! M字だぞ! クッパァもしてやろうか?!』

 

雪ノ下「やめて! あなた女性でしょう!? 慎みを持ちなさい!」

 

平塚『誘惑は女性の武器だろう!』

 

雪ノ下「そんなだから比企谷くんも怯えるし、結婚もできないのよ!」

 

平塚『慎みで結婚できるなら、とっくに出来てるんだよ!』

 

雪ノ下「その考えがもう駄目ね……」

 

平塚『君は若いからそう言えるんだ。あと10年も独り身になってみろ』

 

平塚『両親の言葉の節々に()が見えるようになるんだぞ』

 

平塚『お隣の○○さん結婚したんだっておめでたいわね~(で、あんたまだなの?) とか!』

 

平塚『あげくにお見合いに失敗したときのアノ顔! 私の方が凹んでるんだよ!』

 

平塚『今日あった叔父もそうだ!』

 

雪ノ下「あぁ、ラーメン屋さんで遭ったと言うのは叔父様でしたか」

 

平塚『酔いに任せてまだかまだかと、悪魔の呪詛の様にせっつきやがって……っ』

 

雪ノ下「それで比企谷くんを彼氏に仕立て上げて、何て事にした訳ですか」

 

平塚『あぁ、そうだ……』

 

雪ノ下「でも、追いかけ回してまではやりすぎです。彼本当に怯えてました」

 

平塚『最初は楽しい食事を台無しにして、すまないと思ったんだが』

 

平塚『多少酒も入ってて、こう、ムラムラっとね』

 

平塚『なんか禁断っぽいなと思い出したら、もう限界で』

 

雪ノ下「教師云々ではなく、良識と常識を持ってください」

 

平塚『お互いが気持ち良いことするだけの事だぞ?』

 

雪ノ下「winwinの関係だとでもおっしゃりたいんですか?」

 

平塚『ウィンウィン動くおもちゃで独りよがりはもう飽きたんだ』

 

雪ノ下「……今ならひよこの気持ちが分かるわ」

 

酷い話だと思って読んでたら酷い話だった

 

雪ノ下「あのですね、性差に関係なく強姦は犯罪なんですよ?」

 

平塚『そんなの分かってる。だがここから始まる恋があってもいいじゃないか』

 

平塚『男なら一度くらい、逆レを妄想するだろう。どうだ比企谷ロマンだぞ』

 

雪ノ下「強要も駄目です」

 

平塚『駄目だ駄目だとばかり言うな君は』

 

雪ノ下「当たり前のことなのですが」

 

平塚『比企谷の服の匂いだけで我慢しているこちらの身にもなってくれ』

 

雪ノ下「何を……あぁ、それで彼は逃げられないのね」

 

平塚『うらやましいだろう』

 

雪ノ下「……全然」

 

雪ノ下「はぁ、先生ならば引く手数多でしょうに。態々危険を冒さなくても」

 

平塚『そうは言うがな、ならば何故結婚出来ないんだ私は』

 

雪ノ下「今のように、とち狂った蛮行に走るからですよ」

 

平塚『雪ノ下がいぢめる! 比企谷慰めてくれ! 弱った女は好物だろう!』

 

雪ノ下「だから、やめなさいと言っているでしょう!」

 

雪ノ下「わかりました。妥協案を模索しましょう」

 

平塚『お前、紹介するような人脈ないだろ』

 

雪ノ下「黙って下さい。私だって杓子定規に生きているわけではないので」

 

雪ノ下「教師と生徒の恋愛がある事くらい、理解しています」

 

平塚『なら、いいじゃないか』

 

雪ノ下「普通の恋愛をするならば、です。あなたが今行っている行為は駄目です」

 

雪ノ下「そうですね、葉山君は?」

 

平塚『駄目だ。あいつは良家すぎる。私なんかが手を出したら社会的に殺される』

 

雪ノ下「では、あの騒がしい……戸部?君辺りは」

 

平塚『あの手のタイプは他に女を作る。私が何人その手の類に騙されて来たと思ってるんだ!』

 

雪ノ下「それは流石に言い過ぎでは……? 仮にもあなたの生徒でしょう」

 

平塚『雪ノ下分かってくれ……』

 

雪ノ下「そんな事言われても、あ、戸塚君は?」

 

平塚『夫婦に見えるか?』

 

雪ノ下「……ごめんなさい。親子にしか」

 

平塚『だろう。だから比企谷がベストなんだ。親もいい加減だし、押し切れそうなのは……』

 

雪ノ下「姉さん、そう! 姉さんに私からお願いしますから!」

 

平塚『ふっ、甘いよ。そんな事はもうしたさ、でも駄目だったんだ……』

 

雪ノ下「そんな、でも、見過ごせません」

 

平塚『お願いだ雪ノ下。見なかった事にしてくれよ』

 

雪ノ下「駄目です、出来ません」

 

平塚『……避妊はちゃんとする』

 

雪ノ下「そういった問題ではありません。考え直して下さい」

 

平塚『ふーっ、わかった』

 

雪ノ下「! では……!」

 

平塚『パンさんだ』

 

雪ノ下「え?」

 

平塚『等身大、特殊骨格内蔵のディスティニーがフル監修したやつだ。限定3体の』

 

平塚『そのうちの一体が、ある番組の視聴者応募プレゼントになったのは知っているだろう』

 

雪ノ下「!」

 

雪ノ下「あれはそうそう手に入るものじゃありません。私にも無理でしたから」

 

平塚『普段運に恵まれてないと、何故かこういったとき引くのだよ』

 

平塚『何の気なしに応募したのが当たったのだ。当然未開封だ』

 

雪ノ下「証拠がありません。今思いついた嘘でしょう」

 

平塚『わかった。比企谷に写メを送らせる。 おい、充電は済んだだろう。ん?アドレス?』

 

平塚『すまない雪ノ下のアドレス教えても構わないか?』

 

雪ノ下「仕方ありません。どうぞ」

 

ピロン ピロン

 

雪ノ下「!」

 

雪ノ下「これは……!」

 

平塚『どうだい、信じてもらえたかね』

 

雪ノ下「もう少し部屋を綺麗にしたらどうですか」

 

平塚『五月蝿いよ!』

 

平塚『だがこれで信じただろう?』

 

雪ノ下「え、えぇ。でも、そんな天秤に掛けるなんて、出来るわけが」

 

平塚『好きなポーズを取らせられるんだぞ、それこそ抱き絞めてくれるんだ』

 

雪ノ下「でも、それはランドに行けば……」

 

平塚『朝起きたとき、帰宅したとき、就寝前、眠る間』

 

雪ノ下「……」

 

平塚『君が頷いてくれるだけで手に入るんだよ』

 

雪ノ下「私は……、えっと、比企谷くんを、でもパンさんが……」

 

平塚『モノがモノだけに、当選者に対してマスコミ、取材関連は接触・公表が禁止されている』

 

平塚『自己申請は別だがな。つまり誰にも邪魔されず楽しめるのだよ』

 

平塚『憧れの者に抱かれる幸せは私にもよくわかるんだ』

 

平塚『同じ女として、その幸せを分かち合おうと言っているんだ』

 

雪ノ下「パンさん……。比企谷くん……」

 

『おい雪ノ下! ただのヌイグルミだろうが! こんなもんと比べるなよ!』

 

雪ノ下「!」

 

雪ノ下「ただの……? こんなもの……?」

 

雪ノ下「……」

 

雪ノ下「決めました」

 

平塚『そうか、では聞こうじゃないか』

 

雪ノ下「私は……」

 

雪ノ下「尊敬する教師から、素敵なプレゼントを譲り受けただけ、それだけでした」

 

平塚『そうか!』

 

 『お、おい。雪ノ下さん……?』

 

雪ノ下「いい事、比企谷君。パンさんは居るの。分かる?」

 

 『所詮二次元だろうが!』

 

雪ノ下「二次元って言わないで!!!」

 

 『俺の貞操はどうなる!』

 

雪ノ下「黙りなさい。あなたは言ってはいけない事を言ったのよ」

 

『お前、ホント、お前っ!』

 

平塚『では、明日にでも贈るよ』

 

雪ノ下「えぇ、楽しみにしています。素敵な夜を。避妊だけはお願いします」

 

平塚『わかってる。順番はちゃんとしたいからな。それでは』

 

『ちょ、だm、イヤァァァッ!』

 

プツ

 

 

雪ノ下「しょうがないのよ……。パンさんはいつ手に入るかわからないのだもの」

 

prrr prrr

 

雪ノ下「……はい」

 

平塚『お前実況好きって言ってただろ。特別だぞ! ほらほら比企谷どうd』アッ アッ センセッ ダm

 

雪ノ下「……」ピッ

 

雪ノ下「パンさん……」

 

パンさん「……」※八幡がとったやつ

 

 

雪ノ下「私にそんな趣味はないわ。えぇ、本当よ」

 

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元スレ

http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1398532910/

二乃「そりゃ……ご褒美に、気持ちよくしてやらないこともないと、思っていたところだけど……///」【五等分の花嫁ss/アニメss】

 

らいは「おにーちゃん!朝だよ!起きてー!ご飯できたよー」

 

違和感に気がついたのは朝起きてからだ。

 

風太郎「らいは。顔に0って書いてあるぞ」

 

らいは「ゼロ?」

 

風太郎「ああ。デカデカと大きな字で」

 

らいは「お父さん、本当?」

 

勇也「あ?何も書いてねぇよ。勉強しすぎて目ぇ悪くなったんじゃねーか」

 

おかしい。目をこする。

 

らいはの顔に書いてあった数字はだんだん薄くなっていった。

 

らいは「お兄ちゃん、寝ぼけてる?」

 

風太郎「いや、確かにゼロ……1週間の◯ナ◯ーの回数がゼロって顔に」

 

らいは「なにそれ?」

 

勇也「ぶっ!何言ってんだ風太郎!」

 

らいは「?」

 

風太郎「あ、いや、忘れてくれ」

 

親父から拳骨を食らったのはガキの頃以来だった。

 

風太郎「手加減を知らねえんだから……クソオヤジ」

 

タンコブが出来た頭を撫でながら、俺は学校へ向かった。

 

寝ぼけていたのだろうか。らいはの顔に確かに、1週間の回数が浮かび上がっていた。

 

ガラガラヘビの鮮やかな縞模様が誰に教わらずとも危険だと認識できるように、俺はあの数字の意味をなにかに教わる事なく、直感的に知っていた。

 

まだ夢うつつだ。馬鹿なことは忘れよう。どうやら、定期テストの勉強で根を詰めすぎたらしい。ここのところ、睡眠時間が平均3時間を切っている。

 

一花「おっはー。フータロー君、顔色悪いけど大丈夫?」

 

通学路でばったり一花と会った。

 

風太郎「ん?」

 

またあのときの感覚だ。らいはの顔に、数字が浮かんできた時と同じだ。

 

一花の顔に数字がゆっくりと浮かび上がってきた。

 

風太郎「8回!?」

 

一花「え?何が?」

 

風太郎(1週間で8回はかなり多いんじゃないか?1日1回以上……こいつ、なんて時間の無駄使いをしていやがる)

 

一花「さっきから私の顔ジロジロみて、どうしたの?見惚れちゃった?あはは」

 

風太郎「いや、何でもない。忘れてくれ。時に一花。お前、昨日はちゃんと勉強したよな。勉強したノートみせてみろ」

 

一花「うっ。いやー、アッチの方が忙しくて。ごめんっ!今日はちゃんとやるからっ」

 

風太郎「アッチってどっちだ!?」

 

一花「最近また仕事が忙しくて……えへへ、また新しい映画に出れることになったんだ」

 

風太郎「労働基準法では未成年者の労働は22時までと決まっているんだが。夜はたっぷり時間があるだろ」

 

一花「もーっ、たまには休んでもいいじゃん」

 

風太郎「家帰ってからナニした!教えろ!」

 

一花「相変わらずノー・デリカシーの名を欲しいままにする質問だね・・・」

風太郎「勉強しなきゃダメだ!定期試験2週間前だぞ!直前に追い込まれて勉強するより、日頃からの習慣づけが大事なんだ」クドクド

 

一花「はいはい」

 

風太郎(反省の色が見えないな)

 

風太郎(もしかして、こいつらが成績悪いのは、己の快楽に耽っているからじゃないか?)

 

風太郎(そうならば他の姉妹も確認しなければ!)

 

風太郎「悪い、一花!急いで学校へ行くぞ!」

 

風太郎(もしかしたら、これがこいつらの成績改善につながるヒントになるかもしれん!)

 

一花「ちょっとまってよー!フータロー君、突然どうしたの!?」

 

 

風太郎「はぁーっ、はーっ……急ぎすぎた……」

 

風太郎(一花とはどこかではぐれたようだ)

 

四葉「あれ?上杉さんも朝練ですか?汗だくで走って来たんですねっ!」

 

校門の近くで、ランニングする四葉とばったり遭遇した。

 

風太郎「あ?お前、何やってるんだ?」

 

四葉「何って、駅伝の練習……はっ」

 

風太郎「お前!あれだけ、テスト前は部活をするなと言ったのに!また赤点だぞ!」

 

四葉「ご、ごめんなさ~い、上杉さん!べ、勉強はちゃんとしていますから!ご安心を!文武両道、質実剛健、それが最上級学年の中野四葉であります!」

風太郎「本当に勉強しているんだろうな?」

 

四葉「信じてくださいっ!この真っ直ぐな瞳を!」キラキラ

 

風太郎「うーむ」

 

四葉の顔をじっと見つめると、ゆっくり数字が浮かび上がってきた。

 

風太郎(3回か。一花よりは少ないが)

 

四葉「どうかしましたか?」キョトン

 

風太郎(実際のところどうなんだ?女子高生の平均回数がわからないから断定できないが)

 

風太郎(赤点すれすれの奴が部活とバイトをしながら、さらにそんなことをしている余裕はあるのか?勉強時間は確保出来ているのか?)

 

四葉「上杉さん?怖い顔してますよー?」

 

風太郎「四葉。昨日の夜はナニしていた?」

 

四葉「昨日の夜……」ポワポンポワ~ン

 

四葉「っ……///いくら、上杉さんにも言えないことくらいありますっ!私にだってプライバシーありますから!」

 

風太郎「勉強はしなかったんだな?(威圧)」

 

四葉「勉強も、しました!」

 

風太郎「何時間した。答えろ」

 

四葉「ええっと。0.1時間……くらい」

 

風太郎「このアホー!たった6分で何が学べるんだ!」

 

四葉「継続は力なりぃ……」

 

風太郎(ダメだこいつ。だが、まだわからない。3回。もっとデータを集めて平均を出さねば)

 

四葉「それじゃ、上杉さん、また教室で!」ドヒューン

 

風太郎「くそっ!まだ説教は終わっていないぞっ!四葉ー!」

 

二乃「朝っぱら何大声出してるのよ」

 

風太郎「二乃か……ちょうどいいところにいた」

 

二乃「あら?そんなに私に会いたかった訳?昨日の夜も一緒だったじゃない、フー君っ」

 

風太郎「一緒だったのはバイトが終わるまでだ。あの後帰ってからちゃんと勉強したんだろうな」

 

二乃「んー、どうだったかしら」

 

風太郎(信じているぞ、二乃!)

 

二乃「ん?じっと見つめないでよ、照れるわ///」

 

風太郎「3回。四葉と同じか」

 

二乃「何が同じなの?」

 

風太郎「いや、こっちの話だ。お前らの成績にも関係する問題だが」

 

二乃「?」

 

風太郎(3回くらいが平均値なのか?一花は飛び抜けてるが……成績は一花の方がいいから、回数と成績は相関しないのか?)

 

二乃「ちょっと、今日のあんた変よ」

 

風太郎「時に二乃。お前昨日の夜」

 

二乃「ん?」

 

風太郎(そういえばこいつ俺の事好きなんだよな)

 

風太郎(落ち着け、上杉風太郎。くそっ、あの告白さえなけりゃ、二乃になら聞けたかもしれないのにっ!)

 

二乃「昨日の夜もあんたの事考えていたわよ」

 

風太郎「……は?」

 

風太郎(それはどういう意味だ、二乃……)

 

二乃「好きな人の事、考えるの当然じゃない。あんたはどうなのよ?」

 

風太郎「いや、俺は……昨日は勉強してたから」

 

二乃「はぁー。勉強中もたまには私達の事、考えなさいよ。

 

いつものお礼を考えていたんだから……ほら、毎日貧相な白米ばかり食べてるあんたのために、お弁当作ってあげたわよ」

 

風太郎「二乃様神様仏様!食費がらいはの文房具代に回せるぜ…!」

 

二乃「それじゃ、今日はお昼ご飯、二人で一緒に食べましょ」

 

三玖「ちょっと待った」

 

二乃「げっ! 三玖!」

 

三玖「私だって……フータローの事考えていた。お弁当作ってきたんだから」

二乃「珍しく早起きしていると思ったら……チッ」

 

三玖「抜け駆け禁止。お昼ごはん、みんなで食べよ?」

 

風太郎「サンキュー三玖。これで夕食分も食いだめできる……って、お前ら、弁当作ってる暇あったら勉強をしろ!」

 

三玖「うっ」

 

風太郎(三玖はもう心配ないと思うが。回数と成績の相関を確認せねば)

 

風太郎「ゼロ!ゼロ!圧倒的ゼロ……!信じていたぞ、三玖!」ガシッ

 

三玖「ちょっと、フータロー。突然、顔、近い……」

 

二乃「こら、離れなさいよ、フータロー!」

 

風太郎「俺は今、モーレツに感動している!お前が一番(ナンバーワン)だ、三玖!」

 

三玖「えっ……それって……告白///」

 

風太郎(快楽を貪ることなく、ただひたすら勉学に励む姿美しい)

 

風太郎(やっぱり三玖が俺の一番の生徒だ!他の姉妹の手本となるべき姿だ!)

 

二乃「告白じゃないっ…!ノーカン!今のノーカンよ!」

 

風太郎「黙れ週3回の女!」

 

二乃「はぁ!?」

 

風太郎「少しは三玖の姿勢を見習うんだな」

 

三玖「私が一番……私が一番……」ポワ~ン

 

二乃「今日のあんたなんかおかしいわよ!三玖も早くコッチの世界に戻ってきて!」

 

ぎゃーぎゃー

 

五月「うるさいですね、朝から」

 

風太郎「最後は五月か」

 

風太郎(こいつは少し心配だ)

 

風太郎(一見真面目に見えて、姉妹の中で一番欲望に弱そうだ)

 

風太郎(食欲が強い奴は性欲も強いと聞いたことがある)

 

風太郎(だが、逆に、性欲を食欲で代償している可能性もある)

 

風太郎(適度な食事は脳にブドウ糖を補給するという意味で、見習うべきところだが)

 

五月「どうしたんですか?そんな真剣な顔して」

 

風太郎「信じているぞ、五月!」

 

ここまで一花が週8回。二乃と四葉が週3回。三玖は週0回!

 

このデータは今後の家庭教師の上でとても参考になる。

 

五月は成績は5人の中では中くらいだ。それでも、勉強や夢へ向かう姿勢は、尊敬できるところがある。

 

不器用だが、だからこそ報われてほしいとずっと応援しているんだ。

 

そんな五月が、欲望に溺れるはずがない。そう信じたい俺がいた。

 

風太郎「ぐわぁ~~~!8回!やはり肉まんおばけは自制心がなかったぁー!」ガックリ

 

五月「に、肉…!!知りません、あなたのことなんて!」パシーン

 

三玖「私が一番。フータローの一番」ブツブツ

 

一花「あれー?みんな集まってどうしたの?」

 

二乃「今日はそっとしてあげましょう、一花。勉強病の発作よ……」

 

一花「たまには息抜きしなくちゃダメだよ、フータロー君。お姉さんが手伝ってあげよっか?」

 

風太郎「お前は息抜きしすぎだ、アホ」

 

一花「ひどい!」

 

五月「根の詰め過ぎは良くないと教えてくれたのはあなたじゃないですか」

 

風太郎「適度があるだろ、適度が!週8回は多すぎィ!」

 

二乃「さっきからなんの回数よ、それ」

 

風太郎「あ、いや、何でもない」

 

一花「私も8回って言われたけど」

 

二乃「私は3回。三玖は0回。四葉は何回だったのかしら?」

 

風太郎「四葉は週3回だ」

 

三玖「回数が少ないほうが、フータローが喜ぶ。私が一番」

 

一花「なになに~?気になるな~?」

 

風太郎「この回数は今後の家庭教師の上で参考にするぞ。それじゃあ各自、授業に集中し、2周間後に控えた定期試験に向けて勉強に励むように!」

 

一同「はーい」

 

 

風太郎(なんとか成績向上のために、あの回数を利用したい。三玖はいいとして、他の4人はテスト前なのに自覚がなさすぎる!)

 

風太郎(特に一花と五月。1日1回以上している日がある計算になる。そんなにしていれば、成績に悪影響を及ぼしているのは間違いない)

 

風太郎(この点は指導する必要があるな)

 

風太郎(そして週3回組の二乃と四葉。週3回……難しいところだ。もしかしたら、ストレス解消で成績向上につながっている可能性もあるが)

 

風太郎(やはり勉強時間を圧迫しているのは間違いない。この点、詳細に確認する必要がある。場合によっては指導しなければ)

 

風太郎(最後は三玖。0回というのは素晴らしい数字だ。しかし、逆に不安になる。他の4人があんなに励んでいるのに、一人だけ禁欲していて大丈夫か?)

 

風太郎(ストレスは溜まっていないのか?逆にストレスが成績を下げる原因になったりするからな)

 

風太郎(デリケートな問題だけに、慎重な対応が必要だ。さて、早速、今日から彼女たちの個別指導に当たろう。)

 

 

風太郎(まずは三玖の指導からだ)

 

三玖は俺と二乃がバイトしているレストランの向かいのパン屋で働いている。

彼女が就職してからなぜか売上が下がったらしいが、理由はわからない。

 

俺は彼女と二人きりで話すために、店の前で仕事が終わるのを待った。

 

三玖「あれ?フータロー?お店の前でどうしたの?」

 

風太郎「偶然だな。俺も仕事終わったとこだ」

 

三玖「二乃は?」

 

風太郎「今日は休みだ。一緒に帰らないか?」

 

三玖「うん。いいよ」

 

三玖は小動物のように俺のそばにぴったりと寄り添ってきた。

 

情緒が不安定な五つ子達の中で、三玖は一番安定しており、出会った当初は気まずさがあったものの、早々に優秀な生徒になってくれた。

 

俺が五つ子の家庭教師としてなんとかここまでやってこれたのは三玖という協力者の力が大きい。

 

二乃や五月と違って、不満を口にしない三玖だが、俺は逆に心配になる。

 

彼女だって人間だ。不満を中に溜め込んでいてもおかしくはない。それがいつか大爆発して、悲劇の引き金にならないとも限らない。

 

彼女の内に秘めた不満を引き出し、ストレスを解消して成績向上につなげる。これは家庭教師の仕事だ。

 

風太郎「あのさ三玖…なにか悩みはあるか?」

 

三玖「どうして?」

 

三玖は怪訝そうに俺を見ている。

 

風太郎「パン屋のバイトも大変だろ。慣れないうちは俺もバイトだけで精一杯だった。勉強してる余裕もなかったのに、お前は勉強も頑張っている。」

 

三玖「……///」

 

風太郎「すごいと思うぞ。他の姉妹は勉強やバイト以外のこともやってるし」

三玖「勉強やバイト以外のこと?」

 

風太郎「なんでもない。で、そんな優秀なお前を見ていると少し心配になってな。悩みとかを溜め込んでしまってるんじゃないかと」

 

三玖「フータロー……私のこと、見てくれてたんだ///」

 

風太郎「そりゃ、一応お前のパートナーだから」

 

三玖「……うれしい///」

 

しばらく俺たちは無言で帰路を歩いた。

 

肝心の悩みを聞き出せないのがもどかしいが、ここは口下手な三玖が自分の言葉で悩みを打ち明けてくれるのを辛抱強く待った。

 

三玖「悩み、あるよ」

 

家が近くなったところで、彼女が口を開いた。

 

三玖「聞いてくれる?フータロー。絶対、笑わない?」

 

風太郎「ああ、絶対に笑わん」

 

三玖「……好きな人がいるんだ」

 

風太郎「……は?」

 

風太郎(定期テスト前の大事な時期に恋愛にうつつを抜かすとは馬鹿なやつだ)

 

風太郎(……と、彼女たちに出会う前の俺なら一蹴しただろう)

 

風太郎(だが、彼女たちと出会って、俺は人を好きになるという真剣さを、以前ほど馬鹿に出来なくなっていた)

 

風太郎(とはいえ、三玖に好きな人がいるとは……)

 

風太郎(誰だ?クソパン屋のバイト仲間か?それともクラスの奴か?)

 

風太郎(どこの誰か知らないけど、そいつのせいで三玖が赤点とったら潰すぞ……ガキが)イライラ

 

三玖「フータロー?顔険しいけど、大丈夫?」

 

風太郎「そうか?」ピキピキ

 

三玖「安心して。勉強は集中して頑張っているから」

 

風太郎「お前に関してはその点は心配していない。でも、誰なんだ?好きな人って」

 

三玖「知りたい?」

 

三玖は真剣な眼差しで俺を見つめてきた。

 

風太郎「あ、いや。言いたくないなら言わなくていい」

 

聞くのが怖かった。

 

三玖「もし、次の定期試験で、私が姉妹の中で1番だったら、教えてあげる」

三玖「そしてフータローにお願い。もし、私が1番だったら。私のお願いを何でも1つ叶えてほしい」

 

三玖「それくらい、いいよね?」

 

三玖が俺の手をぎゅっと握りしめてきた。

 

勉強の結果で何かを与えるというやり方は好きじゃない。テストの結果それ自体が、彼女たち自身の見返りだからだ。

 

しかし、努力に報いるのも家庭教師の仕事だ。成績向上のためには飴と鞭をうまく使い分ける必要もある。

 

だが、俺はこのときの三玖のお願いに、ただならぬ迫力を感じた。

 

引き受ければ逃げることは出来ない。そのまま、心の臓を握りつぶされてしまうのではないかというくらいの気迫だ。

 

どんな無理難題をふっかけられる?もしかして、家庭教師代をタダにしろって話か?

 

俺の本能が警告を発している。

 

風太郎「何でもって何だ?世界一の金持ちにしろとか、金銀財宝をよこせとか、そういう願いはちょっと」

 

三玖「大丈夫。お金関係じゃないから」

 

風太郎(ということは家庭教師代の話じゃないな)

 

風太郎「法律違反も出来ないぞ?殺したい奴がいても俺は手を貸せない」

 

三玖「それは自分でやるから大丈夫」

 

風太郎「今の俺にできることか?」

 

三玖「うん。今のフータローに出来ること」

 

風太郎「それなら……まあ。予算は1万円以内だぞ。俺の全財産だ。五月御用達の高級レストランで奢りは出来ないからな!」

 

三玖「約束してくれる?」

 

風太郎「ああ。約束するよ。お前が姉妹の中で1番だったら、願いを叶えてやる。俺の全力で」

 

三玖「やった」

 

この時、自慰にも耽らず、禁欲的に勉強している三玖が願う事を叶えてやりたいという気持ちが、俺の中の本能の警告を上回った。

 

だが、俺はこのときの三玖の表情に底知れない不安を感じずにはいられなかった。

 

果たしてどんな無理難題を押し付けられることやら。

 

 

指導成功!

三玖の勉強へのモチベーションが上がった!

次のテストで赤点回避が確定した!

 

 

風太郎「三玖は勉強を以前よりも頑張っているみたいだな」

 

風太郎「好きな人がいるという悩みは心配だが、自慰もしていないようだし、それで駄目になることはないだろう」

 

風太郎「問題は、他の姉妹か」

 

 

風太郎「さて、次は五月だな」

 

風太郎(週8回か。澄ました顔してこいつもやることやってるんだな)

 

風太郎(別に性欲自体を否定する気はない。問題は、大事な定期テスト前に、勉強時間を削って自慰に耽っているという事なのだ)

 

風太郎(逆に、それだけストレスが溜まっているという事であるなら、これは大きな問題だ)

 

五月「ミートスパゲティカツカレー親子丼セット頼んでいいですか?」

 

風太郎(前言撤回!こいつは食欲も性欲も強いだけだー!)

 

五月「いやー、奢りっていいですね。上杉さんが突然、ファミレスに誘って来た時はどんな裏があるのか心配しましたが」

 

五月「食べて栄養つけないと頭回りませんよ。で、今日はなんですか?」モグモグ

 

五月「貧乏な上杉さんが奢ってくれるというというのなら、よほど大きな頼み事なんでしょう?」モグモグ

 

風太郎「頼み事というよりは、勉強の指導なんだが。それに誘ったが、奢りじゃない」

 

五月「ええっ!?男の人にサシで晩ご飯誘われたら、大体は奢りだって……一花が言って///あわわっ、勝手に勘違いしてすみませんっ」

 

風太郎(ひどい勘違いだ……だが、指導失敗した時は奢りにしてごまかそう)

五月「……上杉さんの注文、水だけですよね……カツカレーのカツでも食べます…?(断腸の思い)」

 

風太郎「いや、念の為、今日は水だけでいい。そんなことより五月。今日誘った訳はだな……お前の抱えているある問題を解決したくて」

 

風太郎(図書館や学校で話せる話題じゃないし、他の姉妹がいたらややこしくなるからな。なんとかこいつ一人切り離して話したかった)

 

五月「私の……問題ですか」

 

風太郎「ああ。心当たりはあるか?」

 

五月「もしかして、体重……あっ、いえ、体重は大丈夫ですよ!女子高生の±2SD以内には入っていますからっ……///」

 

風太郎(志が低すぎませんかね)

 

風太郎「正直俺はお前の体重が何kgであろうと興味はない。体重と一緒に偏差値も+2SDをオーバーしてくれるのならな。俺はお前に惚れるぞ」

 

風太郎「8回。この数字に見覚えはあるかね、五月君」

 

五月「8回……?これまで次郎系ラーメンを完飲した数……ですか?」

 

風太郎「一旦食の話から離れてくれ。この回数が多ければ多いほど、お前のテストの点数が下がるんだ」

 

風太郎(とは言っても直接自慰の回数とは伝えにくい。なんとかうまく指導して、自慰の回数を減らす方向に誘導しなければ)

 

五月「それは確かに問題だと思いますが……見に覚えがありません」

 

風太郎「そうだな、五月」

 

風太郎「三玖が最近、お前の風呂が長いとボヤいていたぞ」

 

五月「三玖が?」

 

風太郎「三玖だけじゃない。二乃や四葉も言っていた。一花は……お前と同じくらい長いだろうけど」

 

五月「お風呂が長い…?」

 

風太郎(察してくれ、五月!お前、どうせ風呂でヤッてんだろ?引っ越してから個室なくなったよなぁ?流石に姉妹と一緒に寝ている寝室ではしないだろ?)

 

五月「それと私の問題とナニが関係……8回……」

 

五月「意味がわかりません。そんなにお風呂長いほうじゃないと思いますが」モグモグ

 

風太郎(駄目だ。こいつ察しが悪すぎる…)

 

五月「チェーン店ですが美味しいですね、たまにはファミレスのご飯も。ごちそうさまでした。上杉さん、これから私はデザートを頼もうと思いますが構いませんね?」

 

風太郎「まだ食うのか…」

 

五月「このデラックスパフェ、特盛で」

 

風太郎(クソ。時間がかかるほど、失敗したときのリスク(奢り代金)がかさんでいく……!次が俺の財布的に最後のチャンスだ…)

 

風太郎(なんとか、五月に回数が多いことを伝えねば)

 

風太郎「あのな、五月」

 

風太郎「昨日の夜、寝る前に何をした?」

 

五月「何をって決まっているじゃないですか」

 

風太郎「勉強はもちろんしたと思うがそれ以外で」

 

五月「勉強以外、ですか」

 

五月「……」

 

五月は少し考え込んだ。

 

五月「はて?勉強以外した記憶は特にありませんが」カタカタ

 

スプーンを持つ手が震えている。

 

五月「当たり前じゃないですか!テスト前ですから。勉強に集中していますよ、私は!」カタカタ

 

こいつ、黒だ。

 

この反応、絶対に疚しい事をしている。

 

ここはもう少し、追い詰めてみるか……

 

風太郎「これで赤点だったら、みんな悲しむぞ」

 

風太郎「勉強に集中せず、自分の快楽を優先した結果」

 

風太郎「五月は落第。お前の場合、お前一人の問題じゃない」

 

風太郎「一花も二乃も三玖も四葉も一緒に留年なんだぞ」

 

風太郎「その原因が、お前の自堕落な行いだったとみんなが知ったらどう思うかな?」

 

五月「あの、その……ああぅ……ごめんなさい」

 

五月のパフェを食べる手が止まった。顔を真赤にして、己の行いを悔やんでいる様子だ。

 

これで指導は成功だ!流石に反省して、次のテストまでは自重するだろう。

 

風太郎「わかればいいんだ。これからは勉強に邁進するように」

 

五月「はい……ですが、上杉さん、あなたはどうしているのですか?」

 

風太郎「ん?」

 

五月「私だって……別に楽しくてしている訳じゃないのですが……どうしてもしたくなる時はあるじゃないですか」

 

五月「ですから……昨日はそういう日だったので……つい」

 

五月「そういえば以前、一花から聞いたのですが……男の子は一日平均三回はしないと大変なことになると」

 

五月「本当にそうなんですか?そんなにやったら馬鹿になりますよね?上杉さんは馬鹿じゃないから我慢しているんですよね?」

 

五月「後学のために教えて頂きたいのですが、上杉さんは週何回くらいなんですか?」

 

風太郎(まずい。思ったより深入りしてしまったっ……!勝利を確信した瞬間、思わぬ反撃を喰らったっ……!)

 

五月「……」ジーッ

 

風太郎(ここで流石に五月よりしていると答えたらあまりにもバツが悪い)

 

風太郎(していないと答えるのがベターか?しかし、それはそれで心配される可能性もある……!常識的な範囲内で……嘘をついてみるか)

 

風太郎(というか、俺友達いないから、周りが週何回なのかわからん……)

 

風太郎(というか、一日3回が平均って一花情報は本当か?一花はナニを知っているんだ)

 

風太郎「五月。周りに絶対言うなよ。約束だぞ」

 

五月「はい。約束します」

 

風太郎「俺の場合は週1回だな」

 

五月「週1回、ですか……」

 

風太郎(とりあえず無難な数字で置きにいったが)

 

風太郎(100回とかありえない数ではぐらかした方が良かったかもな)

 

風太郎(逆に無駄なリアル感が出ちまった……)

 

風太郎「ほら、パフェ食えよ、五月。まだ残ってんだろ。早く帰って勉強しようぜ」

 

五月「上杉さん……大丈夫ですか?」

 

五月「私達に勉強を教えているせいで、する時間がないんじゃ」

 

風太郎「いや、それはお前が心配する問題じゃないというか、俺個人の問題だし」

 

風太郎(くそーッ!嘘をついたせいで心が痛いぜ!)

 

五月「ですが、上杉さんは私の回数を心配してくれていたんですよね?」

 

風太郎(追い詰めていたと思ったらいつの間にか追い詰められていたのは俺だった…?)

 

五月「私にだって、あなたの事を心配する権利があります。パートナーですから」

 

五月「それで、いつもはどこでしているんですか?らいはちゃんと暮らしていると難しいですよね?どういう工夫をしているんですか?」

 

五月「あと男の人は、気持ちを高めるために……本とか、ビデオとかを使うんですよね?そこのところ、どうしているんですか?」

 

五月「道具とか使っているんですか?した後に賢者になるって本当ですか?」

風太郎「五月。興味津津なのはわかった。だが」

 

店長「あのー、お客様。そういったお話はできれば、プライベートな空間でして頂きたく……他のお客様から苦情もありますので」

 

五月「……///」ボッ

 

食いかけのパフェを残して俺たちは逃げるように店を出た。

 

 

五月「それでは、私も上杉さんを見習って勉強をがんばります」

 

五月「上杉さんもどうかご自愛下さい」

 

五月「もし、私にお手伝い出来ることがあれば……力になりますから」

 

最後に意味のわからないことを言っていたが、なんとか五月の指導を成功させる事ができた。

 

指導成功!

五月の勉強へのモチベーションが上がった!

次のテストで赤点回避が確定した!

 

 

風太郎「ふぅ。この手の話で1番怒りそうだった五月をなんとか乗り切った……」

 

風太郎「自信がついてきたぞ」

 

風太郎「次は…一花にするか」

 

 

一花「突然、こんな人気のないところに呼び出して何の用かな?」

 

放課後、一花を校舎裏に一人呼び出した。

 

風太郎「大事な話があるんだ」

 

一花「愛の告白とかーーなんちゃって」

 

風太郎「……」

 

一花(まさか、だよね。フータロー君に限ってそんな事ないと思うけど)ドキドキ

 

一花(そんな真剣な表情されたら、期待しちゃうよ)ドキドキ

 

風太郎「俺たちを裏切っていないか?」

 

一花「え?」

 

一花の顔から血の気が引いたのがわかった。

 

図星だ。勉強を疎かにして自慰に耽る、己の行いを恥じろ!

 

一花「えっ……嘘。どういうこと、かな」

 

一花は落ち着きなく、左耳のピアスを弄っている。

 

風太郎「胸に手を当ててよく考えるんだ。俺と、他の姉妹。特に三玖を裏切っただろ」

 

三玖は勉強に集中するという約束を守って、禁欲的に勉強している。

 

そんな妹をこの姉は裏切り、夜な夜な時間を浪費して快楽を貪っているのだ。

これを裏切りといわずして、なんと言う?

 

一花「あっ、その……それは違くて」オロオロ

 

一花「いつから、気がついたの……三玖はこの事、知ってるの?」

 

風太郎「三玖は知らないだろう。俺も気がついたのは最近だ」

 

一花「お願いっ……謝るからっ……他の子達には内緒にしてっ」

 

一花(バレてた、バレてた、バレてた……!三玖のフリして、三玖の想いを踏みにじった事……!)

 

一花(どうして?完璧な変装だったのに。このこと、三玖にバレたら全部終わる……三玖じゃなくても、多分、姉妹の誰も私の事、許さない)

 

一花は涙目になって俺にすがりついてきた。あの一花が、ここまで動揺するとは想定外だった。

 

内緒にするまでもなく、三玖以外の4人も同じ事をヤッているのだが……

 

長女故に、一花は五月よりも責任感と罪悪感が強いようだ。

 

風太郎「他の姉妹に言えないような事、するなよ」

 

一花「ごめんなさい……お願いだから、他の子には言わないで……」

 

一花「何でもするからっ!三玖にだけは……言わないで……」

 

一花は涙目になっていた。

 

風太郎「何でもする覚悟があるんだな、一花」

 

一花「……はい」

 

ここはしっかり一花を教育しなくてはいけない。

 

風太郎「そんな反省しているお前には……」

 

一花「ううっ……ごめんっ……三玖……ごめんっ」ポロポロ

 

風太郎「じゃじゃじゃ~ん!各教科1冊ずつの新しい問題集(手作り)だァー!」

 

風太郎「合計5冊!内容は今のお前たちのレベルよりワンランク上だがな」

 

風太郎「テスト範囲分を頑張って俺が手書きで写したんだぞ」

 

風太郎「これをテスト2日前までに解いて俺に提出すること!」

 

一花「……ん?」

 

風太郎「言っておくが、今のお前じゃコレを完璧にこなそうと思ったら、それはもう寝る間も惜しんで取り組まないといけない」

 

風太郎「だが、お前は寝る時間を削る前に、削る事が出来る時間があるはずだ」

 

一花「あれ?フータロー君。どういうこと、かな?」

 

風太郎「みなまで言うな。お前が反省しているのは十分にわかった」

 

風太郎「何でもやるという覚悟を示したなら結果を残せッ!それが三玖へ唯一報いる道だ」

 

一花(フータロー君はそう言い残して私に問題集を渡してクールに去っていった)

 

一花(どうやら私が最も恐れていた事が起きた訳じゃないみたい)

 

一花(結局、彼が何を思って私だけに問題集を追加で渡したのかは最後までわからなかった)

 

一花(でも、その問題集の圧倒的なボリュームにげんなりしつつも)

 

一花(私のために夜な夜な時間をかけて写してくれたであろう問題集の匂いを嗅ぐと)

 

一花(ほんのり彼の汗の香りがして)

 

一花「……」ムラムラ

 

一花(今晩1回で最後。今晩だけだから。今晩スッキリしたら、次のテストまで我慢するぞー!)

 

 

指導成功!

一花の勉強へのモチベーションが上がった!

次のテストで赤点回避が確定した!

 

 

風太郎「一花への問題集作成で寝不足だ……でもその甲斐あって、一花はやる気を出して勉強に励んでいるみたいだな」

 

風太郎「さて。残りは週3回組だ」

 

風太郎「二乃と四葉、どっちから指導しようか」

 

 

二乃「何?話って」ワクワク

 

バイト終わりに二乃を厨房に呼び出した。

 

奇しくもあの期末試験の打ち上げの時、二乃から予想だにしなかった想いを打ち明けられた場所だ。

 

バイト終わりに大事な話がある、と伝えたら、二乃はその日の仕事はあまり手についていなかったようだ。

 

彼女は週3回。バイトも一生懸命こなして、店長からの信頼は既に俺より厚いかもしれない。さらに、二乃は自分の手入れにも時間をかけている。

 

そんな彼女に勉強を十分する時間は残っているのだろうか。夜更かしは美容の天敵とか言って1番寝ているのも二乃だ。

 

自慰は美容の天敵ではないのか。少なくとも勉強の天敵なのは間違いないが。

二乃「つまらない話だったら許さないから」

 

目を爛々と輝かせながら、二乃はそう釘を指してきた。

 

二乃の好感度は高そうだから、多少の無茶で自慰を辞めさせることも出来るかもしれない。

 

他の姉妹とは違い、ここは思う存分攻めるべきだ。

 

風太郎「◯ナ◯ーしすぎると馬鹿になるぞ」

 

二乃「……え?」

 

風太郎「いや、行為自体を否定する訳じゃないんだが」

 

風太郎「テスト前に週3回もやるのはいかがなものかと思うんだ」

 

風太郎「せめてテスト終わってからにしようぜ。三玖も勉強を頑張っているから」

 

風太郎「お前より回数が多い一花や五月も今は心を改めて勉強に集中している」

 

風太郎「そんな中、お前は取り残されてるんだぞ」

 

風太郎「何も赤点を回避するだけが勉強じゃない。30点という赤点ラインは低すぎるしな」

 

風太郎「お前も将来やりたいことをする時に、実はここで勉強を頑張っていたのが何かに生きるかもしれない」

 

風太郎「赤点回避だけを目標にするんじゃなくて、より高い点数を目指そうぜ」

 

風太郎「俺は……勉強する子が好きだからよ……」

 

二乃「えっと、ごめん。フータロー、なにか心配してくれているのは伝わってきたわ」

 

二乃「でもなんのことかしら?」

 

風太郎「ええっ!?」

 

二乃「心あたりがないんだけど。というか、最初、換気扇の風が強かったかしら?聞き取れなかったわ」

 

風太郎(くそっ……!お前、いつから難聴になったんだよ!この歳で補聴器が必要なのか?)

 

二乃「……」

 

風太郎(このままじゃ指導失敗だ……どうする。どうする俺?)

 

二乃「……」

 

二乃はじっと俺の目を見つめていた。

 

聞かれていなくてむしろ良かったのかもしれない。もしこれが二乃の耳に届いていたら、俺達の関係はもう元には戻らない可能性もある。

 

よくよく考えたら、二乃は俺に幻滅するかもしれない。

 

当然だ。突然、同級生の男に「自慰するな」「お前は週3回もしているんだろ?」なんて言われて気持ちがいい女の子がいるはずがない。

 

それでも俺が踏み込んだのは、二乃が俺の事を好きだという保証があったからだ。

 

だが、二乃が一方的に俺の事を好きだというだけで、俺達は別に付き合っているわけでもないし、心を通わせているわけでもない。

 

そんな男から突然、土足で個人の触れられたくない領分にズカズカと踏み入られて気持ちがいい女がいるか?

 

いるはずがない。二乃に聞かれなくて正解だ……

 

風太郎「◯ナ◯ーしすぎると馬鹿になるぞって言ったんだよ!」

 

二乃「は…?え?何?」

 

風太郎(だがそんなの関係ねぇ!二乃が勉強に集中して、次のテストで良い点を取るッ!それが今の俺の望みであり、全てだ!)

 

風太郎(その結果二乃に嫌われようが、一向に構わん)

 

風太郎(我が心と行動に一点の曇りなし…………!)

 

風太郎「お前、◯ナ◯ー週3回しているんだろ?知ってるんだぞ、俺」

 

二乃「……」

 

二乃「……その、さっきから何の話?お、おな?って何?」

 

風太郎「……は?」

 

風太郎(このアマ、カマトトぶってるんじゃあねぇぞ!)

 

しぶとい。さすが二乃。自分の非は最後まで認めないつもりか。

 

風太郎「何度でも言うぞ。◯ナ◯ーは馬鹿になるから我慢しろ」

 

だが、覚悟を決めた今日の俺は例えるなら暴走機関車ッ!最後まで指導を完遂する計画に変更はないッ!

 

二乃「だから、その、お、オナニーって何よ」

 

風太郎「……え?知らないの?」

 

二乃「……」

 

風太郎「……」

 

二乃「知らなきゃまずいの?」

 

風太郎「ちょっと待て。お前、週3回しているよな?それは事実だろ?」

 

二乃「……してないわよ。そもそもそれが何なのかわからないわ」

 

風太郎「え?本当に、◯ナ◯ー知らないの?」

 

二乃「……そんなに言うなら教えなさいよ。それが、何なのか」

 

風太郎「そ、それは……気持ちよくなることで……勉強の邪魔になることで……」モゴモゴ

 

二乃「意味わからないわ。フータローにも教えられないことあるのねっ。勉強になったわ。それじゃあ、今日はここまで。バイバーイ」

 

風太郎「待て、二乃!」ガシッ

 

二乃「きゃっ」

 

俺は立ち去ろうとする二乃の肩を掴んだ。

 

だめだ。ここで帰られたら指導失敗になる。それに家庭教師として、教えるという行為から逃げる訳にはいかない。

 

風太郎「教えてやる。耳の穴広げてよく聞けよ」

 

二乃「……」ゴクッ

 

二乃に◯ナ◯ーとはなにか、しっかりと言葉で伝える必要がある。

 

風太郎「◯ナ◯ーとは……一人で気持ちよくなることだ」

 

二乃「……どうやって気持ちよくなるのよ」

 

風太郎「方法は……◯◯や◯◯を自分でイジることだ」

 

二乃「……ッ///」

 

風太郎「ただそれだけではない。物理的な刺激のみで得られる快感には限度がある」

 

風太郎「好きな人の事を思って快感を得ること。それが◯ナ◯ーだ」

 

風太郎「お前は夜な夜な、好きな人の事を思って一人で気持ちよくなってるんだよ!」

 

風太郎「本来勉強するべき時間を使ってなァ!」

 

風太郎「言い逃れできるか?認めろ!」

 

二乃「……っ……あー、もう認めるわよっ。あんたの事を想って一人でシてたこと」

 

風太郎(そういやこいつ俺の事好きだったんだな……)

 

二乃「これでも最近控えてたんだから……バカ」

 

風太郎(じゃあテスト前は週何回やってんだこいつ。こいつらが馬鹿な原因はやはりしすぎだからじゃないのか)

 

二乃「で、あんたはどうなの?」

 

風太郎「ん?」

 

二乃「……あんただって男なんだからシてるんでしょ」

 

風太郎「……」

 

二乃「好きな人の事を思って快感を得ることって言ったわよね」

 

風太郎「……」

 

二乃「あんたは誰の事を思ってしてるのかしら?教えなさいよ!私だって教えたんだから!」

 

風太郎「二乃、顔真っ赤だぞ」

 

二乃「うるさいっ!」

 

二乃「これだけは教えて。私の事を思ってしたこと、ある?」

 

風太郎(正直に認めた二乃に対して、俺も誠意を持って答えることにしよう)

風太郎「俺はお前の事を思ってしたことは」

 

店長「ちょっと二人ともーそろそろ鍵閉めるから帰ってくれよー」

 

風太郎・二乃「ビクッ」

 

店長「ほら、帰った帰った。神聖な厨房で青春をおっぱじめられたらこっちも困るんでな」

 

二乃「今日のところはこれくらいにしておいてあげるわ」

 

二乃「もし、次のテストで、私があんたを満足させる点数。姉妹で1番高得点とったら、さっきの続き教えなさいよ」

 

二乃「もしイエスなら、あんたも私の事好きってことでいいわよね?」

 

二乃「もしノーなら……無理矢理でも私でさせてやるんだから」

 

二乃「覚悟しててね、フー君♪」

 

 

指導成功!

二乃の勉強へのモチベーションが上がった!

次のテストで赤点回避が確定した!

 

 

風太郎「さて、最後は四葉だな」

 

風太郎「あいつ自慰なんて知りませんって顔して、やることしっかりやってるんだなぁ」

 

風太郎(と、感慨に耽っている場合じゃない。最後の指導だ。気合を入れて取り組まねば)

 

風太郎(だが、素直なあいつのことだ。俺の指導はきちんと聞いてくれるだろう)

 

俺はこの時、甘く見ていた。

 

最後の四葉の指導で、俺は危機に陥ってしまうのだ。

 

 

定期試験1週間前になって、流石に四葉も部活を休んで勉強を頑張っているようだ。

 

だが、俺の目はごまかせない。

 

四葉はまだ深いところで勉強を舐めている。

 

なんとかテスト前までに自慰をやめさせたいところだ。

 

四葉「上杉さん、最近疲れてませんかー?」

 

風太郎「大丈夫だ、問題ない

 

確かに疲れているのは事実だ。想像以上にこの仕事は俺の勉強への負担を強めている。

 

風太郎「俺のことより、四葉のことだ」

 

四葉「私のことなんてお気になさらずに!」

 

風太郎「だが」

 

四葉「そんなことより私が、上杉さんの悩み、聞いちゃいますよ!たまにはお役に立たせてくださいよっ」

 

風太郎「今の俺の悩みはお前なんだがな」

 

四葉「あはは……面目ない。でも上杉さん、無理してませんか?心配ですよ」

風太郎「え…」

 

四葉「私に出来ることなら、上杉さんのお悩み、解決しちゃいますよ?」

 

四葉はそう言って身を寄せてきた。

 

他の姉妹は各々のアルバイトで不在にしており、特別成績の悪い四葉のために、彼女の家でマンツーマンで勉強を教えていた。

 

四葉の匂いがする距離だ。五つ子の中でも、最初から四葉は距離が近かった。

しかし香水もせず、小学生の頃からの下着を履いているお子様な四葉は、らいはのような妹に近い感じだ。

 

彼女から女を感じることなど、なかったはずだ。

 

だが……

 

四葉「色々溜まってませんか?」

 

風太郎「うっ……」

 

三玖が禁欲をしていると知って、他の姉妹にも禁欲を説いた手前、俺だけがするわけにもいかず、当然ずっと我慢しているのだが……

 

そのせいか、お子様の四葉とはいえ、この距離は危険だ。

 

四葉の匂いが脳を揺さぶってくる。

 

四葉「……」ジーッ

 

風太郎「俺を見ている暇があったら勉強しろ」

 

そう言って突き放すのが精一杯。

 

今の俺の精神状態では、まともに四葉の指導ができそうもない。

 

四葉「上杉さんのためなら、私、何でもしちゃいますよ。教えてください。お悩み」

 

四葉の天使の囁きに俺はつい本音を打ち明けてしまった……

 

風太郎「最近、見えてはいけないものが見えてしまうんだ」

 

最初は、らいはの顔に浮かんだ数字だった。

 

それから五つ子の顔に数字が浮かんだ。

 

1週間の自慰の数。ばかげている。

 

だが、俺はその数字に吐き気を常に感じていた。

 

澄ました顔をして、授業を受け、勉強して、バイトをして生活している彼女たちの裏の顔。

 

生々しくて、爛れた夜の顔が、あの数字を見ているとずっと透けてくる。

 

そんな中、俺は三玖のゼロという数字に救われたのだ。

 

ゼロという数字は透明だった。数が多ければ多いほど、自己主張が強く、凝視できないほど艶やかな色をする。

 

五月、一花、二乃。彼女たちを指導して透明にすることが、俺には必要だった。

 

成績のために指導したというのは嘘っぱちだ!

 

俺は、俺のエゴのために、彼女たちに自慰を禁じた。

 

そして、最後に残った四葉

 

お前の顔にも数字が見える。

 

週3回。別に自慰をすることは悪いことじゃあないさ。

 

3回くらいなら健全だ。8回だって別に悪い数じゃない。俺だって暇な時はそれくらいするさ。

 

だが、その数がお前の顔にずっと浮かんでいるせいで、俺は夜も眠れない。

 

ずっとお前らの痴態が脳にこびりついて、いくら勉強をしても消せないんだ。

四葉「ゲゲッ、上杉さん、夜な夜な私達のどんな姿を想像していたんですか…!」

 

風太郎「想像したくてした訳じゃねーよ!でもその数字を見ると……嫌でも浮かんでくるんだ!」

 

四葉「……そういうとき、どうやって解消してるんですか?」

 

風太郎「何度も何度も打ち消そうと勉強したが、さっぱりだ。最近じゃ寝不足で逆にケアレスミスが増えている」

 

風太郎「くそっ……このままじゃ、次のテストでまた点数が下がってしまう」

風太郎「どうすりゃいいんだよ……」

 

四葉「上杉さん、私いい方法を思いついたんですけど」

 

風太郎「本当か!」

 

四葉「最後にしたのいつですか?」

 

風太郎「何を?」

 

四葉「ナニをですよ」

 

風太郎「……え?」

 

そういえばずいぶんしていない。テスト前は常に禁欲しているが、今回の定期試験は1ヶ月以上前から集中勉強期間に入っていた。

 

ゾーンに入った俺にそんな暇はないのだ。

 

四葉「溜め過ぎじゃないですか?健全な男子高校生はそれこそ1日3回はしないと病気になるって聞いた事があります!」

 

四葉「上杉さんのそれは、多分、我慢し過ぎによる病気だと思うんですよね」

四葉「一回、スッキリしたら、どうでしょうか?」

 

風太郎「だが……家にはらいはもいるし……」

 

四葉「今してもいいですよ」

 

風太郎「…は?」

 

四葉「手伝ってあげるっていったでしょ?」

 

風太郎「……」ゴクッ

 

四葉の柔らかい手が俺の手をぎゅっと握った。しっとりと汗ばんで、生暖かい。

 

家には俺と四葉しかいなかった。止められるのは、俺の理性だけだ。

 

 

 

風太郎(この解は微分方程式を用いて)

 

風太郎(Xの場合分けは)

 

四葉「ねぇ上杉さん……難しいこと考えていないで、楽になっちゃいましょうよ」

 

風太郎「勉強だ、勉強に集中しろ。四葉も勉強に集中するんだ」ブツブツ

 

風太郎(この上杉風太郎が性欲にまけて勉学を疎かにするなどあってはならないっ!)

 

四葉「その計算間違ってませんか」

 

風太郎「ぐっ……!四葉に指摘できるレベルの間違いを……俺が……」

 

四葉「だから一旦休みましょうって」

 

風太郎「駄目だ。勉強に集中だ」

 

四葉「上杉さんのケチー……あー、部屋暑いですね」ヌギッ

 

風太郎「バカッ!脱ぐな!///」

 

四葉「キャミソール姿になっただけじゃないですか。動揺しすぎですよ」

 

風太郎(やばい。四葉を直視出来ない。というか、こんなに部屋広いのになんで隣にぴったり座って来るんだよ)

 

風太郎(なんとか打開せねば)

 

風太郎「勉強、勉強、勉強に集中だ」カリカリカリ

 

四葉「もーっ、どうしてそんなにお固いんですか」

 

風太郎「四葉、頼むから服着てくれ。その……目のやり場に困る」

 

四葉「いいんですよ?じっくり見てくれても」

 

風太郎「……悪いが、俺はお前の善意を踏みにじって欲望を解消したくはない」

 

風太郎「こういうのは、好きな人同士でするべきだ」

 

風太郎「悪いが、俺は……」

 

四葉「……」

 

四葉「好きな人、いるんですね、上杉さん」

 

風太郎「……」カリカリカリ

 

四葉は今どんな顔をしているんだ?怖くて見れなかった。

 

俺に出来ること。それは、無心に問題を解くだけだ。

 

……

 

ノート2ページ分をひたすら無心に解き、俺もクールダウンしてきた。

 

やはり勉強はいい。勉強は心を癒やしてくれる。

 

ふと隣を見た。

 

四葉はリボンを外していた。リボンを外した四葉と、あの子が被った。

 

風太郎「……」ゴクッ

 

四葉「……上杉さん、私実は」

 

ガチャッ

 

二乃「ただいまー」

 

三玖「フータロー?来てるの?」

 

五月「まさか家の前でみんなとばったり会うとは」

 

一花「あー、今日も疲れたー」

 

風太郎「お、おじゃましてます」

 

四葉「……///」

 

三玖「ちょっと。なんか距離が近い」

 

二乃「四葉、大丈夫?この獣に襲われなかったでしょうね?」

 

四葉「だ、大丈夫だよー」

 

風太郎(襲われそうになっていたのは俺がな!)

 

一花「うーん、怪しい」

 

五月「それじゃあ今日の夜から日曜日まで泊まり込みで勉強合宿ですね」

 

三玖「早速、この問題教えて。フータロー」

 

二乃「ちょっと、何当たり前のように隣座ってるのよ、三玖!」

 

三玖「早いもの勝ち」

 

ぎゃーぎゃー

 

風太郎(騒がしくなったが、なんとか勉強出来る環境になりそうだ)

 

風太郎(しかし、どういうつもりだ……四葉は)

 

四葉「上杉さん。どうしても困ったら教えてくださいね。私、最後まであなたの味方ですから」

 

四葉は耳元でそう囁いた。

 

 

四葉の(風太郎への)指導は失敗した!

 

 

テスト当日。

 

寝不足だ。最後まで、四葉の数字を透明にすることが出来ず、俺は悶々とした夜を過ごしていた。

 

加えて、五つ子達への勉強の指導の負担。

 

ここまで自分の勉強に十分に集中することが出来ずに迎えるテストは初めてだ。

 

だが、俺には過去の積み重ねがある。この程度で泣き言を言っているようじゃ始まらない。

 

 

テスト結果発表。

 

教師から渡された答案と点数を見て、俺は卒倒しそうになった。

 

401点!

 

1科目あたり平均80点!?

 

嘘だと言ってくれ。これじゃあ学年トップどころか、学年10位以内も怪しいレベルじゃないか?

 

というか、401点だと学年何位くらいだ?それすらイメージできないほどの点数だ。

 

俺に、彼女たちの家庭教師を続ける資格はあるのか……

 

 

五月「上杉君?目の隈がすごいけど大丈夫ですか?」

 

風太郎「五月か……」

 

五月「そういえば、今日は結果発表でしたが、どうでした?」

 

風太郎「ああ実は」

 

五月「はっ!その手にはもう騙されませんよ!どうせ満点なのでしょう?危うく自慢されるところでした」

 

風太郎(流石にこの点数だと自慢は出来ねーよ……)

 

五月「そうそう、私の合計点数ですが」

 

風太郎(直前の問題集の出来をみると赤点は大丈夫だとは思うが…)

 

風太郎(もし、五月が俺の点数を超えてくるようなことがあれば)

 

風太郎(その時、俺は……屈辱で死ぬかもしれん)

 

風太郎(くそっ!素直に教え子の高得点を願えない、俺自信の弱さが悔しいっ……!)

 

五月「150点でした」

 

風太郎「ん?」

 

五月「150点でした」

 

風太郎「赤点」

 

五月「赤点じゃない」

 

風太郎「いやいや、赤点」

 

五月「オール30点。赤点じゃない。ドゥー・ユー・アンダスタン?」

 

風太郎「逆にすごいなお前!」

 

五月「よく言われます」エヘヘ

 

風太郎「馬鹿野郎!限りなく赤点に近い点数じゃないか!」

 

五月「ですが、赤点は回避しましたよ?」ドヤッ

 

風太郎「そんなんでいいのか、お前は」

 

五月「いいわけないじゃないですか。でも、今回のテストは普段の実力を出せなかったというか」

 

五月「心当たりは……我慢しすぎたと言うか」

 

五月「言われた通り、あの日からずっと我慢していたんですが」

 

五月「テスト中、全然集中できなくって」

 

五月「今も……責任とってください!責任!」

 

風太郎(もし俺が普段どおりの点数だったら自己責任と一蹴出来たのだが)

 

風太郎(俺の点数も過去最低点だったことを鑑みると、彼女に禁欲を強要したことが正しかったか自信が持てなくて)

 

風太郎「……」

 

五月「?」

 

風太郎(まだわからない。他の姉妹の点数を……特に、禁欲しなかった、四葉の点数が知りたい)

 

風太郎(こいつが赤点なら、禁欲の有用性が証明されるはずだ!禁欲した五月より点数が低いのだからなぁ!(錯乱))

 

風太郎(だがもし……こいつの点数が普段より高かったら……)

 

風太郎(男・上杉風太郎、責任を取る覚悟だ)

 

四葉「あれれー?五月に上杉さーん!テストどうでしたかー?」

 

風太郎「四葉!お前の点数を教えろ!」

 

風太郎(俺の指導が正しかったか、それがここではっきりする)

 

四葉「ええっと、合計点は190点でした。平均38点です」

 

風太郎「フハハハ!いつも通りの四葉だ!」

 

四葉「これでも少しは点数伸びたんですよ!褒めてください!」

 

五月「私が……四葉に負けた……だと?」

 

四葉「どれどれ、五月は……150点!?オール30点!これは逆にすごい!」

 

五月「これやっぱりあなたの責任じゃないですか!普段どおりだった四葉が普段どおりの点数で、アレを禁止された私が、赤点スレスレで四葉以下ですよ!」

 

五月「責任!責任!責任!」

 

風太郎「まだだ、まだわからんよ!単純にお前の努力が足りなかっただけの可能性もある!」

 

風太郎「他の姉妹の点数も見てからだな。責任を取るのは!」

 

風太郎(俺が禁欲を強要したのはあとは一花と二乃だが……)

 

風太郎(三玖の点数も気になる。三玖には、1番だったら何でも願いをかなえるみたいな約束をしたからな)

 

四葉「三玖ー!テストどうだった?」

 

三玖「……」チラッ

 

風太郎「教えてくれ。三玖。お前の点数を」

 

三玖「今回は……500点だった」

 

五月「ファッ!?」

 

四葉「すごすぎる!凄すぎるよ!どんな魔法を使ったの!?三玖!」

 

三玖「……愛、かな?」

 

三玖「これで、フータローに並んだ。フータローの教えを一言一句忘れずに……テストに挑めた」

 

三玖「私も……報われた気がする」

 

五月「姉妹でトップどころか学年トップじゃないですか!中野家の誇りですよ!これは!」

 

四葉「私達も頑張れば、学年トップを取れるポテンシャルがある……?」

 

三玖「フータロー……約束。私、約束、守ったよ」

 

三玖「……ごめん、フータロー……嬉しくって、涙が止まらない」ポロポロ

 

風太郎「……」

 

風太郎(三玖は頑張った。自慰もせず、クソパン屋で働きながら、勉強も集中していた)

 

風太郎(落ち着け。落ち着くんだ、俺。素直に三玖を褒めろ)

 

風太郎(だが……俺は……俺の点数は)

 

三玖「フータローと一緒に、学年トップ。嬉しい……」

 

風太郎(俺はさも当然のように満点ということになっているが……!)

 

風太郎(まずい。教え子の三玖より圧倒的に点数が低い…!)

 

風太郎「三玖、答案見せてくれ」

 

風太郎(俺と三玖、名前間違えているんじゃないだろうな!)ジロジロ

 

風太郎(が……紛れもなくこれは三玖の字だ……三玖の奴、本当にやりやがった…!)

 

風太郎(過去に500点をとった俺にはわかる)

 

風太郎(200点を300点にあげるのは簡単だ。だが、499点から500点に点数をあげるのは至難の技だ)

 

風太郎(全科目に及ぶ深い知識と一問のケアレスミスも許されない集中力)

 

風太郎(そしてすべてが良問という訳じゃない。教師の悪問も、その意図を読み取り適切な解答を導き出すテクニック)

 

風太郎(500点という点数は、偶然で取れる点数じゃない)

 

風太郎(こいつ、本当に努力していたんだ……見えないところで、一人、ずっと勉強していたんだ……!)

 

風太郎(昔の俺のように……)

 

最初は認めたくなかった。自分を超えられたことを。だが、このテストの答案を見て、俺は三玖の努力が本物だと確信できた。

 

姉妹に祝福され、照れながら涙を浮かべる三玖を見て

 

俺の心が動く音がした。

 

一花「……」

 

四葉「あ、一花!」

 

五月「聞いてくださいよ!三玖がやりました!」

 

一花「……」

 

三玖「一花はどうだったの?今回の点数」

 

一花「225点……平均45点だった」

 

四葉「点数下がった?」

 

一花「うん…」

 

五月「原因はズバリなんですか」

 

一花「うーん……我慢しすぎちゃったかなぁ」

 

五月「ほら!原因は禁欲なのは明白です!」

 

風太郎「ふーっ……お前ら、三玖の点数を見ろ。禁欲が最強だと証明されたんだぜ」

 

三玖「今回は500点だったよ、一花」

 

一花「ぐっ……」プルプル

 

三玖「私が1番。やった」

 

風太郎(なんか俺の知らないところで壮絶な戦いが繰り広げられているらしいけど、触れないでおこう)

 

風太郎「これであとは二乃だけだな」

 

三玖(二乃が何点であろうと……私の優位は揺るがない)

 

三玖(フータローの1番になれたら……言うと決めている事がある)

 

四葉「あっ!二乃がいましたよ!」

 

風太郎「二乃!お前は何点だったんだ!」

 

二乃「合計 350点。過去最高点だわ」

 

四葉「おおっ!すごい!」

 

風太郎「頑張ったな、二乃」

 

二乃「ま、私が本気を出せばこんなものね。今回の指導はセクハラ紛いだったけど、あんたの功績は認めてあげてもいいわ」

 

五月「私は認めていませんよ!」

 

一花「まあまあ。それにしても凄いのは三玖だよね」

 

四葉「上杉さんと並んで学年トップですよ!」

 

風太郎「あの、四葉……実は」

 

一花「もう三玖は卒業してもいいんじゃない?満点とったらもう家庭教師いらないよね?」

 

三玖「私はまだフータローに教わっていない事がある!今回のだって……まだフータローを超えた訳じゃない」

 

五月「でも三玖も今後は私達を教える側に回ってくれるのであれば力強いことこの上ないですね」

 

四葉「学年トップの二人に教われば、百人力だよ!私達の将来も安泰だ~!」

 

二乃「フータロー、顔青いけど大丈夫?寝不足じゃないの?」

 

風太郎(……どうする)

 

風太郎(問題は2つ。俺の点数が三玖より低いこと、そして禁欲を強制して五月と一花の点数を下げてしまったこと)

 

風太郎(1つ目を打ち明ければ、上杉風太郎不要論が台頭して俺は家庭教師をクビになってしまうかもしれない……!)

 

風太郎(2つ目にしてもそうだ。今回、三玖が最高の点数をとって、二乃もそこそこの高得点をとったが)

 

風太郎(結局、俺のエゴで一花と五月の点数を下げてしまったのだ)

 

風太郎(責任は……とらねばならないのか……)

 

風太郎「わかった。俺も男だ。責任を取る」

 

二乃「責任って何に対してよ?」

 

風太郎「一花と五月の点数を伸ばせなかった責任だ」

 

二乃「それは自己責任でしょ?あんたの指導で三玖は満点をとったんだから、家庭教師の有用性は証明されているわ」

 

風太郎「三玖に対して俺は今回何も指導していないんだ。三玖が勝手に成長した。それだけのこと」

 

三玖「そんなことはない!フータローが寝る時間も削って私達に解き方を教えてくれたり、直前予想問題まで作ってくれたおかげ」

 

四葉「そうですよっ!三玖が頑張ったのは事実ですが、上杉さんの指導のおかげで私も二乃も点数を伸ばせたんです!」

 

風太郎「違うんだ。一花と五月が点数を下げたのは……アレを禁止してしまったからなんだよっ!」

 

三玖「アレって?」

 

風太郎「アレはアレだ。とてもここで口に出せるような事じゃない」

 

二乃「あんた、まさか二人にも禁止させたの?」

 

四葉「なになに?なんですか?」

 

一花「うわぁ……フータロー君、私だけじゃなくて姉妹全員に……?」

 

五月「最低ですね」

 

三玖「説明求む!私は特に何も禁止されなかった」

 

四葉「私も特に禁止は」

 

風太郎「とにかく、週8回もしている二人のアレを禁止したのは俺だ!逆にストレスを貯めてしまったせいで、本番で力を出しきれなかったのだろう」

 

五月「では、責任を取るんですね?」

 

風太郎「ああ。責任を取る」

 

一花「どうやって責任とってくれるのかな~?我慢させた分、しっかり私に埋め合わせして欲しいよ」

 

五月「わ、私も……!我慢した分、気持ちよくして欲しい……です」

 

二乃「はぁ?何いってんの?フー君もこんなの相手にしちゃ駄目よっ!」

 

一花「二乃だって我慢してたんでしょ?期待してるくせにぃ」

 

二乃「そりゃ……フー君だって我慢してたんだろうから……成績あげてくれたご褒美に、気持ちよくしてやらないこともないと、思っていたところだけど……」

 

 

風太郎「責任は……俺が家庭教師をやめることで取ろうと思う。もうおまえたちに会うこともないだろう」

 

場は水を打ったように静まり返った。

 

俺は自分のエゴのために、彼女たちに禁欲を強要した。

 

彼女たちの顔を見るたびに浮かんでくる数字が、俺の性欲を苛ませ、そのために成績が落ちることを恐れ、彼女たちのためだと言い聞かせて禁欲を強いたのだ。

 

そんな俺は彼女たちの家庭教師でいる資格はない。

 

風太郎「さよならだ。もうお前らなら俺がいなくても立派にやっていける」

 

風太郎「ここには満点の三玖もいる。俺はお役御免だ。わからないことがあれば三玖に聞けばいい」

 

風太郎「それに俺がいるせいで、お前たち姉妹の仲がギスギスしていくのを見ているのも辛かったんだ」

 

風太郎「みんな、血を別けた姉妹を大事にしろよ。それじゃあな」

 

卒業まで彼女たちの面倒を見れないのは残念だ。だが、もう十分だ。

 

 

三玖「待って!」

 

立ち去ろうとする俺の腕を彼女はぎゅっと掴んだ。

 

三玖「フータローがいなくなることは許さない。責任を取るなら私達が卒業するまで面倒みて」

 

五月「ご、ごめんなさい!私が安易に責任なんて言ったから!冗談ですっ……やめないでくださいっ」

 

一花「私も色々悪ノリが過ぎたかな……ごめんっ」

 

二乃「辞めれば責任取れる程この仕事は甘くないわよ!責任感じてるなら最後まで指導しなさいよ!」

 

四葉「上杉さんに辞められて赤点とったら末代まで祟りますからね!祟りますよ!」

 

赤点を回避したというのに、みな泣きそうだ。

 

二乃や五月なんぞ、最初は俺を目の敵にして追い出そうとしていたじゃあないか。

 

邪魔者がいなくなって少しは喜べ。

 

三玖だって。

 

……何事も惜しまれている内が華だ。それにここでやっぱり辞めるのを辞めまーすと言ったら男が下がるってもんだ。

 

俺の決意は固い。涙だけはこぼさぬよう、下唇を強く噛んで俺は引き止める三玖の腕を振り払おうとした。

 

三玖「フータロー、約束したよね。私がトップだったら。何でも言うこと1つ聞くって」

 

風太郎「ああ」

 

そういえばそんな約束したっけ。まさか三玖が姉妹トップどころか、学年トップまで取るとは夢にも思わなかったが。

 

三玖「その権利をここで行使する。辞めないで、フータロー」

 

その時の三玖の目はかつてないほど真っ直ぐ俺を見ていた。

 

自分のためだけじゃなく、姉妹みんなのために、三玖は俺を強く求めてくれた。

 

何でも願いを叶えろというから、一体どんな無理難題を押し付けられるのか、内心ヒヤヒヤしていたがなんてことはない。

 

ただ、元の職場に戻れってだけ。

 

給料は相場の5倍、アットホームで楽しい職場。

 

やれやれ、そこまで言われたら俺の返事は決まっている。

 

どうやら俺の家庭教師生活はまだ終わらないらしい。

 

 

 

 

 

 

 

元スレ

https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1551959266

五月「………あの、私、これだけ襲ってもいいお膳立て、したのですが///」 【五等分の花嫁ss/アニメss】

 

何度試そうにもこれ以上カレンダーを捲ることが出来なくなって、そこでようやく今が何月かを理解した。

玄関から一歩外に出ればそこにはもう冬が広がっており、間もなく今年が終わってしまうという事実をぼんやりと悟る。 

 

 すっかり歩きなれてしまった通学路に、ずいぶんとくたびれた制服。そういったものともあと数か月でお別れだ。

小学生の時も中学生の時も似たタイミングはあったはずで、しかし当時は何を思うでもなかった。だが、今回限りは少し特別。 

 

 嫌でも思い入れなきゃならない出来事と交錯し続けた高校生活。

特に二年後半からの攻勢は凄まじく、忘れようにも忘れられない記憶がちらほら。

 

その中には可能なら忘れ去ってしまいたいことも含まれているのだが、この際それは考えないことにしておく。 

 

 過去を振り返るたびに胸中にじんわり広がるこの感傷が、世に言う名残惜しさってやつなのだろうか。

 

結局のところは自問自答でこの問いに答えてくれる相手はおらず、だから永遠と自分の内側で反響するだけになってしまうのがうざったいけれど。 

 

 暖房の良く効いた職員室と比べて、廊下はお世辞にも快適とは言い難かった。

スラックスの裾から入り込む冷気に脚が震えて、連動するかのように歯の根がカチカチと鳴る。

 

白む吐息を見れば分かる通りに、節電はばっちり行われているようだ。環境保護に意欲的な施設のようで大いに結構。 

 

 それにしても、この時期の学校から漂う焦燥感はどうにも好きになれそうにない。

受験間近の三年生とそれを受け持つ教師たちは絶えず余裕のない顔をしているし、下級生もその勢いに飲み込まれているせいで非常に窮屈だ。

マンツーマンの面談やら面接練習やらがそこかしこで実施されていて、とにかく校内全体が息苦しさに満ち満ちている。 

 

 それらを受けて、嫌だなあと大きくため息をついた。

 

こちらの事情を一切顧みることなく変遷していく周辺世界に関してもそうだし、今までとは打って変わってその環境から影響を被ってしまいそうになっている俺に対してもそうなのだが、とにかくもう少しでもいいから穏便に回ってくれやしないものだろうか。 

 

「上杉君」 

「……ん」 

 

 教室への帰りしなに声をかけられる。誰かと思って顔を見れば、今日も今日とて頭部に星型のアクセサリーをくっつけた末っ子さんがそこには一人。彼女も寒さには強くないようで、冷気にあてられた頬はほんのりと紅潮していた。 

  

「職員室に用でも?」 

「ああ、まあな」 

 

 会う場所が会う場所で、歩く方向が歩く方向だったため、繕いようがなかった。

今の俺は誰から見ても、職員室から出てきた生徒だ。 

 

「ちょっと担任から呼び出されて」 

「……悪事を働いたりは」 

「してねえよ」 

 

 法律なり学則なりに触れた記憶はない。

というかちょっとくらいやんちゃをしたところでこれといった問題はないように思う。

 

学校なんて好成績さえキープしておけば教師の評価は自ずと高くなるのだから、これまで向こうも俺にガミガミ言ってくることはなかったし。 

 ……だがまあ、今回は事情が事情だったため、仕方なかった。 

 

「ではどんな理由でしょう?」 

「追い追い話すから待ってろ。ってかお前、人のこと心配してる余裕あるのか?」 

「……うっ」 

 

 露骨に目を逸らされる。

誤魔化そうにも俺は彼女のテスト結果を網羅しているので、口先で何を言おうと無駄だった。

 

直近の模試では、なかなか苦しいアルファベットが成績欄に印字されていた記憶がある。 

 

「俺はいいから、今は自分のことだけに集中しとけよ」 

「そうは言っても……」 

「ここに来てるってことはお前も職員室目当てなんだろ? ならさっさと行ってやれ。後がつかえる」 

 

 五月は妙に食い下がる気配を見せたが、意図してそれに取り合わず、そそくさとその場を脱する。

積極的に話したいことではなかったし、話すにしても場所を選ぶ必要があると思った。

 

少なくとも誰が盗み聞きしているかも分からない廊下で持ち出すような話題ではない。 

  

「後でちゃんと教えてくださいね!」 

 

 五月の声を背中で受けながら、室温を気にしなくても構わない教室へと向かう。

体が冷えていると、その延長で心まで凍えてしまいそうな気がしたから。 

 

 時期が時期だから、もう通常授業という名目で時間割が運営されていない。

何もかもが受験対策に染まっていて、ここが高校なのか予備校なのかの判定が自分の中で曖昧になってきているのが分かる。 

 

 午後イチのコマは発展演習ということで、有名大の過去問を解かされた。

幸か不幸か以前に手をつけた問題だったので制限時間の三分の一程度で解答欄を埋め終えて、残り時間を思考に費すことにする。 

 

 思い返すのは、先ほど職員室で問われた話題。

自分の中で未だに結論が出ていない、一つの大きな悩みについて。

この数か月で何度も考えさせられて、されどまるで答えがまとまってくれなかったこと。 

 

「…………」 

 

 プリントの端のスペースに、同じ長さの直線を角度を変えて数本書いて階段を作る。

その段に対応させるように小学校、中学校、高校と書いて、そして次に。 

 

「…………」 

 

 次に、何も書けなかった。

俺の思考力は現在を描くのに精いっぱいで、その先の未来を書き記してくれない。

数か月後の身分さえ、確定させることが叶わない。 

 

 どう想像しようにも上手く行ってはくれなかった。

先へ先へと進んでいくと必ず思考が断絶するポイントがあって、何度試してみてもその関を越えられないのだ。

そしてそれは、決まって進学や就職といった場所で発生する。 

 

 要するに、お先が真っ暗だった。

 

その場所に至る能力の持ち合わせはあるのに、それを活用している自分の姿が思い描けない。

目的なく手段を鍛え上げたツケをこんな時になって払わせられることに歯噛みし、今しがた書いたばかりの階段をHBの鉛筆で塗りつぶす。その像はまるで今の自分の脳内を図解したかのようで、直視するのが躊躇われた。

 

 教室に響くのはペンが文字を記す音と、クラスメイトの呼吸音。

それから、時計が秒針を刻む音。 

 

 そのどれもが優柔不断な俺を急かしているように思えて、逃げるように目を閉じた。 

 

 そんなことをしたって、白紙の進路調査票は埋まってくれやしないのに。 

 

 どんな問題も、永遠に保留しておけるならそれより楽なことはないのになと思う。

期限をどこまでも先延ばして、追及をのらりくらりとかわして、そうやっていつまでも面倒なことを考えずにいるのが許されるなら、俺もそっち側に流れるかもしれない。 

 

 けれど、現実としてそんなことを許容してくれるほど世界は甘く作られてはいなくて。だから遅かれ早かれ、満足の行く行かないにかかわらず、答えを迫られるときは必ずやって来る。 

 

「へんなかお」 

「そう思うなら見なきゃいいだろ」 

 

 図書室。机の上に必要なテキスト類をざっと並べて、黙々と励んでいたところ。 

別に招集をかけたわけでもないというのに、三玖は俺の対面の椅子をそっと引いて、そこに腰をおろした。 

 

「眉間にしわが寄ってる」 

「目が疲れてんだよ」 

「ほんとに?」 

「ほんとに。ついでに言えば脳とか体とか、他にも色々疲れはたまってる」 

 

 変な顔、というのは表情が苦しげだという意味だろうか。

考え事をするのならそれに関わる如何は己の内側に留めるべきで、外に漏出させるのは好ましくない。

芸とか品位とか、その他もろもろを問われる。 

 

 昔までならどれだけ険しい顔をしようが問題はなかったが、ここ最近は勝手に心配してくれる連中がいるので、下手な迷惑をかけたいとは思っていなかった。 

 

 それがこうやって三玖からの指摘を受けるほど目に見える変化を起こしてしまっているのなら、いよいよ深刻。 

 

「えい」 

「えい、じゃねえよ」 

「ほぐせば少しは良くなるかなって」 

 

 大きく身を乗り出した三玖が、指先で俺の眉間をつまんでくる。それに飽き足らず前後左右にぐりぐりと動かしてくるので、前を見るのもままならない。 

 

「そこをいじったところで疲れは取れなくないか?」 

「気分的に」 

「気分で解決はしないんだな、残念なことに」 

 

 原因は明らかに睡眠不足なので、保健室のベッドにでも潜り込むのが一番だ。

ただ、最近は寝つきも良好とはいえないからなんとも。 

 

 それ以前に解決すべきことが山積しているとの見方もあるが、俺の能力で片付けるのが不可能だからここまでだらだらと間延びしてしまったわけで。 

 

 眉間から下降して頬っぺたをつつき始めた三玖の手を退けて、目をノートに落とす。正直これ以上手を尽くしたところで意味があるかは微妙なのだが、気分的に妥協はしたくなかった。 

 

「無理はほどほどにね」 

「心得てる」 

「心得てるなら、ゆっくり休むべきだと思うんだけど」 

「……自分のことだけ考えりゃ良いのならそうしてたかもな」 

「……意外にお人好しだよね、フータロー」 

「意外は余計だ」 

 

 俺が現在扱っているのがセンター対策系の問題集だったのを見て、三玖は色々と察したようだ。 

 

「どうせなら皿まで食ってやろうと思ってな」 

「…………?」 

「こっちの話」 

 

 嫌味を言うようだが、俺自身はもうどうにでもなる。

国内の最高学府なら、基本的にどこだって射程だ。

なんなら明日に試験を持ってこられようが構わない。 

 

 だから、こちらの心配は、自分以外に預けられている。 

 

「ここまでやってきたんだ。どうせなら成功してもらった方が得だろ」 

「損得で考えるのがフータローらしいっていうか」 

「俺の一年の価値が問われてるからな」 

「そんなの、気にしなくてもいいのに」 

 

 気にするんだこれが。

自分のやって来たことが間違いだったかもしれないという憂いは、人生に大きな影を落としてしまうから。 

 

 というか、それ以上に。 

 

「本人の頑張りを知っちまってるから、応援してやりたくもなる」 

「お人好しと言うよりは、お節介焼きなのかもね」 

「否定はしない」 

 

 これから受験に臨む誰かさんのために躍起になって要点整理ノートなんて作っているのだから、そう言われても仕方ない。

ここまでくると介護に近い趣さえ感じる。 

 

 昼間はあんなことを言ったけれど、あいつの努力に関しては疑っていない。

要領が絶妙に悪いせいでこれまでは結実しなかったが、人生の大一番でくらい成功体験を味わってもらっても罰は当たらないだろう。 

  

「サポート頼むぞ」 

「うん、分かってる」 

 

 精神面のケアは俺の領分じゃない。

それはこれまでで嫌と言うほど理解させられているので、大人しく姉妹に丸投げしておく。

同じ家で過ごす家族である以上、俺なんかよりもよほど上手く立ち回ってくれるに違いないから。 

 

 得手不得手はどうしてもあって、そしてそれは彼女たちに限った話ではない。

克服しようと努めるのも大切だけれど、効率の方を優先させた方が丸く収まる場合だってある。おそらく、今は後者だ。 

 

 一年前よりは彼女たちのことを深く知って、一年前よりはその心の内を推し量ることに大きなウェイトを割くようにもなった。

けれどそこにはどうしても俺の性向上の限度が存在するので、踏み込み過ぎるのも考え物だ。 

  

「……で、お前はどんな用向きでここに来たんだ?」 

「好きな男の子の顔を近くで眺めておこうと思って」 

 

 一切の予備動作なく投下されたバンカーバスターの余波がどこまで広がっているか確認するために周囲を一通り見回すが、幸運にも聞き咎めた者はいないようだった。

 

聞いていないフリをしているのかもしれないが、別にそれでも構わない。

今この場において重要なのは、いかになんてことない感じで受け流せるかどうかだから。 

 

「……反応してもらえないと恥ずかしいんだけど」 

「悪いが今ちょうど切らしてる」 

「スーパーじゃあるまいし」 

 

 真っ向から受け止めて甘酸っぱい感じの雰囲気になってしまうと、間違いなく勉強どころではなくなる。 

 

 酷いことをしているという自覚はあるけれど、俺の考えられる最適解がこれである以上、頼らないわけにはいかない。 

 

「入荷予定はあるの?」 

「……数か月後じゃねえかな」 

「そっか。なら、気長に待つ」 

「わ――」 

 

 悪い。そう言いかけて、けれど途中で口を噤んだ。

どこかで致命的な間違いが発生している気がするというのが第一の理由で、第二には、それを弁解するだけの資格が自分に備わっているようには思えなかったというのが挙げられる。 

 

 やったことがやったことだ。

最低とか最悪とか、そのあたりの誹りは黙って全部受け止めておかないと。

一人で勝手に謝って、救われた気分になるのは何かが違う。

 

この話題に関してのみは、どうあっても彼女たちの優しさに甘えることは許されないと思うから。 

 

「わ?」 

「……忘れてたら言ってくれ」 

「じゃあ、今日から毎日催促を」 

「やっぱやめてくれ」 

 

 急ごしらえの方針転換なんてしても、何もいいことはなかった。

最低具合がさらに跳ね上がっただけだ。

マイナス百が二百になろうが三百になろうが零点を割り込んでいるというところでは同じなので、今更気にしたところでと感じたりもするけれど。 

 

「気付いたら四葉も手籠めにされてたし、もっとアピールしなきゃなって」 

「お願いだからそれ以上いじめないでくれ……」 

「朝帰りした後、冷や汗だらだらで苦笑いしてる四葉に何が起きたかを考えるのはすごく簡単だったよ」 

「その節は大変申し訳なく……」 

「申し訳なく思うなら、せめて最後くらいはきっぱりね」 

「……おう」 

 

 温情、あるいは憐憫。結局甘えに走ってしまっている俺は、思ったよりもずっと弱っちい人間らしい。 

 

 なればこそ、せめて彼女の言う通りに有終までは持っていきたかったが、『誰が』とか、『どういう理由で』とか、果たしてそんなことを言う権利が俺にあるのかどうか。 

 

 分からないなりにどうにかしようともがいていて、そのたびにずぶずぶと底なし沼へと沈んでいく。

 

厄介なことにじっとしていても体は泥に動きを奪われていくから、両者の違いは侵食速度の差だけ。それならばせめて自分の力で溺れてしまおうと思うのは、俺の傲慢か。 

 

「あ、そうだ」 

「なんだ」 

「三玖が一番って言う練習、ここでしておく?」 

「圧」 

 

えげつないプレッシャーだ。誰もかれも最近こんなのばっかり。 

 

 もっとなりふりを構って欲しいところだが俺の素行が素行なので強くは言えず、だから必然的に、彼女との視線の交わり合いをやんわり避けるところに帰着する。 

 

「……とにかく、俺は作業に戻るから」 

「ん、分かった。……見ててもいい?」 

「好きにしてくれ」 

 

 それから数時間、何をするでもなくただただ椅子に座りながら俺を見つめてくる三玖になんとも言えないものを感じながら、それでもどうにか予定していたものを作り上げた。 

 よくもまあ飽きないものだというのが、正直な感想だった。 

 

「これ、五月に渡しといてくれ」 

「自分で渡せばいいんじゃないの?」 

「こういうのは早い方がいいだろ。時間がそんなに残ってるわけでもないんだし」 

 

 ノートに題でもふっておこうかと思ったが、気の利いた文言が思いつかなかったのでそのままにした。

サルでもわかる』なんて喧伝した上で理解されなかったらあまりにも悲惨過ぎるので、変に凝らない方がいいとも思う。

外見より中身で勝負していけ。 

 

「……まあ、この時期にやたらめったら新しいものに手をつけるのは危険だとは分かってるんだけど、心情的に拠り所になるものがあると楽だからな」 

「了解。しっかり届ける」 

 

 三玖がノートを鞄にしまい終えるのを確認してから、その場を離れる。

 

思いの外手間取ってしまったというのもあって、図書室内の人影は既にまばらになっていた。

おおかた、暗くなる前に帰路に就こうという魂胆の連中が多かったんだろう。 

 

昇降口で緩慢に靴を履き替えて、外を眺める。 

 

 照明に慣れてしまった目に、夕闇はいくらか暗すぎた。

疲れ目では瞳孔の収縮も上手くいかず、また眉間にしわを寄せることになる。 

 

「ほら、さっさと帰るぞ」 

 

 振り返って言う。

ローファの踵がどうにも合わないらしくもたついている三玖を急かすために。 

 

「え……?」 

「なんだその困惑顔」 

「いや、いつものフータローなら一人ですぐに帰っちゃうところだから」 

「そうしたってどうせ付いてくるだろ、お前は」 

 

 もしかすると、俺は割と恥ずかしい類の勘違いをしてしまったのかもしれない。

すっかり一緒に帰るものだとばかり思って、それを前提に行動していた。 

 

 これを思い上がりと呼ばすになんと呼ぶといった感じだが、当の三玖はまんざらでもないらしかった。それどころか、ご満悦らしかった。 

 

「うん、付いてく」 

 

 言って、ようやくのこと立ち上がる。……けれど。 

 

「それはサービス対象外なんだが」 

「しーらない」 

 

 しっかり組まれた左腕を、半ば諦観の意を込めながら見下ろす。

独占欲の高さは姉妹に共通するようで、以前の二乃なり四葉なりを彷彿とさせるような、抜け出す方法が見つけ出せない完全な両腕によるホールドだった。 

 

 こんなことをしなくても走って逃げ出したりはしないというのに、一体何が彼女たちを突き動かすのか。……と、そこまで考えて、四葉の言が頭の中に甦る。

 

誰より近くで自分の欲しかった幸せを見せられる恐怖。

そもそもこいつらの定義する幸せになぜ俺が関与しているのかという根本的な疑問は飲み込めていないが、こいつらはこいつらなりに必死なのだろう。 

 

 だからこんな風に、捕らえた腕に頬ずりを―― 

 

「いくらなんでもそれはねえだろ」 

「せっかくだし」 

「お前も損得勘定で動いてるじゃねえか」 

 

 この指摘で多少は離れてくれるかと思ったが、どうやら彼女の決意は俺の思う以上に硬いようで。 

 なおも頑なに体をすり寄せてくるのを強引に引き剥がして、なんとか会話を続ける。 

 

「しゃーないから聞くわ。ずっと気になっていたことではあったんだけど、なぜここまで俺にご執心なんだお前?」 

「なぜって?」 

「いや、上手くは言えないけど……」 

 

「俺のどこが好きなんだ?」と正面切って言う胆力はなかった。

自分の口で言うと認知を確定させてしまったようで悔しさが滲むというのもある。 

 

 しかし、これはずっと気になっていたことではあったのだ。

男の趣味が悪いなーと漠然と感じはしていたが、そこに明確な理由付けがなされているのなら、聞いておきたい。

 

敵と己を知って百戦百勝の構えだ。 

 

「なぜってどういうこと? もっとはっきり聞いて欲しい」 

「さてはお前分かってやってるな?」 

「分からない。何も。だからはっきり聞いて欲しい」 

「三十六計」 

「逃げるに如か……あ、ちょっと。待ってよフータロー」 

 

 形勢不利と見たら取りあえず逃げる。兵法の基本だ。 

 

 俺がいつから戦争に参加していたのかは謎だが、ここは歩幅を大きく広げて、三玖の意識を歩行に割かせることに注力する。

俺の脚の方が長いので、加減をやめれば歩行距離に差がつくのだ。 

 

 しかし、俺の権謀は虚しく散る。というのも、しばらく黙ってもらおうと思っていたのに、突然三玖が口を開いたからで。 

 

「…………まさに、こんなところとか」 

「意味が分からん」 

「いつもはこっそり歩幅合わせてくれてるってことでしょ」 

「…………」 

 

 完全に無意識なので、いきなり言われても困惑するしかない。確かに横並びで歩くことには慣れてきたけれど、そこに隠れた意図なんて一つも……。 

 

「そういうところがあったかいなあって」 

「……誰でもしてるだろそんなの」 

「そういう素直じゃないところも」 

「無理やり好きな要素増やそうとしてないか……?」 

 

 単純な疑問。天邪鬼な部分まで気に入られても困る。

卑屈だったりひねくれていたり、少なくとも俺の性格は褒めそやされるようなもんじゃない。 

 

 ここまでくるとどうにも恋に恋している感が強くなっている気がして、そこから漂う違和感が拭えなかった。

盲目的すぎるのは、流石に違うように思う。 

 

「人を好きになるって、要はそれでしょ?」 

「それってどれだ」 

「一つ『ここがいいなー』って思ったら、だんだん他のところにも目が向くようになるの。それで気が付いたら、その人の全部が好きになってる」 

「……じゃあさ」 

 

 大本。根っこ。今に至る原因。

それがあると彼女は言うのだから、この際教えてもらうことにしよう。 

 

「最初の一つってなんだったんだよ?」 

「さあ?」 

「さあって」 

 

 いきなりの矛盾。自身の言葉を彼女本人が否定しにかかっている。 

 

 今の言葉から鑑みるに、何かしらの理由が必要不可欠なはずだった。それがないなら、今こうなってはいないって。 

 なのに当人がこの調子では、何をもってその発言が裏付けられるかが不明瞭になってしまう。 

 

「押しに弱かったのかもね、私」 

「口説いた覚えなんてないぞ」 

「違くて。ほら、フータローはさ、最初から距離を気にしないでぐいぐい詰めてきたから」 

「仕事だったし……」 

「それにしたって強引だったよ」 

 

 俺なりに必死だったので仕方のないことだ。

生活がかかっている以上、適当に投げるわけにはいかなかった。 

 

 結果として、大きく踏み込み過ぎたというのはあると思う。

だがしかし、それで陥落するのはいくらなんでも耐性がなさすぎる。 

 

「きっかけはたぶん、そんな感じ。こんなに近くに男の人がいるの、初めてだったから」 

「引き運が悪くて残念だったな」 

「ん、どうだろ」 

 

 言って、三玖はそのまますり寄ってくる。

人懐こい猫を思わせる動きに、人としての尊厳を問いたくなった。 

 

「フータローじゃなかったら、きっとこうはならなかったと思うなぁ」 

「…………それは嫌味か?」 

「半分はね」 

「もう半分は?」 

「……感謝、かな?」 

 

 確かに私生活をはちゃめちゃに荒らしはしたが、その中でも仕事に関してはきっちりこなしてきた。

その部分に恩義を感じるというのなら、受け入れられなくもなかったり。

今考えれば、プロに任せていた方がもっと丸く収まったのではないかと思いもするけれど。 

 

 ……が、そんな俺の内心を知ってか知らずか、三玖は否定を示す次の言葉を紡いでいく。 

 

「フータローに会えたおかげで、昔よりずっと自信がついたから」 

「別に、いずれどうにかなってたろ」 

「じゃあ、その『いずれ』を手っ取り早く引き連れてきてくれたフータローには、俄然感謝をしなくちゃね」 

「そういうもんかね」 

「前と違って、好きなものを素直に好きって言えるようになったよ」 

「……なんだその目は」 

「好きな人を見る目」 

「…………」 

 

 これ以上のやり取りは不毛と言うか、俺の精神力が一方的に摩耗していくだけというか。 

 

 とにかく、今は何を言っても墓穴を掘ってしまいそうな気がしたので、一度口を紡ぐ選択をした。 

 

「フータローが恥ずかしがり屋さんなのは知ってるから」 

「……ただの予防策だっての」 

「何を予防するの?」 

「主に失言。それと、そこから来る揚げ足取り」 

 

 一度口に出した言葉は引っ込みがつかないので、吟味を挟んでいくしかない。

思考と発言を直結させるのは安易すぎる。

少なくとも、俺の性格とは相性が良くない。 

 

「黙ったら黙ったで、私の言葉が刺さってるのが分かって嬉しいけど」 

「そう言われたらとうとう打つ手がねーよ」 

「打たなきゃいいんだよ。私はいつでも準備万端だから」 

「一応聞いとく。何の準備だ?」 

「嫁入り」 

「こえーよ。怖い」 

 

 みんな怖い。どこまで先を見てるんだか分からなさすぎる。

三玖を見るに『冗談だよ』と否定する様子もなさそうなのがまた、俺の不安を煽り立ててくるのだ。 

 

 こういう奴らを四人ほど相手にしていくのか、

俺は。業があまりにも深すぎて今にもこの場で泣き出しそうだ。 

 

「私をこんな風にした責任は、フータローにあるんだからね?」 

「安直に病むな」 

「……それは冗談としても、良いよね、お嫁さん」 

「男だからその感情は分からん」 

「お嫁さんって、女の子にとってはウェディングドレスのイメージだから」 

 

 基本的に一生に一度だけ世話になる華美な服装。

大きな晴れ舞台として、深層意識では誰もが憧れるものなのだろうか。 

 

「一応仏教国なんだけどな、日本」 

「フータローは白無垢の方が好み……?」 

「そういう意図はない。ってかそれは神道だろ」 

「神前式も趣があって良いよね」 

「ここで歴女の顔を出すな」 

「紋付の袴、似合いそうだし」 

「バージンロードって和製英語らしいぞ」 

 

 向こうが会話を放棄して妄想に耽り始めたので、こちらも大暴投することにした。キャッチボールなんて知らない。 

 

 しかしその球は三玖の体を掠めたようで、「へー」と頷いているようだ。 

 

「バージン」 

「なぜそこで区切った」 

「バージン……」 

「なぜ俺を見る」 

「いや、もうあげちゃったなと思って」 

「胃が千切れるから勘弁してくれ」 

 

 やっぱり、口は災禍を招いてしまう。

この際だから大人しく声帯でも潰しておこうか。 

 

 それ以上に災いを呼んでくる器官があることには薄々勘づいているが、ここを切除する想像をすると全身が震えあがるのでやめておく。命は惜しい。 

 

「まあいいや。誰かさんが私の憧れを叶えてくれるように、今からお祈りしておくね」 

「それは脅迫って言うんだぜ」 

「それでもいいよ。なりふり構う余裕がないもん」 

 

 外気は冷たいはずなのに、三玖はそれを感じる余地すら残してくれない。

肌のふれあいと、それから心のふれあいでもって、さっきからずっと体が火照っている。 

 

 いっそ雪でも降ってくれれば話題を逸らすことも出来るんだけどなと思いつつも、そういえば彼女と会ってから、進路に関しての懊悩を一時的に忘れられていたことに気付く。

代償に、同等の爆弾を落とされはしたけれど。 

 

「なあ、三玖」 

「なあに」 

「お前、将来の夢ってあるか?」 

「フータローのお嫁さん」 

「ノータイムで答えんな。……でも、そうか」 

 

 ぱっと出てくる選択肢があるだけ羨ましい。

俺には、それすらないから。 

 

 これさえあればというものが自分の中央に座っていないのは、今思えば歪な精神構造なのかもしれない。

たかだか十八のガキに、未来を決める決断を迫るだけ無謀だという見方も出来なくはないけれど。 

 

「フータローには何かあるの?」 

「……さあ、どうだかな」 

「ないなら、見つけるのを手伝うよ。恩返しにね」 

「恩なんか売ってねえよ」 

「勝手に買ったもん」 

 

 正規の購入手続きを経てくれと毒づく。

だが、協力者がいる方が、頼もしいか。 

 

「大丈夫。私たちに勉強を教えるより難しいことなんて、世の中に存在しないんだから」 

「それだけ説得力やべーな」 

「だから元気出してよ。最近、ずっと疲れた顔してる」 

 

 むにむにと頬を引っ張られる。

その程度で、凝り固まった表情筋がほぐれることはないけれど。……でも、心の方には、ちょっとだけゆとりができた。 

 

「……これじゃあ、どっちが先生なのか分かんねえな」 

 

 聞かれないように呟く。

教え導く側がこんなんでいいのか全くの謎だ。 

 

 未だに、舵の取り方は分からなかった。

その場しのぎを繰り返してきたせいで、具体的な方法論は確立されていない。 

 

「ラストスパートだ」 

 

 何においても。終わった後に倒れこめそうにないから、余力を残しておかなければいけないけれど。

 

それでもあと数か月で、今の俺に襲い掛かっている問題の大半は一応の解決を見る……ことになっている。

今の段階では神のみぞ知ることだから、せめて上手く行けと願っておこうか。 

 

 ここからの自分の判断一つ一つが、未来の自分を作る大きな分岐点になる。

まるで実感が湧かないが、悔いだけは残さないようにしないと。 

 

「出来る限り、私も協力するから」 

「なら、この腕をほどくところから始めてくれ」 

「これは別問題」 

「さいで」 

 

 空に浮かぶ星を見上げながら、肺にたまった空気を吐き出す。

こういう甘えたやり取りをしていられるのも、おそらく今が最後だ。 

 

 何を選ぶにしろ、選ばないにしろ、きっと円満な解決法なんて存在しない。大団円はどこにもない。 

 

 それならそれで、俺にお似合いの結末のように思う。

自分の分を超えた行いだったと考えれば、意外にすんなり受け入れられる。 

 

 どんなことになろうとも、その顛末は全てこの身で受け止めよう。自分で引いてしまった引き金なのだから、面倒を最後まで見切らないことには話にならない。 

 

 当然の帰結。当たり前の責任。それを超えた先に、待っていてくれるものはあるのだろうか。 

 

「ほら、お前んちあっちだろ」 

「ん、もうちょっと」 

「お前のもうちょっとは異常に長いんだよ。知ってるかんな」 

「なら、あと五分」 

「五分はちょっとなのか……?」 

 

 体力自慢なら一五〇〇メートルを軽々駆け抜けられるくらいの時間。大抵のカップ麺が出来上がる時間。

それがちょっとかどうかは、俺の尺度では断言できなかった。 

 

「もしくは十分……」 

「指定しても伸びるんじゃ意味ねえだろ」 

 

 ぽすっと胸あたりに収まる三玖の頭をどう扱うべきか悩んで、最終的に握りこぶしをぐりぐり押し付けることに決めた。

これなら、触れることに特別な意味を見出されなくて済む。 

  

「ね、フータロー」 

「なんだよ」 

「キス、しとく?」 

「しとかねえよ」 

「いや、断られてもするんだけど」 

「えぇ……」 

 

 極力限界まで背を反って、目を瞑りながらこちらに唇を寄せてくる三玖から逃れた。

残念なことに、一日一回は朝一番で消化済みだったりする。 

 

「……むぅ」 

「むぅじゃないが」 

「じゃあ、こっちで我慢しておく」 

 

 ちゅっと、唇が首に触れた。これは協定的にセーフでいいのか……? この抜け穴を許すと、どんどん綻びを突かれる気がするんだけど。 

 

「このほうが記憶に残っていいかもね」 

「良くねえよ。なんにも良くない」 

 

 そのたびに寿命を縮めてしまう。

長生きしようとは思わないが、別に早逝したいってわけでもないのだ。 

 

「あったかい……」 

 

 そりゃあそんなにべたべた引っ付いたら、寒さを感じるどころではないだろう。

決して俺は湯たんぽなどではないので、勘違いはしないでもらいたいのだが。 

 

「頑張ってね、フータロー」 

「言われなくても頑張るっての」 

 

 こんなやり取りの間にも、時間は刻々と流れていく。 

 

 結局、経過したのは五分や十分どころではなかった。

何もない道端で立ち尽くして、中身の伴わないどうでもいい会話をして、そうやって、だらだらと貴重な時間を消費していく。 

 

 なんてことはなく、ぬくもりを誰よりも求めていたのは、ここにいる俺自身だったらしかった。 

 

 やっぱり、彼女たちへの甘えは消えてくれない。 

 

 抱えているものが多すぎて、それらを消化する時間が追いついてこない。

だから必然として睡眠の方にしわ寄せが回ることになって、なんだか体が怠かった。 

 

 昨日がそうであったように、今日も渡された問題はさっさと解き終わったので、残り時間は瞑目して過ごすことにする。

あくまでも授業の延長なので気分的に居眠りはできないが、視覚を切るだけで多少体は休まるだろう。

 

ペース配分を誤ってこんなところで体を壊そうものなら、五つ子のサポートなどとは言っていられなくなる。 

 

 …………そのつもり、だったんだけど。 

 

「珍しいですね、上杉君が授業中に居眠りなんて」 

 

 背中を揺さぶられて覚醒。時計を見れば、今は授業間の休み時間。ちょっと休むつもりが、そのまま眠りの世界に誘われてしまっていたらしい。 

 

 意識下どころか無意識下でも大分参ってしまっているのだなぁと肩を落としながら、俺を起こした張本人である五月と向かい合った。 

 

「気ぃ抜いたら意識飛んでた。悪いな」 

「謝られることでもないですが」 

 

 確かにそうだ。俺は五月に不利益を押し付けたわけじゃない。それなのに「悪いな」では、言語的に不調和か。 

 

 かと言って、起こしてくれたことに感謝するのはそれはそれで違うような。

俺が日本語を自在に使いこなせないだけかもしれないが、こういうときに重宝する表現の一つくらい用意しておいてくれればいいものを。 

 

「そうだ五月。ノート、ちゃんと届いたか?」 

「そのお礼を言いに来たのですが」 

「別に、後で構わないのに」 

 

 今日は全員で集まって勉強する予定が入っている。

礼はその時で良いのに、律義な奴だ。

このあたりがこいつの美徳でもあるのだろうけど。 

 

「目は通したか?」 

「一通りは」 

「ならいい。そこまで急いでやる必要はないから、暇を見て進めとけ」 

「ありがとうございます、本当に」 

「仕事だからな」 

 

 仕事が占める領域を逸脱している感は否めないが、乗りかかった舟だ。……いや、それどころか、しっかり腰を据えてしまった舟だ。

ここまでくれば、もう最後まで付き合うしかないだろう。

 

当初は呉越同舟っぽい趣があったのをここまで歩み寄るのに相当な苦労をした。

それと比べて考えれば、ここからの一押しくらいはなんてことない。 

 

「報酬、弾まないとですね」 

「忘れんなよ」 

「しっかり記録してありますから」 

 

 耳を揃えて~とでも言おうかと思ったが、こいつにはその手の冗談が通じないことを思い出す。

下手をすると角をぴっしり合わせた現ナマを用意してくるかもしれないから、この表現は胸の内に秘しておこう。 

 

「で、今のテストの手ごたえは」 

「今日は午後から雪が降るそうですよ」 

「なるほど分かった。死ぬ気で頑張れ」 

「…………うぅ」 

 

 大きく項垂れる五月。

天気の話題で誤魔化すなんて盛大なテンプレートは俺には通じないのだった。 

 

 しかし、そうか。感触薄か。焦ってどうにかなるものでもないけれど、今の段階でそれはなかなかに厳しいものがある。 

  

「中途半端が一番良くないからな」 

 

 最近の言葉の中では何より一番感情が乗っている気がする。

大いなる自戒を込めた助言に、しかし五月は肩を落としたままだ。 

 

「全然自信がつかなくて」 

「そりゃな。自信ってのは成功体験か努力に基づくもんだし」 

 

 俺の場合なら学年一位と言う看板。二乃なら料理、四葉ならスポーツ。

明確に実績を残せる何かがあるのなら、それは自分の中で強固な屋台骨になってくれる。 

 

 だが、そこには大前提として大いなる落とし穴が存在していて。 

 

 今しがた俺は自信に関することを言ったが、それは二次的な相関なのだ。

最初にあるのは興味か偶発的な成功のどちらか。

それを基盤にして努力へと発展し、それを呼び水にして更なる成功を己の手中に収める。

 

このループの過程で、自信と呼ばれるものが勝手に自分の中に居つくのだ。 

 

 その点において、やるだけのことをやっているのに失敗続きの五月は弱い。

努力と成功が実感として結びついていない以上、何をしようが不安は残る。 

 

 それを取り除くのが果たして俺の仕事かどうかは判然としないが、最低限のアドバイスくらいはしてやれるといいんだけど。 

 

「……とは言え、一朝一夕でどうにかなる問題じゃねえんだよなぁ」 

 

 自分に甘い奴なら、一生懸命頑張った自分自身を肯定することができるだろう。だが、中野五月は堅物だ。

 

そんな妥協を良しとするタイプの人間性を持ち合わせてはいない。 

 融通が利かないと言えばそれまでだが、俺は心のどこかで、その頑固さを評価している節があった。

 

出来ることなら彼女にはその愚直さを後生大事に抱えてもらったまま、理想のゴールにたどりついて欲しいとさえ思っている。 

 

 しかしそれを成し遂げるには高いハードルがあまりにも多すぎて、どうやって打倒すればいいか困りものだ。 

 

「まあ、そのあたりはなんとか知恵出しとくわ。精神論以前の問題として知識量が足りてないってのはあるし、今はひたすら勉強するしかないわな」 

「……毎度お手数おかけします」 

「仕事だって言ってるだろ。もっと楽に構えとけ」 

 

 肩肘張るなと言ったところで、真面目な奴は余計に気負ってしまう。だからといって無言で突き放すわけにもいかず、そのあたりのパラドックスが俺をちくちくと突き刺してきた。 

 

 『教える』という行為の難しさはこの一年で嫌というほどに理解させられてきていて、それでも未だに分からないことまみれだ。

 

相手の力量を推し量りながらラインを引いて、性格を考慮しながら物言いを考えて。

たかだか五人を相手にこれだけの労力を払わせられるのに、一クラス四十人なんてとてもじゃないが面倒を見切れる気がしない。

……全員が全員こいつらレベルの問題児と仮定した場合だけれど。 

 

「とにかく頑張れ。俺も頑張る。今んとこはこれだけ」 

 

 五月の背中をグイっと押して彼女の席に押し返す。

俺とばかり顔を合わせていては気が滅入ってしまうだろうから、不可欠の措置だ。 

  

「あ、あのっ」 

「話があるならまた後で。そろそろ次の授業始まるぞ」 

 

 会話を断ち切る。次の授業ってやつまでの間にはまだ五分程度の猶予が残っているけれど、彼女の姉に言わせればその時間は『ちょっと』に過ぎない。

 

なら、『そろそろ』と表したところで問題らしい問題は見受けられないだろう。 

 

 頑張ると本人に宣言してしまった以上、半端なことは出来ない。

俺のことは二の次においてでも、対策を練らないと。 

 

「フータロー君から見て、五月ちゃんはどんな調子?」 

「正直に言って良いか?」 

「嘘つかれた方が困るな」 

「ならぶっちゃける。かなりヤバい」 

 

 学校での勉強会を終え、五つ子と俺とで夜道を歩いていた。

その中の流れで、俺は前方のグループから少しだけ距離を取り、一花と一対一で話す態勢になっている。 

 

「なんて言うか、目に見える数字以上に五月の心が置いていかれてる。たぶんだけど、あいつにはイメージがないんだ」 

「イメージって?」 

「自分の目標をつかみ取るイメージ。過去の失敗の多さが災いしてるんだかなんだか知らないが、五月にはそれが薄い」 

「なるほど」 

「で、だ。一応は夢に向かって前進してるお前から見て、この状況はどうするべきだと思う?」 

 

 使えるものはすべて使うことにする。

この際、それが猫の手だろうが姉妹の手だろうが構わない。 

 

「私と五月ちゃんじゃ、そもそも性格が全然違うからなぁ」 

「分かったうえで聞いてる。今はとにかく意見が要るんだ」 

「うーん、たとえば……」 

 

 一花は何かを指折り数えて、そしてその後、折った指を元に戻す。

何のためのアクションかは良く分からないが、彼女なりに意味があってのことなのだろう。 

 

「たとえば?」 

「たとえば……なんだろね?」 

「おい……」 

「分かんないものは分かんないよ。こればっかりは五月ちゃんの気分次第だし」 

「まあ、それはそうなんだが……」 

 

 だからこそ、家族として長年付き合ってきた連中の意見が欲しかった。

俺では理解しかねることだって、彼女たちならなんとかしてくれるのではないかと思ったから。 

 

 けれど、血縁があろうがなかろうが、結局のところ人が二人いればそいつらは他人なのだ。

俺だって、らいはのことをなんでも知っているわけじゃない。兄妹仲は決して悪くないのにだ。 

 

 解決策がどこかに隠されているのだとすれば、その在り処は五月の心中以外にあり得ない。

それが理解できただけで収穫だとすべきか、それとも足踏みしていると見るべきか。 

 

「どうしたもんか」 

「大変だね、先生も」 

「まったくだ」 

 

 予報通りに降り出した雪にはしゃぐ四葉を遠巻きに眺める。

これだと、先生と言うよりは保護者って感じが強い。

 

「ただ、ここまで来たらもう引き返せねえ。死なば諸共だ」 

「死なないでよ」 

「今のままだと結構な確率で死ぬからな。そろそろ墓の準備をしておく頃かもしれない」 

「ならいっそ、ウチのお墓に一緒に入る?」 

「いや、俺んちにも……待て。唐突に爆弾投げてくんな」 

「そのためには籍を入れとかないと」 

「ブレーキオイル切れてんじゃねえのか」 

 

 慣れとは恐ろしいもので、近頃誰も停止位置を守ってくれなくなってしまった。

せっかく真面目な話をしていたというのに、これじゃあもうどっちらけだ。一気にそういう気分じゃなくなってしまう。 

 

「フータロー君ちのお墓に入るのでも良いよ」 

「さっきのは『止まれ』って意味だ。分かったか?」 

「上杉一花……いい響きだね」 

「…………」 

 

 どう考えてもわざと話をこじらせているので、耳をつねって地獄の妄想吐き出しタイムを中断させた。

タチが悪いにしたって、限度があるだろうに。 

 

「日本の離婚率は三五パーセントだ」 

「六割以上も一生を添い遂げるだなんて素敵だよね」 

「強い強い強い」 

「私たちなら絶対その六割に入れると思うな」 

「怖い怖い怖い」 

 

 他人に詰め寄るのに数字を用いるのは暫く控えよう。

どんな開き直りをされるか分かったもんじゃない。 

 

 俺としては一花の発言内容にひやひやするというのはもちろんあったけれど、そこに加えて前の連中が聞き耳を立てている可能性まで思い浮かんで、本当に気が気ではなかった。

これが新しいトリガーになったらマジでどうしてくれるんだ。 

 

「なーんてね。演技演技」 

「それ言えば何でも許されると思ってないか?」 

「思ってるわけないじゃん。本当だよ。嘘じゃないよ」 

「…………」 

 

 なんだろう、一瞬背中がヒヤッとした気がする。

何に反応したかは定かじゃないけれど。 

 

 しかし、他の姉妹がいる中でガンガンこういう話をされていいことなんて何もない。

ついでに言えば二人っきりの時にされてもいいことがない。

つまり、いつだっていいことはないのだ。 

 

 来るところまで来た実感はあるので、ここはもういっそ盛大なクズ路線で走ろうか。俗にいうガン無視。興味を向けなければ、彼女だって大人しくなるだろう。 

 

 そう思って、即座に行動に移す。

一花から目を逸らして、努めて彼女の言葉を聞かないようにする。 

 

 …………が。 

 

「フータロー君の手あったかー」 

「…………」 

「フータロー君の腕ながー」 

「…………」 

「フータロー君の唇――」 

「構うから許してくれ」 

「フータロー君の唇――」 

「マジでブレーキ故障してるだろお前」 

 

 バックステップで一花から距離を取り、一度大きく息を吐く。

まともに取り合っていたら命がいくつあっても足らない。 

 

 これで一旦仕切り直したつもりなのに一花はこちらにじりじりとにじり寄って来ていて、第二ラウンド開始のゴングが俺の頭に響こうとしていた。 

 

と、その時。 

 

「上杉さーん! 見てくださいこれ! 雪の結晶!」 

「お、おう」 

「写真、写真撮ってください!」 

「お、おう」 

「素早くお願いしますね! 溶けちゃうので!」 

「お、おう」 

 

 たったか走ってきた四葉が、自分の手袋にくっついた雪の粒を俺に見せてくる。

で、そのままスマホを手渡され、慣れない手つきでパシャパシャ二、三枚だけ撮影して、彼女に返した。 

 

 四葉は礼を言って、すぐさま前列に帰っていき、再びはしゃぎ始める。

まるで台風みたいな奴だ。

 

しかしこの状況においては願ってもない最強の助け舟。

そこに関しては素直に感謝。 

 

四葉は相変わらずだな……」 

「そうだね。そんな子まで手にかけちゃうフータロー君も相変わらずだね」 

「俺に怨みでもあんの……?」 

 

 ウィークポイントばかりをぐさぐさ突き刺してきて困る。

しかしそれが事実である以上は否定しようがなく、そのあたりがまた一段と厄介。 

 

 過去の過ちを論ったところで、何かが覆るわけじゃない。

そのうえでなお会話のテーブルに載せるということは、どこかに意図なり思いなりが隠れているはず。

一花においては、俺に残った良心をいたぶることが目的だろうか。 

 

「怨みっていうよりは、妬みっていった方が近いかも」 

「妬みの対象はなんだよ」 

「フータロー君の感情が私以外に向くこと?」 

「なぜ疑問形……」 

「自分でもはっきり分かってないからね。ただ、君が他の女の子と話してるのを見るともやもやする」 

「…………」 

「しかも面倒なことに、それが妹でも例外じゃないみたいで」 

「…………」 

「どうせ同じ顔なんだから私でいいじゃんって思っちゃうんだよね」 

「極論だろ、それは」 

「フータロー君的には、容姿って二の次?」 

「どう答えても角が立つ質問はすんな」 

 

 あって困るものではないが、第一優先ときっぱり言い切ってしまえば反感を買うと分かる。

 

他人を好きになるとき、ファクターをルックスに求めるのは不純と言う向きが通念としてあって、だから人はそのあたりを上手く繕って当たり障りない理由を探そうとする。

内面を愛することが何より美しいことなのだと、そんな考えが世には蔓延している。 

 

 正直なところ、俺は何も分からない。

少し前までは他人に好意を向けられたこともなければ、他人に好意を向けたこともなかった。

俺の人生に存在するのは親愛のみで、恋愛という概念とは人生を通して関わり合いがないものだろうとも考えていた。 

 

 ただ、近頃の狂騒の中、嫌でも考えざるを得なくなった。

人が人を好きになるメカニズムや、どうしてそれを伝えるのか。

 

もちろんのことまるで答えは出てくれなくて、時間ばかりが失われていくだけなのだが。 

 

「他人に興味を持たない人生を送っていた俺に、いきなりそういうのは難しいんだっての」 

「そもそも私たちって可愛く見えてる?」 

「難しいって言ってるだろ」 

 

 女優なんてやってるんだから、自身の見てくれについてはある程度理解しているのだろう。

ただ、それは一定の分母を用意したときの支持率の話であって、個人レベルにまで通用する理念ではない。

 

だからこそ、こうやって直接確認せざるを得ない状況というのも存在する。 

 

 ただ、俺が馬鹿正直に答えるはずもなく。 

 

「それはお前の中で結論付けといてくれ。口ならいくらでも出まかせが言える」 

「気付いたら手を出しちゃうんだから、超かわいいってこと?」 

「俺を理性が欠如したバケモノみたいに言うな」 

「…………」 

「……事実であろうがもう少し言いようがだな」 

 

 慌てて訂正するも虚しく、明らかにもの言いたげな視線が突き刺さってくる。

行為中の自分とそうでないときの自分とを切り離せるならどんなに楽だろうか。 

 

「まあ、良い方に捉えておくね」 

「勝手にどうぞ」 

 

 気に召すようにしてもらえればいい。下

手に否定を挟んでも、肯定を挟んでも、どっちみち話は拗れそうだ。それくらいなら、彼女の想像に任せてしまおう。

 

「っと、今は勉強のことでいっぱいいっぱいなフータロー君をいじめるのはここまでにしておいて」 

「いじめている意識があるのならもっと加減しろよ……」 

「罪悪感を募らせておこうと」 

「発想が怖いんだって」 

「そうしておけば逃げられることはなくなるかなーと思ってね。……でも、今は本当に余裕なさそうだし、これくらいが限度かな」 

 

 一花の手が、すっと俺のスラックスのポケットに差し込まれる。

ひんやり冷たい感覚が急に襲ってきたせいで、俺は思わず変な声を漏らしてしまった。 

 

「あったかーい」 

「手袋しろよ。なんで剥き身なんだ」 

「手をつなぐ理由にするつもりだったんだけど、どうやら無理っぽいし。だから、これで妥協するの」 

「妥協のラインが絶対におかしい……」 

 

 わきわきと蠢く一花の手に何度も身震いする。

スラックスのポケットと言うことは、必然的に急所が近接している。こいつが何をしでかすかなんて分かったもんじゃないので、布越しに彼女の手を押さえつけた。 

 

「……あ」 

「なんだよ……」 

「フータロー君、意外とツンデレだよね」 

「男に貼るレッテルじゃないことだけは確かだ」 

 

こんな会話の間にも、雪は静かに降り積もっている。 

雪解けが、遠くないといいんだけど。

 

 二十四節季でいう大雪を通り過ぎた十二月の半ば。

日に日に強くなっていく冷え込みに度重なる厚着を強要されながら、今日も今日とて家庭教師だと中野姉妹が住まうアパートへ足を運ぶ。 

 

 開けっ放しになっている玄関ドアの鍵は、俺に対する信用の表れか、あるいはただの不用心か。 

 

「五月は?」 

 

 こたつに座して待っている面々は、勢ぞろいというわけではなかった。

いつも五月が座っているところだけがぽつんと歯抜けになっていて、妙な違和感がある。 

 

 さては無理がたたって熱でも出したか。

そう思って寝室の方に視線を向けると、俺の考えを否定するように、三玖が壁掛けのカレンダーを指さした。 

 

「……そういうことね」 

「朝一番に訪ねてすぐ帰るって言ってたけど、長引いちゃってるみたい」 

「了解。お前らは自習しててくれ」 

 

 入って来たばかりの玄関に逆戻りして、靴を履き直す。

つくづく俺の領分じゃねえなあと思うが、やらないことには始まらない。 

 

「入れ違いになったら連絡頼む」 

 

 それだけ告げて家を出た。

一度温かな空間に立ち寄ってしまったせいで、寒さはいっそう際立ったように思う。 

 

「風邪ひくぞ」 

「…………!」 

 

墓石の前で手を合わせている五月を捕捉し、横に並んだ。 

 

 本日は十二月十四日。そして、毎月十四日は彼女たちの母親の月命日にあたる。

五月が毎月欠かさず墓参りをすることは知っていたが、ナイーブな時期にいることもあってか、予想以上に長居をしてしまっているらしい。 

 

「あ、ご、ごめんなさい! すぐ帰るつもりだったのに!」 

「線香余ってるか?」 

「……? ええ、一応」 

「分けてくれ。供え物する余裕はないが、それくらいはな」 

 

 百円ライターで線香数本に火を灯し、供える。

面識もない相手の喪に服するのは、なんだか変な感じがした。 

 

「お前の母親、学校の先生だったって言ったか」 

「はい」 

「ならご利益もあるか」 

 

 碑に刻まれている横並びの没年月日と戒名を順に辿って行って、明らかに名づけの法則が異なる一つを見つける。

病死した人物にありがちな、疫を雪ぐ名前。

それが彼女たちの母親の名であることは想像に難くない。 

 

 きちんと傍記されている本名に意識を吸われかけたが、今はそれを気にしている場合でもないだろう。

こいつをさっさと家に連れ帰って、少しでも多くの知識を叩き込んでやらないと。 

 

「なんだか意外です」 

「何がだよ?」 

「遅刻したことを怒られるものだとばかり」 

「俺を何だと思ってんだ……」 

 

 風に吹かれて、線香の燃焼速度が増した。

実家の香炉にも手を合わせてこようかなんて考えながら、五月の方に視線を向ける。 

 

「サボりだったら怒るだろうが、そうじゃないことくらい俺にだって分かるっての」 

「そもそも上杉君の場合、こういう信心深さとは無縁のような気がして」 

 

 宗教的な価値観の話。

確かに、俺はそこまで信仰心が篤い人間ではないけれど。 

 

「神サマは信じてないが、仏に関してはそうでもない」 

「……その心は?」 

「神がいるなら俺の母親もお前の母親も死んでない。逆に、俺の母親やお前の母親が死んでる以上仏はいる」 

「暴論……」 

「自分で納得できればそれでいいんだよこんなのは。現にこの解釈が一番しっくりきてるし疑ってない。俺は信仰を自分の軸に据えていないし、適当なくらいがちょうどだ」 

 

 少なくとも墓前でするような話じゃないがな、と付け足す。

時と場所と場合は見極めないといけない。 

 

 まあ、そういうのは置いても、五月の気持ちが分からないわけではないのだ。

人事を尽くさずして神頼みに走るのは論外だが、出来る限りの努力を積み切ったうえでそこに不安が残るのであれば、後はスピリチュアルなものに縋るしかない。

 

そして一般的な環境下で育ってきた日本人の場合、それが先祖の類である可能性が高いのも分かっている。 

 

 空から見守ってくれているという考え方。正しい努力には正しい顛末が付いて回るはずだという理想論を、もうこの世界にはいない誰かに肯定してもらいたい。 

 

 それを一概に弱さだと断じて括ることは、俺にはできなかった。 

 

「なんというか、上杉君らしいです」 

「どこらへんが?」 

「迷いのなさが。私は、道に迷ってばかりで」 

「……そうでもないんだな」 

「はい?」 

「なんでもない。で、その迷いってなんだよ?」 

「信念、でしょうか」 

 

 五月は自分の心臓のあたりに手を当てる。

疑似的に、心に触れているのか。 

 

「上杉君と違って、自分の信じたことをそのままに受け入れる力が私にはありませんから」 

「初耳だぞ、そんな力の存在」 

「当たり前に思っている人ほど気づかないものですよ」 

 

 笑いかけられる。その笑顔が絶妙に脆くて、表情とは裏腹な思いがないまぜになっているのが分かった。 

 

「ついついよそ見をしてしまいますから。普通は」 

「俺が普通じゃないみたいな言い方はよせ」 

「なら、なおさら撤回しかねます」 

 

 変人認定など要らないのに、彼女はそれを取り消してくれない。

こちらには否定材料がないせいで、言われるがままだ。 

 

 墓所で軽口をたたき合うのは、マナー的にどうなのだろうか。 

 

「……よしんば俺が普通じゃなかったとして、別によそ見をしてないわけじゃねえよ」 

「そうでしょうか?」 

「よそ見ってのは、選択肢を複数持つ人間の特権だ」 

 

 それだけ言って、今いる場所から離れる。彼女の返しを待ちはしない。 

 

「ほら、そろそろ行こうぜ。お前の姉連中が待ってる」 

「あっ、ちょっと」 

 

 慌ててついてくる五月を尻目に、石段を降りる。

感傷に浸れども今抱えている問題が解決するわけではないので、きちんと実になることを積み上げないといけない。 

 

 それ以前に、負い目があった。……その、なんというか、彼女たちの母親に申し訳ないことをしているというか……。 

 

「どういう意味ですか、今の」 

「どうもこうもない。そのまんまだ」 

 

 連日の降雪で薄ら白む歩道に足跡を残しながら、来た道を逆戻り。春の遠さに目が眩むが、いざ春が来たら来たで、また新たな課題が俺の目の前に姿を現すのだろう。

悩みも課題も天壌無窮。生きている限りその輪から逃れる術はない。 

 

 意識的に、俺が数分前につけたばかりの足跡を上書いて歩く。

真っ直ぐやって来たつもりがところどころで歪んでいて、自分の認識のずれを見せられているようだ。 

 

「それ以前に、この前のお話もまだ聞いていませんし」 

「この前?」 

「職員室の近くで会ったときです。追い追い話すって言っていたじゃないですか」 

「ああ、あれ」 

 

 機会が機会だ。二人で話す時間があるうちに、言っておくのが吉か。 

 

 だが、タイミングが微妙な気もした。

俺に対して余計な心遣いをされても困るし、現在余裕がないのは彼女の方に違いないのに。 

 

 だから、極力なんでもないように装うことに決めた。

深刻な雰囲気を醸し出さないように、気をつけて。 

 

「大したことじゃないから聞き流せよ」 

「それは私の判断次第ですね」 

「進学か就職か聞かれた。以上」 

「大問題じゃないですか」 

「だよなー」 

 

 我ながらそう思う。人生設計が甘すぎだ。 

 だからこいつには言いたくなかった。少なくとも、成績が安定するようになるまでは話題に出さないつもりでいたのに。

 

「ま、まさかまだ決まってないなんてことは……?」 

「取りあえずセンターは受ける」 

「それだけですか……」 

「願書の締め切りで考えればまだ一月くらいは時間あるし、そこまで大した問題でもないだろ」 

「大した問題ですって。私の面倒を見ている場合じゃないでしょう」 

「まあ、なんだ。人生なるようになる」 

「それはなにもかもが円満に片付いた後で言うセリフです」 

 

 ごもっともだ。楽天家の自己肯定に使っていい言葉ではないことだけは確か。 

 

 しかし、どう考えたところで結論は出てくれないのだから仕方ない。勉学を極めれば何者かになれるものだとばかり思っていたけれど、現実はそんなに甘くなかった。

課題の類は次から次に提示され、息つく暇もなく自分に襲い掛かってくる。 

 

 そんな中にあって、冷静な判断を下す自信がない。後悔を残す予感しかしない。 

 

 俺は一体、どこに向かって歩いているのだろう。 

 

「これも一つの教訓だと思って見ておけよ。お前が欲してやまない学力という武器を持っている人間だって、その使い道を知らなければこうなる」 

「笑えませんよ」 

「結局、テストの出来なんてのは手段の一つでしかないんだよ。気付くのが遅すぎた気もするが、俺も一つの学びを得た。そこを突き詰めれば学者という選択肢が生まれるのかもしれないが、残念ながら俺は学問自体に魅力を感じているわけじゃない」 

 

「それは真理かもですが……」 

 

 勉強だけが全てではないことを、彼女たちとの関わりを通して学んだ。

そのせいで、今まで絶対だと信じて疑ってこなかった自身の価値観が揺らいでしまうことにも繋がったわけだが、それが学生の間に訪れたことはむしろ僥倖であろうとも思う。 

 

 人間、何かを始めるのに遅すぎるなんてことはない……などとは言うけれど、それは恵まれた側にいる人間の戯言だ。

資本主義の底辺層で燻っている俺に、そう何度もリカバリのチャンスは訪れない。 

 

 少ないチャンスをものにするために、より多くの観点が必要だった。俺は、それを与えてもらった。 

 

「お前、夢あるんだろ?」 

「……一応」 

「ならその時点で俺より上だ。胸張って生きろ」 

 

 夢や目標を原動力にするやり方がなにより健全だったのだ。

その点で、俺は彼女を尊敬できる。 

 

「……正直、お前が学校教師になっている姿はまるで想像出来ないが」 

「えっ」 

「なんだよ。これはただの個人的な感想だ」 

「いえ、私、直接伝えましたっけ……?」 

「模試の志望欄が全部教育学部のやつが先生目指さねえってことはないだろ……」 

 

 それが分からない程鈍い奴だとでも思われていたのか俺は。

それはさすがに心外だと訴えるために薄眼で彼女を見ると、五月はぽかんとした表情で視線を虚空に彷徨わせるばかりになっていた。 

 

「確かに……」 

「むしろあれで隠してるつもりだったってのが怖い」 

「い、いつか自分の口で宣言しようと思って」 

「いつかが遠すぎる。ほら、今言え今」 

「今ですか?!」 

「お前の口からは聞いてないしな」 

 

 なんの儀式だって感じだが、こういうのが意外と大事だったりする。逃げ道が消えることによって力を増すタイプの人間がいることは知っているから、五月もそうである可能性を願おう。 

 

「いえ、でも、今のままだと……」 

「できるかどうかはこの際どうでもいいだろ。この場合、重要なのはなりたいかどうかだ」 

 

 それっぽいことを言って励ます。

退路の一切を絶たせてしまう恐ろしいやり方だが、彼女にはこれくらいでちょうどいいと思う。

保険も予防線も、挑戦という概念の前では邪魔なものでしかないから。 

 

「それに、聞く相手が俺だしな。気負うことなんか何もない」 

「……だから言えなかったんですよ」 

「…………?」 

 

 会話のどの部分を受けて「だから」という言葉が湧いて出てきたのかは推察できなかった。

 

しかし、そんなことはどうでもいい。

さっさと宣誓させて、迷いから抜け出させてやらないと。 

 

「…………先生に、なりたいです」 

「少し違う」 

「違うと言われても」 

 

 小声でぼそぼそ言ったって、大した効果が望めるようには思えなかった。

もっと、何もかもかなぐり捨てて突っ走る感じがいい

 

「それはただの願望だろ。宣言ってのはもっとこう、我がままで、無根拠な自信に満ちたものじゃないと」 

「つまりは、どういうことでしょう?」 

「なりたいんじゃねえ。なるんだよ、お前は」 

「…………」 

 

 失敗した自分の姿を勝手に想像して、それを恐れるようではいけない。

確かに無駄に知恵をつけて、社会を知って、そういう過程で保身に走る能力を身に着けてしまうことは分からないでもない。

 

でも、いつもそうやって自分の空に閉じこもっていては、前に進む気力が枯れ果ててしまうと思うから。 

 

「それともなんだ? 口だけで終わるのが怖いか?」 

「なっ!」 

「そんな奴が夢を実現させられるとは思えねえなあ」 

「ななっ!」 

 

 俺の低レベルな煽りにきちんと乗っかってくれるのはありがたい。その煽り耐性の低さは、後々修正していかないとまずそうだが。 

 

 とにかく、堰を一つ破ろう。がむしゃらにやるしかないんだ、今の五月は。 

 

「……そこまで言うなら、やってみせようじゃないですか」 

「ほう?」 

「なりますよ。なってみせますからね、絶対に」 

「……ま、ここらへんが落としどころか」 

  

 息を吐いて、彼女に背を向ける。

こちらの思惑通りに動かされてしまった五月を見ていたら、堪らず噴き出してしまいそうだから。 

 

「聞いていますか?!」 

「聞いてる聞いてる。ちゃんと記憶したかんな」 

「絶対にさっきの言葉を撤回してもらいますからね!」 

「出来たら喜んで靴でも足でも舐めてやるよ。出来たら、だけどな」 

「このっ、この人は……! 後悔しても遅いですよ!」 

「はいはい」 

 

 適当にのらりくらりとかわしながら、少しずつ歩を進める。

一気にジャンプアップする方法があれば楽でいいが、バカ不器用な五月に限ってそれは無理。

 

なら、せめて俺が階段くらい作ってやろう。 

 本当に、問題児の先生と言うのは楽じゃない。 

 

「なんで笑ってるんですか!?」 

「笑ってねーよ」 

 

 せめて「ほくそ笑んでいる」とかにしてくれ。「可笑しがっている」でもいい。 

 

 楽しいことがなくても、どうやら人は笑えるらしい。不思議なことだ。 

 

「見返すために全力で頑張れ。まずは今日の課題から」 

「言われなくても」 

 

 後ろにいた五月が俺を追い越して、そのまま家の方へと早歩きしていく。

俺も、それに付いて行くように、少しだけ歩調を速めた。 

 家庭教師が走るから師走か。なるほど、なんにも上手くねーや。 

 

 どれだけ止まれと希っても、時間の流れは変わらない。

起きて動いて眠ったら一日は終わってしまい、それを繰り返しているうちに自己決定の期限は着々と俺の元に迫ってくる。 

 

 たぶん、生まれてから今までで一番密度の高い冬になる。

この先の未来の舵取りを一手に担う時期、季節。

二度と戻らない、たった一度の大一番。 

 

 抱えてしまったタスクはとうにキャパシティを超え、度重なる処理落ちを繰り返しながら同じところを行ったり来たり。 

 

 せめて悔いだけは残さないように、大きな禍根を置いてこないようにともがき足掻けど、大して歩みは進むことなく。

それでも必死に生きた今が、いつかの自分を支えると信じて。 

 

 とにかく、自分に嘘だけはつかないようにしよう。

過程に欺瞞を含んだ結末が、俺を納得させてくれるとは思えなかったから。 

 

 学校は冬休みに突入しているが、補講だか入試対策だかの名目で平時とこれといった違いなく通学を余儀なくされている。

希望者を募った発展講座などもあって、下手を打てば朝から晩まで学校浸りの可能性もあった。 

 

 というか実際に、そうなっている奴がいた。 

 

「精の出るこった」 

「出来るだけ、自分を追い込みたいんです」 

 

 図書室で自習している俺の元を訪れた五月は、その表情に重たい疲労を滲ませていた。

絶え間ない頭脳労働は、確実に心と体に負荷をかけてくる。

経験者である俺にはよくわかることだった。 

 

「どっちかっていうと追い詰められてないか、お前?」 

「最悪それでも構いません。今を走り抜けないことには明日も明後日もありませんから」 

「ここで倒れたら倒れたで一巻の終わりだけどな」 

 

 だからといって、俺が止められることでもない。後々への保険……というわけではないが、もしこいつが夢に破れる未来があった場合、振り返った道のりで俺が障害になっていたりしたらどう悔やめばいいか分からなくなる。  

 

 そういう重要な事柄に口を挟み過ぎるのはお互いのためにならない。ここまで来たら、思う存分やれることをやるべきだ。 

 

「復習できる体力は?」 

「なんとか」 

「ならやっちまうか。講義で分からなかったことや怪しいところがあったら教えてくれ。苦手な箇所から潰していくぞ」 

 

 家庭教師としてのお勤めも、もうそう長く残っているわけではない。もちろんこちらに尽力しすぎて自分のことを疎かにするのは論外だが、もはや彼女たちを見放せるような距離感ではなくなってしまった。 

 

 卒業まではこぎ着けた。

本来の役目はここで終わりだが、どうせなら『笑顔で』卒業するオプションまで請け負おう。

 

夢への第一歩を踏み出すのに、背中くらい押してやってもいいだろう。……別案件で泣き顔を増やしてしまいそうだという懸念は絶えず俺の思考の片隅にあって、そのことへの罪滅ぼし的な側面が存在することは、否定しないが。 

 

 けれど、純粋な思いとして、この仕事を通して得た経験を彼女たちに還元したいと考える自分はいるのだ。

そこに偽りはなく、言うなればこれは、感謝のような―― 

 

「じゃあ、始めるぞ」 

「よろしくお願いします」 

 

 何より、最初期にはあり得なかったこの関係性を心地よいと思ってしまっている。

俺が試行錯誤を繰り返しながら、その果てにようやくつかみ取った成果物。せめてこれだけは、最後まで輝かしい思い出として、自分の中で布にくるんで蓄えておきたい。 

 

 そんな都合の良いことを思うのだから、代価として、相応の努力が必要だろう。 

 

 

 窓の外を見れば、降り出した雪が世界を白色に染め上げていた。

幻想的で結構なことだが、帰る時間までには降りやんでいてくれるとありがたい。 

 

「つくづく運がねえな……」 

 

 不満げに呟いても、雪交じりの雨は俺の意図を汲む気配すら見せず、勢いを増して降り注ぐ。 

 

 冬にしてはマシに思えた日中の気温が災いした。

軒先から手を伸ばして天よりの落下物に触れると、明らかに水気が多いのが分かる。

それは、粒の降下速度を見ても明らかなことだった。 

 

 雪はやめてくれと願ったが、それは別に雨なら許容するという意味ではない。

むしろ、傘が必携になるぶん雨の方が数段厄介だ。

折り畳み傘などという気の利いたアイテムの持ち合わせはなく、帰宅までにずぶ濡れになるのはほぼ見えた結末。

 

この時期に水浸しになる辛さは昨年のごたごたで知っているから、今から既に憂鬱になりかけている。

風邪を引く可能性まで考えると、さらに億劫だ。 

 

「ああ、やっべ」 

「どうしました?」 

「先生に呼び出されてるのすっかり忘れてた。長引くだろうから先帰っててくれ」 

 

もちろんそんな用事はない。が、五月には妙な世話焼き癖があるので、ここでシンプルに傘を忘れた旨を伝えることが憚られた。

 

幸か不幸か彼女の手には折り畳み傘らしきものが握られているし、お節介を受ける前にさっさと帰らせるのが吉。 

 

 五月は俺が進路関係で教員と話し合いの場を持っていることを知っているし、でっちあげの理由としてはこれが一番ツッコミが入りにくいだろう。

 

導入の不自然さだって、今は自身のことでいっぱいいっぱいな五月には気づきえない。

元より鈍いというのもあるにはあるが。 

 

「じゃあな。睡眠時間はある程度確保しとけよ」 

「あなたがそれを言いますか」 

「言ったろ。教訓だ」 

 

 それが良くないことだと知っていて、未だに性懲りもなく繰り返しているけれど。 

 

 とにかく、今は五月を撒くのが先決。

十分に時間をおいてから、俺もなんとか帰宅しよう。 

 

「では、お先に」 

 

 軽く礼をした後、五月がこちらに背を向ける。

彼女の姿が夕闇に馴染んでいくのをしばし見送った後で、時間を潰すために一度教室に行くことにした。

 

忘れ物があるわけでもないが、理由なく入れる場所が意外と限られている学校において、自分が所属しているクラスというのはある種の気安さが感じられる。 

 

 こつこつと反響する自分の足音にそこまでの不気味さを覚えないのは、照明がしっかり灯っているからだろうか。

暖房はケチる癖になぁ……とも思うが、暗いよりはマシ。

この時期の負の想念の連鎖みたいになっている校舎内で、暗闇を一人歩く図太さはない。 

 

 誰もいない教室は、流石に消灯されていた。まあ、これはこれでいいかと思いながら自分に割り当てられた席に座り、なんとなく黒板を眺める。 

 

 乱雑に黒板消しを当てられているせいか、直前に実施された授業の内容がなんとなく読み取れた。

一部文字が残っていたり、あるいはチョークの跡が消しきれていなかったりで、英語教師がここに立っていた過去が窺える。 

 

 残されたアルファベットから推測される単語や文章を頭の中で補足しながら、そこにあったのであろう授業風景を勝手に思い描く。

面白味の欠片もない空想だが、時間を浪費するという点においては割と役立ちそうだった。

 

今くらいは、脳みそを休めても許されるのだろうけれど。 

 

 ある程度時間が経ったのを時計で確認してから、のそのそと席を立つ。

このままだとここで眠ってしまいそうだ。   

 

 寝るならせめて家が良い。体を横に出来る環境と言うのは貴重。

若いからといって無茶をし過ぎると困るのは未来の自分自身だ。 

 

 凝り固まった関節をゴキゴキ鳴らしながら階下に下り、先ほど脱いだばかりの下足をもう一度履く。

順当にいけば、五月はもう家に着いている頃合いだろうか。 

 

 あいつのことだから、もう勉強を始めているかもしれない。

そうでなければお待ちかねの夕飯にありついているかのどっちかだ。 

 

 どちらにせよ、やりたいようにやってくれればそれでいい。

俺はただ、彼女のやることをサポートするだけ。 

 

 こんなときにまで仕事のことを考えるとか、俺もいよいよ社畜めいた思想に脳みそを染め上げられているのかもしれない。 

 

「まあ、そう上手くはいかないか」 

 

 一縷の希望としてあった、時間経過でみぞれが弱まるという可能性はバツ印。

せめてもの救いとして悪化はしていなかったが、元の勢いが元の勢いなのでそこに感謝の心を抱くことはなかった。 

 

 リュックを盾にして走り去る案もあるにはあったが、背中が冷えるので諦めた。

どのみちどこもかしこも濡れるのだろうから、多少抗っても意味はない。

時間当たりのダメージ率から考えると、走って帰った方がいいのには違いないが。 

 

 そんなこんなで、意を決して踏み出す。

足元がびちゃびちゃと跳ねて気持ち悪いが、贅沢を言っていられる場合でもない。

 

長い間こんな環境に体を晒し続けようとは思えないので、出来るだけ早く帰宅しよう。

体力勝負に自信はないから、きっとどこかで休憩することになるけれど。 

 

 連日の疲労と体力不足のダブルパンチで悲鳴を上げる呼吸器を強引に黙らせて、規則的なリズムで駆けていく。

 

本来なら、こういった場面で少ない体力を使い込んでしまうのは好ましくない。

 

だが、後々にやってくるだろう身体的な不調とそれとを天秤にかけたとき、ここで使い惜しむという選択肢は取れなかった。

なにせ、自分の面倒だけ見ていればそれで終わるというわけではないのだから。 

 

 それらの面で、本当に厄介だと思う。受験は団体戦って絶対こういうことではないだろとも。 

 だけれども、そのことについて思うたび、不思議と俺の中の負けん気が顔を出すのだ。

もう少しだけやってやろうと、何度も何度も背中を押してくるのだ。 

 

 あの五つ子たちと関わる過程で、自身の中枢が歪められてしまった。客観的に見て由々しき事態で、いずれ対処しなくてはならない案件なのは明白。……なのに、それを悪いことだときっぱり断言してしまう気にはなれない。 

 

根腐れ、とでも呼べばいいのだろうか。 

あいつらは、俺に水をやり過ぎた。 

重症度を見るからに、水は水でも砂糖水だった可能性もある。 

 

「やっぱり。こんなことだろうと思いました」 

 

 だから、こうなる。 

 あっさり、見透かされる。 

 

「風邪を引いたらどうするんですか、もう」 

 

 校門の脇に佇んでいた少女から視線の猛抗議を受け、その場で立ち尽くす。 

 思うことは色々あった。なんで帰ってねえんだよとか、俺が嘘ついてなかったらどうするつもりだったんだよとか、他にも多々。 

 

 だけれど、真っ先に口をついて出た言葉が「すまん」だったあたり、いよいよ調教も大詰め感が否めない。 

 

「お前ひとり騙せないとか、俺もヤキが回ったか」 

「なら、これを機にバレる嘘をつくのはやめにしてください」 

「悪いが、嘘も方便だとお前の姉に教えた都合上、そう簡単にやめるわけにもいかない」 

 

 肩に積もったみぞれを払いのける。

その方便が上手く機能してくれないことには、何の意味もない。 

 

 結果的に彼女の精神的な負担を減らすという目論見は散り、現在進行形でこうやって迷惑をかけている。

やることなすこと全てが裏目に出て嫌になるが、自分の内側にある感情は、きっと嫌悪などではなく―― 

 

「でしたら、バレない嘘をついてください」 

「肝に銘じておく」 

 

 会話の最中にも天からの落下物は延々と降り注いできて、前髪やら睫毛やらに付着するそれらのせいで、一定の視界を保てない。 

 

 何度も何度もうざったそうに額を撫でている俺を見かねてか、五月がこちらに手招きのジェスチャーをしてきた。 

 

「立地的に、ここなら多少は安全です」 

「悪いがこれ以上お前に近づくと持病の発作が起こることになってる」 

「さっきの今でその嘘は無謀が過ぎるでしょう」 

「だってなぁ……お前、それ……」 

「良いんですか。このまま長々とここに留まっていると、二人そろって病院行きですよ」 

「それは……そうかもしれないが」 

 

 取り立てて丈夫というわけではない。

ある程度の条件さえ満たしてしまえば、俺の体はあっさりと発熱する仕様になっている。

五月に関してもおそらく同様のことが言えて、だから、屋根のある温かい場所に移動するのが急務だ。 

 

 で、この場において、そのうちの片方だけならやんわりと満たしてしまえる方法があった。 

 

 しかし、しかしだ。そのやり方を肯定してしまうのは、なんとも言えない敗北感が……。 

 

「私だって恥を忍んでいるんですから、さっさと思い切ってください」 

 

 そう言う五月の顔は真っ赤で、寒さ以上に羞恥が機能しているようだった。

そこまで嫌ならやらなきゃいいのに……。 

 

 善意を踏みにじるようで悪いが、ここで走り去ってしまおうか。

そうすれば、ひとまずの落着を見そうな気はする。

丸く収まりはしないだろうけれど、案の一つとして保留しておくくらいはありだろうか。 

 

「ちなみにですが、ここで上杉君が無視をすると、私は明日の朝までこの場所に立ち尽くす予定になっています」 

「そんな予定はスケジュール帳から消せ」 

「ボールペンで書いてしまったので」 

「二重線で消せ。消しゴムに頼るな」 

「……くしゅっ」 

「…………」 

「…………」 

 

 それはまあ、当たり前の話で。

このクソ寒い屋外に長い間放り出されていたら、その分だけ体は冷える。

恒温動物の悲しいサガで一定に保たれる体温。

そのエネルギーは当然肉体の貯蔵分から持ってくるので、時間に比例して体力はどんどん削られる。 

 

 そして、こいつがいつからここにいたかを考えると、そろそろ疲労が無視できないレベルに達している可能性があって。 

 

「……なんです?」 

「なんでもないけど」 

「別に、あなたのためというわけではありません。自分のこれからを考えたとき、今ここで上杉君に倒れられると、ものすごく大きな不利益を被りますから」 

「…………めんどくせぇ」 

「め、面倒?!」 

 

 どいつもこいつも本当に面倒くさい。本当に厄介。本当にどうしようもない。 

 誰もが誰も扱いにくすぎて、今になっても正しい距離感なんて分かりゃしない。 

 

 ……その距離感を掴み損ねているうちに関係を拗らせたせいで、修復不可能になったものが多すぎる。数えきれないほどに多すぎる。 

 

 おそらく、始め方を誤ってしまったのだ。

今更悔いても過去が覆りはしないけれど、もう少しだけマシなやり口なんてのはいくらでもあって、そして、俺はそれらをことごとく取りこぼしてきた。 

 

でも、本当は、きっと。 

 

「邪魔だろそれ。ほれ、こっち寄越せ」 

「えっ、ちょっと……!」 

「たまたま手隙なんでな、俺は」 

「……あなたの方が五倍は面倒くさいです」 

「なんか言ったか?」 

「いいえ、何も」 

 

半ば強引に、五月の手にあったものをひったくる。 

 雨の中にあっても外を出歩けるようにという意趣を持って作られた、自身の上に無理やり天蓋を形成するアイテム。 

 

 しかもそれを持ち運びが可能なサイズにまで小型化してしまった、人間の飽くなき探求心による成果物。 

つまるところの、折り畳み傘。 

 

 そんな叡智の結晶は、突き詰め過ぎたミニマライズの反動で、高校生二人を風雨から守るにはいささか頼りなく。

そして、それ以上に厄介なこともあって。 

 

「詰めすぎだろどう考えても」 

「どう考えてもあなたが傾けすぎなんです」 

 

 なおのこと、肩やら腕やらに直撃するみぞれには容赦や手心といったものがなかった。

落ちて、溶け、服に染みる。その繰り返し。

ワンサイクルごとに着実に体温が奪われていくのが分かり、かじかんだ指先は感覚が薄れている。 

 

 そのくせ、体は熱に浮かされたようで、ぼやぼやとした輪郭を伴わない感情が波のように押しては返してを連続させていた。 

 

「私が濡れても、あなたが濡れても、どちらもダメなんですから」 

 

 そう言いながら、また一歩分距離が詰まった。

進むたびに腕がバシバシ当たって邪魔くさいので、黙って傘を持つ手を交換し、自由になった五月に近い側の右手をポケットにねじこむ。ずっと外気に晒していて冷え切ってしまったというのも理由の一つに数えられる。 

 

「転んだらどうするんですか」 

「気合で耐えるだろ、たぶん」 

「手を怪我しても終わりなんですから、もう少し気を遣ってください」 

 

 五月は自分のコートをまさぐって何かを取り出すと、それを無遠慮に俺のポケットに突っ込んできた。すると、そこを中心にじんわりと熱が広がって、彼女が握っているのがカイロなんだなと理解する。 

 

「一日使っているので、そこまで温かくはないですが」 

「いや、ありがたいけど……」 

 

 気遣い自体は丁重に受け取っておくとして、それと同タイミングで投げ入れられた爆弾にはどのように対処するのが正解なのだろうか。これが分からない。 

 

「ありがたいけど……これじゃ共倒れだろうよ」 

「問題です」 

「突然どうしたお前」 

「カイロはどんな理屈で発熱しているでしょうか」 

「鉄の酸化過程で熱エネルギーが生まれてるんだろ。中学レベルだ」 

「では、日常身の回りにある鉄製品がそうやって熱くならないのはなぜ?」 

鉄粉と鉄パイプじゃ反応する表面積が違う」 

「同じことです」 

「…………何が?」 

「今、こうしているのと同じことです」 

「絶対ちが」 

「同じことなんです」 

 

 否定の言葉は言い終わる前に遮られた。

どんな角度から考察しようにもあり得ないことだが、真っ向から斬り伏せられた。 

 

 五月的にはきっと、アレゴリーのつもりなのだろう。俺は認めないけど。

……だが、認める認めないを差し置いて、現状がややこしくなっていることは客観的な事実であって。 

 …………なんで手を突っ込みっぱなしなんだよ、こいつ。 

 

「表面積を減らせば、反応速度は抑えられますから」 

「お前の服にもポケットついてるじゃん……」 

「カイロは一個だけです。譲れません」 

「じゃあお前が独占していいよ。なくてもあったまるにはあったまるし」 

「それはダメです」 

「なぜ」 

「ダメなものはダメと世間の相場が決まっているからです」 

「とうとう理屈抜きの力技で来やがったな」 

 

 言い訳のレパートリーが貧弱だった。

せめてもう少しくらい用意しておいても良かったのに。 

 

 そこまでして俺にカイロを押し付けたいか……とも思うが、善意であるのが分かっているから強く断りにくい。

こいつの根っからの不器用さを加味しても、強引が過ぎる気がしてならないけれど。 

 

 それとも、これは一周まわった利己なのだろうか。

彼女の言を額面通りに受け取って、そのまま飲み下してしまうのが正しいのだろうか。 

  

「ってかお前、これはどういう心境の変化だ」 

「これ、とは?」 

「手、無理なんじゃなかったのかよ」 

「いつの話ですか」 

「一年前」 

「それはほら……物を介しているので」 

 

 確かに、繋いでいるというよりは、たまたま触れあっているといった方が今の状況を説明するのにはしっくりくる。

ちょうど、カイロが間仕切りの役割を果たしていて、どこからどこまでが五月の手なのかが分かりにくかった。 

 

 この場合、俺はどうすればいいのだろう。

一年かけての成長を喜ぶべきか、あるいはこれが進歩のないことだと嘆くべきか。 

 

「……訂正します。少し、嘘です」 

 

 ん、ん、と数回咳ばらいをした五月がそんなことを言う。

しかし、少し嘘とはなんだろうか。日本語は成立しているのか、それ。 

  

「何がどう嘘なんだ?」 

「どう、と言われましても」 

「いや、聞き返されても俺が困るだけなんだが」 

 

 答えが五月の中にしかないのだから、それを彼女が開示しないことには始まらない。こればかりは俺の取り扱いではないのだ。 

 

 五月が言い出した以上、その発言の回収は五月がする。なんてことはない、当たり前の摂理。  

 

 だからきっと、ここから詳細の説明が始まるのだろうと思って待機していた俺を襲ったのは、盛大にその予想を裏切っていく展開で。 

 

「…………それを聞くのは野暮でしょう」 

「なんでだよ」 

「だからその……あるじゃないですか、色々」 

「具体的に言ってくれ」 

「察してください」 

 

 ぷいっとそっぽを向かれてしまった。

これはつまり、会話はここで終了という意思表示と見ていいのだろうか。

どうせならそれくらい分かりやすくその嘘とやらについて解説を願いたいのだが、今の五月は打てど響かずといった具合で、コミュニケーションが成立しそうにない。

 

そもそもお互いがかなりの譲歩をしたうえで相互干渉を可能とした間柄なので、こうやってどシャットを喰らったらもうおしまいだ。 

 

 類似の状況に立たされた機会は数えしれないが、あれはそもそも心の開き具合が今とは比べ物にならない頃合いだったので、そこそこ理解を深めた気になっている相手からガン無視を決め込まれるとなかなかにクるものがある。

言葉の脆さというやつを、こういうときほど思い知らされる。 

 

「俺に言外にこぼした意図を拾う能力はない」 

「……自慢げに言うことじゃないでしょうに」 

 

 素直に告白したら反応をもらえた。

分からないことは分からないと言う。

変に意地を張っても意味がない。

学ぶことの根本に共通する姿勢だ。

 

じゃあこの会話から何を学べるのかと聞かれたら、それもまた正直に「分かりません」なのだが。 

 

「悪いが成長過程で捨ててきた」 

「それはそれは大変ご立派なことで」 

「ちなみに今のが皮肉だってのは分かる」 

「……程度による、と」 

「何事もな」 

 

 分かり過ぎるということもなければ、分からな過ぎるということもない。

俺の能力は、他人の想像の範疇の中にすっぽり収まりきるぐらいのもの。 

 

 だから、こいつの言うことの一欠片くらいは理解できている気でいた。

それが実態に即したものかどうかは重要ではなく、過去の五月の言動を考えたときに、一番有り得そうな心境を。 

 

 しかし、わざわざ口に出すのはそれこそ野暮というもの。

ついでに、間違っていたら赤っ恥だし。 

 

 そしてさらに言うのなら、俺が俺っぽい行動パターンで動くとしたら、まあ間違いなくここで本人に直接聞くのがセオリーだ。

 

間違った予想が自分の中だけでの真実、事実として定着してしまうくらいなら、顰蹙を買うことを承知してダイレクトに問う。

その結果として白い目で見られようが何をされようが、そこに誤解がないのならそれでよかった。 

 

 思えばこれは、一種の偏執であるのかもしれない。

正解に固執し過ぎて、それ以外の全てがどうでも良くなってしまったような。

本当は過程にだって意味があるはずなのに、正解という一つの結果を大々的に掲げ、その他を不要だと淘汰していくような。 

 

 少なくとも、去年以前の俺ならば、ここからでも容赦なく踏み込んでいった。

解答が見えないままでいることにイラついて、行動を起こしていた。 

 

だけれど今は、わずかながらに違って。 

 

「俺に野暮だの野暮じゃないだのは分からん。人との付き合いが浅すぎるからな」 

「それも自慢することではないですね」 

「ただまあ、なんとなく見えてきたものはある」 

「たとえば」 

「ここでこれ以上ずけずけ行くと、しばらくお前の機嫌を損ねることになる。それは好ましくない。だから、このあたりで分かったふりでもして黙るよ。空気読んでな」 

「それは成長ですか?」 

「そういう基準で考えてねえよ。ただの処世術だ」 

「大人にはなっているかもしれませんね」 

「嫌な言い方するなぁと思ったが黙っておく。これも処世術だ」 

「黙れていませんけどね」 

 

ここで、ようやく五月がこちらに向きなおった。ひと段落、か。 

 

 正直なところ、俺も分かりかねている。

なぜこいつらのご機嫌を取る方法なんかを知らぬ間に覚えて、しかもそれを当たり前に実行するようになってしまったのか。

別に懐柔されたわけでもなければ、前までのように借金への焦りがあるわけでもないのに。 

 

 単純に、教師業を円滑に進めるため、というのは理由ひとつになり得ると思う。

へそを曲げられたままでは会話すらままならないし、そういう奴が一人いるだけで場の空気は最悪だし、それに辟易してはいた。 

 

 だが、そういうものを最たる理由として揚げるのはどうかと思った。これは上手く言語化できる感覚ではないのだが、なんだかこう、しっくりこないのだ。 

 

 五月の言葉を借りるのなら、少し嘘がある。

どこかに異物が混じっている。

 

確かに正解という大きなくくりの中の部分集合に属してはいるが、それはただの構成要素であって全てではない。

しかも、根幹をなしてもいない。 

 

 では、どう表すのが正解なのだろうか。

疑念が生まれ、思考している以上、どこかに必ず答えはあるはず。

思考と存在が等価なものであるとどこかの誰かが大昔に提唱していたことを思い出す。

それに倣えば、間違いなく答えはある。

 

ただ、見つけられていないだけで。 

 

「個人的には、語らない美しさというのがあっても許されると思います」 

「それを理由を話さないことへの免罪符にしちまうのはアリなのかよ」 

「ずるいとは感じますよ」 

「でもやっぱり、アリだとは思ってんだろ?」 

「女の子は、ずるいくらいがちょうどいいものでしょう?」 

 

 これまた予想できない類のセリフが飛んできて瞠目する。

道理に従うタイプのキャラクターだと思っていたので、そんな凡百のロマンチストみたいな発言をするとはこの目で直に見ても信じられなかった。 

 

 俺のぎょっとした様子を不審に思ったのか、五月のカイロを握る手に、先ほどよりも少しばかり力がこもる。 

 

「似合わないですか?」 

「合う合わない以前に、お前がその手のことを言うと思ってなかったんだよ」 

「でも言いましたよ」 

「聞いちまったよ」 

「じゃあ、私はそういうことを言うかもしれない子だったという話です」 

「なんてことない一言で印象がガラッと変わるから、人付き合いは苦手なんだ……」 

 

 何千何万と繰り返すやり取りの中のたった一節。

それだけのせいで、「こんなものだろう」とこちらが勝手に規定していた幅をあっさりと跳び越え、乗り越していく。

想定の範囲をどれだけ広く持っていてもこうやって越えられてしまうのだから、まともにやっているのが馬鹿らしく思えてしまう。 

 

 俺が難しく考えすぎているのは分かっている。

分かっているが、誰もがこんな指針も方策もない超高難易度の試験をクリアしているのかと思うと、俺なんかよりもそいつらの方がよほど出来の良い人間に見えてくる。

 

実際、そういう価値観で世界を運営している人々の視点に立ってみれば、落第の烙印を押されるのはきっと俺の方なのだろう。 

 

 本当に、こいつらからは余計な気付きを得てばかりだ。

気付き過ぎて、そのたびそのたび頭がこんがらがっている。 

 

「しかもお前、さらっと本題から逸れた方向に俺を誘導しようとしてるしよ」 

「…………」 

「まあ、これ以上は聞かないことにしとくけど」 

 

 何がどう嘘なのかは、やっぱりまったく分からなかった。

知らないうちに脳みそが人物評やら俺の思考パターンの変遷やらについてリソースを割き始めていたせいで、そっちについての解析がまるで進んでいない。

 

というよりは、先んじて門外漢であることを知ってしまっているせいで、入り口前で足踏みしているとでも言えばいいだろうか。 

 

「総括する。あったかいから後はどうでもいい。以上」 

「ずいぶん適当なまとめですね……」 

「考え疲れたんだよ。あとねみぃ」 

 

 帰宅途中くらい気楽にいたいものだ。

家に帰ったらまた勉強勉強勉強なのだし。 

 

「……本当に体調は大丈夫なのでしょうか?」 

「限度は弁えてるよ。経験則でな」 

「その、生徒としてのお願いではないので、聞いてもらえるかどうかは分からないのですが……」 

「ん?」 

「上杉君に体を壊されるのは嫌です。すごく嫌です。……なので、もう少しだけ自分に甘くなってもらえませんか?」 

「……考えとく」 

 

 俺も、積極的に病院の世話になりたくはない。

乞われたからには、多少見直してみる必要があるか。 

 

 たとえば、せめて今日くらいは体が許すまで眠るとか。 

 

「ちなみに、生徒としてではないのならなんなんだ?」 

「それはその……友人、は少し違いますかね。なら、中野五月個人の、ええと、なんというか……」 

「なんというか?」 

「……………………それを聞くのは野暮でしょう」 

「了解。貴重な助言をもらったってことだけ覚えておく」 

 

 ここで聞き返そうものなら、またあれやこれやと思考の応酬が始まるのは目に見えていた。

今しがた体に気を遣えという旨のことを言われたばかりなので、ここは何も考えずに彼女の言葉に従おう。 

 

そうやって楽をすることも、たまには必要なんだ。きっと。 

 

 そのままてくてくと歩を進めて、俺の家へと近づいて行く。

口に出してはいないけれど、このペースだと五月は遠回りしてでも俺の家に寄るルートを選んでくれるらしい。

そのことについて言及しようかとも思ったが、きっと野暮になってしまうだろうから、胸の内に留めておいた。

大丈夫。この会話の中にも、俺はきちんと学んでいる。 

 

 沈黙が続いているが、居心地の悪さは感じなかった。

なんというか、ほどほどにちょうどいい空気感だ。

こうやって二人並んで歩いていても息苦しくない。 

 

 でも、そういう心理的な問題とは別に、物理的な問題は生じていた。 

 

というのも。 

 

「痛いんだけど……」 

「か、加減が分からなくって」 

「もう冷えは引いたから心配いらねーよ」 

 

凍えてしまった俺の指先を溶かすように、五月の手が重なっていた。

しかしなんだ。そこにかけられている力があんまり強いものだから、少し痺れが回ってきている。

最初のうちはかじかんだとき特有の感覚の鈍さかとも思っていたが、いざ暖まってくるとどうやらそうではないことが判明してしまった。 

 

「だからもう放していいぞ。カイロも返す」 

「…………」 

「謎の意地張らなくていいって。マジでもう大丈夫になったから」 

「…………このままでいると、不都合がありますか?」 

「手が痛い」 

「っ、そ、それ以外に」 

「特には思いつかないが」 

「…………なら」 

「ん?」 

「なら、別に、いいじゃないですか。上杉君のお宅まで、そう遠くもないんですから」 

「まだ結構――」 

「…………ダメですか?」 

「そういうわけじゃ……」 

 

 全身から捨て犬のような雰囲気を漂わせるのはやめて欲しい。

俺が悪いことを言っている気分になるだろ。 

 

 五月がどんな事情を抱えてこんなことを言っているかは知らないが、このスタイルでいることに強いこだわりでもあるのだろうか。

さっぱり推察することはできず、また余計に思考をめぐらせることになってしまう。 

 

「ならせめて、もっと緩く握ってくれ。それが妥協点だ」 

「に、握ってません!」 

「はぁ?」 

「掴んでるんです!」 

「同じだろどっちも」 

「違いますから! 全っ然違いますから!」 

「痛い痛い痛い」 

「とにかく、握ってないんです。これは重要なことなんです!」 

「痛いって」 

「分かってください。絶対に!」 

「分かった。分かったから緩めてくれ」 

「…………あっ、熱くなりすぎました……」 

「まぁ、これくらいなら許そう」 

 

 ちょうどいい塩梅の力加減になったので、認めてやることにする。もう掛け合いをするのに疲れたから、言われたままに流されてしまうのが一番楽でいい。 

 

 俺には彼女自身の言葉という免罪符がある。

だから、思考はそろそろ放棄だ。 

 

「このやり取りがお前の息抜きになってれば嬉しいよ俺は……」 

「……私は、まるで休まりません」 

 

 あれだけ言ったのに、また五月の手が強張り始めた。仕方ないので、指先だけでも痛まないよう、両者のそれが重なり合わない形に手と手を無理やり組み替える。 

 

「…………ちょっとぉ」 

「勘弁してくれ。俺は疲れた」 

 

 途端に全身脱力してしまった五月を引きずるようにして、帰路を急ぐ。 

 

 俺たちに交際関係はないので、差し詰めこれは変人繋ぎとでもいったところか。…………やっぱりなんにも上手くねーや。 

 

 カレンダーの日付を見れば、今年も残すところ一週間となっていた。センターまでもう一ヵ月を切ったと思えば、時間が流れる早さに驚きもする。 

 

 結局のところ、重要なことはなに一つだって決まっていなかった。自分の行く末も、卒業までにはなんとかしておくと約束したことも。 

 

 忙しさと慌ただしさを言い訳にしてただただ時間を浪費せど、期日が伸びることはない。

 

いつかは必ずそのときが来て、否応なしに選択を迫られることになる。そのことが常に頭の中にあるのは事実だが、現実問題、考えていられるだけの精神的余裕も肉体的余裕もなかった。

今はただ、五月をサポートすることのみに尽くさないと、悔いが残ってしまいそうな気がしていたから。 

 

 ……だが、それすらも、きっと言い訳なのだと思う。先延ばしにしておく都合の良い理由として、家庭教師という己の立場と、夢に向かって励んでいる五月を利用しているだけだ。

悪用と言い換えてもいいかもしれない。

 

目の前の問題に集中しているふりをして、やがてやってくることが分かり切っている課題から目を逸らしている。逸らし続けている。 

 

 無駄なことだと我ながら呆れる。

こんなやり方をして、得られるものなどなにもないというのに。……それでも、どうにかして避けよう、逃げようという意思が働いてしまって、場は全てどっちらけだ。 

 

 俺はなぜ目を背けようとしているのか。どうして手をつけたがらないのか。

そこにある思いにどんな名前がつくのかを理解できないまま、刻限だけがこちらに迫ってきていた。まるで俺を追い立てるように、着実に。 

 

 人間関係を楽に紐解く公式も構文も、この世界にはない。

その事実に数えきれないほど肩を落としながら、それでも、俺は……。 

 

「よう」 

「……お、おはようございます」 

 

 寝不足の目を擦りながら、俺より早く図書室にやってきていた五月の隣に腰を下ろす。

ここの椅子の硬さも、今ではすっかり体に馴染んでしまった。

もっといいものを揃えてくれよという気もするが、それも努力の証左だと思えば、まあ悪くはないか。 

 

「……なぜ避ける?」 

「な、なんとなく……」 

 

 俺から距離を取るように、五月の体が大きく傾く。

元は姿勢の整っている奴だから、かなりおかしな印象をこちらに与えてきた。

 

さて、俺はなんとなくなんてはっきりしない理由で避けられるような悪事を犯しただろうか。……思い当たる節があまりに多すぎて逆に特定困難だが、彼女の知り得る範囲の情報に限定すれば、たとえば。 

 

「結局風邪ひいたんじゃないだろうな」 

「いえ、健康体です。そういうのでは、ないです」 

「なら構わないけど。……で、それじゃあなんなんだ?」 

「だから、なんとなくなんですよぉ……」 

 

 彼女の体がくてっと脱力した。

己の現況を説明するに相応な語彙を保持していないとか、そういう理由だろうか。

そうならそうで、擬音でもなんでも使って表現する努力をして欲しい。俺のお察し能力に期待するなとは再三に渡って言っているのに。 

 

「そういや昨日の話だけど」 

「…………っ」 

「だからなんなんだよ……」 

 

 昨日、のあたりで目に見えて動揺し始めた。

俺でも分かるくらい、と言えば、分かりやすさの指標としてこれ以上はないだろう。 

 

 俺はただ、あの後無事に帰宅できたかという何でもない無駄話をしようとしただけなのに、その慌てようはいったいなんなのだ。

なぜ頬を赤らめる必要がある。 

 

「やめです。その話はやめです」 

「はぁ?」 

「話すなら別のことに。そうですね、美味しいものについてなんてどうでしょう」 

「そういや昨日の夕飯はカレー……」 

「昨日と言う単語はNGで」 

「たかが雑談に枷をつけるなよ……」 

 

 ゲームでもやっているのならまだしも、今はただのフリータイムだ。こんなところで浪費する体力の持ち合わせは俺の中にない。

いっそ黙るのが一番賢い選択に思えたので、しばらく口を噤むことにする。

 

彼女は既にノートやら参考書やらを展開しているので、分からないところがあれば向こうから聞いてくるだろうし。 

 で、早速向こうが口を開いたかと思えば。 

 

「……その、昨日のこと、ですけど」 

「割とめちゃくちゃだなお前」 

「NGはあなただけなので」 

「暴君でももうちょい理屈を添えるぞきっと」 

 

 昨日のことを蒸し返されたくなさげなのに、なぜか自ら火種を投下していく怒涛の矛盾スタイル。

何がしたいかさっぱり分からない。 

 

「ちょっと、手、見せてもらってもいいですか……?」 

「どっち?」 

 

 こっち、と指を差された。回りくどい言い方をするならば、昨日傘を持っていなかった方の手を。 

  

「ん」 

「痣とかは……大丈夫ですね。良かった」 

「握力だけで痣作るのはバケモンだろ」 

「もしそうなっていたら大変じゃないですか」 

 

 確かにちょっとだけ鬱血してはいたっけ。

どんだけ強く握れば気が済むんだって感じだったが、彼女視点で言えばあれは掴んでいただけらしい。

 

俺から見れば、握るも繋ぐも掴むも意味に差異は見つけられないのだが。

微妙なニュアンスを追いかけて言葉遊びをするのは作家にでも任せておけばいい話であって、俺に関わりのあることじゃない。

まあ、ここは彼女の意思を尊重して『掴んでいた』ということでまとめておいてやろう。 

 

「そんなことより勉強だ勉強。俺を気遣う時間で英単語の一つでも覚えた方がよっぽど建設的だぞ」 

「気兼ねなく勉強できるように下準備をしただけですよ」 

 

 言いながらも、きちんと手は動いている。

頭が付いてきているかは知らないが、手癖で問題が解けるくらいの次元に到達しているのなら問題はないか。

本番を見越したときにそれくらいの余力があった方が精神的に楽だろう。 

 

「……上杉君、今日の日付はご存知ですか」 

「二十四日」 

「ですか。ですよね」 

「いきなりどうしたよ。はっきりしないならスマホで確認すりゃいいだろ」 

「いえ、一応です。一応」 

「一応ねえ」 

 

 今年の残り日数ばかりに気を取られていたけれど、そうか。今日はクリスマスイブか。

ということは、去年にこいつらがあのアパートに引っ越して一周年。全員そろって冬の冷たい水の中に飛び込んでからも一周年って寸法だ。 

 

 感慨深く思う。

再雇用から一年の節目を迎えても、俺はやっぱりこいつらに手を焼かされているのだ。

道中新たな面倒ごとを数多抱え、それでもやっとこさここまでたどり着いた。自己評価では赤点を免れない道程だったけれど。 

 

 しかしまあ、なるようになるものだ。

絶対に途中で崩壊する気しかしなかったのに、なんでかんでのらりくらりと切り抜けている。

 

俺の存在が姉妹の仲に亀裂を入れるかもしれないという心配はずっと消えずに俺の後ろを付きまとい続けているが、薄氷の上を歩くような奇跡的なバランスでもって、強引に関係性を成立させている。 

 

 歪だと言う奴もいるだろうが、俺にはこれが精いっぱいだった。笑いたければ笑ってくれ。 

 

「お前らはプレゼント交換とかすんの?」 

「…………っ」 

「なんかおかしいぞお前。今日は一々俺の言ったことに反応しすぎだろ」 

「す、すると思いますよ」 

「何にも言われなかったような顔で強引に話を続けようとすんなよ……」 

 

 どうにもぎこちない。

いや、手練れた会話というものがどんな形かは知らないけれど、絶対にこういう形態を取らないとだけは断言できる。

そもそも俺は普段、五月とどんな風に話していたっけ。 

 

 何にしたって、五月の態度は不自然そのもの。

隠し事でもしているのだろうか。 

 

「まあ、クリスマスとか、俺にはよく分からんけどな」 

「どういう意味です?」 

「そのまんま。その類の行事に馴染みが薄いんだよ」 

 

 世間がきゃっきゃきゃっきゃと騒ぐお祭りごとも、俺には関わりのない話。

割のいい日雇いバイトの求人が出る程度の認識しかない。

実際、去年はケーキ屋で働いていたわけだし。 

 

「ガキのときにサンタ服を着た親父を見て真相を察して以来、なにごともそんなもんかって目で見るようになっちまったし」 

「それはご愁傷さまで……」 

「そんなわけで、俺とクリスマスは縁がないんだ。以上」 

 

 この歳になってプレゼントをもらいたいなんて思いはしないけれど、胸の奥底のほんのちょっとしたところに、一抹の名残惜しさみたいなものは確かにあった。だが、思うだけだ。

それを望めるほどの身の上ではないと弁えている。 

 

 だけど、まあ、そういう文化に取り巻かれて育ってきた五月たちを見て、少しばかりの羨ましさを感じることはあった。

妬み……とまではいかないけれど、もし自分がその立場にあったらどうだったろうかという、少しばかりの興味関心だ。 

 

「でも、その、今年は少し期待してもいいかもしれませんよ?」 

「ウチに煙突はねーよ」 

「ある家の方が少ないと思いますが……」 

 

 欧米文化を強引に日本に取り込んだせいでそこらへんの擦り合わせが上手くいっていないことも、子供のころは気にならなかった。

 

メインはプレゼントだから、窓から入ってこようが玄関から入ってこようが、最悪ポストに投函されていようがどうでも良かったのだろうと思う。

滅茶苦茶な話だが、微笑ましいといえば微笑ましい。

滑稽だと言って斬り捨てるのはどうにも違う気がする。 

 

「期待するとなにもなかったときの反動がデカいからな。話半分くらいで覚えとく」 

「そうですね。それくらいがいいのかもしれません」 

「無駄話が過ぎた」 

 

 何を目的にこんな日にまで登校しているかを忘れてはならない。

休みを一日潰すのならば、せめて有益な使い方をしなければならないだろうに。 

 

「分からない箇所はあるか?」 

「今のところは特に」 

「ならいい。しばらく席を立つから、戻ってくるまでに質問すること整理しといてくれ」 

 

 首の骨をこきこき鳴らしながら椅子を引く。

まだやってきたばかりなのに……という五月の視線が痛いが、言葉に出して聞かれない限りはこちらから委細を話す責任は生まれない。

さっさと立ち去ってしまえば俺の勝ち逃げだ。 

 

 昨日の教訓から持ってきていたカイロを片手で弄びつつ、その場から離れる。

椅子の軋る音が、やけに印象深く耳に響いた。 

 

 学校が気を利かせたのか、もしくは教員側の要望なのかは明らかでないが、今日に限って特別授業に類するものの予定は組まれていなかった。

三年生を担当する教師は気が休まらないだろうから、たまの休息を与える意味もあるのだろうか。

どちらにせよ、俺に参加の意思はない以上はどうでもいいことだが。 

  

「失礼します」 

 

 ……というよりも、講座がなかったところでこうやって招集がかかるのだから、結局どうしたって無駄なのだ。 

 

 進路についての要領を得ない会話を担任と繰り返しているうちに、三十分以上が経っていた。

 

未だ自分の進む道を決めかねている俺と、基本的に進学の方向で話をまとめたがる教師とではどうにも相性が悪く、表面的な話し合いだけで中身が一切進行しない。

まるで形骸化した儀礼みたいに、毎度似たようなことを言い合うだけだ。 

 

 そりゃまあ、俺にだって気持ちは分かる。

どこにだって受かる学生に就職なんてされてはこの学校の進学実績に穴が空くし、教師間のヒエラルキーにも影響するかもしれない。

 

ただ、決まらないものは決まらないのだから早くしろと急かされたって答えが浮かんできようもないことくらい、うっすらでいいから承知してくれないものだろうか。 

 

 教師としての視点は俺も手にしているから、向こうの苦悩も分かる。俺は本来必要のない迷惑をかける問題児に区分されているに違いない。ただ脳死で受験、進学を選んでくれるのなら、どこにでもいる優等生で終わったのだろうに。 

 

 だけど、俺の精神性がそれを良しとはしてくれなかった。

明確な目標を欲する気持ちが強すぎて、向こうが提示する特待生の条件や給付型の奨学金の話もほとんど頭に入ってきてくれないのだ。

 

こんな状態で人生の重要な決定を下すには無理があるというのが正直な自己評価で、だから冷静になれる限界までゆっくり時間を使いたいのだが、それを許してくれるような世界ではない。

 

まさか先方も、学力以外で躓く学生の存在を考慮に入れてはいないだろうから、話に折り合いをつけようがなかった。 

 

ウィーン会議じゃないんだから……」 

 

 なんなら踊ってすらいないから、そのたとえの正確性には疑問が残る。

俺の手許には使い道の分からない各種説明書だけが残って、今から処分方法を考えていた。 

 

「まさかこれがクリスマスプレゼントじゃねえよな……」 

 

 プリントを睨みつける。

五月の言ったことがこんな形で具現化したのだとしたら地獄が過ぎる。真っ先に捨てることを考え出さなきゃならないプレゼントとはなんだ。 

 

 もらったものを乱雑にリュックに詰め込んで、足早に図書室への通路を歩もうとした、そのとき。 

 

「みっけ」 

「びっくりするから普通に話しかけてくれよ」 

 

 手の甲をぺしっとはたかれたので振り向けば、そこには覚えのある顔が。ついでに言えば覚えのあるヘッドホンが。 

 

「びっくりさせようと思ったんだもん」 

「ああ、さいで」 

「む、感触薄」 

「めんどくさい話の後で疲れてんだよ」 

「話って?」 

「進路。担任と」 

 

 しまい込んだばかりの書類を再び引っ張り出して見せると、三玖は「あーっ」という表情で、ちょっとだけ眉を下げた。

事情のなんたるかは察してもらえたらしい。

 

「大変だね」 

「向こうは仕事で俺は人生の一大事だ。まあ仕方ないだろ。……で、お前はなんで登校してんの?」 

「ん」 

 

 袖をくいくい引かれる。ここでの説明はお預けか。 

 

「どこ行くつもり?」 

「屋上」 

「カツアゲかよ……」 

 

 ジャンプしても小銭の音はしねーぞと思いながら、進路を変更して階段を昇っていく。

この時期、積極的に屋外に赴く性質ではないので、ちょっとだけ脚が重かった。 

 

 連日の天候不順が災いしてか、屋上の各所が凍り付いていた。

そこまで雪の多い地方ではないはずなのに、今年はやけに降り積もる。現在進行形で空は曇って、均衡がわずかに崩れようものなら容赦なく世界を脱色してしまいそうに見えた。 

 

「お前も教員の呼び出し受けたのか?」 

「ハズレ」 

「違うのか」 

 

 当たり前に勉強してくれるようになったとはいえ、根っこの勉強嫌いが失われたわけではないから、喜んで学校に来る奴ではない。

講座がないのは既に明らかな以上、そういった類の招集を受けたものだとばかり思ったのだが。

 

「五月に用事?」 

「それも違う。あったら家で済ませばいいし」 

「それはそうか」 

 

 わざわざ不要な労力を支払う必要性は薄い。

じゃあ、どこに理由があるのだろうか。 

 

「フータローに会おうと思ったら、取りあえず学校かなって」 

「俺に用事?」 

「うん。ほら、今日が何の日かくらい知ってるでしょ」 

「アポロ八号が世界で初めて月の周回飛行をした日だよな」 

「ふざけてる……?」 

「こんなことを大真面目に言う奴がいたら縁切ったほうが身のためだぞ」 

 

 俺なら切る。間違いなく。 

 

「クリスマスだろ。そのくらい知ってる」 

「ん。プレゼント、出来るだけ早く渡したくて」 

「俺は何にも用意してないんだが」 

「……お返しくれるの?」 

「一旦忘れろ。怖え。目が怖え」 

「くれるの?」 

「血走らせるな。落ち着け」 

「じゃあ、後からもらうってことで」 

「ええ……」 

 

 こちらからは何も発信していないのに決定事項のように処理されてしまった。まあいいけどさ……。

 

いや、良くねえな。ねだられる前にちょうどいいものを見繕ってこないと無茶な要求を通される未来が見えすぎる。

それはさすがに勘弁だ。 

 

「そのうちな、そのうち」 

「今忙しいのは分かってるから大丈夫。余裕出来たらでいいよ」 

「じゃあ、年度内には……」 

「には?」 

「……なんでもない」 

 

 年度内。つまりは高校卒業までだ。

俺はそのタイミングを期日に設けたデカすぎる約束を彼女らと結んでいるので、あまり積極的に話題に上がる可能性のある単語を発したくはなかったが、常に気を張っていられるわけもなく、こういう形で墓穴を掘ることになる。

三玖の顔を見るに俺の失言には既に気づいている様子だ。 

 

「楽しみにしてるからね」 

「……俺の甲斐性に期待すんな」 

 

 明言されなかったから、楽しみにしているのがお返しなのか、それともまた別のものなのかははっきりしない。……でも、そんなに単純に終わるわけはないんだよな。 

 

 というか、プレゼントとやらを送られる前からお返しの話をしてどうする。

あくまで釣り合いが取れるような範囲で授受を行うべきだというくらいは俺の理解の内だから、向こうの贈り物の格を計ったうえで、こちらも弄策すべきに違いない。 

 

 なのでまずは受け取ってみてから。 

 

「気に入るか分からないけど」 

 

 そう前置かれてから、三玖はごそごそと自分の鞄を漁り始めた。

その場所に収まりきるサイズだという前情報をゲットだ。……いや、それくらいは言わずとも知れたことだけども。 

 

「フータロー、いつも寒そうにしてるから、ちょうどいいかなと思って」 

 

 言いながら、一歩ずつ俺の方へと距離を詰める三玖。手元には、毛糸を組んだ細長い一品が。 

 

 三玖はそれをそのまま俺の首元にするすると巻いて、満足げに鼻を鳴らした。 

 

「本当は手編みにしたかったんだけど、そんな時間があるなら勉強に回した方が良いだろうから」 

「ああうん、サンキュ……」 

「無難過ぎたかな?」 

「いや、あまりにもちゃんとしたものでびっくりしてるだけ……」 

 

 一晩自由権やらなんやら、とにかくやばいものをもらってばかりいた気がするので、ここまでストレートにありがたいものを渡されると反応に困る。

なんてプレゼントっぽいプレゼントなんだ……。格とかいうふざけた単語を持ち出した自分の浅ましさが滅茶苦茶恥ずかしくなる。 

 

 これは真面目に考えないとなーと思いつつ、左右で微妙に長さにズレがあるマフラーを上手いこと調節した。当たり前だが、暖かい。 

 

「風邪、引かないようにね。もっと早く渡した方が良かったのかもしれないけど、クリスマスの誘惑が強かった」 

「ありがたく使わせてもらう。うん」 

「他の子と被っちゃうかもしれないけどね」 

「それならそれでローテ組めば……」 

「えー」 

「いや、気持ち多めに使うから……」 

「ならよし」 

 

 いいのかそれで。

本人が言うなら問題ないってことだろうけど。

 

「じゃあ、俺は五月のサポートにもど……」 

「一日一回」 

「最近控えめだったろ……」 

「今日くらいいいでしょ……?」 

「日に依るのか?」 

「依るよ。すごく依る」 

 

 依るらしい。初耳。 

 今のことがあるので俺もあまり強く出られず、そのうちに彼女の接近を許してしまう。相変わらずの甘い匂いが体に毒でしょうがない。 

 

 今巻いたばかりのマフラーをきゅっと引っ張られ、必然的に俯く。そこには既に、朱に染まった三玖の顔が用意されていて。 

 

「……っ」 

「…………ん」 

 

 なんでかいつもよりも長めにくっついた唇をやっとこさ離して、気恥ずかしさに任せて彼女の肩をぐっと押す。

明るいうちから近づくのには慣れていないから、自衛だ自衛。 

 

「ほら戻るぞ。防寒具があっても寒いもんは寒い」 

「フータロー、顔真っ赤」 

「どの口で言ってんだお前」 

 

 やいのやいの言いながら屋上を後にする。

暖房をケチる学校とはいえ、流石に風がないぶん体感温度も多少はマシになった。 

 

 階段をとぼとぼ降りながら、ふと思い立って振り返る。

なんだか、いつもと様子が違うような―― 

 

「何やってるのフータロー。早く行こ」 

「ああ、うん」 

 

 三玖に急かされて、前を向く。

誰かが物の配置を変えたのか何なのか絶妙な違和感が消えなかったが、それを明かしてどうにかなるということもあるまい。 

 

「このまま帰るのか?」 

「そのつもりだけど」 

「じゃあ下駄箱まではお供するか……」 

 

 ここでハイさよならではさすがに淡白すぎる気がした。

先ほどの恩義込みで見送りくらいはしてやらないと。 

 

「フータロー、そういう気遣い出来るようになったよね」 

「おかげさまでな」 

 

 ご機嫌取り、とも言うんだけど。 

 

「遅くなった」 

 

 結局一時間ぶりくらいに図書室に舞い戻る。

案の定、五月は姿勢よく勉強を続けていた。 

 

「ん……?」 

「どうしました?」 

「背中、妙に埃っぽくなってないか?」 

 

 瞬間、過去目の当たりにしたことがないレベルの俊敏さで五月が己の背を払った。

こいつ、このレベルの潔癖症だったっけ……? 

 

「なんでもありませんが」 

「なんか息荒いぞ。大丈夫かお前?」 

「なんでもありませんが!」 

 

 やっぱり今日の五月はどこかおかしい。

そのどこか、というのがパッと分からないのがもどかしいが、何かが狂っていることに違いはなさそうだった。 

 

 まあ、今は態度がどうであれ勉強さえ進めばいい。俺が注力すべきはその一点だ。 

 とにかく、ここがスタート。今日も出来るだけのことをしよう。 

 

 

 

 あの人の帰りがあんまり遅いのが気になって、心当たりを探りに行ったのが発端。

この前と同様に肩を大きく落としながら職員室から出てきた彼を見つけたときには、もうその後ろに三玖が迫ってきていた。 

 

 自分でもどうしてか分からなかったけれど、見てはいけないものを見るような気分になって、とっさに体を物陰に潜めた。

会話が聞き取れるぎりぎりの距離から息を殺して盗み見る姉の横顔は、普段自分に見せるものとは趣が全く違っていて。 

 

 警戒心の欠片もなく弛緩し、ほんのり上気した頬は、それはもう誰が見ても一発で看破できるくらい、恋する乙女のそれで。 

 

『みっけ』 

 

 ついでに言えば、声音までもが平時よりも半音上がっていて。 

 その大きな感情を一身に受けている彼は、いつものぶっきらぼうな調子で、なんでもないように取り合う。 

 

 けれど、二人の距離感は、私と彼の距離感よりもはるかに近いことが、なんとなく読み取れてしまった。 

 

 息遣い。視線。声のトーン。そういったコミュニケーションの素地一つ一つが、明確に私に向けられるものと違うのが、本能的に、直感的に、理解できてしまう。 

 

 それに気付いたとき、なぜだか無性に心臓の下のあたりが痛んだ。心がこんな場所に格納されていることを、生まれて初めて知ったように思う。 

 

 良くないことだと理解していて、階段を昇る彼らの後を追いかけた。屋上にたどり着いた二人にバレないよう自販機の陰に身を隠して、扉越しに聞こえてくる会話を拾う。 

 

 小慣れたテンポで繰り返される言葉のキャッチボール。

その一投一投が、着実に自分の内側を抉ってくる。

三玖が今現在立っている舞台に、自分が未だ昇れていないのを時間をかけてじっくりと理解させられる。 

 

 そのうちに足に力が入らなくなって、壁に背中を預けてどうにか体重を支えた。

心臓が脈を刻む音が生々しく反響し、目も耳も全部塞いでしまいたくなる。 

 

 でも、直視したくない現実に限って積極的に提示してくるのがこの世界らしく。 

 

 一日一回。

その単語の後に扉の向こうで展開された事象を思い描くのは容易かった。 

 

 先ほどまで途切れることなく続いていた会話がそのときに限って絶えたのが、全ての証明だったと思う。 

 

 その後は、記憶が千々に散ってよく覚えていない。

どうにか二人に気付かれないよう体を丸めてやり過ごして、不在がバレないように急いで図書室に戻って。とにかく、必死だったことだけは確かだ。 

 

 なんで、あそこに立っているのが私じゃなかったんだろう。 

 

 

『あの、三玖』 

『どうしたの?』 

『お昼のことなんですが――』 

 

 

 

 

 日頃はただの置物になっている携帯電話が久々に仕事をした。

滅多に聴かないコール音をちょっとだけ長く耳に染みこませてから、利き手で通話ボタンを押す。 

 

発信者表示は、『中野三玖』となっていた。 

 

「もしもし。どうした急に?」 

『た、大変!』 

「何が?」 

『だから、大変なの!』 

「落ち着け」 

 

 いつもは感情の起伏に乏しいのに、今は声だけで分かるくらいあからさまに動揺していた。

つまりはそれ相応の一大事が起きているということで、聞いている俺にも緊張が走る。 

 

「まずは何が起きたかから話してくれ。詳しいことはそれからだ」 

『五月が――』 

 

 五月が家出した、と。彼女は震える声でそう言った。

 

 

 

 そぞろ歩く。冬の寒空の下を、上着の一枚も羽織らないで。 

頭の中に響いて消えないのは、先ほどした三玖との会話。

 

自分はただ二人が知らず交際関係にあったのかを確かめたかっただけなのに、彼女の口から飛び出てきたのはそんな予想をはるかに上回ってくる、出来ることならば知らないままでいたかった特大の秘め事で。 

 

 本当は祝福するつもりでいた。

その用意を万全にしたうえで、話しかけたはずだった。

三玖が彼に対して好意を持っていることは本人直々に聞かされていたのだから、それが正しい行いだと思っていた。 

 

 自分の中にある嫉妬や後悔自体は否定しない。

なぜ私では、という思いが常に脳裏をチラつくことも事実で、その感情に嘘はつけない。

 

でも、姉妹が思い人と結ばれたのならそれが喜ばしいことでないわけがないのだ。

だから、渦巻く様々な感情の処理は後回しにしたって、今だけは素直に祝う側に回ろうとしたのに。 

 

なのに、なのに、なのに。 

そんなのは、あんまりだ。 

 

 私には見えていないところで、私には分からないうちに、私以外の全員が、密かに彼と繋がりを持っていたなんて。 

 

 いつからとか、誰からとか、そういうのはどうでも良かった。

『そういう事実があった』というだけで、既に乱れ切っていた私の心を壊すには十分だった。 

 

 出会いは、決して良好なものではなかったと思う。

第一印象はどう繕っても最悪で、あんな人に自分たちの未来を任せるだなんて考えられなかった。

 

自己中心的でデリカシーに欠け、こちらの考えも知らずにずけずけと心の深くまで歩み寄ってくる。

そんな彼のやり方には不満を持つことばかりで、何度も何度も衝突した。

 

勉強ができる人に、努力しても努力しても成績に改善の見られない自分の気持ちが理解できるわけがないのだと思いもした。

頭の出来が初めから違うのに、分かったような顔で語らないでくれと。 

 

 でも、そんな絶望的な関係の中でも、ゆっくり時間をかけて育めたものだってあって。 

 

 彼のしつこさや諦めの悪さは私たちの可能性を信じて疑わなかったがゆえのもの。

ぶっきらぼうな言葉の数々は人付き合いに慣れていないあの人なりの励まし。

 

その他にも、考えが変わったことはたくさん、たくさんあった。

斜に構えた受け取り方を排することで見える本質が、たくさん身近に転がっていたのだ。

 

彼はただ不器用なだけで、実際は感情表現が下手くそな普通の人だって。

 

そんなことに気付くまでに一年もの時間を要しながら、それでも私たちは、お互いのことを少しずつ理解し合いながら、笹船が進むくらいのスピードで、じっくり、じっくり、歩み寄れた。 

 

そして、その過程で、私は。私は……。 

 

なのに、なのに、なのに。 

どうして、こんなことになってしまうんだろう。 

どうして、こうなってしまったんだろう。 

 

 

 ――ねえ、上杉君。分かり合えたと思っていたのは、私だけですか? 

 

 

 

 

 三玖からの一報を受けて、あてもなく夜の外に飛び出した。

なんでも完全にノープランで出ていってしまったらしいから、財布とかコートとか、そういったこの時期生きていくのに最低限必要なものすら五月の手許にはないという話だ。 

 

 五月、家出、と、この二つの単語を並べたとき、当然思い当たるものがある。

あれは一年と少し前、姉妹間でのちょっとした諍いがトリガーだった。 

 

 だが、今回の家出は前回と異なって、二乃と連れ立っての行動ではない。

あくまで家からいなくなったのは五月だけで、そしてその理由も、前とはガラッと変わっている。 

 

 まあ、有り得る話ではあった。

いつまでも隠し通し続ける無理も、いつまでも騙し続ける無謀も、そう上手いこと続いてくれるわけはない。

そのうちにバレてしまうことは明らかで、それが今になったというだけ。

喋ってしまった三玖を責められはしない。

 

 けれど、どうしてこんなタイミングで……という思いが心のどこかにあるのも事実。

いいや、伝わっていいタイミングなどありはしないけれど、それにしたってもう少し後になって欲しかった。

 

よりにもよって受験前で余裕がないこの時期に、そんな意味の分からない情報を叩き込まれてしまえば大半の人間は思考がパンクする。

 

不器用で人間関係に潔癖を持ち込む五月であればなおさら、受け入れることなんて出来ずに困惑して当たり前。というか、戸惑いどうこうの前に普通に激怒していると思う。

 

積み上げた信頼なんて、あっさりと消え去ってしまったはずだ。

 

 分かっていたつもりだった。

自分が進んでいる道がどれほど危ういものだったかくらい。

なんでここまで綱渡りが成功したのかも謎なんだ。

 

個々人の利益追求がたまたま他者の尊厳を侵さないギリギリのラインを攻めていたからだとは思うのだが、その利益関係に関わらない人間が輪に加わった場合にどうなるかは考えるまでもなかった。

 

この歪な関わりを見れば理解不能で気味の悪いものとして認識されるに決まっている。登場人物の大半が自分の身内であればなおさら。 

 

その場しのぎを続けに続けて、最後に最悪な形でボロが出た。

 

分岐点はおそらく、二乃に襲われたあの日。

あのときに下手な対応をしなければ、現状ここまでこじれることはなかったように思う。

 

確かに一度完全に信用を失うことにはなるが、一度の過ちならまだどうにかリカバリすることが出来た可能性もある。

俺はその可能性とやらから目を逸らして、更なる修羅へと歩みを進めてしまった。

 

 ――いや、どうだろう。 

 

 信用とか、信頼とか、分かるようでよく分からない単語を引っ張って、自らの思考に誤魔化しをかけている気がする。

俺は瞬間的にそんな見込みが出来るほど鋭い人間じゃない。 

 

 俺はきっと、自分でもよく分からないうちに、自分自身を欺いている。

簡単な結論に面倒なカモフラージュをして、率先的に分かりにくくしてしまっている。認めてしまうのがものすごく癪で、負けてしまったような気分になるのが嫌で、隠している感情がある

 

 五つ子に、仲のいいままでいて欲しい。……いいや、これは違う。だって、これに関して言えば隠してなんかいない。

 

俺は日常、ぼんやりとでもはっきりとでもこの思いを抱えながら姉妹に接し続けてきて、ここまで入り組んだ人間模様を中心となって演出してしまった今になっても、その思い自体は変わらず心のどこかに持っている。

 

俺が本当に願っているのは、これ以外の何かだ。

 

では、なにか。 

  

俺の思いは、願いは、なんなのか。 

 

「それが分かんねえから苦労してるんだっての……!」 

 

 冬で、夜だ。当然寒い。

この前二人並んで帰った時よりもずっとずっと寒い。 

 

 気温でいえばみぞれが降るほどだったこの前の方が低いはずなのに、なぜか俺の体からは寒気が消えない。

三玖からもらったばかりのマフラーをきつく締めても、上着のファスナーを限界まで上げても、震えが止まってくれやしない。 

 

 熱があるわけでも、体調が悪いわけでもないのに、寒さがいっそう辛いものに感じられるのは、いったいなぜか。どうしてか。 

 分からない。俺には、なにひとつ。 

 

 でも。でも……。 

 

「……………………ッ!」 

 

 頭の中に溢れかえるありとあらゆる思いを振り切るように、思い切り地面を蹴り飛ばした。

靴とアスファルトとが擦れ合う音が何度も何度も反響して、その音がいつまでも自分の中から消えないように、がむしゃらに駆ける。

 

体力なんてもう尽きているというのに、それでもまだ気力を捻出して脚を動かす。

五月が居そうな場所を片端から訪ねて、また訪ねてを繰り返す。

今頃、他の姉妹もそうやって彼女を探していると思う。

 

 こんな情けない俺でも、分かることはあった。

五月がどんな奴で、今ごろどんな行動をとっているかくらいは想像がついた。

 

あいつはきっと、今もこの冬空の下をさまよっている。

俺に対する嫌悪とか、姉妹に対する不信とかを心の中でごちゃまぜにしながら、体を寒風に吹き晒している。

そういう奴だって知っている。 

 

 こうやって探し回っているくせに、もし見つけたら何を言うかも考えていない。

みっともない釈明をするのか、謝って赦しを乞うのか、その方向性すら己の中で定まりがついていない。

 

それでも見つけなきゃいけないという思いだけが先行して、空転して、ひたすらに脚を前に動かした。

どうしたって彼女がいないことには始まらないからというのはもちろん、今立ち止まったら自己嫌悪で死んでしまいそうだからというのもある。

 

あのときああしておけばの連続で、頭が破裂してしまう。それは、ダメだ。

 

 だって、後悔は俺に許された行為じゃない。 

 

 流されるままにこんなところまでやって来た責任は俺にあって、だからその末路を受け取るのも俺である必要がある。

 

目を逸らすのは簡単で、現にこれまでずっとそうしてきて――でも、もうその手段はとれない。

自分が立っている場所はとっくの昔に袋小路のさらに奥。複雑に絡み合った蜘蛛の巣の上。

 

今更どうにか逃げようともがき足掻いたところで状況を悪くするだけだ。無論、現状維持ですらこの場面においては悪手。

 

だからそろそろ、きちんと正面から向かい合わなきゃいけない。

最低だろうが最悪だろうが、きちんと一つの出来事として片をつけないといけない。

自分の不始末をなんとかするのは、やっぱり自分自身の仕事だと思うから。 

 

 散々酷い道のりをたどってきて、途中途中で甘い蜜だけをすすった俺への罰と思えばまあ、納得が行く。 

 

 俺はもうどうでもいい。

だからせめて、彼女たちの関係をもう一度つなぎ合わせられるように。俺という異物が崩壊させてしまったものをどうにか再建できるように。  

 

 ――いいや、それは、己の真意との間にいくらかの齟齬がある。 

 

 違和感があった。今思ったことがどうにも受け入れられないような、不思議な違和感が。

 

この期に及んで何を……という話だが、突如聴こえた不協和音は放置しておくにはあまりにも不気味で、だからもう一度、自分の持っている感情を精査したくなる。 

 

 俺の行動の源泉となっているのは、何とか彼女たちを笑顔で卒業させてやりたいという思いだ。

そのためには全員の信頼を損ねるわけにいかなくて、何度も何度も苦しい言い訳を積み重ねた。

そうしないことには五姉妹の成績を維持、向上させられなかったから。 

 

 では、もはや全員の卒業が確定的になった今、それを引きずる必要が果たしてあるのかどうか。 

 当時打ち出した苦肉の策はあくまで苦肉の策であって、いつか綻ぶことは重々承知していた。

だからこそ俺はその綻びが先延ばしされるように尽力したし、その過程であれこれ追加で秘密を抱えてきた。 

 

 正直な話、もうここまできたら全部投げ捨てても良いのだ。

俺は不完全ながらも当初請け負っていた仕事は遂げたし、彼女たちは次へと進む権利を得た。

 

大筋で見ればそれなりの結末。あとは報酬だけ受け取って縁を切ってしまえば、また昔のような日常に戻ることが出来る。

静かで、波が立たない、気楽な日常へ。――静かで、何も起こらない、面白味の欠片もない毎日へ。

 

 あいつらと知り合ってからの日々は面倒ごとの連続で、ちっとも休まる暇がなかった。

 

直に教えていない時間にも次の授業についてのことを考えなくてはならなかったり、家族の問題に俺が顔を突っ込むことになったり。

割の良いバイトだとウキウキしていられたのはほんの少しの間だけで、蓋を開けてみればとんでもない地雷がそこら中に埋まっている、事前に内容を確認していたら願い下げ確定の超ブラック業務。

 

借金のことさえなければやめられるのにと思った回数は両手の指どころか両足の指まで含めても足らず、何度も何度ももっとよく考えた上で始めるべきだったと後悔した。

 

 それなのに、なんで俺は今、こうやって家庭教師の座にしがみつこうとしているのだろうか。 

 

 やめられるのならやめたかったはずの仕事で、一度は自分から暇をもらったこともあった。それなのにいつの間にか復職して、あまつさえ、関係が切れることを寂しいなどと思ってしまいもして。 

 

 変わっていく己の心に追いつけないまま、気付けばこんな場所にまでやってきていた。 

 

 気持ちの整理をつけるタイミングをいつまで経っても見つけられなかった俺は、自分がどんな思いで彼女たちに接しているのかを理解できないまま、時間だけを溶かしてしまった。

 

 今になって認められることはある。

俺は確かに、あいつらと過ごす空間を、時間を、どこか居心地のいいものとして認識するようになっていた。

 

自分がこれまで目的なく身に着けてきた知恵を活用して誰かの役に立てられるあの場は、もしかしたら俺が長い間心のどこかで欲していた舞台なのかもしれなかった。

 

いつかの日のためにと蓄えた知識や経験を活かせる場所はなかなかに得難くて、だから、偶然からそれを手に出来て、幸運だったのかもしれないと思うようにもなっていた。 

 

 その感情に、偽りはあるだろうか。――ないと思う。これまでの日々は確かな記憶として、今も俺の中に蓄積されている。

 

 嬉しかったのだ。

俺の積み上げてきたものが無駄じゃないと証明されたみたいで。

あの子に恥じない自分になれたような気がして。

 

だから、その機会を与えてくれたあいつらには、漠然とした感謝の情を抱えていて。 

 

 徐々に俺に心を許してくれるようになったあの感覚も、俺の教えで次の目的地へと導いていくあの感動も、彼女たちなしには掴みようがなかったもので。 

 

 だからきっと、その過程で生まれたのだ。当初は微塵も持っていなかった、新しい感情が。 

 

 それはたぶん、自分が考えるよりもずっとずっと単純なこと。 

  

 あまりに当たり前になり過ぎて、わざわざ言葉にする必要もないと己の中で処理してしまったもの。 

  

 自身の感情を何度も何度も再編して残ったその上澄みは、実はそこら中に転がっているくらいシンプルな―― 

 

「俺は」 

 

 もやもやとして判然としない思いを、きちんと言葉の形にする。

この工程を経て、初めて飲み込める気がする。 

 

「俺は――――」 

 

 続けた言葉は、驚くほどにしっくりと馴染んだ。

口から発した文章が耳から再度自分の中に入り込んで、ゆっくり時間をかけて体内を循環する感覚が心地よかった。

 

なんてこともない、くだらない、どこにでもある言葉なのに、今の俺にはこれしか必要が無いようにすら思える。

それくらいに、長いこと探し求めていた解答だった。 

 

 つくづく、学校の成績などなんのあてにもならないことを痛感する。こんな答えを導き出すのに時間をかけ過ぎだ。どう考えても。 

 

 そう思いながらため息まじりに蹴飛ばした小石が、小さく跳ね回りながら、とある障害物にぶつかってその勢いを完全に失った。

夜中の墓地は酷く不気味で、幽霊なんか信じていなくても背筋に震えが走りそうになる。

 

 いや、違うか。

震えそうになっているのが事実だとして、その原因は決して幽霊なんかではない。適当な理由付けに利用される心霊現象サイドからしたらたまったものじゃないだろう。 

 

 俺はきっと、怖いんだ。

今しがた答えに気付いてしまったがゆえに、これからそれにヒビを入れるかもしれないのが怖い。

端的に言えば、臆病になってしまっている。 

 

 

でも、言わないことには始まらないから。 

 

だから一度大きく息を吸って、吐いて。 

 

いつかと同じように、またこの言葉から幕を開こう。 

 

 

 

「見つけた」 

 

 足にぶつかった小石を怪訝に思ってそちらの方を向いたところ、見慣れた誰かさんが顔面蒼白になって息も切れ切れのまま佇んでいた。聞こえた言葉は掠れていて、ずいぶん自分のことを探し回ったのだろうなというのが見て取れる。

今会ったところで、特に話せることもないというのに。 

 

「探したぞ」 

「お願いしていません」 

「怖がりのくせにこんな時間の墓場にいるのは盲点だった」 

  

 彼は目の前の墓石を見ながら言う。

私の言葉に取り合うつもりがあるかどうかも分からない。

石碑のとある場所を懐かしむように指でなぞって、そのまま二の句を継ごうとする。 

 

「お前の姉貴たちも、まだ必死になって探してる」 

「知りませんよ、そんなの」 

「家に帰る気は?」 

「まさか、あんな話を聞いたうえで、今まで通りの生活に戻れるとでも?」 

 

 できる限りの力で睨みつける。

 

ちょっとした仲違いや喧嘩ならまだよかった。

どちらかの譲歩によって改善の見込みがある程度の出来事なら、人生において何度か起こり得る喧噪の一部として仕方ないながらも受け入れられた。 

 

 でも、こと今回に至ってはそうじゃない。

見せられているのは大いなる価値観のズレで、それはとてもじゃないけれど自分に馴染むようなものではない。 

 

 体表を爬虫類が這い廻るような気味の悪さがずっと消えてくれなくて、許されるのなら今にも叫びだしてしまいそうだった。

様々な感情が自分の中で複雑怪奇に混ざり合っていく感覚が、酷く恐ろしい。 

 

「あなたのことを信頼していました」 

「そりゃどうも」 

「……でも、それはあくまで、昨日までの話です」 

 

 知らないままでいられたら、どれだけ幸福だったかと思う。

そうしたらきっと今だって、彼は頼りがいのある私たちの家庭教師でいてくれたはずなのに。 

 

 しかし、裏でどんなことが起こっていたかを知った今になれば、もう。 

 呑気な視点で考えることは、出来なくなってしまって。 

 

「私には、あなたのことが分かりません」 

 

 これが、何よりも正直な感想。

彼がどんな人間で、どんなことを考えて動いているかをなんとなく掴んできたつもりだったのに、一日の間でそのすべてが否定されてしまった。同時に自身の審美眼すらも信じられなくなって、何を拠り所にして歩けばいいかが分からなくなる。 

 

 私が思い描いていた彼の人物像は、実像と符合しない。

ずっとこの目で見てきたものは虚像であって、本物ではない。

そう思うと、世界全てを疑ってしまいそうだ。 

 

 全幅の信頼を寄せていたはずの相手が実は酷い隠し事をしていて、しかもその裏には姉妹の結託があった。

仲間外れは自分だけ。どうしたって、その事実に納得できない。 

 

「一人にしてください。これ以上お話しすることはありませんから」 

 

 決意をもって突き放す。

今は誰が近くにいてもダメだ。

私に寄り添ってくれそうな人間に限って、ことごとく私の心を裏切っている。

 

そんな中で当たり前のように呼吸することは、とてもじゃないが不可能。

頼るアテはどこにもないが、なんとかしてみんなと距離をおかないことには気持ちの整理すらつけられない。

 

お願いだから放っておいて欲しい。 

 

 でも、心の底からそう願っているのに、彼はなぜかその場から去ろうとしない。 

 

「早くいなくなってくださいよ……」 

「残念ながらそういうわけにもいかない」 

「ここにきて教師面ですか?」 

 

 言葉の端々に棘が生えている。

己の中で息を潜めていた攻撃性が、生まれて初めて牙を剥いている。 

 

 自分のそういう部分に向き合うのは苦しい。

剥き身の心で人と接してはすぐさま何かが摩耗してしまう。

 

だから、今すぐにでもここから去ってもらいたかった。

周りのみんなを嫌いになりかけている今、自分さえも嫌いになってしまったらどこにも寄る辺がなくなってしまう。

 

そうなれば落ちるだけになってしまう。

それはきっと何よりも恐ろしいことだから、私のことを案じる気持ちが少しでもあるなら、ここは放置の選択をしてもらいたい。 

 

 デリカシーのない彼にだって、この程度の感情の揺らぎなら推し量ってもらえるはず。 

 

 そう思っているのに、やっぱり立ち去ってはくれなくて。 

 

「今更できる教師面なんか持ってねえよ。やったことに関しても、全面的に認める。言い訳するつもりもない」 

「開き直り?」 

「好きなように受け取ってくれ。訂正可能な立ち位置じゃなくなってるしな」 

 

 意図して目を合わせず、声の抑揚を殺す。

感情的になっているということさえ、今の彼に知られたくはなかった。全てを鎖して心理的な距離を設けるのが、一番有効な精神防衛策だと思った。 

 

 熱くなったところで、怒ったところで、これまでにあったことが改まる道理はない。

事実は事実として厳然と世界に存在し、どうあっても失われたりはしない。

 

なら、そんなことに労力を割くだけ無駄だと割り切るのが尤もらしい。 

 

 皮肉なことに、彼がこれまで私に教えてきた効率化の方策が役に立っている。

あらゆる出来事に対し、真っ当な姿勢で臨む必要はない。

人生には、取捨選択が要る。 

 

 願わくば、この関係が簡単に切り捨てられるようなものなら良かったのに。 

 

「本当に弁解しないんですか。私が間違った解釈をしているかもしれませんよ」 

 

 だが残念なことに、自分の不器用さがいつまで経っても道行きの邪魔をする。

彼を信じたい気持ちがどうしても消えてくれなくて、こちらに勘違いがあった可能性に期待してしまう。 

 

 そんなこと、望むだけ無駄だと分かっているのに。

自分の弱さが、そうさせてしまう。 

 

「間違ってねえよ。たぶんだけどな。ずっと、バレたらロクなことにならないだろうなと思ってきて、実際に今そうなってる。なら、合ってる」 

「そう、ですか」 

 

 関係修復への一縷の望みも絶たれた今、いよいよもって自分がどうすればいいか分からなくなる。

 

いっそ思い切り彼の頬でも張ってやれれば良いのだろうけれど、そんなことをしても何かが解決する風には思えなかった。

たまった鬱憤をそんな形で晴らした虚しさが心を余計に冷たくするだけだ。 

 

 彼は私に不義理を働いていて、私はそのことに気付きすらしなかった。結局、残るのはそれっきり。 

 

 所詮、私たちはその程度の間柄に過ぎなかったということなのかもしれない。 

 

 いい加減に低下してきた体温と底冷えしていく思考とのダブルパンチで、無意識に上半身を掻き抱いた。

防寒着すら着ないで外に飛び出すなんて、なんて意識の低い受験生だろう。 

 

すると、そこに。 

 

「ほら、とりあえずこれ羽織れ」 

「今のあなたから施しなんて……」 

「損得勘定くらいしとけ。ここで体調崩して困るのはお前だろ」 

 

 こんな中においてもいつもと同じ傍若無人っぷりを発揮しながら自分の上着を強引に押し付けてくる人がいた。

 

ここで自棄になって全てを放り出せるなら楽でいいのだろうが、現実はそう単純な構造をしていない。

 

立ち尽くしていても明日は来るし、それを繰り返すうちに受験に襲われる。

今はそんなことを考えたくないのに、学生の性としてどうしても乗り越えられない壁がある。

 

それを思うたびに、自分のちっぽけさに嫌気がさす。

全部投げ捨てて台無しにしてしまえるような性格だったら、こんなことにはならなかっただろうか。 

 

 そして、何より。 

 

彼の気遣いを嬉しいと感じてしまう自分がいるのが、辛かった。  

彼の匂いと体温が残るコートに触れて高鳴ってしまう心音に気付くのが、苦しかった。 

 

 浅ましいと思う。醜いとも思う。この期に及んで何を考えているのかとも。

 

しかし、思考と感情は別々に切り離せるようなものではないから、どこかから湧き出してくる喜色を否定することは叶わなかった。

嫌いになったつもりでも、それを自分に信じ込ませても、心中深くに眠る真意までもは欺けない。 

 

きっと、未だ惹かれている。 

現実を理解しても、なお。 

 

「せっかくここまで自分の意思で頑張って来たのに、それを俺みたいなどうでもいい奴の茶々でひっくり返してたら世話ねえよ」 

 

 聞いて、やはり彼は根本的にずれているのだと思った。

 

だって、本当にどうでもいい人だったら、何一つとして歯牙にかけずにいられたはずだから。

彼が私たちにとって欠かせない存在になってしまったからこそ、こんなにも心が乱れているのに。

彼が私の一部になってしまったせいで、こんなにも苦しい思いをしているのに。 

 

「……話すだけ無駄なのかもしれません。私とあなたは分かり合えない。もうそれでいいでしょう?」 

「初めから会話が成立するなんて期待はしてないから気にすんな。こうなるのは予定調和だ」 

 

 思わず、「はぁ?」と聞き返してしまった。

あまりに傲岸な言い分に、少し苛立つ。

 

どう考えても状況は私優位なのに、なぜそんなことを言われなくてはいけないのか。

さっき感じたはずの思いやりは偽りだったのか、と。 

 

「お前に会ったところで何も言えることなんかないって知ってる。言い訳も弁解も釈明も申し開きも、どれだけ重ねたって意味がない。だから、俺はようやく終わった自己分析を開示しに来たんだ」 

「それは、どういう……」 

「どうもこうもない。ただ、ずっとよく分からなかった自分の内面を考察してみて、その結果としてなにが分かったのかを伝えようと思った」 

「それは、今関係あることなんですか……?」 

「受け取り方次第だ」 

 

 この時点で、だいぶ意味が分からなくなっている。

なぜ私はそんなことに付き合わされそうになっているのだろうか。

まともに取り合う気力すらどう捻出すればいいか分からなくなっている、今この状況で。 

 

 しかし、彼が意味のないことを好んでする人間でないことは経験則で知っていた。

なら、これからの話にもそれだけの意味が包含されると考えるべきか。……それは期待が過ぎるように思えてならないけれど。 

 

「不思議だったんだ。これだけの泥沼に両足どっぷり浸ってまで、自分の立場を守ろうとするのが。そうする理由はたとえば借金苦から逃れるためだったり、お前らの卒業まではなんとか面倒を見てやりたいという思いからだったり、色々挙がりはした。でも、そういうのは全部しっくりこなかった。間違ってはいないけれど正しいとも言い切れないような微妙な感触が付きまとって、長いこと悩んでいた」 

 

 相槌を打つ間もなく、彼の言葉は続々と繋がっていく。 

 

「お前らと出会ってからの毎日は災難続きで、どうやって逃げるか画策したこともあった。というか、いつも考えていた。俺は家庭教師をしにきただけのはずなのに休みはつぶれるわ姉妹喧嘩に巻き込まれるわで、どう考えても通常業務の領域を逸していると思うことばかりだった」 

 

 続く。 

 

「だけど、その環境の中で、少しずつやりがいのようなものを見出していったのかもしれない。いつしかお前らに教えることは苦ではなくなっていたし、それが自分の糧になっているような感覚も得るようになった。ただ知識だけを積み上げてきた俺の人生において、お前らは初めてアウトプットに付き合ってくれた。全員の成績が少しずつ向上していくのが自分のことのように嬉しくて、見える世界が大きく広がった気分になった。そして、それは今も変わっていない」 

 

 続く。 

 

「俺はたぶん、自分が教える以上に、お前たちから教わっていたんだ。下手くそな人生の改め方とか、人との接し方とか。教科書をどれだけ読み込もうが身に付かなかった知恵が、お前たちには備わっていた。知識を与える見返りとして、知恵を享受していた。それはきっと、あのまま人生を歩んでいたら身に着かないでいたことだ」 

 

 続く。 

 

「だから、素直に感謝している。出会えたことで、俺は変わった。変えてもらった。……まあ、俺が良くない方向でお前らを変えてしまったのはここでは別問題として」 

 

 続く。 

 

「じゃあ、ここで最初の疑問に立ち返ろうと思う。なぜ俺が、今の立場に縋りついているのか。俺なりの分析でようやく求めだした答えを、聞いてもらおうと思う」 

 

 続く。 

 

 

「俺は、きっとさ――」 

 

 

 ここでようやく、途切れることなく続いていた彼の言葉に隙が生じた。

水が流れるようにすらすらと繋がっていた台詞に切れ目が出来て、風の音以外が世界から消え去った。 

 

 何を目的としたタメかは分からなかった。

これから先の言葉をより一層際立たせるための助走のようなものだったのかもしれないし、単純に、言葉が出てこなくなったからかもしれない。

もしかすると、彼にとっては珍しく、言葉にするのをためらっているなんてこともあるのかも。 

 

 本当は聞いてあげる義理なんてない。

耳を塞いでいても、ここからいなくなってしまってもいい。

彼がしたことを考えれば私がこれからどんな暴虐を働こうがそれを咎められるいわれはないし、無視して良い。 

 

 でも、今この瞬間だけは、なんでか黙って聞き届けようという気分になっていた。

そうすることが一つの義務だと言わんばかりの強制力が世界から働いているようで、不思議とフラットな気持ちでいられた。 

 

 単純に、興味がある。頭の良い彼が時間をかけて導き出した自己分析とやらがどんなものなのか。

この場から立ち去るのは、それを聞いた後でも遅くない気がする。 

 

 

「――お前たちに、嫌われたくなかったんだ」 

 

 

ぽかん、と。 

思考が一瞬で漂白されて、思ったことも考えたことも、全てがどこかへ遠ざかってしまった。 

 

 

「呆れる気持ちも、下らないと言いたくなる気持ちも分かる。でも、これが長いこと時間をかけてようやくたどり着いた結論だ。笑いたきゃ笑ってくれ」 

「そ、そんな、意味が……」 

「そのまんまだよ。お前らに頼られる感覚が心地よくて、出来るだけ長くその環境に身を置いておきたいと願った。慕われる自分を守るために、ここまで色々間違ってきた。それもこれも全て、嫌われたくないというその一心からの行動だったんだって気づいた」 

 

 彼は首を傾げながら困ったように笑って、 

 

「我ながら酷い話だと思う。そうならそうで、もっと選べるやり方はあったはずなのにな。でも、俺はそういうことにはとにかく疎くて、だから誤魔化しに誤魔化しを重ねることでしか対応できなかった。泥沼に足をとられていくのが分かってもなお、信頼ってやつを手放したくなかった」 

 

 まあ、それも今となっては台無しだけどな、と続いた。 

 

「とにかく、これで全部だ。最後まで付き合ってくれてありがとな」 

 

 そして、ようやく、彼の姿が視界から遠のいていく。

結局、やって来たことに対する謝罪も弁解もすることなく、あらゆることを自己完結させて、全部終わらせた気になって、この場から去って行く。 

 

ねえ。 

  

あなたは、それでいいのかもしれないけれど。 

 

私の気持ちはどうなるんですか? 

 

「ちょっと!」 

「……呼び止めを誘ったわけじゃないから、もう無視で良いぞ」 

「そうじゃないでしょう! 自分は気持ちよく言いたいことを言い切って、その後のことは丸投げですか!」 

「だって、お前は赦さないだろ。なら、どれだけ時間をかけても無駄なことだ」 

「あーーーーー、もうっ!」 

 

 やはり、ズレている。

こういうときに効率性を度外視できないところとか、決めたら曲げないところとか、前から何一つとして変わっていない。

 

私たちから学んだようなことを言ったくせに、結局根っこは彼のままだ。

それが果たして悪しきことなのかは私の視点だけで断じることはできなかったけれど、確かに一つ、言えることがある。 

 

「上杉君は大馬鹿です!」 

 

 感情を見せるのが嫌だったはずなのに、そんなことはすっかり忘れたような大声を出す。

ここには二人しかいなくて、距離も離れていなくて、こんな声量は要らないのに。

 

それでも、彼に対する苛立ちや憤りが渦を巻いて、こうしなくてはやっていられない。 

 

「もっと出来ることがあったでしょう! 正直に相談するとか、早い段階で謝るとか、色々!」 

「だから、嫌われたくなかったんだっての」 

「一度や二度で嫌いませんよ。私が怒ってるのは、ずっと隠し事をされていたことなんです!」 

「普通言えねえだろ。お前の姉妹とやることやったなんて」 

「どうしようもない事情があったなら、初めに言ってくれればよかったんです。困っているって教えてくれれば、私だって、私だって……!」 

「私だって?」 

「……私だって、あなたの力になれたかもしれないじゃないですか」 

 

 いつも頼ってばかりだから、いずれどんな形になるかは分からないけれど恩返しがしたいという思いがあった。

向こうから頼ってもらえるタイミングを待っていた。

それなのに、知らないうちにこんなことが起こっているなんて。

 

「信頼してくださいよ。私のことも」 

「いや、だから……」 

「言い訳はしないんじゃなかったのですか?」 

「これはそういうのじゃなくて、えっと……」 

 

 口ごもる彼を無視して、今度はこちらから言葉を紡ぐ。

どうせなら、全部吐き出してしまった方がいい。

上杉君の不遜ぶりを真似るように、少しだけ気を大きくして。 

 

「だいたい、いつも横暴なんですよ。独善的というか、独りよがりというか。一度決めたら変えられない頑固なところ、本当にどうかと思います」 

「それは」 

「口ごたえは受け付けていません」 

 

 一方的に愚痴をぶつける時間なのだから邪魔しないで欲しい。

ボールを打ち返してくる壁があってたまるものか。 

 

「私にバレていないのをいいことにひそひそひそひそと。まともな対処法の一つも考えてみてくださいよ」 

 

 気持ちが完全に理解できないわけではない。

出来の悪いテストは二度と見返したくなくなるし、隠したくなる。

だけど、今はそういう自分の事情は全部全部棚に上げて、たまった鬱憤をひたすら吐き出すことにした。

 

私優位の状況なのだから文句は言わせない。

こうなればもうやりたい放題だ。 

 

「なんて言うか、思いやりが足りないんです。自分のことを考えているのか私たちのことを思っているのかは知りませんけど、やり方がいつも雑! 基本的にずっと空回ってるじゃないですか! それが嫌なんですよ。思っていることがあるのなら全部はっきり伝えてください!」 

 

 常々感じていた伝達不足も、ここではっきり言っておく。

察しが良くないのはこちらも同じなのだから、思っていることはきちんと言葉にしてもらわないと分からない。 

 

 思えば、すれ違ってばかりだ。

出会ってから今日に至るまで、上手く行ったことの方が少ない。

 

その成功体験の方が確かな思い出として積み上がっているから記憶が美化されているけれど、そもそも私たちは最初から相性が良くなかったのだ。

強引にこじつけて綺麗な過去だったように印象操作しても、その事実は変わらない。 

 

「変なことはしないで、ずっと自慢の先生でいてくださいよ」 

 

 だからきっと、今のが一番の本音。

素直に感謝できるような人のままでいてほしかった。

私たちを教え導いてくれた恩人として。たまたま出会えた無二の友人として。

それを余計な何かで穢されてしまったことが、何よりも悔しい。 

 

 こんなことさえなければ、いつまでだって恩義を抱えたままいられたのに。 

 

「あなたは、私たちの家庭教師でしょう……?」 

 

 言いたいことは他にもいくらだって残っていた。

けれど、力を出し尽くしてしまったかのように体は重いし、声帯は震えない。

 

どういう感情なのか自分でもさっぱり分からない涙が後から後から零れ出てくるし、膝はがくがくと安定しないしで、体中が不安定になっている。 

 

 相手がこの人でなければここまで心乱されることはなかっただろうというのが直感的に理解できるのが、まず何よりも腹立たしかった。

 

こんな酷い人に深く依存してしまっている自分をどうしても嫌いになれなくて、そのもどかしさも相まって、溢れる涙はとめどなく敷石を濡らしていく。 

 

「…………悪い」 

 

 ふいに彼の手が、頭におかれた。 

 

ようやく引き出せた謝罪のような言葉だが、それを得たところで何が満たされるわけでもない。

だから涙で崩れた顔で必死に睨んで、赦す気なんて欠片もないことを訴えかける。 

 

 それについては彼も承知しているのか、諦めたような顔で二度三度と私の頭を軽く撫でつけて、ゆっくりその手を下におろした。 

 

「きらいです。上杉君なんて、だいっきらい……」 

「だろうな」 

「世界で一番、きらい……」 

「知ってる」 

「きらい。きらいきらいきらいきらいだいっきらい!」 

「分かってるってば」 

 

 その言葉の裏に隠れたもう一つの感情が表に出てこないようにと必死に押し殺しながら、何度も何度も、子供のような悪口を繰り返していく。

こうでもしていないと、自分の中でせめぎ合う思いに負けてしまいそうだったから。

ふとした拍子に、こんな中で言ってもどうしようもないことを口走ってしまいそうだったから。 

 

まさか、好きだなんて。 

とてもじゃないけれど、言えるわけがないのだから。 

 

「もう、それでいい。そう思われて仕方ないだけのことをした。取り返しがつくなんて考えてもいない。……けど、せめて、姉妹のことだけは赦してやってくれよ。俺と違って、死ぬまでの長い付き合いなんだから」 

「そういう、ところが……」 

 

 その先は言葉にならなかった。

いや、言葉に出来なかった。

そういう不器用な優しさに惹かれてしまったなんて、言えなかった。 

 

「ほら、帰るぞ。冷えたし疲れたろ。暖まって、休んで、元気になったら、またいくらでもなじってくれていいから。だから今は、最初に自分のことを考えてくれ」 

 

 やっぱり、自己完結だ。

彼の中ではもうこの話は終わったことになってしまっている。

失った信用は取り戻せないし、私からはずっと憎まれたままだということで全てを片付けてしまっている。 

  

それが、なんでかものすごく癪に障った。 

 

「帰りません」 

  

 数歩先に進んでいた彼の手を、握りつぶすような勢いで引っ張り寄せる。

もう、目の届かないところで後ろめたいことをさせないように、強く引っ張る。 

 

「まだ、言い足りません」 

「後からいくらでも……」 

「口ごたえする権利があるとでも?」 

「…………」 

 

 その一言で反論を封殺し、逃れる理由づくりを始めた彼の目を、じっと見つめる。 

 

真っ向から、向かい合う。 

 

「これは、あなたが負うべき責任です」 

 

 残るであろう禍根とか、軋轢とか、そういうことについての考えを巡らせるのはやめにした。 

 

私は、ここで全てを終わらせる。 

 

 

 

「ドライヤーは向こう。タオルはそこらへんにあるのを適当に。まあ、前に来たことあるから分かると思うけど」 

 

 状況が目まぐるしく変わるせいで、どんな経緯でこうなったのかが良く分からなかった。

 

それだけ言い残して居間から離れて風呂場に向かい、思考を整理するために最初から考え直すこととする。 

 

 五月家出の一報を聞いて探しに出たところまでは良い。

彼女を見つけて言いたいことを言ったのも良い。

その後、五月が家に帰るのを拒むことだって、それなりに予想できた行動ではある。

だから、ここまではたいした問題じゃない。 

 

 面倒なのは、その後。 

 

頑なな五月をどうにか説得してでも雨風を凌げて暖房も効いた場所に連行するべきだという俺の考えに、おそらく間違いはなかったはず。

 

風邪を引いたらおしまいだという姿勢は終始一貫させているつもりだったから。

なので、引きずってでも彼女を姉妹の元に連れ帰そうとしたのだが、それがなかなか上手く行かなかった。 

 

 だからって、どうして俺の家に連れ帰ることになるんだよって話だけども。  

 

 毎回のことだが、もっとまともな折衷案はどこかに転がっていたに違いない。

妥協点が絶対におかしい。

 

それだというのに結局こうなっているあたり、俺はそういう星の元に産まれ落ちたのだと解釈するほかないのだろうか。

そうであって堪るかという反骨心も湧かなくなっているあたり、いよいよもって本格的に世界に白旗を上げるタイミングなのかもしれない。 

 

「つーか、親父……」 

 

 泣き腫らして目元を真っ赤にした五月を見て、ウチの父親が不要な気遣いを巡らせてしまったらしい。

もう夜も良い時間だって言うのに、らいはを連れて実家に引っ込みやがった。

 

どう考えても酷い勘違いをしているし、今は二人で間がもつわけもないから、出来ることならばここにいて欲しかったのに。

 

二人きりで明日の朝までなんて、地獄以外のなにものでもない。

これからのことを考えただけで、俺の胃は幾重にも捻じれていきそうだ。 

 

 そりゃあ、何を言われてもいいだけの覚悟はした。

しかし、それがまさか自分の家で行われるなんて思うわけがないだろう。

こんな状況の中でも唯一安全な場所だと信じていた自宅さえ戦地になってしまうのだとしたら、今後俺はどうやって心情のやりくりをしていけばいいのだ。 

 

 湯船に深く体を沈めて冷えを追い出しながら、まずどんな顔で出ていったものだか考える。

 

今現在会話らしい会話が出来るとは思えないし、無言で布団を並べて眠ってしまうのがいいだろうか。

 

しかしそれはさすがに……どうだろう。

誠意のようなものが大いに欠けている気がしないでもない。

ここは大仰にでも悪びれている風を装うべきなのか。

 

 そもそも悪びれるも何も、俺は普通に申し訳ないことをしたと思っているわけで、それをわざわざ分かりやすいように態度で示すのは厭味ったらしくも思えた。

 

こうなれば思考は堂々巡りに突入して、何が正解かを導き出せなくなってしまう。

もう一度謝ってみるのも選択肢の一つではあるが、どうせ赦してはもらえないというのが両者の共通認識であるのだから、無駄なことだと一蹴されるのが関の山か。 

 

 イメージしたすべてに失敗の未来が付きまとってくる感覚があって気が滅入る。

これもまた、俺に与えられた罰なのだろう。

 

文句を言う権利なんて端からないのだから、また素直にサンドバックになるしかない。

それだけで済むと思うのも甘えで、俺は今後五月から向けられるどんな感情も余さず受け止める責務がある。

これはある意味当然の帰結。やって来たことが全て祟った結果がこうだ。 

 

 いつまでも体をふやかしているわけにはいかないから、どうにかこうにか重い腰を持ち上げた。

明日には五月を家に返す算段をつける必要もあるし、やることは基本目白押しなのだ。 

 

 適当に体を拭いて、浴室から出る。

この段階でせめて第一声くらいは決めておけば良かったと思ってしまう自分の無計画さが憎い。 

 

「……どうも」 

「…………どうも」 

 

 身支度をそれなりに整えたらしい五月は俺が着古したよれよれのジャージを身にまといながら、大分色あせてしまったちゃぶ台に教科書を広げていた。

 

あいつは完全な手ぶらだったから、たぶんあれは俺の持ち物だろう。そのあたりに転がっていたものを拝借したんだと思う。

 

勉強熱心なのを咎める必要もないので、距離をとって腰を下ろした。それにしてもどうもってなんだどうもって。 

 

 じろじろ見るのもどうだろうと思って、なんとなく視線をあちこちに彷徨わせる。

だけどここは慣れ親しんだ自分の家で、目新しいものなんかどこにもない。

だから必然的に目が向かうのは、いつもと異なる様相を呈している五月まわりになってしまって。 

 

「ちょっと」 

「悪い分かってる席外す」 

 

 居たたまれないことこの上なく、いっそしばらく出ていこうと決断。そっちのほうが双方の精神衛生にも優しいはず。

 

風呂上がりに出歩くには少し厳しい季節だが、この空間と比べればチベットの高地だろうがロシアのはるか北だろうが大波荒れ狂うベーリング海だろうが天国だ。

なんならいっそこのままカニ漁師にでもなってこようか。 

 

「私、お風呂上がりの人を冬の外に追い出すような人間だって思われてるんですか……?」 

「じゃあ他に何をしろと」 

 

 五月は呆れかえったような目をして、次に、呆れを一周させたような顔で苦い笑みをこぼしながら、 

 

「勉強、教えてくださいよ」 

 

 なんて、一言だけ告げるのだった。 

それはどうにも懐かしい響きで、だから俺はその感覚に一瞬だけ面食らいながら、どう答えたものかと、少しだけ頭を悩ませて。 

 

「…………」 

 

ああ、なんだ。 

こうやって始めれば良かったんだ、きっと。 

 

 どこから間違ったかとか、何がいけなかったのかとか、そういうことを延々考え続けていたけれど、結局はここだ。

 

一番最初から、俺は悪手を打っていた。

そこからバタフライ効果のように波及していった影響が、今の俺たちを形成したんだ。 

 

 本当なら、あそこからやり直せるのが一番だったんだろうけど。 

もちろん、そんな願いが叶うほどこの世界は優しく出来ていないから。 

 

 だから俺は、目の前にいる女の子の憐みに甘えて、安っぽい焼き直しをするみたいに。 

 

「おう、任せろ」 

 

 それだけ告げて、五月の傍につける。

この場にはもう、自分のアイデンティティだった満点の答案用紙もなければ、立ち位置を保証してくれるテストの順位表もない。

俺をどんな人間だか確定させる証明書は、どこにもない。 

 

 でも、それでいいと思った。

身分が関わらない実力勝負ということはつまり、これまで俺がどれだけ真面目に教師をやってきたかの真価を問われるということ。

信用を掴むに必要なのは、自信と地力。 

 

 彼女と同じ視点で、ずらずらと並んだ問題文を読んでいく。

もちろんのこと教科書は端から端まで理解しているので、困るようなことはない。 

 

「どこからでもいいぞ」 

 

 こうして、多分最初で最後になる我が家を会場にした特別授業が開講した。

一人の生徒に対し、一人の教師が必死になって指導する。 

 

……まあ、これは、なんていうか。 

世間一般に周知される、家庭教師のようだと思った。 

 

 瞼が少々重たくなってきたので時計を確認すると、もう日付が変わっていくらか経っていた。

昨日は色々あって普段と比べても疲労度合いが段違いだから、このあたりでお開きにしてはどうかと進言する。 

 

「じゃあ、そうしましょうか」 

 

 意外に素直に受け入れてもらえたのでほっと胸を撫でおろした。

自分を犠牲に俺ごと徹夜で、なんて言い出したら大変だったから。

五月の性格を考慮すると、そうなる確率が完全にゼロとも言い切れなかったし。 

 

 そうなればあとは眠るだけだと、押し入れにあるらいはの布団を引っ張り出した。

なんとなく、客に使わせるなら親父よりこっちのほうがいいような気がしたから。

 

そうしてから、俺の布団を極力離してセッティングし、二つの布団の間をちゃぶ台で仕切った。

貧弱なバリケードだが、ないよりはマシだ。

俺の行いを知っている以上、五月も落ち着いて眠れないだろうし。 

 

 それにしても、なんだろう。

言い足りないことがあるからと言ってここまで来た割には、俺への愚痴や文句の類はまったく耳にしなかったような。

もはやそんなことに拘泥する必要性が皆無だ、というところまで見下げられたということか。

 

 今さら関係の修復だとかなんだとか生っちょろいことを言うつもりはなかったけれど、さすがにそれは堪えそうだ。

まともに取り合うに値しない人間判定は厳しい。 

 

 でも、今は取りあえず眠ろう。

五月を確保した旨は他の奴らに伝えたし、後はどうにかして連中に引き渡すだけだ。

どうやって説得するかをこの眠たい頭で考えるのはまったく建設的じゃない。 

 

 消すぞ、と前置いてから消灯し、くたびれた布団の中に体を埋めた。おかしな動悸がずっとしているけれど、なんだかんだで疲れているせいか、この環境でもしばらくすれば眠れそうだ。 

 

 とにかく、明朝。困ったことは、起きた後の俺に丸投げしよう。 

そう思いながらゆっくり瞼を閉じて…………行く最中に、謎の足音が聞こえた。 

 

 その足音の主は俺の頭付近で動きをぴたりと止めると、あろうことかそのまま俺の布団に潜り込んでくる。 

 

 普段なら寝ぼけたらいはの仕業だろうと片付けられるこの現象は、しかし彼女のいない今この状況においては決して成り立つはずもなく。 

 

 だからつまり、今俺の背中にぴったり付けている奴の正体は、考えるまでもなく自ずと明らかに―― 

 

「何してんのお前……」 

「口ごたえする権利があるとでも?」 

「さすがに今はあるんじゃねえかな」 

「言ったでしょう、言い足りないって」 

「だったら電気つけて普通に」 

「顔の見える場所では言えないこともあります」 

 

 だからって、こんな場所で言えることもまあまあ限られてるんじゃないかと思うのは俺だけか。 

 

「そのレベルの罵倒?」 

「それとはまた、少し違って」 

「だったらなんだ。どうせ反論は出来ないんだし、聞くだけ聞くけど」 

 

 諦め半分になっている気もするが、彼女の言うとおり、俺に拒否権などない。

聞けと言われれば聞く以外の選択肢はない。  

 

 彼女が自分の腹の中にどれだけのものを溜めているかは知らないが、その原因を作ったのが俺である以上、聞き遂げないわけにはいかない。 

 

「その投げやりな感じ、すごくイラっときます」 

「眠気には勝てねえよ……」 

 

 ここ最近の不眠傾向と相まって、俺の体は自分が思う以上に参っている。

布団に入れば眠るようにプリセットされている。

だから、こんなおかしな状況になっても、睡魔はきちんと襲ってくるのだ。 

 

「あのときのものすごく申し訳なさそうな態度は嘘だったのですか?」 

「そうはならんだろ……」 

「それなら、もっと相応しい態度があると思いません?」 

「たとえば?」 

「それを探すのはあなたの仕事です」 

「前も言ったろ。俺は察しが悪いって」 

「みんなと邪な関係を結んだら私がどんなことを思うかは察せませんでした?」 

「…………」 

「ほら、分かっているのに分かっていないフリをしていた人が、察しの悪さなんかに逃げないでくださいよ」 

 

 痛すぎるところを突かれる。

俺にとってのそれは弁慶でいう向う脛なので、狙われたらただただ悶絶するしかない。 

 

 もちろんのこと、五月がどんな反応をするかの察しはついていたし、だからこそあれこれ策を講じて隠した。

そんな俺が、下手な言い訳に自身の鈍感さを使うのは筋が通らない。 

 

「……信頼を裏切る形になったのは悪かったと思ってるよ」 

「じゃあ、どうして続けたんです?」 

「それは、その、一つ隠したらもう一つ隠さなくちゃいけなくなって、その後は雪だるま式に」 

「……そうでもして続けたいくらい、あなたにとって良いこともあったのでは?」 

「その質問、素直に答えるとどうなる?」 

「怒ります」 

「じゃあ、嘘をつくと?」 

「もちろん怒ります」 

「なら、正直に言った方が身のためだと」 

「ええ」 

「…………そりゃあ、俺だって男だし」 

「最ッ低」 

「こうなるよな。知ってたよ」 

 

 だけど言わなかったら言わなかったで、それはここにいない彼女たちの信頼を裏切るようでどうしようもない。

義理立てしなくてはならない方面が多すぎるがゆえにこうなったというのが簡潔なまとめになるのだろうか。 

 

「よくもまあそんな口で嫌われたくなかったなんて言えましたね」 

「ギリこんな口になる前の出来事だったろ」 

「同じことですよ。私にとっては」 

「違うと思う……いてて、分かったよそうだよ認めるよ」 

 

 口ごたえしたのでつねられた。

力関係が分かりやすくていい。

俺はイエスマンにならざるをえないってわけだ。 

 

「……そんなに」 

「ん?」 

「そんなに、良かったんですか?」 

「…………」 

「私の信用を裏切るなんて酷い選択をしても良いかなって思えるくらい、良かったんですか?」 

「いや、考えがそこに直通してたわけじゃ……」 

 

 再びつねられる。

弁解の意図がなかろうと、今は五月に逆らえないらしい。 

 

「でも、結果的にはそういうことじゃないですか」 

「……そうだな。そうだよ」 

「…………あなたは、本当に酷い人です」 

 

 自覚はあるので問題ない。

杜撰な管理を重ね続けた結果、こうして五月を盛大に傷つけてしまっている。

そこに関してはもう疑いようもなく、否定のしようもない。 

 

「この一日で、あなたのことがものすごく嫌いになりました」 

「それくらい嫌われるだけの残りしろがあったことの方が驚きなんだけど」 

「殺意が湧きました」 

「……あの、さすがに命だけは」 

 

 みっともない命乞いだ。

下手を打てば殺されかねない状況に置かれているのだと今更気づく。痴情のもつれでの刃傷沙汰は良く聞く話だ。

まさか、俺がその当事者になりかけているなんて思いたくはないが。 

 

「……ですが、あなたの教師としての手腕は否定できません。それは先ほど再確認してしまいました」 

「残念ながら、そっちの手は抜けなかったもんで」 

「不愉快です。すごく。この上なく」 

「…………」 

「もし、私にあなたなしでも自分の未来をどうこうできるだけの見通しがあれば、今すぐにでも三下り半を叩きつけられたのに」 

「……お前の受験が終わったらさっさと消えるから」 

 

 他の四人をどうにかコントロールしていた約束を大きく破る形になるが、彼女たちも共犯だ。

五月の意に沿う形を作るためには、それを破棄するくらいでないと。 

 

 幸か不幸か、俺がどんな道を選ぼうと、それが彼女たちの将来とバッティングすることはない。

なら、ここからゆっくりフェードアウトして、今後の人生で中野姉妹に関わらないようにしたほうがいい。それが、ちょうどいい。 

 

 そんな形で、期せずして俺の将来設計が完成しかけた瞬間に。 

 

「それは違うでしょう」 

「いや、こればっかりは譲れないだろ」 

「私たち姉妹を滅茶苦茶にしたうえで、責任の一つも取らずに逃げると?」 

「ここで出てくる責任って単語は意味が重たすぎるんだよ……」 

 

 そして、その形での責任の取り方は、酷くアンバランスな結果を生んでしまうわけで。

非常に不平等で、どうしようもなく不条理な結末がやって来てしまうわけで。 

 

「お前も嫌だろ。こんな奴が親戚になるの」 

「……それは置いておくとして」 

「ほら、嫌なんだろ」 

「…………親戚は嫌です」 

「ほらな。……痛いって」 

「死んじゃえばいいのに……」 

 

 怨嗟の声が耳元で反響する。

声のトーンが真剣すぎて、身をよじることも出来なくなってしまった。 

 

「……でも、私の感情は別として、あなたはきちんと後片付けをするべきです。いなくなるのだとしても、それが全て終わってからでないと筋が通りません」 

「お前相手の話し合いが難航しすぎてるっていうか、正直一生折り合いつかないと思うんだけど」 

「当然でしょう。どんなことをされても赦しませんもん」 

「そしたら一生俺みたいな変な男が姉妹につきまとうことになるんだぞ……」 

「…………だから、そういうことですよ」 

「変わり者過ぎるだろ……だから痛いんだよ。さっきから攻撃力上げてきてるよな……?」 

「ほんと嫌い……」 

 

 もう、これに関しては俺が鈍いどうこうの問題じゃない気がする。さっきから感じていたことだが、五月がなんだかおかしくなっているようだ。

疲労がピークを超えてハイにでもなってしまったのだろうか。 

 

「赦してくれないこともこれからずっと嫌われることも確定してんのに、俺はそこをどうやって攻略するんだよ」 

「できませんよ。私は心変わりしないので」 

「ほら、認めてんじゃん。初めから無理なんだって」 

 

 ここで、ふと気づいた。

当初の重苦しい雰囲気は消え去って、いつの間にか普段のように会話が出来るようになっていたことに。 

 

 サンドバックにされるつもりが、当たり前に反撃してしまっていることに。 

 

「それでも、誠意を見せることはできますよ」 

「誠意ってなんだよ」 

「聞いてばかりじゃないですか」 

「だから、俺にそういうのは分かんないんだよ」 

 

 俺の知識領域に、こういうときの対処に使えそうなものは一つとしてない。

そもそもそんな便利なものがあれば今こんなことにはなっていない。

 

「謝り続けることくらいしか思いつかないのに、それはもうお前に否定されてるんだぞ。だったらどうしろってんだ」 

「だから、それを考えるのがあなたの役割なんですって」 

「全然話が進まねえ……」 

 

 同じところを行ったり来たりだ。

これで問題が解決しようはずもない。

されど、どれだけ頭を捻ったって出てくる案は凡庸でとても役に立ちそうはなく、その事実がいっそう俺を追い立てる。 

 

「嫌われたくないっていう当初の動機がもう既に遂げられなくなってるのに、俺は今後どうすればいいんだよ……」 

「泣いて赦しを乞ってみたらどうです? まあ、赦しはしませんけど」 

「自己完結が早過ぎるんだっての」 

 

 はぁーっとため息を吐きながら丸まる。

どうして俺たちは、こんな場所でこんな生産性のない会話をしているのだろうか。

 

もう何もかもが終わったはずの話を、なぜ彼女の方から率先して持ち出してくるのだろうか。

その理由がさっぱり分からなくて、さらに体をぎゅっと縮めた。

いっそこのまま圧縮され続けて消えてしまえたらいいのに。 

 

「まあ、お前ら姉妹の仲がどうにか上向くように取り繕わなきゃいけないとは思ってるんだけどさ。それにしたって元凶の俺が介入することでよりややこしいことになる気しかしないし」 

「ややこしいとは」 

「いや、だから……そもそも喧嘩じゃない以上、仲直りって概念が存在するのかも分からないだろ。仲違いしてるのは間違いないけど、こと今回に関してはお前が譲歩する形でしか元鞘に戻れないわけだし」 

 

 悪いのは完全にこっちサイド。

五月に落ち度がない以上、彼女の寛容さに頼るしかない。

でも、ここまで不信感を募らせた姉妹に対して温情をかけられるかと言ったら、それはかなり酷な要求であると思うのだ。 

 

「どんな道を辿っても、お前は絶対損をする。妥協しなかったら家族仲は最悪のままで、妥協したら今回の怒りのやり場がない。好き勝手やったのは俺たちの方なのに、被害を被るのは全部お前だ」 

 

 どこにも救いがないように思えて頭を抱える。

人間関係を損得で考え始めたら終わりだというのは薄々勘づいているけれど、さすがにこれでは五月が不遇なんて次元ではない。 

 

「ほんと、どうしたもんだかな」 

「もう元通りにはなりませんよ。諦めてください」 

「……それすら譲っちまったら、いよいよ終わりだろ」 

 

 せめて、俺が彼女たちに関わる前の段階くらいまでには関係を修復してやりたいのに。

絶対に無理だとは分かっていても、俺が手を出せば出すほど拗れていくって知っていても、それだけはなんとかしたいのに。 

 

「俺の命で手打ちにできないか……?」 

「さっきは嫌がっていたのに?」 

「それで済むなら安いような気がしてきた……」 

 

 卑劣な逃げだが、俺が差し出せるものなんてそれくらいしか残っていない。

我ながら何言ってんだよと思うけど。 

 

「今のあなたの命にそこまでの値打ちはありませんよ」 

「さらっと手厳しいこと言うな」 

「捧げるならせめて、もう少し価値を高めてからでしょう」 

「偉人にでもなれば釣り合うか……」 

「さすがにそこまでは要求しませんが」 

 

 一般高校生の命の重さなどたかが知れている。

もちろん命を賭ける云々に限っては冗談だけど、今の俺では、議論するところにすら達せていない。 

 

「なすべきことをなしてください。そこまでいってようやく話が始められます」」 

「なすべきこと、ねえ。お前がそれでいいって言うなら、仕事は最後までやり遂げるけど」 

「当たり前です。私が言っているのは、それ以後のことなのですから」 

「以後?」 

「はい。その後のこと」 

「……いや、だから言ったろ。進学するかどうかすら定まってないって」 

 

 五月が何を期待しているかはさっぱりだが、俺の未来には一切の展望がない。

他人の人生をここまで滅茶苦茶にしておいて今さら自分のことなんて……という気後れもある。

 

いずれは考えなくてはならないことだけど、それについて現在頭を悩ませられるだけの余裕があるかと問われれば、首を横に振らざるを得ないのだ。 

 

 そもそも、こんな小規模の人間関係すら上手く運営出来なかった俺が、大きな希望を掲げること自体馬鹿らしく思える。

俺という人間の程度は既に知れてしまっていて、前を向くだけの意志力は残されていない。 

 

「俺みたいなのが成功したらお前ももやもやするだろ?」 

「確かに」 

「な? だから、こそこそ生きていくのが関の山だと思うんだよ」 

「……ですが、そこを簡単に割り切ってしまえないのが人間です」 

 

 はぁ、と五月が一つため息をついた。

生温かい吐息が首筋にかかってこそばゆい。 

 

「あなたの人間性に関しては完全に見損ないましたが、悔しいことに能力に対する評価は健在なんですよ」 

「それは概ね高評価ってことでいいのか?」 

「概しなくとも高評価です。残念ながら、あなたの力なしでは卒業すら危うかった人間がここにいるので」 

 

 またため息。

その言葉で、俺も散々だった頃のこいつらの成績を思い出す。

 

当時から考えれば、ずいぶんと遠くまで来たものだ。

勉強に関してだけ言えば、俺もこいつらもひたむきに頑張れたと思う。その点のみにおいては、自分を認めてやれる気がした。 

 

「バカなりにお前らは良くやってくれたよ。手探りで正しいかどうかも謎な俺の指導に付いてきたしな」 

「頼れそうなものがそれ以外に残っていなかったもので」 

「そうか。それは――」 

 

 悲惨だったなと言おうとして、直前で言葉を押しとどめた。

努力しても努力しても実を結ばない感覚は俺と縁が薄いもので、それをあっさり流すのはためらわれたからだった。 

 

「それは、大変だったな」 

「……ええ。ですから、あなたには恩があったんです。…………恩があったのに」 

 

 また肉をつねられる。

言葉以外で意思表示するにしても、暴力に頼るのは勘弁してほしい。 

 

「こんなことのせいで、恩返しの気持ちも薄れてしまいました」 

「そのまま希釈してなかったことにしとけ。それが一番だ」 

「……それを簡単に割り切れないから困ってるんじゃないですか」 

「…………五月?」 

 

 さっきまでずっと俺の脇腹をつねっていた手がへその当たりに回って、そこを緩く圧迫してきた。それと連動するように彼女の柔らかな体が背面に押し付けられて、一瞬たじろぐ。 

 

「何か?」 

「いや、それ俺のセリフ……」 

「このくらい慣れたものでしょう? 私たち、五つ子なので」 

「それとこれとは話が違うと思うんだよ……」 

 

 確かに慣れたものは慣れたものなのだが、この感触は嫌でも過去あった出来事を想起させるので精神によろしくない。

 

しかし、どうして彼女がこんな行為に走るのかはさっぱり分からなかった。今の俺はきっと、姉をことごとく食い散らかした汚らわしさの権化に見られているのだろうし。 

 

「話を戻します」 

「体勢も戻してくれ」 

「……上杉君自身は気づいていないのかもしれませんが」 

 

 俺の発言は無視らしい。

そういえば、口ごたえする権利はなかったのだった。

焼かれようが煮られようが、今の俺にそれを否定できるだけの権限は与えられていない。

だから精々、彼女の邪魔にならないことを心掛けるべきか。 

 

「きっとあなたには、他人を教え導く能力がありますよ」 

「あれは能力っていうよりは、泥くささとかじゃねえかな」 

「それでも、上杉君には他人を変える力がありました。……そしてそれを悪用して私の姉妹を手籠めにしました」 

「…………あの、どういう方向に話を運ぶつもりかだけ聞いて良い?」 

「黙ってください」 

「いや」 

「黙ってください」 

 

 度重なる封殺。

同時に五月の顔が俺のうなじあたりに埋まって、声がわずかにくぐもった。

くすぐったさに変な声が出そうになるが、そうしたらいよいよ最上級の不興を買ってしまいそうなので、下唇を噛んでどうにか耐える。

 

「だから今後は、その才能を正しく扱ってくださいよ」 

「正しく……?」 

「ええ、正しく」 

 

 元よりそんな才能を持っているつもりも、悪用した覚えもなかったけれど、彼女視点から言えばそれはどうにも違うらしい。 

 

 けれども、正しさと言うのがどういうことを指すのかが俺にはてんで分からず、だからまた彼女の言葉を待つことになる。 

 

「あるじゃないですか。その能力が生きる場所」 

「…………いや、待て待て待て。それじゃあお前」 

 

 どうにか察して、彼女の言葉を遮ろうとする。

けれど、五月はそんな俺の思いなんかまるで知らないみたいに、一言で。

 

「先生、目指せばいいじゃないですか」 

 

ごく当たり前のように、己の希望する職種を俺に提示してきた。 

 

「それはダメだろ……」 

「なぜ?」 

「向き不向きの前に、お前は耐えられるのか? こんな奴が自分と同じ道を進もうとして」 

「業腹ですよ」 

「なら、どうして……」 

「あなたがいつまで経っても自分の適性に気づかないから、仕方なくです。私以上に向いている人が挑戦すらしないでふらふらしている方が、ずっとイライラします」 

 

 ぎゅっと。 

 彼女の腕が、俺の腹部に強く食い込む。 

 

「私たち生徒に申し訳ないことをした自覚があるなら、これから他の生徒を正しく教導することで詫びてください。これまでのことは赦せませんし水に流すつもりも毛頭ありませんが、そういった形で罪滅ぼしをすることはできるはずです」 

「それじゃあ、お前自身が救われないだろ」 

「……そこに居てくれれば、あなたを監視して溜飲を下げられます」 

 

 さり気なく恐ろしいことを言われた気がする。

つまり、これからずっと俺は五月の掌の上だと。 

 

「靴や足を舐めさせられることと比べれば、よほどマシな提案でしょう?」 

「それはお前の夢が実現してからの話であってだな」 

「なら、決定事項です」 

 

 強く言い切られる。

その姿が頼もしく思えるが、そう発破をかけたのはそもそも俺だったか。 

 

 本当に、自分の行いに足元を掬われてばかりだ。 

 

「……まあ、あなたの人生なので無理強いは出来ませんが」 

「ちなみに逃げたら?」 

「らいはちゃんと養子縁組します」 

「家族が人質かよ……」 

 

 むしろそうなった方がらいはの幸せが約束されそうな気もするけれど、籍を持っていかれるのは堪える。

なんでかんで、俺にとっての数少ない血縁なのだし。 

 

「……………………考えとく」 

 

 だからといって、即断即決できるような問題でもない。

俺一人ではどうにもならないことだってある。

 

考える時間を用意しないことには、これが正しい判断なのか自分にも見当がつかない。

教師になろうなんて思ったことはこれまでに一度だってなくて、当然のように迷いもついてくる。 

 

 けれど、そうか。 

 人から見て、俺にはそんな適性があったのか。 

 

「考えとくから、その、そろそろ……」 

「なんですか」 

「手、離してくれよ……」 

 

 五月の手は未だ俺の腹部をぎっちり押さえつけたままで、背中には何か大きな存在感がくっつき続けている。

この感触が毒であることは身に染みて理解しているので、血迷わないためにも彼女には早くここから離れてもらわないといけない。

 

ある程度穏便に話がまとまりかけた今この状況にあって、俺はもうこれ以上過ちを重ねたくはないのだ

 

「どうしてです……?」 

「お前、俺がこれまでやってきたことに対してそんなに無警戒でいるんならヤバいぞ」 

「これまでとは?」 

「だから、お前の姉連中がどんな目に遭ってきたかは理解してるだろ」 

「……つまり上杉君は、私に対して劣情を催している、と」 

「いや、そういうのじゃなくて。……でも、俺がどんな人間かくらいはきちんと認識しておいた方が」 

「…………一花も、二乃も、三玖も、四葉でも良くて、私に限ってダメだと」 

「なんだその被害妄想」 

「…………女のプライドです」 

「俺に傷つけられるようなもんじゃないだろ、それ」 

 

 否定の直後、また腹をつねられた。

こいつの機嫌をどうやってとればいいかは未だによくわからない。 

 

「殺人が重罪でなければ、私は今あなたを殺めていたかもしれません」 

「そこまで」 

「ほんと、嫌いです……」 

「なら、なんで……」 

 

 なんでこいつは、こうやって俺に張り付いたままなのだろうか。

互いの息を吐く音が聞こえる距離で、鼓動の音が聞こえる範囲で、体温が共有できてしまう密度で。

どうしてそこから動いてくれないのだろうか。 

 

「ねえ、上杉君」 

「なんだよ……」 

「世間は今、どんな季節か知っていますか?」 

「受験シーズン」 

「……他には」 

「他には……クリスマスとか」 

「そうですね。クリスマスです。では、ここで質問なのですが」 

 

 五月は、ただでさえ近かった距離をさらに詰めて、口を俺の耳元に寄せながら。 

 

「せっかくの大きなイベントだからと勇気を出して好きな男の子に贈り物をしようとした女の子がいて、しかし偶然その子と自分の姉がキスしている場所に立ち会ってしまったら、どうなると思いますか?」 

「…………何のたとえだ」 

「どうなると思いますか?」 

 

 示唆に富んだ、そしてどこかで聞いたような話。

けれど、その中には俺の知らない情報が織り込まれていて。 

 

「…………家出とか、するかもな」 

 

 もうほとんど出てしまっている答えから目を逸らすことも出来ず、思いのほかに呆気なく、一番に思い浮かんだ、ありきたりな解答を口に出した。  

 

 そのなぞなぞの正解が何かは、次の五月の発言が示した通りに。 

 

「……しちゃいましたね、家出」 

「午前のうちには帰ってやれよ」 

「それは……みんなの態度次第です」 

「きっとしばらく、家庭内の王様はお前になるから」 

「王様というと?」 

「一番風呂に入れたり、おかずが一品増えたりする」 

「ずいぶん質素な国ですね」 

「十分豪勢だろ。それ以上に何が欲しいんだよ」 

 

「……ねえ、上杉君」 

「なに」 

「無反応は切ないです」 

「……どこに反応しろと」 

「分かっているくせに」 

「だってお前、あんだけ嫌いだって言ってたろ」 

「嫌いですよ」 

「じゃあ、なんで」 

「知りませんよ。私だって」 

「その感情の機微をよりにもよって俺に理解しろと」 

「乙女心は複雑なんです」 

「どこにもそんな兆候なかっただろ」 

「だってここ数ヵ月は、私ばっかり贔屓してたじゃないですか」 

「その程度で落ちないでくれよ……昔は犬猿の仲やってたのに……」 

「女の子は意外と単純なんですよぉ……」 

「矛盾が早えよ……。いくらなんでもチョロすぎだって」 

「だって、それ以外にも、色々……」 

「色々、なんだよ」 

「色々、私を思い上がらせるような態度を取ってきたあなたが悪いんじゃないですか」 

「いや、そんなつもりは」 

「そうですか。そうですね。関係を持った子と話すのが気まずくて私の方に逃げてきただけですもんね。ホント最低。最悪。不潔」 

「…………」 

 

「否定してくださいよ」 

「……事実だし」 

「~~~~~~ッ!!」 

「暴れんなよ」 

「そこは嘘でも否定するところじゃないですか」 

「嘘ついたら怒るだろ、お前」 

「当たり前です」 

「詰んでるじゃん」 

「そこをなんとかしてくださいよ」 

「無茶言うな。隠蔽工作に失敗した人間がどうなるかを進行形で体験してるのが俺だぞ」 

「もう今より状況が悪くなることもないでしょう」 

「って言うかなんだよ。さっき俺に復活のチャンスを与えたのは結局惚れた弱みからかよ」 

「そうでもなければとっくに縁を切ってますよ」 

「そこはもっと公正な判断をだな」 

「あなただって、一人に決めないで好き放題やってるじゃないですか」 

「ぐ……」 

 

「そんな人が、公正なんて言葉を使わないでください」 

「でも、それだと弱みに付け込んだみたいで気分が良くないだろ」 

「弱みを作ったあなたの勝ちですね。おめでとうございます」 

「投げやりじゃねーか……」 

 

 途切れることもなく、暗がりの中でマシンガンのように歯に衣着せぬ言い合いを続ける。

最初はあったはずの眠気も既にどこかへ行ってしまって、変に昂ったテンションだけが残った。 

 

 五月の手は未だ俺に巻き付いたままで、そこに込められた意味を理解した今となっては、積極的に払いのけることはできなくなってしまっている。

 

五月も五月で俺の弱みに付け入っているので、イーブンということにならないだろうか。……ならないだろうな。

俺が抱えた余罪の量からして、そう簡単に清算することは叶わない。 

 

「お前だけは最後まで俺を嫌っておかないと、整合性が取れなくなっちゃうだろ」 

「嫌いなのは変わっていません」 

「なんだそれ」 

「……ただ、嫌いなところと好きなところが別々に存在しているだけです」 

「なんでそういうとこだけ器用なんだよ」 

「不器用だから一つに定まらないんじゃないですか。私だって、本当は一極に振り切りたいのに」 

「俺が更に最低な行動を繰り返せばいいのか」 

「なんでそうなるんですか。更生する流れじゃないですか」 

「……そうしたら、ダメな方に振り切れるだろ」 

「嫌われたくないって言ったのは上杉君ですよ?」 

「でも、そこだけはけじめとして……」 

「だから、頑固すぎるんです。ここまで言ったのだから、もう私の弱みに付け込み続ければいいじゃないですか。問題らしい問題を全部なあなあにしてしまえばおしまいですよ」 

「お前、言ってること滅茶苦茶だ……。更生しろって言ったかと思えば、弱みがどうこうとか。眠気で頭回ってないんじゃねえの」 

 

「…………だって」 

「だって、なんだよ」 

 

「今すぐ更生されたら、私の初めてはいつまでお預けされるんですか……?」 

「……は?」 

 

 不穏当な言葉の後で、じーっとファスナーを下ろす音が響いた。

確か、貸したジャージがそういう形状だったから、今彼女が何をしようとしているかは嫌でも分かる。 

 

「みんなみんな愛してもらって、私だけが仲間外れですか?」 

「お前、不潔だって言ってたじゃん……」 

「顔も体も同じなのに、私だけが不合格ですか? そんなに面倒くさい女の子は嫌ですか?」 

「良いから早く寝ろ。キャラおかしくなってるぞ」 

「色々な問題は捨て置いて、同じ布団に潜り込んできた女の子に手を出さないのは男の子としてどうなんですか?」 

「そこで手を出してきちゃったのを後悔してるからこうやって耐えてるんだろうが。俺なりの反省なんだよこれは」 

「……いくじなし」 

「何とでも。酷い男だと思って一生恨んどけ」 

 

 悶々とはするが、ここが自宅であるという心理的な安寧効果も相まって、比較的平常心でいられた。

これまではずっとアウェーでの戦いだったから、ここにきて俺の本領を発揮できた気がする。

元より、己を律するのは得意な方だったのだ。 

 

 完勝の確信を得て、いよいよ眠ろうと目を瞑る。

まさかこいつに、二乃のように俺を襲ってくる気概はあるまい。

 

人間、どうやっても越えられないラインがある。

俺は五月の限界を見極めている自信があるので、もう大丈夫。

 

話が長引きはしたものの、これからも会話くらいは出来る間柄に落ち着くだろうし、贖罪は長いスパンでじっくりと重ねていこう。

本人が自分の弱みを否定しない以上、いつかは当初の意見を翻して和解する道も生まれるかもしれない。 

 

 けれど、胸の中でざわつくこの感情はなんだろう。まだ、見落としていることでもあるのだろうか。 

 

「……んっ」 

「…………」 

 

 後ろからやけに湿っぽい音と五月の上ずった声が同時に聞こえてきて、全身の汗腺が開いた。

背後で展開されている行為は予想こそつくものの、決して認めたくはない類のもので。 

  

「うえすぎ、くん……」 

「…………」 

 

 甘ったるい呼びかけを無視するように手で耳を塞いだ。

だが時すでに遅く、その声音がくわんくわんと、何度も頭の中を駆けずり回る。 

 

 確かいつだかに、一人でするだけだからとかいう謎の理屈で俺を巻き込んだ女子がいた。

あのときの再来を思わせるこの状況に、俺はただただ震えることしか出来ない。

頭が徐々に熱っぽくなっていくのが分かって、それを押し殺すために理性を総動員するほかにない。 

 

 そうやって必死に心の防衛ラインを構築している俺をあざ笑うかのように、伸びてきた五月の手が俺の唇に触れた。

 

どういう意図かは分からないがそのまま隙間をこじ開けようとするのを直感で防ぎつつ、体側で這って距離を取ろうとする。

だが、体勢が体勢なので思うようには前進できず、同じ場所で体を暴れさせているだけになる。 

 

 これは、良くない。非常にまずい。

男子高校生として極めて健全な性欲を持った俺にとっては毒にしかなり得ない。

 

今の五月を傍に置いておいてもろくなことにならないのは目に見えているので、ここはいっそ、この布団を抜け出してらいはの布団に潜り込むべきか。

 

……いや、そんなことをしてもついてこられたら無意味か。

ならいっそ、今晩だけでも公園で寝泊まりを……。 

 

「………………あの、私、これだけ襲ってもいいお膳立て、しましたよ」 

 

 またも耳元に響く囁き。

妙に色を帯びたその声は、聞き逃すに聞き逃せなくて。 

 

「上杉君はここにいるのに、上杉君に愛してもらう妄想で、慰めましたよ」 

 

 少し前まで真剣な言い争いをしていたはずの口から飛び出した言葉の内容はとても信じられず、けれどこれだけ近くで感じていた以上、否定することはもはや叶いそうにもなく。 

 

 そういう行為を毛嫌いしている印象があった五月の発言は、否応なしに俺の心臓を抉ってくる。

鼓動のリズムは加速して、全身の血管が跳ね回っている。 

 

 戸惑いは俺の思考力を徐々に奪いながら、脳内を不純な色に染め上げていく。

 

そして。  糸で引かれるように、体が彼女の方へと向いた。 

 

「性欲魔人」 

「絶対お前の方がむっつりだと思う……」 

「そん、な、こと……」 

 

 強引に。  五月のみずみずしい唇を、俺のそれでぴっちり塞いだ。 

 一ミリの隙間も生まれないように。 

 

 鼻呼吸だけではさすがに苦しくなってきたのでようやくのこと唇を離すと。

五月は呆けた顔で口を開け放しながら迎え舌をしているので、もう終わったぞと頬をつねってみる。 

 

「……四人も相手にしたら、こうなりますよね」 

「上手くて悪かったな」 

「…………否定できないのが苛立ちます」 

 

 なぜか左手は握りっぱなしで離してもらえないので、どうにか右手だけでホックを外す。ここでも大してもたつかないあたり、俺の練度はどうなってしまっているのだろうか。 

 

「……絶対、男の趣味悪いですよね」 

「それはお前の姉ちゃんたちにもまとめて刺さるからやめとけ」 

「全部ひっくるめて言ってます。中野の血はダメ男好きの系譜です」 

「言い切り過ぎだ」 

「だって上杉君、ダメ男ですもん」 

「そうだけども」 

「本当に、どうしてこんな人を好きになるような人間がいるのでしょうね」 

「自己否定だぞそれ」 

「……でも、好きなんですよ」 

「……おう」 

「こそこそ隠れて姉妹みんなに手を出して、それで何事もないように振舞っていた最低な人だと知ってもなお、好きって気持ちが消えないんですよ」 

「悪かったって」 

「私、いつの間にかあなたにおかしくされていたみたいです」 

「……あの」 

「あなたのせいで私の感情はぐちゃぐちゃなんですよ」 

「……お前、言ってて恥ずかしくないの?」 

「こんな格好じゃ今更ですよ」 

「……」 

「……とは言え、恥ずかしさがなくなるわけではなくて」 

 

 

「本当に今更だな……..」

「ちょっと、それは、ぞくぞくしてダメなんです ……」 

「弱みには付け込んで欲しいんじゃなかったか」 

「ひ、ひど。さい、てい……いじわる」 

「よく言われる」

「あっ、だめ、です……!」 

 

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ーーーーー

ーーーーーー

 

 どちらともなく眠ってしまって、どちらともなく起きだした後で。 

 未だ離してもらえない手について、訊く。 

 

「そういやこれ、なんでずっと握りっぱなしなんだ?」 

「握ってませんよ」 

「……掴みっぱなしなんだ?」 

「掴んでもいません」 

「じゃあ、なに?」 

 

 彼女は、当たり前に笑って。 

 

「離すとふらふらしてどこかに行ってしまうので、繋ぎとめているんです」 

 

 ぐーぱーぐーぱーと力んだり緩めたりしながら、なんでか愛おしそうに、それを自分の胸元に抱き寄せた五月は。 

 

「そうすれば、あなたはもう、後ろめたいことをしないでいられるでしょう?」 

 

 飽くまで彼女視点では、だが。 

 そういう考え方も、出来なくはないのか。 

 

 

「…………卒業まで、あと三か月ないのか」 

「受験までは二か月ないですよ」 

「じゃあ、それまでに、色々整理しないとなあ……」 

 

 やるべきことは変わらず山積みのままで、それどころか当初思っていたよりも片付けなければならないものが増えてしまっている。 

 

 果たして俺は、その期間で、誰もが納得できる結論を提示することができるのだろうか。 

 

「いつかお前に赦してもらえるように。あいつらの誰とも、遺恨を残さずいられるように」 

「嫌われたくないのでしょう?」 

「ああ。でも、今となってみれば……」 

 

 天井の染みを見上げながら噛み締めるように一言だけ言って、俺はまた眠りにつくことにした。 

 

 特に捻ったわけでも、これといって考えたわけでもない。

でも、だからこそ、ありのままの本音が染み出した言葉を。 

 

「……お前らの誰からも、好かれたままでいたいよな」 

「じゃあ、――」 

 

 眠りに誘われてしまったせいで、続いた五月の言葉を記憶することは叶わなかった。 

 

 けれど、なんだか。 

 とても暖かい気持ちに包まれたことだけを、覚えている。 

 

 

 

 

 ――夢を見ていた。 

 

 それはとてもはちゃめちゃで、滅茶苦茶な、若かりし日々の記憶で。 

  

 若気の至りなんて言葉で片付けるには少々おイタを重ね過ぎた、苦くて甘い、物語。 

 

 自分の周りに突然現れた五人の女の子と俺とで綴ったストーリーは、倫理も論理も破綻させながら、どんどんと間違った方に流れていって。 

 

 それでも、その過程で何かを拾い集めながら、未完成だった俺という人間を、少しずつ今の俺へと昇華していった。 

 

 愛とか、憎とか、おおよそ存在し得るありとあらゆる感情をないまぜにしながら突き進んだ物語は、最後の最後に至るまで予想の付かない展開の連続で。 

 

 泣いたり、笑ったり、でもやっぱり泣いたりを繰り返しながら、めいっぱいの時間を使い込んで、どうにか全員が妥協できるような、一つの結末を見出した。 

 

 

 ――なんて、そう上手くはいかなかった。 

 

 当たり前のような延長戦。続き続ける小さな戦い。高校だけで終わるかに見えた俺たちの関係は、なぜだかその後もずっとずっと絶えることなく継続していって。 

 

 だけど、最後は。 

 

 火種になった俺自身が我を押し通すことで、ようやくの終戦を迎えることになった。 

 

 多くの涙と多くの笑顔をこの目で見てきて、その末に出した結論だった。 

 

 正直、未だに誰もが支持してくれているかどうかは分からない。

当然のように最初は一悶着二悶着あって、鎮火までに要した時間は計り知れない。 

 

 でも、結局、全てはエゴで回っているのだ。 

 

 どうしたいとか、誰といたいとか、どういう気持ちでありたいとか。それを決めるのは、全て自分の役割なのだ。 

 

 だから俺は、己に素直に、正直に。 

 

 ありのままの自分が望むままに、一つの答えを提示した。

 

 

「――風太郎」 

 

 聞き慣れた声が耳元からして、微睡みから現実へと回帰する。

声の主の方を見れば、そこには華美なドレスで着飾った誰かさんがいて。

ついでに言えば、俺も俺でここ一番という感じの一張羅で。 

 

「どうしてちょっと泣いてるの?」 

「さあ、なんでかな。眠っていたから、そのせいかもしれない」 

 

 まさか、夢の内容までは言えない。

もし後悔しているなんて思われたら癪だから。 

 

 俺は、満足している。今の結果に、これ以上なく。 

 

 彼女はいかにも歩き辛そうな格好で、それでも器用に俺の一歩前に飛び出して。俺の左手をしっかり握りしめてから。 

 

「じゃあ、お先ね。後は、舞台の上で」 

 

 そう言い残して、一足先に待機部屋から去って行く。 

 

 俺はその後ろ姿を最後の最後まで見送って、とうとうこの部屋から誰もいなくなってようやく、さっきの言葉に返事をした。 

 

 一言で、過去から抜け出していくように。 

 昨日の俺を、置き去りにしていくように。 

 

 

「ああ、今行く」 

 

 

 

 

 

 

 

 

元スレ

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